やや旧聞に属しますが高知のコニヤンのブログにこんな記事がありました。長くなりますが紹介させてもらいます。
「ムシパンの彼との再会・・・シアワセのクッキーのおすそわけ・・・」
昨夜の9時前に、ムシパンの彼、私の所の卒業生のH.K(19歳)くんが、
わざわざ私の家を訪ねてくれた。
「先生、遅くなったけど、55歳でね。またクッキーもってきたきね!」・・・と。
私は、ぐっと胸がつまった。
私の所を卒業してK高校夜間部に進学して以来、
4年間毎年私の年の数だけクッキーを焼いて必ず誕生日プレゼントとして
私の所に届けてくれたのだ。
まさか今年も今になって届けてくれるとは夢にも思っていなかった。
教師生活33年になるが、いまだかつてそんな教え子に出会ったことはもちろんない。
「教師冥利」につきるなんて、とてもとてもそんな生易しい、
美しい言葉で語れるものじゃない。
一体これをどのように表現したらいいのだろうかとさえ思う。
うれしい。確かにうれしいのだ。
でも、そんな言葉を超越しているのだ。
体全体が「感動体」となっている。
今から6年前に、前高知県教育長の大崎博澄さんが
高知新聞の山畑だよりに、彼のことを書いてくれた。
それからもう6年の歳月が流れている。
この春に彼はK夜間を卒業し、かねてからの夢、管理栄養士になるべくして、
今は大阪の管理栄養士養成の専門学校に通っているのだ。
彼が自分の夢を語ったのが、中学2年の時である。
初めて自転車で家まで家庭訪問し、ムシパンをごちそうしてくれたのだった。
あの光景は今でも再現できるほど鮮やかに覚えている。
母を助け、兄弟の協力のなかで、今まで必死になって生きてきた。
当時は、どちらかと言えば、ひ弱い感じだった彼が、
今では私の身長をはるかに越え、たくましく成長している姿を目の当たりにすると、
時間の流れを感じずにはいられなかった。
この春の卒業にあたって、私が彼に贈ったメッセージには、
次のようなことを書いている。
「・・・(前文略)・・・Kくん、あわてなよ。
自分の夢をこつこつとマイペースで実現したらえいきね。
『今日も笑顔でボチボチです!』でえいきね。
君のやさしい笑顔が、管理栄養士になって仕事をした時に、
それが周りに広がっていく。
みんなが、君の栄養管理で『食べること』で幸せになり、
そして、笑顔が広がっていく。
そんな『みんなの幸せにつながる未来』をこれからも一緒に作っていこうや!」と。
そうだ。派手な夢なんかでなくていい。
自分が中学時代に夢見たことをこつこつと実現することを
常に脳に描き、今まで生きてきたのだから。
私は、彼から一体何を学んできたのだろうか。
平凡なありきたりの言葉ではいえないものをいつも感じていたのだ。
私は、彼の亡くなった父親の代わりだったのかもしれないと。
決して「教師」としてではなく。
そこまで思わないと、毎年誕生日ごとにクッキーを
わざわざ年の数だけ焼いて持ってきてくれるなんてありえないと思ったからだ。
ほんとうにありがたかった。彼の気持ちがうれしかった。
人間としての誠実さがうれしかった。
私は、彼から人間として生きていくのに何が一番大切なことか、
何が一番必要なことかをいつも教えてもらっていた。
「誠実に生きること」「人間の優しさ」
「人間としての感性の大切さ」を彼がいつも身をもって私に教えてくれた。
こんなことは教師を何年やっても人間何年生きてきてもわからない者は
いつまでたってもわからないのだと思う。
でも少なくとも私は違う。
彼の生き方からいつも学ぶことができた。
年が若いからとかは関係ないことだ。
昨晩の最終のバスで大阪に行くとのことだった。
彼に最後につぶやいた。
「まあ、Kくん、ボチボチやったらえいきね」と。
「先生は、その言葉が好きやねぇ。
はい、ボチボチやります。先生も長生きしてくださいよ。」
そう言った彼の顔がなぜか夜なのにまぶしく輝いて見えた。
今日は、スタッフみんなに、彼のシアワセのクッキーのおすそわけをしたい。
ああ有情。
(文責:コニヤン/2009.8.28早朝・記)
出典
http://blogs.yahoo.co.jp/gogokoniyan/49259607.html
心地よい感動にとらわれて僕はすぐにコメントを入れさせてもらいました。
喜びをおすそ分けしてもらいました。こんな喜びを味わうことができる「先生」がいるんですね。「少なくとも私は違う」とはっきりいえる人生を歩くことができて本当によかった。コニヤンとH・K君に乾杯。
僕も病気をしてからこの数年来、かつて生徒だった人々に励ましてもらうことがあります。覚えていてもらうだけでもうれしいのに、いま少しでも仲間であり続けてほしいというメッセージを受け取ることはどんな薬よりも僕の命の滋養になっています。
コニヤンの生徒だったK君の思いというのはどういうものなのでしょう。とても想像がつきません。受け取るコニヤンが「体全体が『感動体』となっている」と言葉を失っているほどです。
わかっていることは自転車をこいで訪ねてきてくれるコニヤンの思いが深いところでK君を励まし、自分の人生を生き抜く勇気と力を獲得することができたのだろうということです。
コニヤンは「私は、彼から人間として生きていくのに何が一番大切なことか、
何が一番必要なことかをいつも教えてもらっていた」と書いています。
ここのところが大事なことだと思います。中学生であろうと中学の教師であろうとこの人生をどう生きたらよいかと考え込んだときに出来合いの答えがないことは一緒です。僕などもこどもたちの置かれている現実にたじろいで言葉を失ってしまうことがありました。教えるなどということはできません。ただ一緒にひざを抱えて向かい合うだけです。
コニヤンは「教えてもらっていた」と書いています。本当はそういうことのほうが多いのかもしれません。しかし、こういう風に言える人はわずかです。
「先生」になっていく過程で人はどう生きていったらいいのかという根本的な問いかけをしなくなり、何かを教えることだけに夢中になる人が多いのです。そういう人が出世し、今のどうしようもないような学校社会が出来上がったのです。
「私は違う」という言葉にはコニヤンが自分の人生を納得いくように生きることによって得た確信のようなものが感じ取れます。
このブログを読んでこの人の人生にいっそう関心を持つようになりました。