川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

西伊豆④ 安城岬と灯明ヶ崎遊歩道

2010-02-28 04:26:24 | 出会いの旅
2月22日(月)晴れ

 今回の西伊豆訪問の主な目的は西伊豆町の遊歩道を歩くことです。温かく穏やかな天候に恵まれて最南端の仁科(にしな)にある安城岬(あじょうみさき)遊歩道から始まりました。

 いかにも室町期あたりの城跡だった風情の山ですが何の説明もありません。この方のブログの写真がよく雰囲気を伝えています。ゆっくり散歩を楽しむにはもってこいです。富士山も見えます。

 歩いていても人に会うことはありません。時々、堂ヶ島の遊覧船の案内放送が聞こえてくるだけです。
  
 安城岬http://codile.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/17-b868.html

 帰りに足湯を見つけたので疲れをいやし方々長湯を楽しみました。近所のお姉さんが一人話し相手になってくれます。


 堂ヶ島で昼食(フードセンター青木の弁当)の後、国道を北上して浮島(ふとう)海岸へ。

 堂ヶ島の喧騒がうそのような「秘境」です。ここから田子にかけて「灯明ヶ崎遊歩道」があります。1月に田子側から途中まで歩いたところです。今度は浮島海岸からです。2カ月かけて完歩しようというわけです。

 きつい登りの連続ですが一休みして振り返ると素晴らしい海の眺めです。今度はこの方の写真を見てください。順番は逆になりますが…。

 
  灯明ヶ崎遊歩道http://codile.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-20a2.html


 二つ目のあずま屋で反対側からマウンテンバイクで来た人に出会いました。階段は担いで上り下りするのだといいます。50代と見受けますがわが身ひとつでもフーフー言っている僕には信じられない話です。

 ここから引き返すことにしました。帰りは下りが多く思ったよりは早く海岸にたどり着きました。

 今日の散歩はこれで終わりです。携帯の万歩計によれば1万七千歩あまり歩いたことになります。未知の地だからできたことです。

 西伊豆町の散歩道はどこも良く整備されています。人影はほとんどありません。風光は明媚です。

 国道を北上して戸田~修善寺を経て6時ころ伊豆高原の保養所につきました。


 西伊豆町遊歩道マップhttp://panfizu.i-ra.jp/e18203.html



シンポジウムの生中継

2010-02-27 07:46:51 | 政治・社会
  昨夜は面白い体験をしました。

 パソコン画面で「緊急シンポ!『小沢VS検察』にみる検察と報道のあり方」の同時中継を見ることができたのです。

 こんなことは常識だよという方も多いのかもしれませんが僕には初体験でマスコミの情報管理を打ち破る可能性が生まれてきたことを実感しました。

 このシンポジウムには行ってみたいなあと思いはしても夜のことなので諦めていたのです。『創』という月刊誌の主催です。



  『シンポジウム「小沢vs検察」にみる検察と報道のあり方』


政治家の金銭スキャンダル追及は当然のことですが、検察がいまのように政局を動かすといった事態は異常であり、しかもマスコミ報道がその流れに乗ってしまっていることはさらに問題です。「小沢・検察」戦争とは何であり、報道はどうあるべきなのか。この間の検察報道の検証を含めて徹底討論したいと思います。


出演者:三井環(元大阪高検公安部長)
鈴木宗男(国会議員)
安田好弘(弁護士)
青木理(ジャーナリスト)
上杉隆(ジャーナリスト)
元木昌彦(元『週刊現代』編集長)

司会:篠田博之(月刊『創』編集長)

日時:2月26日(金)18時~21時。開場17時45分

出典・生中継アドレスhttp://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/2010/02/1800vs.html


 検察とマスコミが一体となって人々を洗脳する恐るべき情報管理体制の全貌が元検事、元新聞記者、ムネオさんなどの証言で垣間見えてくるというすぐれた企画でした。

 このシンポジウムの様子は近くネットでその録画が見られるようですから、皆さんもぜひご覧になってください。私たちがいかに新聞やTVなどの「報道」に支配され、洗脳されて生きているか、思い知らされます。

 さしあたって記者クラブ制度を廃止し、問題意識を持ったフリーのジャーナリストが自由に記者会見に出られるようにすることが大事だということがわかりました。新政権になって部分的には実現していますが総理官邸などがガンになっているとのことです。公約通り、鳩山さんの会見をオープンにしていたら「小沢事件」での検察の対応も違ったものになっていただろうという上杉さんの指摘に納得しました。総理会見がオープンになったら検察庁も密室のままというわけにはいかなくなるのでしょう。

 敵は民主党と鳩山政権自体の中にいるのです。政権交代を市民の側に意味のあるものにするために私たち自身がネットなどを活用し何が真実かを究明し、政権を批判・監視するとともに霞が関とマスコミが一体となった情報支配の構造を解体しなければなりません。


 参考・三井元検事の発言①http://opinion.infoseek.co.jp/article/774


 三井元検事の発言②  http://toracyan53.blog60.fc2.com/blog-entry-414.html

西伊豆③ やまびこ荘

2010-02-26 15:17:12 | 出会いの旅
 2月21日(日)晴れ

 川越~(高速)~山中湖~御殿場~箱根~(伊豆スカイライン)~修善寺~(西伊豆スカ

イライン)~仁科峠~西伊豆町大沢里・やまびこ荘

  午前中はよく晴れて富士山の眺めが圧巻。山中湖から御殿場に抜ける篭坂峠(かごさかとうげ)付近の樹氷も見事。

 樹氷http://blogs.yahoo.co.jp/nukikoo/34490977.html

 戸田峠から快適なスカイラインを仁科峠まで走った後、県道をどこまでも下ると「やまびこ荘」があった。

 大沢里(おおそうり)小学校が廃校になった後を改装して宿泊施設にしたといいます。仁科(にしな)川が作る谷間の村の丘の上です。

   やまびこ荘http://www.town.nishiizu.shizuoka.jp/hp/page000000700/hpg000000653.htm

 私たちは一階の8号室に泊まりました。教室を半分に仕切った部屋です。

 小六の夏休み、級友たちと高知県安田町の小川小学校に泊めてもらったことがあります。5年生の時の担任だった増井忠義先生の赴任先で安田川をトロッコでさかのぼりました。

 あの時は小学校の教室でどうやって寝たのでしょう。ここは広々とした畳の部屋でこたつもあります。

 源泉かけ流しの温泉が自慢です。39度とぬるめの湯です。コックをひねれば熱湯が出て温度調節ができるというのですがあいにく故障中です。過疎化の進む山間の村の振興策に悩むおじさんの話に耳を傾けながら長湯をしてしまいました。

 25mの立派なプールがあって、これも温泉です。廊下に張り出された写真を見ると青少年団体の利用が多いようです。

 年金生活者にとって何よりなのは二人で泊まっても一万円もしない安さです。地元の女性たちが作ってくれる家庭料理の夕食も僕には美味しく、西伊豆探訪の基地にはもってこいです。

 愛知県から来たというふた組の家族が同宿です。河津桜がお目当てですが今日は道路が混んで修善寺の梅見物だったとか。ふた組とも明日もここに泊まるということです。


 仁科川に沿って遊歩道があったので歩いてみました。久しぶりのことで始動に時間がかかりますが何とか完歩。文京高校にこのあたりの中学から来た女生徒がいました。どうしても名前を思い出せません。どうしているのかなあ。

 ここまで書いたところでオリンピックの女子フィギュアーの演技に見とれてしまいました。

 キム、浅田、ロシェットなど世界中の人々の視線を浴びながらしっかりと全力を出し切る姿に拍手。すごい。


   西伊豆②http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/066a5ba4e534a5b5a2e60a494a42147d

伊豆での「保養」から帰着しました

2010-02-25 17:49:02 | 父・家族・自分
 今朝、9時前に伊豆高原の保養所を出て、3時前に川越に帰りつきました。

 伊豆高原~伊東~熱海~大磯~伊勢原~城山(昼食)~高尾~日の出~(高速)~川越


 連日、春のような日和に恵まれ、西伊豆町、河津町、南伊豆町とあちこちで散歩を楽しむことができました。おかげさまで寒さで動かなくなっていた体がだいぶほぐれて軽くなってきました。自然の加護に感謝あるのみです。

 春の彼岸までは3週間です。日々、適度な運動に努めて体調を整えていきたいと思います。

 休刊中も「川越だより」を訪ねてくださる方が多かったようです。ありがとうございます。明日から通常の発行体制に戻ります。

園部逸夫元最高裁判事のインタビュー記事

2010-02-21 05:54:51 | 政治・社会
【川越だより】のアクセス・ランキング

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

日付 閲覧数 訪問者数 ランキング
2010.02.20(土) 829 PV 235 IP 5217 位 / 1369427ブログ
2010.02.19(金) 900 PV 199 IP 6701 位 / 1368989ブログ
2010.02.18(木) 822 PV 218 IP 5626 位 / 1368536ブログ
2010.02.17(水) 780 PV 225 IP 5669 位 / 1368046ブログ
2010.02.16(火) 899 PV 218 IP 5528 位 / 1367586ブログ
2010.02.15(月) 1135 PV 253 IP 4678 位 / 1367152ブログ
2010.02.14(日) 1141 PV 241 IP 4993 位 / 1366677ブログ

今日から伊豆半島に保養に出かけることにしました。数日間、「川越だより」はお休みです。それで一日早くランキング表を載せます。

 退職と闘病が重なってのんびりと好きなことだけをやらしてもらっています。ブログを書くのがすっかり日課になりましたが、毎日たくさんの方が覗いてくださるので励みになります。ありがとうございます。

 日々の生活にかかわって駄文を書いています。さまざまな事情から書けないことはありますが感じたり、考えたりしたことをありのままにつづっているつもりです。今までに出会った方々に近況報告をするつもりで書いています。これからもどうぞよろしくお願いします。

 
 19日の「産経」のトップ記事にこんなのがありました。

 もと最高裁判事が自分たちの判決に「(在日韓国・朝鮮人を)なだめる意味があった。政治的配慮があった」と明言したというのですから僕にはちょっとした驚きでした。

 
 「政治的配慮あった」外国人参政権判決の園部元最高裁判事が衝撃告白

                   (2010.2.19 00:18 産経)


 平成7年の最高裁判決が永住外国人への地方参政権(選挙権)付与に関し、判例拘束力のない「傍論」部分で「憲法上禁止されていない」との判断を示した問題で、判決に加わった園部逸夫元最高裁判事は18日までに産経新聞に対し、「(在日韓国・朝鮮人を)なだめる意味があった。政治的配慮があった」と明言した。さらに判決に際し、地方参政権付与の対象者について「(在日韓国・朝鮮人ら)非常に限られた永住者に限定する」ことを想定したとし、民主党などが「一般永住者」にも与えようと検討していることを「ありえない」と批判した。

 園部氏が判決の背景として、「政治的配慮」に言及したことは、最高裁判決の当事者としては極めて異例の発言といえる。

 判決は特別永住者に限らず、経済的基盤を日本に持ち10年以上在留など一定要件を満たせば得られる「一般永住者」についても、参政権を付与する案の根拠とされている。この点について園部氏は「(一般永住者に)選挙権を即、与えることは全然考えていなかった」と語った。同法案を政府提出とすることにも「賛成できない」と表明した。

 判決理由については、「憲法の地方自治の本旨に従って、特定地域と非常に密接な関係のある永住者に、非常に制限的に選挙権を与えることが望ましいと判断した」と証言。歴史的経緯があり、何世代にもわたり日本国内に在留する韓国人、朝鮮人、台湾人に限り、住み続けている地域に限定して地方参政権を付与することは、「全く憲法違反だとは言い切れないという判断だった」という。

 園部氏は当時の判決について「金科玉条で一切動かせないとは考えていない」と述べ、時代の変化に合わせ見直すことも可能だとした。


  出典http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100219/plc1002190020000-n1.htm

 外国人地方参政権付与法案に反対する勢力の機関誌のような「産経」はこのインタビューを引き出して「やったあ」と言っているような感じですが、僕はこの発言についてはよくよく吟味してみる必要があるように感じます。

 「産経」の記事のもとになったインタビューを起こしたブログ記事を見つけました。園部元判事の生の声が聞こえてきそうな感じです。皆さんも読んでみてください。

 どんな感想を持たれるでしょうか。よかったらコメントをください。

 この判決がきっかけになって「民団」などの地方参政権獲得運動が勢いを増してきたことは事実です。判決の当事者の発言ですから影響も大きいかもしれません。

 

  外国人参政権にかかわる園部元最高裁判事インタビュー
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/1467498/

『週刊朝日』山口一臣編集長③ 「民主党に民主主義を守る気はあるのか」

2010-02-20 09:14:20 | 政治・社会
 三週連続で『週刊朝日』を買ってしまいました。

 2月26日号で記憶にとどめておきたい記事は「『罪なき罪』をつくる検察の大罪」でしょう。

 かつて検察の大物検事だった二人の人が取り調べられたり、投獄されたりしたときの体験を語っています。自分たちがやってきたことの大罪をやられてみて初めて気付いたというわけです。

 元広島高検検事長の緒方重蔵という人は朝鮮総連本部の売却事件にかかわった人で「在日の北朝鮮の人たちのよりどころを守るために」総連会館を購入したと言っている人です。北朝鮮独裁政権の出先機関でしかない朝鮮総連を在日コリアンの「よりどころ」などという人を僕は信じません。

 しかし、この人が体験したという検察庁の取り調べの実態は多くの人に知られるべきです。名もなき市民の場合は虫けらも同然でしょう。

 最近知ったブログに記事の一部が紹介されています。

 
 週刊朝日2月26日号~検察大物OB対談三井環・緒方重威「罪なき罪」を作る検察の大罪
 http://honnosense.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/ob-0054.html


 市民の支持を得て政権交代を果たした民主党はこのような検察権力の横暴と対決し、市民の人権の立場から司法行政の民主化のための立法を進めなければなりません。

 しかし、その気配を感じさせないどころか、検察とマスコミが作った「世論」に迎合する議員たちの醜悪な姿が目立ちます。自らのリーダーが検察の見込み捜査に打ち勝った今こそ攻勢に転じなければならないのに、選挙に勝つためだと言って「小沢降ろし」を画策し始めたのです。

 権力を維持するために検察と世論に迎合する人々に民主主義と人権を語る資格はありません。

 一年前に『週刊朝日』の山口一臣編集長が書いた文章が出てきました。僕はこの人の論調に同意します。民主党の議員たちや取り巻く人々に読んでほしいと思います。一年たっても同じことを言わなければならない現実に情けなさを感じます。こんな姿勢では政権交代の意義はなくなるし、政権崩壊の日は近いというほかはありません。


 民主党に民主主義を守る気はあるのか
  http://www.the-journal.jp/contents/yamaguchi/2009/05/post_65.html

嬬恋村

2010-02-19 23:17:47 | 中国残留日本人孤児
 寒い日が続いて冬眠状態でしたがようやく青空と日差しが戻ってきました。昨日は会議のため東京へ、今日は特別養護老人ホームの見学で川越の街中へ。少しだけですが体を動かしました。明日あたりからは春の気配を感じられるようになるのでしょうか。

 5月15日に予定している「第10回きいちご移動教室」の目的地が群馬県嬬恋村に決まりました。

 若い友人たちが宿泊先として千代田区立「嬬恋自然休養村」を確保してくれたのです。事務局を担当する僕としては大喜びです。

 浅間山の景観が素晴らしいといいます。料金も格安ですからありがたい限りです。


 嬬恋自然休養村http://hoyou.city.chiyoda.tokyo.jp/tsumagoi/t_kannai.html

 「中国残留日本人孤児」「脱北帰国者」などのみなさんとその家族が日本に帰ってきてよかったなあとひと時でも感じてもらうのが旅の目的です。

 どんな旅程にしたらよいか、これから楽しいプラン作りが始まります。鬼押し出しなどの観光のほかに群馬県の満蒙開拓団慰霊碑の訪問などが考えられます。

 群馬満蒙拓魂の塔 http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/c8a6846d79776653470fe767979bd66b

 途中の中之条には「おろかものの碑」があり、長野原の八ッ場ダム予定地もとおります。

 おろかものの碑http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/445f75fbfe2de33841e8c6c05e702b2f

日中の間で生きる

2010-02-18 22:48:26 | 友人たち


 16日(火) 曇り 

 Hさん(92年3月北高卒)が背の君と息子さんを連れて様子を見に来てくれました。

 彼女は中国残留孤児2世で今は深圳(しんせん 広東省)の日系企業で働いています。一

年前に久しぶりに顔を見せてくれたときに今度はお連れ合いに会わせてくれると言っていた

のです。

 一年がたって春節の休みということでお母さんのもとに帰ったのですが大切な日程の一日

を割いて川越まで来てくれました。お連れ合いは隋さんといい上海生まれの中国人です。日

本留学中に秋葉原で働いていたHさんとの出会いがあり、結婚に至ったそうです。日中貿

易会社を営んでいます。しっかりした日本語を話します。歳は少し上で、Hさんは心から

尊敬しています。

 4歳になる男児はHさんのお母さんが育てています。だから今、一年ぶりに親子水入ら

ずの日々を送っているわけです。毎日、パソコン画面で語り合っているので親の顔を忘れる

などということはないそうです。

 ここにもまた僕などには想像も及ばない家族の形があります。背後にはさまざまな事情や

考えがあることでしょう。


 とはいってもいつまでもこういう生活を続けるわけにはいきません。二人のことですから

きっと心に期するものがあるに違いありません。

 日中の間で生きる人々の可能性と苦悩に触れたような気がしました。老兵はただただお二

人の健闘を祈るばかりです。







 

 

韓国映画『クロッシング』

2010-02-17 17:50:37 | 映画  音楽 美術など
 脱北者の救援に東奔西走している友人から映画『クロッシング』のビラが届きました。遅れに遅れていたが4月から東京でも上映が始まるようです。

 「東京新聞」によればアジア映画社が上映に尽力したようです。

 この映画社の朴炳陽(パク・ピョンヤン)社長は古い友人です。1970年代に川越のご近所さんでした。神戸に帰ってからアジア映画社をおこすなどの活躍をされましたが震災で長男の竜寧くんを亡くされました。小学生の竜寧くんが遊びに来て息子たちと戯れていた日々を思い起こします。

 「李三郎」の名で映画にも出ていましたが、僕が知り合ったころには在日コリアン芸術家協会のたち上げに尽力していました。歌手の朴保(ぱくぽー)くんを世の中に出したのも「三郎」さんです。

 あれから30年の時が流れましたが、こうして古い友人の活躍を知ることは嬉しいことです。民族差別と闘う運動の中で出会った友人たちのうちで今日、北朝鮮の人権問題にかかわって出会う人は皆無に近いからです。

 「東京新聞」の記事には二つあって小さい方の記事にはこんなことが書かれています。『新潮45』が発売されたら朴さんの文章を読んでみたいと思います。

 

 ≪記事紹介≫(2010年2月14日 「東京新聞」 朝刊)

  ①「延期は北の対日文化工作」

       配給会社代表 月刊誌に手記

 北朝鮮の実態を告発する映画「クロッシング」を昨年買い付け、全国公開につなげたアジア映画社(神戸市)の朴炳陽代表が十八日発売の月刊誌「新潮45」三月号に、「クロッシング」の公開延期は 「北朝鮮による対日文化工作と言わざるを得ない」とする手記を寄せていることが十三日明らかになった。

 この中で朴代表は、最初に映画を買い付けたシネカノンが「映画を使って極めて北朝鮮に有益な 行動を取り続けている」と、具体例を挙げて指摘。韓国の制作会社との契約を守らず、結果的に一年以上映画を「封殺」したと批判している。

 これについてシネカノン側は本紙に「担当者がおらずコメントできない」と回答した。


   ②『幻の脱北映画』やっと日本公開 棚ざらし1年、配給会社変更

北朝鮮を脱出する住民(脱北者)や北朝鮮内にある収容所の実態をリアルに描いた韓国映画「クロッシング」が四月に日本で公開される。韓国では二〇〇八年に公開され数々の賞に輝いたが、日本では上映されず「幻の映画」となっていた。関係者が正式契約し、一年以上かかって日本公開が実現した。 (外報部・五味洋治)

 映画の舞台は北朝鮮にある炭鉱の町。サッカー選手だった男性は、妻の病気の治療代を稼ぐため中国に行くが、韓国亡命に追い込まれる。その後、妻は病死。男性は韓国で懸命に金を稼ぎ、北朝鮮に残されホームレスとなった息子を救い出そうとする。

 制作に当たったキム・テギュン監督は、脱北者百五十人以上に会い、一年半かけてシナリオを練り上げた。モンゴルや中国で秘密撮影を敢行し、細部まで迫真の仕上がりとなっている。

 韓国では観客百万人を動員。韓国の映画評論家協会賞を受賞したほか、〇九年の米アカデミー賞外国語映画賞韓国代表作品にも選ばれた。厳しい監視をかいくぐって決行される脱北や、暴力が横行する北朝鮮内の収容所の実態を本格的に描いた作品。

 脱北ルートであるタイや、人権問題に関心の高い米国で自主上映されている。

 日本では、映画「フラガール」「パッチギ!」などを制作した映画制作・配給会社「シネカノン」(東京都渋谷区)が買い付け、〇九年春からの一般公開を予告したが、棚ざらしになっていた。

 シネカノンは結局、資金繰りが悪化して今年一月末に負債四十七億円を抱えて民事再生法の適用を申請し、事実上「倒産」。上映を望む人たちと配給会社のアジア映画社が正式契約し、四月十七日から東京・渋谷の「ユーロスペース」を皮切りに全国公開されることになった。

 韓国統一省によると、二〇〇九年に韓国入りした脱北者は推計で二千九百五十二人。総数は一万八千九人となり、今年中に二万人を超す見通しだ。

 公開決定にあわせて来日したキム監督は、「非常に敏感な問題であり、政治的な非難を受けないよう事実に即して制作した」と説明。「北朝鮮や脱北者問題に関心の高い日本で公開が実現し、うれしい。日本の人たちにも脱北者の苦痛、閉鎖社会に住む悲しさを感じていただけたら」と期待を寄せた。

 『クロッシング』のHPです。4月になったら見に行きます。

 http://www.crossing-movie.jp/

『週刊朝日』 山口一臣編集長(②)

2010-02-16 08:21:55 | 政治・社会
 僕が週刊誌を買うなどということはめったにありません。それがどうしたわけか2週連続で『週刊朝日』を買ってしまいました。今日が新しい号の発売日です。3週連続ということになるのでしょうか。

 この週刊誌が何か特別にしっかりした記事を書いているとは思いません。ほかの新聞や週刊誌やTVの報道があまりにもお粗末なのです。権力を持つ者の垂れ流す情報を検証もせず、「報道」するだけです。

 布川事件の再審が3月には始まるそうです。足利事件も再審中ですがこれらの冤罪事件を生んだ責任の半分はマスコミにあるのに自らを問う姿勢はどこにもありません。

 小沢幹事長事件の報道を通して検察の発表をうのみにせず、それを検証しながら報道するという当たり前のことをしたのが『週刊朝日』だったのです。

 僕はそう感じたので買う気になりました。

 今回おもしろかったのは『週刊朝日』のHPなどで編集長の裏話を読めたことです。検察庁と編集部、ライターのやり取りが見えてきます。週刊誌の記事やこのHPを読んだ読者が検察庁に電話し、検察のやりたい放題を現実にチェックする役割を果たしていることも分かります。インターネット時代の週刊誌と市民の在り方を垣間見せてくれました。

 特権的な記者クラブに安住し、権力の僕(しもべ)に堕して久しい新聞の購読などは止めてみたらどうでしょう。読みたくなったら図書館に行けばよいのです。再販価格維持制度に守られた新聞社のやりたい放題にここらでNO!を突き付けなければなりません。この国では新聞社と放送局は一体です。

 僕が新聞購読をやめて3年になりますが困ることは何もありません。大切なことはどこに真実があるかを私たち自身が探究する姿勢を堅持することです。

 『週刊朝日』誌面じゃ読めない「検察の『抗議』に抗議」のウラ話
http://www.wa-dan.com/kougisho/

バレンタインデイ

2010-02-15 10:08:14 | 友人たち
【川越だより】のアクセス・ランキング

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

日付 閲覧数 訪問者数 ランキング
2010.02.14(日) 1141 PV 241 IP 4993 位 / 1366677ブログ
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2010.02.09(火) 1022 PV 267 IP 4402 位 / 1364221ブログ
2010.02.08(月) 960 PV 266 IP 4537 位 / 1363710ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

日付 閲覧数 訪問者数 ランキング
2010.02.07 ~ 2010.02.13 6200 PV 1814 IP 4636 位 / 1366119ブログ
2010.01.31 ~ 2010.02.06 5567 PV 1769 IP 4751 位 / 1362678ブログ
2010.01.24 ~ 2010.01.30 4810 PV 1757 IP 4717 位 / 1359329ブログ

 昨日は久しぶりに晴れたので「家園」に行って昼食の後図書館で本を借りてきました。寝てばかりだったので歩くのがままならず、途中から押していった自転車に乗るありさまです。たった数日の寒さに参っているのです。雪国の人たちの暮らしを想います。

 そんな日々ですが嬉しいこともありました。

 12日(金)ホテル伊豆高原から干物が届きました。一月に泊まった時、答えたアンケートがくじにあたり、サバやアジの景品となったのです。珍しいこともあればあるものです。

 13日(土)Rさんからチョコレートが届きました。14日がバレンタインデイなので間に合うように郵便で送ってくれたのでしょう。僕には縁のない若者を苦しめる行事ではないかと思っていたのですが…。Rさんの心遣いをありがたく受け取りました。

 一昨年の暮れに二人の子供とともに北朝鮮から脱出してきた若い女性です。一年間という短い期間のうちにすっかり この社会に馴染んできています。子どもたちはといえばもうこの国で生まれたのではないかと思うくらいです。

 パソコンを習って就職に備えているといいます。東京での生活が2年目に入ります。一家の平穏な生活と北朝鮮に残された家族との再会が一日も早く実現するように祈ります。

 軽井沢の大日向開拓地のことを調べているうちに素敵な風景に出会いました。長野県の小川村からみた北アルプスです。皆さんにもその感動をおすそ分けします。

 鹿島槍http://plaza.rakuten.co.jp/nishijyomasami/diary/201001270000/

この村は「日本で最も美しい村連合」に加盟しており「石張り水路」というものが残っているようです。安曇野訪問の途中に寄ってみたいと思います。

  小川村 http://www.ogawamura.com/gappei/6/

軽井沢 大日向開拓記念館

2010-02-13 12:12:53 | 中国残留日本人孤児
 しびくた日和が続くとやりきれなくなります。布団にもぐりこむ時間が一日の大半を占めます。そのほうが体が楽になります。温かい日差しが待ち遠しい限りです。

 きいちご移動教室の目的地探し、第2弾は軽井沢周辺です。

 一昨年夏、天皇ご夫妻が軽井沢静養中に大日向開拓記念館を訪れたというニュースがありました。抗がん剤治療の一休み中に長野県で見たのではなかったかと思います。

 大日向開拓地http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080830/imp0808300822000-n2.htm

 一年前の今頃、ここを訪ねた箭内 昇さんという方の文章があります。


「未来志向の友好関係は歴史認識から――旧満洲で見た衝撃の遺跡」(2009/02/19)

    大日向開拓団の悲劇


 昨年天皇陛下も訪問された大日向開拓記念館は軽井沢西部の大日向地区にある。1938年(昭和13年)、長野県旧大日向村(現佐久市佐久穂町)の村民は厳しい食糧危機に耐えかね、村民の半分にあたる216戸、764名が吉林市北部の舒蘭県四家房への移住を決断した。


 村ごと移住する「分村移民」としては第1号であり、やがて「開拓」が成功するや、日本政府は格好のモデルケースとして映画や演劇化し、国をあげて満州移住を奨励した。


 だが、移住した大日向村民はその後3つの悲劇に遭遇する。まずは、敗戦直後に受けた現地住民の襲撃で20名以上が殺害され、引き揚げ途中の飢餓などで約350人が死亡した。


 やっとの思いで帰国するが、もはや元の村に自分の土地はない。結局、47年(昭和22年)に65世帯165人が国有地の払い下げを受けて浅間山麓(さんろく)の軽井沢に入植したが、雪深い不毛の原野を切り開く文字どおり「開拓」の苦難を味わう。今は早稲田大学のセミナーハウスや西武不動産の千ガ滝別荘地になっている一帯だ。


 記念館には当時ののこぎりが陳列されているが、こんな道具であの大量のカラマツを切り倒していったのかと思うと胸が詰まる。だが、それ以上の悲劇は、彼らが「侵略のお先棒」を担がされたことである。


 筆者は、それまで満州開拓者たちは移住の最初から最後まで苦難が続いたと思い込んでいたが、記念館を案内してくれた移民2世(満州で誕生)の話に驚愕(きょうがく)した。「われわれの満州での生活はかなり快適だったようです。割り当てられた農地は既耕地だったこともあり、元の大日向村と比べれば別天地でした」というのだ。


 記念館に掲示された「満州大日向村」の地図をみると実に広大だ。鉄道路線でいえば2駅間(列車で30分程度か)、公称総面積は8000町歩(2400万坪)に達する。移民たちには1戸当たり10町歩(3万坪)の農地が給付されたという。日本では当時の1農家当たり平均耕作面積が1町歩であったことを考えると、まさに夢のような「別天地」だったにちがいない。


     国策に翻弄(ほんろう)された人々


 だが、大日向の移民たちは、戦後になってその「別天地」が実は日本政府が実質的に収奪したものであることと、「小作」として使用していた中国人や朝鮮人こそが本来の地主であったことを知って、大きな衝撃を受ける。


 彼らは日本では被害者だが、中国では加害者でもあったわけで、実に気の毒な存在だ。存命の移民たちは今も「現地の人に大変な迷惑をかけた」と悔恨の念にかられているという。


 こうした満州開拓移民は最終的には22万人にまで膨張した。日本側の資料によれば、移民の土地を確保するために設立された満州拓殖公社(満拓)は、41年までに2000万町歩(日本国土の半分以上)を買収(収奪)している。


 このうち中国人の既耕地は351万町歩と当時の日本全耕地の約6割に達する(太平洋戦争研究会編著「満州帝国」河出書房新社)。その背後に日本軍の圧力があったことはいうまでもない。


 筆者は吉林からハルビンまで5時間半も列車に揺られて移動したが、車窓にはトウモロコシ畑や大豆畑が気の遠くなるほど延々と続いていた。この沿線に大日向村をはじめ多くの満州開拓団の入植地が連なっていたことを思うと、やり切れない気分に陥る。


 今年86歳になる筆者の母親に聞くと「当時の日本人は、皆満州はいいところと信じていた」という。われわれは「侵略」という言葉を聞くとすぐに戦争を想起するが、実は権力者による情報コントロールこそが最も恐るべき侵略の正体であることを痛感する。

  出典http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/yanai.cfm?i=20090218c9000c9&p=4

 母村・大日向村は現在長野県南佐久郡佐久穂町の一部になっており、秩父から佐久に抜ける国道299号沿いにあります。秩父事件の時、困民党軍が十石峠を経て佐久に転戦した際とおった道です。僕も何回か訪ねたことがあります。当時の宣伝映画も見ました。

 でも、この 大日向開拓記念館は所在が分からず行ったことがないのです。これでわかりました。春になったら下見に行ってみます。普段は閉まっているようです。

  大日向開拓記念館http://blog.goo.ne.jp/iwanaga7717/e/142cac90a0d4490a033a5b3702245b59

性同一性障害

2010-02-12 09:25:05 | こどもたち 学校 教育
 昨日まで風邪で寝ていた妻が今朝は元気になって朝食の準備をしています。ありがたいことです。

 けさ、こんなニュースがありました。5年前Aくんに出会ってから僕はこの種の記事を切実感を持って読むようになりました。

 <引用開始>


<性同一性障害>小2の秋から「女の子」…性切り替え容認

                        (2月12日2時32分配信 毎日新聞)

 埼玉県の公立小学校が性同一性障害(GID)と診断された小学2年の男児(8)に対し、学年の途中から女児としての登校を認めていることが分かった。全校児童や保護者にも事情を公表している。専門家によると、小学校入学時に学校と相談し戸籍と逆の性で登校を始める例は学会で数例報告されているが、在学途中で生活上の性別を切り替えるのは初めてとみられる。これまで光が当たらなかった子どもの性同一性障害とどう向き合うか、議論が活発化しそうだ。

 ◇埼玉の公立小

 家族によると、児童は幼稚園の段階から体が男であることへの違和感があり、小学校入学後は男児用の水着を着たり立って小便することへの苦痛を激しく訴え、不眠がちになった。このため昨年2月に埼玉医科大のジェンダークリニックを受診、翌月GIDと診断された。主治医の塚田攻医師は診断書に「就学等の適応を阻害しないために女性として扱う配慮が望ましい」との意見を記した。

 学校側は主治医や親と相談し「本人の苦痛を取り除くことを最優先しよう」(校長)と判断。夏休み明けの同年9月、校長が全校児童に、母親がクラスの保護者に説明し、女児としての学校生活が認められた。

 児童は学籍は戸籍通り男児のままだが、男女別に整列する際や体育の授業などでは女児のグループに入っている。「からかわれることもあるけれど、スカートをはいて学校に行けるのがうれしい。女の子の友だちもたくさんできた」と話す。

 子どものGIDが公になることはまれだが、岡山大の中塚幹也教授らが当事者661人に聞き取り調査したところ、約8割が小学校高学年までに身体的な性別への違和感を覚えていた。さらに全体の約7割が自殺を考え、約2割は未遂などの経験があった。自殺を強く考えた時期は中学生が37%で最も多く、小学生も約13%。

 中塚教授は「今も多くの子が誰にも相談できず悩んでいるのでは」と推測する。GIDの当事者でつくる「性同一性障害をかかえる人々が、普通にくらせる社会をめざす会」の山本蘭代表は「個々の学校の対応に任せず、国として実態を把握し、教育現場の指針を策定してほしい」と話している。【丹野恒一】

 ◇性同一性障害

 身体的な性別と心理的な性別が一致せず、体に強い違和感を覚えて悩む疾患。正確な統計はないが、国内に少なくとも1万人以上いると推計される。04年に一定の条件を満たした成人に対し、戸籍上の性別変更を認める特例法が施行され、08年までに1263人が認められている。

  出典http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100212-00000005-mai-soci


 僕はAくんの学校時代は「Aさん」と呼んでいました。女性だと思っていたのです。書類の上では女性ですが本人は小さい時から悩んでいたのです。この少年と違ってほとんど天涯孤独の身ですから真剣に相談に乗ってくれる人もいなかったのでしょう。中学は不登校です。

 「自殺を強く考えた」… そうだろうなあと今は思うことができます。

 でもそれは今のことであって、それまではほとんど苦しみを想像することもなかったのです。僕よりは理解のある娘や妻につないで相談相手になってもらいました。

 皆さんはいかがですか。

 Aくんは長い熟慮の果てに性転換手術を受けることになりました。それ自体簡単なことではありません。高い費用と長い時間を要します。

 僕にはまだ本当のところ「そこまでしなければならないのか」という思いもあります。
 しかし、本人が決断したことです。僕も少しは勉強してA君の人生を応援していきたいと思っています。

 学校や社会の対応の遅れは深刻です。

 追加<引用>

 性同一性障害:理解求め手探り…女児として登校

         (毎日新聞 2010年2月12日 2時33分)

 「なぜ私は女の子なのに、男の子の体なの?」。性同一性障害(GID)に苦しみ眠れない夜を過ごしてきた埼玉県の小学2年男児(8)が昨年秋から学校に女児としての通学を認められ、元気に登校できるようになった。「学校に認めてもらえなかったらフリースクールを探すしかない」と覚悟していた母親(46)はひとまず胸をなで下ろすが、悩みは尽きない。【丹野恒一】

 昨年9月の始業式。校長は全校児童の前で語り始めた。「2年生に、体は男の子だけれど心は女の子の児童がいます。そのせいでずっと苦しんできましたが、思い切って女の子としてみんなの前に出てくることになりました。温かく見守ってください」

 母親は保護者懇談会で子どもがGIDと診断されたことを打ち明けた。「どうしても女の子として学校に行きたいと言っています。希望をかなえてやりたい。お願いします」。異論は出ず、女児としての生活が始まった。

 児童はもともと男女どちらでも通用する名前で、呼び名を変える必要はなかった。トイレは女性教員用を使っている。秋の運動会では、入場行進やダンスは女児のグループ。でも徒競走は「体力差がある」との理由で、男児と一緒に走った。母親は「髪を伸ばしているので男の子たちの中にいると目立ってしまい、一部の保護者に『あの子よ』と指をさされ、可哀そうだった」と振り返る。

 今後の心配は体つきや声が変わってきた時のことだ。西日本の小学校では周囲の児童や保護者に公表せず女児として入学した男児が高学年になっているが、水泳の授業はフリルの付いた水着を着て下半身を隠し、宿泊行事の際は寝間着が乱れても困らないよう、就寝後に教師が女児たちの部屋から運び出したという。一方、埼玉県の児童の場合は周囲も事情を知っている。学校側は学年が上がってからも、他の子たちとの関係がうまくいくような支援を手探りで考えていくことになる。

 母親は「心配なことを挙げればきりがないが、誰もが当然のように経験していくことをその都度クリアしていけるよう、精いっぱい手助けしたい。これをきっかけに、社会の理解が進むといい」と願っている。

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 出典http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100212k0000m040102000c.html

山梨県南アルプス市  (旧)豊村(分村)開拓団慰霊碑

2010-02-11 07:22:04 | 中国残留日本人孤児
 2月10日(水)曇り

 寒い一日です。妻は風邪でダウン。

 先日投函した「きいちご基金」からの「熱川温泉の旅」案内が届いたと何人もの方から参加申し込みの電話をもらいました。「中国残留日本人孤児」か、その配偶者、または娘さんです。

 昨年の旅の楽しかった思い出、新たな春を待ち望む気持ち…。参加希望者はあっという間に定員(20)を超えて24人。すべて「残留孤児」夫婦、または夫を亡くした中国人妻。

 昨年、40年連れ添った夫を亡くされた方がいます。娘さんの話では思い出しては泣いておられるそうです。友人の度重なる誘いにこの旅に参加する気持ちにやっとなってくれたといいます。日本に帰ってからでも25年にはなります。苦労を共にしてきたお連れ合いに別れる打撃に耐えかねておられるのでしょう。

 一泊二日の短い旅ですが温泉に入りながら中国語で心行くまで交流してほしいものです。
3月23日、伊豆の熱川、桜の花が迎えてくれるかな。


 第10回「きいちご移動教室」の目的地決定のための情報収集でこんな記事を見つけました。

 
 終戦記念日に思う、満州開拓団の集団自決 惨禍の記憶今も…山梨

              (毎日新聞 2007年8月15日)

  山梨県南アルプス市の神社に半世紀前から立つ慰霊碑--。碑面には中国残留孤児の石丸美知子さん(67)=同市=の名も刻まれている。戦時中に同県旧豊村(同市の一部)は満州(現中国東北部)開拓団として村単位で移住し、その中に幼少の石丸さんがいた。終戦2日後の1945年8月17日、開拓団141人が集団自決を図り、石丸さんはただ一人生存していたことがその後分かる。


【新聞記事続き】

 40年、豊村の村民は国策で満州に移住し始めた。畑は肥よくで作物はよく実った。現地の人々から強制的に取り上げた土地とは、村民は知らなかったという。

 45年8月16日に終戦の知らせが届くと、土地を取り返そうと現地の人々が村を襲撃してきた。村民は銃などで応戦したが弾が底をついた。村民はダイナマイトによる集団自決を決断し、140人が死亡した。その時を石丸さんは記憶している。

 「会議がある」。5歳だった石丸さんは母から言われ開拓団本部の建物に入った。線香のにおいが立ちこめ、大人たちがすすり泣いていた。急に目の前が揺れ、見知らぬ人が上から倒れてきた。ダイナマイトが爆発した瞬間だった。1週間も昏睡(こんすい)状態が続き、目を覚ますと母と姉が息絶えていた。ひん死の石丸さんは中国人に育てられた。

 養父母の長男と61年に結婚し、その後、中国残留孤児であることが判明し、88年に帰国した。

 額には5センチ、左ひじにも15センチ以上の傷跡が残っている。家族と平穏に暮らしているが、日本語が話せず孤独を感じることも多いという。消え去ることのない痛手を心と体に負い、石丸さんは言葉を絞り出す。「戦争さえなければ……。戦争なんて何もいいことがない」

 開拓団の遺族らは、47年から自爆した8月17日に慰霊祭を毎年開き、慰霊碑は開拓団の悲劇の継承と不戦を誓って57年に建てられた。石丸さんの名は、帰国した今も自決者として慰霊碑に名前が刻まれている。【中西啓介】




   豊村開拓団の記録/5 半身まひの父と涙の再会

                     ( 毎日新聞8月25日朝刊)



 ◇生き残った娘、帰国--草の根活動の端緒に
 「自決した豊村開拓団に生存者がいたなんて」――。当時、県職員だった前南アルプス市長の石川豊さん(79)=南アルプス市小笠原=は、中国残留孤児となった石丸美知子さん(67)が中国黒竜江省阿城県で生存し、肉親を捜しているという事実を雑誌報道で知り、驚いた。知らせは瞬く間に、櫛形町(同町は60年に豊村を編入合併)を駆けめぐった。
 雑誌報道と前後して1982年、中国在住の日本人女性から、厚生省援護局長に「開拓団に住んでいた孤児がいる」という内容の手紙が届いた。同年、慰霊訪中団として中国を訪れていた豊村出身者が石丸さんと面会。写真を持ち帰った。
 83年12月、石丸さんは一時帰国し、父の政吉さん(当時75歳)に面会するため長坂町(現北杜市)の老人ホームを訪れた。車いすで談話室に現れた政吉さんは半身まひで言葉が不自由になっていた。突然現れた娘の存在に確信が持てず、何度も石丸さんの手を握り、背中に触れた。やがて政吉さんは、紙に鉛筆で「美知子に間違いないと思います」と書き、涙を流しながらゆっくりと「ごめんなさい」とつづった。
 「自分が誰なのか分かった喜びと、姉弟がみんな亡くなっていた悲しみで、抱き合って泣くことしかできませんでした」と石丸さんは再会の記憶を思い出す。
   ■   ■
 娘との再会を待っていたかのように政吉さんは85年3月息を引き取った。父の墓参りのため再来日した石丸さんは、町長になっていた石川さんに帰国の意志を伝えた。小学校の同級生5人が満蒙開拓青少年義勇軍として大陸に渡っていた石川さんは「戦争の犠牲者は絶対に放っておけない」と身元保証人になった。
 戦後、村にとって開拓団の話題はタブーだった。余剰農民を率先して送り出した村長以下、関係者の多くが、戦後も村に残っていたからだ。県歴史教育者協議会の相原千里会長(66)=南アルプス市小笠原=は「開拓団の悲劇に村も加担したという後ろめたさがあったのです」と話す。
 だが、石丸さんの帰国のために石川さんが募金を呼びかけると、「支援に役立ててほしい」と町民たちは率先して協力、たちまち150万円を超える義援金が集まった。
   ■   ■
 石丸さんは88年に長女の艶子さん(44)とともに帰国した。町では残留孤児を受け入れたことがなかったが、住民福祉課が手探りで支援策を考え、町営住宅を手配。2人に就職先をあっせんした。90年には長男の政夫さん(43)夫婦が帰国。政夫さんは増穂町内の工場に勤め、石丸さんや家族と穏やかに暮らしている。
 戦後40年以上顧みられなかった開拓団について、石丸さんの帰国をきっかけに、生存者の証言や資料を集める草の根の活動が始まった。99年には櫛形町内の公民館で資料が展示され、00年、14回にわたり「豊小だより」に開拓団の話が掲載された。02年には、沢登眞さん(81)を編集委員長として、開拓団の証言や資料をまとめた本「四道河にねむる拓友に捧(ささ)ぐ」が1000部作られ、旧豊村の全世帯に配られた。
 この本の出版を機に、開拓団を改めて記録する試みが始まった。=つづく


 南アルプス市の豊小学校の近くにこの慰霊碑はあるようです。石丸さん一家のお住まいも近いはずです。「樹園」という宿泊施設もあります。

 甲府盆地がいいかなあと思って適地を探索中に出会った記事です。今あれこれと調査中です。この方にお会いしたい気持ちが押し寄せてきています。

 

 





きいちごの旅に城戸久枝さん

2010-02-10 11:16:15 | 中国残留日本人孤児
 5月に予定されている「第10回きいちご移動教室」に城戸久枝さんが参加してくださるとの知らせがありました。僕が去年の今頃から願っていたことが叶うというので嬉しい限りです。

 きいちご移動教室は「中国残留日本人孤児」とその家族の方々に日本に帰ってきてよかったという思いを少しでも味わってもらえたらときいちご多文化共生基金が実施しています。

 素晴らしい自然とふるさとの風景のただなかで人々と交流する喜びを味わいます。

 昨年はインフルエンザの流行のため秋の「教室」を中止しました。ですから一年ぶりです。

 支援相談員をしている残留孤児2世の人たちと城戸さんとの出会いがあり、5月には一緒に一泊二日の旅ができるというのですから、企画立案係の僕はわくわくしています。

 どこへ行こうかな、どんな旅にしたらいいかな、友人たちと相談しながら、2月いっぱいには決め、3月になったらお知らせを出すつもりです。日程だけは決まりました。

 5月15日(土)早朝出発、16日(日)夕刻帰着、です。

 子どもから老人まで55人が安く泊まれるところ、自然の素晴らしさを堪能できるところ、「残留孤児」を生んだ歴史にかかわりがあるところ、さまざまな要素を考えて決めることになります。

 昨年は北信の木島平でした。満蒙開拓団集団自決事件の高山すみ子さんと出会うなど、僕としても会心の旅を実現できました。

 木島平からhttp://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20090510

 一年前の5月9日、木島平の宿で見たNHKのドラマ「遥かなる絆」の原作者が城戸久枝さんなのです。

 遥かなる絆http://www.nhk.or.jp/dodra/harukanaru/
 願いというものは持つものであり、伝えれば叶うことなんですね。

 いい情報をお持ちの方がおられたら教えてください。ここにこんないい宿があるよ、とか。