川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

在日コリアンはなぜ独裁と闘わないのか?

2013-02-27 07:34:25 | 在日コリアン

2月27日(水)

 安倍政権が朝鮮高級学校に「授業料無償化措置」を適用しないことを決めた。あちこちの自治体が各地の朝鮮学校への助成金の支出を取りやめる動きも広まっている。

 金王朝への限りない忠誠を求める「教育」に税金を支出することはできない 、それはごく当たり前の感覚だ。「民主主義と人権」を基調とする憲法や教育基本法に照らしても当然のことだ。

 左派系のコリアンや日本人から「差別」だ、「人権の無視」だのというアピールが僕の耳にも届く。まことに笑止千万だ。

 北朝鮮やそれに盲従する朝鮮総連の実態がこれほど暴露されても、子どもを朝鮮学校にやろうという親とはどういう人たちだろう?ぼくには想像がつかない。(知友にはそんな人はいない)。

 いくら北朝鮮に「人質」をとられていてもここは日本だ。在日4世や5世を「将軍様」の学校にささげないと生きてはいけない事情があるのか?

 王朝の「奴隷」の身分に慣れきって、何の疑問も感じないのか?


 11年の暮れに紹介した朝鮮高級学校OBの元智慧さんのアピールを再度紹介したい。

 朝鮮総連・朝鮮学校の解体・民主化は在日コリアン自身のたたかいによって実現されるべきではないのか。安倍政権に任せるのは恥ずかしいことではないのか。


 

   北朝鮮の世襲後継がおこなわれ国際世論の非難を浴びるなか、在日社会も変化しなければならない時が来ている。(略)

 私は、ほかではない、在日同胞にもの申したい。

 これまで、在日が歩んできた道程は厳しいものであった。

 拉致事件以降、韓国籍に変える人、帰化した人は数知れず、それはそれで可能な限りの抵抗であるという見方もできるが、私はやはり自分さえ関わらなければよい、という在日の在り方にも疑問を呈する。

 在日の皆様(帰化した人も含めて)、拉致事件をこのまま何も進展がないまま放っておくつもりですか?

 北朝鮮のような野蛮な国家を、ただ眺めているだけですか?朝鮮総連の実態を内外に告発するべきではないですか?

 そのような邪悪なものから、わが子を守るべきではないですか?ただ組織から離れて自分の道を歩めば、それでよいのですか?そして、何も行動を起こさないつもりですか?

 日本の方にも問いたい。

 われわれのすぐ傍らにこのような学校という名の工作員養成所が存在するというのは、恐ろしい限りではありませんか?無償化云々以前に、存在そのものを消す必要があると思いませんか?

 少なくとも、往時の純粋な在日同胞のための誇り高き教育を取り戻せないのであれば、総連や民族教育は害悪である以外のなにものでもない。

 私は、授業料無償化の議論より、在日のための組織ではない、北朝鮮のためのスパイ組織を消滅させなばならないことが喫緊であると確信する(もちろん、さしあたっては無償化断乎反対である)。

 心ある在日同胞の皆さん、今こそ立ち上がろうではありませんか!

 そして、心ある日本の皆様から、そのためのお力添えをいただきたい所存である。

 ●「光射せ!」第6号http://hrnk.trycomp.net/hikarilist.php  

参考「川越だより」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/69455967873cb8478107ac01a9536d89


李敬宰(い・きょんじぇ)さん 共生の家

2012-12-18 11:25:57 | 在日コリアン

12月14日(金)曇晴雨

 追悼集会のあと宿に向かう途中で福島潟を見学した。奇跡的に晴れて夕空が美しい。

 

 オオヒシクイがあちこちの田んぼから帰ってくる時間だった。この鳥の名の由来を教えてやろうと思ったら敬宰さんも栄子さんも子ども時代に「ヒシ」の実を食べた体験の持ち主で先刻承知のようだった。僕は去年ここで知ったばかりで、食べたことはない。

 月岡温泉の宿はよかった。敬宰さんと露天風呂に入った。硫黄の程よい匂いが漂う温泉らしい温泉だ。話を聞いているうちに長湯になった。

 敬宰さんは大阪府高槻市で「共生の里」を運営する会社の社長だが近年「高齢者住宅」というものを始めた。先日、入居者のお年寄りがここで天寿を全うした。病院との連携を保ちながらスタッフに看取られながらの大往生だったらしい。

 無駄で高価な終末医療から解放されて、家族に看取られながらやすらぎの最期を迎えたい、多くの人の願いである。それを「共生の家」のスタッフが家族代わりに実現するのである。本当にそんなことができるのかと僕などは思ってしまう。親の介護をしたこともなければ家で看取った体験もない。

 敬宰さんとスタッフにとってもはじめての体験だった。敬宰さんは「大往生」に協力できて良かったと心から思っているが、人の死を看取るということ自体に初めて直面する若いスタッフにとっては厳しい体験であったろう。泣き崩れてしまう人もいたらしい。

 このたびの試練を生かして人生の最期まで共生の理念で貫かれた介護を実現すると敬宰さんは自分たちのやる事業に自信を深めたようだった。

 敬宰さんは高校生のときから自分の住む成合という地域でコリアンの子ども会をやってきた人である。壮年期になって老人介護施設の運営が仕事になった。言う言葉が面白い。

「子ども会も老人介護も、皆さん、一緒に力を合わせて生きていきましょうという活動で、おんなじこと。子ども会はボランティアでそんなことは迷惑だといわれたこともあるが、老人介護は感謝されるばかりで、お金までもらえる。こんなありがたいことはない」。

敬宰さんとの付き合いは30余年になる。高槻を訪ねて子ども会の日常を何度か見せてもらったが、温泉に浸りながら実践報告を聞くのは初めてだ。「敬宰(きょんじぇ)らしい人生を変わることなく切り拓いているなあ」。僕は良い友を持った喜びで身も心も芯まで温められた。

 夕食時には敬宰さんが小さい頃から百姓仕事をしてきたことを知った。お父さんが友人から借りた田んぼ3反を作り続けて一家を食べさせてきたのだという。今は米以外に野菜も作っている。「育てる」喜びを感じているようだ。耕作面積を増やしたいが耕作放棄地でも地主がなかなか貸してはくれないらしい。

 女性たちとの会話を聞いていると料理への関心も僕とは比べ物にならない。利用者たちの日々の給食の責任者でもあり、あれこれと心を砕くからであろう。近く、友人が開く「北朝鮮料理」の講習会に出向くとか。

 敬宰さんと。新潟・瓢湖。12月15日

 参考・「共生の里」http://kyouseinosato.co.jp/service/agedhouse.html


洪大杓「親として、在日として、一人の人間として」

2012-12-11 10:25:16 | 在日コリアン

 今日は9時から洪さんの葬式である。妻は朝早くでかけた。僕は川越ではるかに見送る。寒さに弱いためでもあるが「葬式」には消極的な僕の考えにも基づく。生きている間が大事、そう思うのである。

 久しぶりに洪さんが書いた文章に目を通した。「民族共生教育をめざす東京保護者の会」のニュース(2001年)に掲載された。

お経代わりに声に出して読んでみます。よかったら皆さんも僕と一緒にどうぞ。

 

親として、在日として、一人の人間として

 洪 大 杓(東京江戸川区在住)

  

子育ての喜びと苦しみ

 親として、子どもを育て上げるということは簡単といえば簡単、難しいといえばこれほど難しいことはない。子どもが生まれたからにはこれを扶育し、一定の教育を受けさせることは親として当然のことなのでそのこと自体には何の負担感や義務感といったこともない。

 子育ての過程にはいろいろと手間暇はかかるし、実際問題として経済負担などは大きいし、その他何くれとなく面倒なことが多いのであるが、それはそれ、子育ては苦労でもあり、喜びでもあって、子の成長を見守りつつ日々の生活を生きていくのは親業ならではの楽しみともいえるだろう。

 ところが子どもが小さく、かわいいかわいいといって育てていたうちはいいのだが、だんだん大きくなって理屈を言うようになってくるとなかなかそれまでのにこやかな親子関係とばかり言っていられない場面が出てくる。

 わが家には三人の娘がいるのだが、つい先日も何かのことで下の子(小学生)を叱ったところ、上の子(中学生)が「アッパ、そんな頭ごなしの叱り方はおかしいよ。ちゃんと普通に言えばわかるんだから」と文句を言うではないか。な、何を言うか。私は瞬間的に逆上した。今風にいえばブチキレそうになったわけだ。「お、親に向かって何を言う。黙れ、黙れ、黙れ」。なおも何か言おうとする長女を、とにかく黙れ、黙らんかで口を封じさせた。全身がわなわなするほどの激情を抑えるのがやっとだった。

  これが男の子であればその場ではり倒すところだが、女の子ではそうもいかず、腹立ち紛れにテーブルをひっくり返そうにも、つい後先考えて思いとどまってしまう在日二世の情けなさ。その点だけをとっても一世たちは偉かった!

  私は憤懣やるかたない思いを抱いたまま、それ以上だれにあたることもできず一人パソコンに向かったのである。現在、世の中にこれほどにパソコンが普及しているのは、家の内や外で発散する場所、もしくは居場所のないお父さんたちがいかに多いかを物語っているのではないかと私は自分の経験に照らして愚考するのである。

家族がすべて

 閑話休題、実は子どもたちに常日頃、「自分の意見を持て」と言い聞かせてきたのはかくいう私である。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分で判断できる人間になれと教え諭してきた。最近の韓国・朝鮮、そして日本の有様を見れば自分自身で判断することの大切さはいうまでもないことだ。だがしかし、自分の意見を持てとは言ったが親に意見をしろとは言ってない。親の思うように子は育たないという苦いサンプルがここにある。

 さて、「自分の意見を持たなければならない」。これは私の信念でもある。私は中学校を終えた十五の歳から世間の波にもまれて一人で生きてこざるを得なかったため、自分で己の生き方を決めるということが習慣のようになっている。同世代の少年が親の庇護を受けて楽しい青春時代を送っているときに、私は地の底を這うような生活をして、なおかつ祖母へ仕送りをしなければならなかったのだ。

 私がそのような生活を強いられたのは、いうまでもなく貧困のせいだ。父が小学校一年のときに死亡し、翌年母親が死ぬと、家はたちまち行き詰まり、当時まだ十代だった兄二人が自分たちの青春や夢や希望、そういったものをすべて投げ捨てて残された家族を生き延びさせるために働いてくれた。少年だった私に何がわかるというのではなかったが、兄たちが必死に働く姿を見て、次は自分の番だ。働ける年齢になったらすぐに働いて兄たちの負担を軽くしてやらねばと心に刻んでいた。

 現在は祖母もなく、杖とも頼んだ兄二人も積年の無理がたたってか相次いで早死にし、残された私は自棄と失意、そして孤独と将来の見えない絶望の中ですさんだ生活に陥るしかなかった。そうした生活の中で、ふと考えることがある。いったいなんで俺はこんな苦労をしなければならないんだ。貧乏だからか? なぜ貧乏なんだ。在日だからか? 在日だとなぜ貧乏しなければならないんだ。そもそもなぜ俺は在日なんだ? 在日とはなんなんだ?

 堂々巡りの自問だったが、とかく在日というものを否定的にとらえがちだった当時の私がなぜ決定的に足を踏み外さず(これは比喩的表現で、実際はかなり踏み外して今でも向こうずねは傷痕だらけ)、在日を肯定的に受け止められるようになったかというと、祖母と兄二人の存在によるところが大きい。世間の無視と無理解、そして貧困により傷つきもだえる少年の私を無私の愛で包んでくれた祖母と(それは今から思えば朝鮮そのもののような存在だった)、そうした私たちを守ろうと敢然と世間に挑戦し、力のおよぶ限り闘ってくれた兄二人。在日を否定することはこのかけがえのない家族を否定することになってしまう。そしてこの家族を否定することは自分自身をも否定することになってしまう。今思えば、すでに世にはない私の家族が私のすべてだったのだ。

  さて、そういう地を這うようなすさんだ生活をしていた私だが、ところがある日、人並みに結婚というものをすることになった。相手はなんと日本のしっかりした中流家庭の娘さんで、どう考えても不釣り合いな取り合わせで、これを世間では逆玉などという。この不釣り合いな二人が結婚にまでこぎつけ、新家庭を営むに至るには当人たちにすれば涙ぐましい努力、当時を知る友人たちに言わせれば抱腹絶倒の物語があるのだが、それは別の機会に譲ることにしよう。

  私がここで言いたいことは、とうとう私にも新しい、守るべき家族ができたということである。家族というものに対する思いは当然それぞれにあるものではあろうが、私が「家族」に寄せる格別な思いというのはそのようなところからくるものなのである。

 ということで次はいよいよ子どもの教育問題に入ろう。

洪姓を継がせることの意味

 在日と日本人という少ないようで実際は実に多い私たちのようなケースでは、当然のことながら互いに「在日」というものをそれぞれがどう受け止め、認識していくかということが問題になる。そしてそれは子どもが生まれるとより顕著に具体的問題として突きつけられることになる。

 すなわち名前の問題である。戸籍の問題である。長じては就学の問題である。先々には就職、結婚とさまざまあろうが、私たち夫婦は、夫婦としてはお互いの個性と生きてきた歴史を互いに尊重しあおうと決めた。そしてその考え方の延長線上として、生まれてくる子どもは在日と日本人の子どもとして豊かに育てていこうと話し合った。

  結果、子どもたちには洪(ホン)姓を継がせ(このことでは法務局を相手に裁判で争うことになった)、国籍については長じて自分たちが主体的に判断できるようになったらそれぞれが判断すればいいということになった。

  もちろん三人の子どもが幼稚園、小学校、中学校と進学するたびに校長先生や担任の先生に会いに行き、洪(ホン)姓で通わせたいこと、卒業証書も含めあらゆる文書も洪(ホン)姓で記入してもらいたいことなどを確認しにいくなどの手間はあったが、それは子どもを学校に預ける親として当然なすべきことなので面倒というほどのことでもない。

  ここで大事なのは親が揺るがないことであろうと思っている。親が在日として生きる信念がなくて、どうして子に在日として生きよなどといえるだろうか。親が洪姓で生きる覚悟なくしてどうして子に洪として生きよなどといえるだろう。だが、揺るがないためには揺るがないだけの「認識」が必要となる。

  私の場合は破天荒な生活の中で、いわば体験的、直感的にそれを会得してきたのであるが、本来はその認識にいたるプロセスを合理的に構築したものが学問というものであろう。教育というものはだから非常に大事なものだと思っている。

国籍と「クニ」

 国籍についでだが、前述のごとく国籍は子どもたちがいずれそれぞれ判断すればいいと思っている。国籍があるがゆえに己があるのではない。何国人であっても己自身として生きてゆく生き方をつかむのが先であって、国籍などはそのときそのとき便利なものを選択していけばいいだけのことだ。まして国籍と民族を結びつけて考えようとするなど愚の骨頂である。そういう発想がどれほど在日を貧しいものにしてしまったか、歴史を見れば明白ではないか。

 そもそも、祖国と恃んだ国から棄民され、日本にあっては三流外国人と蔑まれて生きてこざるを得なかった在日がどのような「クニ」を頼ろうとするのか。在日の不幸は、在日としての方向性や将来へのビジョンをきちんと指し示せるリーダーを持てなかったことにあると思っている。さらにいえばそういうリーダーを持てなかったことも含めてそのような状況に押し込められてしまった政治状況で踏みつけられてきたのが在日であったといってもいい。

 親として子の幸せを願わないものはない。私も非力ではあるが、それでも力のおよぶ限り子の成長を見守ってやりたいと思っている。そして、子どもたちの将来のためにも私たちが今住んでいるこのクニの状況を少しでも、ほんのわずかでも改善していかなければならない。それは結果としてこのクニへの「貢献」につながるものであろう。それが在日の将来展望へつながるのではないか。

 在日として、また親として現在私はそのようなことを考えている。■(2001.3.7)

 

 


 洪さんの思いが無理なくつづられているように思う。この思いのようにこの10年を生きてきたのだろう。三人の娘さんたちはそれぞれ自立した。10月に会ったときに末嬢が今春、就職したことをことのほか喜んでいた。

 洪さんの最期の日に、三人の娘さんに会うことができた。それぞれが立派に成人して僕は心から喜んだ。「アッパに花嫁姿を見せてやりたかった」。二番目の娘さん。近く彼氏を父親に会わせることになっていたらしい。

 末の娘さんは「洪(ホン)」と名乗って就職した。このことで就職時期がやや遅れたと「アッパ」は言っていた。

 洪さんのような国際結婚の場合、韓国領事館に届ければ子は二重国籍となり、22歳までに国籍選択をすることになっている。日本の戸籍上は日本人の親の戸籍に登載されるので姓は母の姓になる。(やや面倒だが、生後、法的手続きをすれば外国人の親の姓を名乗って子どもだけの独立戸籍を作ることはできる)。

 上の娘さんたちはそれぞれの考えで母の姓で世の中に出、末嬢は「洪」。一人ひとりが考えて決めたことだからその生き方を尊重したいといっていた。法務局と争って戸籍上も「洪」を名乗らせようとしたぐらいの歴史のある人だから、内心はとてもうれしかったのではないか。

 洪さんの「クニ」「国籍」への思いは僕の考えと重なる。そのせいで「在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会」の世話人として一緒に歩くことになった。在日コリアンは三世・四世の時代になったが国籍の「選択権」は今なお認められていない。

 在日コリアン組織の大半のリーダーたちの次世代に対する責任感の欠如が根底にあると僕は思っている。今なお「外国人」として生きる道をよしとし、コリア系日本人として生きる道を切り拓こうとはしないのである。

 病のため僕は任を離れ、洪さんは逝った。残念至極というほかはない。

 洪さんとは渡来系の人々がこの列島を制圧する前の縄文文化期についてもよく語りあった。有史以前の遠い遠い昔からの歴史の中に「在日コリアン」をおいて、どう生きるかを考えることができる人だった。

 大事な話し相手、大事な友人を喪ってさびしい。「洪大杓さん、さよなら」。

 

 


「不信」「嫌悪」が先行する人 姜尚中・東大教授

2012-10-09 07:33:25 | 在日コリアン

 10月8日(祝)晴

近くの蕎麦屋で『週刊文春』を見る機会があり、姜尚中・東大教授の家族にかかわる記事を読みました。障害を持って生育した息子さんが3年前になくなったということです。『悩む力』というミリオンセラーは亡き息子さんとの「合作」だということです。

 ぼくは人生の大半の時期を「在日コリアン問題」とともに歩んだ人間ですが、この人は苦手です。いつの頃からか不信感や嫌悪感が先にたってしまって著作を読む気にもなりません。影響力のある人ですから無視するわけにはいきません。図書館で借りて読んでみるとやはり「うさんくささ」を感じてどうしようもありません。『悩む力』はどうなのでしょうか。

 

 

スクープ速報

姜尚中が初告白「『悩む力』は亡き息子との合作」<iframe class="hatena-bookmark-button-frame" style="width: 50px; height: 20px;" title="" frameborder="0" scrolling="no" width="50" height="20"></iframe>

2012.10.02 18:00
姜尚中氏

 100万部を超えた大ベストセラー『悩む力』で有名な姜尚中・東大教授が、長男が非業の死を遂げていたことを週刊文春に初めて明かした。

「息子は3年前に亡くなっています。最終的な死因は呼吸困難だったと思いますが、生まれたときから多分、神経のインパルスが欠落していたというのがあった。逆子で生まれてきて、羊水が肺に入ってしまい、保育器にかなり長くいましたから。人によっては神経系の接続が非常に悪くなったりする病気がある。それが大きな原因だったと思います」

 長男の死は、いまだに姜氏に重くのしかかっている。

「隠していたわけではない。ただ、今はまだ、悲しみが抜けてないから……。自分の不幸をわざわざ人には伝えないでしょ?」

 しかし、いずれ長男のことは何らかの作品にしたいと考えているという。

「僕は本当の悲しみを知ったうえで『悩む力』を書いているんです。息子の死があったから、僕は『悩む力』が書けた。これは息子との合作です。実際、読者の中に、自分の命を絶つことを何とか思いとどまった人はたくさんいるんです。

息子が悩みながら思索を重ねていったのは間違いない。まだ僕はその全容を知りえてない。もう少し息子について僕がよくわかれば、彼との対話というかたちで本を書こうと思っています」

 姜氏は本誌の取材に、来年3月末に東大を退職し、キリスト教関係の仕事に取り組みたいと語っている。

「週刊文春」編集部

出典●http://shukan.bunshun.jp/articles/-/1872

 ぼくのこの人に対する拒絶感の根拠は大きく言えば二つあります。

①「北朝鮮王朝」を批判の対象から除外して「東アジア共同体」などという空論を撒き散らせて政治に混乱をもたらせていること。「政治学」なるものがとても「学問」などといえる水準にないことはこの人に限りませんが、あまりにもひどすぎないか。世界のどこに「金王朝」ほどの独裁国家が存在するのか。在日コリアンの10万人近くがここに送り込まれて人質同様にされているのではないのか。その現実を研究対象から除外してどういう東アジア政治学が成り立つというのか。

②在日コリアンは世代交代を重ねて今は在日3世が中心世代となり4世・5世が生育している。65万人を数えた在日コリアンは今日では38万人くらいになっている。若い世代を中心に帰化による日本国籍取得者が増加しているのが一因である。

 これはこれで自然な現象だといえるが帰化による国籍取得にはさまざまな問題点がある。その一つは改姓名を余儀なくされること。姜・趙・崔などの姓の人は日本の人名漢字にないという理由で帰化にあたって創氏を強要されている。

 このような不当な行政は直ちに改めなければならないが法務省は知らん顔を決め込んでいる。「帰化」「日本国籍取得」に在日コリアン団体や学者が否定的で、取り組もうとしないのをいいことにしているのだ。

 姜尚中・東大教授は在日コリアンの政治学者である。なぜ、こうした不当な事実に目をむけ是正を提案しないのだろうか。影響力のあるリーダーが動けば日本政府も無視できないはずだ。

これがぼくの不信感の根拠だ。

自分が「韓国籍」を維持していくのは勝手だ。だからといって「帰化」や国籍取得を政治学の研究対象から黙殺していいのか。ここには明らかに自己の立場に固執する非学問的姿勢が露呈している。東大教授は辞めたほうがいい。

2012年は在日コリアンにとって画期的な年だ。先年、韓国の国会の法制定により「在外国民」に国会議員と大統領選挙の選挙権が付与された。4月に国会議員選挙があり、12月には大統領選挙が行われる。韓国籍を持つ在日コリアンは韓国国民で選挙権を持つのは当然といえば当然だ。韓国民団はここぞとばかり「選挙権登録」キャンペーンを行っている。韓国政府発行の旅券を持っている19歳以上の国民が対象だ。政治的無権利状態に置かれてきた在日コリアンに始めて選挙権が付与され、投票ができるのだから革命的な事件だともいえる。

 しかし、笛吹けど踊らず、というか、4月の国会議員の選挙権登録はきわめて低調だったらしい。大統領選挙の選挙権登録はただいま実施中だ。どういうことになるのか。

 ぼくは在日コリアンが韓国の選挙権を行使するのはどだい無理だと承知している。いくら父祖のルーツの国だといっても大半の人にとっては住んだこともない「異国」だ。3世以降の世代については特に言えることだ。

 こういう人たちに「韓国人」だから、それを自覚して在外投票権を行使しようと呼びかけることが本当に妥当だとはとても考えられない。

これらの人々に認められなければならないのは日本の選挙権だ。首相になる人が出てきてもおかしくなんかない。なぜ、それができないのか?

 姜尚中・東大教授はこういう根本的な矛盾に対して研究を深め、在日のリーダーたちの意識変化と日本社会の改革を提起するのが仕事のうちではないのか。そういう肝心なことをさておいて「政治学者」といえるのだろうか。

 東大教授を辞めて「宗教学」に転じるとすればそちらのほうがぼくにはありがたい。できることならしばらく沈思黙考してなくなった息子さんと心行くまで対話していただきたい。

 

 


2・8独立宣言

2012-02-08 10:25:33 | 在日コリアン

2月8日(水)☼

2月8日と言えば反射的に「2・8独立宣言書」を思い出します。1910年の「併合条約」から9年、東京に留学していた朝鮮人学生らが神田の基督教青年会舘に拠って独立を宣言したのです。

この宣言書はやがてソウル(当時は京城と改称されていた)の「3・1独立宣言」となり、中国の五四運動にも影響を与えたといいます。

 遠い昔、この宣言書を初めて読んだとき、「敵国」の首都のど真ん中で独立の声を挙げた青年らの勇気に深い感動を覚えたものです。 

 1945年8月、朝鮮は解放されましたが米ソなどの外勢によるもので、独立を自力で勝ち取ったとは言えません。そのために今日に至るまで南北分断を余儀なくされ、「反日」がまるで痙攣のように繰り返されています。

 この「不幸」そのものの歴史を知らないため、日本人はただただ戸惑い「嫌韓感情」に支配されたり、「贖罪意識」に絡みとられてしまったりしています。

 20世紀初頭の東アジアに身を置いて日本と朝鮮の関わりを学んでみることが私たちには必要です。この文章も歴史的文書として学びの対象から欠かすことはできません。


★「2・8独立宣言書」全文 (1919.2.8 朝鮮基督教青年会館)

 朝鮮青年独立団は,わが二千万の民族を代表して,正義と自由の勝利をえた世界万国の前に,われわれの独立を期成することを宣言する。

 
四千三百年の長い歴史を有するわが民族は,実に世界最古の文明民族の一つである。時には中国の正朔を奉じることがあっても,これは両国王室の形式的な外交関係に過ぎず,朝鮮はつねにわが民族の朝鮮であり,いまだかつて一度たりとも統一国家を喪い,異民族の実質的支配を受けたことはなかった。

 日本は,朝鮮が日本と唇歯の関係にあることを自覚していると称し,一八九四年,清日戦争の結果をもって,朝鮮の独立を率先承認した。アメリカ,イギリス,フランス,ドイツ,ロシアなどの諸国も独立を承認するのみでなく,これを保全することを約束した。

 朝鮮もその恩義に感じ,鋭意諸般の改革と国力の充実とを図ってきた。

 出所)写真「独立宣言書」が読み上げられた当時の朝鮮基督教青年会館(左)と現在の在日本韓国YMCA会館(右)

 当時ロシアの勢力が南下し,東洋の平和と朝鮮の安寧を脅かしたとき,日本は韓国と攻守同盟を締結して露日戦争を始めた。東洋の平和と韓国の独立保全とはこの同盟の主旨であったから,韓国はいよいよその好誼に感じ,陸海軍の作戦上の援助はできなかったけれども,主権の威厳さえ犠牲にして可能なあらゆる義務を尽くし,東洋の平和と韓国独立の二大目的を追求したのである。

 ついにその戦争が終結し,当時のアメリカ大統領ルーズベルトの仲裁によって講和会議が開かれると,日本は同盟国である韓国の参加を許さず,露日両国代表者の任意で,日本の朝鮮に対する宗主権を議定した。日本は優越した兵力を恃み,韓国の独立を保全するという旧約に違反し,ひ弱な韓国皇帝およびその宗主権を威嚇,欺瞞し,国力が充足し独立をえるべき時期までという条件で韓国の外交権を奪い,これを日本の保護国となし,韓国をして世界列国と直接外交する道を断ち,相当の時期までという条件で司法・警察を奪い,さらに徴兵令実施までという条件で軍隊を解散させ,民間の武器を押収して日本の軍隊と憲兵警察とを各地に配置した。甚だしきは皇宮の警備までも日本人の警察を使用するに至った。

 こうして朝鮮を無抵抗なものにし,わが明哲の誉れある光武皇帝を放逐して,精神の発達が充分でなかった若年の皇太子を擁立して利用し,日本の走狗をもっていわゆる合併内閣を組織し,ついに秘密裡に武力をもって合併条約を締結した。ここにわが朝鮮民族は,建国以来半万年にして,われらを指導し援助するという友邦の軍国的野心の犠牲となった。実に日本の韓国に対する行為は,詐欺と暴力から出たものであり,このような大がかりな詐欺の成功は,世界興亡史上に特筆されるべき人類の大恥辱といえよう。

 保護条約を締結するとき,皇帝と賊臣に非ざる幾人かの大臣はあらゆる反抗手段を尽くし,その発表後も全国民は素手で可能な限り反抗をした。司法・警察が奪われ,軍隊が解散されたときもまたそうであった。こうして合併時にあっては,身に寸鉄の武器を帯びないにもかかわらず,可能な限りあらゆる手段を尽くして反抗運動を試みたが,精鋭な日本の武器により犠牲となった者は数知れない。来十年間,独立を回復しようとする運動で犠牲となった者の数もやはり数十万に達した。かの悪毒な憲兵政治のもとに手足と口舌をかんじがらめにされながらも,継続して独立運動の絶えたことはなく,これをみても,韓日合邦が朝鮮民族の意思ではないとを知ることができる。


 このようにわが民族は,日本の軍国主義的野心の詐欺暴力のもとに,民族の意思に反する運命に負わされたので,正義により世界を改造するこの時にあたり,その匡正を求める当然の権利がある。また,世界改造の主人公であるアメリカ・イギリスは,保護と合併とを率先して承認したという理由をもって,この時にさいしてその旧悪を贖う義務を有する。

 また,合併以来の日本の朝鮮統治政策をみると,合併当時の宣言書に反してわが民族の幸福と利益を無視し,征服者が被征服者に対する古代の非人道的政策を襲用し,わが民族に対し参政権,集会・結社の自由,言論・出版の自由などを許さず,甚だしくは信教の自由,企業の自由までも少なからず拘束している。行政,司法,警察などの諸機関は,朝鮮民族の私権までも侵害し,公私にわたってわれわれと日本人との間に優劣の差別を設け,わが民族には日本人に比して劣等の教育を施することにより,わが民族を永遠に日本人の使役者にしようとしている。

 さらに,歴史を改造してわが民族の神聖な歴史的伝統と威厳を破壊,凌辱し,少数の官吏を除いては政府の諸機関と交通,通信,兵備などの全機関において,全部あるいは大部分日本人を使い,わが民族に対して永遠に国家生活の智能と経験をえる機会を失わせた。われわれは,このような武断専制,不正,不平等の政治のもとでは生存と発展を享受することができない。

 それだけではない,元来人口過剰な朝鮮に無制限の日本人の移民を奨励,補助したため,土着のわが民族が海外に流離するほかないようにしむけた。また,政府諸機関はもちろん,私設の諸機関にまでも日本人を使用し,その一方で朝鮮人の富を日本に流出させ,商工業においても日本人にのみ便益を与えて,わが民族に産業勃興の機会を失わせた。このように,どの方面からみてもわが民族と日本との利害は相互に背馳し,その被害を受けるのはわが民族なのであるゆえに,わが民族は,生存の権利のために独立を主張するものである。

 最後に,東洋平和の見地からみるならば,最大の脅威であったロシアはすでにその軍国主義的野心を抛棄し,正義と自由と博愛とした新国家の建設に従事している最中であり,中華民国もまた然りである。その後に国際連盟が実現して,再び軍国主義的侵略を敢行する強国はなくなるであろう。

 そうであるならば,韓国を合併した最大の理由が消滅したばかりか,これにより朝鮮民族が数々の革命の乱を起こしたならば,日本に合併された韓国はかえって,東洋平和の禍根となるではないか。わが民族はただ一つの正当な方法によって,わが民族の自由を追求しつづけるものである。
もしこれが成功しなければ,わが民族は生存の権利のために自由な行動をとり,最後の一人に至るまで必ずや自由のために熱血を注ぐであろう。これがどうして東洋平和の禍根とならないであろうか。わが民族は一兵ももたないので兵力をもって日本に抵抗する実力がない。日本が万一,わが民族の正当な要求に応じないならば,わが民族は日本に対して永遠の血戦を宣言せざるをえない。 

 わが民族は久遠な高尚な文化を有し,半万年にわたって国家生活の経験をもっている。たとえ多年の専制政治下の害毒と境遇の不幸が,わが民族の今日を招致したにせよ,正義と自由にもとづく民主主義の先進国の範にとり,新国家を建設したのちには,建国以来,文化と正義と平和を愛好するわが民族は,必ずや世界の平和と人類の文化に対して貢献するものと信ずる。
 
出所)写真「2・8独立運動」の志士たち

 ここにわが民族は,日本および世界各国がわが民族に民族自決の機会を与えることを要求する。万一然らざれば,わが民族はその生存のために自由の行動をとり,独立を期成することを宣言するものである。

 西紀一九一九年二月八日

   在日本東京朝鮮青年独立団代表
      崔 八 金 度演 李 光洙 金 寿 白 寛洙 尹 昌錫 
      李 根 宋 継白 崔 謹愚 金 尚徳 徐 椿

出典●http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=1997358


孫正義・少年時代の詩    「涙」

2012-01-23 05:52:32 | 在日コリアン

              涙        安本正義

君は、涙を流したことが

あるかい。

「あなたは。」

「おまえは。」

涙とは、どんなに、

たいせつなものかわかるかい。

それは、人間としての

感情を、

あらわすたいせつなものだ。

「涙。」

涙なんて、

流したらはずかしいかい。

でも、みんなは、涙をなが

したくてながしては、

いないよ。

「じゅん白の、しんじゅ。」

それは、人間として、

とうといものなのだ。

「とうとい者なん

だよ」

それでも、君は、はずかしい

のかい。

「苦しい時」

「かなしい時」

そして、

「くやしい時」

君の涙は、自然と、あふれ

出るものだろう。

それでも、君は、はづかしい

のかい。

中には、とてもざんこくな、

涙もあるのだよ。

それは、

「原ばくにひげきの苦しみを、

あびせられた時の涙」

「黒人差別の、いかりの涙」

「ソンミ村の、大ぎゃくさつ」

世界中の、人々は、今も、そして、

未らいも、泣きつづけるだろう。

こんなひげきをうったえる

ためにも、涙はぜったいに欠

かせないものだ。

それでも君は、はづかしいの

かい。

「涙とは、とうといものだぞ。」

 

 (1970年2月4日) 出典『あんぽん 孫正義伝』P69~

孫正義さんが北九州市立引野小学校6年生の時「通信ノート」に書いた詩。ノートは担任だった三上喬さんの手元に保管されているという。

三上喬さん。

「思い出すのは、そう、彼の目です。授業中、目をかっと見開いて、正面を見据えているんです。微動だにせずに。子ども離れしたすさまじい集中力でした。」

「しかも、その目が澄み切っていた。邪心というものがないんです。何かを必死で学びとろうと、熱い視線を教師に向けている。そんなことを感じることなど、長い教師生活でもめったにありません。」

孫さん(安本という通称を使っていた)は「あんぽん」と卑しめられた。4年生のときには教師になりたいと思うが国籍条項があることを知り、帰化をしたいと父に問う。父は祖父が生きている間は無理だと答えたらしい。

三上先生は彼が在日コリアンであることは知らず、その悩みにも気付かなかったという。

今この詩を読むと正義を「社会の子」として育てなければと思った父の思いがよく理解できる。


『あんぽん 孫正義伝』

2012-01-22 09:37:14 | 在日コリアン

ワクワクドキドキ、久しぶりに本を読む醍醐味を味わった。一昨日は病院の行き帰りの電車の中、昨日は一日中ベッドの上で夢中になって読んだ。『あんぽん 孫正義伝』 小学館が創業90周年記念企画として出版した本だという。著者は佐野眞一。                                                

この本を紹介したり、評論したりする力は僕にはない。それでも「川越だより」の読者に読んで欲しいと思うので小学館の宣伝文の受け売りをする。

      

ここに孫正義も知らない孫正義がいる 


今から一世紀前。韓国・大邱で食い詰め、命からがら難破船で対馬海峡を渡った一族は、豚の糞尿と密造酒の臭いが充満する佐賀・鳥栖駅前の朝鮮に、一人の異端児を産み落とした。
ノンフィクション界の巨人・佐野眞一が、全4回の本人取材や、ルーツである朝鮮半島の現地取材によって、うさんくさく、いかがわしく、ずる狡く……時代をひっかけ回し続ける男の正体に迫る。
“在日三世”として生をうけ、泥水をすするような「貧しさ」を体験した孫正義氏はいかにして身を起こしたのか。そして事あるごとに民族差別を受けてきたにも関わらず、なぜ国を愛するようになったのか。なぜ、東日本大震災以降、「脱原発」に固執するのか――。
全ての「解」が本書で明らかになる。

 

宣伝文通りだなあと思う。かつて佐野眞一という人の本を読んだことがある。『遠い「山びこ」 無着成恭と教え子たちの40年』(新潮文庫)。

「山びこ学校」の卒業生たちのひとりひとりを訪ねて一冊の本を書き上げていく著者の姿勢に深い敬意を感じたのではなかったか。

今回の取材はより一層困難だったに違いない。正義の父・三憲への最後の取材を著者は「最終決戦」と名付けているくらいだ。『週刊ポスト』連載中の

取材で舞台裏も明かされていて迫真力がある。正義の父方、母方の親族の人々が次々と登場する。ド外れた骨肉の愛憎物語で満ちている。

正義も知らない正義を生んだ歴史に深く切り込んだ著者に正義は感謝しているが、さすが大人物だなあと思わずにはいられない。

正義の思想や言動に批判・危惧を感じながらも深く尊敬する著者の正義への心のこもったエールの書かもしれない。

自分を生んでくれた歴史と風土から逃げるな、それを捉えかえすところから正義はさらに進化し、人々の期待に応えられるリーダーに深化するだろう。そんな願いが込められたエールだ。

 僕は感動のしっぱなしだったが、二箇所だけ紹介する。

①「正義はわが子ではなく“社会の子”」(P138~P143)

「孫が小学校低学年の頃、こんなことがあった。(略)。三憲はそんな大人びた正義の表情を見て、この子は自分の子じゃない、社会のために使わなければと思ったという。

出来すぎた話のように見えるが、その後の孫と三憲の関係は、確かにこの通りに進んだ。三憲は正義をわが子としてではなく、いわば”社会の子”として扱ったのである。」

(略)の部分に何が書かれているかは、本を読んでのお楽しみ。小6の時に書いた詩「涙」には心を打たれる。確かに社会のリーダーに成長していってほしい子である。そう認めて三憲は自分のやり方で「エリート」教育をした。「孫正義」は確かにこの父の子だ。

②「泣いても喚いても連れ出す」(P247~P250)

  出典●武雄市長物語●http://hiwa1118.exblog.jp/15274154/

孫正義は2011年3月22日、福島県田村市の体育館を訪ね、被災者たちに語りかけたという。同行した佐賀県武雄市の樋渡市長の目撃談。

「孫さんは、完全に鬼神と化していましたね。ここにいる人を何としてでも救わなければ、という使命感です。‥避難所の方ひとりひとりに声をかけて、目をしっかり見て話しかけておられました。しかも、孫さんの目は涙ぐんでいるのです。」

「孫さんは、『こんな放射能の危険性のある場所からは、一刻も早く退去したほうがいい』『九州への移動費用は私が出します。雇用もなんとかします』と切々と訴えていました。感極まったのか、時々、手が震えていました。」

孫正義は福島に行く前日に西日本を中心に17の県知事に直接電話でかけあって30万人の被災者の受け入れ枠をとって福島に乗り込んだのだという。

正義の言葉。

「泣いても喚いても、引っぱたいてでも連れ出すのが本当のリーダーだと思う。地元も人たちは『誰が家畜に餌をやるんだ』『誰が畑に水をやるんだ』といって動こうとしませんから。政府が明確に避難命令を出さなければいけない。『全部補償するから、安心して、まず一回避難しましょう』といえばいいんです。

残っている人がいると、商店やガソリンスタンドなど、ライフラインの人たちやその家族も残らざるをえない。人情や義理が絡んで、しがらみで動けない。結局、動けない人は弱者だったり、いい人だったり。」

こういうことを言える人が今の日本にもひとりはいたのである。政治家にはただひとりもおらず、被災者は放射能地獄のただ中に置かれ続けている。

 危機のただ中にあって福島の人々に心を込めて避難を呼びかけた人がコリア系日本人の孫正義という人だったことを私たちは心に刻み込んで置かなければならない。僕はコリア系のこどもたちはこの国の宝のような存在だと言い続けてきたが、この本を読んで心が高ぶるような感動を覚えている。

 

 

 

 

 

 

 



コリア系日本人 孫正義さん

2012-01-20 06:55:39 | 在日コリアン

東日本大震災・福島第一原発の事故という未曾有の災厄のただ中で傑出した存在感を示し、リーダーシップを発揮したのは孫正義(そん・まさよし)さんでした。多額の寄付のみならず、「脱原発ー自然エネルギーへの転換」という道筋を素早い行動ではっきりと示したのです。

 僕などは何もできませんがケータイをDocomoからiPhoneに切り替えてささやかながら孫さん支持を行動で示すことにしました。

孫さんの行動はコリア系日本人の存在感を日本社会にはっきりと示すことにもなりました。

孫さんの両親は朝鮮半島から渡来してきた人ですが孫さんが生まれたのは佐賀県鳥栖市であり国籍は日本です。日本国籍を持つという意味では紛れも無く日本国民であり、日本人です。ルーツを明示する言い方をすればコリア系日本人ということになります。(僕は土佐系日本人です)。

 「コリア系日本人」。単民族国家観が支配してきた日本社会ではまだ一般的な呼称になっているとはいえませんが既に数十万人の単位で存在しています。(アイヌ系日本人よりは多いと思われます)。孫さんの存在と行動はコリア系日本人がこの社会の大切な構成員であることを改めてそして鮮やかに私たちに示しました。歌の世界やスポーツの世界で示してきた人はいますが世論のリーダーとして社会を引っ張るところまで活躍した人は初めてだと思われます。社会的混乱のただ中でしたからその存在は一層光ります。

 孫さんの活躍は在日コリアンのこどもや青年にも大きな影響を与えていると思われます。

「在日コリアン」。植民地支配の時代に日本に渡来したコリアン・及びその子孫で「韓国」または「朝鮮」の国籍を持つ人。日本政府が「特別永住」という在留資格を認めている。日本生まれの2・3世が中心で4・5世が生育中。39万人くらい。

民団や総連の在日コリアンの旧来型のリーダーたちは今日に至ってもこどもや青年たちに「韓国人」「朝鮮人」として生きるように誘導しています。この国で生まれ育った人たちに外国人として生きよといっているのです。

北朝鮮の独裁政権を支える海外公民として若者を錬成しようとしているのが「総連」です。韓国の国民として韓国の国会議員や大統領選挙に参加しようと呼びかけているのが「民団」です。

 朝鮮総連のやっていることは犯罪に等しいと僕は思っています。韓国民団のやっていることもこどもや若者を惑わせる時代錯誤の間違った指導です。(この点については改めて書きます)。

「コリア系日本人」という生き方が在日コリアンのこどもや青年にとってもっとも自然な道で、自分を生かし、社会に貢献する人生につながると僕は考えています。

孫さんはそのような生き方を切り拓いてきた先覚者の一人であり、そのために様々な困難を乗り越えてきた人です。今その努力が実って後輩たちの輝かしい灯台となったことを僕は心から讃えます。

孫さんが乗り越えた困難二つ。

 ①通名ではなく本名で起業

ソフトバンクの前身であるユニソン・ワールドを起業する際、日本名である「安本」ではなく韓国名の「孫」の名前で会社を興すことを決め、そのことを一族に伝えたが、親・親戚には、在日が日常生活で差別されることはかなり減ったが、就職では間違いなく差別され、銀行も絶対金を貸さない、お前の認識は甘い、ハードルは十倍あがる、わざわざ好んでその難しい道を行くのか、と猛反対された。それに対して孫は「たとえ十倍難しい道であっても、俺はプライドの方を人間としてのプライドの方を優先したい、俺はどれだけ難しい道だって堂々と正面突破したいんだ」 と答えた。一族からは「お前は青い」とも言われたが、父親は何も言わず黙って孫の話を聞いていたという。[24]孫の名前にこだわった理由はもう一つあり、それは渡米する際に心に決めた志と通名による起業が矛盾するということであった。孫は佐野眞一に対して「何十万人といる在日韓国人が、日本で就職や結婚や、それこそ金を借りるとき差別を受けている。 でも在日韓国人であろうが、日本人と同じだけの正義感があって、能力がある。それを自分が事業で成功して、 証明しなきゃならないと思ったんです。これからの在日の若者に、それを背中で示さなきゃいけないのに、俺が 本名を隠してこそこそやったんじゃ、意味がなくなるじゃないか、アメリカに行った目的が達成できないじゃないか。 あとから、あの事業を興したのは、実は孫でしたと言ったって……」(NEWS ポストセブン 2012/1/4 孫正義氏「安本」ではなく「孫」を名乗った時親戚は反対したより引用)と述べている。
 出典●http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%AD%A3%E7%BE%A9

 ②孫という姓で日本国籍を取得 
 孫は,アメリカの大学留学時に知りあった2歳年長の妻:大野優美に頼り,彼女をてこに使うという高等戦術を案出・駆使して,日本国籍を取得した。孫 正義が通名:安本正義を棄て,その韓国の氏名のままで,日本国籍を取得するためには相当の時間を要した。というのは,法務省が孫という姓のままでの「帰化」申請を,長いあいだ認めなかったからである。

 日本人がアメリカ国籍を取得するさいは,たとえば「佐藤→サトウ:Satou」「鈴木→スズキ:Suzuki」「孫田→マゴタ:Magota」となるだけで,日本〔人〕の姓じたいを無理やりかえさせられることはない。孫はそこで,日本国籍取得での難問:アポリアを克服するに当たっては,「一休頓智話」のような逸話を残してみごと解決した。まず配偶者の大野に日本の法律にしたがい「孫」に改姓させ,つぎに日本にも孫という姓があるという実績を踏まえて,「孫」という姓への帰化=日本国籍取得を実現した。

 法務省は,日本人の姓には存在しない〔とする!〕「姓=孫」なのだから,日本国取得のさい選ばせる『日本の「姓」』としては認めていかった,というのである。もっともいまでは「金でも李でも朴でも」「〈帰化〉申請できる」ように改正されているが,孫という韓国の姓によるその申請がまだ認められない当時,正義は便法:迂回作戦を企図・実行し,「孫」という姓で日本国籍をとったのである。

 出典●http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=4107982

 

 

 日本国籍をとって「コリア系日本人」の道を選択したのは1990年のことで孫さんは33歳でした。タブー視されてきた道を一人切り拓く行動力の源はどこにあったのか。

 「あんぽん」という本が出版されたそうです。今日の病院への行き帰りに買って読んでみます。

  【書評】『あんぽん~孫正義伝』佐野眞一著

孫さんたちが切り拓いた道を歩いてやがてこの国の政治的リーダーになる人も現れるでしょう。

 

 

 

 

 


ギャラリーハン・関貞子さん 秋葉街道の旅⑤

2011-12-10 04:48:09 | 在日コリアン

11月12日(土)☼

 浜松からの帰りに富士川をさかのぼり山梨県富士川町を訪ねることにした。『楽園の夢やぶれて』の著者・関貴星さんの長男・勇さん夫妻がこの町の平林というところでギャラリーを開いていると聞いたからだ。

 川越だより『楽園の夢やぶれて』●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/08a5feabc4936862749c88a83c4b460a

  国道52号から県道413号をどこまでも走る。櫛形山の麓に「ギャラリー・ハン(ハングル表記)」はあった。

 聞いてはいたが目前に見える富士の姿は見事だ。

 

  大きな古民家がそのままギャラリーで「衣類・陶・漆・雑貨」が展示してある。その様子は次のHPでゆっくりご覧になってください。東日本大震災以来訪れる人がめっきり減ったとか。ちょっと遠いけれど別天地にある静寂そのもののギャラリーで過ごすひとときは贅沢そのものだ。

 ギャラリー ●http://galleryhan.moo.jp/gyararihan/Photos.html#35

 

 勇さんのお連れ合い・貞子さんがもてなしてくれた。義姉にあたる呉文子さんがいつになるかわからない私たちの訪問を予告しておいてくれたらしい。

 

 勇さんは一族の祭祀でお父さんの故郷(韓国)を訪問して今日帰る予定だという。初めてお会いするにもかかわらず、午後の時間をたっぷりとって義父にあたる貴星さんに関わる話をあれこれと聞かせてもらった。

 同居して「長男の嫁」を務めていた時期もあるのでその苦労は並大抵なものではなかったろうと思われるが、貞子さんの話は義父への尊敬の念と愛情が伝わってくるものだった。

 メモ① 『楽園の夢破れて』が出版(1962年)されて以来、関さんを訪ねてくれる友人・同胞は一人もいなくなり、「よくやってくれた」と言われたことは皆無だ。それでも関さんは同胞あての年賀状を出し続けた。宛名書きは貞子さんの仕事だった。

 貴星さんは86年に死去した。近年(97年)、「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」が『楽園の夢やぶれて』(亜紀書房)を復刻・再出版してくれ、多くの人に読まれるようになったことを草葉の陰で喜んでいることだろう。

 メモ②貞子さんはあるとき姑に呼ばれ「(関さんは)金庫に青酸カリを保管してある。このことは誰にも言ってはならない」と告げられた。朝鮮総連から「反動」「民族反逆者」などと攻撃を受け、友人は離れ実の娘を義絶していた頃のことである。酒量が増えていただけではなかった。どういう事態に備えていたのか?

 孤立無援のただ中でも筆をおることができなかった人の「組織」との壮絶な戦いの姿を想像して尊敬の念を新たにした。

 来年は『楽園の夢破れて』が出版されて50年になる。あの時「北」にわたった多くのコリアンや日本人妻はどうなっているというのか。問われているのは私たち一人ひとりだ。

 ギャラリーを開いて様々な人との交流を重ねるようになって貞子さんの精神世界にも大きな変化があったようだ。まるで娘のように生き生きと「在日コリアンの生き方」についても語り始めた。

 今度は友人たちを誘って訪ねようと思った。4月の下旬頃か、花の頃はさぞ見事だろう。

 

関連記事「呉文子さんと『楽園の夢破れて』」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/67e362063adafefcbc825d41149888aa

 

 

 

 

 


前原外相の辞任

2011-03-09 06:30:07 | 在日コリアン

 

前原外相が辞任しました。

このことに関わって僕も加入しているネットワークに在日コリアンの青年の投稿がありました。勝手ながら紹介させてもらいます。

前原外務大臣が辞任しましたねえ。国民的人気を誇り、外国に対しても毅然とし
た、正義感の強い政治家でしたので、意外でした。 


理由は、『外国人からの政治献金』です。日本の政治家が、外国人から献金を受
けて、国益を売り渡すのは、言語道断です。この法律の意味は、充分に理解でき
ます。     

しかし今回、前原外務大臣に献金していたのは、京都府内で焼肉屋さんを営んで
いる、在日韓国人女性です。前原外務大臣が中学生の時から、応援していました
。京都で真面目に焼肉屋さんを何十年も営んでいて、産まれ育ちも日本の方です
。‘日本のために働いてくれる政治家’なので、前原外務大臣のために献金した
のかなと思います。


前原外務大臣は個人的に好感を持っている政治家なので、こんな事でつまづいて
、非常に惜しいです。この問題は、次期総理大臣候補である前原氏の失態ではあ
りません。例の焼肉屋さんの方が、正々堂々と献金が出来ない。この事に問題が
あると思います。  


この問題を機に、例の焼肉屋さんのような方々が、どうすれば、堂々と政治献金
が出来るのか。そういった議論が、国会で成される事を期待してます。

僕の考え。

 前原前外相に「失態がなかった」とは言えません。外国人から献金を受けてはならないという法律の存在
は政治家なら知っていなければならないイロハのイです。
しかし、この方が指摘するように解決しなければならない問題はあります。

 特別永住資格を持つ在日コリアンをいつまでも「外国人」として処遇するママでいいかということです。
前原前外相は中学生のときにお父さんを「自死」で失っています。
http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/0373ed8cfdb781bc7ddfbd0b7241af3e

焼き肉屋のおばさんはそんなときから前原さんと交流し励まし続けてきたいわば「隣人」ではないかと僕は勝手に
想像しています。政治家になった暁に年、5万円程度政治献金するのは市民として自然なことです。

問題はコリアンのおばさんが法律上、日本の市民権を持っていないことです。そこには日本国家と在日コリアンの
ねじれにねじれた歴史があり、それが今日に至っても解決されていないのです。

私たちはこの問題を解決するため「在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会」を作って活動してきました。
 
これらの方々は元もと日本国民(またはその子孫)です。1952年、日本政府は独立と共に一片の通達でこの人たち
全員を「外国人」にしてしまったのです。ここに無理があったと私たちは考えます。
遅まきながら国籍選択の権利を認めるべきだと「国籍取得特例法」の制定を求めています。
http://members.jcom.home.ne.jp/j-citizenship/

今日はこれから友人たちと永田町に行って改めて国会と政府に陳情します。

自民党が前原外相の政治的資質を問題にするのは当然だとしても、少数の政治家をのぞいてこのような
問題を放置し続けた責任も自覚すべきです。

前原前外相にはほかにも政治資金を巡る疑惑があるなど僕はこの人を政治家として支持しているわけではありません。
(念のため付け加えておきます)。



 


資料 ・朝鮮総連を被告とする高政美さん帰国事業訴訟の訴状

2010-06-14 06:12:40 | 在日コリアン
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5月26日に大阪高裁は脱北帰国者・高政美さんが帰国事業に関わる朝鮮総連の責任を問うた裁判で控訴棄却の判決を下しました。朝鮮総連には責任がないというものです。

 6月20日(日)に明大で判決に関わる集会があるようです。

 帰国事業訴訟報告会http://hrnk.trycomp.net/news.php?eid=00260


 朝鮮総連に責任がないとはどういうことなのでしょう。

 大阪地裁に提出した原告の訴状が見つかりました。読者の参考のために紹介します。帰国事業とは何であったかを知る貴重な資料でもあります。

 

 訴状(原本コピー)http://hrnk.trycomp.net/file/chiba_sojou.doc


 訴状http://www11.ocn.ne.jp/~rachi/sojou.htm

朝鮮学校 ・祖国訪問(改訂・補遺)

2010-03-13 09:01:41 | 在日コリアン
 昨日、「川越だより」の昨年6月2日の記事「『祖国』訪問」に対し、次のようなコメントが寄せられました。

「あなたは勝手に他人の記事を複製掲載しています。ただちに、削除して下さい。日本の法律では著作権違反にあたります。」

 HPの記事を紹介することが直ちに「著作権法違反」にあたるかどうかわかりませんが原文の著者と同姓同名の方からの指摘ですから気付いた直後に該当記事を削除しました。

 削除したのは「 祖国訪問を着々と…」と題された記事で神戸朝鮮高級学校の3年生が昨年6月から7月にかけて北朝鮮を訪問する準備が進んでいる様子を書いたものです。

 「12年間民族教育の総決算での祖国訪問はとても重要な意義を持っています」などとあります。全文を当該HPで読むことができます。

 改訂後の記事は次の通りです。

「祖国」訪問http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/661e390ed201d135de065a656adc3db1

 僕の感想は変わりません。元さんの言われるように事実をありのままに見る目を養って「祖国」の現実を自由に学ぶことができれば別ですがそのようなことが許されるはずはありません。

 それでも広島県の教育関係者はこのような祖国訪問に「支援カンパ」を呼び掛けたりしているようです。国連決議に基づく経済制裁で船では行けなくなったので保護者の負担が大きくなったということです。

 これらの組織の指導者は「12年間民族教育の総決算での祖国訪問はとても重要な意義を持っています」という朝高側の認識に同調しているのでしょうが、僕には到底理解不能です。

 僕と同じように「皇国臣民」として錬成された戦前戦中の教育の反省の上に「君が代」の強制には反対する人々の行動なのです。この人たちの目には異分子の存在を認めない金王朝の超独裁体制が「民主主義人民共和国」に見えるのでしょうか。

 広島朝鮮高級学校祖国訪問修学旅行支援カンパ       http://www42.tok2.com/home/minzokukyoikunomirai/records4.html

 僕には12年間この「民族教育」を受けてきた友人が何人かいます。朝鮮大学校で学んだ人も少しはいます。

 その一人、元さんの「祖国訪問」を紹介させてもらいましたが<つづく>の先は次の文章です。

  朝鮮人学校http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/ad120d480e12c37b5f86c9c0358bbb06

 言うまでもないことですが朝鮮学校に通うこどもたちも私たちの大切な隣人です。日本の学校の教育がこれでいいかと考えるのと同じように朝鮮学校がこのままでいいのかと考えるぐらいはしなければなりません。

「朝鮮高等学校」?  訂正があります・ 『萱野茂の生涯』  

2010-03-08 16:48:59 | 在日コリアン
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 2月14日に友人から 『写真で綴る萱野茂の生涯―アイヌの魂と文化を求めて』(農文協)という本に事実の誤りがあるのではないかと連絡を受けました。

 早速、市立図書館で本を借りてきて調べてみました。

 この本の135P上段に講演する萱野さんの写真が掲載され、“朝鮮高等学校(東京)の「連続講座・民族共生教育をめざして①」の講師として、茂は「アイヌ民族の現状とアイヌ新法」という演題ではなしをしました。”というキャプションがついています。

『写真で綴る萱野茂の生涯―アイヌの魂と文化を求めて』 http://www.amazon.co.jp/%E5%86%99%E7%9C%9F%E3%81%A7%E7%B6%B4%E3%82%8B%E8%90%B1%E9%87%8E%E8%8C%82%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B6%AF%E2%80%95%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%81%AE%E9%AD%82%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96%E3%82%92%E6%B1%82%E3%82%81%E3%81%A6-%E8%90%B1%E9%87%8E-%E3%82%8C%E3%81%84%E5%AD%90/dp/4540072617

 このキャプションには明らかな間違いがあります。この連続講座を主催したのは「朝鮮高等学校」ではありません。

「民族共生教育をめざす東京連絡会」(田中宏・金敬得・代表)と「民族共生教育をめざす東京保護者の会」(金敬得会長)で、会場は都立文京高校社会科教室です。1998年5月31日のことです。

 萱野さんは1994年参議院議員(社会党のち民主党に移る)になり、97年に「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(通称「アイヌ文化振興法」)を制定させ、98年7月に退任されました。

 94年に東京の在日コリアン2世の親たちと私たち教員が中心になって作ったのが「めざす会」です。「在日交流大運動会」などをやり交流を重ねながら「民族共生教育」の確立を目指して都教委との交渉を行っていました。

 「連続講座」はその過程で誕生したもので、僕が勤めていた学校の施設を借りて行うことになりました。その第一回目の講師にお願いしたのが萱野さんだったのです。

 アイヌ新法制定の大仕事をして引退寸前だった萱野さんは二つ返事で引き受けてくれました。
 アイヌ新法はアイヌ民族が日本の先住民であることを実質的に認め、日本が多民族国家であることを内外に闡明した初めての法律です。アイヌ民族はもちろんのことですが多民族が共生する社会を作る上で画期的な法律でもあります。

 この法律制定に至る萱野さんの思いや歩みを学び、多文化多民族共生の学校づくりに生かしたいと考えたのです。

 在日コリアンの人権確立運動の中では画期的なことではなかったかと思います。自分たちはアイヌ民族とは違って、日本の少数民族ではなく、外国人だ、という意識が在日コリアン運動のリーダーには根強いからです。

 「朝鮮高等学校」という学校は東京には存在しません。「東京朝鮮中・高級学校」なら北区十条にあります。学校法人東京朝鮮学園が設置主体ですが実質的には朝鮮総連の経営する各種学校です。

 「民主的民族教育」を標榜していますが北朝鮮の国民教育に準じていることは明らかです。教員のほとんどは同じ法人の設置する朝鮮大学校(各種学校)の卒業生で、朝鮮総連傘下の朝鮮教職員同盟に組織されています。

 日本の学校の生徒会にあたるものは、朝鮮青年同盟朝高委員会です。「責任指導員」という名の朝鮮青年同盟の活動家が常駐して「指導」にあたっています。

 朝教同にしろ、朝青にしろ、朝鮮労働党の影響下にあることは言うまでもないことです。

 初中級朝鮮学校で保護者会などが作られ学校改革の動きがありましたが東京朝高には保護者会はないと聞いています(数年前のことです)。組織専従者の子どもたちの割合が高く総連中央の直轄学校的な要素が強いのでしょう。

 主体思想に基づく国民教育に疑問や批判を持つ朝鮮学校の保護者の人たちも私たちの連続講座に何人か参加されていました。

 こういう学校が「連続講座・民族共生教育をめざして」を企画し、講師として萱野茂さんを招くということがありえたでしょうか。

 どういうところから来た間違いなのかわかりません。

 あれから12年がたちました。拉致事件が発覚するなどして朝鮮学校の実態にも変化が表れているのでしょうか?

 在日コリアンの自主的な教育機関として誕生した朝鮮学校が、<北朝鮮独裁政権ー朝鮮総連>のくびきから解放され、多文化共生・多民族共生をめざす学校に変わっていってほしいものですがそんな話はどこからも聞こえてきません。

 「川越だより」萱野茂さんとアイヌ新法
http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20070710

 「川越だより」「祖国」訪問http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/661e390ed201d135de065a656adc3db1

投書・「もっと簡易な帰化制度望む」

2010-02-02 09:59:55 | 在日コリアン
 「朝日新聞」の「声」欄に私たちの主張に近い投書が載っていると友人が知らせてくれました。伊豆の旅から帰って土曜日に市立図書館に行ってコピーしてきました。

 我が家では3年前から新聞の定期購読をやめ、僕は必要に応じて図書館で読みます。
 さてこの投書を読んで皆さんはどんな感想を持たれるでしょうか? 


  もっと簡易な帰化制度望む (「朝日」投書欄 2010・1・25)


会社員 柳 智成 (川崎市多摩区 40)

永住外国人に地方参政権を付与する法案についての反対意見が一部に根強くある。
僕の祖父母は80年前に日本の植民地支配による朝鮮での生活苦から渡日した。

 そして2世の両親が日本で生まれ、3世の僕も、4世の娘も、この日本で生を受けた。
日本語を母語とし、日本の文化を自らのアイデンティティーとして育った僕らは、いまだに、そして永遠に、外国人でよそ者だ。

僕の祖父母のような、歴史的経緯のある永住外国人や定住外国人の子孫には、地方参政権付与などその場しのぎの政策ではなく、日本国籍を取得する権利にこそ、深く踏み込んで論議してほしい。現在1年近くかかる手続きを、例えば書類一枚で認められるような、国籍を取得したい人にとって簡易な帰化制度に変えていただきたい。現状では精神的なハードルが高すぎる。

日本は、勇気をもって多民族国家への道を歩み、「日本国民」の枠組を大きくしていただきたい。それこそが在日韓国・朝鮮人に対する歴史的贖罪であり、責任の一つの取り方である。

 
 ≪ぼくの感想と意見≫

 ①「やっと載ったか」

 こういう意見の持ち主は在日コリアン3世に無数存在するはずです。僕の近くにも少なくありません。それがなかなかこういう形で社会の表面に現れ出ないのです。

 投書する人がいないのか、新聞社が載せないのか。

 『権利のための闘争』(イェーリング)という本を大学に入ったばかりに読みました。「法学概論」という授業で磯野誠一先生に勧められたのではないかと思われます。

 新しい権利を獲得しようとするのですから「闘う」ほかに方法はありません。「闘う」といっても言論が自由な時代の立法運動です。政治家や官僚が読み、社会への影響力もある、「読売」「朝日」「毎日」などへの投書は有力な「闘い」の方法です。

 この問題で僕も投書したことがありますが「不採用」でした。肝心なのはやはり当事者である在日コリアン3・4世です。この方に続いてほかの新聞にもどしどし投書してほしいものです。

 民団の主張(「外国人地方参政権の獲得」)が「在日コリアン」の主張だとたいていの政治家やメディアのリーダーは思い込んでいます。

 ②「書類一枚」

 これは説明が必要です。「特別永住者」については身分にかかわる情報は日本の法務省が一番しっかりした情報を持っています。たとえば韓国の「戸籍」には自分の名前さえ無い人が多いのです。そういう人に戸籍謄本を求めても意味がありません。日本の植民地時代から日本に在住した人・及びその子孫に限り、資格審査をしたうえで「特別永住」を認めているのですから、これらの人々については外国人登録証明書一枚で十分なはずです。

 現行の帰化手続きではいろいろな書類の提出を求めていますが、少なくとも特別永住者については無意味なことです。

 ③「帰化」?

 この方は「帰化」の簡易化を求めていますが私たちは届け出による国籍取得(国籍取得権)を求めています。

 「帰化」は法務大臣の「許可」があって初めて認められます。
 かつて日本国民であった者またはその子孫である特別永住者については本国の独立に際し、本人の国籍選択権を認めるという国際法の常識を遅まきながら適用すべしというのが私たちの主張です。

 2001年の自公などの法案はこの考えに立つもので「届け出」と同時に国籍取得が実現することになっています。ここのところは問題の本質(歴史的責任)にかかわるところですから十分に議論されることが必要です。

 川越だより・太田議員の誠意http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/7442171c64921c8f58cebb53664c8ae7

 







人を人と思わない仕打ち  民主党への陳情②

2010-01-24 10:44:35 | 在日コリアン
 20日(水)

 暖かい朝だったので早めに家を出て市谷から靖国神社~千鳥が淵~国会正門と歩いて12時40分ごろに参議院議員会館到着。今日は13時から民主党今野東参議院議員の秘書福田清之郎さんにお会いしてもらうことになっている。
 
 「在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会」の「国籍取得特例法」制定運動にかかわって民主党に陳情する手立てを教えてもらうのが主な目的である。旧知の民主党関係者の紹介で先週、電話でお願いしたところ国会開会当初で多忙の時なのに時間を割いてくれるという。資料を整えているうちに呉副会長が到着したので定刻よりやや遅れて二人で今野議員の部屋を訪ねた。

 福田さんがあらわれ名刺交換などで挨拶したところまではともかくとして、それから後のことは僕から見れば何とも不自然で理解できない対応だった。

 私たちを入り口を入ったところに立たせたまま、ご自分は事務机の椅子に座って僕が手渡した資料に目を通す。そして時に感想のようなことを言われる。

 私たちを座らせて話を聞こうということには一向にならない。挙句の果てに「今日はこれでお引き取りください」だ。

 私たちの話を聞かないままで福田さんが話したことをまとめるとこんなことになる。

 排外主義の嵐の中で民主党は「あなた方の国の政府」と民団の要請にこたえて外国人地方参政権法案を成立させようとしている。このような流れの中で自公政権時代に国会に提出されることもなかったような法案を検討するなどということはあり得ない。混乱をもたらすだけだ。陳情を受け付ける窓口などどこにもない。

 帰れといわれるから私たち二人は退出するしかなかった。

 こんなことって許されることだろうか?

 私たちはきちんとした手続きを経て約束の時間に「陳情」に来たのである。僕は川越から2時間をかけてきた。呉さんは多忙な中あれこれとやりくりして定刻に駆けつけてきた。

 そんな市民を渡された資料に目を通しただけで追い返したのである。お茶の一杯どころか、椅子に座らせようようともしなかったのである。

 あれから数日が経って今僕はこの文章を書いている。2、3日は無様(ぶざま)にも落ち込んで書く気が起きなかった。情けない限りである。

 今ははっきりとしている。あのような対応をするものを「許してはならない」,
「許さない」。

 天下の公党に陳情を受け付けてもらうにはどうしたらよいかと教えてもらいに行ったのである。話も聞かずに玄関口で追い返すとはどういうことなのであろうか。

 人を人と思わない対応ではないのか。話の内容以前の問題だ。

 先日の帰り道、私たち二人は期せずして共通の体験を思い出した。数年前、 奥野 信亮さんという国会議員を訪ねた時のことだ。

 奥野さんは自民党の議員だが「国籍取得特例法案」には反対しているという。そういう方に会ってその真意を聞き、私たちの思いを正確に伝えようというのでお会いしてもらった。

 私たちの考えを聞いてもらった後も奥野さんの「現行の帰化制度で十分だ」という考えには変化は生まれないようだった。それでも話はよく聞いてくれ、ご自分の考えも聞かせてくれた。椅子が提供されたのは言うまでもない。お茶まで出してくれた。

 市民が会ってください、私たちの話を聞いてください、といってお願いしているのである。自分とは違う主張をしている人たちであっても都合をつけて会い、話を聞くというのは国会議員の当然の仕事ではないだろうか。奥野さんはごく自然にこの仕事をしてくれたのではないか。

 私たちは理解してもらったと喜ぶわけにはいかなかったが、それでも足を運んでよかったと思った、のではなかったか。在日コリアンの現実や私たちの願いを聞いてもらうことはできたし、反対する議員の胸の内もいくらかは知ることができたのである。

 そこへいくと、この福田秘書の対応は自分を何さまと思ったらできることだろう?

 どなたでもいい。民主党の関係者に聞きたい。こんなことでいいのですか。


 福田秘書の話を聞く限りでは少なくとも福田さんは在日コリアンの現実や帰化制度の問題点についてもほとんど無理解のように見えた。それでいて学ぼうという姿勢を持たず、

 民主党は韓国政府と民団の要請にこたえて地方参政権法案の成立に全力を挙げている。「先日も民団の集会で決意を表明してきた」ばかりだ。変な邪魔立ては許さない。

と考え、かくも無礼としか言いようのない対応をされたのであろう。

 僕に向かって韓国政府のことを「あなたたちの政府」と言われたのには仰天した。どういう意味なのであろうか。

 僕は日本国民としてこの40年ばかり縁あって在日コリアンの子供たちとの出会いがあり、自分一人では解決できないことについて人々と力を合わせて教育委員会に訴え、ここ数年は政党に働き掛けてきた。日本の社会で生きる子供たちのすべてが人として尊重される社会を作ることが終生の願いである。

 東京都教育委員会も私たちの話を聞いたうえで「在日外国人児童・生徒の教育指導について」という通達を学校現場に出したりした。自分は一教育公務員に過ぎないが、知りえた問題と解決方法を社会に提示していくことは当然の責務だと考え行動してきた。

 最初からスムーズに行ったことばかりではないが、こんな仕打ちは思い出せない。

 「政権交代」に期待してささやかではあってもぼくもその動きに与(くみ)してきた。新しい政権ができたとたんにその政権を動かす人に跳ね飛ばされて僕は傷(いた)んだ。

 こんなことを許したらこの政権は「民主」からはほど遠い今までにない?独裁政権になってしまう。何とかしなければならないと思う。