4月29日(祝)晴
レンタカーで栄子さんを鳩山に案内しました。農村公園から高野倉自然公園へ。連休の賑わいとは縁のない別天地です。
八幡さんのイチイの巨木の近くでお弁当としました。
四国88ヶ所巡りの板碑が続く小山に登ってみました。後続の女性たちがやって来ません。
なんと野草摘みに夢中だったのです。
僕は疲れて頂上のベンチに仰向けに寝てしばしまどろむ。目を開けると見える世界です。
女性たちの野草摘みはますます佳境に入ります。水辺でセリを取りたいと言うので、黒石神社に案内しました。
僕の探索でみずみずしいセリの群生を見つけました。おかげで僕も野草摘みの体験をしました。
女性たちの収獲。
山椒 スイゴボウの蕾 フキ ワラビ ゼンマイ アザミ タンポポ 野蒜(のびる) セリ
栄子さんは北朝鮮で飢餓地獄を生き抜いた人です。山野草にかかわる知識も並大抵ではありません。いつもながら妻はしっかり学んだようです。
腐葉土も燃料として燃やしてしまうので、北朝鮮の山はハゲ山ばかりだといいます。
最高の休日になったと栄子さんが喜んでくれて何よりでした。
4月28日(日)晴
池袋商高OG三人が来てくれ11時前から夜まで飽くことなくそれぞれの人生の話を交流しました。
由美子さん 幸月さん 小百合さん。 フォークソング部の面々。7年ぶりの「お見舞い」だといって柴又・帝釈天のお守りを頂いてきてくれました。
それぞれが自分の人生を精一杯生きている様子でうれしくなります。大崎博澄さんの詩「おとなになっていくキミへ」を娘さんに贈った幸月さんの縁で詩集『人生の扉はひとつじゃない』を紹介しました。みんなに喜ばれて何よりです。
夕方になると栄子さんも加わって高校生の時、北朝鮮に渡って以来の半生を語ってくれました。
いつ果てるとも知れない語らいに目を潤ませたり、笑いを爆発させたりの一日でした。
4月28日(日)晴
1952年4月28日は連合国軍の日本占領が終結し、日本国が独立した日です。「独立記念日」なのですが祝日にもなっておらず、「独立」についての話を聞くこともありません。
安倍政権になって急に「主権回復記念式典」を政府主催でやるといいます。61年目になってなぜ「主権回復」などという聞きなれない式典をやるのでしょう?
やるなら「独立記念日」を国民の祝日として制定した上で祝賀式典をやればいいのです。本当はそうしたいがそうはいかないのでこんな形になったのでしょうか。
そもそも「4・28」を巡ってはその始まりから国論は分裂し、対立抗争の火種です。
連合国との講和条約といっても中国は最初から除外されていました。
中国は日本の侵略を受け、計り知れない被害をこうむりました。この国を除外して「講和」条約を結ぶというのですから無理な話です。
当時は朝鮮戦争の最中です。米中は朝鮮半島で死闘を繰り広げていました。アメリカからすれば中国に続いて朝鮮が共産主義の手に落ちるのをなんとしても防がなければならなかったのです。日本の左翼を弾圧してでも、日本をなんとしてもアメリカ陣営の反共産主義の砦にしたかったのでしょう。
講和条約の締結と同時に日米安保条約を結んで米軍の駐留を正当化し、朝鮮戦争の基地として活用しました。
日本国内における左派陣営の抵抗が5・1「メーデー事件」を引き起こしました。サンフランシスコ体制(両条約はサンフランシスコで調印された)に我慢がならなかった人びとがメーデーの行進のあと皇居前広場に乱入して、警官隊と衝突する大惨事となったのです。日本の基地から出撃する米軍に抗議する在日朝鮮人の比率が高かったと聞きます。
「独立」というよりも日本がはっきりとアメリカ陣営に与し、反共の道を選んだ(選ばされた)日といったほうが事実に近いのかと思います。
「全面講和」(中ソを含む全交戦国との講和)を叫ぶ声が保守的な室戸の町でも聞かれたように記憶しています。港の上で「吉田内閣打倒!」を叫ぶ人がいたのもこのときだったかな?
吉田茂首相は高知県の選出です。それでも吉田内閣はもういいというような気持ちに小学生の僕もなっていたように思います。
少年時代から僕は「積極中立論者」でした。日本は米ソ(中)のいずれの陣営にも属さず、「非武装中立」の平和国家であれ、というものです。それが憲法の指し示す道で世界平和に積極的に貢献する道だとも思っていたのです。
しかし、この60年、少年の思いは夢にとどまり続け、現実の日本は「日米同盟」の強化を推し進める保守陣営が支配し続けてきました。社会主義の崩壊後は緊張が緩和すると思いきや中国の大国化に対抗して、自主国防論・核武装論までが台頭する気配です。安倍首相はこういう流れの中心にいる人のように見えます。
僕の「中立論」が中・ソ・北朝鮮などの「社会主義」への幻想の上にあったことは今日でははっきりしています。国際共産主義運動が朝鮮戦争を発動し、武力で朝鮮の「統一」を図っていたのです。当時の吉田首相が全面講和論を主張する南原繁・東大学長を「曲学阿世」と罵った気持ちを今ではいくらか理解することができます。
これからの日本はどうあったらいいのか?北朝鮮・中国とどうむきあっていけばいいのか?本当に安倍さんに国の舵取りを任せていいのか?
沖縄の人びとの多くが今日の式典にNO!といっているようです。「4・28」以後、「銃剣とブルドーザー」で米軍のやりたい放題にやられたのですから、知らん振りを決め込んだ「日本」の独立に異議を申し立てるのは当然です。
沖縄の人びとのNO!をきちんと受け止めながら、わたしたちも国の進路についてよほど考えてみなくてはなりません。
4月25日(木)晴
木曜日は中国家庭料理「家園」の定休日だ。主人夫妻と東松山の物見山公園につつじ見物に出かけた。
忙しい日が続くお二人は今春始めての野遊びで主人が子どものように飛び跳ねて喜ぶ。
平和資料館も訪ねてみたがこちらはリフォームで休館中。それでも森の散歩道は新緑で気分爽快。
正面参道から岩殿観音に参詣。美しい門前町のたたずまいがお2人を喜ばせた。
境内の大銀杏。抗がん剤をやめて10日、けさ一年数ヶ月ぶりにカミソリを当ててもらったので顔がちょっとすっきりしたかな。巨木の精を頂いて元気に散歩終了。
今日は愛知の娘からお2人にプレゼントが届いた。「家園」の宣伝ちらしの版下。
ビラができたら僕も町内をあるいてポスティングする。中国家庭料理「家園」の存在がもっともっと人びとに知られますように!
4月24日(水)曇一時雨
善光寺の若麻績さんがfacebookで「出開帳」というものが行われると教えてくれました。
何だろう?
出典●http://ekoin.or.jp/event201301/
ご本尊の仏さまなどに出張してもらってお寺の所在地でない都市部などでおまいりしてもらうことのようです。江戸時代に善光寺の出開帳が行われたときにはなんと1600万人以上の人が参詣したとか。本当とはとても思えない?
今回も両国の回向院(えこういん)で開帳されるということです。
振袖火事の無縁仏を供養する寺として創建されたところです。東日本大震災の犠牲者の供養の場所として東京ではやはりここがふさわしいのでしょう。
原発の再稼動など恐れを知らぬ金権亡者が蠢動(さんどう)しています。生きとし生けるものへの慈悲を説くはずの仏教の徒は何をしているのかと僕はいぶかっています。
この大事業を発案した善光寺と回向院の僧侶たちの思いはどんなものなのでしょう。法話をはじめさまざまな企画がされているようです。
東日本大震災は空前の大災害です。今回の出開帳が今を生きるわたしたちの生き方を問い返すきっかけになってくれるといいなと思います。
27日からです。僕もおまいりに行きます。
関連「川越だより」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/8f3c9d97dbdfda79a0a731df017ffe49
4月23日(火)うす曇り
久しぶりに自転車道で狭山・智光山公園を訪ねてゆっくり散歩。ちょうどお昼ということでグループでお弁当にする風景があちこちで見られた。
ハンカチの木。大きいほうの木の「ハンカチ」はもう終わっていた。白い花苞がひらひらするとハンカチがたれているようにみえる。隣のユリノキの花もおしまい。
どこもかしこも新緑がみずみずしい。目立つのはハナミズキの白い花。
この公園には落葉樹の雑木林があちこちにあってまるで里山の散歩をするような喜びがある。ほかの人にどんどん追い抜かれていく頼りない歩みだが、僕としては元気よく歩いた。
柏原の「えび善」でコロッケを買おうと寄ってみたら、なんと店じまい。高校の同期生の米沢くんも歳を感じたのかな。
1960年4月21日の日記の続きです。
大学に入ってマルクス主義の洗礼を受ける前の僕の社会認識がつづられています。韓国の4・19学生革命と日本の安保闘争の最中です。
中産階級の勃興がイギリスで話題になっているなど、マルクスの考えた資本主義の自滅は現在まだ考えられない。しかし、資本主義は次第に社会主義に変わりつつあることは事実だ。社会保障制度の進歩などは両社会の接近を示すものだろう。
共産主義の社会には自由の制限があるという。国家がある程度の個人の自由の提供によって成立する以上当然ではあろうが、社会主義の国ではそれが資本主義国より強いことは事実だろう。しかし、生産の向上と国力の充実とともに解消されるだろう。
資本主義社会には大幅な自由が許されている。しかし、無茶な自由競争によって、労働者の労働条件は悪化し、生産品の販路を失う。そして多数の貧民を出す。
自由が与えられていてもそれを生かすことができない。これはまた大きな自由の束縛ではないだろうか。資本主義社会はそこも是正しなければならない。どうやって是正するのか。
岸政府は貧乏の追放を言い出したが貧乏は少なくなったか。かえって多くなったかも知れないだろう。資本主義の仕組みでは貧乏はなくならないことは明白だ。歴史が証明している。そこには計画経済など社会主義的な方法が必要になる。
資本主義は社会主義に接近していくことになろう。そして社会主義も資本主義を放逐することはできまい。どちらもの利点をとりあって新しい世界を作り上げなければなるまい。社会主義も資本主義もないのである。
アメリカににも強くそれを望む。共産圏敵視をやめること。韓国や日本に米軍がいる必要はない。(略)
この事件の解決はしたがって李政府の即時退陣、正副大統領選挙のやり直しはもちろんであるが、結局は、在韓米軍の撤退、朝鮮の統一よりほかにあるまいと思う。
もし、韓国政府が国民の目をそらそうとして、北進や李ライン強化の無茶をやれば、この傷はますます深くなっていくだろうし、北進の前に韓国はより大規模な内乱になろう。軍隊が李承晩の命令に反するかもしれないからだ。
韓国国民は北鮮国民と同胞である。平和的統一を願っていることだろう。それを一部の者たちが阻止している。李政府はそれであり、そのもとはアメリカであるかもしれない。自分たちの利益のために韓国や朝鮮の人びとを欺いているのだろう。
今、韓国と北鮮と、どちらが好きかと問われたら、恐らく、北と答えるに違いない。民主主義国韓国には民主主義がないし、共産主義社会主義国北鮮には夢や希望があるのだから。そして、恐らく朝鮮は金日成によって統一されたほうがずっといい国になろう。朝鮮人民の大半がそう念じているように思えてならない。(略)
民主党政権ができれば北鮮との話し合いも可能かも知れない。そして一日も早く、朝鮮の人たちが手に手を取って祖国の創建に立ち上がってほしい。隣人として特に強く朝鮮の人たちを知っている自分は強く希求する。
日本はかつて朝鮮の国土を踏みにじった。それは自分たちがしたことではなく、一世代前の大人たちがしたことだ。しかし、自分たちはその子孫である。その責任は回避すべきではない。強く立ち上がって成立した統一朝鮮には物心両面の協力を申し出て前科を償うべきである。
それまでには日本にも真の民主主義が育成されねばならぬ。岸政府ではだめだ。朝鮮の二の舞を演じぬように日本こそデモクラシーのルールに沿った革命を成就すべきだ。
道は遠いかもしれない。しかし、幸福追求は自分たちの権利だ。朝鮮の事件を単によそ事と見るだけでなく、日本の国にてらしてもかんがえてみるべきである。
今ごろ岸さんは首をちぢこめているかもしれない。あるいはまた、これだからこそ、自衛隊を強化し、警職法を改定し、安保強化をしなければならないと考えているのかもしれない。
願わくば日本のために第二の李承晩にならぬように。(以下略)
高校を終えたばかりの僕の朝鮮認識・世界認識はこんな感じだったことがわかった。
同じ時代を生きた読者はどう感じられただろうか。
4月22日(月)晴
昨日までと打って変わって気持ちの良い青空。風があるので外には出られません。
昨日作成した『きいちご』11号を午前中に発送しました。5月19日の「きいちご散歩教室・浜離宮公園」のお知らせが中心です。昨年11月の「移動教室・いわき」以来半年振りに知友に会えるかと今から楽しみです。
一応庭の卯の花(うつぎの花)が咲き始めました。やっぱり、あの唄を思い出しますね。
「夏は来ぬ」●http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/natsuwa.html
昨秋、伊勢路の石薬師宿で作詞者・佐々木信綱の記念館を訪ねました。この季節に行ってみたいなあ。隣の関宿も。
関連「川越だより」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/5dadf48c0a77528f96b7a3a2c8240b16
昨夜から今日にかけて満智子さん、亜子ちゃん(遠戚)、桂子さん(文京高OG)、小百合さん(池袋商高OG)と電話で話す機会がありました。「卯の花」の季節のうちに遊びに来てくれるかな。
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4月20日(土)雨 寒い
韓国の学生革命の記事を書いた後、1960年4月の僕の日記を読んでみました。東京教育大学の入試に失敗して室戸岬の生家に帰っていました。おかげで「安保闘争」に直接巻き込まれることなく、四国の東南端から世界を見ていました。悶々の日々でした。
1960・4・21(木) 南ア 韓国 日本 北鮮(原文のまま)
(9Pに及ぶ日記の一部)
帰還朝鮮人の伝える北鮮はすばらしい祖国だという。第一、青年に夢があるという。金日成首相が国民の圧倒的支持を受けて社会主義建設に邁進しているという。視察に行った自民党員でさえ驚いているのだから嘘ではあるまい。
夢があり、希望がある国には発達がある。そして、北鮮に帰った人たちは、日本に追いつき追い越せという祖国の旗の下に毎日が本当に楽しいという。日本とも仲良くなるように努力するだろう。今でも北鮮との通商を拒絶しているのは岸首相である。日本である。
全朝鮮を統一する国家が暗黒の李政権であるか、民主政治といわれる北鮮の人民たちか、明白であろう。米韓条約で米軍が駐在しているので韓国の独立は保たれているに過ぎない。韓国人民の意志は在韓アメリカ軍のために無視されているのかもしれない。アメリカ軍がいなければ朝鮮は恐らく統一されていることだろう。民主主義が守られる社会ができつつあったはずである。
社会主義と資本主義は、どちらがいいとは簡単にはいえないし、自分たちにはなおわからない。しかし、夢があり希望がある社会がいいに決まっている。一つの壁を越えればその希望に達することができるなら、壁を越える苦労は喜んでするに決まっている。
現在の資本主義国に夢や希望があるか。ないからこそ、青少年が不健全化しているのではないか。暴力と汚職と貧乏が、この国の発展を阻止しているのではないか。
でも、また、それだからこそ夢を持たねばならないのかもしれない。この壁を越えて自分たちが夢を持てる社会をきづく夢を持つことが必要なのかも知れない。夢のない中に夢を持つ、大変なことだ。(略)革命を前提とすることになるだろうか。それならば夢のない社会に夢を持つことは大きな勇気のいることだ。韓国の立ち上がった人々はその勇気を示したことになる。
(略)アメリカは民主主義の国である。自分はそう信じる。(略)しかし、米は自分たちの信ずるデモクラシーのみを正しいと信じ、他のデモクラシーを認めない。そして自分の民主主義を守るために各地に軍隊を駐留させているのではあるまいか。時にはそれが各国の民主的傾向を阻害しながら。日米安保条約、米韓条約…。
アメリカの共産圏を恐れる政策が韓国や日本ではその為政者の利益に結びついて、内政にも大きな干渉をする結果となっている。アメリカは民主主義を守るためだろうけれど、かえって、韓国や日本で民主主義が守られなくなっていくばかりである。共産圏の脅威からたとえ韓日を守っていると考えるとしても、韓国や日本で民主主義が守られないとしたら何の役に立とう。
僕は同級生の中では社会的関心が強く、社会科は得意な科目だった。県立高校とは違って政治的には保守的な学校だったから「社会主義」的傾向を有する先生には出会わなかった。
僕の社会的思考の資料は教科書・授業で培った知識と新聞・NHK(ラジオ)と映画ぐらいであった。春夏冬の休みには室戸岬の生家で父の購読する雑誌『世界』『文芸春秋』を読むこともあったからこれらの影響も受けているだろう。
在日コリアンの北朝鮮帰還は前年(1959)の12月に始まって怒涛のような勢いで進んでいた。新聞やラジオが伝える「北」の情報がどんなものだったか、この高校生の日記からも推し量ることができる。
僕は今北朝鮮から脱出してきたKさんの話を聞く機会が多い。60年に高校生の身で「社会主義」にあこがれて「北」にわたった。日本の中学でも朝鮮高校でも飛びぬけた優等生だった。
船に乗り、「北」の地に着いたそのときから、だまされたことに気づき、「自分」を押し殺して生きる決意をしたという。
「北」の宣伝に明け暮れ帰還運動を推進した朝鮮総連や共産党の責任はいうまでもないが日本のマスコミや政治家たちの言動の罪も深い。
判断力の乏しい僕のような高校生の世界観形成に大きな影響を与えたのである。恐ろしいことにその影響は僕の人生のかなりの期間に及んだ。
僕は2002年9月17日を期して、北朝鮮王朝とその追随者たちにはっきりと立ち向かうことにした。その結果としてKさんたちとの出会いもあった。それまでにどれだけ多くの人びとの苦難と犠牲を見過ごしてきたことか。
僕が見ている限り、2013年の今になっても高校生や大学生だった60年代に植えつけられた朝鮮観・世界観から自由になれない人が少なくないような気がする。それらの人びとは相変わらず朝鮮総連の随伴者となって「朝鮮学校を差別するな」などと本質とは離れた宣伝に和している。僕には偽善者の最たるものに見える。
青年期に受けた思想的影響から自由になることは困難だ。まして、幼少期から特定の宗教やドグマに縛られて育ったらどういうことになるのか。その罪の深さに慄然とするばかりだ。
(日記では「北朝鮮」を「北鮮」と書いています。当時の新聞やNHKの受け売りをそのままに書いたものと思われます。「朝鮮人」を「鮮人」などと表現するのと同様で植民地支配の時代に由来する侮蔑的表現と考えられます。)
4月19日(金)曇
1960年の4月19日は韓国の学生革命が最高潮に達した日です。大統領選挙の不正に抗議するデモがやがて李承晩大統領を退陣に追い込み長く続いた独裁政治を終結させたのです。
先日Facebookで石丸次郎さんの短い文章を読みました。
Jiro Ishimaru
木曜日.スーチーさんの京都講演要旨。「ビルマでは半世紀に及ぶ軍事政権支配で独裁的な考え方が形成されたが、民主国家になるにはそうした思考法を変える必要がある。それを早くできるのは女性だ。女性は男性ほど軍事政権の影響を受けていない」。北朝鮮にも繋がる。独裁による思考や心の歪はあまりに深い。
スーチーさんの講演内容は詳しくはわかりませんが「独裁による思考や心の歪み」を是正する困難が指摘されていることに共感しました。
北朝鮮の場合は半世紀などという代物ではありません。李朝・日帝時代・ソ連時代・金王朝と「独裁政治」は連綿と続いており、人びとに「民主国家」の体験がありません。
国を固く閉ざした歴史が長いので民主主義の思想に触れることができた人もほとんどいないと思われます。儒教・天皇制イデオロギー・スターリン主義・金日成主義と人民を「奴隷」の地位におしとどめ、体制への忠誠心を煽り立てるイデオロギー教育が幅を利かせました。
北朝鮮の内側から独裁に立ち向かうのはほとんど不可能といわれるのは「思考や心の歪み」の深刻さからも理解できることです。
文字を持ち学問がある人ほど体制の思想を身に着ける運命にあり、「思想や心の歪み」が顕著になります。女性差別のゆえに学問から縁が遠く、体制の思想に毒される程度が低い女性に民主主義思想への変革の可能性が高いというスーチーさんの見立ては、当たっているかもしれません。
北朝鮮にもそうした指摘が当てはまるのでしょうか。
先日、脱北してきた女性の話を聞く機会がありました。
「朝鮮学校の女教員と話してびっくりしました」「日本で生まれて日本で育ったのに言っていることが北朝鮮の教員とまったく変わらないのです」「一体どういうことでしょう」
幼稚園から朝鮮大学校まで優等生で過ごしたら日本に生まれ育ってもきちんと体制の思想を身につけた金王朝の忠臣に錬成されるのでしょう、か。
僕はもう20年近く朝鮮学校の教員と話をしたこともないのでちょっと実態がわかりません。面従腹背で日々を送っている人も少なくないのではと思ったりするのです。罪の深さには変わりありませんが…。
それにしてもと思います。
金王朝の独裁は李承晩や朴正煕のそれと比較することができない徹底したものです。平時に300万人もの餓死者を出しても王朝を守るための核武装に狂奔する始末です。
どうしたら独裁を終わらせることができるか、在日コリアンも日本人も徹底した議論と行動を起こさなければなりません。70年代から80年代にかけて「韓国民主化」に青春をかけた人々はどこに行ってしまったのでしょう。
風もなく暑くなりそうなので自転車漕ぎに挑戦する。子ども動物自然公園をめざす。
入間川、越辺川の土手の菜の花がまだまだ美しい。今日も散歩中の保育園の子どもたちにあった。
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川島の子どもはいいね、と言ったら相づちを打ってくれる方がいた。宮崎県の都井岬の出身だという。「それでもいまは母親に怒られるんですよ」「服を汚したと言って」。
昔、妻からも聞いた話だ。馬鹿な親だ。世に馬鹿がはびこる原点はここにある、か。
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動物園の前の「喜楽」でラーメンを食べた。坂東33観音巡りをしていた洪さんが推奨していた店ではないか。
「行ってきたよ」と報告する人は何処かへ逝ってしまった。
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ベンチに仰向けに寝てしばしまどろむ。地上の楽園。こんな風景が目に入った。
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帰りはやや向かい風となったが今日は元気があった。
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昼前後に近所の散歩。家園~ヤオコー美術館~氷川神社~川越市役所~新河岸川遊歩道。
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保育園の子どもたちの散歩風景に出会った。石垣を一生懸命よじ登る女の子。いいね。
午後になると一時強風が吹き付けてコリンゴの花びらは吹き飛んでしまった。
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小散歩だが疲れが出たのか目の周りにクマができているといわれた。あとは寝てばかり。ちょっと元気の出ない一日だった。
4月15日(月)晴
前日の強い風でコリンゴの花びらが宙に舞いました。新緑へと季節が移っていきます。
昼過ぎ、癌研有明病院の西尾誠人医師の診断がありました。
「CT画像で見る限り、右肺に転移したガンは3ヶ月前よりは確実に増殖しており、抗がん剤”タルセバ”の効能はなくなったと考えられる」
先生からは新たな抗がん剤治療の提案もありましたがどれも確実に効き目があるとはいえません。副作用や体力の消耗を考えるとここら
で抗がん剤治療を休止するのが妥当かと考えました。先生も理解してくれ、ともかく一ヶ月、抗がん剤と縁のない生活を送ってみることにし
ました。
左肺摘出手術から7年4ヶ月、右肺転移から5年余りです。抗がん剤の点滴・服用を続けながら何とか元気に生きることができました。ここ
までこられたのは「僥倖」だと元主治医の中川医師は言ってくれました。いやな顔一つせず付き合ってくれた友人たちや四六時中付き添っ
てくれた妻のおかげだと思っています。各地の美しい風景やきれいな大気も応援してくれました。
親にもらった丈夫な骨格のおかげで片肺でも自転車や散歩に挑戦することができました。これらのすべてが僕の闘病を助けてくれたので
す。
これからも生活のありように変化はありません。いくらか疲れやすくなったかな、という感じはありますが、許される限り動き回りたいと思って
います。「命ある限り生きなきゃならない」。父の言葉を思い起こしながらあれこれと楽しい計画を練っています。これからもどうぞよろしく。
午後、Rさん一家に招かれて昼食のご馳走になりました。
「参鶏湯(さんげたん)」。ソラさんは烏骨鶏(うこっけい)丸ごと一羽ずつを調理して待っていてくれました。
近頃食が細くなって、本当に食べきれるかと思ったものですが、なんと見事に平らげてしまいました。われながら天晴れ!
妻の証言によれば僕がこのようにきちんと食べつくしたのは初めてだとのことです。
好き嫌いの激しいのが僕の欠点で自分から参鶏湯を注文することはありません。
ところがどうでしょう。この日は違いました。食べていくうちに美味しさが徐々に徐々にわかってきて本当にどんぶり一杯をきちんと食べるこ
とができたのです。
ソラさんの思いが一杯につまったご馳走だったからに違いありません。
今回の故郷滞在では「ニューサンパレスむろと」に泊めてもらいました。
昔の船員保険保養施設をリニューワルして高知市の医療機関が管理運営しているようです。
●http://newsunpalace-muroto.com/
アトピーなどの療養のための滞在型の保健施設ですが室戸岬をゆっくり楽しみたい人も泊めてくれます。
姉や兄も高齢化して甘えても居れないので今回の帰郷では実家滞在は一日だけとし、ここで4日間世話になりました。
室戸中央公園の只中にあり環境は抜群です。体力と気力を恢復する目的にふさわしく施設も行き届いた配慮がされています。
お願いすれば海洋深層水のお風呂を立ててくれます。抗がん剤の副作用でしびれたままの僕の下肢には塩分が浸み込んでいくような感覚があって心地の良い湯です。
朝食もお願いしました。室戸の野菜と魚を素材にして地元の村の主婦でもあるかたがたが病院の栄養士の指導を受けながら調理しています。僕にはまことに心のこもったご馳走でした。
せっかく室戸を訪ねたからにはこんなところに2・3日は滞在して身と心を大自然にゆだねてみてはどうでしょうか。
(元気一杯の子どもとその家族のためには「国立室戸青少年自然の家」の利用をお勧めします。)
世話になった職員の方が岩貞先生の息子さんのお連れ合いだとわかりました。
室戸岬の鮪漁船「三号富佐丸」と「みさご丸」が遭難したとき岩貞先生は唄を作って教えてくれました。
「ときは10月 秋深く ふるさと遠く 三崎沖 」「行く手を阻む 台風は 怨みぞ深き パトリシア」(うろおぼえ)
1949年のできごとです。この唄のおかげで僕は幼少のときの悲痛なできごとを生涯忘れないでいることができたのです。
故郷の宿に泊まるというのもなかなかいいものだとしみじみと思いました。
職員の方々が見送ってくれました。
「また帰ってきてください」。
いつでも安心して帰ってこられそうです。
今日も休養日です。午後になって川越公園を歩いてみました。
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すっかり新緑。土曜日とて家族連れで賑わっています。