川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

秋田から

2009-04-27 08:43:16 | 出会いの旅
 きのう、酒田から秋田に日本海の海岸に沿ってやってきました。千秋公園(久保田城址)の桜は散り始め。
 81年池袋商業卒業の萩原君がお連れ合いとともに宿を訪ねてくれ、夜遅くまで交流しました。28年ぶりです。北の地で精一杯歩いてきた道は今は豊かな実でいっぱいです。帰ったらゆっくり報告します。うれしい、うれしい旅の一夜でした。
 今日は大潟村(八郎潟)から男鹿半島です。

アテルイの里

2009-04-25 04:43:12 | 出会いの旅
 これから山形県北部・秋田県を訪ねる「羽州花の旅」に出発です。昼前には酒田に着きます。都立北高校87年入学の李さんは中国黒竜江省から帰国(?)した際、お祖母ちゃんの故郷・酒田に住んだといいます。

 「私が通っていたのは、酒田市の宮野浦小学校です。川の向こうです。1982年の6月から1983年4月?(小学校5年生)までです。東京に来てから行ったことがありません。その時の校長先生と担任先生、姉と弟の担任、売店のおばさん皆
が優しかった印象が残っています。」

 82年といえば27年も昔のことですが、地図で見ると最上川の河口部と言うべきところに今もその学校はあります。近くに飯森山公園があり一度は訪ねようと思っていた南洲神社が此処にあります。
 短い間ではあっても李さんにとっては最初の「日本」です。どんな思い出が刻まれているのでしょう。そんなことを想像しながらこの辺りも歩いてみたいと思います。

 菅原幸助さんの卒業した大山小学校は鶴岡市の羽前大山駅の近くです。92年夏、北高校の庄司さん姉妹とお祖母ちゃんの故郷・鶴岡を訪ねたことがあります。こうしてみるとこの町も何だか身近に感じられます。

 「満州建国の父」と言われた石原莞爾(いしわらかんじ)が鶴岡の出身だと菅原さんに教えて貰いました。庄内と「満州」は太い線でつながっていたのです。菅原さんも石原の影響を受けて「満州」に夢を抱いたとのことです。鶴岡にも行けるかなあ。


 以下は5年前の文章です。「奥羽」と言われる地方を旅した時の忘れられない記憶です。今回金沢の柵は再訪できるかな?

 「川越だより」は多分30日までお休みです。ごめんなさい。



 わらび座とアテルイの里(「列島ところどころ」⑤ 『木苺』116号)

                     鈴木啓介
 
 劇団わらび座が運営する田沢湖芸術村(TEL 0187-44-3316)の無料宿泊券があたったのを機に、03年10月に秋田・岩手・宮城と蝦夷(えみし)の世界を訪ねた。

わらび座劇場での『アテルイ』公演は終了していたが、妻が旧知の茶谷十六さんに民族芸術研究所を案内してもらった。日本の津々浦々の民謡や民族芸能の蒐集の宝庫である。朝鮮通信使を劇化した“つばめ”の制作にかかわって韓国各地の民族芸能も多数採録されている。
わらび座の本拠がここにうつされて以来30余年、こうした地道な研究を土台にして、民衆に依拠した演劇活動がつづけられてきたのであろう。自分たちの知恵と労力で建てられたという練習場が今は研究所として役立っているのだが、風雪に耐えてしっかりと大地に根をはってきた古木を思わせる風情がある。
ぼくよりはいくらか先輩になるが茶谷さんたちのこの北国での営為は人間の可能性というものをまざまざとみせてくれて、感動する。


4泊5日の旅で訪ねた蝦夷の故地は次の通り。

保田柵跡 秋田県仙北町(0187-69-2397)。800年ごろに造営された朝廷側の柵とみられる。

金沢柵跡 秋田県横手市(0182-37-3510)。蝦夷系清原氏の本拠地。後3年の役で陥落。 

鳥海柵(とのみのさく)跡 岩手県金ヶ崎町。蝦夷系安倍氏の本拠地。前9年の役で1062年陥落。

胆沢(いざわ)城跡 岩手県水沢市。胆江地方攻略の拠点(鎮守府)として802年造営開始。

えさし・藤原の郷 岩手県江刺市(0197-35-7791)。藤原三代の建造物を再現した公園。

中尊寺 (略)

達谷窟(たっこくのいわや) 岩手県平泉町北沢(0191-46-4931)。

多賀城 宮城県多賀城町市川。8C初、陸奥の国府と鎮守府がおかれ、蝦夷攻略の最大拠点。

 予習なしの行きあたりばったりの旅で、保田柵などは名前すら聞いたことがなかった。地図でみつけて寄ってみたのだが、その規模は予想外に大きく公園のように整備されていた。
秋田県教委のつくった説明パネルもあったが史観が「中央」寄りで、蝦夷の側からの視点がほしいと抗議(?)する地元の人らしい青年が印象に残った。
これにくらべればかつて「日高見(ひたかみ)国」とよばれたという岩手県南部の水沢・江刺地方(胆江地方というらしい)の人々の姿勢ははっきりとしているように思われた。私たちが泊まった「サンピア金ヶ崎」という国民年金宿泊施設にも「アテルイの里」と書かれていたし、地ビール“アテルイ”というのまである。

胆沢城跡は胆沢川が北上川にそそぐあたりにあるが、今なお発掘調査の途上であるらしい。政庁南門跡の近くに水沢市埋蔵文化財調査センター(水沢市佐倉 0197-22-4400)があり、展示室が立派な博物館となっている。
ここでは『鎮守府胆沢城と蝦夷の世界探訪』というパンフレットをいただいた。「アテルイの里情報―見なおそう古代、見つめよう次代」というサブタイトルがついていて、胆江地方の蝦夷の世界を歩くよりどころとなる。
また、副所長の伊藤博幸さんがシリーズで『阿弖流為(①~⑥)』というわかりやすい小論文を書いて、私たちの啓蒙をしてくれている。
これらの文書や旅の見聞に刺激されて、帰ってから『蝦夷・アテルイの戦い』(久慈力・批評社)を読み、さねとうあきらさんの『赤いシカの伝説』(花伝社)を再読した。

百済系とみられる桓武天皇がしかけた「蝦夷征伐」という名の胆江地方侵略戦争のすさまじさ。やはり渡来系の坂上田村麻呂が副将軍として派遣された第二次征東(794年)の際、動員された朝廷軍は何と「軍士10万人、軍監16人、軍曹18人」だという。
アテルイの名が『続日本紀』に初めて登場するのは789年だが、彼は部族ごとに形成された蝦夷戦士集団の連合軍を編成し、陽動作戦とゲリラ作戦でこの侵略軍と13年間にわたって戦い抜いたという。
 征夷大将軍となった田村麻呂が胆沢城造営中の802年4月15日、アテルイは蝦夷戦士500余人を率いて投降。朝廷は8月13日河内国で処刑(大阪府枚方市片埜神社にアテルイの首塚といわれるものがあるという)。
 

中尊寺から多賀城方面に向かう途中で達谷窟を訪ねた。坂上田村麻呂が達谷窟を根城に良民を苦しめる「悪路王」を討ち、蝦夷平定は毘沙門天(びしゃもんてん)の加護と感じ、毘沙門堂を建てたという。
 夕方で窟の奥は確認できなかったが、洞窟をふさぐように清水寺の舞台のような巨大な堂宇が建っていた。傍に「別当常住」という人の名でこう記してあった。

「この頃、征夷大将軍坂上田村麻呂公を中央からの侵略者、悪路王こそそれに抗した郷土の英雄とする考えがあるが、これはおかしい。悪路王は民衆を苦しめ、それを救ったのが田村麻呂であり、大将軍こそ東北古代史の英雄である」(概容)。

『アテルイの里情報』には「東北各地に多くの田村麻呂伝説が残り、田村麻呂が征伐したエミシとして“悪路王”や“赤頭”などが登場しています。アテルイの名前は歴史に埋没し、悪者として脚色された姿をとどめています」とある。
 ぼくは明日わらび座のミュージカル『アテルイ』を池袋で見る。
(04.2.7.)

菅原幸助さん

2009-04-24 07:18:52 | 中国残留日本人孤児
 4月23日(木)晴れ 
 昼頃、川越公園の河川敷の林を歩く。何日ぶりだろう。あの冬枯れの風景はどこにもなく、落葉樹が濃い緑の葉に覆われている。ケヤキもエノキも。地上は西洋タンポポの黄色い花が目立つ。
 我が家の一応庭もあっという間に初夏になった。コリンゴの花が散り、塀際のシャガの白い花が咲き続けている。
 明日からは遅い春を求めて、庄内・秋田の旅に出かける。

 菅原幸助さんの本をセブンイレブンに取りに行く。娘に頼んでインターネットで注文して貰ったのだがコンビニで本を買うのは初めてである。送料はナシ。

 高山すみ子さんの縁で菅原さん本人からこの本の出版を教えていただいた。読むのは5月になってからだがぱらぱらめくってみた。本屋の広告から概要を紹介します。ご自分のやってきたことを要領よく書き進めてきた闘いの記録です。ぼく向きの読みやすいドキュメントです。


   「中国残留孤児」裁判―問題だらけの政治解決

         菅原 幸助【著】
          平原社 (2009/04/20 出版) 価格: ¥1,890 (税込)


 国家とは何か、戦争とは何か。
 「満州」の曠野に遺棄された「中国残留孤児」らの人間の尊厳と国の謝罪を求めた裁判闘争の全記録。


   第1章 満州国の崩壊
   第2章 「残留孤児」の発生
   第3章 国会請願運動
   第4章 裁判闘争を提起
   第5章 法廷での意見陳述
   第6章 裁判支援運動の展開
   第7章 明暗を分けた判決
   第8章 政治解決の舞台へ


 著者紹介

 菅原幸助[スガワラコウスケ]
1925年 山形県鶴岡市に生まれる。
1939年 大山尋常高等小学校を卒業後、満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所に入      所。
1941年 満州国牡丹江省寧安県満蒙開拓青少年義勇隊寧安訓練所に入隊。
1945年 関東軍憲兵教習隊に候補生として入隊。
   8月、ソ連軍参戦により憲兵に任官。約2000人の邦人避難列車の護衛任      務に就き、満州を脱出。復員(公職追放令該当)。
1949年 公職追放令解除、庄内日報社(鶴岡市)に記者として入社。
1953年 朝日新聞社に記者として入社。苫小牧通信局長(61年)、北海道支       社報道部員(63年)、西部本社社会部員・警察キャップ(68       年)、山形テレビに出向(73年)、東京本社社会部員・中国残留孤      児取材班兼遊軍(75年)。
1985年、朝日新聞社を定年退職。
1987年 中国残留孤児問題全国協議会会長に就任。
1989年 社団法人神奈川中国帰国者福祉援護協会理事長、横浜中国帰国者自立      センター所長に就任。
1990年 鎌倉ユネスコ協会理事長に就任。
2002年 中国「残留孤児」国家賠償訴訟原告団代表相談役に就任(2007年      12月辞任)

 出典http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4938391457.html

 菅原さんは若い頃、「満州」で列車にすがる開拓団の婦女子を見捨てて帰国した。今日の活動の動機がその贖罪にあるとはお聞きしたことがある。
 しかし、菅原さん自身が満蒙開拓青少年義勇軍の出身だとは記憶になかった。しかもぼくがこれから訪ねようとしている庄内の生まれだという。
 新聞記者を辞めてからの活動にしては凄すぎると思っていたがその秘密が少し解けてきたように思う。ぼくのような大学卒のひ弱な精神構造とは違うのである。本物のインテリとはこういう人をいう。菅原幸助という人をさらに良く知りたいと思う。

石岡という方のブログが参考になります。http://blog.kajika.net/?eid=947792

 

善光寺(下)

2009-04-23 05:18:06 | 出会いの旅
 22日(水) 一日、『約束の夏』(若松みき江著・北海道新聞社)を読む。許さん(文京高OG)から借りた本。著者は北海道江別市に住む、許さんのお連れ合いの母の従兄のお嫁さんだという。
 末の息子をやむなく中国人夫婦の養子にして引き揚げた母の姿を長女が描く。

 約束の夏http://www.big.or.jp/~wakamatu/mikie/mikie.html

 このところ我が子と永別する他はなかった母の物語がつづく。
 
 娘に頼んでインターネットで注文してあった高山すみ子さんの『ノノさんになるんだよ 満蒙開拓奈落の底から』(日本図書センター刊・1992年初版・2575円)が届く。若松さんの住む江別市の古本屋から。どういう縁だろう。2400円(プラス送料340円)。

 以下は昨日の続きです。


  私の「善光寺参り」(続き)  鈴木倫子

●古式を守る‘若麻績’一族の祭祀
 善光寺というお寺さんは、聞けば聞くほど不思議な寺だが、‘若麻績’というのもまた不思議な一族だ。毎日仏様の前でお経を読み、信者から供養、祈願の依頼を受けて僧侶としての行をする一方で、自身の先祖は仏教とはまったく異なる作法でお祀りしているという。それは神主さんの祝詞とも異なるもので、一番近い例えは、皇室の葬儀・祭祀を小さくしたものと言えばよいかもしれない。どうやら朝鮮のそれも古い時代の葬儀・祭祀に一番似ているらしい、と、若麻績さんに説明してもらっても、私はどちらも見ていないから、実感がわかない。衣装は、夏冬問わず白い麻の着物だが、デザインは和服とはちょっと違うらしい。かろうじて、写真で見た韓国全羅道の葬送服を思い浮かべてみる。
 昔は毎日朝夕、今は毎月の1日、15日だけになったが、それでも一年通して、朝夕、定められた場所に行って執り行うのだそうだ。若麻績の一族持ち回りで当番がまわってくる。当番になると、昔は他国に出られなかった。何しろお役目が毎日朝夕だから、行ってかえってをするためには移動距離が自ずと制限される。いまは新幹線やら飛行機でたいていの国内なら日帰りできる。また、毎日のことではなくなったから、長期でなければ海外に行ってもかまわない、実際にそうしている。それでも別火(べっか。食事の火を別にする)だの女性と接しないだの出産禁止(お産は血をともなうのでこれを忌む)だのといった禁忌がある。当然のことながら、お産の禁は翌年まで有効だ。若麻績さん、今年はその当番だそうだ。Kすけサンの郷里でお祭りの頭家(とうや)という役割が持ち回りでまわってくるが、それにも、昔は同じような禁忌があったらしい。これは「神式」というか、むしろ「土俗」というか。いずれにしても、社家ならともかく、お寺さんの一族が持ち回りで、いつのころからか、おそらく74代というものは確実に、こんな先祖祀りを営々と続けているとは驚きだ。
 信濃の歴史は古い。麻績(おみ)だの安曇(あずみ)だのといった地名を見ても、諏訪神社の御柱(おんばしら)などの行事を見ても、そこには千代田のお城に坐す畏きあたりとは系統を異にする神様を携えた渡来人の気配が漂っている。それは「高天原から来た」と言い張る人たちよりさらに古い渡来人なのだろう。遠い遠い昔から「善光寺サン」と庶民に親しまれかつ篤い信仰を受け続けてきたお寺のご本尊も、それを祀り続けてきた人も朝鮮半島渡来とは、いやはや何とも感慨深いことだ。

●ブルーリボンを付けたお坊さんがいた
 ところでもう一つ記しておかなければならないことがある。本堂で11時半からの天台宗のお勤めが終わると、若麻績さんが来て「ぜひ、引き合わせたい人がいる」とおっしゃる。「父が亡くなってからは特に、いろんなことを相談にのってもらってきた、私の師匠のような人です」と紹介されたのは玄証院というこちらは天台宗のお住職・福島さん。話によれば若麻績さんより10歳ぐらい年長だが、むしろ年若に見える、色白のお坊さまで、若麻績さんとは対照的。ふと見ると、胸に青いリボンを付けている。「北朝鮮に拉致された日本人を救う会」のメンバーだ。
 若麻績さんが確立協に参加したり、「外」に向けて活動するようになる上で大きな影響と励みを与えられているという。善光寺という大船団のような組織を舵とりして方向を変えていくということは至難の業だし、一人突出して新しいことを始めるというのもはばかられるような気がしていたが、福島さんを見ていて、最近自分の心構えも変わってきたのだと、若麻績さんは語る。
 福島さんは、善光寺のご本尊の写しを開眼供養し、それを2年ほど前に百済の古都・扶余にある朝王寺(チョワンサ)に奉納されたという。朝王寺は百済時代の古刹があったとされる付近の、これも廃寺跡に創建されたお寺で、百済仏が1500年ぶりの里帰りをしたと、日韓の僧侶が大勢集まり、たいそうなよろこびだったという。こちらは秘仏にはなっていないそうだから、お姿を拝観したければ扶余へ行けばよい。

●ますます「気になる」善光寺
 善光寺には「檀家」というものがない。昔は「善光寺領」という寺領をもっていたが、明治維新から後は、それもなくなっている。したがって、経営はもっぱら「善光寺参り」をする善男善女の存在にかかっているのだろうと思う。それが何百年にもわたって、引きも切らずにある、ということが、なんだか不思議なことのようにも思われるのは、もっぱら私が不信心だからなのかもしれない。
 「浅草へ行くなら観音様」と同じノリで観光地として訪れ、お参りする人も少なくないだろう。また、「敬虔な信者」でなくても、初詣をしたり、新車を買ったから交通安全の祈祷をしてもらおうとか、生まれた子どもに祈祷をしてもらおうとか、厄落としだからとか、日本の宗教風土には、良くいえば融通無碍、有り体に言えばお気楽な「ご都合主義」が昔からあるようだ。かく言う私も、真っ暗闇のなかで「お浄土への鍵」を探ってがちゃがちゃやって喜んでるお気楽組だ。
 一方、そんないい加減なものじゃなく、マジで信じておすがりしに訪れている人がいまもいることも確かだ。私がいる間にも、病気の後遺症だろうか、車椅子に座ったり杖をついたりして家族と一緒に参詣に来た人の姿が幾人か見られた。
 史料館の古い絵馬には「目が見えるようになった」「足なえの足が立つようになった」お礼として奉納されたものが幾枚もある。それらは寺の宣伝や権威づけといった要素を多分に含んだ寺伝や縁起絵巻に描かれている奇勝、奇瑞の類とは素性の異なる、庶民の真摯な思いが込められている「証言」と言えるだろう。「善光寺さんのあらたかな御霊験」は、そうやって幾世代も語り伝えられてきたわけだ。
 若麻績さんも福島さんも、そういうマジ組の真剣な思いをうけとめる一方で、お気楽組や勝手組にも正面から向きあって、仏さまのことを語る。私には宗教や信仰のことはわからない。人間が創った仏像が、作法に則って「開眼供養」ということをすると「有り難い力を持つ仏さまになる」ということも、いくら考えてもわからない。ただ、お二人が、善光寺という大船団を現世の様々な問題にヴィヴィットにコミットできるものにしたいと願いつつ「救う会」のメンバーとして働いたり、確立協の会員として人々に働きかけたりなさっている姿をとても頼もしいと思う。そんなお坊さまが二人もいる善光寺って、ますます「気になる」お寺さんだ。また行ってみたいけど、Kすけサンは付き合ってくれるかしら。

善光寺(上)

2009-04-22 05:27:59 | 出会いの旅
2005年の春に善光寺を訪ねました。そのときに妻が書いた文章があります。7年ぶりのご開帳で忙しかろうと今回は挨拶も遠慮した若麻績さんという住職が案内してくれたのです。ぼくの文章よりはずっと面白いので 『木苺』122号から勝手に転載します。


  私の「善光寺参り」
                        鈴木倫子(川越市在住)

●「元祖渡来人」の寺 善光寺
 私、ことし年女、還暦、厄年。だからというわけでは全然ないけれど、善光寺サンに行ってきた。「牛に曳かれて善光寺」。昔々おばあさんが牛の角に引っかけられた布を追っかけていったら有り難や、信濃の善光寺サンにたどり着いた、という故事だが、私の場合は(当たり前だが)ちょと違う。何が縁かといえば、「在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会」あるいは「近江渡来人倶楽部」ということになるのだろう。何とも無粋なキッカケだが、東京や埼玉ではとうに終わってしまっている染井吉野、郷桜、枝垂れ桜に八重桜、桃の花、すももの花、触れなば落ちむ海棠の花、群れ咲くかたくり、菊咲きいちげ、朧にかすむ菜の花畑と、まあ、花尽くしの「上越・北信濃春風ドライブ」の途次だった。
 善光寺で待っていてくれるのは、ここはもちろん「仏さま」と言うべきだが、わたし的にはまず、個性派俳優「すまけい」を彷彿させる若麻績敬史(わかおみ たかふみ)さんだった。善光寺徳行坊(とくぎょうぼう)の副住職をつとめるお坊さま。お近づきになれたのは昨年、確立協立ち上げ集会のあとのお酒の席。「渡来人倶楽部の河さんにこの集まりを教えてもらいました」と言って手渡してくださった名刺を見て(あ、これはこれはなんとまあ、元祖渡来人でいらっしゃる)と、感激してしまった。
 「こちらは、そのもとは長野県には‘麻績村’という地名で残っている姓ですね」「はい。一番ふるい記録には‘麻績王’というのが見られますが、後に‘中麻績’‘若麻績’などの枝族が出てきます。‘若麻績’という姓は、はっきりした記録としては中世からです。私で74代目になります」。手許の紙ナプキンにボールペンで書きながら、由緒正しい日本語で穏やかに、気の遠くなるようなことをおっしゃった。以来、読んでも端から忘れてしまう『日本書紀』(岩波文庫)を寝床に持ちこんで、この本のときに限ってすぐに訪れる睡魔には抗わず、読んでは忘れ、読んでは忘れ、再会に備えてきた。
 ことし2月にお会いしたとき、善光寺サンに行くときには連絡させていただいて良いですかとお願いした。こういうときには誰だってそう言わざるを得ないものなのだろうが、「もちろん。どうぞ、どうぞ」。というわけで、4月の末に、若麻績さんを訪ねたのだった。善光寺での滞在時間をKすけサンは1時間あまりと予想した。私は2時間と踏んでいたが、実際には3時間あまりもおじゃましてしまった。
 まず善光寺事務所の応接室で、国籍取得権の運動のことやら、長野県でのさまざまな市民の活動のこと、そして、善光寺というお寺さんのことや、若麻績家が代々続けてきた私的な祭祀にかかわる興味深い話などを聞かせていただいた。その後、本堂に行き、内陣にすわってお坊さんたちのお勤めに立ち会い、それから「お戒壇めぐり」。これはご本尊を安置した瑠璃壇の真下にある回廊をめぐり、「浄土」への扉の鍵をがちゃがちゃならして仏さまとの縁をいただくというものだが、すぐ前を歩く人の白い衣服も見えない真の真っ暗闇を手探りで歩いていく。地上に戻ってしばらく待ってもう一度お勤め。最後に忠霊殿にある史料館を見学。それをすべて若麻績さんが懇ろに案内してくださった。以下、その間にお聞きした興味深いお話の数々のうち、記憶の網の目にかろうじて止められたいくつかを紹介したい。

●百済から来た仏さま
 まず、なんで2度続けてお坊さんのお勤めが行われるかと言えば、善光寺さんには41の塔中(たっちゅう)、子院があるが、それぞれが天台宗かまたは浄土宗に所属している、つまり善光寺さんというのは二つの宗派が共存しているお寺で、だから本堂でのお勤めも天台宗、浄土宗それぞれに行う。なんと本堂のお住職も二人、天台宗と浄土宗から一人ずつ出ているそうでびっくりした。善光寺さんというと普通まず本堂のことを言うが、同時にそれら41カ寺の集合体でもある。そのうち15カ寺の住職が若麻績姓で、世襲されている。ちなみに若麻績さんの徳行坊は浄土宗である。
 絶対の秘仏とされているご本尊「一光三尊阿弥陀如来」はいわゆる念持仏サイズで、阿弥陀さまと脇侍の勢至菩薩、観世音菩薩の三体が一個の大きな光背でつつまれているそうだ。この仏さまは寺伝によれば欽明天皇13年(552年)、百済から招来された日本最古の仏像で、皇極天皇元年(642年)に今のところに祀られたそうだ。開山は「本田善光(ほんだよしみつ)卿」といい妻と息子をあわせ3体の木彫座像を安置した「御三卿の間」というスペースが瑠璃壇の向かって右隣にしつらえてある。寺号は開山の名に由来するというが、それにしては「新式」すぎる名前だ。「奥方は弥生の前」などというのも、なにやら中・近世の「説教もの」臭い。おそらく後世つくられた名前だろう。裳を着けて片膝を立てている奥方の姿勢や衣装から見て、あるいは名前より木彫座像の方が古いかもしれない。
 とはいえ、仏さまを百済から、さらに大和から、誰かがこの地にお連れしてきてお祀りしたことには違いない。若麻績さんは思慮深く誠実に、記録にない不確かなことをおっしゃらない。が、素人の蛮勇で憶測をたくましくすれば、この仏さまは若麻績さんの遠い先祖か、あるいは関わりの深い誰かとともに、この地にたどり着いたものだろうと思われる。
 若麻績さんの話によれば、‘若麻績’というのはご本尊にピッタリついて遍歴・流浪する一族であるらしい。この小さな仏さまは、古来、霊験あらたかな有り難い仏さまだった。それで、武田信玄が信濃を攻めたとき、これを奪って甲斐にお連れしてしまった。甲斐善光寺に納めたが、お守りしていた若麻績氏が甲斐の国まで追いかけていき、その一族は秘仏が返された後も甲斐の国にとどまり、今に至っているという。武田信玄は甲斐の国を仏国土とするために善光寺の仏さんを連れて行ったのだという説もあるそうだが、人様が大切にお守りしている仏さんを「拉致」して仏国土を創ろうなんて、ろくな後生であるわけがない。信玄の死後、息子の代になって善光寺にお返しされた仏様を、今度は松平時代の家康が奪い去った。それからさらに織田信長の弟・織田信雄を経て、豊臣秀吉の手に渡った。秀吉が死の床でみた夢にご本尊が現れて「私を信濃善光寺に帰してくれ」と言ったので、後生を怖れた秀吉によって仏様はようやく善光寺にお帰りになることができたという。
 若麻績一族は昔からここの仏さまをお守りしてきたが、初めのうちは僧職としての位階はもっていなかったそうだ。仏さまをお守りし、仏教に帰依しているが僧ではなく、また俗かと言えば俗でもない、「法然さんが説く理想的なありようだったようだ」と、若麻績さん。(つづく)

高山すみ子さんの故郷

2009-04-21 22:51:39 | 中国残留日本人孤児
 昨日、カツヨシさんが様子を見に来てくれたので、高山すみ子さんに借りてきたVTRを一緒に見ました。「遙かなる大地の墓標」(95年・長野朝日放送)など。集団自決で二人のお子さんが銃殺された現場(佐渡開拓団跡)に立って当時のことを語るという言いようのない場面もあります。
 5月9日のバスの旅で高山さんにお会いする前に皆さんに見て貰うのですが…、こんな旅ってどこにもないですよね。でも、高山さんにお会いするからにはカットするわけにはいきません。
 「残留孤児」の方々はどういう風に受け止められるでしょうか。子供や孫たちは?高山さんとの出会いが人間のすばらしさを確かめ合う場になるに違いないと確信しながら、それでもぼくの心は穏やかではありません。

 4月18日(土)快晴

 8時半頃にご開帳で賑わう善光寺へ。前立本尊につながっているという回向柱にさわるための長い行列に並びます。思ったより早く順番が来てご縁をいただいてきました。境内を一巡して帰るときには、行列は途方もなく長くなっていました。それにしても善光寺に引きつけられていく人の多さよ。

 善光寺ご開帳http://www.gokaicho.com/gokaicho/

 豊田の高野辰之記念館に寄ったあと、木島平村の高山すみ子さんの自宅に向かいます。
 挨拶もそこそこに妻の車で「樽滝食堂」へ。初対面であるにもかかわらず、甥か姪の一家を迎えるように心を許してくれます。オヤマボクチという野草の繊維をつなぎにしているというそばを昼食としました。「名水火口(ぼくち)そば」と銘打ったそば粉十割の腰のある名物でした。
 
 オヤマボクチhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%9C%E3%82%AF%E3%83%81
 
 昼食後、菜の花の丘公園、犬飼小学校跡、福島の棚田(映画「阿弥陀堂だより」の舞台)、黄梅山実正寺と、今は飯山市となっている旧瑞穂村を案内して貰いました。此処こそがすみ子さんが「満州」に渡るまで住んでいたふるさとなのです。
 父の死の翌年、家を処分してお母さんと兄夫婦とともに新潟から「渡満」しました。だから実家は残っていません。
 「水呑百姓」で貧しかったと言います。子供の時は親戚での子守奉公の合間に長い坂道を学校に通いました。阿弥陀堂の辺りは本家の菜種畑で、よく手伝ったといいます。阿弥陀堂の裏山の三部社は当時からある祠で友達と遊んだところです。子守をしながら村の子供が登ってきたのでしょうか。

 お茶を飲んでいけと言われるので木島平のお宅に寄りました。仏壇には「満州」で犠牲になった旭(あきら)さんと玲子さんの写真が飾ってあります。
 あれから64年近い月日が流れ、夫君が帰国してからお子さんにも恵まれました。「満州」の地を何度か訪ね慰霊もしてきました。しかし、最愛の子をあの世に送った母の苦しみから解放される時はなかったようです。
 あれらのことはなかったかのように進んでいく時代、すみ子さんの思いに寄り添って生きる人がどのくらいいたのでしょうか。10数年前、親戚の人たちが出版祝いをやってくれたそうですが、孤立感がすみ子さんをいっそう苦しめたのではないかと勝手に想像しました。
 文字通り「棄民」として何度も棄てられてきた人です。しかし、稟とした気品を漂わせるお祖母ちゃんです。その魅力の秘密にぼくは少しでも迫りたいと思います。妻も菜穂子ちゃんもそう思ったのではないでしょうか。
 父母の墓参りも出来て嬉しかったと言ってくれました。折を見て訪ねてまたアッシイくんをやりますと妻は言います。
 美しい風景に惹かれて何度も訪ねたこの地にこんな素晴らしいお祖母ちゃんが住んでおられたのです。私たちは何という果報者かと思わないわけにはいきません。

 第9回移動教室。菜の花は見られないかも知れません。でも、高山さんに出会うまたとない旅になります。

 高山さんの家からよく見える高社山の中腹の宿で温泉に浸り、9時から「遙かなる絆」を3人で見ました。

  19日(日)晴れ

 渡したいものがあるといわれるので高山さんのうちに寄りました。大切にとっておいた昨年のリンゴを箱ごとお土産にしてくれたのです。
 おうちの前の小学校だけかと思ったら、そのウラは「ケヤキの森公園」でまさに花盛り。その豪華さは形容の言葉がありません。
 こんどのバス旅行でお祖母ちゃんの出迎えを受ける場所がきまりました。昼時に此処にたどり着ければ最高です。

 高社山をまいて中野の土人形館脇の高社郷開拓団慰霊碑を訪ねました。この辺りは桜の名所で大変な人出です。道が狭く大型バスでの訪問は無理なことがわかりました。
 これで今回の旅はおしまいです。くだもの街道を南下して須坂ICから信越道に載りました。
 菜穂子さんがいい旅ができたと喜んでくれました。高山さんとは初対面なのにまるで古くからの知り合いみたいにうち解けて交流しているのが不思議に思えたといいます。


小布施の久保さん

2009-04-20 12:38:34 | 出会いの旅
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 昨夕、関越道は渋滞しているというので上信越道・吉井ICで高速道路を降り、国道254で7時半頃川越に帰り着きました。今回は菜穂子さんとの3人旅で何時にも増して心弾む3日間となりました。忘れないうちに旅のメモ。

 17日(金)曇り

 信州・小布施(おぶせ)の久保さん宅にいちもくさん。菜穂子さんとの会話が弾んで妻の運転も快調です。
 彼女が15歳の時、池商の一年生として出会って以来25年が経っています。担任としては1年間だけですが「韓国・朝鮮を学ぶ会」の活動などで高校生の時もあちこち一緒に出かけました。千曲川の源流の川上村の出身の篤さんと結婚しているので、信州方面の旅に一度は誘おうと思っていたのです。
 二つ返事で突然の誘いに乗ってくれました。篤さんも娘の笑さんも乗り気だったのですが学校を休むわけには行かないということでお二人は留守番ということになったそうです。
 久保さんは手作りの料理で接待してくれました。新鮮なせいか「馬刺」がことのほか美味。地元の銘酒「渓流」が心地よくのどを潤します。ふだんは全くやりませんが、こういうときには酒をおいしく飲めるのです。不思議ですね。
 12日に一族が集まってケサ子お祖母ちゃん(久保さんの母上)の一周忌があったばかりです。06年の今頃、孫娘の佐和子ちゃんとおたずねして以来、親戚同様のおつきあいをさせて貰いました。妻の都合で法要にはこられず、皆さんにお会いできなかったのは残念でした。あれこれと思い出話に花を咲かせました。

 久保さんの庭造りは正真正銘のプロの仕事です。長い年月、日々手塩にかけてきた盆栽たちが数百(?)、皆それぞれに春の喜びを体いっぱいで表現しています。
 好奇心旺盛な菜穂子ちゃんが次々と質問を発するので久保さんは大張り切りです。ぼくが「あのぼやぼやとした花は?」と聞いたときには大目玉を食ってしまいました。「ぼやぼやとは何事か、丹誠込めて咲かせたサンシュユを」と怒っているようです。
 自宅の庭ばかりではありません。妻の車に同乗して千曲川の河川敷の盆栽畑、雁田山のふもとの第二庭園と次々に案内してくれます。母上の介護のため退職して以来百姓を自認していますがその正体はこれなのです。
 この方の道楽は盆栽だけではありません。日本は言うに及ばず、韓国・中国・台湾・東南アジア一帯の置物のお土産品の一大コレクション。家中に展示されているばかりでなく奥まった部屋が秘密?のコレクションルーム。菜穂子ちゃんのお陰でか、今回初めて招じ入れて貰いました。
 長く商社に勤め、土産物の買い付けと卸を専門にしてきただけにどの置物にもその土地の「曰く」がついています。
 初版本の収集もただならぬものがあります。こちらは近く公開できるよう整備中らしい。
  
 趣味というか、道楽というか、投じてきた資(もとで)もぼくには想像がつきません。おもちゃの博物館?をやっているコニヤンなら理解し合えるかもしれません。

 終わりに岩松院へ。北斎の天井画で知られています。10数年前お祖母ちゃんと一緒に来たときと同じように仰向けに寝て鳳凰の図と対面しました。(今は禁止されています。人がいなかったのでやってみたのです。)お祖母ちゃんの墓は本堂の裏山の墓地にありました。遙かに小布施の町を望む景色のいいところです。どこもかしこも花盛りです。西行の歌を思い出しました。

 願わくは

 花のもとにて春死なむ

 その如月(きさらぎ)の

 望月(もちづき)のころ

 

 
 人一倍母親思いの久保さんは一周忌の法要にあたり、この西行の歌を引いて喪主としての挨拶をされたそうです。
 お祖母ちゃんは「盛一、良かったよ。」とえくぼをみせてほほえんで居られることでしょう。

 長野の宿に着いたのはもう日も暮れる頃でした。





木島平村から

2009-04-19 08:59:06 | 出会いの旅
 好天に恵まれて北信濃の旅を続けています。昨日は善光寺に参詣した後、木島平村の高山すみ子さんに菜の花公園、ご自身の母校・旧犬飼小学校址や福島の棚田、それにご両親の眠る菩提寺などを案内してもらいました。
 帰りにお宅に寄せてもらい仏壇にもおまいりしました。遠くから帰った子供たちを遇するようにもてなしてくれます。僕は「満州」で「殺した」ご長男と同年齢なのです。何十年経とうとその心は癒されることがないようです。
 困ったことがあります。桜も菜の花も今が盛りなのです。5月3日から始まる『菜の花祭り』のころにはどうなっているのか?
 中国や北朝鮮から来た人々に「日本の春」の一番いい風景を楽しんでもらうという僕の目論見が怪しくなってきました。季節の進行が今年はあまりにも早すぎるのです。
 出発の時間になりました。帰ったらゆっくり報告します。

18日(土)夜9時・NHK

2009-04-17 05:17:39 | 中国残留日本人孤児
 今日は9時に川越を出発して長野県の北部への小旅行です。5月9日に予定されている「第9回きいちご移動教室」の下見をかねています。小布施・中野・長野・飯山・木島平などを2泊3日で廻ります。知友のほか、高社郷開拓団集団自決事件の生き残り証人でもある高山すみ子さんにもお会いしてきます。
 池商87年卒の菜穂子さんが同道してくれます。一年次はぼくがHR担任です。「韓国・朝鮮を学ぶ会」で3年間付き合いました。娘さんがもうすぐ高校生です。学校があるので一緒に行けないのを残念がっているとのことです。菜穂子さんの同道で楽しみが増えます。ぼくの十八番(おはこ)の北信濃をゆっくり案内することができます。

 連続ドラマ『遙かなる絆』がいよいよ今週土曜日にはじまります。

 城戸久枝さんの『あの戦争を遠く離れて』が原作です。中国残留孤児・城戸幹さんの娘さんが父の生きてきた道を尋ねる限りなくドキュメントに近い作品です。
 ぼくの友人のTさんが半生を過ごした黒竜江省林口や牡丹江が舞台です。この家族とのつきあいはもう20年以上になります。まだ見ぬ村や町の風景をみせてもらうだけでもぼくには喜びです。
 残留孤児とその家族のドラマは『大地の子』以来です。「川越だより」の読者の皆さんが見てくださることを期待して再度ご案内します。

 遙かなる絆http://www.nhk.or.jp/dodra/harukanaru/
 
 番組のHPの「掲示板」に投稿しました。幹さんと同じ職場で働いていた方の投稿もあります。
 信州から「川越だより」は届けられるでしょうか?


北朝鮮⑧朝鮮総連(下)

2009-04-16 05:52:59 | 韓国・北朝鮮
 高さんの講演の最終回です。信じられないような独裁体制のもとで人格を歪められ飢餓に苦しむ人々がいます。どうしたらこの独裁体制を崩すことが出来るのか。世界中の人々が考え出来ることを見つけていかなければなりません。


朝鮮高校・朝鮮総連と私(最終回)  高英起


■変な国が変な人間を作る、北朝鮮の人心の荒廃
 たくさんの脱北者と会う中で、もっとも感じたのは脱北者の心の荒廃です。変な話ですが、脱北者に会えば会うほど救援しなければという思いと同時に脱北者を嫌いになっていくんですよね。支援しているのに嫌いとは何事か? と思われるかもしれないですけれども…。
 北朝鮮の人間って、よくいろんな本とか、レポートでも指摘されていますが、ウソを凄くつくんですね。それも、その場凌ぎの嘘なんですよ、何でも…。誰が見てもおかしいやないかというウソをつくんですけれども、よくよく聞いてみると、彼らは、ウソをつかなければダメな社会で生きてきたわけなんですよね。北朝鮮っていうのは、そういう社会だと思うんですよ。だからウソをつくことに対する罪悪感というのが、ないんですね。つまりそれは、処世術みたいなもので…。もちろん今の北朝鮮で生きているには必要な事かもしれないけど、今度北朝鮮が改革・開放されたりしていく中でこういった問題は見過ごす事ができないと思います。結論的には、言い方が悪いんですけど、「変な国が変な人間を作っちゃった」のだと。逆に言うと、だからこそ変な国北朝鮮という体制を何とかしなければいけないのだと思います。
 このあたりの話は、はじめるととても長くなりますし、ジャーナリストの視点やNGOの報告などで優れたレポートが出ているので、そちらに譲りたいと思います。

■帰国後、北朝鮮問題がクローズアップされる。
 1999年に帰国して、脱北者の問題を中心に北朝鮮の民主化を訴えて行きますが、さすがにその頃は一年間中国で脱北者の現状をこの目で見てきましたので、以前のような迷いもなく北朝鮮問題の議論でも自信を持って民主化を主張できるようになりました。
2002年に「瀋陽領事館ハンミちゃん一家駆け込み事件」を通じて、脱北者の問題が大きくクローズアップされ、その後の、小泉さんの訪朝によって拉致問題が大きく取り上げられ、RENK結成当時から比べると北朝鮮問題に対する社会の関心は比べものにならないほど大きくなりました。
と、同時に現在の北朝鮮報道に対する問題点も指摘されています。僕自身もテレビ番組のディレクターという立場で報道に関わっているのですが「やり過ぎかな?」と思ったり、本当にこんな事であの国を民主化に導けるのかと思うこともあります。
 ただ、あの国のグロテスクな真の姿を訴えるためには、金父子が行う変な軍事パレードとか、喜び組(キップムジョ)とか、ああいうグロテスクなことを、たとえ興味本位であっても、目を向けるようにならなければと思います。そんな体制の中で生きている人間が、今どんな立場に置かれているのかということを今の日本社会に知っていただくことの必要性を強く感じます。

■キーワードは「人権」と「民主主義」
 そして、最終的に、北朝鮮問題を訴える時に何が大切なのかというのを、僕はこの10年近く、11年になるんですかね、考えてたんですけど、簡単なことだと思います。

使い古された言葉かもしれないけど、「人権」と「民主主義」だと思います。
 
民主主義と人権という言葉は、得てして使い古されているし、簡単な故に、使うことが憚られると思います。「北朝鮮の民主化」と言うと、時々左翼の方とかが「そうは言うけど、日本の民主主義もそんな大したもんじゃない。北朝鮮の民主化を言う資格があるのか?」などと平気で言う人間がいたんです。
しかし、日本の民主主義にまだまだ問題あるとしても北朝鮮ほど物を言えない社会と、日本の社会を、並べて比べることは、民主主義に対する冒涜だと思います。我々在日コリアンもいろいろ問題がありながらも、日本でこうやって普通に暮らせているということは、それだけ人権が保障されていることだと思います。

民主主義と人権は、絶対的なものでなくて相対的なもので考えるしかないと思います。

少なくとも、今の北朝鮮と日本とを比べたら、北朝鮮と韓国と比べたら、人権以前に「人の命」が蹂躙されている北朝鮮は、一番ひどい。それに対して目を向けて、問題意識を持っていくというのは当たり前のことだし、そういう普通の人の感覚というものを、もっと大切にしなければダメだと思います。幸いですね、朝鮮総連の中でも、やっとそういう普通の人の感覚を持っている人が徐々に出てきているみたいです。
 今その北朝鮮とかの批判をしていると、「そんなに北朝鮮が憎いのか?」とか言われる事があります。僕としては北朝鮮は決して憎悪の対象ではない。むしろ愛すべき存在であると。それは、金日成、金正日体制に対してではなくあえぎ苦しんでいる「北朝鮮の一般の人々」に対してです。嘘をつく。セコい。自分の力で何もしようとせず、すぐ他人の力を頼る。北朝鮮の人々は、そんなどうしようもない人間が多いけど、僕にとっては愛すべき人たちです。
そんな人たちのために自分のやっている事が少しでも助けになればと思って日頃の活動をしています。
 かつて、ほんの少し韓国民主化運動に関わったこともあります。韓国は民主化運動を通じてまだまだいろいろ問題はあるけれど、着実に民主化の道を進んできています。それを見た時に、今の韓国というのは、韓国人が自分自身で自分たちの民主主義を追及していけばいいレベルに達したといえます。
ところが北朝鮮の人々はというとなかなか…。最終的には北朝鮮の人々が、自ら立ち上がって北朝鮮の中で民主主義というものを、樹立しなければならないと思うんですけど、残念ながら今の北朝鮮がそういう状況にない。

 そんな中、僕に出きることはフェンスの外から石を投げているだけかもしれない。リングの外からヤジを飛ばしているだけかもしれない。それでも、少しでも民主化のために手助けが出きればと思っています。
何も勝者の勝ち名乗りがほしいわけではありません。都合よく勝者に対して「俺のおかげで勝てたんだ!」などと言うつもりはありません。ただ、僕が会ったたくさんの脱北者をはじめとする北朝鮮の人々、特に子どもたちが少しでもおいしいものが食べられて、暖かい場所で寝る事ができて、そして大人から優しい言葉をかけられる・・・北朝鮮がそんな社会になってほしいだけです。
 本来であれば、僕にそういう行動力と勇気があって、もし可能ならば、それこそ北朝鮮に行って、民主化のためのゲリラ活動ならば、できるものならしてみたいと思うんですけれども、残念ながら、今はそういう状況にはありません。その中で、今自分にできることというのは、それしかないんじゃないかと思うし、それに対しては、今後も僕なりに、RENKなりに進めていきたいと思っています。
(05年10月2日に行われた「北朝鮮へのまなざし」を考える連続講座での講演を
高英起さん自身に加筆訂正してもらいました)(『木苺』130号所収)


 


北朝鮮⑦朝鮮総連(中)

2009-04-15 07:12:09 | 韓国・北朝鮮
 夜来の雨が上がり抜けるような青空です。この詩を思い出します。
 
 送元二使安西  (元二の安西に使するを送る)

          王維

  渭城朝雨浥軽塵   渭城(いじょう)の朝雨(ちょうう)軽塵(けいじん)をうるおす
  客舎青青柳色新   客舎青々(かくしゃせいせい)柳色(りゅうしょく)新たなり
  勧君更尽一杯酒   君に勧む更に尽くせ一杯の酒
  西出陽関無故人   西のかた陽関(ようかん)を出ずれば故人なからん 



 昨夜、室戸から嬉しい電話がありました。大阪に住む美智子さんの久しぶりの故郷訪問ということで松山から将史さん夫妻も駆けつけています。何よりも嬉しいのは姪(めい)が来たというので桂子おばさんが我が家に来てくれたことです。近くに住んではいますが長く闘病中のため暫くこのような席にも出られなかったのです。よっぽど嬉しかったのでしょう。
 電話を通して歌舞音曲の賑やかな様子が伝わってきます。父が逝って一年半、我が家に久しぶりににぎわいが戻ってきたのです。妻と二人で、故郷の親戚の一人一人と順番に会話しました。桂子おばさんから力強い励ましを受けました。


 以下は昨日の続き。

 朝鮮学校・朝鮮総連と私  高英起

■北朝鮮の民主化へ~RENK闘争の日々~
その後、RENKは「緊急行動ネットワーク」という名称通り、様々な行動をします。我々は、まず声を挙げて、北朝鮮の実情を世間に知らしめて、この問題に関心を持ってもらうしかないと。そのためにはカラダを張ってでも抗議行動をするべきだ。そして北朝鮮当局に、こういうふうに北朝鮮を批判している勢力があるんだということをアピールするべきだと朝鮮総連本部に抗議行動をしたり集会やデモをしました。
 一番効果的だったのが、当時、頻繁に日本に訪れていた北朝鮮の高官に対する直接デモでした。あの手、この手を尽くして北朝鮮の要人が来る日程に合わせて、ビラを配ったり、トラメガを使って抗議行動をしました。新幹線で来るとなったら新幹線の駅まで迎えに行って、垂れ幕で北朝鮮の民主化を訴える。港に船がつくとなったらモーターボートをチャーターして会場で抗議行動をする。どこへ行ってもゲリラ的にどこからか出現して少人数にも関わらず、抗議行動をするRENKに対して朝鮮総連や北朝鮮当局はさぞかし、苦い思いをしたことでしょう。「海上抗議行動」を敢行した我々の内部では「陸上戦と海上戦は偉大なる勝利で制覇した。残るは空中戦だけ。次は空からの抗議行動だ!」というような勇ましい声もありましたが、残念ながら空からの抗議行動は実現するに至っておりません。抗議行動をする中で一番ビックリしたのは、黄長(ファン・チャンヨプ)さんの韓国亡命です。実はあの方が、京都で講演している真横で、我々が大きい抗議行動したんです。その翌日か、翌々日に亡命したって聞いた時は、ビックリして、勝手に「俺たちの抗議行動に黄長(ファン・チャンヨプ)氏が突き動かされた!」(笑)なんて勝手に解釈してました。後日談によると実は黄長氏は、中国ではなく、日本での亡命を望んでいたが、RENKがしつこくつきまとうので、総連も警備を強化せざるを得なくなり、結果として黄氏が自由になれず、日本での亡命を断念したとの事です(笑)。
 いずれにせよ、直接抗議行動を通じて、わずかながらも北朝鮮の実状に目を向ける方も多くなり、手応えを感じながら北朝鮮の民主化を叫んでいました。

■ 日本での運動の限界~中国東北地方で北朝鮮民主化を叫ぶ~ 
 RENKは北朝鮮の民主化を訴えてますが、一番最初のきっかけは北朝鮮の食糧事情が悪化しており、このままでは餓死者も出るかも?という李英和さんの主張が出発点です。もちろん、その悪化の原因は故金日成と金正日の独裁体制に起因するということで、民主化をうったえることになりますが、きっかけは食糧問題です。そして、李さんの分析は見事に当たり、94年頃から北朝鮮で餓死者が出るようになります。その事実が、メディアを通じて徐々に人の目に触れるようになって来たことから、RENKの中で日本という限定された地域での活動の限界が議論されるようになりました。特に以前、この学習会でも講師をされたアジアプレス所属のジャーナリスト、石丸次郎さんの北朝鮮の生の情報は、我々に飢餓に苦しんでいる北朝鮮の人々を助けなければいけないという重要性を感じさせました。とは言っても直接北朝鮮に行くこともできない現状の中で、李英和さんや石丸次郎さんから誰かが中国吉林省延辺に長期滞在して北朝鮮難民の支援や実状を調べる作業が必要だという提案がされたのです。その提案に立候補したのが僕でした。
当時、僕は大阪市の水道局に勤めていました。不景気で公務員ということで周りから羨まれる立場でしたが、もっと広いフィールドで自分の北朝鮮を見る目を養いたいという強い願望があり、結果的に水道局を辞めて、延辺に旅立つことにしました。長期に滞在するわけですから、しっかりとした理由が必要ですので、一応表向きは留学生という形で、留学することになりました。
今でこそ、延辺をはじめとする中朝国境はニュースなどにもよく出ているし、そんなに特別な都市ではないのですが、当時は、恥ずかしながら僕自身中国東北地方の北方の延辺って、どういう都市かわからないし、北朝鮮の工作員もウヨウヨしているという話もあったので、僕が延辺で脱北者と会ったり、支援をしている中で、何か自分の身に起きるんじゃないかということを思ったりもしました。そんな話をウチの連れ合いとする中で、何か自分の身に起こった時のために忘れ形見が欲しいなあという話になって、延辺に旅立つまでにがんばって子どもを作ろうという話になりました。せっせと励んだ挙句(苦笑)、幸い延辺に立つ直前にウチの妻が妊娠しました(テレ笑い)。しかし、いざ妊娠したとなるとさすがに焦りも生じたのですが、なんとか子どもの顔を見れるように帰ってこようと自分自身を奮い立たせて旅立ちました。
 延辺大学には語学留学生という形で所属しました。僕は3年間朝鮮学校に通ったので、朝鮮語の基礎は、ある程度あったんですけど、3年間で学んだ朝鮮語の基礎なんて大したことはないし、朝鮮学校って確かに朝鮮語で授業をしていますが、そんなに語学のレベルは高くないんで延辺大学の留学生活で朝鮮語を学びながら、地元の協力者と手を結びながら、脱北者の支援と調査を始めました。
 実際に中朝国境で学生生活と活動という二重生活をする中で、もっとも衝撃的だったのが、北朝鮮の子どもたちの惨状でした。僕が滞在した1997年と1998年は、もっとも脱北者が多かった時期と言われています。たとえば、町の中心の市場に行く度に、所謂『コッチェビ』と言われる北朝鮮の子供を見かけました。中国には中国人の浮浪児もたくさんいるんですが、明らかに北朝鮮の浮浪児とは違うんです。何が違うかというと、まず年齢と体格が合っていないんですね。年齢を聞くと、12歳と言うんですけど、どう見ても幼稚園児くらいの年齢にしか見えないんです。あと、皮膚病にかかっていたり、体のバランスが非常に悪い、頭だけが異常に大きかったりとか、後でお医者さんに聞いたら、病気ではなくて、栄養失調でそうなるらしいんです。
そういう子供たちに毎日のように会う。子供たちを見つける度に、近くで買ったパンとか、飯など食わせながらいろいろ聞いていくんですけども、子供たちの口から出てくる状況というのが、悲惨な状況で、初めて北朝鮮の悲惨な状況というのを、自分の目で見て、聞いたというのを感じました。

■想像を絶する北朝鮮の飢餓地獄
飢餓、飢餓といっても、なかなか僕ら日本に住んでいたら、想像できないと思います。食べ物がなくなって亡くなっていく、それだけでも想像できないと思うんですよ。どうやって死んでいくんかなっていうのは、なかなか想像できないと思います。子供たちに話しを聞くと、食べる物がなくなっていくだけが、直接の死因じゃないと。食べる物がなくなることによって、栄養失調になって体力なくなって死んでいくだけではなくて、感染症や病気にかかりやすくなって死んで行く。さらに衝撃的だったのは、そういった話を子どもたちがさりげなく話をする。もちろん両親が死んだという話しになれば涙ながら話す子どももいましたが、それ以外の子どもは近所の人が死んだの親戚が死んだのという話を日常会話のように話す。それだけ飢餓が一般的だったということですね。そういった子どもたちの証言を日本に伝えるわけですが、当時、日本の中ではそういった証言に対して、そういう悲惨な話をすれば韓国人や旅行者がお金をくれるから、大げさに言ってると反論するような人もいたらしいです。子どもたちに話を聞くときは裏取りのために同じ事をしつこく聞いたりするのですが、ほとんどの子どもが首尾一貫して、事実をありのまま話していました。中には、それらの子どもは北朝鮮の子どもではなくて、中国の子どもだというような滑稽な反論もありましが、中国人いわゆる漢族の浮浪児はいても、朝鮮語を話せる朝鮮族の浮浪児は本来ほとんどいない。さらに僕は北朝鮮の子どもに話を聞くときに必ず、金日成と金正日の誕生日を聞いていました。この二つを淀みなく答えられるのは北朝鮮で育った人間ぐらいしかいてません。子どもたち以外の脱北者にもたくさん逢いましたが、みな悲惨な生活を送っていました。
その後、野田正彰(精神病理学者、関西学院大学教授)さんというお医者さんが、フィールドワークとして、北朝鮮の脱北者の心理状況を知りたいということで、一緒に中朝国境で脱北者の話を聞く機会があったんですけど、子どもたちの背が低かったり、成長していないのは、飢餓によるものだが、もし彼らが今後、ある程度栄養状態が改善されて、満足に食べられたとしても、確実に障害は残って、完治はしない。そして飢餓の傷跡は、10年、20年どころか下手をすれば100年かかるかもしれないと指摘された時は、改めて僕自身「あ~北朝鮮の問題に取りかかるのが遅すぎたなぁ~」と思いましたが、少しでも状況を改善するために改めて北朝鮮は民主化されるべきだと思いました。(つづく)


 


北朝鮮⑥朝鮮総連(上)

2009-04-14 11:14:44 | 韓国・北朝鮮
 私たちが主催した「北朝鮮へのまなざし」を考える連続講座(第14回 05年10月2日)で高英起さんが話された内容の後半部分を紹介します。北朝鮮の独裁体制を支えてきた右足か左足かにあたるのは在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)です。
 今では『朝鮮総連』と題した本も二冊は出ていますが、どの本の著者も自らがその組織に深く関与しながら、自らの責任を問うことのない(?)誠実さに欠ける印象を持ちました。
 高さんは深く関わったわけではありません。その中で育った人です。
 
 自己が育てられてきた歩みを直視し、相対化する目の確かさと誠実さにぼくは深く感動しました。
 
 今はどこにも公開されていないので、長くなりますが紹介することにします。どこに行っても聞けないだろう貴重なお話です。(『木苺』130号所収)



         朝鮮学校・朝鮮総連と私
             高英起(コ・ヨンギ)

■北朝鮮の民主化
 北朝鮮の民主化運動をはじめるきっかけは現RENK代表であり、関西大学の恩師でもある李英和さんとの関わりがきっかけです。李英和さんとは大学入学して間もないころから師事していました。彼が北朝鮮へ留学すると聞いた時「何を好きこのんで、あんな国に留学するのだろう?」と疑問を抱きましたが、逆に考えると李英和さんなら、当時はまったくわからなかった北朝鮮の真の姿を見てきてくれるのではという期待もありました。
 帰国後、李さんは北朝鮮の惨状をあますところなく、僕や周りにいた在日コリアンの学生に訴え北朝鮮の民主化の必要性を訴えました。しかし結成された1993年当時は北朝鮮の惨状など、まったくと言っていいほど知られてなかった。ましてや李さんや僕などが属していた左翼陣営の中では北朝鮮批判は日本の拝外主義やアメリカ帝国主義(!)を利するからとうい理由でタブーとなっていました。しかし北朝鮮の民衆が想像以上の惨状の中で苦しんでいる事に異議を唱えないで人権や民主主義を訴える資格はないという李さんの熱い訴えに突き動かされて、李さんを中心にRENKが結成されることになりました。この時の学生メンバーの中心は僕が所属していた関西大学の朝鮮歴史研究会のメンバーです。
僕を含む数人の在日コリアンの学生は「北朝鮮の民主化」という新鮮な響きに新たな地平を求めて、闘いの中へ身を投じたのです。と言ったら格好いいですが、実際は若気の至りというか(笑)、先に述べた留学生同盟のヌルいやり方の中で、熱いエネルギーのやり場に困っていて学生たちの「いっちょ、やったろか!」というイキオイで参加したというのが、正直な話でしょう。とは言いながらも、「北朝鮮の民主化」を訴える中で経験した朝鮮総連や左翼陣営との軋轢の中でメンバーは次第に自らの意志に確信を持ち始め、結果的に強い結束を産み出しました。

■ 始めてから気がついたことの重大性
 北朝鮮の民主化運動をはじめて僕は何故、この体制の問題性を追及する作業をしてなかったのか?反省しました。もちろん仲間内では北朝鮮の体制批判をしたことはありましたが、公には訴えてこなかった。結果的には、北朝鮮の体制、政府に荷担したことになるんですね。もちろん僕が北朝鮮の体制を擁護しようが金日成や金正日を持ち上げようが、実際の体制維持には何の役にも立ちません。むしろ、当事者からは「オマエなんかに支持されたくない」と断られるのが落ちでしょう。ただ、気持ちの持ちようとして、自分が100%支持はしなかったけれども、反対もしなかったことによって、もしかしたら一人の北朝鮮の民衆というのが、食糧難に陥って、飢餓に陥って死んでいってるんやないかっていうふうに考えると、自分の中で「落とし前はつけなければアカンな」と思いました。RENKを始めた当初は、正直なところ、その程度の軽い気持ちでした。ただ、その後の色々な出来事を通じて北朝鮮の民主化という課題は僕の中で離れられない問題となっていきます。
特に、立ち上げて最も大きな問題だったのは、想定内でしたが、朝鮮総連との衝突です。朝鮮総連にとって、北朝鮮を批判する勢力やグループで一番怖いのが、元総連なんですよ。例えば民団とか、総連以外の韓国人とかが、北朝鮮を批判してたとしても、総連にとっては大してダメージにはならない。ところが北朝鮮に留学経験のある李英和さんや僕みたいに総聯に所属していて内情を知っている人間が、北朝鮮や総連を批判するのは、彼らにとって最もダメージが大きいのです。結成当時のRENKは今もそうですが多くても10人ぐらいの小さい寄り合い所帯です。ところがね、そんな我々に10万人単位の規模の総聯が執拗に破壊工作をしてくるわけです。脅迫、恫喝、嫌がらせ、公私にわたってありとあらゆる手をつかってRENKをつぶそうとしてきました。社会的地位のある李英和さんは、あまり言いませんが想像を絶する嫌がらせがあったことでしょう。ただ、李英和さんは、それらを我々を奮い立たせる材料に使っても決して泣き言を言ったりはしませんでした。その姿に、我々も鼓舞されたことは間違いありません。ただ、浅はかというか、僕自身がそういった攻撃の的に挙げられることは、覚悟はしていまたが、実際に経験してみると消耗もするし、挫けそうになる

■朝鮮総連という名のコミュニティー
 朝鮮総連は公私にわたってRENKをつぶそうとするのですが、その中でもっともイヤな思いをして辛かったのは、身内を使って攻撃してくることでした。例えば、法事などの行事があったりすると、総聯系の親戚から「お前は、最近RENKとかいう変なことやってるみたいやなあ」などと嫌みを言われる。また、行きたいとは思いませんが朝鮮学校の同窓会などに呼ばれない。留学生同盟の名簿から完全にはずされる等々。いわゆる村八分ですよね。
 その時に初めて、「あぁなるほどなあ~今まで在日朝鮮人、総連の中で、北朝鮮を批判するような動きが出てこなかったのは、こういうことが理由なんだ」と思いました。朝鮮総連に所属している在日朝鮮人のすべてが、北朝鮮に対して無条件に支持しているわけではありません。むしろ朝鮮総連に所属している在日朝鮮人が、北朝鮮の惨状を一番知っていたはずなんです。なぜなら彼らは、北朝鮮に行ってるから…。私もそうですけど、親戚がいるから、親戚を通じて少なからず惨状を知っている。でもそれを、敢えて口には出さなかった。それは、朝鮮総連や北朝鮮を批判する事によって自分が育ってきた、そして今も属している「朝鮮総連というコミニティー」からはじき出されることを恐れたからなんです。朝鮮総連に所属しているほとんどの方が幼稚園から高校、そして大学、さらに就職までなんらかの形で朝鮮総連に関係し続けます。そのコミュニティーから出た自分の人生を経験したことがないから、そこからはじき出されることをすごく恐れるのです。
 僕自身はRENKに参加することからあらかじめそういった事は想定内でしたが、やはり自分で経験すると辛いものがありました。本当にこのまま行ったら、自分の朝鮮学校時代の友だちとか、親戚とかも含めて、すべて敵に回してしまうんじゃないかと。

そうしているその間にも、北朝鮮の実情というのは、どんどん、どんどん耳に入ってくるわけです。飢餓まで起きるんじゃないかというような、信頼度の高い情報が入ってくる中で、やっぱり「これは何とかせなあかん」と再度決意して、RENKの運動に身を投じました。
ただ、その中で自分でも思いもよらなかった事を経験したのですが、その事を少しだけ話をさせてもらいます。

■恐怖の集会妨害
1994年4月15日にRENKは大きな集会をしました。4月15日といえば、皆さんご存知の通り、故金日成さんの誕生日です。集会はアピオ大阪という集会所で行われました。その集会に対して朝鮮総連は数百人という人間を動員して、集会の妨害をしたのです。

それまでに、僕は入管闘争とか新左翼の運動をする中で、機動隊とぶつかる経験があったので、一般の人よりはそれなりの修羅場はくぐってきたつもりだったし、たくさんの人間と対峙して、怖いなという思いをすることはあまりありませんでした。でも、その時は心底恐怖を感じたんです。人間の数とかそういう問題ではない。自分が学校時代に学んだ後輩、先輩、同級生、大学時代に、それこそ半年位前まで一緒に酒を飲んで、ワイワイ騒いでいた先輩、そういった人たちが気が狂ったように、わずか10数人の我々に対して罵倒し、時には暴力を使って攻撃してくるんです。最初はまだ大人しかったのですが、彼らはたぶん、「少し脅せば奴らは怖気づいて、尻尾を巻いて逃げる」と思ったんでしょう。しかし、RENKの結成以来、それなりに修羅場をくぐって来た我々もそんな簡単にひるまない。そのうちエスカレートして、集会する予定だった会議室では何もできなくなって、会場前の公園で急遽集会を続行!となりました。そこでも、小競り合いは続きました。テレビクルーとか、映像ジャーナリストの人たちもたくさん来てましたが、朝鮮総連は彼らに対しても「映すな、撮るな」っていう感じで、ヤクザみたいに振る舞っていました。トラメガを使ってスローガンを叫ぼうとすると襲いかかってトラメガを奪おうとしたりデモをしようとすると、周りを囲んで動く事ができないようにしたりと・・・・。しまいには代表の李英和さんを糾弾するぞ!とかいうような垂れ幕を掲げたり・・・。
多勢に無勢で集会はズタズタにされましたが、せめてデモをして我々の固い意志を訴えようと、RENK、朝鮮総連、機動隊がゴチャゴチャになったまま、50mくらいデモをしました。後に僕らは1968年、日大ではじめて日大生が学内でデモをし「偉大なる200メートルデモ」と呼んだことに、かこつけて「偉大なる勝利RENK森之宮50mデモ」(笑)とか言ってましたが・・・。

■必要不可避だった刑事告訴
その後に、その件を巡って、朝鮮総連を刑事告訴するんです。なぜ刑事告訴したかということに関しては、賛否両論あると思います。刑事告訴をした私を含め、他のメンバーもかなり悩みました。まず、何で我々がそこまでしなければならなかったか? というと、彼らが、単に集会を妨害するだけでなくて、金品を強奪してしまったということが一つ。これはやっぱり許せないと。いくらその主義、主張を言おうと、そういう強奪行為を許してしまったら、彼らは、我々だけでなく誰に対しても同じことをするだろう、ということが二つ目の理由です。 朝鮮総連は後にRENKの集会をつぶしたのは朝鮮総連とはまったく関係なく在日朝鮮人がいかって抗議したのだと言ってます。しかし、現場にいたほとんどが朝鮮青年同盟の動員で来たことは明らかだし、実際にビデオなど見ると興奮した男性は「我々朝鮮総連がやってきたことを否定するのか!」などと叫んでいたりします。案の定朝鮮総連は、それ以降おとなしくなりました。我々に対しては、「基本的」には何もしなくなりました。表立っての妨害とか、恐喝とか、恫喝はしなくなりました。

■ 結婚式の妨害までする朝鮮総連・・・
ただ、この事件の直後、僕自身の人生にも関わる重大な出来事が起こりました。集会からまもない5月に僕は結婚を控えていました。妻の両親は朝鮮総連の商工会でそれなりの地位を持った方だったんです。地道に事業を営まれて、周りの総聯の方々の信頼も厚い立派な方という評判で、僕自身尊敬している方です。その結婚式の直前に僕がRENKに参加していることが大問題となりました。後々聞いたところ朝鮮総連の中央から「今度埼玉で結婚する高某という人間は、RENKに関わっていて朝鮮総連をつぶそうというけしからん輩である。こういう輩の結婚式に出席するなどという事は許さん」と。さすがに僕もビックリしました。在日同士の結婚なんで当然、総聯に所属している方々もたくさん参加する予定でした。僕以上に妻の両親は頭を痛めたと思います。娘の結婚式がこんな形で泥を塗られるとは思いもよらなかったでしょう。その時に僕自身も自分の浅はかさに気づいたのも事実です。幸い結婚式は少々混乱したものの、事前に事情を知った方々が「いくら何でもそれはやりすぎだ」という事で、逆に協力的に盛り上げていただいたおかげで無事すみました。盛り上げていただいた方の中には北朝鮮でも高名な芸術家もおられ、そういった方が僕のすべてを知った上で、僕というより、妻や妻の両親のためにひとはだ脱いでいただいた事には心底頭が下がる思いです。本来なら、ここで改心しRENKの運動をきっぱりやめて、まっとうな(笑)人間に戻るのが人の道かもしれませんが、僕はそうは思いませんでした。「4・15RENK襲撃事件」と同じく、このまま僕がこういった脅しに屈すれば、また同じような被害者を産み出すだろう。こんな事を二度と起こさせないためにも、自分の信念を貫こうと思いました。たとえ、それで悪く言われようと必ず歴史が自分の正しさを証明してくれると。僕がそう信念を固められたのは、結婚した妻が理解を示してくれた事が大きいです。両親も、その後は僕の行動を見て見ぬふりをしてくれました。ただ、いずれにせよ北朝鮮を批判する事がこれほど犠牲を強いるものだという事を痛感したのは事実です。
ただ、それぐらいの嫌がらせを経験すると、友だちから連絡がないとか、あと留学生同盟とか、朝鮮学校の名簿から外されて同窓会のお呼びも来ないとか、そんな寂しさとかは大したことはなくなるし、逆に少々の事では動じないということで、嫌がらせも少なくなって気は楽になりました。(つづく)

吉見・桜堤と八丁湖

2009-04-13 06:38:24 | 川越・近郊
 12日(日)川越近郊の花も今日あたりが見納めかと吉見の桜堤まで行くことにしました。手術前は何でもない距離だったのですがここ数年は遠すぎて断念していたのです。
 荒川自転車道は日曜日とてサイクリングスタイルの若者(中年?)がめだちます。ぼくの自転車は順子(すんじゃ)がプレゼントしてくれたママチャリです。荒川区のリサイクルセンター産で年代物です。それをゆっくりゆっくり漕いでいきます。それでもちょっとした坂道で息切れします。
 大抵の人はマナーをきちんと守り、丁寧に追い抜いて行きます。今日は一人だけ傍若無人な走り方をする人に出会い、ひやっとしました。登り下りでゆっくり道を分け合っているところに猛スピードでつっこんで来て追い抜いていくのです。競技場と間違えているのでしょうか。

 鳥羽井沼を過ぎると人影もぐっと減ります。県立の子供動物園に通じる新しい自転車道が整備中のようです。

 桜堤は菜の花が満開で桜の花びらが舞っています。土手下のあちこちで家族などの花見グループの団らんがつづいています。人々の表情が明るく、平和そのものです。

  吉見の桜堤http://kan.cool.coocan.jp/intothefield/report/report/2004/0328/index.html

 長くつづく桜のトンネルを抜けて、八丁湖まで行くことにしました。ここまで来たら大丈夫だろうと思いました。途中で道を間違いたどり着いたのは吉見観音。
 風情のある三重の塔。お参りをして裏山から八丁湖へ。

 八丁湖http://plaza.rakuten.co.jp/keikoroom/diary/200904110000/

 数年来ないうちに様子が変わっています。花の季節だというのに売店はしまっているし、ボートも浮かんでいません。
 ぼくはもうよれよれになっていたので入り口から遠くない道ばた(湖畔)にシートを敷いて弁当にしました。花はもう終わりに近づいていますが木々の新芽が美しく水墨画の風景です。

 食事後はフレンドシップセンターの丘で午睡。ここはかつて東京・王子の学校から中国帰国者の生徒たちとサイクリングして泊まったところです。シートの上に仰向きになり、あれこれと思い出しているうちにいつの間にか夢の世界。小一時間はたったのではないかと思います。

 疲れがだいぶ取れたようです。帰りは「緑の道」で市ノ川大橋を渡ったところで子供動物園への自転車道に載りました。ここの池畔も桜が美しいところです。国道254に出るともう一安心です。ひたすら南下、落合橋を渡ったところで開通間近い北部循環道路を勝手に試走して帰り着きました。

羽州の旅

2009-04-12 05:38:02 | 出会いの旅
【川越だより】のアクセス・ランキング
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 このところ、初夏のような陽差しに誘われて川越市街地、川越公園、上尾丸山公園と連日、自転車で回り少し歩きました。どこも花は散り始め、入間川・荒川縁(べり)は菜の花盛りです。花粉にやられたのか昨日(11日・土)は一日ごろごろしていました。
 『「孫玉福」…』を読んでいるのですが遅々として進みません。直ぐ眠くなります。

 25日からの羽州(山形・秋田)の旅の日程が決まり、旅行社の手配も終わりました。

 25日(土)早朝川越発  大宮(新幹線)新潟(列車)酒田  酒田市泊

 http://www.city.sakata.lg.jp/Contents/ePage.asp?CONTENTNO=2306
 26日(日) 秋田市泊

 27日(月)男鹿市・「国民宿舎 男鹿」泊

 http://www.kokuminsyukusya-oga.jp/kankou/kankou.htm 

 28日(火)大仙市・「柵(さく)の湯」泊
          http://www.city.daisen.akita.jp/content/onsen_3seku/sakunoyu.html
 
 29日(水)山形県最上町・「保養センター最上」泊

http://mogami.tv/mkk/
 
 30日(木)最上~新庄~酒田 酒田=新潟=大宮=川越

 往復の列車と宿泊地が決まっただけです。あちこちをレンタカーで訪ねます。
 
 庄内地方、本荘、秋田、八郎潟干拓地、男鹿半島、雄物川流域の村々、最上川流域と新庄…。

 山形県(羽前)北部と秋田県(羽後)を比較的ゆっくり廻ります。卒業生に会う他はいつもの通り、行き当たりばったりです。でも、昔から訪ねてみたかったところです。

 


北朝鮮⑤朝鮮戦争のウソ

2009-04-11 06:17:28 | 韓国・北朝鮮
 以下に紹介するのはぼくが06年に書いた文章です。朝鮮戦争は北朝鮮が用意周到に始めた戦争であることは今日、あまりにも明白なことですが、僕らは「米韓軍の侵略戦争」と教わったといえます。教科書でさえ、曖昧な表現で「勃発した」くらいではなかったのではないでしょうか。
 この戦争こそ、日本や東アジアの情勢を一変させ、日本の再軍備のきっかけにもなりました。当時の日教組指導部や社・共両党、「進歩的」知識人は私たちにウソの情報を流し、社会主義勢力イクオール「平和勢力」などというデマゴギーを振りまき続けました。
 今日に至っても自分たちの誤りをきちんと認めた文章に出会ったことがありません。もしかしたら、いまもって間違いを認めていないのかも知れません。
 「護憲」を言う人たちの中核がこれでは人々の信頼をえられる筈はありません。北朝鮮の独裁政権や中国の独裁政権に曖昧な態度をとり続けているのも当然かも知れません。

 ぼくは日本に民主主義を根付かせるために野党連合政権が出来ることを願っていますが、そのためにも社民党などが自ら犯してきた歴史認識の誤りをきちんと認める英断をしてほしいと思っています。 



   抗美援朝烈士陵園(『木苺』130号・06年12月)


 大連滞在中の9月19日から瀋陽へ1泊旅行に連れて行ってもらった。北高の生徒だった杜君夫妻との列車の旅でまたとない至福のひとときであった。
 駅頭で買ってもらった市街地図に抗美援朝烈士陵園を見つけたので20日の朝、ここを訪ねた。
 中央に<抗美援朝烈士英霊永垂不朽 董必武 1962年9月>と刻まれた巨大な塔が聳え、その奥の松林の中に無数のコンクリート製の円墳が立ち並んでいる。その一つ一つに墓標が建てられており、裏側に履歴や戦功が記されている。出身地を見ると全国に亘っており、ここが朝鮮戦争で戦死した中国人兵士の国立墓地であることがわかる。
 広大な墓苑に人影は見当たらない。杜君と二人で円墳群を見て回ったあと、入り口近くにある抗美援朝紀念館を見学した。
 薄暗い展示室に<烈士>の写真とその履歴や戦功が次々に貼り出されている。中に毛岸英(毛沢東の子)のパネルもあるが特別扱いというほどではない。他の<烈士>とは違って父と一緒に写っている写真がならんでいる。
 金日成の<羅盛教烈士的国際精神?朝鮮人民永遠共存>という文章も目立たない。<結束語>には<13.3万中華民族的優秀児女流血犠牲在朝鮮的土地上>とあった。
 
 今、和田春樹著『朝鮮戦争』(岩波書店)を見ると中国軍人の死者は100万人を越えるという説もあるらしい。
 この開きはどこから来るのかわからないが革命戦争に勝利したばかりの毛沢東がいかに朝鮮戦争に全力投球したかがわかる。この程度の犠牲は覚悟の上で金日成の開戦の方針を支持したのかもしれない。
 中国共産党の国内統一(1949・10・1)に鼓舞された金日成がスターリンと毛沢東の許可と支持を得て社会主義的朝鮮統一を目指して韓国に攻め込んだ(50・6・25)。
 米軍の仁川上陸作戦(50・9・15)で形勢は逆転し、米韓軍は38度線を越える。ここで毛沢東は朝鮮戦争に全面的に介入することを決意し中国軍は鴨緑江をこえる(50・10・19)。戦争は実質的に米中戦争になった。
 日本共産党もコミンフォルムからの批判(50・1・6)を受けて武装闘争に方針転換し、東アジアにおける社会主義革命戦争の一翼をになうことになる。

 60年代のはじめに「山村(やまむら)工作隊とはどんなものだったか」と質問して大学の先輩たちに笑われたことがある。正しくは「さんそん工作隊」と読み、農村から都市を包囲する革命戦略に従い先輩たちの中にも小河内ダムの近くの山中で<革命>のために戦った人がいるらしい。
 僕にはこっけいにしか思えなかったがスターリンや毛沢東の決断は僕の先輩たちにも深刻な影響を与えたのである。思えば1949年末から50年にかけての国際共産主義運動のリーダーたちの東アジア支配の策謀はこの地域の人々の運命に決定的な影響をあたえた。
 北朝鮮の民衆の今日の受難の淵源もここにある。

 冷戦が崩壊して15年、今日ではかなりの人々が朝鮮戦争をこのような脈絡でとらえていると思われるが、僕は子供のときから結構長い間、米韓側が戦争を始めたという左派のデマゴギーに影響されていた。つじつまの合わない説明を授業でもしていた時期がある。
 瀋陽の膨大な戦死者の墓の前に立ってこの戦争の真実とこの戦争を指導した者たちについていかに自分が不勉強であったかを思わないわけにはいかなかった。  
   
 大連に帰って杜君の親戚たちとの宴会で瀋陽の報告をした。杜君の会社のAさんは僕との筆談で、朝鮮は中国の北大門で米国の朝鮮侵略は実際のところ中国を占領する思いがあったのではないか、13万人の中国人の戦死者は中国領土を守るために死んだ、という趣旨の話をしてくれた。
 散歩の途中で買ってきた中国の中学の教材にもアメリカの侵略と書かれている。この時期のアメリカが中国を侵略する意思を持っていただろうか。
 毛沢東たち自身がアメリカの介入はないと分析して朝鮮戦争を始めたのではなかったか。自分たちの見通しが間違い、朝鮮や中国の軍民に多大な犠牲をしいて、<南朝鮮の解放>は失敗したのである。その責任を認めないで<アメリカの侵略戦争>史観を捏造し、国民教育を行っているのであろう。

 共産党や社会党、進歩的知識人などの日本の左派はこれをオウム返しにして僕らに教え込んだ。日教組も同じである。
 70年代末から北朝鮮の現実を知るようになり、僕もいろいろな本を読んで認識に修正を加えてきたが今日のような授業をするようになったのは、冷戦が崩壊して和田春樹さんや萩原遼さんの本が出てからではないかと思う。
 中国においても共産党の独裁体制が崩壊しなければ、朝鮮戦争の見直しは始まらないということだろう。
 

 僕は韓国が地上から消されなくてよかったと思っている。アメリカの介入なしにそれはなかっただろう。こんなことは多くの日本人にとって自明のことだろう。しかし、僕にとってはこのことを認めるということは、当然のことながら20世紀の社会主義運動や日本の戦後史を全面的にとらえ直すことにつながる。
 思想改造に臆病な僕はそういう問題意識を持ちながら、あいかわず、行き当たりばったりで現実の課題に対処している。僕と同じ時代を生きてきた会員や読者の皆さんはどう考えておられるのだろう。