川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

ひと休み

2009-09-29 16:41:05 | 父・家族・自分
土曜日(大崎博澄さん)日曜日(黄くん 崔さん カツヨシさん)とうれしい交流が続いて久しぶりにお酒を飲んだせいか、昨日は一日中ごろごろしていました。
ふだんまったくお酒はやらないところへ二日続きだったのでおなかがびっくりしたのでしょう。壊れてしまったのです。
 今朝からはもう大丈夫です。食べるものも普通になりました。気力も徐々に戻ってくるでしょう。
 今夕には新しいパソコンが到着する予定です。明日あたりからまた近況をつづっていきます。どうぞよろしく。心配をおかけしてごめんなさい。
 

高倉勝子美術館 原爆の図

2009-09-26 10:06:17 | 出会いの旅
10月18日から息子夫婦と仙台・石巻方面に旅行することになっています。石巻で別れた後、私たちは2・3日北上川沿いにさかのぼってみようかと調べているうちに登米(とめ)市にかかわってこんなニュースが出てきました。  


 登米市に高倉勝子美術館完成
 

      原爆体験の衝撃、間近に


 登米市出身で仙台市泉区の日本画家高倉勝子さん(85)が私費を投じて作品を展示する「高倉勝子美術館」が登米市登米町に完成し、19日にプレオープンした。30日までのプレオープン期間中は入館無料。10月4日に開館する。

 同美術館は、高倉さんが私費約1億円の事業費をかけて造り、生まれ育った同市に寄贈した。建物は、蔵作りの木造平屋約340平方メートル。常設展示室、多目的室、ギャラリーなどが設けられ、高倉さんが描いた水墨画や日本画計54点を展示する。

 高倉さんは、登米高等女学校を卒業して女子美術大学(東京都)に進学し、教諭に。結婚後、陸軍中尉の夫とともに広島に移り、被爆した。その体験をもとに描いた代表作の水墨画「原爆の図」は、空に閃光(せんこう)が走った様子、がれきに埋もれ、夕方に夫の部下に発見されて奇跡的に助かったことなどが描かれ、原爆の悲惨さを伝えている。「原爆の図」を鑑賞していた主婦森良子さん(59)は「私は戦争を知らないが、とてもリアルに描かれていて涙が出そうになった」と話していた。

 休館日は、12月28日~1月4日。開館時間は午前9時から午後4時半。開館後の入館料は大人200円、高校生150円、小中学生100円。問い合わせは同美術館(0220・52・2755)。

                  (2009年9月20日 読売新聞)

 「原爆の図」といえば丸木夫妻の作品を思い浮かべますが、俊さんの後輩に当たる画家が描いた作品とはどんなものでしょう。高倉さんは長く封印してきた地獄の体験の記憶を老齢になってから描き始めたようです。そこにある決意はただものではありえません。

 どういう方か、一億もの私財を投じて美術館を立て、市に寄贈されたとか。

 開館して日の浅いこの美術館を訪ねることにしました。北上川のほとりの町は旧県庁などもあった古い街のようです。ここに泊まって高倉さんの画業に学ぶ一日をすごしたいと思います。

  朝日新聞記事http://mytown.asahi.com/miyagi/news.php?k_id=0400000090926000 3

田端克敏さんとその仲間たち 恒河沙書展

2009-09-25 07:08:34 | 友人たち
 21日(月)大島高校時代の同僚である田端さんから書展の案内をもらったので国立に行きました。本川越から国分寺行きの直通電車があるのに驚きました。国分寺で中央線に乗り換えると二つ目です。便利になったものです。

 田端さんと6人の元生徒のグループ展です。18年も続いています。月一度は集まり批評会などやっているというから驚きです。

 中国アモイから来た留学生や大島高校OG たちとの出会いがあり昼前から夕方まで思いがけない交流のひと時をすごしました。

 林くん(新潟大学大学院)朱さん(武蔵大学大学院)は田端さんご夫妻がアモイで日本語の先生をしていた時期の学生です。中国の学習方法は暗記中心です。試験終了と共に授業内容はすっかり忘れるそうです。朱さんは日本語教育の研究をして将来は大学の先生になりたいようです。学習方法を一変させる先生になってほしいと田端さんは期待しているようでした。

 大島OGは65年3月卒業の倉本さん、浜田さん、房さん。僕が赴任する一年前に卒業した人々です。高校時代に田端さんの書の授業を受けたそうですがこうして再会するのは卒業以来だといいます。
 
 田端さんの奥さんの道子さんのブログが3チャンネルで紹介されたのを倉本さんが見たのがきっかけで誘い合ってきたのだということです。44年以上の月日が経っていますが互いにすぐにわかりあったようです。田端さんはHR担任であったわけではありません。着任早々の先生と生徒だったのです。
 
 浜田さんが卒業時に先生に書いてもらった文章を持ってきました。自分のことをここまで見ていてくれたかとずうっと大切にしてきたのです。ほかの二人も田端さんに書いてもらった文章を覚えているようです。
 
 これらのことを田端さんはすっかり忘れています。書を見て人柄がわかるといいますが23歳の田端さんの心がしからしめた業なのでしょう。いつどこにいても一人一人の生徒たちの人生に優しい目を注いできたのに違いありません。

 やがて浜田さんと房さんが僕の担当した生徒のお姉さんであることがわかりました。話題が尽きることなく交流が夕方まで続いたのは当然ですね。

 田端さんがなぜ、55歳で教員をやめ、ご夫妻で日本語の教師として中国に行くことになったのか。10年を越す日本語教師の生活にかかわって貴重な話を伺ったのですがこれは他日に。ちっとやそっとでは聞けない日本の宝のようなお話です。

 田端さんご夫妻のHPです。時間をかけてゆっくりご覧ください。このお手製の絵葉書をいただきました。

 つれづれ日記http://blog.livedoor.jp/suisaim/archives/51345983.html

 日本語教師時代の思い出 http://www5e.biglobe.ne.jp/~tianduan/
 

 田端道子のページhttp://suisai.nttdsys.com/blog/120/

 

彼岸花

2009-09-24 06:50:53 | 川越・近郊
【川越だより】のアクセス・ランキング
アクセスとランキングの状況を表示します。ランキングは上位10000件まで表示されます。

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2009.09.15(火) 535 PV 206 IP 6309 位 / 1290036ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)
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 連休期間中、高麗の巾着田は混雑を極めたようです。近年、彼岸花の名所になったのです。僕の散歩道では川越公園の入間川遊歩道でも林床や土手に見事な群落を見ることができます。

 大きな群落は県道川越坂戸線にかかる平塚橋を渡ったところで入間川左岸を落合橋までどんどん歩いていくとやがて土手の両側に見ることができます。

 入間川写真紀行http://www.sekinetoshikazu.com/sub2-10-9.html

 昔は平塚橋を過ぎた棘橋(とげばし)付近の小畦川(こあぜがわ)の土手がきれいだったと記憶していますが今走ってみてもその面影はありません。土手をきれいに刈り込んでしまったせいでしょうか。

 それにしても彼岸花が騒がれるのはちょっと違和感があります。昔は彼岸のころ墓地などに咲いている花という相場で毒もあると聞いていたからです。僕にはアチコチの墓地や土手にそれとなく咲いているのが秋の風情を感じさせます。

 追記 越辺川(おっぺがわ)の天神橋上流(左岸)の土手の彼岸花が見事だというので落合橋から越辺川の土手の道をさかのぼってみました。川島の白鳥飛来地付近もなかなかですが天神橋を過ぎるとすばらしい風景が続きます。
 
 http://www.bekkoame.ne.jp/i/himawarido/spot/o_higan.html
 

 都幾川との合流点付近に赤尾落合橋という木造の橋がありますが老朽化して通行止めになっているのにも気づきました。それでも歩いて対岸の坂戸市側に渡ってみました。国道254の落合橋袂では小澤屋の看板が下ろされるところでした。近く蕎麦屋が開業するようです。(25日朝)

<お知らせ・お詫び> 大崎さんの講演について

2009-09-22 21:03:20 | こどもたち 学校 教育
先日ご案内した前高知県教育長・大崎博澄さんの講演時間などに誤りがありました。

 集会名 開かれた学校づくり全国交流第10回記念集会
 
 場所 明治大学(駿河台)リバティタワー3F1031教室 

 時 26日(土)12時 受付開始 13時開会 13時10分大崎博澄さんの記念講演(14時30分まで)

  集会は翌日夕方まで二日間開催されます。
  

 参加はフリーと大崎さんから聞いていましたがそうではなく事前登録制ですでに締め切ったそうです。
 「川越だより」を読んで僕と一緒に参加してくださる方がおられましたらご面倒でも必ず僕にご連絡ください。事務局で入場を取り計らってくれますので一緒に入場しましょう。講演終了後大崎さんと非公式な交流を行います。

 

 


 

リレー・フォー・ライフ

2009-09-21 08:45:09 | 友人たち
 20日(日) いつものように河川敷の森を歩こうと川越公園に行ってみたら、リレー・フォー・ライフという集いが開催中でした。「がん患者支援チャリティイベント」とあったので他人事ではありません。覗いてみることにしました。

 ステージでは城西大川越中・高生の太鼓演奏中です。食事コーナーで狐そばを食べながら、同席したボランティアの方に趣旨を聞いてみました。

  
   歴 史

 リレー・フォー・ライフ(命のリレー)は、イチロー選手が活躍する大リーグ・マリナーズの本拠地、ワシントン州シアトル郊外のタコマで、1985年に始まりました。ゴルディー・クラット医師(直腸・肛門の外科医) がアメリカがん協会のために寄付を集めようと、24時間歩き、走り続けることを思いつきました。トラックを1周するたびに友人から寄付を募り、2万7千ドルを集めました。そこで、1人で歩き続けるよりは、チームで24時間タスキをつないだ方が楽しいのではないかと思い、翌年は友人たちを誘いました。トラックの周りでキャンプを張り、交代でトラックを歩きました。リレー・フォー・ライフは、こうして生まれました。のちにリレーはアメリカ対がん協会の看板イベントになり、今や全米5000カ所(07年)に広がり、参加者は400万人にも及びます。さらに世界20カ国でも開かれるようになりました。アメリカでは、リレーで4億ドル(07年、約400億円)の寄付を集め、がんとの闘いに使われています。
日本では、2006年9月、つくば市で日本初のイベントが実現しました。2007年には芦屋市と東京で開催。2008年は、北海道から九州まで全国各地へと広がりました。又、集まった寄付は全額、日本対がん協会に寄付され様々な‘がん医療の充実’に役立てられています。 


  リレー・フォー・ライフとは何か?

 リレー・フォー・ライフは、各国の対がん協会が、がんについて各地域コミュニティーを啓発する機会になります。地域全体を一堂に集め、サバイバーの勇気を称え、がんで亡くなった人たちについて振り返り、がんの早期発見や予防について学びます。チームを組み、寄付を集め、広場にテントを張り夜を明かします。各チームから必ず1人はトラック上にいることを目指します。歩いていないときは、エンターテインメント、音楽、ゲームを楽しみます。参加者たちががんについて学ぶ絶好の機会でもあります。 

 出典http://www.rfl-saitama.com/

 周りのトラックを幾組もの人々がそれぞれに横断幕を持って歩いています。昨日の13時からほぼ一日こうやって間断なく歩きながら寄付金を集めてきたのでしょうか。僕も肺がんの患者だというと紫色のスカーフを首に巻いた女性が「私もサバイバーです。最後に全員でラストウオークをします。よろしかったらご一緒に」といってくれました。
 サバイバーとはなれない言葉ですががん患者や体験者を指す言葉のようです。紫のスカーフがサバイバーのしるしだといいます。見渡してみるとそれほど多くはありませんが女性のサバイバーの姿がアチコチに認められます。乳がんの体験者が多いのでしょうか。
 会場を回って「緩和ケアー」を中心とする資料をもらいました。僕がかかっているのは癌研有明病院で片道2時間もかかります。川越地域でもいくつかの病院が取り組みを始めているようです。いずれ世話になるのかもしれないのです。スタッフの方々に近づけたのも何かの縁かもしれません。未来永劫に縁がないことが一番ですが。

 ラストウオークの後の閉会集会で24時間リレーに参加した人たちが紹介されました。見慣れた顔があったので近づいてみると池袋商業高校時代の同僚のTさんでした。驚くやら、懐かしいやら。どうもこの集いの中心メンバーの一人のようです。首に紫のスカーフを巻いていますが元気そのものに見えます。
 閉会後の後片付けで忙しいさなかですが久闊を叙することができました。家に帰ってプログラムを見るとその最後に作成の責任者としてTさんの名があります。住まいは大宮だと聞きました。川越での初めての集いを成功させるために尽力されて来たに違いありません。

 来年もやります。よかったらどうぞと言われました。偶然参加して思わぬ人と会いました。感謝です。

映画 『人生に乾杯!』

2009-09-20 03:57:10 | 映画  音楽 美術など
 「月」の残したしらみ退治の第二弾ということで妻は朝から大忙しです。僕は図書館に避難して新聞に目を通したあと、一時からスカラ座で映画を見てすごしました。

 07年ハンガリー映画『人生に乾杯!』

あらすじ(映画館でもらったビラから)

運命的な出会いを機に結婚したエミルとヘディも、今では81歳と70歳。互いに恋に落ちていた頃のことなどすっかり忘れていた。年金だけでは暮らしていけず、借金取りに追われる毎日の中、ついに二人の出会いのきっかけだったダイヤのイヤリングまで借金のカタに取られてしまう。高齢者に冷たい世の中に怒りを覚えた夫のエミルは、イヤリングを奪い返すために持病のぎっくり腰を押して20年ぶりに愛車のチャイカを飛ばし、郵便局を紳士的に強盗!それを皮切りに次々と紳士的強盗を重ねていく。一度は警察に協力した妻のヘディも、奮闘する夫の姿にかつての愛しい気持ちを思い出し、手を取り合って逃げる決心をする。二人の逃避行は、やがて民衆を巻き込んで思いもかけない展開に…。
古くからヨーロッパとアジアが融合した独特な文化を作り上げてきたハンガリーを舞台に、年齢などものともせず、自ら幸せを掴み取ろうとする二人の老夫婦の粋で勇気ある行動を、ユーモアたっぷりで痛快に描く。

 こちらのHPも参照してください。
 
『人生に乾杯!』http://www.alcine-terran.com/kanpai/

 思いがけなくハンガリー映画を観ました。「社会主義」が崩壊して20年近くが経ちます。ハンガリーはどんな社会になっているのか?そんな視点から見ていました。
 共産党の幹部?の運転手だった男とその妻が主人公。旧友はキューバ革命の信奉者で世間と隔絶して一人だけのキューバ世界を生きる。

 年金が破綻して家賃の取立てに苦しめられる老夫婦の悲しくもユーモアにあふれる物語です。老夫婦の強盗事件がTVで報道されるにつれてやがて人々のヒーローになってゆくところに今のハンガリーが映し出されているのでしょうか?老革命家の最後の戦い。

 ロシア革命は1917年でソ連の崩壊は91年です。この間の74年間というのは人類最初の「社会主義」で、「真の自由と平等」を求める人々の血を沸き立たせた時期も
あったわけですが、人類史にどういう風に刻まれるのでしょうか。人類の歴史にプラスの遺産となるものはあるのでしょうか?ハンガリーはソ連の支配に立ち向かった栄光の歴史を持っていますが、人々は共産党や共産主義を今、どう考えているのでしょう?映画に触発されてそんなことも思います。

富士川河口、感動の富士

2009-09-19 07:02:01 | 出会いの旅
 月曜日から伊豆高原の保養所で過ごしました。三党連立政権が発足する日(水)に河津の七滝を訪ねました。何度か来たところですがゆっくりするのは初めてのような気がします。一番奥の釜滝まで何とかたどり着きました。柱状節理が観察できるすばらしい風景です。

 僕は俗化が進んだ観光地と思い込んで通りがかっても敬遠していたのではないかと思います。伊豆に来てここを訪ねられるときには是非一番奥の釜滝まで歩いてみてください。途中からのぼりがきつくなり敬遠する人が多いようですが僕でさえたどり着けたところです。

 河津七滝(ななたる)http://www.town.kawazu.shizuoka.jp/kankou/asobu/haikingu/nana-hk.html

 木曜日に天候もよいのでかねてから気にかかっていた山梨県早川町を訪ねて帰途につくことにしました。

 沼津から富士に向かっているうちに富士川の河口を見たくなり富士川緑地公園に連れて行ってもらいました。広大な河川敷です。(幅2kmで日本一だといいます)。海までは葦の中の小道を20分ぐらい歩きました。こういうときは足がよく動きます。
 川が海に入るあたりは砂嘴になっており、伊豆半島から三保の松原あたりまでの駿河湾の景観が広がっています。浜辺に下りて潮をなめてみました。どこの海に行ってもついやってしまう所作です。
 もと来た道を帰ろうとしたとき、富士山が頭を出していることに気づきました。涙が出るような感動です。気温が高く靄の中に隠れていたのです。「よう来たなあ」といってくれているのかと思いました。富士川が海に入るあたりから仰ぐ富士山、思いがけない自然の恵みに感謝あるのみです。

 富士川河口風景http://4travel.jp/traveler/t11064/album/10205102/

 


 富士川に沿う県道10号で身延についたころには3時、下部温泉に一泊することにしました。

金曜日。
 朝、早川町「ヴィラ雨畑」。雨畑湖畔の宿を下見。紅葉のころここに泊まって林道で山伏峠を越えて静岡県の大井川の源流部を訪ねるのが僕の昔からの夢。今は道も改良されて普通の乗用車でも峠越えができると宿の方が教えてくれる。連れて行ってくれるのは妻だが腹を固めてくれたようだ。

 南アルプス公園線で「ヘルシー美里」まで行く。いつの日になるのか、ここをベースにして南アルプス山麓を訪ねるのももうひとつの夢。早川町の最奥の村・奈良田からは車は入れないが、バスで広河原や北沢峠までいけることがわかった。山登りの友人たちには笑われるかも知れないがそんな日を楽しみにしている。
 ここはもともと三里中学校。壁に校歌。民主主義を打ち立て、世界に羽ばたく人になれと謳う。戦後初期の人々の願いがあふれている。

 早川にかかるやませみ橋をわたって野鳥公園へ。ヤマガラの生態をいながらにして観察したあと、園内を散策。これで今回のたびは終わり。本栖湖で遅い昼食のあと、河口湖から高速に乗る。

 はやかわhttp://www.town.hayakawa.yamanashi.jp/

 

樹下の二人

2009-09-14 09:07:08 | 父・家族・自分

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昔の手紙を書き写していて高村光太郎の『千恵子抄』に精神の安らぎを感じていた高校生のころを思い出しました。

 何はともあれ声に出してよく読んだ詩のいくつかを紹介します。これらの詩はいまの若者たちにも読み継がれているのでしょうか。


    高村光太郎 『智恵子抄』 より

   樹下の二人

   ――みちのくの安達が原の二本松 松の根かたに人立てる見ゆ――



あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、
うつとりねむるやうな頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
この大きな冬のはじめの野山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。

あなたは不思議な仙丹を魂の壺にくゆらせて、
ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
無限の境に烟(けぶ)るものこそ、
こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
むしろ魔もののやうに捉へがたい
妙に変幻するものですね。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡つた北国の木の香に満ちた空気を吸はう。
あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
ここはあなたの生れたふるさと、
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
まだ松風が吹いてゐます、
もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。


   千鳥と遊ぶ千恵子

人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわつて智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
砂に小さな趾(あしあと)をつけて
千鳥が智恵子に寄つて来る。
口の中でいつでも何か言つてる智恵子が
両手をあげてよびかへす。
ちい、ちい、ちい――
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをぱらぱら投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。



   レモン哀歌

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白いあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉(のど)に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関ははそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう


梅酒

死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
十年の重みにどんより澱(よど)んで光を葆み、
いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがつてくださいと、
おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。
狂瀾怒濤の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻にする。
夜風も絶えた。


 きょうはこれから伊豆高原に行って木曜日まで遊んできます。季節の変わり目です。皆さんもどうか無理をなさらないように!

 
















大原博澄さんの講演を聴きに行きませんか

2009-09-13 12:46:14 | こどもたち 学校 教育
 前高知県教育長・大原博澄さんの講演を東京で聞くことができます。
 
 大崎さんのことはこのブログで何度も紹介してきましたのでおなじみになった方もおられると思います。まだの方は昔の「川越だより」を読んでみてください。

 http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20080604

 わがふるさとにこんな教育長がいるのかと驚いたものですが、知れば知るほど人として尊敬できる方です。厳しい学校現場でこどもたちと共に生きようと悪戦苦闘している友人たちにぜひとも聞いていただきたいと思います。僕が深く励ましを受けるくらいですから、皆さんには…。

 僕は12時半ころに明大(駿河台校舎 御茶ノ水駅下車)の会場に行きます。ご都合のつく方は是非ご一緒してください。講演の終了時にお会いしてくれるとのことです。楽しみにしています。

   9/26 開かれた学校づくり全国交流第10回記念集会で記念講演 「土佐の教育改革・その敗北と曙光」 13時から 明治大学リバテイタワー3F1031教室 受付は12時から 二日間に亘る集会で参加費は2千円。

  大崎さんのブログ タンポポ教育研究所http://sky.geocities.jp/hirosumi1945/index.html

浅沼さんの暗殺  父への手紙②

2009-09-12 20:53:17 | 父・家族・自分
 1960年10月12日の浅沼稲次郎・社会党委員長の暗殺は19歳の僕には耐えられない衝撃でした。18日の手紙です。

 浅沼さんの不慮の死ほど大きな衝撃は初めてでした。肉体の苦痛を伴って僕を痛めつけました。張りつめていた心境からどっと疲労が出て、この一週間、勉強らしい勉強が全然できないほどだったのです。腰から下といわず、全身がとてもけだるくて。
 偶然であったのかもしれませんが浅沼さんの訃音と共に起こったのです。咳は出る、寝汗はかく、夢は見る、で、心身ともに最悪でした。
 兄さんの勧めもあり、日曜日に血沈とレントゲンの検査をしてもらい、今、結果がわかったばかりです。結果はぜんぜん異常はなくすっかり安心しました。(略)

 祥介君(弟)のときは肉親の死で、悲しみは何年も消えることはありませんが肉体的な苦痛は伴わなかったと思います。
 浅沼さんの死はこんなにも大きな影をぼくに投げかけました。ぼくだけではありません。平和を愛するすべての人々に、だったことでしょうが。自分自身、驚きます。

 ちょうど日本シリーズの最中でしたが、テレビでそのことを知ったときとても信じることはできません。涙が出たのは翌朝になってからです。12日は自分自身ではとても耐えられないと思い、すぐに友達のところを訪ねました。夜遅くまで彼と心行くまで話し合い、慰めあいました。大井駅に降りたのは真夜中の12時8分、帰ったのは12時半近くでした。
 バスの停留所のところまで兄さんが迎えてくれました。とてもうれしかったです。いい友達やいい人々が周りにたくさんいるから、安心です。今度ほどそう思ったことはありません。(略)

 明後20日の社会党葬に友と共に参加する予定です。お父さんやお母さん、そしてみんなに代わって心からの哀悼を伝えます。祥介君を失ったことも浅沼さんを失ったことも、僕らの大切な養分を失ったことになります。これから先、どうにもして、僕らが成長して、本当に残念に思うことでしょう。有島武郎が「小さきものへ」の中に切々と書いたことを僕は今しみじみと味わっています。悲しみは永遠に消えないでしょう。
 でも輝かしい未来のために僕は決して悲観しません。また、楽観もしません。今日、明日と一日一日をしっかりと生きてゆくだけです。


 最近ようやく東京の空気に慣れ、とてもすみやすくなりました。十月になってビフテキを二度も食べました。伯父さんの心づくしです。夕食がだいぶ楽しみになりました。

 浅沼さんの事件があった翌日はずいぶん伯父さんと話し合いました。ずいぶん仲良しになりました。今まで全然知らなかった伯父さんがだいぶわかるようになりました。考えに少し違いはあっても、お父さんといる感じがするときもあります。

 信念が強いというか、悪く言えば頑ななといえるかもしれませんが、そんなところがあります。それが一面、魅力でもあります。

 その夜、政治情勢から、昔の津呂の港や鉄道敷設の運動の話、写真を見ながらずいぶん話していただきました。とてもうれしくて。お父さんのお兄さんという印象を強く受けました。やっぱり共通していますね。理性より感性が強くて僕自身とても困りますが、伯父さんにも少しはそんなところがあるのかもしれませんが。

 こんどお父さんが暇なとき、大正・昭和の歴史をお父さんから聞いてみたいと思いました。中野正剛の自刃の話をテレビで見て伯父さんから話を聞いたり、一つ一つの事件について伺うとき、歴史が暖かくなって、正しく認識されるような気がしたからです。僕はもっともっと多くのことをもっともっと知りたい。そして、もっと偉くなりたいと思いました。

 略。 それではまた次に。喜びと悲しみが満ち溢れていたでしょうか。もし、言葉の上に現れていなくても、僕の今の気持ちはとても明るく、とても悲しいことを読みとってくだされば幸いです。さよなら 
 
   1960年10月18日午後9時  啓介

「中立」と「民主主義」  父への手紙①

2009-09-11 15:55:01 | 父・家族・自分
 昨日は隣家のM さんの奥さんを誘って都幾川町で水汲みをした後、こども自然動物園でゆっくり過ごしました。抜けるような青空です。田舎の空のようだ、と、Mさんは言います。岩手県の西和賀町の出身です。手作りの赤飯のおにぎりなどをご馳走になりました。
 幼稚園の親子遠足なのか幼児づれの若い母親が目立ちます。草むらの中を転げ落ちるこどもたちの歓声を聞いていると健やかな成長を祈る気分になります。

 1960年の9月2日付けの父に出したぼくの手紙が出てきました。父の死後、実家から持ってきた僕の手紙類の中のひとつです。東京教育大学の入試に落ちて、思いがけなく浪人をする羽目になっていました。8月の終わりに東京に来て大井のおじの家に世話になっていました。<東京発 第2信>と書いてあります。

 教員に対する勤務評定反対闘争に対する高知県教育委員会の処分を報ずる新聞記事を読んで父を励ますつもりで?書いたもののようです。19歳になったばかりの僕の政治意識がうかがえます。

 「高知で校長21人に処分」
  昨日の夕刊の下の方に小さく出ていました。驚きはしなかったのですが、なにやら、感ずるところはありました。怒るというよりも21人の偉大な闘いに感謝する気持ちです。

 8月の同窓会のとき会った友達の話を聞くとぼくらの仲間も頼もしく成長しています。保守的な学校といわれながら本当はそうではないと思いました。学校がどうしようとしても、生徒たちはずっと賢明であったことを知りました。安保デモに参加したもようを真剣に話してくれました。

 日本の自主性を失わせる安保条約、それへの重大な布石である勤務評定。それを打破できる日は必ず訪れるでしょう。
 時の趨勢です。良心を守り抜いた尊い行為が今よりも高く評価される日が訪れることでしょう。

 僕はそれを信じています。今は忍ぶ時、時が悪いのです。
 日本も少しずつは進歩しています。権力にはむかう闘いが今はまだできるのです。大杉栄が惨殺され、美濃部、矢内原、大内らの先生方や無産党、社大党が圧迫された時代ではないのです。でも、これから先、そういう時代が訪れないとはいえないでしょう。それを阻もうとする大きな闘いに僕らは共鳴し、自分もまたその道を歩むでしょう。

 荒木文相は(日教組の)倫理綱領を破防法すれすれだとか言っています。保守党政権の続く限り、日教組は激しい弾圧にさらされることでしょう。あらゆる知識階層、反政府階層の中でも、教組は一番大きな力を持っているからです。みんながインテリであることが大きいのでしょう。それに教育者を聖職的に見る国民も多いので、政府にも都合がいいのでしょう。
 
 教組だけでなく、社会党も総評も大きな試練に直面しているように思われます。次の総選挙でどういう結果が出るかが、ひとつのバロメーターになると思います。楽観もできないし、悲観も当たらないと思います。護憲で二百人には伸ばしたいものです。

 池田政権ができるとマスコミがまた政権のある方に移っていくようです。特に、評論家といわれる人たちはそうしなくては食えないのかと思われるほどです。いつでも政権の近くにあって言いたいことを言っているようです。

 僕らは中立をかちとり、民主主義をうちたてる日まで、中立を目指し、民主主義をうちたてようと努力している人々に心から共鳴し、共に歩み続けたいと思います。

 長かった闘いはこれからもまだ長いかもしれません。お父さん、ここで体と心の休養をとってください。組織や教育に休みはないのかもしれませんが、今は暫時、体を休めてください。さらにおおきな闘いに向かうことになるのかも知れないのですから。

 安保を粉砕しようとしたあの巨大なエネルギーは日本に平和への良心が生きていることを示したのです。道は険し、されど、道は輝かしき栄光の道なのです。降りかかる火の粉を払いつつ、新しい前進を! ありがとう。ありがとう。


 学校は十日からです。体は順調です。勉強も比較的できるようになりました。現在、不安や不便はこれといってありません。ただ、散歩するところがどこにもありません。どこに行っても自動車が通って神経を休められないのです。室戸はもとより、筆山や鏡川の美しい自然が本当にありがたく思われます。

 東京は、ほんとうはつまらないところです。夢のない灰色の町です。高村光太郎さんが千恵子抄に詠んだとおりです。だのに、僕らは東京へ来ています。考えてみれば馬鹿らしいことです。
 文化の中心というのも嘘でしょう。文化とは、騒ぐことなり、というのならばそうでしょうが。太っぽさのない、つまらない都ですが、少なくとも4年と少しはご厄介になるところです。いい理解者になりたいと思います。

 それでは今日はこれで。みんな元気で。明石のおばあさんにもよろしく。
                  サヨナラ

             1960年9月2日午前9時 啓介

生徒の生き方から学ぶ

2009-09-08 13:31:55 | こどもたち 学校 教育
 やや旧聞に属しますが高知のコニヤンのブログにこんな記事がありました。長くなりますが紹介させてもらいます。


 「ムシパンの彼との再会・・・シアワセのクッキーのおすそわけ・・・」


 昨夜の9時前に、ムシパンの彼、私の所の卒業生のH.K(19歳)くんが、
わざわざ私の家を訪ねてくれた。
 「先生、遅くなったけど、55歳でね。またクッキーもってきたきね!」・・・と。
 私は、ぐっと胸がつまった。
私の所を卒業してK高校夜間部に進学して以来、
4年間毎年私の年の数だけクッキーを焼いて必ず誕生日プレゼントとして
私の所に届けてくれたのだ。
まさか今年も今になって届けてくれるとは夢にも思っていなかった。

 教師生活33年になるが、いまだかつてそんな教え子に出会ったことはもちろんない。
「教師冥利」につきるなんて、とてもとてもそんな生易しい、
美しい言葉で語れるものじゃない。
一体これをどのように表現したらいいのだろうかとさえ思う。
うれしい。確かにうれしいのだ。
でも、そんな言葉を超越しているのだ。
体全体が「感動体」となっている。

 今から6年前に、前高知県教育長の大崎博澄さんが
高知新聞の山畑だよりに、彼のことを書いてくれた。
それからもう6年の歳月が流れている。
この春に彼はK夜間を卒業し、かねてからの夢、管理栄養士になるべくして、
今は大阪の管理栄養士養成の専門学校に通っているのだ。
 彼が自分の夢を語ったのが、中学2年の時である。
初めて自転車で家まで家庭訪問し、ムシパンをごちそうしてくれたのだった。
あの光景は今でも再現できるほど鮮やかに覚えている。
母を助け、兄弟の協力のなかで、今まで必死になって生きてきた。
 当時は、どちらかと言えば、ひ弱い感じだった彼が、
今では私の身長をはるかに越え、たくましく成長している姿を目の当たりにすると、
時間の流れを感じずにはいられなかった。
 この春の卒業にあたって、私が彼に贈ったメッセージには、
次のようなことを書いている。
「・・・(前文略)・・・Kくん、あわてなよ。
自分の夢をこつこつとマイペースで実現したらえいきね。
『今日も笑顔でボチボチです!』でえいきね。
君のやさしい笑顔が、管理栄養士になって仕事をした時に、
それが周りに広がっていく。
みんなが、君の栄養管理で『食べること』で幸せになり、
そして、笑顔が広がっていく。
そんな『みんなの幸せにつながる未来』をこれからも一緒に作っていこうや!」と。
 そうだ。派手な夢なんかでなくていい。
自分が中学時代に夢見たことをこつこつと実現することを
常に脳に描き、今まで生きてきたのだから。
 私は、彼から一体何を学んできたのだろうか。
平凡なありきたりの言葉ではいえないものをいつも感じていたのだ。
私は、彼の亡くなった父親の代わりだったのかもしれないと。
決して「教師」としてではなく。
そこまで思わないと、毎年誕生日ごとにクッキーを
わざわざ年の数だけ焼いて持ってきてくれるなんてありえないと思ったからだ。
ほんとうにありがたかった。彼の気持ちがうれしかった。
人間としての誠実さがうれしかった。
私は、彼から人間として生きていくのに何が一番大切なことか、
何が一番必要なことかをいつも教えてもらっていた。
「誠実に生きること」「人間の優しさ」
「人間としての感性の大切さ」を彼がいつも身をもって私に教えてくれた。
こんなことは教師を何年やっても人間何年生きてきてもわからない者は
いつまでたってもわからないのだと思う。
でも少なくとも私は違う。
彼の生き方からいつも学ぶことができた。
年が若いからとかは関係ないことだ。

 昨晩の最終のバスで大阪に行くとのことだった。
彼に最後につぶやいた。
「まあ、Kくん、ボチボチやったらえいきね」と。
「先生は、その言葉が好きやねぇ。
はい、ボチボチやります。先生も長生きしてくださいよ。」
そう言った彼の顔がなぜか夜なのにまぶしく輝いて見えた。
今日は、スタッフみんなに、彼のシアワセのクッキーのおすそわけをしたい。   
ああ有情。
(文責:コニヤン/2009.8.28早朝・記)

 出典http://blogs.yahoo.co.jp/gogokoniyan/49259607.html


 心地よい感動にとらわれて僕はすぐにコメントを入れさせてもらいました。

 喜びをおすそ分けしてもらいました。こんな喜びを味わうことができる「先生」がいるんですね。「少なくとも私は違う」とはっきりいえる人生を歩くことができて本当によかった。コニヤンとH・K君に乾杯。


 僕も病気をしてからこの数年来、かつて生徒だった人々に励ましてもらうことがあります。覚えていてもらうだけでもうれしいのに、いま少しでも仲間であり続けてほしいというメッセージを受け取ることはどんな薬よりも僕の命の滋養になっています。
 コニヤンの生徒だったK君の思いというのはどういうものなのでしょう。とても想像がつきません。受け取るコニヤンが「体全体が『感動体』となっている」と言葉を失っているほどです。

 わかっていることは自転車をこいで訪ねてきてくれるコニヤンの思いが深いところでK君を励まし、自分の人生を生き抜く勇気と力を獲得することができたのだろうということです。

 コニヤンは「私は、彼から人間として生きていくのに何が一番大切なことか、
何が一番必要なことかをいつも教えてもらっていた」と書いています。
 
 ここのところが大事なことだと思います。中学生であろうと中学の教師であろうとこの人生をどう生きたらよいかと考え込んだときに出来合いの答えがないことは一緒です。僕などもこどもたちの置かれている現実にたじろいで言葉を失ってしまうことがありました。教えるなどということはできません。ただ一緒にひざを抱えて向かい合うだけです。
 コニヤンは「教えてもらっていた」と書いています。本当はそういうことのほうが多いのかもしれません。しかし、こういう風に言える人はわずかです。
 「先生」になっていく過程で人はどう生きていったらいいのかという根本的な問いかけをしなくなり、何かを教えることだけに夢中になる人が多いのです。そういう人が出世し、今のどうしようもないような学校社会が出来上がったのです。

 「私は違う」という言葉にはコニヤンが自分の人生を納得いくように生きることによって得た確信のようなものが感じ取れます。

 このブログを読んでこの人の人生にいっそう関心を持つようになりました。

 

 

 

連立への危惧

2009-09-07 07:06:57 | 政治・社会
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 連立政権樹立に向けた協議で懸念されたとおり対北朝鮮政策をめぐって調整が難航しているようです。
 北朝鮮の「核、拉致」はもちろん飢餓に瀕する在日帰国者と日本人妻の救出は私たち日本国民に突きつけられた最大の課題です。社民党は「積極的に2国間対話を進める」と主張しているそうですが何を言いたいのか僕にはぜんぜんわかりません。
 この問題にどう立ち向かうのか民主党の姿勢もよくわかりません。この際、議論を公開して国民に見えるようにしてほしいと思います。この問題に対する姿勢をいい加減にしたまま連立政権を組むことは禍根を残すことになります。議論が整わなければ社民党との連立協議は打ち切るべきです。


 「北朝鮮対話」で調整続く 社民、連立合意に明記要求
                        2009年9月5日 17時40分

 民主、社民、国民新3党の連立政権樹立に向けた政策責任者協議で、社民党が対北朝鮮政策をめぐり「2国間対話推進」の方針を合意文書に明記するよう要求、「圧力」も重視する民主党が難色を示し調整が続いていることが5日、分かった。

 民主党は8日の次回協議で回答する考えだが、再核実験、弾道ミサイル発射に踏み切った北朝鮮に対しては圧力強化を求める国内世論が強い一方、米韓両国は対話模索の動きを活発化させている。新政権発足に向け対応に苦慮している状況だ。

 これまでの協議で、民主党は対北朝鮮政策について「国際的な協調体制の下、北朝鮮による核兵器やミサイルの開発をやめさせ、拉致問題の解決に全力を挙げる」とした合意案を示した。

 これに対し社民党は、自公政権の圧力重視路線を批判し、問題解決には対話が必要だと主張。その上で「積極的に2国間対話を進める」との文案を逆提案した。

 民主党は衆院選マニフェスト(政権公約)で北朝鮮による核実験とミサイル発射を非難し、拉致問題については「国の責任において解決に全力を尽くす」としたが、対話と圧力のどちらに軸足を置くかは示さなかった。

 ただ党内には対北朝鮮強硬派も多い上、岡田克也幹事長が4日の記者会見で「拉致問題の進展がない状況の中、各国と協力して経済制裁に強く出る時期だ」と圧力重視の姿勢を打ち出した。

(共同)


「すごい」こと

2009-09-06 20:43:31 | 政治・社会
 8月31日のAさんのブログを紹介します。Aさんは北朝鮮を脱出してきた元在日コリアンですが現在、日本国籍を持っておられることはこのブログではじめて知りました。

 この文章を読んで皆さんはどのように思われますか。


   す   ご   い  !!
        
 日本は遂に政権交代をやってのけた。何とすごいことだろう。これこそまさに国民が直接政治を動かせるということを現実の問題として目の前に突きつけられた形だ。

 最近になって「政権交代、政権交代」と言われていても40数年も独裁国家の中で暮らしてきた私にはとても素直に信じられることではなかった。

 現代日本を牛耳ってきたのは今までの政府与党だったし、今までその人たちに国を任せきってきた日本国民がこれほど見事に政権交代をやってのけるとは思いもよらなかった。

 これこそ国民と政府が一本の糸でつながっているということなのだ。政治家がうかうかしているといつでも頭を挿げ替えられる力があるということを見せつけたすばらしい出来事だった。

 私は自民党がよいとか民主党が正しいとか言いたいのではない。私が言いたいのは国民の利害に反する政府はすぐに辞めさせて新しい方向を選べるということが、新しい人たちにバトンタッチをさせられる制度というものが素晴らしいことだと言いたいのだ。

 まさにこのような人間が人間らしく生きていける社会に住んでみるために命をかけて北朝鮮を脱出してきたが、それは100%正解だったと言えると思う。

 昨夜は最後の一人まで選挙結果が出るまでテレビの前で頑張っていたが少しも疲れたとは思わなかった。感激のしっぱなしである。

「政権交代に一票を投じられて良かったね」と自分自身をほめてやる。

日本の皆様、本当にご苦労様でした。我々が選んだ新しい政権が本当の意味での「国民の国民による国民のための政治」を実現してくれることを期待しようではありませんか。

  出典 帰国者チャンネルhttp://blog.livedoor.jp/kikokushachannel/

 選挙によって政権政党が一新されるのは新憲法下では初めてのことである。僕は68年生きてきたがもちろん初めて体験することで、うれしい。間接民主主義がようやくこの国に根付く時代が来たのだ。

 「日本の皆様、本当にご苦労様でした」。Aさんのこの言葉を皆さんはどう受け止められたでしょうか。

 僕は政権交代を可能にするための政党(民主党)を作るために力を尽くしてきた方々のご苦労に心から敬意を表します。鳩山さん、岡田さん、菅さん、そして小沢さん…。縁の下で苦労をされた方々はきっとたくさんおられるに違いありません。これらの方々の努力のおかげで自民党に対抗する力を持つ政党が作られたのです。
 
 A さんは「日本の皆様」といっています。一票を投じたご自分を含めてこの選挙に参加したすべての国民に「本当にご苦労様」といっておられるようです。

 私たちは一票を投じただけです。「ご苦労様」といわれるほどのことをしたわけではありません。

 でもA さんに言われて思うことですが有権者の68%の人がこの選挙で投票に参加し、静かに粛々と政権交代を実現させつつあるのですから、日本国民もなかなかのものなのかもしれません。リスクの付きまとう大事業を平和裏に実現しようとしているのですから。お互いに「ご苦労さん」「お疲れ様」とねぎらい合うのがいいのかもしれません。

 これを機に政治への関心を深める人々が増え民主主義がこの地に根付いていくように小さな努力をお互いにしていきましょう。
 Aさんは自分の思いを一言でも表現することが死につながる社会で40年を生き抜いてきた方です。私たちが空気のように享受して、大切にすることを忘れかけている一票の持つ意味を問いかけてくれています。