午後 、勝義さんが横浜から呉さんが荒川区から様子を見に来てくれました。
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期せずして昔の仲間が揃いました。
韓国は 日本を上回る自殺大国だと言います。若者に希望と元気がない病んだ社会が世界中に作られているのです。
大統領や首相が先頭に立って排外主義を煽るのも共通しています。
老兵に何が出来るのか?
お二人を見送ったあといつもの散歩。
遊歩道 の林床にキツネノカミソリ。
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帰り道の田んぼでは稲が穂をつけているの に気づきました。季節は進んでいます。
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7月20日(土)晴
2時過ぎ、時夫くんが訪ねてくれました。
1975年度 池袋商業高校1年7組のメンバーの一人で現在は長野県安曇野市在住です。
親友だった人の墓参りで東京に来た帰りにわざわざ川越によってくれたのです。
線香の香りがしたので「先生はもういないのか」と思ってしまったといいます。
2年前の春に、きいちご移動教室で安曇野を訪ねたとき一日付き合ってくれて以来です。僕のことがずうっと気にかかって仕方がなかった、元気な顔が見れて安心した、といってくれました。線香の匂いは隣家からのものだったようです。
今日は妻の68歳の誕生日です。病気の話をしたらびっくり。
高度成長期に「極貧」の体験を持つ人です。生活を切り詰めてお子さん2人を育て上げ、「貧乏の連鎖」を断つ歩みを語ってくれました。
自動車教習所の教官としてシビアーな日々を送っています。日没までには安曇野に帰着しな
ければと短い滞在で川越ICに向かいました。ありがとう、時夫くん。
夕方になって川越公園の遊歩道を歩きました。まだまだ本当によたよたですが何とか往復することができました。
こんな生活ができるのも妻が元気にいてくれるからです。奇跡的な復活にただただ感謝あるのみです。
倫子 1945年7月20日 焼け野原の東京信濃町 慶応病院地下室で誕生。
(公園から見えた空)
5月27日(月)晴
昼過ぎに美雪さんが来てくれた。1977年3月、池袋商業高校卒業のコリア系の人だ。
何年か前から年賀状に川越を訪ねたいと書いてくれていた。一人息子のTくんが大学を出て自立したので余裕ができたのか声をかけると飛んできてくれた。
僕が会うのは10数年前、南こうせつのディナーショーに招待してもらって以来、かな。妻とは遠い昔、日暮里のおばあちゃんの家を訪ねて一緒に話を聞かせてもらって以来だ。
夕方まであらためて半生の話や家族の近況を聞かせてもらった。病気のお母さんを兄妹4人が協力しながら支えている様子を聞いて安堵したり、感心したり…。うれしい半日だった。
高校生のとき、『生きることの意味』(高 史明著)を読んでもらった。その感想文を読んで以来、人生のともだちになった。勝手に。
僕は35歳。想像もできない困難と闘う17・8歳の生徒の話に耳を傾けた。
父を幼くして喪った彼女はこの頃、精神を病んだおかあさんの面倒を見ながら、一家の長女として家族の生活を切り盛りしていた。
「朝鮮人のくせに生活保護をもらい、そのうえ子どもを高校にやったり、浪人までさせている」という声にさいなまれながらも、閉じ込めておくだけの病院に疑問を持って、母の病院探しにも走り回っていた。やすらぎは優しく見守ってくれる祖母の存在だけだった。
僕が何かの力になりえたということはない。開放病棟がある「南埼玉病院」を紹介したことぐらいではないか。無力感にとらわれたと思う。
それでもともだちでありたいという思いは消えることなく人生の折節に出会うことがあった。
今日聞いた話の中では兄妹3人が朝鮮学校に入れられそうになった話が「面白かった」。
朝鮮総連の活動家だった親戚のおばさんがいた。夏休みに行われる総連の「夏季学校」に連れて行かれた。後日、立派な作文を書いたお兄さんに大きな額縁に入った金日成の肖像画が贈られた。
翌年の春、三人は朝鮮学校に連れて行かれ、全校生徒の前に並ばされた。どうも日本の学校からの転校生として紹介されるようだ。
怖かった。これはやばいと三人して必死になって脱走した。
1960年代の後半のことと思われる。子どもを通称名で日本の学校にやる親をまるで犯罪者のように責める親族の話は前にも聞いたことがあるが、東京朝鮮第一初級学校(荒川区東日暮里)を巡ってこんな話があったとは。嫌がる家族を無理やり説得して北朝鮮に送る活動と重なって見える。
日本生まれのお母さんと済州島生まれのおばあちゃんは総連の学校には批判的だったが抗するすべがなかったのか。
それでも2人が兄妹を守ってくれたと美雪さんは感謝している。
兄は国立大学を卒業して今は社長さん、妹2人もそれぞれにがんばって自分の生き方を大切にしている。祖母を看取り、母に寄り添って生きてきた美雪さん。「なんで自分だけが」という言葉が聞かれるのかと思ったが、それは全然違った。
おばあちゃんの慈愛を享受して育った彼女にはおばあちゃんと生きるのは自然そのもの。長女として兄妹への思いやり、目配りも忘れなかった。それが今、みないい年頃になって、それぞれの形で母を支えることにつながった。僕はそう理解した。
それでも苦しい時期が何度もあったに違いない。よくがんばった。池商時代からずうっと付き合っているともだちが2人はいるという。僕はその2人の顔を思い出すことができないが、いい友達を持ってよかったなあとしみじみと思う。
今度は兄妹や友人たちに会ってみたい。心して生きなければ。
5月22日(水)晴 夏日
長く待たれた日がやってきました。亜子ちゃんが我が家を訪ねてくれたのです。
亜子ちゃんといえばこの写真です。1966年末・横須賀市浦賀港。アジア大会の年の生まれだから8歳かな。
大島高校に就職した年の暮れ、まだ学生だった妻と浦賀に住むおばあちゃん(母の叔母)のもとを訪ねました。おばあちゃんの一家は漁船員相手の食堂を営んでいました。幼くして兄と母を喪った亜子ちゃんは父とともにここで暮らしていたのです。
土佐・室戸の生まれですが、僕も初対面同様です。亜子ちゃんが東浦賀の家から渡船に乗ってあちこちを案内してくれたのではなかったか。そのときに僕が撮った写真です。
このときから賢くて愛くるしい亜子ちゃんに「お兄ちゃん」と呼ばれるようになりました。そんなふうにいってくれる人はほかにはいません。生涯の喜びとなったと言ってよいほどです。
わたしたちが結婚した翌年の正月に亜子ちゃんはお父さんをも喪ってしまいました。正月の帰郷の帰りに野辺の送りに加えてもらいました。おばあちゃんがいるとはいえ、「天涯孤独」となった亜子ちゃんにどんな声をかけられたのか?
おとなになった亜子ちゃんを訪ねて人生の話をしたのは10数年前のことです。大学の先生をしています。小学校の先生と結婚して娘さんに恵まれていました。
その娘さんがこの春大学を卒業してある有名な神社に就職し、家を出たと聞きました。それならばと声をかけたところ、今日の川越訪問が実現したのです。
46年ぶりのツーショットです。
11時から夕方まで積もる話でゆっくり時は過ぎていきました。今を誠実に生きる聡明な熟女の姿がありました。
父が亡くなったとき祖母は65歳だったそうです。孫を育て上げるために懸命に働いたといいます。伯父夫婦や従姉兄たちの愛情に恵まれたとはいえ、この祖母の存在が亜子ちゃんを深いところで支え続けたのです。父の養母で亜子ちゃんと血縁はありません。
元は産婆さんで僕も取り上げてもらいました。あの時代には珍しいキャリアーウーマンだったのでしょう。その意地と誇りが亜子ちゃんのなかに生き続けているのかと思わされたものです。
元気に生きて今度は娘さんとも「出会う」喜びを味わいたいと思います。
5月3日(祝)晴
松本安貴さんを丸木美術館に案内しました。山吹高校を卒業して9年になるといいます。
高校生のときに授業で聴覚障害者の人びとにダンスを教えて発表会に望んだ体験を報告してくれました。卒業後浅草で製靴業についたと聞きました。見学を思い立ったときには転職したばかりで果たせず、もう再会をあきらめかけていました。思いがけずfacebookのおかげで今日の日が実現したのです。
「原爆の図」をゆっくり観てもらったあと新緑の美しい流流庵で昼食としました。
靴作りにはのめりこんで19時間労働!の日々が続いたといいます。今は国立病院の医療現場で医師を補助する仕事。障害や難病の子どもたちと接する日々の中であれこれと考えさせられ、近く一つのプロジェクトを立ち上げる心積もりのようです。
高校生のときから恵まれた資質を100%生かして活動する姿に感心したものですが、その後の9年も挑戦の連続でますます魅力的な女性になりました。
京都に住むおばあちゃんは90歳を過ぎてフィットネスボクシングに精を出す人だといいます。お母さんは現役のダンス・インストラクター。血につながる人びとの感化を受けながら、今頃の人びとが避ける道にあえて挑んでいるように見えます。
都幾川の流れの近くを歩いて浄空院まで散歩しました。小鳥の声が聞こえます。心が和む雰囲気を喜んでくれました。案内する僕も夢心地。
5月5日は丸木美術館の開館記念日でさまざまな行事があります。今日は当日のパーティーの準備でボランティアの方々が筍(たけのこ)掘りに精を出しています。わたしたちはいい思いだけをさせてもらいました。
5月1日(水)晴曇
昼過ぎから先ごろ急逝した洪大杓さんのお姉さんを囲む昼食会。
俊男さんが自ら編集した「洪大杓遺稿集」をお姉さんの京子さんに贈呈。前夜から泊り込んで参加した勝義さんも自ら編集した「追悼文集」を手渡す。どれもこれも根気の要る仕事の成果だ。
妻は栄子さんに教わりながら作った朝鮮風野草料理でもてなす。
天涯孤独だといっていた洪さんにお姉さんがいた。しかも、川越に。その方はかつて俊男さんの朝鮮語の「生徒」だった。これらはみな洪さんの葬式の前後にわかったことだ。
済州島(ちぇじゅど)朝天里にルーツがあるという一家の戦後の歩みが少しずつ見えてくるようなお話をお姉さんから聞くことができた。
「洪大杓死して姉さんを残す」。淋しく、悔しいことではあるが、こうしてわたしたちは出会うことができた。そうであるからには故人への思いを大切にしながら交友を積み重ねていこう。「洪さん ありがとう」。
4月30日(火)曇
栄子さんが前日に摘んだ野草を料理して料理法と写真を送ってくれました。
<フキ味噌>
茹でた茎の皮をめくって細かく刻んで味噌に混ぜただけですがサムパブに載せると逸品です。
<フキの葉っぱのサムパブ>
茹でたフキの葉っぱにご飯を載せ、その上にヤンニョムジャン、コチュジャン、ごま油、ニンニク、すりゴマなどを混ぜ合わせたものを載せて包んで食べます。とても食が進みます。
<タンポポと酸っぱい葉っぱのサラダ>
葉っぱを茎ごとちぎってサラダにします。ドレッシングはケチャップ、マヨネーズ、ニンニク、粉唐辛子を混ぜ合わせました。
<セリのムルキムチ>
セリを3~4cmに切って、塩、粉唐辛子、みじん切りニンニク、ゴマ(すらないで丸ごとのまま)などを混ぜ合わせてしばらく寝かせます。セリが少し、しんなりした頃、たっぷりの水をそそぎ、二日ほどおけば美味しく仕上がります。
<アザミのナムル>茹でてあく抜きしたアザミをオリーブオイルでいためました。
4月29日(祝)晴
レンタカーで栄子さんを鳩山に案内しました。農村公園から高野倉自然公園へ。連休の賑わいとは縁のない別天地です。
八幡さんのイチイの巨木の近くでお弁当としました。
四国88ヶ所巡りの板碑が続く小山に登ってみました。後続の女性たちがやって来ません。
なんと野草摘みに夢中だったのです。
僕は疲れて頂上のベンチに仰向けに寝てしばしまどろむ。目を開けると見える世界です。
女性たちの野草摘みはますます佳境に入ります。水辺でセリを取りたいと言うので、黒石神社に案内しました。
僕の探索でみずみずしいセリの群生を見つけました。おかげで僕も野草摘みの体験をしました。
女性たちの収獲。
山椒 スイゴボウの蕾 フキ ワラビ ゼンマイ アザミ タンポポ 野蒜(のびる) セリ
栄子さんは北朝鮮で飢餓地獄を生き抜いた人です。山野草にかかわる知識も並大抵ではありません。いつもながら妻はしっかり学んだようです。
腐葉土も燃料として燃やしてしまうので、北朝鮮の山はハゲ山ばかりだといいます。
最高の休日になったと栄子さんが喜んでくれて何よりでした。
4月28日(日)晴
池袋商高OG三人が来てくれ11時前から夜まで飽くことなくそれぞれの人生の話を交流しました。
由美子さん 幸月さん 小百合さん。 フォークソング部の面々。7年ぶりの「お見舞い」だといって柴又・帝釈天のお守りを頂いてきてくれました。
それぞれが自分の人生を精一杯生きている様子でうれしくなります。大崎博澄さんの詩「おとなになっていくキミへ」を娘さんに贈った幸月さんの縁で詩集『人生の扉はひとつじゃない』を紹介しました。みんなに喜ばれて何よりです。
夕方になると栄子さんも加わって高校生の時、北朝鮮に渡って以来の半生を語ってくれました。
いつ果てるとも知れない語らいに目を潤ませたり、笑いを爆発させたりの一日でした。
3月11日(月)晴れ
午後2時前、順子(すんじゃ)が里帰りしました。
10年ぶりぐらいです。四人姉弟の末子の高校入学が決まり、ようやくほっとする時間が取れたのでしょうか。
妻は朝から台所に立って、心づくしの手料理で迎えました。
2年前に大邱(テグ)(韓国慶尚道)生まれの母を見送り、今は夫君の仕事を手伝う傍ら家族の世話に明け暮れる日々のようです。
生まれは伊豆・伊東市の八幡野とは今日初めて聞くことです。
来日後、小倉・下関・静岡と生活の場を移してきたお母さんがあの八幡野で順子を生んだのか!八幡野は伊豆高原の一角で毎年何回も世話になるところです。
八幡野漁港から城が崎方面に続く海岸の道は手術後の僕の生命線と言ってもよいほどです。大室火山の溶岩流が作った柱状節理、打ち寄せる荒波、そして美しい照葉樹の森。目の前は懐かしい大島。何度も何度もこの道を歩きました。よたよたと頼りない歩みでも大地はいのちを吹き込んでくれました。
順子がこの地でうまれたと聞いて八幡野はますます縁のある懐かしい地名となりました。
池商時代の15・6歳のときに出会って以来35年余、いつの頃からか、僕が「父」ということになりました。
幼少時に別れた父の夢を大人になってからも時々見ることがあったといいます。困難に直面して身も心も疲れ果てたときが幾たびかあったはずです。そんな時でも僕はただ存在するだけで役には立ちません。記憶の彼方にある父に守ってもらいたかったのかも知れません。
そんな頼りない「父」に「モミー」という名の家庭用エアーマッサージ器をプレゼントしてくれました。下肢が冷える僕を心配してくれたのです。ありがとう、順子。
妻と3人での会話の締めくくりは子どもたちの行く末と親の責任について。こんなときだけは僕が自説を主張します。
7時過ぎ、夫君の待つ東京に向かいました。うれしい半日でした。
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3月10日(日)晴れ
昨夜、伊豆の保養から帰ったら塩崎さんの訃報が届いていました。2月28日、北海道旭川の病院でなくなったということです。
友人たちと一緒に東京の病院を見舞ったのは2月10日でした。会話もままならず、ただただ故郷の大地での幸運を祈るばかりでした。それでも春になったら見舞いに行くからね、とはつたえました。春を待つことなく逝ってしまいました。
7年前、僕が入院したときにひょこっと顔を出してくれました。長い付き合いなのに恥ずかしそうに何かひとこと言ってくれました。
いつのことだったか、こんどは僕が塩崎さんのワンルームマンションをひょっこり訪ねました。抗がん剤治療で苦しかった話を聞きました。コーヒーを入れてくれる元気がありました。思いがけなくガン友になった旧友に僕の闘病体験を語ったのではなかったか。
「《多文化共生をめざす》在日・韓国朝鮮人生徒の教育を考える会」の世話人として長く一緒に歩いてくれた方です。高校の英語の教師を早めに辞めて日本語学校の先生になるなど、自分に忠実に生きようとしているようでした。
夜は「木苺舎」で日本語教室の先生。世話になった元「生徒」の悲しみを想っています。
僕よりは10歳は若いはずです。故郷は旭川の北の士別ですがルーツの地は四国・伊予です。先祖の地訪問に同行できる日があるかと、思っていたものです。それがこの始末です。予想のできない急展開に驚いています。
塩崎さん、辛い闘病だったね。ゆっくり休んでね。
正人、洪大杓、コニヤン、塩崎さん。若い、大切な友人を次々ともぎ取られていきます。
今日はこれから上福岡に出かけて「鎮魂・抗い 3・11後を生きるひとびと」という写真展を見に行きます。「川越だより」を読んでくれているという若い女性の主催です。僕のもっとも新しい友人です。
思えば僕はこうやって若い人びとに出会い、励まし励まされながら生きてきました。