川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

ぼくの学生運動 (3)社会主義・構造改革派

2009-01-31 17:41:36 | 父・家族・自分
 ぼくが入学した頃(1961年)の学生運動は社会主義を目指す政党の指導下にありました。教育大は戦後一貫して共産党(民主青年同盟)の勢力範囲にありましたが、安保闘争敗北後、その指導部は共産党を離れ(除名・離党)、構造改革派(構革派)と呼ばれていました。当時の様子を手短に解説した文章があります。 


 東京教育大学は学生運動のセクト的分類からいえば、60年安保闘争においては全学連反主流派(共産党・民青系)の拠点校であり、その後においては東京における数少ない構造改革派(そのうち「社会主義革新運動」=「共産主義青年同盟」~「社会主義労働者同盟」=「共産主義学生同盟」系)の拠点校でありつづけた。
(構改派は東京では圧倒的少数派であったが、60年代には関西・中国地区においてそれなりの勢力を持ち、大阪府学連、兵庫県学連は構改派の指導下にあった。また、全国大学生活協同組合連合会は60年代中頃まで、全日本学生新聞連盟は60年代後半まで、構改派の指導下にあった。)

 東京教育大学新聞会も、大学全体のこの流れと同じであり、概して構改派系の会員が多かった。しかしながら、構改派は原則として、大衆団体のセクト的私物化に反対しており、構改派系の会員が多かったからといって、新聞会が構改派によって私物化されていたというわけではない。事実、入会を希望してくる学生は無条件で入会させており、セクト的判断によって、入会を拒絶するようなことはなかった。したがって、構改派系はもとより、民青系、ブント系、革マル派系、ノンセクト、ノンポリと称される会員もおり、その構成員の傾向は種々雑多であった。要するに新聞会は、何らかの意味で新聞を作りたいと思って集まった者の集団であり、特定のセクト、特定の思想によって集まった者の集団ではない。
 
  70年代に入って、セクト間の抗争が激化し、内ゲバが多発した時代を経験した者がみると、当時の状況はあまりに牧歌的であり、理解不可能なものかもしれない。新聞会員にとって、新聞会はいわばゲマインシャフトであり、セクトはゲゼルシャフトであったと言えば、感じが分かってもらえるだろうか。入会時点ではノンポリ、ノンセクトであった者が、会活動を通じての経験や外部的影響によって、特定セクトを支持するようになっていくケースが多く、その逆ではなかったということである。

 しかし、筑波移転問題をめぐる闘争が一段落すると、かつて学内においてあれほどの隆盛を誇った構改派も雲散霧消してしまい、以前は数十名の会員を擁した新聞会もわずか2名の会員によって細々と運営されるような状況になっていた。そのような状況の下、71年春、革マル派系の学生が数名入会してきたため、その後の「教育大学新聞」は革マル派色が強まった。最後に残った以前からの会員1名もやめてしまい、ここにおいて、「教育大学新聞」の全学連反主流派・構改派的伝統は断絶したわけである.

出典 東京教育大学略年表http://members.jcom.home.ne.jp/lionsboy/index.htm


 入学した頃のぼくは社会主義については何も知りません。先輩たちが開催してくれる読書会で『空想より科学へ』(フリードリッヒ・エンゲルス)『賃労働と資本』(カール・マルクス』などを読んで行くうちにぐいぐいとその世界にひきこまれていきました。とくに『経済学・哲学草稿』というマルクスの本を読んで深い感動を覚えたことを記憶しています。自分に見えなかった世界の全貌が見えてきたような、霧がどんどん晴れていくような感動です。
 その後もぼくはマルクスの初期の作品に引きつけられ、深い影響を受けました。それは今でも人生の大切な宝です。しかし、ロシア革命の指導者レーニンの著作などは好きになれずほとんど読んでいません。よくいうマルクス=レーニン主義者には縁が遠く、自分ではマルクス=マルクス主義者かと思ったことがあります。
 高校生の時にハンガリー事件にかかわる『文藝春秋』の特集記事を読み、「自由なハンガリーを助けてください」というハンガリーのナジ首相の悲痛な叫びを聞いたりしていましたから、ソ連共産党を始め共産党のファンではなかったのです。

 構造改革派の人たちはイタリア共産党の指導者・アントニオ=グラムシの闘いに学び、資本主義社会のあらゆるところ(企業や学校・地域など)で共産主義者が「知的道徳的ヘゲモニー(Hegemonie主導権。指導的立場。)」を確立する闘いをすすめ、社会の構造改革を通じて社会主義への平和的移行(革命)を実現することを主張していました。また、キューバ危機を教訓にして、フルシチョフの唱えるアメリカを中心とする資本主義体制とソ連を中心とする社会主義体制の平和的共存政策を支持していました。社会主義の優位性が徐々に立証され世界革命につながると考えられていたようです。
 日本共産党からは「反党修正主義」と罵倒されていましたが、ぼくは自然にこの考えを受け入れていきました。民主主義と人権、非戦非武装の憲法のもとでそれを全面的に受け入れていたぼくにとって何の矛盾もなかったのです。
 そんなぼくでしたが「共産主義青年同盟(共青)」の一員になるなどということは考えたことがありません。自分を束縛する組織というものにはなじめなかったのでしょう。
 ところが3年生になって編集長をやることが決まった直後(?)にMくんがやってきて「共青」に入ることを求められました。嘘かほんとかわかりませんが編集長は入ることになっていると言うのです。親戚に警察関係者はいるかとも聞かれました。Mくんは同学年ですがぼくが何かといえば対立した人です。最初はソ連のことを「ソ同盟」と言うので気になって批判しました。ぼくから見ると「党」の人だったのでしょう。
 詳しいことは忘れてしまいましたが結局ぼくは書類にサインして「共青」の一員となりました。そのことによって何かが変わったという記憶はありませんが、編集長を終わったとき、その「共青」サイドの文学部自治委員長候補に推される一因にはなったのです。
 

 

 
 

伊豆の下田の灯が恋し

2009-01-30 16:56:35 | 出会いの旅
 先日、盥(たらい)岬への遊歩道を歩いていてどこかで聞いた歌の一節が出てきました。「伊豆の下田の灯が……」。なかなか全曲が思い浮かびません。前にもこんなことがあったような気がします。妻は高田浩吉の「伊豆の佐太郎」ではないかといいます。今朝、パソコンで調べてみました。

「伊豆の佐太郎」はこんな歌です。
  
   http://8.health-life.net/~susa26/natumero/26-30/izunosatarou.html


 ぼくの頭に入っていたのは「雪の渡り鳥」でした。全篇を歌ったことはありません。ラジオから流れてくる歌の一節が頭にこびりついたのでしょう。
    


          雪 の 渡 り 鳥

        作詩 清水みのる  作曲 陸奥 明
                          昭和32年 
       
      合羽からげて 三度笠

      どこをねぐらの 渡り鳥

      ぐちじゃなけれど この俺にゃ
  
      帰る瀬もない

      伊豆の下田の 灯が恋し

 

  こんな曲です。なぜか、懐かしい気になります。

  http://8.health-life.net/~susa26/natumero/31-35/yuki.html



 今日はぼくにとって忘れられない伊豆の歌を幾つか紹介します。良かったらどうぞ。

 ①湯の町エレジー   近江俊郎・うた

  http://8.health-life.net/~susa26/natumero/21-25/yunomati.htm

 敗戦後、室戸岬の青年たちが村芝居のようなことをやっているのを見に行きました。従兄の泰三さんがこの歌に合わせて踊っていました。カラオケに行ったら歌う好きな歌です。


 ②エリカの花散るとき 西田佐知子・うた
 
 http://jp.youtube.com/watch?v=wS5JhgxqBlA
 
 ミリー・パーキンス(「アンネの日記」)や左幸子(「女中っ子」)に恋をして身近な友人たちを恋の対象に出来なかったぼくが初めて心ときめかした人が好きだった歌。この恋は稔らず、大学の屋上の青空に吸い込まれそうになったことは前に書いたとおりです。
 伊豆高原の保養所を利用するようになって、エリカの花はよく見るようになりました。
http://www.yonemura.co.jp/zukan/zukan-f/naiyou/erica1.htm 


  ③波浮(はぶ)の港 藤原義江・うた

http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/habuno_minato.htm

 伊豆ではなく、伊豆大島の港を謳っています。いろいろな人と訪ねた湊です。尽きない思い出があります。今は恵一くんが港の畔に住んでいます。歌の中に伊豆の下田が出てきます。ぼくが大島に世話になった頃には大島~下田航路があり、妻と西伊豆の雲見を訪ねたりしました。今頃は大島高校の教室から伊豆の山並みがはっきりと見えたものです。海越しに富士山を眺めるのも最高です。

 今日は久しぶりに歌を歌って過ごしました。素晴らしいHPを作ってくださった方々に感謝。

必読・大崎博澄前高知県教育長講演

2009-01-29 10:01:59 | こどもたち 学校 教育
 高知のコニヤンが大崎博澄さんの講演記録を送ってきてくれました。読んでいて心が震えました。
 「川越だより」を読んでくださる全ての方々に読んでいただきたいと思います。こういう知己を得た(?)ことをぼくは生涯の誇りとするでしょう。


 高知市教育研究所保護者会講演要旨 
     08/9/19 講演時間60分

 演題  <子どもの心に寄り添う>  大崎博澄

 今日は、不登校の子どもの心にどう寄り添うか、というテーマでお話したい・それは現代社会の中で、様々な悩みを抱えた子ども達にどう向き合うか、というテーマに共通する・お話することは一個人の意見であることのお断り

 ①不登校をどうとらえるか

 不登校は悪いことではない・不登校は、本人がそのために苦しんでいるのならつらいことだが、不登校そのものが悪いこと、マイナスイメージを持って評価されるべきことではない・現代のような競争社会、経済的利益最優先社会、様々な格差を容認する社会の中で、子どもが学校へ行かない、行けないことは、人間が健やかに生きていくための生物としてのきわめてノーマルな反応、健全な自己防衛反応、自己防衛行動

 不登校は本人の責任ではない・不登校になりやすい資質というものはあるかも知れない・しかし本人の資質は本人の責任ではない・集団に適応しにくい性質や性格というものはあるだろうが、それはその人の人間性の欠点ではない・人付き合いが下手、ということは少しも悪いことではない・私はそういう人が好き

 不登校は家族の責任ではない・家族の育て方は不登校という結果の原因ではない・私の息子の不登校は、私の遺伝子の責任ではない

 不登校はすべてのケースが違う・一律にくくるものさしはない・原因も結果も千差万別・最善の対応マニュアルは誰も知らない・尊敬する渡辺位先生の講演会で、子どもがテレビを壊した時、再びテレビを買ってやるべきか、否か、という親としては切実な質問が出た・渡辺先生の答えは、ひたすら子どもに寄り添え・その意味を後年になって私は理解した・ただし、今助言を求められれば、何が正しい対処か分からなくても、家族の決断を後押しする助言をする・それで家族の気持が休まればそれでよい

 不登校は、本人が学校に行けるような形にする、つまり、本人の病気を治す、という考え方に立たないことが大切・本人を治す、のではなく、不登校というような社会現象を引き起こしている社会や学校のあり方を治す、という考え方に私は立つ

 ②親としてどう向き合うか、私は不登校にどう向き合って来たか

 我が家のケース・誰も助けてくれる人はいなかった・今は「教育研究所」を設置している市もあり、県教委の「心の教育センター」もあり、思春期の問題を扱う「精神科医」もあるが、十五年以上前には、相談できる機関はなかった・誰も助けてくれなかった・松永佳子さんがリードしてくれていた「学校へ行かない子を持つ親の会高知」が唯一の支え・不登校の子を持つ親同士の「ピア・カウンセリング」がすべてだった・このグループは現在も元気に活動している

 親としての反省・そんなにつらいなら登校しなくてもいいよ、人生は学校がすべてじゃない、と、積極的に登校を止めた・本人は行けたかも知れない・その判断は限りなく難しいが・それ以上に、もう一歩も二歩も子どもの気持に踏み込んだ支援をしてやれなかったわたしの弱さを悔やむ

 不登校で得たもの・自分の生き方の芯ができたこと・いつ、いかなる時も社会的弱者の側に立つという確信が生まれたこと・人生の問題のすべてに、パーフェクトに対応することはできない・自分にできるベストを尽くせばよい・それしかない・人との出会いを大切にする・必ず理解してくれる人はいる・出会いの中で、人間への信頼を回復する、自分の心を豊かにする、人を愛する喜びを認識することができるようになったこと

 ③保護者は学校とどう付き合うか

 不登校は教員や生徒によるいじめなど、学校に責任があるケースも多いが、学校に責任がないケースもある・学校は信用できないし、誰かのせいにしたいが、すべての責任を誰かに負わせる発想は、問題をよい方向に進めることにつながらないことが多い・いろいろな人の力を遠慮なく借ること、しかし、自分で背負い切る覚悟も大事・パーフェクトである必要はない・ベストを尽くせばよい

 不登校に対する学校の認識は、まだまだ低いことが多い・学校という組織の欺瞞性はどうしようもないが、学校に敵対することでも、問題は解決しない・それは本人と親にとって一層つらい孤独な闘いになることも多い

 学校はオールマイティではない・もともと不完全な存在・すべての問題解決は学校にはできないものと、あらかじめ考えておく・ しかし、個々の教員の中には、本当の誠意、善意があることはしばしば・それには大いに頼ろう

 ④学校は不登校とどう向き合うか 

 学校が不登校の問題に真剣に向き合うことは、学校が教育の本質をつかむことができるチャンス・よい学校を作るチャンス・そうとらえると展望が開ける・他の教育課題に向き合う時も同じ・しかし、残念ながらそう受け止められる学校は少ない

 学校として、大切なことは、どんなに拒否されても、「学校はあなたを忘れていない」、というメッセージを送り続けること・その裏づけとなる、あたたかい仲間のいる学級を作ることに全力を注ぐこと・そして待つこと

 教育の本質は、はぐれた一頭の子羊を見捨てないこと・はぐれた一頭を見捨てる牧童は、群れ全体を見失う・常に、弱い立場に置かれている子どもの味方であるという認識に終始立ち切ること

 対症療法的対応には限界・スクールカウンセラー頼みでは、不登校問題の根本的解決はできない・それは、どんな教育課題にも共通する原則・教育課題の根本的解決は、三つの経営改善を通じた、ひとりひとりの子どもを大切にする学校づくりを通じてのみ可能性が開ける・三つの経営改善とは、教科経営、学級経営、学校経営の改善・その方法論はある

 ⑤行政は不登校とどう向き合うか

行政の認識もまだまだ低いレベル・ごまかす、かわす、逃げ回るのが行政の本質、宿命・それをどうやって乗り越えるかが、いつも行政に問われている・それを乗り越えるために孤独な闘いを挑む役人はほとんどいない・高知市教育研究所はその意味では特異な存在

 不登校問題は、不登校対策では解決できない・やはり、根本解決の道を追求すべき・それは、学校における三つの経営改善の取り組みに加えて、人、施設、予算など、教育環境の改善にお金を惜しまない政治の選択から・その選択をさせるのは、私達市民の責任・教育や政治に関心を持とう

 ⑥私達は人生をどう生きるか

 子ども達の不登校の問題は、私達おとなが人生をどう生きるかという問題・このチャンスを自分の人生を変えるために生かしたい

 不当な格差や差別を容認する世の中は間違っている・なればこそ、人生は生きるに値する・間違った世の中に組しない生き方を選ぼう・我が子の不登校から、自分の生き方を変える方向性を見つけよう

 心の傷は癒せない・生活の周辺に小さな楽しみを見つける・小さな楽しみの発見、その積み重ねが心の傷を覆う・傷は消えなくても、痛みはやわらぐ・小さなものを愛する好奇心と想像力が人生のピンチを救う

 ⑦最終テーマは「社会を変える」

 私の最終テーマは「社会を変える」・間違った世の中を変える努力をしよう・しかし、政治的な運動では社会は変えられないことは実証済み・新しいやり方を考える・目の前の困っている人を助ける・人間のやさしさ、市民の小さな意思を積み重ねていくことで、社会は変えられる・そう信じて生きよう

 出典  大崎博澄さんのたんぽぽ教育研究所http://sky.geocities.jp/hirosumi1945/

 コニヤンたちの職場で保護者を対象に行った講演だと言います。どことはいえません。ことごとくにぼくは同意し、深く共感します。

 ◎不当な格差や差別を容認する世の中は間違っている・なればこそ、人生は生きるに値する・間違った世の中に組しない生き方を選ぼう・

 ◎目の前の困っている人を助ける・人間のやさしさ、市民の小さな意思を積み重ねていくことで、社会は変えられる・そう信じて生きよう


 こんな力強いメッセージを送ることが出来る人が高知県の教育長だったのです。この方のリーダーシップで高知県の教師と親は少しは変わったのでしょうか。結局のところ大崎さんを追いつめ辞職においこんだのでしょうか?

 大崎さんがその人生を通じて得た生きることの喜び・人間への信頼は、しかし、揺らぐことはないでしょう。こういう方が土佐の高知におられるという事実はぼくを元気づけてくれます。大崎さんのHPを教えてくれたコニヤン、ありがとう。






田牛(とうじ)から盥(たらい)岬へ

2009-01-28 22:03:10 | 出会いの旅
 今夕無事帰ってきました。歩き回ったり、よく寝たりで体調は頗(すこぶ)る順調です。

 25日(日)快晴
 西武新宿線・小田急(ロマンスカー)・JR・伊豆急と乗り継いで3時過ぎには伊豆高原の保養所着。

 26日(月)晴
 レンタカーで下田の南部の田牛という漁港に連れて行って貰う。正午近く、ちょうど漁師さんたちが海老網漁に出港するところだった。3人が一艘の船に乗り、目前の海にでかける。一人が3カ所に仕掛ける。明朝引き揚げに行くという。共同で作業するところが面白い。投網は順番で行うが翌日は収穫が少なかった人から行い漁獲が平均的になるように工夫している。
 サザエも結構この網にかかる。あの貝をしょったままサザエは水中を泳いでいるうちに網にかかるという。泳いでいる様子を見てみたいものだ。
 港の山側に網の補修などをする作業小屋がずらっと並んでいる。朝は早くから集まってきて作業を始める。中央にたき火用のドラム缶が鎮座していた。ここでは漁は孤独な仕事ではなく共同体のにぎわいが残っているようだ。サラリーマンだという人が一人作業小屋に残っていていろいろと話をしてくれる。休み時間に網の手入れを手伝いにきたらしい。
 
 盥岬への道を教えて貰う。集落の中程から細い道が通じており、終点に駐車場がある。ここからは1Kmくらいの快適な遊歩道が続いている。途中に椿苑があるが花にはまだ遠い。
 昨年、反対側の弓ヶ浜から歩いてきたとき、田牛への道があることを知った。そのときからここを歩くのを楽しみにしてきた。岬端は風があったがウマメガシの林の影にあるベンチに座って昼食とする。遠くに新島・神津島などが見える。人影はどこにもなく地上の楽園である。

 http://www.nousagi.net/03/0926tarai/index.htm

 帰りに田牛の村はずれに竜宮窟(りゅうぐうくつ)入り口という鳥居のような看板が立っていたので降りて行ってみた。そこは実に不思議な空間だった。写真をごらんになってください。

 http://www2.shimoda-city.info/shimoda/FMPro?-db=shimoda_kan1.fp5&-lay=web&-format=page_look2.html&NO=204&-find

 波打ち際まで行ってみると外洋に開いた窓の遠くに甘食パン型の利島の島影がくっきり。

 皆さんが田牛を訪ねることがあったら、ここに寄ることをおすすめします。案内板も地味で通り過ぎそうです。大自然の技にただただ驚くばかりです。

 27日(火)晴
 城ヶ崎海岸を歩く。寒桜が満開の海洋公園を10時過ぎに出発、蓮着寺をへてゆっくりゆっくり八幡野港方面へ歩く。元気な頃には何度も歩いているが手術後歩き通すのは初めて。こんどもリスがタブの木をはい回り表皮をかじっているのを何度も目撃した。「てんまじり」というところで昼食。道からやや海に出た岩の間がちょっとした空間になっていて快適な居心地。
 橋立の吊り橋の手前から川沿いに伊豆高原駅に帰る。2時半頃。5Kあまりを歩いたことになる。

 28日(水)曇
 東海道線で二宮で下りて、駅前の吾妻山公園の菜の花を見る。

  http://www.town.ninomiya.kanagawa.jp/kyouiku/kouen/azumayama/nanohanajhoho.html

 急な階段の道を何とか登ることが出来た。5月には北信濃の菜の花畑にきいちごの皆さんを案内する予定だ。そのときが楽しみだ。
 茅ヶ崎から相模線で橋本へ。橋本から横浜線で八王子、ここで30分待って八高線で高麗川。川越線に乗り換えて家に着いたのは5時半。このルートに一度は乗ってみたかった。
 

ぼくの学生運動 (2)新聞記者

2009-01-25 07:08:09 | 父・家族・自分
 梶原くんは世田谷区豪徳寺、板橋区徳丸と数年間に亘って下宿をともにしてくれた人です。六畳か八畳の部屋に二人で住んだのですからプライバシーなどというものはありません。一番近くでぼくのことを観察していた人です。
 岡山県玉野の出身で同学年(彼はフランス文学科)ですが、同じように新聞会員であった他は趣味も性格も対照的な感じです。酔っぱらったら森繁のまねをして歌うのが得意でした。山田洋次の世界が好きな人情家です。
 卒業してからのことですが、ジョリオ・キューリーの本を読んでいるぼくに「啓介さんが寅さんの映画が好きになってくれれば鬼に金棒だが」といってくれたことを思い出します。ぼくが寅さんシリーズをよく見るようになるのはそれから20年もあとのことでそのたびに梶原くんのことを思い出すのですが行方は杳(よう)としてわかりません。

 その梶原くんが書いてくれたようにぼくは三年間学生「新聞記者」でした。入学早々学生自治会の主催するオリエンテーションに出席して、新島闘争の報告などをする諸先輩の話を聞いているうちに自分の無知を思い知ったのが入部の動機です。新聞会員というのは人に会い世界を広げるには絶好の地位(?)です。お陰で有名無名いろいろな方の話を聞くことが出来ました。
 その中には後にノーベル賞を貰った朝永先生もおられます。高校の時に教育大に行く理由を聞かれて「朝永振一郎さんが学長をしているので」と答えて先生の失笑を買ったことがあります。先生は物理学の世界の人でぼくには縁がないと思われていたのです。しかし、実際の朝永先生は学長であったり、パグウォシュ会議のリーダーであったりして私たちにも気安く会ってくれる方だったのです。
 守衛さんたちとは日常的につきあいがあります。帰りが遅くなったりして世話になることも多いのです。どなたも大事にしてくれました。谷さんという方が熱心な創価学会の信者だというので、壮年部(?)の大きな集会を見学させて貰ったことがあります。
 この頃「創価学会」は一つの社会問題になっていました。しかし、外からあれこれと批判するだけで信者のなかに入って実態を知る努力をする人は少なかったと思います。たとえ学生新聞と言えども、新聞記者であるからにはひとびとの生き方や意見に耳を傾けることが大事です。自分で確かめた事実にもとづいて必要なら批判をする。そういう姿勢が求められます。
 ぼくが曲がりなりにもそういう行動を取れたのは日頃からいろいろの方と出会うのを楽しみにするところがあったからでしょう。
 その代わり、論文を読んだり、書いたりするのは大の苦手でした。ですから入学してしばらくの間は「教育大学新聞」の一番の(?)批判者でした。熱心に読もうとするぼくにさえわからない大論文を載せてばかりです。それで新聞といえるのか、そう思っていたのです。
 そのうちに先輩の倉根編集長が足で書くニュースが新聞の命だといい、ぼくをニュース担当の次長にしてくれました。それは二年生になっても続きました。ぼくが学内の隅々まで(?)知るようになったのはこのような役割を与えてもらったせいでもあったのです。

 3年生の前半に編集長をやり、9月に任期を終えました。そんなときに森君がやってきて文学部の学生自治会の委員長をやってくれないかと頼まれたのです。
まさに晴天の霹靂(へきれき)です。

 森くんとの出会いは運命的なものだったかも知れません。後になってからもいろいろと世話になった畏友です。同学年(彼は西洋史学)ですが年は一つ下です。「浅学短慮・行き当たりばったり行動派」のぼくとは対照的な思慮深い人です。2年生の始めに自治会の委員長をやり、この頃は学生運動の転換を主張する全国的なリーダーではなかったかと思います。
 ほとんど面識もない(?)畑違いのぼくになぜ、森くんが立候補要請に来たのか、その真意の程は今もわかりません。
 当時の森くんの考えを知る資料としては「教育大学新聞」の記事があります。興味がある方はどうぞゆっくり読んでみてください。

 座談会・東京教育大学戦後学生運動史  学生運動の伝統と革新
   (Symposium on History of Student Movement of TUE)
                   (1963年11月4日採録)
http://members.jcom.home.ne.jp/lionsboy/undousi.htm
 


 ぼくはこの座談会を主催した編集部の一員であり写真の手前右側に写っています。森くんは左正面です。森くんがぼくを訪ねてきたのはこの座談会の直後であったと考えられます。文学部の委員長選挙は11月27日から3日間が投票日です。                              (つづく)


 今日はこれから伊豆高原の保養所に出かけます。3泊4日の予定です。したがって「川越だより」もしばしお休みです。寒い日々です。皆さんもご自愛ください。

友人二人

2009-01-23 22:06:48 | 友人たち
 22日(木)
 雨降りの寒い一日でしたが家族3人で都心のA弁護士の事務所を訪ねてぼくの医療過誤補償問題について当面の方針を相談しました。

 夕方、Sさんから嬉しい話を聞きました。午前中に、江東区立豊洲北小学校を訪ね大沼謙一校長に会って来た報告です。この小学校にいた数時間がどんなに嬉しかったか、どんなに感動の連続だったか、Sさんの声は少年のように弾んでいます。 
 Sさんは政府の役人を退職されたあと北朝鮮難民の支援に力を注いでいます。今日は小学生のこどもの就学について大沼校長に相談に行ったのです。子どもたちやその母親も一緒だったようです。
 大沼校長が北小の子どもたちと接する様子を見てSさんがどんなに心を揺さぶられたかはぼくには手に取るようにわかります。彼はぼくの最初の生徒の一人です。たったそれだけの縁でぼくも何度か彼の学校を訪問して見聞きしているからです。ほんとうに一人一人のこどもを心から愛している校長先生です。
 ぼくが嬉しかったのはSさんと大沼くんがこうして出会うことが出来たということ自体です。この二人の出会いは何か心強いものを感じさせてくれるのです。それぞれの活動の可能性を広げ、励まし励まされる人のつながりが強くおおきくなっていくにちがいないだろう、と。
 Sさんは北朝鮮からやっとの思いでこの日本にたどり着いた人たちはもちろんのことですが地球の反対側のブラジルからやってきたひとびとのことにも心を砕いています。とくに教育から疎外されている若ものたちのことが心配です。
 日本の近未来はこれらのひとびととともに創っていく以外に道はないのです。にもかかわらず、彼らがこの社会で生き抜いていくために不可欠な日本語教育の担当セクションさえ日本国政府にはないのです。
 国際化の進む学校現場で一人の不登校者も出さないと奮闘する大沼校長と教職員のすがたはこれからの学校に何が必要かを考えさせてくれます。Sさんのような影響力のある社会的リーダーが問題解決の鍵をつかみ、社会に発信してくれるようになったら事態は好転していくのではないかと思われるのです。

 魅力と可能性のあふれたお二人の出会いに一役果たせたことをぼくは心から喜んでいます。
 
 豊洲北小学校 (「とよす北便り」の12月・1月を読んでみてください)
 http://www.koto.ed.jp/toyosukita-sho/
 
 


 23日(金)
 久しぶりの好天、水くみと露天風呂で一日が過ぎていきます。

 

ぼくの学生運動 (1) 梶原晃くんの推薦文 

2009-01-21 21:47:14 | 父・家族・自分
 今日はオバマ新大統領の就任式があった日ですが、ぼくは一日中、寝ていました。今日のような日差しのない寒い日のことを室戸では「しびくた日和」といいます。こんな日は布団の中で静かに過ぎていくのを待つしかありません。夕食を前に少し元気が出てきたのでパソコンを開きました。

 僕は「民主主義と人権」の憲法の落とし子のような育ちかたをしましたが、自分が何らかの公職(?)の選挙に立候補したというのは一回しかありません。その前後のことに興味をもたれた方がいたのでこの機会に記憶していることを書いておきます。

 それは1963年の11月のことで僕は東京教育大学文学部(社会科学科法律政治学専攻)の3年生です。同学年の森君に強く勧められて文学部学生自治会の委員長に立候補することになったのです。僕にとっても「晴天の霹靂」です。
 当時の資料でただ一つ残っているものがあります。

 「立候補にあたって  学生運動に現実的価値と意義をあたえよう」というガリ版刷り全14Pのパンフレットです。梶原晃くんが書いてくれた「推薦文」が当時のことを思い起こさせてくれます。 

 推薦文 仏文3 梶原 晃

 毎夜毎夜その逞しいイビキを聞いている仲間である。その啓介氏が文学部委員長に立候補することになったと聞いた。いささか驚いたが、周囲の人たちが彼の人物を見逃しはしなかった証拠だろうと思えば、ついにくるべき時が来たという感じもあって僕までが軽い興奮を覚える。

 彼は入学来、新聞会員としてまず隅はなくといっていいほど学内のアチコチを歩きまわっている。包容力を感じさせる大きな図体と、機に臨んだファイトは、守衛さん方一同から大工さんにまで親しみと、信頼感をもってむかえられている。教授諸氏は言うに及ばずである。
 おそらく、この3年間の修業は、彼に、独断と悪しき政治主義を排する、徹底的な練磨を与えたものと思う。
 いろいろと現在の自治会には困難がある。だがおそらく「自治会なんてクソ食らえ」と思っている人々も、彼の登場によって再び、自治会本来の姿とは何かを考えさせられ、すすんで参加できるようになるのではないかとおもっている。僕自身もふくめて。

小康

2009-01-20 10:49:09 | 父・家族・自分
 19日午後、主治医・西尾医師の診察がありました。CT検査では右肺の癌の進行は見られず引き続き抗ガン剤の効果が発揮されている模様です。病巣は10月の検査より小さくなっているようにも見えますがこれは撮影のアングルのずれによるものだろうということです。脳その他への転移は認められません。
 ともかく、またしばし、病を忘れて日々を過ごすことができます。ありがたいことです。中川元主治医からは「これがずっと続きますように」というコメントをいただきました。
 愛媛の鄭医師の薦めにより毎日にんにくを食べるように務めているほかには特別のことは何もしていません。やりたいことをやり、会いたい人にあってこれからも日々を少しでも豊にしていきたいと思います。皆さん、どうか宜しくお願いします。

 帰りに豊洲のレストランで珍さんとひさしぶりに会いました。00年3月文京高校の卒業で昨年から豊洲に住むようになっていたのです。現在は母校・慶応大の国際交流センターで留学生の日本語教育部門で働いています。今春からフリーとなり、通訳や翻訳の道を本格的に勉強するつもりです。そのためにも日本や世界のことをもっともっと深く知りたいと考えています。
 中国・無錫(むしゃく)から10歳の時に来日し、ぼくとは高一の時からのつきあいです。どちらかというと地味で真面目な勉強家です。でも人一倍の負けず嫌いなのかも知れません。東京国際映画祭のため来日した有名人の同時通訳を任されたのですがそれが自分の思うようには出来なかったことが転身のきっかけです。
 夫君は航空機の副操縦士です。今は日本中を飛び回っています。4月から夫君の飛行機のいく都市を訪ねて旅の学びにいそしむ珍さんの姿が見られるに違いありません。ぼくの旅の道連れにもなってくれるかな。日本を知るには何よりだよ。売り込んでおきました。
 忠幸さんの健康障害で行き詰まっている「きいちご」の翻訳事業にも協力してくれると言います。楽しい会話が弾んだお陰で昨日来の風邪症状もどこかへいったようです。

 

 

学園闘争の問いかけ

2009-01-19 08:29:55 | 父・家族・自分
【川越だより】のアクセス

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 東大の安田講堂の攻防から40年が経ちました。この事件はともかくとして
67・8年の学園闘争はぼくの人生に決定的な影響を与えたといえます。
 当時、書いた文章を掲載しておきます。

 『しばふ』(1969年3月10日 大島高校3年1組『しばふ』の会発行)

  さよなら   鈴木啓介

 三年間が過ぎようとしている。これらの日々の営為がぼくにとって、そして、ともにすごした諸君にとって、どんな意味を持つものであるかを書き留めることは出来ない。
 ぼくの全てが混沌とした激動のただ中で煮えたぎっている。
 
 1967年の暮れから、徐々に崩壊し始めたぼくの平衡感覚は、いま、新たな揺さぶりにあっているようだ。旧いものと、新しい何かとが、どこで断絶し、どこでつながっているのか、いや、果たして断絶しているのかさえ、ぼくにはわからない。
 羽田・佐世保・成田・王子、そして日大・東大……至る所で反逆の火の手を挙げている青年労働者、学生の孤立無援の闘いはぼくをとらえ、ぼくを解体する。

 ぼくは大島を出ようと思う。
 寝ぼけ眼をこすりながら、ぼくを解体する強い力の根源を確かめたいと思う。一人になることがさびしくて、肩を寄せ合ってでなければ生きられない弱虫。でも、国家権力からも「世論」からも「左翼」政党からも弾圧され圧殺されようとしているひとびとの叫びの中に、人間のうめきが聞こえるような気がする。そのうめきの正体をぼくの頭脳に聞き届けなければ、教師としてはもとより、人間として生きる機会を永遠に喪うのではないかとさえ思われる。

 『日大生は体制の中でかいならされ、無思想無批判な中流の技術者として社会に送り込まれる商品として存在していた。それをはっきり拒否したことがこんどの闘争だと思うのです。具体的にどのような形態で展開するのかは、今の時点では何ともいえません。
 僕らはなんといっても、先ず第一に人間として生きたいと宣言したことになるでしょう。したがってそういう僕らの存在を否定しようとするものには、何に対しても断固とした態度を今後もとり続けることになるでしょう。こうした現在の闘争の延長上に今後の展望があるわけです。』(秋田明大・日本大学全学共闘会議議長 『世界』1月号)

 これらのひとびとの思想と行動に荒廃が生ずるとすれば痛ましいだけではすまない。ぼく自身の存在の否定につながるかも知れない。人間の名による告発は峻厳なだけに、歴史の中で、たびたび悲惨な結末を招いているのだ。たとえばルッターのように。わかっているのはこれだけだ。

 「われわれは連帯を求めて孤立を恐れない。力及ばずに倒れることを辞さないが、力を尽くさずに挫けることを拒否する」

 幸いにも気楽な次男坊。また、わがままな旅に出る。諸君、サヨナラ

         (1969 3・2 学校で)

 『しばふの会』の代表者は庸介・雅義・正人・輝明・章子・喜美江・やす子となっている。その卒業に当たっての文集の最後のページにも東大全共闘の生み出した言葉(「われわれは連帯を求めて…」)が大きな文字で記されている。
 




















宝登(ほと)山の蝋梅(ろうばい)

2009-01-18 07:46:12 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)
 17日(土)好天も今日までということなので、秩父・長瀞の蝋梅を見に連れて行って貰いました。川越に住んで40年、春が待ち遠しい頃、出かけるところです。

 透き通るような蝋梅の花の上に広がる真っ青な空。


 秩父(ちちぶ)・長瀞(ながとろ)・宝登山の蝋梅
http://4travel.jp/traveler/ku_712/album/10220953/

今日は土曜日で人出が多いのですが、花はまだまだこれからです。いつもの通り山頂近くの木の根本に腰を下ろして昼食。
 昔、登ったことのある両神山がはっきり見えます。一番遠くは甲武信(こぶし)岳、あの山の向こうの信州・川上村に行ってみたいなあ。この村の人と一緒になった菜穂子ちゃんに声をかけてみよう。こどもたちも大きくなったから同道してくれるかも知れません。そんなことを語り合っていました。

 朝が早かったせいか、やや疲れ気味です。寄居の簡保の宿の温泉に入って早めに帰宅、夕ね。呼吸が少し乱れます、夜も早々と休みました。


 

停戦求め国民集会を  日本国民の責務

2009-01-17 04:57:35 | 政治・社会
 次に紹介するのは日本国憲法の「前文」の後半部分です。宜しかったら声に出して読んでみてください。

 日本國民は、恒久(こうきゅう)の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高(すうこう)な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従(れいじゅう)、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる國際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは全世界の國民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの國家も、自國のことのみに専念して他國を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自國の主権を維持し、他國と対等関係に立たうとする各國の責務であると信ずる。

 日本國民は、國家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


 1947年5月3日以降、この国の最高規範になったこの文章を皆さんはどう思いますか?
 同意し、「全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成する」ために努力しますか?


 「平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。
 
 近年、この部分に対して「現実的でない、馬鹿げた認識」として批判的な意見が多く見られます。これらの人はいま国際社会を支配しているのは「公正と信義」ではなく、カネと暴力であり、日本も強力な国防軍をつくらなければ国の独立を保つことが出来ないと言います。核武装についても真剣な議論をすべきだという人もいます。

 ぼくはこの憲法の文章に同意し、こどもの時から「崇高な理想と目的の達成」のために出来ることをしたいと思ってきました。その考えに今も変わりはありません。
 
 現実の世界がカネと暴力によって支配されていることは冷徹な事実です。アメリカの巨大な金融資本が世界を攪乱し私たちの生活を脅かしています。近隣の中国も飽くことなく軍事力の強化につとめ東アジアの盟主たらんとしているようです。
 北朝鮮は核武装に踏み切り、「先軍政治」と称して軍国主義を自賛する始末です。そして工作員が我が国の領土領海を深く侵して平和に生きる庶民を拉致する暴挙までおかしました。今日に至るまで誠実に解決する姿勢さえ示していません。

 この憲法は日本を亡国に導くというひとびとの主張がますます説得力を持つような現実です。

 しかし、いや、だからこそ、非戦非武装の憲法を堅持し、非暴力の原理にのっとった行動を通じて同胞を奪還し、国際平和の実現のために貢献する国民運動を組織しなければなりません。その覚悟が私たち一人一人に問われているのだと、ぼくは考えます。

 戦争によって平和を確立することはできません。数千年のパレスチナの歴史が教えてくれます。生み出すものは憎しみと暴力の果てしない連鎖です。

 戦争に負けて私たちはこの憲法を手にし、復讐の思想から解放されました。60年、何とか戦争をせずにやってきました。精神的にもアメリカの植民地になったという人もいますがこの経験は貴重です。曲がりなりにも侵略を自省し、復讐の思想からも解放された私たちは世界史の貴重な財産かも知れないのです。
 
 ぼくは戦争がもたらす苦しみに比べたら、平和の創造に力を注ぐ苦労はそれがどんなに大変であっても耐えられるのではないかと思います。カネと暴力が支配する世の中だけれど、戦争以外の方法で国際紛争を解決するという日本国憲法の原理原則は人類の灯火なのです。そのことを心の奥に深く信じて行動しようではありませんか。

 私たち日本国民がその行動によって「公正と信義」の信頼に値することを世界に向かって示すのです。武力によらない平和への努力の可能性を示すのです。
 かくいうぼくがそうであったように、言うならば一種の「平和ぼけ」がこの国のひとびとの中にあったことは否めません。同胞が隣国の独裁政権の手によって拉致されているのにそのことに気づくことも出来なかったのです。
 日頃、平和や友好を唱え、護憲を旗印にしている人たちの中に独裁政権と手をつないでいる自分たちの犯罪性に気づかない人たちもいた(いる)ぐらいです。
 平和憲法のもとの日本国民に気のゆるみがあったことは事実として認めなければなりません。「社会主義」を自称する国家を「平和勢力」と思いこむイデオロギー的な偏向もありました。しかし、それを憲法のせいにすることはまちがっています。   
 世界は未曾有(みぞう)の混乱のただ中に落ち込もうとしています。今こそ憲法の指し示す羅針盤をしっかりと確認して力を合わせて平和の秩序をうち立てるために力を合わせようではありませんか。
 
 イスラエル軍のガザ地区住民に対する虐殺行為を止めさせるために停戦を求める国民集会を開きましょう。国会に議席を有する全ての政党の党首が話し合って音頭を取ってください。両院議長と首相が国民を代表してその決議をイスラエルとハマスの代表に届けてください。麻生首相が電話したぐらいでは何の力にもなりません。国民の意思を結集して事に当たってこそ、影響力を発揮する可能性があります。
 拉致事件の解決についても同じことがいえます。なぜ国民集会の一つも開けないのでしょうか。


 

越辺川の白鳥

2009-01-15 06:33:25 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)
 14日(水)快晴無風。11時過ぎに思い立って自転車で白鳥を見に行くことにしました。国道254の落合橋中程から越辺川(おっぺがわ)右岸を遡り、圏央道をくぐるとまもなくです。土手の道からはほぼ正面遠くに浅間山が見えます。
 ちょうど昼休みで付近の工場の労働者の姿もありますがせいぜい10数名。カメラの3脚が5台ほど立っています。静かな風景です。
 12月に訪ねた鹿児島・出水のツルの飛来地は鶴が多すぎて興ざめだったことを思い出します。ここでは飛び立ったり、着水したりするみごとな姿を直近で観察する喜びがあります。
 

 川島町越辺川の白鳥http://www.geocities.jp/sei3rou/hana465.htm

 土手の中腹にシートを敷いてしばし仰向けに。真っ青な空。
昼食は土手下の共同印刷の工場前の餃子屋さん。中国から来たばかりの女性が精一杯の笑顔で接してくれました。

 暇がある方は白鳥を見に来てください。ぼくがいつでも案内します。ぼくの家からのんびり自転車をこいで小一時間です。妻の運転する自動車なら15分くらいでしょうか。

 15日。今日は忠幸さんと都庁にいきます。支援相談員の処遇についての要請です。午後は癌研でCT検査。

Eくん

2009-01-14 05:36:17 | 友人たち

広島に住む旧友から嬉しい便りをいただきました。お手製の室戸岬の絵葉書に綺麗な文字が並んでいます。

 突然のお便りに驚きました。まさか、50年ぶりに貴兄より賀状をいただくとは思ってもいなかったからです。下宿でのお別れ以来、長い年月が経ちましたが、いまだに私のことを覚えていただいていたとは光栄です。
 小生、65歳にて務めを完全に退き、今は自由の身を満喫しています。両親は既に他界しましたが、生家が室戸に辛うじて残っているため2ヶ月に一度くらいは(ちなみに昨年は8回)帰省して家のメンテやら墓参りを行っております。
 いずれも一週間程度の滞在ですが、一人で静に昔の居間で杯を傾けていると、なぜか元気が湧いてくるような気がして、室戸行きが止まりません。
 
 帰省の都度、自転車で岬に走り、東寺に登ったり、最近出来た深層水プールに浸ったりで体力維持に務めています。
 自転車で津呂の港の上の実家(註・ぼくの生家)の前を通るたびに、昔、皆さんと一緒に自転車旅行で、高知から室戸に帰り、実家で父上殿に岬で潜って獲って貰った鮑(あわび)やらをご馳走して貰ったことを昨日のことのように思い出しておりました。
 時には路地裏から貴兄がひょっこりと顔を出すような錯覚にも陥ったものです。
ブログサイトも拝見させていただきました。立派な内容で読むほどに浅学非才の我が身を恥じ入るばかりです。
 中川健さんのこともウェブ検索で初めて知りました。「日本の名医」としてプロフィルが紹介されているのにも驚きました。これほどの方に診ていただければ安心ですね。
 どうか、健康に留意され、いつまでも元気でご活躍ください。
 
 PS.昔、負けても負けても戦っている広島カープを弱者擁護の立場から声援されていましたが、現在はいかがですか?現在、又、十分に弱体化しております。

                    2009・1・11

 Eくんは高校生の頃、同じ下宿で過ごした旧友です。高知工業高校を卒業して広島の企業につとめておられました。やはり同宿だったFさんにお願いして、同窓会名簿からEくんの住所を教えて貰い、年賀状を出したのです。

 ぼくがそうであるようにEくんも故郷に帰ったとき、ぼくのことも思い出してくれていたのです。Eくんの実家は同じ室戸とはいえ、市の中心部の町でぼくは残念ながら思い起こすことができません。小学校も別でぼくの父が彼らの学校の校長だったはずです。従姉は同級生です。
 一昨年は父のお陰で長く室戸に滞在しました。Eくんも同じころに帰っていたようです。室戸岬から行当岬を望む絵の日付が2007年8月11日となっているのです。ぼくの調査がもうちょっと早ければ旧交を温めることが出来たはずです。この夏私たちは周防大島から岩国を訪ねており、帰路には宮島に近い彼の家の近くを通ってもいます。
 室戸への自転車の旅は忘れることのない思い出です。いつかそんなことを肴に集う日があることを楽しみにしています。
 広島カープのことはスッカリ忘れています。ぼくは幼少の頃から阪神ファンですが二番目がカープだったように思います。長谷川良平(投手)、門前真佐人(捕手)などの活躍は思い起こすことが出来ます。

 阪神ファン(川越だより)http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20080706 

 後に子どもたちが最盛期の赤ヘルのファンになりました。一度だけ訪ねたことがある(64年?)広島市民球場が生まれ変わったと聞きます。今年は松江から萩あたりを訪ねるつもりです。広島に寄って阪神・広島戦を観られるかもしれません。
 夜になって電話して半世紀ぶりにEくんの声を聞くことが出来ました。現職のころには出張で埼玉方面にも時々こられていたということです。


 夕方、山吹高校の卒業生のTくんが訪ねてくれました。4人で遅まきながら新年会。家族に恵まれないTくんにとっては今日が正月です。ぼくには信じられない過酷な20年(幼少青年期)を生きてきた人です。一歩一歩生活条件を整えてまずは健康を回復する年にしなければなりません。私たち3人はTくんの応援団です。


旧友

2009-01-13 15:28:39 | 友人たち
 12日(月)
 午前中にKさんからメールを受け取りました。愛知県の出身ですが兵庫県明石市に住み「兵庫在日朝鮮人教育を考える会」の一員として、多文化共生を目指す教育の創造に全力を尽くしてこられた方です。かつて川越にも来てくれたことがあります。


 ひさしぶりの近況報告、ありがとうございます。どうされているかな、と時々思い出しています。
 しかし、毎年のその年の記録・動きには感心します。ようまああっちこっち、あ
れこれ、と。
 さて、ぼくは、この間の12月31日に母を亡くし、12月1ヶ月はほとんど病院詰め、泊り込みでした。
 
 05年夏、(略)母が緊急入院、すぐ来い、とのこと。こりゃあかんかな、と米原、大垣、名古屋の車中、よからぬことも考えて段取りを頭の中で。

 命は助かりましたが、以来3年4ヶ月、自宅ベット上か病院。

 その間、頻繁に往復する暮らしをしていました。1人暮らしでしたから、身の回
り、洗濯レベルの世話もありましたから。

 12月に又入院し、病室ベット脇のリクライニングの椅子で寝泊りする日々を送っ
ていました。
 ぼくは、病院での付き添いで、ベット下の寝泊りは5回目でしたが、ところがこれがよう寝られる。過去は、ベット下にゴザ引き、その上に布団を敷いて潜り込むというものでしたが、今回は長椅子。倒して足投げ出し、毛布を被り、今までと違った眠りで助かりました。と、しょうもないことを打っています。 
 
 31日に永眠、2日に葬儀。

 葬儀といっても、ぼく家族3人、弟家族3人の見送りです。

 今、とりあえず明石に戻り、メールを開け、遅い返信をしています。と、こんな訳です。

 もうしばらく明石、愛知を 往復します。しかし、愛知に通うこともなくなりますから、川越に行きたいものです。
新聞、雑誌で、結構よく「川越」が出てきて、啓介さんを思い出しています。
 又。

 
 愛知県に一人住むお母さんの介護、看護に明石から通い続けておられることはぼくも知っていました。自分にはとても出来ないことですからただただ頭が下がります。病院のお母さんのそばで一ヶ月泊まり込んだというのを読むとぼくにはほとんど想像も出来ないことです。人生の最後に愛する息子の世話を受け続けてお母さんはさぞ、安らかに逝くことができたでしょう。
 このブログにときどきコメントをいれてくれるmatumotoさんといい、Kさんといい、こういうことが自然にできる人のような気がします。父や母に対する尊敬や感謝の気持ち・優しさが身に付いているのです。

 Kさんはぼくよりは少し年下ですが尊敬する大切な友人です。生徒を愛し、差別や偏見と闘う熱意はただものではありません。しかし、ぼくが彼に親しみと敬意を感じるのはそれだけではないと思います。誰もがみなぼちぼちの人間であることを認め、どこにでも出かけ、率直に語りかけ、時には説得しようとします。嘘や駆け引きの匂いがありません。
 こんな人を生み育ててくれた方はどういう人生を歩まれたのでしょう。一度もお目にかかることはなかったのですが心から魂の安かれと祈ります。 合掌。
 
 落ち着いたら川越に遊びに来てください。ゆっくり過ごし、疲れを癒すことにはぼくも妻も協力することが出来ます。


 夕方、5時半頃に11人の友人たちが我が家を訪ねてくれました。在日コリアンの友人であるOさんがかつて「在日韓国・朝鮮人生徒の教育を考える会」の世話人としてぼくと一緒に活動した方々に声をかけて来てくれたのです。お連れ合いのBさん、友人のCさんも一緒です。旧世話人はKさん、Sさん、Iさん、Ohさん、Aさん、Koさん、Tさん、それにカツヨシさん。
 皆さんにお会いするのは昨年4月に「考える会・終結パーティ」以来ですが、こうやって世話人がそろってゆっくり交流するのは何年もなかったことです。
 何が原因か当事者のぼくにもはっきりしたことはわかりません。北朝鮮の独裁政権が日本人拉致を認めてからの事態への対処をめぐって、或いは在日コリアンの国籍取得特例法制定運動について意見の相違があり、それが十分交流されないまま時が流れていったのではないかと勝手に思っています。はっきりと対立したり、喧嘩したりしたわけではありません。
 旧友が遠い川越まで訪ねてくれるのですからほんとうにありがたく、嬉しいことです。妻は前日から料理の準備。ぼくは川越公園を散歩したあと昼寝して体調を整えました。
 仕事を終えた娘も帰ってきて集うもの14名、近況を交流しながら楽しいときが過ぎていきます。どなたかが今は北海道に住むNさんや、参加できなかったHさんに電話して結局16人が再会を喜び合いました。
 OさんとBさんがこの会との出会いがなければ今の自分はなかったといい、今日の集いを心から喜んでいると満面の笑みで語りました。思えば「考える会」がピンチになったときOさんはたびたびこうやって時の氏神になってくれました。
 今春にはAさんとHさんが退職を迎えます。そのお祝いの会が次の集まりに決まりました。
 何かを語れと促されたので水俣で出会った緒方正人さんの思想にかかわって一言述べさせて貰いました。自分でも良くは消化していないので何を喋ったのか気がかりです。
 http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20081221

 学校の現場で奮闘する友人たちにとって今はとくに厳しいときではないかと思います。教員だけでなく様々なひとびとと交流し、学びを深め英気を養う場が必要です。Oさんが心を砕いてくださって、私たちの交流が再開したわけですがそのような場の一つになればぼくにとっても嬉しいことです。気に掛かっていたことの一つが解決に向かうような思いもします。皆さん、どうもありがとう。
 
 明日早くから働く方もおられます。9時前にはお開きとなりました。
 ぼくの目がさえてきたので我が家の3人で今夜の旧友との再会や水俣で出会ったひとびとのことについて遅くまで語り合いました。

過ぎゆく日々

2009-01-12 08:10:25 | 父・家族・自分
 9日(金) 雨模様で異常に気温が低いので一日中寝たり起きたり。こういう日は呼吸が苦しい感じになり蒲団に入っているのが一番です。『朝鮮総連』を拾い読み。

 『朝鮮総連』朴斗鎮著 中公新書  http://www.doblog.com/weblog/myblog/33838/2624490#2624490 


 10日(土)
 ときがわ町で水くみのあと坂戸の「ふるさとの湯」。風が強いけれど露天風呂は解放感があって気持ちがよい。

 夜、<パレスチナ・ユダヤ>について初歩的なことを勉強する。
 
 桑原政則という方のHPがわかりやすい。

 
 ユダヤ文明を歩く
http://www.aoikuma.com/judaism.htm 
 

 昔、『十戒』という映画を見たことがあるのですが、そもそもなぜ、ユダヤの民はエジプトにいたのだろう?そんなことからしてわかりません。
この方の説明が全部正しいのかどうかもわかりませんが大まかには理解できたような気になりました。

 「旧約聖書は、ユダヤ人による他民族殺戮の歴史書でもある。」

 「独特の幼児教育でユダヤ人を作り上げる」

 なるほどそうかとびっくりしたり、うなずいたり。蒙を啓かれる思いです。
 前にも勉強したことかも知れないのですが知識が身に付いていません。何度も何度も同じことを調べているような気もするのです。大事なことではあっても自分からは遠い問題であったからでしょう。


 11日(日)
 11時頃から川越・狭山自転車道に乗り、狭山の柏原まで往復しました。往きは正面に富士山が聳えています。入間川の青い水面がきらきらと輝いています。
西武文理大学を過ぎたあたりに「豆富と季節料理・極和美」という店があったので昼食にしました。「三色御膳」1150円也。はりこんだだけあってけっこう美味。
 日中というのにやや冷気を感じるので川越公園を歩くのはやめにしてもと来た道を帰ることにしました。今度は正面に日光の男体山。上州武尊(ほたか)山から上越国境に続く山塊も見えます。

 いつもの散歩道http://www012.upp.so-net.ne.jp/tomi-s/sanpo/sanpo.html

 朝青龍が気合の相撲で初日をのりきりました。何とか復活して龍鵬時代を築いてほしいものです。

 12日(月)
 今夕、この20年から30余年間に亘ってぼくと歩みを共にしてくれた友人たちが我が家を訪ねてくれるそうです。昨年4月に活動を終結した<多文化共生をめざす>在日韓国・朝鮮人生徒の教育を考える会の世話人の方々とコリアンの友人たちです。この狭い部屋に15・6人が集うことになります。
 ぼくはきちんと昼寝して体調を整えて皆さんを迎えます。妻は料理の準備で大わらわ。楽しみのふくらむ一日です。