川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

備忘録

2007-11-29 07:18:21 | 友人たち
 27日(火)成増の会社にYさんを訪ねる。遠い昔の池袋商業高校の卒業生。36年ぶり。娘さんの病気のことで相談を受けたことがあるが力になれなかった。
 整体を目的とした女性向きの肌着の販売会社を経営している。沖縄を始め各地に出かけて、その土地の人々と話し込んで商売をしているわけだが、いきいきとして魅力的な女性である。高校の時、職員会議で退学処分に決まったのを、坊城校長がNOと言いはって、卒業することができた忘れられない生徒である。話を聞くことで魅力のわき出てきた秘密がだいぶわかった。励ましに来て、元気をもらった。
 
 夕刻、芝の病院にMくんを見舞う。やはり昔の生徒。こちらは会うたびに僕が世話になった人。見舞いにきた友人知己がほかに2組。皆気さくなつきあいである。M君のひとがらのしからしむるところ。

 29日(木) 今日はこれから伊豆高原に向かいます。12月1日には伊豆大島です。級友を喪ったひとびとが急遽クラス会をひらきます。そして墓参り。さびしいけれど、利島など離島の人たちにも久しぶりに会えます。トヨが作ってくれた機会です。2・3日は大島に滞在してのんびりしてきます。

 「田中勝義さんの出演した朗読劇」に対して、matumotoさんから、長いコメントをいただきました。有り難いことです。大島から帰ったら、ご批判に対しては僕の意見を書きたいと思います。
 僕はこのブログで感じたこと、思ったことをなるべく正直に書いています。皆さんも疑問や批判などを含めて感じることがあったら、遠慮なく書いてください。僕もなるべく丁寧に答えていきたいと思っています。そのことが友情を深める道です。

田中勝義さんの出演した朗読劇(2)

2007-11-26 07:29:40 | 友人たち
 昨日、田中さんが遊びに来てくださったので、僕が感じたことを伝えることができました。その概略を記すこととします。
 僕はかつて『流れる星は生きている』を読んだことがあります。しかし、松本さんと同じように逃避行を共にしているような緊迫感を感じながら読んだ(読んでもらった)のははじめてです。出演者の好演のたまものです。ただ、感動に浸って劇の余韻をかみしめるということはなく、いろいろなことを考えさせられたことも事実です。
 僕は1980年代に中国残留孤児2世の生徒たちとの出会いがあってはじめて『満州』と抜き差しならない関係を持つようになりました。脱出・引き揚げについても学ぶ機会を積極的に作りました。生徒のおばあちゃんを招いて開拓団の逃避行や集団自決に追い込まれた体験をみんなで聞いたのをはじめとして、各地に出かけて体験者の話を聞きました。
 昨年は文京高校の生徒だった人のおばあちゃんを天草に尋ねて思いがけない話を聞きました。14歳で親に売られた人の17歳の時の奉天(今の瀋陽)からの引き揚げ体験です。助け助けられた逃避行の中で同行の人の子を見捨てるほかはなかった体験は今もこの人の生き方の原点をなしています。自らをを律することの厳しさとにじみ出る優しさに圧倒されて僕は深く叱咤され励まされたのです。(『木苺』129 号)
 
 敗戦直後に書かれたこの著書が貴重な記録であることは確かです。しかし、私たちはあれから60年後の現代を生き、この著作を相対的に評価することができる体験を積み重ねてきたはずです。
 著者は自分たちは関東軍に見捨てられたと思っていたのですが、ソ連との国境に配置された開拓団や満蒙開拓義勇軍の人たちから見れば満鉄や傀儡政府の役人たちも同罪です。近くの駅にたどり着いても乗る列車はなく、集団自決に追いつめられた例も少なくないのです。残留孤児はこうして作られ、文化大革命の時にはただ日本人の血を引くというだけで侵略の責めを一身に背負わされたのです。その人たちの引き揚げは今も未完です。今年も肉親捜しに訪日した孤児の報道がありました。
 帰ってくることができたひとびとの苦難にも限りがありません。たまりかねた人たちが裁判を起こし、国家補償的救済を求めた結果、先日、待遇改善の法律がようやく成立しました。しかし、これとても帰ってきてよかったという安堵感をもたらすとはいえず、私たち自身の受け入れる心と支援が望まれています。
 この劇の冒頭などで松本さんが指摘しているようないくつかの解説的セリフが加えられ、植民者としての日本人の位置づけがはかられていますが、その程度の工夫で、どうなるものでもありません。侵略と植民地支配という他民族との関係だけではなく、支配民族である日本人の中でも自分がどの位置にいるかという自己認識ー自己の相対化がこの作品の著者には決定的に不足しているのです。
 歴史に巻き込まれた一女性の敗戦直後の手記にあれこれと批判をするつもりはありません。しかし、今を生きる日本の市民として自己がやっていることを今の社会の中で相対化することができなければ普遍的な共感を得ることはできません。
 
 蛇足。この劇を見てから藤原正彦という人が原著者の次男だと知りました。水曜日の読売新聞で偶然この人の文章を読みました。父は一人になっても弱者の立場に立って闘えと言ったが、母はそんなことをしたら(お茶の水女子大の)教授になれないと反対したとか。どういうことを巡ってかはわからないが何となく腑に落ちるところを感じました。

田中勝義さんの出演した朗読劇(1)

2007-11-23 18:38:46 | 友人たち
 18日に田中勝義さんの出演する朗読劇を見に行きました。田中さんは僕よりも3ヶ月ほど人生の先輩ですが、同じ時代を近いところで生きてきた大切な友だちです。1975年以来は「在日韓国・朝鮮人生徒の教育を考える会」という小さなサークルの活動を共にしてきた数少ない同志です。高校では「国語」の教師であり演劇部の顧問です。『川越だより』にコメントを寄せてくださっているので皆さんもお気づきのように私たちは共に健康不安とつきあっている仲間でもあります。
 その田中さんが朗読劇にでるというのですから行かないわけには参りません。一番前の席で100分の朗読劇『流れる星は生きている』をみせてもらいました。藤原ていという人が1949年に書いてベストセラーになった本が原作です。
 藤原さんは戦後作家として活躍した新田次郎さんのお連れ合いです。新田さんが1943年満州国中央気象台の高層気象課長として新京(「満州国」の首都・いまの吉林省長春)に赴任したのに伴い、ここに住みます。『流れる星は生きている』(中公文庫)は45年8月9日ソ連軍が「満州」に攻め込んできてからの混乱の中を3人の子どもを連れて日本に引き揚げてくる著者の体験をつづった記録です。ソ連軍占領下の北朝鮮から38度線を歩いて脱出する壮絶な闘いがこのリージングドラマの中心になっています。

 見終わってから会場の出口で友人たちと田中さんに会い、その健闘をたたえ握手をして帰ってきました。田中さんの生徒たちの公演はみせてもらったことがあるのですがご本人の舞台ははじめてなのです。かつての生徒たちの立場にたって緊張する100分だったことでしょう。声のかすれは仕方がありませんが、よくその役柄を演じています。
 
 ドラマの感想を書く紙をもらいましたがこちらはなぜか筆が進まず、白紙のままです。この会のパンフレットを読むと(この原作に)「私たちはただこころゆすぶられるばかりです」と書いてありますが、僕はこのドラマを見てこころ揺さぶられたとはいえないからです。それはなぜだろうと考えながら、今に至っています。でも一番大切な友だちにそのなぜを突き止めて伝えることが僕のつとめです。
 
 そのつとめをすこしでも果たすために考えてみようと思います。とっかかりとしてこのブログにコメントを寄せていただいたmatumoto さんの感想の一部を勝手ながら紹介させてください(全文は11月11日の記事のコメントをごらんください)。

 小学校のときに、「シュプレッヒ・コール」をやりました。あれを思い出しました。「朗読」といっても、「群読劇」であり、さらに、抽象化されてはいるものの場面場面があって、まずその迫力に圧倒されました。配られたリーフにもどなたかが書いていらっしゃいましたが、私も一緒に、引揚げ行をしている気分でしたし、場面によっては、舞台を正視できませんでした。
 はっきりいって、「スキル」「メチエ」を超えています。技術の問題じゃない。演じているみなさんの「思い入れの強さ」に、心を動かされました。カツヨシ先生の声が、おそらく張り切りすぎによって掠れていたのには、逆に心配になってしまいましたが…。

 引揚げ団の内部での軋轢の数々、自分がその場に立たされたら、あのような浅ましい・見苦しい人間になってしまわないとも限らない。それだけに、「なぜこんなことが起きてしまったのか。そうならないためにはどうすればよかったのか」を、観た者に考えさせざるをえない劇だったと言えます。

 それと、「満人が耕した土地だったから、収穫はよかった」「馭者はいつでも調達できた」というような最初のセリフ、これは大事だったと思いました。Oさんが出演された「海峡」第1回でも、津川雅彦さん演じる進藤海運の社長が、「この恩知らずめが!」と叫ぶセリフがありました。この優越意識の亡霊が、いま現実にさ迷っています。

 これとは若干角度が異なりますが、カツヨシ先生に宛てられた「あなたに責任はないから、自分は気の毒だと思うけれど、食べ物をあげると村八分にされる」という朝鮮人のセリフに、考えさせられました。東アジア社会は、何と似ているのだろうと。

 いま、北朝鮮の民衆の苦境に手を差し伸べるべきだなどというと、それこそ「村八分にされ」てしまいかねない空気があります。他方で、B級戦犯裁判に見られるように、他者がどうあれ個々人としてどうあるべきなのかを、欧米社会の人間は厳しく問う。これが、もし掛け値なしに本当であるならば、民主主義とは何と重たいものであろうか、と思うのです。

 


豊洲小・豊洲北小の子どもたち

2007-11-22 12:32:37 | こどもたち 学校 教育
 昨日は楽しいこと、嬉しい報せがつづいて一日中体も心も温かく気持ちよく過ごしました。おかげで書くことが溜まってしまいます。
 
 まず「丸木美術館学芸員日誌」をごらんになってください。
 
 http://diary.jp.aol.com/454hpkhtj/

 豊洲北小の校長は大沼謙一です。あとは学芸員の岡村さんの紹介で尽きていますが、付け足します。
 大沼君は一人で仕切っているようです。まるでガキ大将です。ですから事前になんの相談もありません。「いきなり先生、何かしゃべってください。」と子どもたちの前でいいます。去年のことがあるので今年は驚きません。
 僕がこの大切な子どもたちに伝えたかったのはやさしさを貫いて生きることの難しさとすばらしさについてです。大沼君は格別にアタマがいい生徒だったとは思えないけれど、賢く、優しい人です。校長になって磨きがかかってきているように見えます。知的障害を持つ子供をおんぶして川を渡る姿が本当に自然です。あちこちの学校で入学を拒否された子どもを受け入れ、自分が先頭に立って仲間づくりをしています。生徒も先生もいつの間にか巻き込まれています。登校拒否もいじめもない学校がこうして作られているのです。
 原爆の図を誰もが真剣にゆっくりと鑑賞できるのも冷たい川を渡って河原で遊ぶのも日常普段の信頼があるからこそ、できる芸当です。いい先生と出会うことができた子どもたちがいつかそのことに気づき、よりいっそう優しさを貫く力を身につける努力をしてほしいものです。この日の体験もそうした力の源泉になっていくに違いありません。
 僕が最初にHR担任をした2A・3Aの卒業生は門井豊秋君を喪った悲しみの中にあります。大沼君は高校生の時、漁師のあとを継ぐべく無線の講習に通ったといいます。この間、欠席した授業のノートを作って助けてくれたのが門井君だったとのこと。僕は若いだけが取り柄の世間知らず教師だったけれど、当時の生徒たちがそれぞれに力を尽くして生きていることを知ることは本当に嬉しい。
 12月1日には都合のつく人たちと大島の豊秋くんの墓参りに行きます。彼らもいまや社会の重責を負っている世代です。

 小学生を見送ったあと、坂戸の「ふるさとの湯」に入って帰ってくると、高知県奈半利のなっちゃんから新米とサツマイモ、柿・柚のパックが届いていました。この夏、一寸だけ収穫を手伝ったのを忘れないでいてくれたのです。なっちゃんは大学院に合格し、引き続き奈半利で百姓見習いとしてもガンバリます。年末に父の49日忌があります。日程が合えばなっちゃんたちの忘年会に出ることが出来るかもしれません。ここにも大きな希望があります。
 なはりサポータークラブ http://www.geocities.jp/naharisc/
 9月18日と24日の『川越だより』もどうぞ。


 杜君のお連れ合いの池田さんから、杜君が来日し、今日から池田さんの家での結婚生活が再開されたと言う報せがありました。オーバーステイを理由に退去強制処分を受けて2年あまり、今度は「日本人の配偶者」という比較的安定した在留資格です。ここまでの池田さんの献身は並大抵のものではありません。今回も大連まで迎えに行ったと言います。杜君と話をしました。日本語を勉強して頑張るといいます。
 北高校の2年生だった杜君が最初に退去強制となったのは91年のことです。あれから16年あまり、杜君はやっとこの地に安心して住めることになりました。気がかりなことがようやく解決してよかったなというのが実感です。今回もたくさんの人に世話になりました。お二人が静かな生活を取り戻したら、みんなで結婚のお祝いをしたいと思います。

 夜になってもう一つ電話。新潟に住む高田さん、78年池商1年けいすけ組。娘さんが朗読が好きらしい。昔、僕の授業で『太陽の子』(灰谷健次郎著)を朗読したのが懐かしく、僕の顔を見たくなったという。金曜日、子どもさんたちと川越に。懐かしく嬉しい声。
 一年の地理の授業で『太陽の子』の輪読。めちゃくちゃだと怒る人もいるかもしれない。でも、これは多くの生徒と僕の財産。つらいことも沢山あったけれど、僕が池商生活を楽しむことができたのは授業でも自分がやりたいと思うことをやったから。高田さんの娘さんも『太陽の子』を読む年頃になったのだろうか。

仙人となったYさん(2)

2007-11-21 17:27:04 | 出会いの旅
 Yさんの家は暗い杉の人工林の中を谷に沿ってつづく道の果てにありました。そこだけが谷側に森がなく一寸開けて、畑と家があります。道の反対側にも民家がありますが廃屋です。ここではないかとおりてみるといきなり「こっちへはいれ」という声が聞こえます。心配して待っていてくれたのでしょう。
 20数年ぶりの再会です。歯がなくなってしまったほかは物腰も昔のままです。明るいうちに家の周りを見学。家は彼の設計図に基づいて近くの大工が立てたそうですが水槽や水道施設(雨水)、いくつかの納屋などすべて手作り。シカやイノシシ対策で野菜や果樹はすべて金網で囲まれています。家の入り口も防護柵で閉じられ夜間に屋敷内に進入することを防ぎます。僕があげたという木苺も金網で覆われています。繁殖して子どもさんに人気だったとか。すっかり忘れていたことですがなんだかちょっぴり嬉しい。反対側に川。けっこう広い。水を引いたこともあるが流量が減ってしまったため、今はやめているそうです。
 手作りの果実酒の瓶が並んでいる地下室、薪や焚き付けがきちん積まれている風呂の焚き口の部屋などをみせてもらって客間に旅装を解く。夜間は冷えるというので布団を重ねて寝支度を整えます。
 2階の居間を訪ねると主人は高くした座椅子に座って食卓に向かっています。滅多に人には出さないというサクランボ酒で乾杯。刺身と里芋のおでんをご馳走してくれました。僕がおみやげにと持参したフカのみりん干しは堅くて食べられないとのこと。Yさんは外で仕事をしている時のほかはほとんどこの座椅子に座って過ごしています。手の届く範囲に必要なものがきちんと整理されて配置されています。
 驚いたのはさまざまな木工製品。一寸した包丁・箸立て、ゴミ箱からおまごさんのために作った家の模型やからくり貯金箱。智慧と技術の精緻としかいいようがありません。
 池商の頃は風邪をひいてばかりだったのに、ここに来てからは全くない。よっぽど学校がいやだったなーと述懐されます。就職するときからいつかは、こんな生活をすることを考えていたようです。ここに来てけっこう長い間、生活のため田辺市にでて働いた。家庭教師と塾の経営で大成功、子どもたちを学校にやり、結婚した娘さんたちの力にもなった。勉強嫌いな池商生とちがって、上級学校をめざす田辺周辺の中学生に教えるのはけっこうおもしろく、評判がよかったと言います。
 8年ぐらい前にこれらの仕事を辞め、この村にこもるようになった。いまはいうことのない自由な生活だとのことです。Yさんはたまに、田辺に住む奥さんを訪ねて生活必需品の買い物を一緒にしたり、洗濯物を頼んだりします。ふだんは全く一人です。近所に人家はないがこの村に人がいないわけではありません。しかし、彼にいわすれば「猿」にちかい人ばかりで交際を絶っているとのことです。
 24時間誰とも話をしない日々の連続です。僕にはとても耐えられません。でもさびしいということはなく自由で満ち足りていると言う。畑仕事、工作。それ以外は座椅子にすわって手作りの果実酒をなめる。熊野の仙人と言うほかはありません。
 それでも奥さんに頼まれて、お孫さんの英語の問題を作ることはやっています。夏休みなどにはおじいちゃんのところがいいと長期滞在するお孫さんもいます。釣りを指南したり、畑仕事を手伝わせます。薪割りや畑仕事などの労働にはきちんと対価を払うそうです。こうして3人のお子さんにつづいて今度は祖父としての教育にも関わっているのです。
 僕は自分の体調を心配してYさんがせっかく沸かしてくれた柚風呂にもはいらず、9時ごろには就寝しました。妻は心地よい柚の香の風呂にゆっくり浸ったということです。

 Yさんの田舎暮らしに当たっては室戸の父に適当なところがないか捜してもらったことがあります。しかし、誰もが教員をやめてくるところではないと言って取り合ってもらえなかったのです。
 結局、和歌山に住み着いたわけですが、僕のイメージとしては南面の日当たりのいい土地で、村のひとびとと交流しながら百姓をしているというものでした。実際は手入れを放棄した杉の人工林が周りを取り巻いて日照が限られています。獣害や虫害がひどく百姓は困難です。交流は自ら断っています。
 想い込みはすっかりはずれてしまったわけですが、Yさんらしい生き方の帰結のようにも思えます。熊野といえば南方熊楠で、僕は記念館で買ってきたマンガ『猫楠ー南方熊楠の生涯』(水木しげる著・角川文庫)を読んだばかりですが、生きたいように生きた巨人と言うほかはありません。しかし、熊楠とて晩年はうまくいかず苦しんだようです。そこへいくと人に頼らず人生の荒波をを乗り切って、いま、自由の日々を楽しんでいるYさんは熊楠に劣らず幸福なのかもしれません。

行き届いた心遣いと若き日の薫陶にこころから感謝して。

仙人となったYさん(1)

2007-11-20 14:22:02 | 出会いの旅
 このブログを読んでくださっている皆さんへ。

 文字だけの長い文章ばかりでごめんなさい。それでも時間を作って読んでくださる皆さんに感謝。僕は写真を入れるなどのことができません。それでと言うわけではありませんが、ときどき、関連するHPのアドレスを紹介しています。青い文字を押すとリンクします。その道の専門家の作ったHPですから素晴らしい写真や学識やらが詰まっています。気づいたかたは過去にさかのぼって覗いてみてください。このことについて今までは娘の手を煩わせていたのですが、最近ようやく自分でできるようになりました。
 
 熊野路(1)のYさんのことです。
僕は1969年から18年間、都立池袋商業高校に在職しました。この間、疲れ果てるまで議論をし、けんか別れを繰り返しながら僕に向きあってくれたただ一人の先輩同僚です。僕はこの人と議論をすると本当にくたびれ果てるのですが、志木のお宅まで何回も連れて行ってもらって、その続きをやったのです。彼は酒も目立って強かったのです。
 僕から見れば池商の「教育」とは子どもたちを人間と思わない「飼育」か「調教」かです。赴任早々から職員会議はけんかの連続です。その一つは1単位でも落とせば進級も卒業もできないという仕組みを巡ってでした。文部省の決まりでさえ、卒業には85単位というのに、この学校では99単位全科目履修修得を義務づけていました。概して勉強が嫌いになった子どもたちが全日制では最後にたどり着く学校で秩序を守るにはやむを得ないと考えたのでしょう。
 そろばんなどで無欠席でも「1」がついて落第留年等ということになります。その昔のように商業高校に来たくて受験したわけではありません。僕は2年生の担任です。学校がつまらない、落第が怖いと言う子どもたちの声に悩みながら、NO!という声を上げつづけました。
 職員会議の中に「追試制度検討委員会」というものが作られ、成績評定の本質にまでさかのぼって調査研究することになりました。学園闘争のさなかです。成績評定の「粉砕」をスローガンに掲げているいくつかの学校の全共闘派の高校生たちの考えも聞きに行きました。やがて「追試制度の改善について」という報告書が作られたり、生徒の側からの行動もあったりして、さまざまな制度改革が行われます。
全都の都立高校の中ではじめて「主任」というものをなくし、すべての教員が対等な立場で生徒と向かい合うという理想に賭ける取り組みもしました。
 僕よりは6歳先輩のYさんはこれらの取り組みに力を割き、職場の合意を作るために尽力したのです。私たち若手だけではできなかったことです。どこか、さめたところ、ニヒルなところがあって、人間不信が根底にあるようでした。それが僕と違うところで果てのない議論になったのでしょう。
 これらの改革を全うする為に僕は70年度、持ち上がるはずの3年の担任を辞することにしました。担任の行動の故にクラスの生徒たちが不利益を被ることを避けたかったことと、孤立しても闘うことができる思想を身につけなければ、子どもたちにとっても単に物わかりのいい教師になってしまうと考えたからです。
 こんな僕のわがままを聞いてYさんが3年の担任をやってくれたのです。僕は教員をやっている間、担任を途中で放棄したこのクラスの生徒たちにいつか、申し開きをしたいと思い続けていました。その願いは僕が定年を迎えた年に実現しました。文京高校でこのクラスのHさんの娘さんと出会ったのがきっかけで、Hさんがクラスメートの消息を捜し捜して、同窓会を開いてくれたのです。
 Yさんは池商の教員を辞し、熊野の山奥に住んでいました。同窓会に誘ったのですが実現しません。あれから5年が経ち、またこのクラスの同窓会をやりたいと聞きました。僕としてはそれまでに熊野を訪ねておきたかったのです。この春にTさんからYさんを訪ねた話を聞きました。そのときがやっときたのです。
 

熊野路(2)

2007-11-18 07:18:14 | 出会いの旅
 14日(水)  柚をたくさんおみやげにもらって吉川さんに別れる。国道371を経て熊野街道へ。熊野古道中辺路という道の駅による。目の前に熊野古道牛馬童子口という標識があったので登ることにする。箸折峠というところまで800m、緩やかな山道。峠に牛と馬を並べてそれにまたがる童子の小さな石像がある。花山法皇の熊野詣の旅姿だとか。平日だが歩く人に幾組か会う。どこにでもあるような山道だが、私たちはこれで熊野古道を歩いたことにする。古道は国道などで分断され歩けるところは限られているが、世界遺産に登録されたせいか、あちこちで整備が進んでいるらしい。
 熊野本宮大社に参詣し、鳥居前のラーメン屋(からす屋)で昼食。美味、足湯を使えるのもよい。ここから歩いて大斎原(おおゆのはら)というところを訪ねる。1889年の大洪水まで大社はここにあったという。広大な熊野川の中州である。社などなかった遠い昔の信仰に興味のある妻はしきりに感心している。山々に囲まれ、清冽な流れのほとりの河原。神様が降りて来るに絶好の地か。今は四周の山は杉の人工林ばかりだが。
          大斎原http://www.mikumano.net/meguri/oyunohara.html
 広々とした河原のつづく熊野川に沿って下り、新宮市の雲取温泉に向かう。途中に桑ノ木の滝というのを見つけたので歩く。滝も素晴らしいが、入り口からつづく山道がずうっと苔蒸していて感動。いにしえの熊野の道は斯くやと。http://www.mikumano.net/meguri/kuwanoki.html

 15日(木)  熊野三山のうち那智大社と新宮の速玉大社は昔、妻の両親や子どもたちと参詣したことがあるので今回は素通り。三重県熊野市の鬼ヶ城に向かう。途中に花の窟(いわや)神社がある。70mもの大岩がご神体。大自然教の信徒としても驚く。http://www.mikumano.net/meguri/hananoiwaya.html
 
 鬼ヶ城は「皆さん元気なうちに訪ねてください」としかいいようがない。熊野灘に突き出た半島がすべてこれ岩山。隆起と波の浸食で巨大な芸術作品の連続。波浪が化石になっているというのだろうか。
 岩山の中腹にえんえん1kmの遊歩道がつづく。私たちはこれを往復して、熊野はこれで堪能したという満足感でいっぱい。中国からの団体旅行の一行がやってきた。入り口でもう写真に夢中の人、ちゃんとその全貌を楽しんでくれただろうか。
 かつてこのあたりには多我丸という海賊が住んでいて、坂上田村麻呂に「征伐」されたという伝説があるという。熊野もまたまつろわぬ民の地であったということだろうか。
   鬼ヶ城/http://www.za.ztv.ne.jp/onigajyo
 尾鷲で昼食ののち、紀州路から伊勢路を走破。夕刻、木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の合流する長島の厚生年金の宿に泊まる。廉価で温泉も食事もグッド。

 16日(金)  前日のうちに木曽三川公園は見ておいたので、近くの船頭平閘門公園を見学。木曽川と長良川をつなぐ運河。明治期に三川分水を指導したレーケの銅像。僕はデレーケと覚えていた。本当はヨハネス・デ・レーケ。
 反対運動で名の知れた長良川河口堰へ。「アクアプラザ」という宣伝館にはいり、河口部の景観を眺めたあと、政府側の説明を見聞。洪水を防ぐためには川底の浚渫が一番、すると海水が上流部まで遡上する、為に塩害が拡大する。これを防ぐために河口部に堰をもうけ海水の進入を防ぐとか。ならばほかの二つの川にはなぜ河口堰を作らないのか。こんな疑問がでてきたのはあとになってから。
 僕は6年ほど前にもここを訪ねたことがある。水を治めるということについて考えさせる壮大なグラウンドである。
  アクアプラザながら http://aquaplaza-nagara.jp/faq/index.html
  長良川河口堰建設をやめさせる市民会議http://nagara.ktroad.ne.jp/
 長良川の土手の上の道をどこまでも北上、岐阜羽島のインターから高速に乗る。開通した八王子JTを経て川越に着いたのは夕刻である。
 

熊野路(1)

2007-11-17 15:46:38 | 出会いの旅
昨夕、川越に帰り着きました。気温が低いので体調を崩さないようにしなければと思っています。忘れないうちにこの一週間のメモ。

 10日(土)   室戸岬小卒業53周年同窓会。室戸・太田旅館、集うもの30余名。関東、関西、高知などからも駆けつける。差別に起因する貧困などのため登校できず、人生ではじめて会う同窓生もいる。関東からは公夫君のほか敏明君夫妻の姿、北海道出身という夫人が室戸をはじめて訪ねてくれた。真夜中まで尽きぬ話。
 11日(日)  闘病中の桂子おばを見舞う。僕が送ったシベリア抑留者の絵画集を側に置いてくれている。シベリアで苦労した夫であった春利さんの生活が偲ばれるからであろう。昼過ぎ高知へ。
 夜、一郎・章子夫妻が宣彦君にも声をかけてくれてミニ同窓会(中高)。会場がなんと得月楼。宮尾登美子さんの作品に登場する高知でもっとも知られた料亭。夏に見た魚梁瀬杉で作られた豪壮な天井の大広間など僕には縁のなかった世界にはいる。室戸のマグロ漁が盛んだった頃は船主は競ってここでお客をしたと聞いた。
章子さんが倫子をいっぺんこんな世界に案内したかったのだろう。地元の縁で庶民価格とかだが仲居さんが酒席の遊びをいろいろ教えてくれる。

 12日(月) 徳島からフェリーで和歌山へ。海南市の藤白神社。熊野99王子の藤白王子跡という。王子というのは熊野権現の分社で参詣者の休憩所の役割も果たした。熊野古道はここから。神域に楠の大木。南方熊楠の名はこの楠からという。 
 藤白神社(熊野古道)http://www.asahi-net.or.jp/~pf8k-mtmt/kodoh/kainan/fujisiro


  近くに鈴木屋敷あと。全国の鈴木さんの発祥地とか。熊野信仰を支えた家系の一つで参詣者の案内、お札の頒布などで活躍したらしい。僕の故郷・室戸岬町津呂の氏神は王子宮という。どんな関わりがあったのだろうか。鯨捕りは江戸時代に紀州の太地のひとびとが大挙してやってきて教えてくれた。
 醤油発祥の地であるという湯浅の町並みを歩き、たまりや金山寺みそを買う。室町のころ、覚心という留学僧が南宋から伝えたという。車からおりると醤油の匂いが漂う心地よい町並み。
        湯浅 http://www.asahi-net.or.jp/~fw5k-nkmr/yuas.htm     

 隣の広川町にある浜口梧陵が作ったという大堤防を見学。津波に苦しんだ村々を通って南部(みなべ)の国民宿舎泊まり。
 浜口梧陵 http://www.bo-sai.co.jp/hamagutigoryou.htm
 
 13日(火) 田辺の天神崎。元島を歩いたあと、日和山に登る。日本のナショナルトラスト運動の先駆けの地。
 天神崎 http://www.tanabe-kanko.jp/midokoro/tenjinzaki/index.htm

 午後は白浜の番所崎公園にある南方熊楠記念館。僕はこの人を研究したことのない割に、授業ではよく紹介してきた。生態系という言葉と共に記憶されている。若い頃からさまざまな本を読んではそれを筆写した。頭に入れてきて、記憶に頼りながら書き写したというから凄い。大英博物館でも同様のことをやったらしい。小さい字でびっしりとつづられたノート。19の言語に通じていたという。書いて覚えるということの大切さ。屋上からながめる田辺湾の景観も見事。

南方熊楠記念館 http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/   


 白浜のとれとれ市場で昼食後、旧大塔村(今は田辺市)にYさんを訪ねる。熊野街道(国道 311)の下附から県道221で合川(ごうかわ)ダムまではよかったが、それから先の串本に抜けるという国道371が大変。真っ暗な杉の人工林の中、行けども行けども人家らしいものはない。山道のベテラン運転手の妻もだいぶ不安になってきたころ、やっとその家にたどり着いた。
 Yさんは20余年前、教職を辞し、この谷間の村に移り住んだ人である。今回の旅の目的はこの先輩を訪ねることだ。仙人と化した徹さんとの再会については後日を期すことにしよう。

故郷を離れる日

2007-11-11 12:35:26 | ふるさと 土佐・室戸
 昨夜は小学校の同窓会で遅くまで交流しました。今日はこれから高知市にむかい、高校の同級生と夕食会。明日、紀州熊野に向かいます。旧同僚のYさんを訪ねたり、熊野本宮に参詣して週末に川越に帰る予定です。
 同窓会の様子など書いておきたいことがありますが他日を期すことにします。8月からの父のくれた2次に亙る故郷滞在もこれでおしまいです。今朝ほど咲子さんが差し入れてくれた鯖を兄が味噌煮してくれたのを美味しくいただいて旅立つことにします。

門井豊秋君の訃報

2007-11-10 10:37:31 | 友人たち
 このところ気象条件がよく、6日の昼前には、足摺岬かと思われる山陰が見え、娘や松山の将史兄さん夫妻と新港の波止場からながめました。室戸岬から水平線に広がる空は時々刻々変化する雲の芸術です。
 8日夜、大島高校で最初にHR担任をした門井豊秋君の訃報を聞きました。9日夜、兄の雄作君とやっと電話が通じました。兄の店の経営を裏で支える一方、島の産業振興のため、観光協会や商工会のリーダーとして活躍し、東京都レベルの副会長としても忙しい日々を送っていたようです。泉津地区のお年寄りに自分で作った食事を差し入れる活動を続けるなど島と島の人々をを心から愛し、その役に立つことを喜びにしていました。気づいたときは末期ガンで余命2ヶ月の宣告。もう少し生きたいと語ったということです。
 弟の死に兄は打ちのめされているようでした。店の経営も人生も二人三脚だったのです。海に潜る漁師でもあった豊秋君の棺は泉津海岸にも運ばれ、愛する海にも別れを告げたそうです。
 3月に訪ねたときに会うことが出来ず、僕の最初の生徒である雄作君にもてなしてもらいました。1998年暮れ、文京高校1年G組の大島の旅で世話になったのが最後になりました。僕よりは9歳若く、働き盛りです。さぞ悔しかったに違いありません。
 遥か室戸の地から豊秋君の誠実な人生に心から敬意を表し、トヨの霊の安らかなることを祈ります。僕は一人泣いております。同級の人達も同じでしょう。
 

米倉先生の弔辞

2007-11-08 11:44:08 | 父・家族・自分
 
4日通夜、5日葬式と、父を送る儀式が無事終了し、娘が川越に帰ったのを最後に遠くから来てくれた親族も皆いなくなりました。僕は昨日、娘を高知空港に送った後、通夜に顔を出してくれた旧友であり、父の元主治医であったT君の家を訪ね感謝の言葉を伝えてきました。ご本人は仕事で不在ですがS 子夫人が長時間応対してくれました。S子さんとももう30余年の付き合いです。妻と二人、女性同士の会話が弾み、僕はたいてい聞いているだけですが、いい女性と出会ったなーと改めて敬意を抱きました。私たちは妻でもっているのです。
 葬儀では父の後輩である米倉益(すすむ)先生の別れの言葉が心に響きました。先生は室戸小、佐喜浜中で父の同僚、年は19歳下です。今は障害を持つ人々の施設「はまゆう園」の園長さんです。
 父を慕って室戸小に赴任し、奥さんともそこで出会いました。学校の職員室での結婚式はいまどきの何億もかけた著名人のそれよりも遥かにすばらしかったと誇らしげに語ります。マイクも持たず、原稿なしで会場に響き渡る肉声で父に語る言葉は為やんを愛し、尊敬する人の熱情に満ちています。
 父は校長として、先生方一人ひとりを信頼し、その実践を励まし、見守るような
存在であったようです。米倉さんが「荒れる」子供の心に思いいたり、障害を持つAくんと歩み始めたとき、それを支持し、学校全体の取り組みへと導いてくれたそうです。Aくんは卒業にあたり自分の創作物を、校長先生にと言って父に渡し、一生懸命働く人になりますと述べたということです。Aくんは、「校長先生」とは幾度も会っていたわけでなく、また、父も、そのときはすでに他校に転勤していたのです。米倉先生の今日まで続く障害児教育の原点はここにあるらしい。
 先生方にあれこれと指示することはほとんどなかった。憲法記念日が近づくと「憲法をしっかり教えていますか」と問いかけるときを除いて。
 父は昭和のはじめ、浜口内閣が教員の給料を全国一律に削減しようとしたとき、郡の教員の会議でこれに反対する決議を提案しようとした。父の勤めていた羽根村のように極貧の村の教員の給料は他に比べて低く、ただでさえ困窮していたのです。
 この企てを知った校長たちは恐れおののいて、父の説得に当たった。共産党と間違われて君の未来が危うくなるという人もいた。結局、自分がかわいい校長たちに丸め込まれたらしいが、国民の教育条件に差別があってはならないという父の信念は益々強まった。
 こんな父にとって、戦後の新しい憲法は血肉のようなもので決して譲り渡すことの出来ないものだったと、米倉先生は父の言葉を引きながらその思いを語りました。
 
 先生は障害者とともに歩む長い功労のゆえに先日、知事の表彰を受けられました。その朝の新聞で父の訃報に接したそうです。橋本知事の横に父の姿が確かにあったと話されました。
 
 こうやって文章をつづりながら、僕も米倉先生のように、尊敬する先輩を心をこめて送りたいものだと思います。他の人がどのように評価しようが、自分にとっては本当に大切な人。その思いを生きているうちに届けることはもちろんですが、出来ることなら人々に聞いてほしいものだとも思わされたのです。

 葬式の前後にいろいろな話を聞きました。父は学校で赤ちゃんの子守もしていたそうです。託児所のなかった時代、乳飲み子を抱えて出勤する女先生の授業中、赤ちゃんを抱えて過ごしたのです。校舎の補修に明け暮れた話は聞いたことがありますがこれは初めてです。嬉しくなりました。
 教員生活の半分以上が「校長」です。僕がいつになったら校長になれるのかと心配していたフシがあります。そのうちにあきらめたのか、啓介はいつも子供たちと一緒でいいなーというようになりました。僕は父にまつわるいくつかのエピソードを聞いて、父の校長生活も先生方や子供たちとともにある充実感に満ちたものであったろうと思うことが出来るようになりました。
 

父逝く

2007-11-02 10:53:04 | 父・家族・自分
 父・為利は11月1日午前9時12分に死去しました。10月22日に100歳を迎えたばかりでした。8月からは眠ったままで、10月31日の弟の命日の直後に逝ったことになります。母・直恵の死(1996・10・27)からは11年が経ちました。
 2年前の誕生日に白寿の祝いということで知友を招いてお客をしました。朴保くんにも来ていただいて「鯨捕りの唄」「ひろしま」など歌ってもらいました。私たちとしては生前葬のつもりでもありました。父は皆さんの前に元気な姿をみせ、お礼の言葉も述べました。でも、やはりここまででした。
 その直後に僕は入院、手術ということになり、翌年一月に元気な姿をみせようと帰郷したときには会話は困難になっていました。「生ある限り生きなきゃならない」と確かに聞いた気はしますが、生きるのはたいへんそうに見えました。
 父の世話になりながら役に立つことはなにもできませんでした。ずうっと父に付き添った姉に感謝するばかりです。長生きしてくれたおかげで、出不精の父を引っ張り出して何度か旅をしたり、帰省のたびに体験談を聞いたりしたこと、そのくらいです。戦争や教育に関わる体験談は何回か収録し、本にできないかと考えたのですが放置したままです。
 「為やんはまじめだから直恵は幸せだ」と横浜に住んでいた平野のばあさんからきいたことがあります。夫の「女遊び」に泣かされたじぶんの体験と共に。確かにそんな人でした。妻を喪ったとき「より良い半分をなくしてさびしい」とみんなの前で語ったのでした。
 その妻の元にようやく帰ることができたのです。長い人生、本当にお疲れさま。
感謝と共にその健闘にねぎらいの言葉を贈りたいです。
 
 10月中は皆さんに心配をかけました。体調もよくなってきましたので、父の野辺の送りに高知県室戸岬に帰ってきます。10日には室戸岬小学校の同窓会もあります。川越に戻るのは中旬になります。パソコンは毎日使えますので、また室戸便りを書きたいと思います。どうぞよろしく。