川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

<魁皇関>白星の花火師逝く

2011-01-30 22:13:07 | 政治・社会

1月30日(日)はれ

寒い日が続きます。終日閉じこもりです。洗濯をしたほかは寝たり起きたりで日が暮れました。

こんなニュースが流れています。魁皇の健闘の陰にはこんなおじさんの働きもあったのですね。勝利のたびに故郷の町に花火が上がる。なんだか僕までうれしくなる話です。こんな恵まれた力士がほかにもいるのでしょうか。

新谷さんの冥福を祈り、魁皇関の今しばしの健闘を期待します。直方(のうがた)という町に行ってみたくなります。

<魁皇関>白星の花火師逝く 18年間、福岡・遠賀川で祝砲

毎日新聞 1月30日(日)9時46分配信

<魁皇関>白星の花火師逝く 18年間、福岡・遠賀川で祝砲
九州場所の千秋楽で、花火を上げた新谷さん=福岡県直方市で2010年11月28日、小畑英介撮影
大相撲の大関、魁皇関(38)が白星を挙げる度、古里・福岡県直方市の遠賀川河川敷で祝福の花火を上げた新谷嘉昭(しんたに・よしあき)さん(81)が29日、脳幹出血のため亡くなった。魁皇関の新入幕から約18年間、場所中は休まず河川敷に通った「伴走者」の訃報(ふほう)に、魁皇関も肩を落とした。後援会関係者は「通算勝利記録1045勝に並ぶまであと10勝。一緒に祝いたかった」と突然の死を悼んだ。

【魁皇の軌跡】91年の十両昇進から1000勝達成まで…魁皇の歴史を写真で

新谷さんは29日朝、自宅で倒れ、搬送先の病院で息を引き取った。

勝てば2発、勝ち越せば5発、優勝は10発。住民は、新谷さんの花火の音で魁皇関の活躍を知ることができた。打ち上げは、魁皇関が幕内に昇進した93年5月の夏場所から。仕事は自動車整備業だが、花火打ち上げの資格を持っていたため、後援会などから頼まれた。

年間90日の場所中は午後5時過ぎに軽トラックで河川敷に乗りつけた。初場所は寒さがこたえるが、土俵に上がり続ける魁皇関の姿に「魁皇が休まんのなら、休める仕事じゃない」と通いつめた。

祝砲の時は「直方におって、魁皇を嫌いな人はおらんから」と上機嫌。負けると「景気が悪い」とすぐ帰った。カド番をしのいで迎えた昨年11月の九州場所で12勝を挙げた魁皇関に「やっぱり勝つと景気がいいよ」と目を細めていた。

魁皇関は「故郷で新谷さんに上げていただいた花火にどれほどの勇気をもらったか計り知れない。ご恩返しのためにも、一番一番を大切に土俵を務め、精進していく」とのコメントを出した。

内藤博俊・後援会長は「寒い日も雨の日も本当によく続けてくれた。魁皇関のように、新谷さんも元気でいてほしかった」と惜しんだ。

葬儀は31日午後1時、福岡県直方市新町2の6の47の直方葬祭直方斎場。喪主は妻リツ子(りつこ)さん。【小畑英介】
魁皇の祝砲に励まされる青年の投稿が載っています。

私が聞いた北朝鮮の暮らし⑪ 《職場の倒産がない国》 鈴木倫子

2011-01-30 11:26:11 | 韓国・北朝鮮
《職場の倒産がない国》

 電力が足りない。原料や資材が足りない。そういうなかで、多くの工場で生産

ラインが止まってしまった。それでも職場は倒産しない。資本主義の国ではない

から。
 
 仕事がなくても、従業員は毎日出勤しなければならない。出勤しても給料がも

らえるわけじゃないんだけど、出勤しなければ「職務怠慢」の烙印を押されて、

とんでもないことになってしまう。どこか、給料がもらえるような職場を探して

替わるということはできない。職場は、上からの指令によって決められるものだ

から。給料が出ない、食糧や生活必需品の配給も滞りがちだ。どうやって食いつ

なぐのか。「ヤミ」しかない。
 
 配給品を市場にもっていって売る。食料も、市場でランクの低いものと取り替

える。米や小麦粉をトウモロコシに、トウモロコシを高粱に交換すると、量目を

増やすことができる。しばらくの間、家族が食いつなげる。いよいよ食えなくな

ったら一家離散、コッチェビ(ホームレス)、あるいは静かに餓死を待つだけ。
 
 器用な人は特技を生かして内職に励む。職場に出ながらだからきついが、食う

ためにはやむをえない。むしろ、そういうことができる人は恵まれているといっ

ていい。編物や洋裁の腕を活かして内職する。市場で商売をする。採鉱冶金の技

術者がいた。一人は山に入って砂金を探し当て、金塊を造って大儲けすることが

できた。同じ職場のもう一人は、「真面目」の頭に何かがいくつもつくような人

柄が災いしてそういう器用なことができずに、とうとう夫婦でコッチェビになっ

てしまったという。

私が聞いた北朝鮮の暮らし⑩ 《税金がない国》 鈴木倫子

2011-01-29 19:52:00 | 韓国・北朝鮮
《税金がない国》
 
 「北朝鮮には税金というものがない」。これも、よく聞かされた話だ。 税金

なしで、どこから国家運営の財源を得ているのか? 
「資本主義体制じゃないからできるんです」。そのあとに、社会主義、わけても
「チュチェ(主体)思想」が、如何にすばらしいものであるかという話が続く。
 
「最初からいいだけ差っぴいておいて、残りを給料にするんです」。これが夢

子さんの解説。
 
 農作物も、欲しいだけ供出させる。「チュチェ思想」による指導(これには絶

対に従わなければならない。疑問を呈したり批判がましい言葉を口にしたりしよ

うものなら、密告されて収容所送りになる。)のはての大不作でも、容赦なく取

り上げた。年寄りに食べさせるものがなくて、落穂ひろいをした農村青年が、盗

みの罪で収容所に送られたという。農地は国のものだから、落穂も国家のもの、

という理屈なのだろう。
 
 「地上の楽園だ」と、いろいろ宣伝されたが、実際に行われていたのは「医療

費がただ」ということだけ。それさえ長くは続かなかったという。小学校の授業

料は確かに無料だったが、別の名目でお金を徴収した。大学生は一応優遇されて

いて、授業料、寮費はタダだったけど、やっぱり、いろいろ集金があってかなり

お金がかかる。夢子さんは日本の家族から送金してもらっていたので、自分の机

の引出しに何がしかのお金を入れておいて、ノートや筆記具、参考書を買うため

に困窮している仲間がいつでも使えるようにしていたそうだ。


私が聞いた北朝鮮の暮らし⑨ 《海藻麺》 鈴木倫子

2011-01-28 13:56:51 | 韓国・北朝鮮
《海藻麺》

 夢子さんが飢饉の話をしてくれた。あたしが、海辺は魚を取ったりすることが

できるのだから、なんとか食いつなぐことができたのではないかと聞くと、夢子

さんは、とんでもないという。
 
 「海辺は一番深刻でした。バタバタと餓死者が出たんですよ。海藻を食べるん

です。わたくしはそこの人たちにどんなに薄くても、穀物のお粥を食べなさい。

絶対に海藻を食べるなと言ったんですが、つい食べてしまうんですよね。そうし

て餓死してしまう。」
 
 「どうして海藻を食べると餓死するの?」
 
「海藻を煮て細いところてんのようなものを作って、お蕎麦のようにして食べ

るんです。日本でも、終戦直後の闇市で海藻うどんなんていうのが一番安く売ら

れていたでしょう。海藻のお蕎麦はお腹が膨れて、満腹感が得られるけど、栄養

もカロリーもほとんど無いから、そんなものばかり食べて働いていたら体が衰弱

するばかりです。それでも一時の満腹感があるから、つい食べてしまうんですね

。そうしてみんな餓死してしまうんです。」

 たしかに。ダイエット食といってこんにゃくや寒天、ところてん、海藻サラダ

なんかを食べるのは、低カロリーでおなかが膨れるからだ。ほかにちゃんと食べ

るものがあってのダイエット食で、そんなものばかり食べていなかったらダイエ

ット過ぎて栄養失調になってしまうよ。そのまま続けてれば餓死まっしぐらだ。

それなのにどうして海藻麺に頼ってしまうのかわからない。あれこれ考え続けて

いるうちに、気がついた。わからないのは、あたしが飢餓というものを知らない

からだ。
 
 シベリアでラーゲリを経験したおじいさんの話を思い出した。支給されたわず

かなお米を、みんなはお粥にして食べたが、自分は炒ったり生のままで少しずつ

口に入れて、どろどろになるまでよく噛んで食べるようにした。時間をかけて、

作業中でもこっそり口に入れては食べ続けた。お粥は食べたときは腹が膨れるが

、消化が早いから、次の食事をもらえるまでの間、空腹感にさいなまれることに

なる。慢性的な飢餓感が心を弱らせて、仲間たちの生きる力を奪ってしまった。

少しずつでも食べ物を口に入れ続けていると、一時の満腹感はないが、飢餓感に

さいなまれるということもない。それで自分は生き延びて帰ってくることができ

たのだと思う。そのおじいさんは、そう言った。
 
 薄いお粥では、すぐにお腹がすいてしまうのは明らかだ。日本語に「粥腹」と

いう言葉があるけれど、来る日も来る日も「粥腹」で、一日中慢性的な飢餓感に

さいなまれ続けるという状態に、人の心はどれだけ耐えられるだろうか。海藻麺

なら消化が悪いからお腹の中にたまっている時間が長い。その分、気が休まると

いうものかもしれない。そんなふうにして餓死していく人たちのことは、あたし

には到底想像もできないことなんだけれど、そういう現実が、あたしが生きてい

るこの時空間に並存しているということは忘れてはならないんだなと思う。


私が聞いた北朝鮮の暮らし⑧ 《主婦の仕事》 鈴木倫子

2011-01-27 17:40:05 | 韓国・北朝鮮
1月27日(木)晴れ
 夕方、4時前に伊豆高原での休養から帰ってきました。明日から「川越だより」も通常の発行に戻ります。


《主婦の仕事》
 ねえ、日本ではお店でバラ肉の薄切りとか、ロースのステーキ用とか用途別に

スライスされてトレイに並べられたものを買っているでしょ。北朝鮮ではお肉な

んかどんな風にして売られているの?
 
 あたしのこんな初歩的というか至って素朴な疑問にミサキさんが答えてくれた
こと。
 
 「豚肉はね、たまあに職場に一頭とか半頭とか送られてくると、みんなでそれ

を切り分けて持って帰るの。鶏肉は市場へ行くと丸ごと一羽売っているから、そ

れを買ってくる。鶏肉は、頼めばそこで捌いてくれるけどそれだと余計にお金を

払わなければならないから、そのまま買ってきて、うちで捌いてたわ。」
 
 「薬として使うときには、生きたままのを買ってくるの」と、おばあちゃんが

補足説明してくれた。市場というのは闇市のこと。
 
 お粥にするトウモロコシは、配給でも闇でも手に入るのは乾燥した粒々の物だ

。引き割りにしなければ使えない。人に頼んでやってもらうこともできるが、手

間賃を取られるから、ミサキさんは自分で石臼をひいていたという。石臼をごろ

ごろまわして粉にしたトウモロコシをお粥にするのには水が要る。生活に必要な

水はすべて、毎日外から運ばなければならなかったという。住んでいたのはアパ

ートの5階。極度の電力不足のために、水道の水を5階まで汲み上げてもらえない

。だから、ミサキさんは日に何度も、外の水道と家の台所の間を往復しなければ

ならなかったのだ。水を汲んだ水がめを頭に載せてアパートの階段を5階まで上

がる。エレベーターはない。たとえあっても電気が来なくて動かないのだから、

無いのと同じこと。それでミサキさんは、頚椎を痛めてしまった。いまだに体調

が優れないのには、そんなわけもあったのだ。5階建てのアパート生活に石臼と

水がめという取り合わせだ。なんともいやはやと言うほか無い。



喜味こいしさん逝く

2011-01-23 22:29:03 | 映画  音楽 美術など

1月23日(日)晴れ

 風があり、寒い一日。布団の中で白鵬の六場所連続優勝を喜ぶ。魁皇もよく頑張った。白鵬は今場所も稀勢の里に負けた。不世出の大横綱にも弱いところがあるんだなあ。そういうところが相撲のおもしろさかな。

喜味こいしさんの訃報があった。子どもの頃、「上方演芸会」というNHKの番組で、いとし・こいしのしゃべくりをよく聞いた。夜の娯楽はラジオで、家族の団らんがあったような気がする。ミヤコ蝶々・南都雄二、秋田Aスケ・Bスケなどとともにお二人の漫才も僕らの生活の中にとけ込んでいた。

川越の生まれだと初めて知った。お兄さんは横浜らしい。両親が旅回り芸人だったと言うことだ。二人の芸の秘密を知ったような気がした。これでもう子どもの頃から親しんだ漫才師もいなくなってしまった。楽しいひとときを過ごさせてくれた「いとし・こいし」さん、有り難う。

今日から木曜日まで例によって伊豆高原の保養所に行ってきます。「川越だより」はしばし休刊です。

しゃべくり漫才・ご意見番…喜味こいしさん死去

読売新聞 1月23日(日)17時4分配信

「いとこいさん」の愛称で親しまれ、兄の夢路いとしさんとのしゃべくり漫才で人気を集めた喜味こいし(きみ・こいし、本名・篠原勲=しのはら・いさお)さんが、23日午後1時38分、肺がんのため亡くなった。

83歳だった。告別式は27日午前11時半、大阪市阿倍野区阿倍野筋4の19の115同市立葬祭場やすらぎ天空館。喪主は長男、敏昭氏。連絡先は大阪市北区野崎町3の2の和光プロダクション。

埼玉県川越市生まれ。旅回り一座の家庭で、幼い頃から2歳上のいとしさんと舞台に。1937年、上方漫才の草分け、荒川芳丸に入門、荒川芳博・芳坊の名で子供漫才を始めた。戦争中は志願兵として陸軍に入り、爆心地に近い広島の兵舎で被爆、病院で終戦を迎えた。48年に漫才作家・秋田実の指導の下で、「夢路いとし・喜味こいし」と改名した。

大阪弁の豊かな表現を生かし、庶民の暮らしを題材にしたネタで、ラジオやテレビ、舞台で活躍。飄々(ひょうひょう)としたいとしさんに対し、だみ声で鋭い突っ込みを入れる姿が人気を集めた。2003年に兄が亡くなった後も、上方漫才界の“ご意見番”としてテレビでコメンテーターを務めていた。

関係者によると、昨年1月に肺がんを発症。抗がん剤治療を受けながら仕事を続け、同12月2日にはNHKの「上方演芸ホール」にゲストで出演。今月21日に容体が急変し、家族が見守る中、眠るように息を引き取ったという。

1969年に上方漫才大賞、76年に上方お笑い大賞を、93年には芸術選奨・文部大臣賞、紫綬褒章を受けた。2003年には菊池寛賞も受賞した。

最終更新:1月23日(日)19時42分

読売新聞

 

私が聞いた北朝鮮の暮らし⑦ 《脱北第一号》  鈴木倫子

2011-01-23 06:52:51 | 韓国・北朝鮮
1月22日(土)晴れ無風

 9時半頃家を出て、新河岸川沿いにひたすら下る。朝霞水門で荒川右岸に出るとまもなく板橋区新河岸付近に着く。12時過ぎ。
土手上に自転車を止めて万里子さん(池袋商高 75年 1~7)に電話をしてみた。折良く在宅でやがて土手上にやってきてくれた。
一昨年35年ぶりのクラス会で会って以来だ。
 芝生に腰を下ろして高校卒業以来の人生の話を聞かせてもらった。ゆっくり話を聞くのは15・6の時以来だ。高校同期生との交友
を大事にしているようだ。気づいたら1時半ぐらいになっていた。寒くなる前には帰り着く必要があるので今日はここまで。
近頃はバイク仲間とツーリングするのが楽しみらしい。今度はバイクで川越に来てくれるかな。
 近くのラーメン屋で遅い昼食。帰りは国道254のバイパスに沿った自転車道。4時半頃帰宅。


《脱北第一号》 

夢子さんに聞いた話。脱北第一号は新義州に住んでいた大金持ち一家だそうな。

新義州は鴨緑江の河口近くにある都市。対岸は中国の丹東。国境の街だ。丹東か

ら観光客を乗せたモーターボートがやってきては公園のある川岸をかすめるよう

にしてまたもどっていく。その日は春のお祭りで、川岸の公園は晴れ着を着た家

族連れで賑わっていた。富豪一家もおばあさんを連れて家族全員で遊びに来てい

た。一台のモーターボートが川岸にやって来ると、着飾った7人の家族が乗り込ん

で、あっという間に岸を離れていった。
 
 数日後、大邸宅に妙に人気がないと不審に思った近所の住民が保衛部に、畏れ

ながらと届け出た。保衛部が駆けつけてみると、邸宅には誰もおらず、家具も布

団も衣装も全部置き去りにしてあったそうな。白昼堂々の、なんとも豪勢な脱北

であった。
 
 その後じきに警備が厳しくなって、河口近くから鴨緑江をわたることは不可能

になったが、何人かは、そうなる前にいなくなることができたらしい。


私が聞いた北朝鮮の暮らし⑥  《ご真影》 鈴木倫子

2011-01-22 08:21:19 | 韓国・北朝鮮

《ご真影》
 
 これは、また聞きの噂話。
 
「成分」は孫子の代までと書いたが、ごく稀に例外があるらしい。

 「成分」が悪いと、労働党員だけでなく、人民軍にも入れてもらえないことに

なっているのだが、ある在日朝鮮人帰国者の息子さんが人民軍兵士になった。ど

うしてそんなことが可能になったのか。
 
 北朝鮮では、ちょうど戦前の日本の家庭に天皇様の写真(ご真影)が掲げられ

ていたように、どこの家庭でも金日成様の肖像写真を額に入れて飾っている。そ

うしなくちゃならないことになっている。
 
ある日、どういうわけでだかは忘れて

しまったが、その額が落ちてしまった。偶然その真下にいたお父さんの頭に額が

ぶつかった。当たり所が悪かったらしく、そのためにお父さんは亡くなってしま

ったのだが、幸か不幸か、お父さんの体がクッションになって、金日成様の額は

ガラスも割れずに無事だった。お父さんは自分の命に代えて「金日成様をお守り

した」ということで一躍「革命英雄」となった。それで、息子は人民軍に迎え入

れられたのだそうだ。

私が聞いた北朝鮮の暮らし⑤ 《成分》 鈴木倫子

2011-01-21 09:56:29 | 韓国・北朝鮮
《成分》
 
 みんながまだ北朝鮮で暮らしていたときに病気で亡くなってしまったという真

紀子さんのおとうさん。「労働党員になれない」ということを、死の間際まで嘆

き、悔しがっていたという。「労働党員でなければ人間扱いされない」と言って。

そういう社会が、あたしには想像もつかない。

「人間扱いされない」ってどういうことなのか、聞いてみたが、とにかく文字通りそういうことであるらしい。
 
 人に優れた技術を持ち、まじめに働いていたお父さんが、いくら希望しても党

員にしてもらえなかった理由は、ただひとつ。「成分が悪いから」だった。
 
 あ、またわかんないことが出てきた。「成分」とはなんぞや? 

まだうまく消化できないんだけど、聞いたことをあたしなりの言葉で書いてみる。

「この風邪薬成分は…」というようなそういう「成分」じゃない。「社会成分」というのだ

が、これにはいくつもランクがあって、国民は一人ひとりみんな、どこかにラン

ク付けされているんだそうだ。で、それは孫子の代まで引き継がされていく。

最高の「成分」は革命英雄で、その最高位が、言わずと知れた金日成様。つまり、

今ではあの王様とその一族ということになる。独立前「貧農」だった人たちはラ

ンクが高い。何がしかの「資本家」だった人たちはかなり低いランクになる。

帰国事業のとき鉦や太鼓で持て囃されて渡って行った在日朝鮮人とその家族は最低

ランクに入れられている。この人たちは「資本主義社会で暮らしていたから、思

想的に毒されていて」、要再教育、要監視の対象なんだそうだ。そううことが50

年たっても変わらずにある。
 
 日本でも「身分」とか「門地」といった概念はある。徳川幕府の時代には士、

農、工、商、さらにその下に被差別の身分がおかれて厳しく規制されていた、と

学校で教えられたし、今でもたぶんそうなんだろうが、実際には、士や農の次、

三男が工や商になったりしている。また、下克上や成り上がり、逆には零落もあ

って、歴史的に見れば日本の「身分」や「門地」はかなり流動的だ。「本人の才

覚次第」という側面がある。ところが北朝鮮の「成分」は、本人の努力や才覚で

はどうにもならないものであるらしい。
 
 たとえばミサキさん。金日成総合大学とまではいかないが一流の大学で、工学

部に女子は彼女一人という状況の中で首席の座を守り通して卒業した。あの国で

は、卒業後の就職先はすべて、党の指令に従うことになっている。学生は一人ひ

とり就職係のところに呼び出されて、配属先を申し渡される。いつまで待っても

、ミサキさんへの呼び出しがかからない。とうとうクラスで一番成績の悪い、落

第すれすれの男子学生のところまで声がかかった。一人だけ取り残されたミサキ

さんは、意を決して就職係のところへ行き、その理由を尋ねた。「わたしは党の

意志に不満を述べているのではない。ただ、理由を聞いて納得したいのです」。

なんどもしつこく尋ねるミサキさんに対して、係りの人は最後にひとこと。「そ

の理由はあなたが考えている通りのことです」。
 
 ミサキさんが得た職は、彼女が専攻した学問とは縁もゆかりもないものだった

。社会の根底に「成分」という枠組みがあって、それによって、ただそれだけで

無惨にも将来を閉ざされてしまう優秀な若い人たちがいる。誰が見たって、明ら

かに大きな社会的損失だし、いまどきそんなおろかな仕組みがまかり通っている

国があるなんて、信じられない。でもとにかくそうなんだから、北朝鮮がそうい

う国だってこと、認めるしかない。


私が聞いた北朝鮮の暮らし④ 《エレベーター付の金日成様》 鈴木倫子

2011-01-20 09:50:05 | 韓国・北朝鮮
1月20日(木)晴れ 
風邪を引いてから一週間が経ち、すっかり恢復しました。18日には所用で東京に出向き、19日は川越公園を散歩しました。風さえなければ週末には自転車こぎが出来るでしょう。

《エレベーター付の金日成様》

 
真紀子さんのお父さんは、大型掘削機の技術者だった。 
 「うちのお父さんは、金日成の銅像建設の仕事もしたのよ。銅像の台座を立て
るためには、地面に大きな穴を掘らなければならないの。それには大型の掘削機
が必要なんだけど、機械はあっても技術者の数が足りなくて、お父さんは全国に
出張していたわ。何かあると、あっちにもこっちのも金日成の銅像建設してたか
ら。」
 
 「ふーん…そうか、実際に見たことはないけど、あれって確かにデカイものね
。台座だって相当深くまで掘って埋めなくちゃね。何メートル?10メートルくら
い掘るの?」
 
 「ううん、もっと深く、20メートルとかもっと、たぶん。あのね、台座の下は
エレベーターになってるのよ。戦争なんかになったとき、銅像が台座ごと地中深
く収納されるようにしてあるの。」
 
 な、な、なんと、自動収納式銅像とはこりゃまた…。あたしのあごは一瞬にし
て胸まで落ちてしまった。
 
 全国各地で一斉に、キンピカ巨大な金日成の銅像がかすかな電動音とともに静
々と地中に下りていく図を想像して、思わず胴震い。
 確かに、ソ連崩壊のとき引き倒されたレーニン像のことは、北朝鮮の指導者たちにとって、
とてつもないトラウマになっているかも知れない。しかし、いくら「何より大事な金日成様」と
いったって、所詮は銅像じゃないか。そこまでやる前に、もっとすることあるん
じゃないの? 
 「そういう国だから」と言われても、あたしにゃわからない。


小沢一郎の「犯罪」とは?

2011-01-19 20:06:23 | 政治・社会

小沢一郎民主党元代表が検察審査会の再議決によって起訴されるという。しかし、彼はいかなる犯罪容疑で裁判にかけられるのか?

政権交代を貶めるために旧勢力が仕組んだ罠ではないのか。日刊ゲンダイがわかりやすい記事を連載し始めたので紹介する。

集中連載【国民は騙されている 小沢「強制起訴」の虚構】どこを探しても出てこない「虚偽記載」の事実

   日刊ゲンダイ 2011年1月19日 掲載

世田谷区深沢の問題の土地

●小沢個人と陸山会をゴチャマゼにした検察審査会のド素人
 民主党の小沢一郎元代表が今週中にも強制起訴されるという。再び大マスコミの狂騒が始まっているのだが、ちょっと待ってほしい。「政治とカネ」問題のいったい何が疑惑で何が具体的不正なのか。答えられる新聞記者がいるのなら聞いてみたい。検察と大マスコミにつくり上げられた事件の壮大な虚構を検証してみた――。

●唯一の疑惑「期ズレ」の虚構
 最強の捜査機関「東京地検特捜部」が2度も不起訴にせざるを得なかった小沢の政治資金規正法違反。これに対し、クジで選ばれた検察審査会の11人の素人が昨年4月と9月、「起訴相当」の議決をしたために今回の強制起訴となるのだが、その被疑事実はこんな内容だった。
〈小沢氏の資金管理団体「陸山会」は04年10月に東京・世田谷区の土地を買ったのに、04年の収支報告書に資産として記載せず、05年の報告書で05年1月に取得したと「虚偽記入」した〉
 期日を3カ月ズラしたことが、政治資金規正法違反の虚偽記載にあたるというわけだ。これが小沢疑惑の唯一の「犯罪容疑」にされている。たった3カ月の「期ズレ」ぐらいで日本中が「政治とカネだ」と大騒ぎさせられているわけだが、実はこの期ズレ問題こそ最大の虚構なのである。
 ちょっと専門的になるが、上の写真を見てほしい。問題にされている世田谷区深沢の土地の不動産登記簿である。一番下の「所有権移転」の期日は平成17年(05年)1月7日になっている。その上の所有権仮登記が平成16年10月29日だ。不動産売買で、仮登記と登記完了の時期がズレるなんて、よくあること。しかも、これが資金管理団体「陸山会」がからむ売買だから、余計にややこしくなった。

●あくまで正当な法律行為
「小沢氏が世田谷の土地に最初に関わるのは、不動産業者と売買予約を結んだ04年10月5日です。この土地に目を付けた理由について、小沢氏は昨年1月の会見で『秘書の数も増え、妻帯者も増えた。事務所兼用の住居を提供したいと思っていたところ、本件土地を見つけて購入することになった』と説明しています」(事情通)
 小沢の秘書は「軍団」とも呼ばれ、選挙時は各地に派遣されて候補者を四六時中、補佐する。小沢ほど大人数の秘書を抱える政治家はいない。その秘書の住居として「賃貸よりも購入の方がコストが安い」と考えるのは政治団体の代表者として当然だ。
 しかし、政治団体は「権利能力なき社団」のため、「陸山会」では登記できない。実印が作れないためだ。そこで「陸山会」代表者である小沢個人が10月29日に「所有権移転請求権」を仮登記しているのだ。
「重大なポイントがここにあります。東京第5検察審の議決書では、この10月時点を『陸山会が土地を取得した』とみているのですが、それが違うのです。大きな認識不足なのです。あくまで小沢氏個人が『権利者』になったにすぎず、まだ陸山会のものになっていない。登記簿の記載通り、実際の所有権移転は翌年の1月7日に行われ、ここで所有権が小沢氏に移り、そこで小沢氏と陸山会の間で“使用権に関する確認書”が交わされた。かなり複雑ですが、ここで初めて問題の土地は陸山会の資産となったわけです。そのため、陸山会の政治資金報告書に資産計上されたのが05年となったのは何も問題がない。虚偽記載でなく、正しい記載なのです。むしろ、まだ陸山会の資産になっていない04年の報告書に記載した場合の方が違法なのです」(司法ジャーナリスト)
 小沢本人や陸山会事務局は、こうした経過を報道陣に説明してきた。しかし、複雑ゆえに正しく理解されない。まして小沢のように秘書たちの住居用に土地を買うケースはマレだから、同僚議員たちさえも理解できない。それが誤報と疑惑を膨らませてしまったのである。
(今日から集中連載します)

宇出津事件

2011-01-17 13:13:03 | 韓国・北朝鮮

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13日(木)に発熱(38度2分)があり、14日にはホームドクターの診察を受けました。以後静養につとめていましたがおかげさまで大事に至らず、今日あたりから日常生活に復帰します。片肺になって5年、初めて風邪をひいてしまいました。皆さんもどうぞ気をつけてください。

 昨夜、宇出津(うしず)事件の記事を読みました。中日新聞の石川県版の記事です。石川県警は北朝鮮による拉致犯人を逮捕し、そのことによって警察庁長官表彰を受けています。しかし、どういうわけか犯人は不起訴処分となり釈放されています。この事件をきちんと処理していたらすぐ後に起きた横田めぐみさんなどの拉致は防げたかもしれないのです。日本の警察・検察の大失態です。

 どうしてこういうことになったのか、今日に至るまで納得のいく説明を聞いたことはありません。検察の在り方を見直す組織が作られたはずです。どんな検討がおこなわれているのかさっぱりわかりませんが、拉致事件の原点ともいえる宇出津事件の検証もやってほしいものです。

 この国の権力機関のやることには不思議なことが多すぎます。冤罪を作り出して平然としている一方、明々白々たる犯人を釈放して外国の権力に媚び諂うなどということもやってのけます。なぜこういうことになるのかをテッケツしなければ有効な解決策は生まれてくるはずはありません。

 

         記憶薄れる 宇出津事件 北朝鮮拉致から33年

                         (中日新聞 1月16日)

 警視庁と県警連携 容疑者逮捕が望み

 県警が「宇出津事件」として引き継ぐ能登町を舞台にした北朝鮮による拉致事件。東京都三鷹市役所の警備員だった久米裕(ゆたか)さん=失踪当時(52)=が海岸から連れ去られて、三十三年が経過した。昨年十一月に警察庁長官が視察し全容解明への決意を示したが、手掛かりは減る一方。捜査関係者からは、事件の風化を懸念する声が高まっている。(室木泰彦)

 ◇事件の経緯

 一九七七(昭和五十二)年九月十九日、久米さんが宇出津海岸から失踪した。在日朝鮮人の男らに「密貿易でもうけ話がある。北朝鮮に行ってほしい」と誘われたという。県警は失踪直後、当時の能都町(現在は能登町)の遠島山公園前にある旅館で一緒に宿泊した男を出入国管理法と外国人登録法違反の疑いで逮捕した。

 家宅捜索で男が持っていた乱数表などを押収。男は、別の北朝鮮工作員から独身の日本人男性獲得を指示され、久米さんを誘ったことを認めたが、証拠不十分などで出入国管理法違反容疑は不起訴、外国人登録法違反容疑は起訴猶予に。男は釈放され、拉致の捜査は進まなかった。

 男は深夜に久米さんを海岸に連れ出し、工作船で迎えに来た三人に引き渡したとされる。県警捜査関係者は「当時は国家的拉致の認識がなかった。拉致で立件していれば、その後の歴史を変えたかもしれない」と悔やむ。新潟市の横田めぐみさん、東京都の田口八重子さんらの拉致事件は宇出津事件の後に起きたためだ。

久米さんが拉致された宇出津海岸。昨年11月、安藤警察庁長官が視察した=いずれも能登町で

写真

 ◇風化進む現場

 拉致現場は「船隠し」と呼ばれるほど深い入り江。両側に樹木が生い茂り、人目に付きにくい。公園駐車場から遊歩道を七、八分歩くと波が静かに打ち寄せる砂浜に出る。「海側からも見えにくい」と捜査関係者は話す。

 駐車場近くに久米さんが男と泊まった旅館の建物が今も残る。現在は使われていないせいか、玄関先に雑草が生い茂る。地元住民は「拉致事件の現場なんて信じられない。住民の記憶も薄れている」と話す。

 二〇〇二年九月、当時の小泉純一郎首相による日朝首脳会談で北朝鮮が拉致を認め、宇出津事件は注目された。しかし、北朝鮮は「(久米さんの)入国記録はない」と回答。警視庁と県警は捜査を進め、〇三年一月、拉致を指示したとして、国外移送目的誘拐容疑で工作員の金世鎬(キムセホ)容疑者(82)の逮捕状を取り、国際手配した。その後は外務省を通じ北朝鮮に身柄引き渡しを求めるだけで、捜査の進展はない。

 ◇8年ぶりの警察庁長官視察

 「風化させてはならない」。昨年十一月二十六日、警察庁長官として八年ぶりに視察した安藤隆春長官は自らに言い聞かせるように語った。「風光明媚(めいび)な自然の中で拉致が行われたことは、非常に残酷な感じがした。許すことができない重大犯罪だとあらためて感じた」とも。

 県警幹部も「警視庁と連携して捜査を進めたい」と語ったが、口調は重かった。金容疑者の逮捕が、解明へのわずかな望みとなっている。

 ◇後記◇ 遠島山公園を歩くと、近くの湾の眺めが美しく、穏やかな内浦の岩浜が絶景を織りなしている。ここが拉致事件現場であることを忘れてしまうが、三十三年前、間違いなくここから久米裕さんが連れ去られたのだ。

 久米さんが男と泊まった旅館を見ると、玄関周辺が荒れ果てており、いや応なく月日の経過を感じさせ、事件の全容解明など夢のまた夢と思えてくる。が、二〇〇二年の日朝首脳会談で拉致問題が急展開したように、今後の外交によって宇出津事件もどうなるか分からない。注目し続けたい。


私が聞いた北朝鮮の暮らし③《武器よさらば》 鈴木倫子

2011-01-16 08:37:04 | 韓国・北朝鮮

《武器よさらば》

朝鮮の子供たちはどんな玩具で遊んでたの? 櫂くんはどんな玩具が好き? 

「ぼくが好きなのは武器です。」

正確な、とてもお行儀のよい日本語できっぱりと、ドッキリするようなことを

言ってくれる。「武器なら何でも好きです」とは言うものの、どうやらデカ過ぎ

る(大砲とかミサイル)や小さ過ぎる(手榴弾とか)はお呼びじゃないみたい。

自分で手に持てるもの、ピストルよりライフルとかマシンガンが好いらしい。あ

たしが子供のころ、男の子があこがれるのはハリウッド製の西部劇に出てくる「

二挺拳銃」の早撃ちガンマンだったけど、櫂くんにとっては「兵隊さん」がヒー

ローなのかな。

秋祭りのお小遣いで、なんとしても「武器」を手に入れるんだ。お祭りの賑わ

いでもかき消すことができないほどの櫂くんの意気込みが伝わってくる。まいっ

たな、どうしよう。アタシ、「武器」は好きじゃないんだけど、でも櫂くん、自

分のお小遣いで買うんだし。うちの子、欲しがるのがフィギュアばかりだったか

ら、こういう悩みなかったけど、もし小銃とか買ってくれってせがまれてたら、

どうしてただろう。とかなんとかぐずぐず思い悩んでみたのだが、結局「いずれ

卒業するのだろうからな。大人の言うこと聞いてる間いくら封じ込めておけたっ

て、大きくなって自分の意思だけで買い物できるようになったとき、反動で武器

マニアのおっさんになっちゃうってこっともあるんだから。いい歳をして公園の

林の中でサバイバルごっこかなんかに打ち興じた挙句、そこら中にモデルガンの

プラスティックの玉を散らかして帰っちまうお馬鹿にならないように、いまの内

に咽喉もと一杯遊んどけばいい」と、いつもの「なんとかなるさモード」に入っ

てしまったアタシ。

 おばあちゃんが「わたくしは、武器がだいっ嫌いです」。櫂くんは「買っちま

ったらこっちのものよ」とばかりに、おばあちゃんの静かな怒りなんてどこ吹く

風。でもあたしが叱られてるんだよ、ほんとは。

 「なぜ、わたくしが武器を嫌いなのか」。櫂くんには聞こえないところで話し

てくれた。

 「わたくしは朝鮮にいた40年の間、公開処刑というものを何度も何度も見させ

られました。河原とか広場とか人が大勢入れるような場所で死刑が行われるんで

す。見せしめのために。銃殺刑です。殺されるのが一人だけのときもあれば複数

のときもある。今日それがあるとお触れが出ると、住民は見に行かなくてはなら

ない。もし出て行かなければ、あいつは反逆分子だ、危険分子だということにさ

れて、次には自分が処刑されたり収容所に送られたりする羽目になる。だからど

んなに嫌でも見に出て行かなくちゃならないんです。1人の人間に対して5~6人が

銃を構えるんです。パン、パンという銃の乾いた音。何発も打ち込まれて血を吹

いて倒れる。忘れられません。いまでもどうかすると夢に見てしまいます。武器

は、そうやって人を殺すためのものなんです。」

 深い深いトラウマの淵から紡ぎ出されるおばあちゃんのことば。怒りもせず、

責めもせず、なじりもせず、あざけりもせず、淡々と、そして諄々と語り続けて

くれた。

 あれからなんどもなんども、思い出すたびに自分の軽薄さ、いい加減さが恥ず

かしく、悔やまれて胸が痛くなる。ごめんなさい。ありがとう、アタシけっして

忘れません、あなたが話してくれたこと。





私が聞いた北朝鮮の暮らし② 《兵隊さんごっこ》  鈴木倫子

2011-01-15 08:49:04 | 韓国・北朝鮮

《兵隊さんごっこ》

「子供たち、日本の軍歌を歌って遊んでたのよ。」 

え? なに、それ? なんで? と、顔中疑問符のあたしにミヨシさんが懐か

しそうに話してくれたこと。

「夕方、TVで日本の植民地時代を舞台にしたドラマをやってたの。必ず日本の

軍隊が出てくる。わたしがご飯の支度をしているあいだ、子供たちはいつもそれ

を見ているのよ。それで、今度は箒を持ってきて、それを掲げて軍歌を歌いなが

ら部屋の中をぐるぐるぐるぐる行進するの。その格好がおかしいのよ。」

あたしは向こうのTVなんて知らないから、どんな軍歌を歌うのか、あるいは「

日帝(日本帝国主義の略称)の軍歌」だと称してどんな歌をTVドラマに使ってい

るのか見当もつかないが、横目で見ると、おばあちゃんは複雑な顔をして黙って

いる。

あたしは、いつの間にか、去年の夏小豆島で観た懐かしの名画『二十四の瞳』

のワンシーンを思い出していた。 応召していたおとうさんが休暇で久しぶりに

帰ってきて喜ぶ子供たち。おもちゃの刀を「掲げ銃」にした男の子が大きいのか

ら小さいのまで一列になって、一杯やっているお父さんの周りを「兵隊さん」を歌い

ながらぐるぐる行進する。お父さんはしょっぱい顔で笑いながら見ている。

それは昔の日本の子供たちの「兵隊さんごっこ」。「兵隊さん」はあこがれの

ヒーローだった。櫂くんにとって「日本の兵隊」はなんだったのだろう? 仮面

ライダーのショッカー軍団? それとも、なに?



私が聞いた北朝鮮の暮らし①《トンヘ(東海)の水はなぜきれい》 鈴木倫子

2011-01-14 09:25:55 | 韓国・北朝鮮

●はじめに

2年半前くらいから、北朝鮮から逃れてきた人たちとの出会いが始まりました。みんな、何度か会っているうちに少しずつあの国で暮らしていたころの

話をしてくれるようになります。一人ひとり、私なんかには想像もつかないような歴史を背負っています。せっかく語ってくれた思いや体験を忘れてしま

わないように、書きとどめておくことを思い立ちました。話してくれた人がそのために困ったことにならないよう、細心の注意をはらいながら綴っていきた

いと思います。

《トンヘ(東海)の水はなぜきれい》

「朝鮮でね、ひとつだけ良いことがあるの。それは海がとってもきれいなこと

。10メートルも20メートルも下の海の底まで、海の底の砂粒まではっきり見える

んだよ。泳ぎながら魚を捕まえることができるんだ。あ、ぼくはまだできない。

魚を捕まえるのはお父さんといとこの兄さん。お母さんが浜辺でご飯を炊いてく

れて、捕まえた魚を焼いてみんなで食べるんだよ。」

櫂くんが、夏休みの思い出を話してくれた。朝鮮の東海岸。向こうで言うトン

ヘ(東海)、日本海の対岸だ。おばあちゃんの話だと、国家の要人やVIP専用

のリゾートだけでなく、一般人が使える広い海水浴場もあって、白い砂浜の海が、そ

れはそれはきれいらしい。まあ一般人と言ったって、国民の移動や旅行を厳しく

制限しているあの国のことだから、国中の誰もが自由に海水浴できるってものじ

ゃないんだろう。でも、日本の「海の日」みたいなのが向こうにもあってその日

は、櫂くんに言わせると「みんな海水浴に行かなくちゃいけない日」なんだそう

だ。

トンヘ(東海)の透明度は半端じゃなく高いのだが、そのわけは簡単だ。汚そ

うにも汚染の原因を作る工場そのものがないから。朝鮮の東海岸と言えば、あた

しのような年寄りが思い出すのは興南の朝鮮チッソ。そう、水俣病で悪名高い日

本チッソの野口財閥が朝鮮に造った化学肥料工場だ。おばあちゃんの話だと、な

んとあれがいまだにそのまま使われているんだそうだ。というか、朝鮮の化学工場

というのは、あとにも先のもそれしかないんだそうだ。

でも朝鮮の化学工業の実状はとりあえず別のお話。おばあちゃんの話は、

「ですからね、倫子センセ。わたくしが元気なうちにあの国がどうにかなって

くれたら、と思うんですよ。そこらじゅうから資金をかき集めて東海岸に一大リ

ゾート地を造りたい。近代工業が全く駄目なその分、朝鮮は風光明媚な観光資源

がいっぱいあるんです。朝鮮を観光立国させるというのが、わたくしの夢なんで

す。」