川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

私たちは最良の人間のひとりを喪った

2008-08-30 11:13:50 | 政治・社会
 昨日午後退院し、自宅療養中です。副作用のピークは過ぎ少しずつ楽になるはずです。
 アフガニスタンで活動中の伊藤和也さんの訃報に接し、ぼくには言葉がありません。非戦非武装を国是にする日本人の生き方の見本を示してくれていた人のひとりです。現在の日本で望みうる最良の人間のひとりです。
 伊藤さんが敬愛していた中村哲さんの言葉を読みながら、ぼくはひとり泣いています。私たちはどうあったらいいのか、日本はどうしたらいいのか、日本中の人々が二晩三晩心を寄せ合って考えるときです。
 慈しみ育てた最高の息子を喪ったご両親とご家族に悲しみの気持ちをお伝えします。

 
 伊藤さんの「志望動機」全文 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/173741/ 
 

 こんなブログ記事がありました。考えを深めさせてくれる心ある文章だと思います。また人々の意見も参考になります。

 ①  http://www.news.janjan.jp/world/0808/0808275677/1.php

 ②http://www.news.janjan.jp/world/0808/0808285734/1.php

「金門島砲撃」

2008-08-25 10:06:09 | 中国
異常低温に体がついていけないため、昨日(24日)は一日中寝ていました。こういう日は呼吸が少し苦しくなります。今日、午後癌研有明病院に再入院、5回目の抗ガン剤治療を受けます。順調にいけば週末には退院できるはずです。それまでしばらく「川越だより」はお休みです。

 北京オリンピックが終わりました。開会式の「口ぱく少女事件」がこの大会を象徴しているように思います。ひとりひとりの人間をまるで機械か、道具としか見ない、権力者の人間観が透いて見えてくる演出です。中国では「普通のこと」らしいが、「声」と「姿」を別々に供出させられた二人の少女の心がどれだけ傷つき歪められたことだろうかと思いやられます。まさに、人間の精神に対する暴力としか思えません。あのような人間の尊厳を冒涜する行為に対し、国際オリンピック委員会を始め、大会関係者が目立った抗議をすることもなかったようです。彼らもまた同じような人間観の持ち主なのでしょう。いまもって大会参加選手からも観客からも抗議の声は届きません。

 駐北京アメリカ大使がオリンピック期間中に逮捕、拘留されたままの8人の同国人の釈放を求めたということです。「フリー・チベット」という横断幕をどこかに掲げようとした米国人がこの始末です。なんの後ろ盾も持たない中国の人々がどんな目に遭わされているか、想像力というものがあるひとにはわかります。
 IOCの会長は「デモ公認公園」でのデモが一件も認められなかったことに遺憾の意を表したとのことですがこれも茶番です。本当に世界の人に訴えたい人が、あとで弾圧を受けることがわかっているデモ申請をするものでしょうか。軍警民一体となった弾圧体制によって中国全土で人々の口は封じ込められていると考えられます。

 こんなニュースがあります。真偽のほどがきちんと伝えられることを願います。

  「チベットで中国軍発砲、140人死亡か」ダライ・ラマ発言
   出典http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080821-OYT1T00722.htm 
 一党独裁国家の独裁者たちが国策としてやりたい通りのオリンピックをやりました。IOCや世界中の国家や報道機関がこれに協力しました。このツケはどのように廻ってくるのでしょうか。

 23日が金門島砲撃から50年に当たり、24日台湾政府主催の式典が金門島で行われたそうです。中国大陸の目の前に浮かぶ小島ですが国共内戦以来ずうっと台湾政府の管轄下にあります。中国軍の砲撃はぼくが高校生の時のことで、今回、鳥居民という方の評論を読んで、そういうことだったのかとはじめて理解したところです。
 一党独裁下の共産党の指導者の人間観は昔(毛沢東)も今も変わらないようです。人々は自分の理想や国策達成のための機械か道具です。民主主義と人権の確立を目指して闘う人々の声に耳を澄まし、恥じることのない生き方をしたいものです。

 「産経」は読まないという方がおられるようです。「川越だより」に転載しますので目を通してみてください。そして、いろいろ教えてください。
 このブログに書いたように「大躍進」や「人民公社」についてさえ、ぼくの勉強ははじまったばかりです。何が真実だったのか究明することはやさしいことではありません。今もその独裁権力が続いているからなおさらのことです。ぼくの学びの過程で書いたブログを4つ再掲します。暇を見て読んでみてください。 
 

 ◎ 「 三年自然災害」という人災 http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20080122 

 ◎ 恐ろしいこと http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20080123

 ◎ 共産主義・人民公社(1) http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20080316
 
 ◎ (2)http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20080322



 金門砲撃50年と北京首脳の狙い  鳥居民(「産経」・8月21日)
     

 ≪大躍進さなかの大騒ぎ≫

 8月23日の午後6時半、金門島を囲む大陸沿岸に据えられた500門の大砲が一斉に火を噴いた。1958年のことだ。その夕刻から8月の末まで、中国は金門の10万の将兵を兵糧攻めにするのか、上陸作戦に打って出るのか、アメリカはどう対応するのかと全世界はかたずを呑んで見守ることになった。

 同時に中国側は脅迫と挑発の戦いもつづけた。だが、砲撃はやがて1日おきとなり、散発となり、いつかやんだ。

 その砲撃開始の日から50年になる。中国専門家はその砲撃戦を説明して、毛沢東は金門を奪取するつもりだったのだが、それに失敗したのだと説いてきている。

 ところで、1958年の中国は、金門砲撃の騒ぎとはべつに、大変な年だった。とてつもない年だったと言うべきだろう。

 毛は大躍進を号令した。省党書記はこぞって大豊作を報告し、その年の末には食糧と綿花は前年生産量の倍となった。鋼塊は増産目標の達成数字を何回も訂正して、年末にはこれまた前年の生産量の倍となった。

 大躍進の激動のさなか、さらに毛は全国の党書記に命じて、人民公社を創設させた。この共同体のなかに、農、工、商、学、兵のすべてを一体化させてしまうのだと毛は説き、軍事組織をそのまま労働組織にするのだと主張し、16歳から50歳までの男女を集め、民兵隊をつくらせた。

 ≪「まことにおもしろい」≫

 そこで毛沢東がやらせた金門砲撃が、かれが同じときに命じた大躍進と人民公社の建設と繋(つな)がりがあったにちがいないとだれもが考えよう。

 だが、その証拠がないことから、はじめに記したとおり、毛は金門を奪取しようとして、それに失敗したのだと語るだけのことになっている。

 なぜ砲撃したのか、じつは毛本人が明らかにしている。

 15年前、1993年12月26日は毛沢東生誕100周年だった。その2日前の「人民日報」に金門の戦いを指揮した葉飛(ようひ)という高級軍人の回想が掲載されている。

 そのなかで毛沢東が部下の国防部長、彭徳懐と中央軍事委員会秘書長の黄克誠に宛てた手紙を載せている。つぎのような内容である。「徳懐、克誠同志、眠れないままに考えてみた。金門を砲撃する。しばらくして適当なときに撃つのをやめて様子を探る」という書き出しだ。

 「…しばらくのあいだ砲撃しないで、時機を見て、また砲撃する。もしも相手が●州、汕頭(スワトウ)、福州、杭州などを攻撃してくればまことに面白い。こういう考えを君たちはどう思うか」

 毛はこの前年から金門攻撃のための兵站(へいたん)用の鉄道を敷かせ、金門島をぐるりと包囲する沿岸に大砲陣地をつくらせていた。そしていよいよ砲撃開始の直前になって、毛は彭徳懐、黄克誠に自分の考えを明かしたのである。

 ≪毛と江の本当の思惑は≫

 金門を砲撃する。アメリカ側がそれに対抗して、汕頭、福州、杭州を砲撃してきたら、「まことに面白い」と毛は自分の本心を明かした。

 毛のロマンチックな地上の楽園の建設は、かれが頭脳の平衡を失い、不可能な夢を追っていただけのことであったといまになれば、研究者も、伝記作家も遠慮会釈なくこきおろしている。

 だが、毛はそのときも抜け目なく計算していた。大衆が本当は嫌っていること、望んでいないことをやらせるためには、かれらをどのような状況に置いたらよいのかを承知していた。

 福州が砲撃された、杭州が砲撃された、アメリカ軍が攻めてくる、蒋介石を助け、地主のために土地を奪い返しにやって来ると国内向けに大々的に宣伝する。われわれの土地を守り抜くのだと「全民武装」を説き、編成した民兵隊を人民公社の大黒柱にする。

 毛沢東の金門攻撃はこんな狙いを隠していた。あとになって口惜しがり、アイゼンハワーの肝っ玉がもう少し大きければ、杭州や福州を砲撃させることになって、大躍進と人民公社はあんな結末とはならなかったのにと毛は負け惜しみを言ったのであろうか。

 つまらぬ蛇足を加えた。もうひとつ蛇足を記そう。前に本欄で述べたことの繰り返しになる。1996年3月、台湾の総統選挙戦のさなか、江沢民が台湾の基隆と高雄の沖合にミサイルを着弾させたことがある。李登輝を落選させようとしたのだとだれもが解釈した。台湾に戒厳令を復活させ、総統選挙を断念させようとしたのが、江沢民の本当の狙いだった。独裁国民党の李登輝が総統をつづけて一向に構わなかった。

 民主的な国が隣に誕生することが、北京の指導者は恐ろしかった。いまもそれは同じだ。(とりい たみ=評論家)

●=さんずいに章

「瞳」

2008-08-23 14:09:55 | こどもたち 学校 教育
 「きいちご多文化共生基金」では10月4日(土)から一泊2日で栃木県足尾への「第8回移動教室」を行います。足尾鉱山跡を見学したり、鉱毒のため砂漠のようになった山に緑を取り戻そうとする人々の営みを学び、参加者の交流を深めます。参加費は5000円(中学生以下は3000円)です。定員までまだ余裕があります。関心がある方はぼくまで問い合わせてください。

 NHKの朝のドラマ「瞳」が終わりに近づいたようです。こんなニュースがありました。

 
“朝ドラヒロイン”榮倉奈々、涙のクランクアップ
                (8月22日18時15分配信 オリコン)

 女優・榮倉奈々主演のNHK朝の連続テレビ小説『瞳』が22日(金)にクランクアップを迎え、東京・渋谷の同局で榮倉奈々、西田敏行ら出演者とともに花束贈呈式とくす玉割が行われた。9か月という長期間で過酷な撮影スケジュールを乗り越えた榮倉は「山あり谷ありの日々でしたが、周囲も相談に乗ってくれたり助けてくれた。今後、女優として精神的なエネルギー(の源)になりました!」と時折涙ぐみながら感想を語った。

 挨拶の場面で榮倉から「世界で一番尊敬する俳優さんです」と告白され、照れを隠し切れなかった西田は「待ちに待った大器。等身大の女の子を演じるのは役者にとって難しい。彼女なりに悩みながらも演じていく姿を見て、こちらも刺激になった」と主役を演じた彼女を絶賛。クランクアップ3日前から「緊張し浅い眠りでした」と話した榮倉は西田との思い出について「一緒にカラオケへ行くと『いい夢みろよ』を歌ってくれてカッコよかった!」と笑顔だった。


この春から毎朝、栄倉奈々演ずる瞳さんを見てきました。かつてであった高校生にもこのような素敵な娘がいるような気がしてあれこれと思い出しながら楽しんできました。舞台になっている月島のもんじゃ屋さんの息子の元生徒もおり、何とはなしに身近な思いをさせてもくれます。

 このドラマは東京都の里親制度(養育家庭制度)のPRでもあります。ぼくの知り合いにも長く里親をやっている人がいますが、ぼくは里親制度にもその実態についても無知そのものです。番組のHPから紹介します。


 養育家庭制度   子どもは本来、家庭のぬくもりの中で育てられることが必要です。しかしながら、親の離婚や病気、失そう、虐待などさまざまな事情で、親と一緒に暮らせない子どもたちがいます。そして、そのほとんどが、乳児院や児童養護施設で生活しています。こうした子どもを、児童福祉法に基づいて、一般の家庭に迎え、温かい雰囲気の中で家族とともに生活してもらうのが里親制度です。今回ドラマでとりあげる東京都の養育家庭制度(愛称「ほっとファミリー」)は、養子縁組を目的としないで子どもを養育する家庭のことをいいます。
 現在、東京都では親と一緒に生活できない子どもたちが約3,900人。そのうち約1割が「養育家庭」のもとで暮らしています。


  次にこのドラマの制作者(尾崎充信さん)の言葉です。
 
 平成20年度前期の連続テレビ小説『瞳』は「家族」を正面から見据えます。

 東京都の「養育家庭制度」には里親になる条件の一つに、配偶者がいない場合には「起居を共にし、主たる養育者を補助できる 20歳以上の家族がいること」というのがあります。われわれはこの一条に注目し、物語を立ち上げました。老夫婦の養育家庭で妻が亡くなり、そこで暮らしていた里子たちはその家を去らなければならない可能性が高まります。
 しかし、ひょんなことから20歳の孫娘が同居し、祖母の代わりに里親になることを決意します。自らも夢を追うイマドキのヒロインが、若い「里親」として、弟や妹のような「里子」たちと向き合い、傷つけ合ったり支えあったりしながら、生活していきます。そして、この「家族」を見守るのが、人情あふれる、佃・月島界隈の人たちです。
 今回の連続テレビ小説はこの魅力的な地域に見守られて「瞳」が子どもたちと共に成長していく姿を、笑いと涙に満ち溢れたハートウォーミングな物語としてお届けします。日本中の子どもの「瞳」が輝いていることを願いながら・・・。
  
   出典http://www3.nhk.or.jp/asadora/midokoro/index.html

 ぼくは瞳のような娘さんが好きです。身近な人々の悲しみや苦しみにに気づき、自分に出来ることを精一杯やろうとします。「道徳」の教科書の期待される人間像のようで「うざったい」という若者もいますが、ぼくはそんなふうには思いません。こんな人がいればいいなあ、と心から応援します。
 灰谷健次郎の『太陽の子』の主人公・ふうちゃんは小学生ですが、やはり大好きです。こんな子はいないよと言う人がいました。そうかも知れません。でも、そうでないかも知れません。後生畏るべし。
 子供の可能性を信じ、優れたリーダーを育てて行くことができなければ未来はありません。
 灰谷健次郎はふうちゃんに「肝苦ぐりさ」の思想を身につけていく願いを託しました。
  
 http://lumokurago.exblog.jp/7049512/ 

 このドラマの制作者・尾崎さんは瞳さんに同じような願いを懸けているのでしょう。

 大人たちが若者にこびることなく願いをもって生きることが問われています。
その願いの核にあるべきものが「肝苦りさ」の思想、別の言葉で言えば「優しさ」です。

 栄倉さんは優れた素質を持つ娘さんのように見えます。瞳を演じたのを滋養にして味のある、ヴァイタリティあふれる役者に成長していってほしいものです。

 

外泊許可

2008-08-22 16:22:22 | 父・家族・自分
 昨日(21日)、早朝6時に北信・木島平村を出て11時の指定時刻には癌研有明病院に着きました。しかし、一泊しただけで、外泊許可となり帰ってきました。再入院は25日(月)、抗ガン剤点滴は26日ということになり、ぼくのもくろみとはだいぶ予定が変わってしまいました。
 これは抗ガン剤の副作用によるヘモグロビンの減少に対処する新薬の開発にぼくが協力する予定だったところ、(お医者さんたちの)思いの外、ぼくのヘモグロビン数値の恢復が早く、「実験」対象としては失格になったためのようです。
 抗ガン剤は癌細胞と闘うのみならず、赤血球(ヘモグロビン)・白血球などの血液成分を破壊する副作用を伴います。これの治療薬の開発が課題で、ぼくはいわばその「実験台」になることを了解していたのです。しかし、ヘモグロビンの数値が順調に回復したので、ぼくにはその治療自体が不要になったのです。治療不要なものを実験台にするわけには行きません。中止するのが当然です。
 第5クールにはいるまでにまた体力、気力に弾みをつけるべく、明日あさっては有意義に過ごしたいものです。

 帰ってくると、故郷の巨樹(なおき)くんから手紙が届いていました。彼は小学校の同級生ですが癌との闘いではぼくの先輩です。様々な治療方法を体験して、今は小康状態を保っています。幼い日、一緒に遊んだ日々が懐かしく思い出されます。11月になって高知に帰れるとすれば一番最初に寄ることになるでしょう。今は故郷の室戸岬を離れ、高知空港の直ぐ近くに住んでいるのです。高知市に住む幸智くんもここにはよく来られるので一年ぶりに会えるかも知れません。

 先日(20日)、榛名の吾妻荘で読んだ古田博司さん(筑波大)の論文が印象に残っています。興味がある方はごらんになってください。『朝鮮民族を読み解く-北と南に共通するもの』(ちくま新書 1995年。ちくま学芸文庫復刊、2005年)以来、この人の書いたものはうなずきながら読むことが多いような気がします。

 「朝鮮民族の復讐のカタルシス」 古田博司 (『産経』)

 http://sankei.jp.msn.com/life/education/080820/edc0808200321006-n1.htm

明日からお休みです。

2008-08-20 20:05:00 | 父・家族・自分
 明日入院ということになりました。抗がん剤の点滴は金曜日、順調であれば退院は来週初めです。と、いうわけでまた数日間『川越だより』を休ませてください。

 僕は今、長野県木島平村のパノラマランドというところに来ています。昨日思い立って群馬県の榛名山に泊まり、今日は志賀高原を経由して北信濃に来たのです。好天に恵まれ、カヤの平のブナ林を歩きました。ここは昔来た時よりも整備が行き届いて、誰もがぶなの森の学びができるようになっています。信州大学教育学部が管理しています。ロッジなどの宿泊施設も木島平村が運営しており、若い人たちの学びの場としてはうってつけです。

 宿に着いたら入院の知らせが届いていたのです。明日早朝ここをたち、病院に直行です。こういうこともあろうかと準備は万端です。入院前に少しだけでも森の散歩ができたので満足です。 

栗駒山麓・ 耕英地区

2008-08-19 06:38:43 | 出会いの旅
 5回目の入院前にどこかに行って山里歩きをしようと思うのですが、天候が不安定でぐずぐずしています。時間に余裕があれば栗駒山の麓の村に行ってみたいのですが、癌研に問い合わせてみても入院の予定が今週なのか、来週なのかさえ定かではありません。

 栗駒山周辺での地震からもう2ヶ月がたったそうです。「読売」の記事です。

 岩手・宮城内陸地震の発生から2か月となった14日、宮城県栗原市栗駒の仮設住宅前で、入居する被災者ら約70人が、多くの犠牲者が出た栗駒山方面に手を合わせ、黙とうをささげた。

 この日は朝から小雨で、被災者は傘をさして、地震発生時刻の午前8時43分に黙とう。

 耕英地区の農業佐藤生子さん(52)は「陸路で一時帰宅ができるようになり、畑に冬に食べる大根の種をまいた。慣れない生活は続くが、一歩一歩前進しています」と話した。

 栗原市では、耕英、花山地区などの125世帯315人に避難指示・勧告が出されたままで、61世帯163人が仮設住宅に入居したり、親類宅などに身を寄せたりしている。

 耕英地区住民らで作る「くりこま耕英震災復興の会」は、「復興には何年もかかると思いますが、これからも皆様のご支援をお願いいたします」とのメッセージを出した。         (2008年8月14日12時38分 読売新聞)

 
 栗駒山にはブナの原生林が残っていると言うことで一度は訪ねたいと思っていたのですが、今回の地震で思いがけないことを知りました。この記事に出てくる「耕英」という地区は満州開拓から命からがら帰国した人々が再開拓に挑んだ所なのです。

 ボランティアグループのHPにこんな記事があります。


 暗くなってからお風呂上がりに、「焼きとりの店」にご来店の方々から「どっから来たの?」と聞かれました。「福島・・・」と答えると・・・。「俺たちの一世は丸森から来たんだ・・・」「親戚も丸森にいる・・・」
 耕英地区は、戦後開拓された所だということは聞いていましたが、宮城県と福島県の県境の丸森町耕野の方々が開拓された所だと知って驚きました。理事長の吉田が丸森町に詳しくて、おじさんたちとの話が弾みました。話を聞いているうちに、耕英地区の方々との距離がとっても近くなったような気がしてきました。
戦前、満州などに開拓民として入っていた丸森町耕野地区の人たちが、戦後開拓地を求めてたどり着いたのが耕英だったそうです。
「その頃は、チエンソーなんてなかったから、大きな木もノコギリで切って・・・。すべて手作業で開拓したんだからそりゃぁ大変だった。」
「一世は、もう八十五~六歳なんだ。復興まで2~3年かかるって言われてるけど、そんなに待ってられないよ。せめて1年以内には何とかしなきゃぁ~。一世には、復興した姿をちゃんと見せなくっちゃぁ・・・。」
「俺たちの一世は、全くゼロからのスタートだったけど、イワナやイチゴがダメになっても、俺らは一世が残してくれたものがあるからゼロからのスタートじゃないんだよ・・・」
耕英地区の方々のたくましさを感じました。

 出典 ハートネット福島 http://fukushi.jpn.org/user_bbs/heart/new2/board.cgi?command=read_message&msgnum=6

 
 詳しいことはわかりませんが福島県境に近い宮城県丸森町耕野というところから1940年代に100戸近くの人々が満州に渡ったようです。これらの人々のうち生きて帰ることの出来た人たちが、この記事で言う「一世」だと推測できます。「耕野」と「耕英」、地名にも縁がありそうです。ふるさとの地名を一字貰ったのでしょうか。
 イワナの養殖やいちご栽培が軌道に乗ったところで地震に見舞われたのでしょう。開拓2世・3世がたくましく復興に取り組んでいる様子が報道されたこともあります。

 今でも避難勧告が出たままとか。そんなところに遊びに行けるわけはありませんが、周辺に泊まる所ぐらいあるでしょう。復興に取り組む2・3世たちの姿を遠くからでも見て、栗駒山麓の風景を感じられたらそれでいいのです。ここには山村留学に取り組む人たちの営みもあるようです。

 くりこま高原自然学校・耕英寮 http://www.futoko.co.jp/jiritsu-shugyo-shien/miyagi/kurikoma.html

 自然学校代表 佐々木さんのブログhttp://blog.canpan.info/master_kkns/category_8/

 昨日の「川越だより」訪問者は288人でした。今までの最多かな?感謝。

「くさや」の食べられるところ

2008-08-18 06:46:27 | 政治・社会
 昨日は絶不調でした。前日に比べ気温が10度も下がったため体がついていけないのです。一日、布団の中でうとうと。甲子園の浦添商業の試合はラヂオで聞きましたが、夢うつつの中。一挙に9点を取られ、どうなるかと思いましたが、その後加点を許さず、追い上げたのは立派です。捲土重来を期待します。

 浦添商業のことを書いたせいか、「川越だより」にアクセスしてくれた方が昨日は急増し、213人でした。参考までに最近のアクセス数を紹介します。長ったらしい、文字だけのブログです。おつきあいくださる皆さんに感謝あるのみです。


  【川越だより】のアクセス

過去1週間の閲覧数・訪問者数(日別)

日付 閲覧数 訪問者数
2008.08.17(日) 443 PV 213 IP
2008.08.16(土) 292 PV 138 IP
2008.08.15(金) 347 PV 113 IP
2008.08.14(木) 272 PV 116 IP
2008.08.13(水) 389 PV 153 IP
2008.08.12(火) 299 PV 141 IP
2008.08.11(月) 290 PV 119 IP


  過去3週間の閲覧数・訪問者数(週別)
日付 閲覧数 訪問者数
2008.08.10 ~ 2008.08.16 2232 PV 901 IP
2008.08.03 ~ 2008.08.09 1592 PV 778 IP
2008.07.27 ~ 2008.08.02 2759 PV 656 IP


 横浜でバーをやっている息子が「くさや」を食べたくなったので大島に行って来ると言います。ついてはどこへ行けば食べさせてくれるのかという問い合わせです。妻が心当たりの店を紹介していました。
 ぼくが大島で世話になったお陰で、子どもたちも皆、「くさや」のファンなのです。
 「くさや」を知らない方もおられるかも知れませんね。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8F%E3%81%95%E3%82%84


 ぼくはムロアジのくさやが大好きです。たまに食べたくなりますが、そんなときには手元にありません。独特の匂いがするため一般的には流通していないのです。近所に住む三宅島出身の方や大島の友人達にいただいたときに食べるというのが近頃の実情です。

 手に入ったとき息子にも届けてやりたいのですが、集合住宅暮らしですから、焼く所がないのです。焼けばその匂いのため隣近所から苦情が来るのは必定です。近頃は焼いて真空パックに入れた製品もありますが、それではくさやを食べるおいしさは味わえません。

 首都圏にはくさや好きがけっこういると思われます。皆さんどんな工夫をして食べているのでしょうか。
 
 東京都に提案です。東京の湾岸地区のどこかに、くさやを焼いて食べさせる店をオープンしてください。もう既にあるのであれば何らかの方法でPRしてください。何の遠慮もなく、くさやをはじめとする伊豆諸島の産物に舌鼓を打つことができる店が出来たら、川越からも行きたくなるかも知れません。離島振興の一環にもなります。

 とりあえず、豊洲のゆりかもめ「市場前」駅付近はどうでしょう。築地の市場の移転予定地ですが、土壌汚染のため当面は空き地です。匂いの文句を言う人はいません。市場が完成するとしてもしばらく先のことです。試行地としてはいいとおもわれます。
 東京都は?千億円の巨費を投じて土壌改良を行いここに中央卸市場をもってくるとか。卸売市場のことに詳しくないので意見はありませんが、もったいないなあという感想はあります。魚付きの森にできたらいいなあ。そういうところならくさやの店も許されるだろう。


(追記)
 調べてみたら、くさやを食べさせてくれる店がありそうです。
 
 http://homepage2.nifty.com/kusaya/8jyo/introduce/dignity_09.html
 

浦添商・山城捕手

2008-08-17 05:10:33 | こどもたち 学校 教育
夕方から何度か驟雨に見舞われ、咋夜は心地よく眠ることができました。

 『中国の核実験』の著者・高田純さんからコメントをいただきました。皆さんもどうか、参考になさってください。


 文献のご紹介ありがとうございます。
中国の核実験災害について、次のサイト作っていますのでごらんください。

http://www15.ocn.ne.jp/~jungata/NEDonSilkRoadJap1.html
 
 世界中の人々の目がロブノルに注がれ、中国政府が研究者や調査団の受け入れを認めるようになることを願わずにはおられません。これらの事実を覆い隠し、人々の受難を黙殺して進むオリンピックを見る気にならないのはぼくにも人間の心のかけらが残っているからでしょう。


 甲子園はきょう、準決勝です。沖縄の浦添商業が常葉菊川(静岡)と対戦します。次に紹介する新聞記事を読み、山城くんがぐっと身近になりました。明日の決勝にはおじいちゃんも甲子園に駆けつけてくださると書いてあります。「肝苦りさ」の心を学ぶ青年は野球はもちろんひとりの人間として有為なリーダーに成長していくことでしょう。がんばれ、浦添。がんばれ、山城。

 肝苦りさ(ちむぐりさ)①  http://lumokurago.exblog.jp/7049512/
 
 ②
 http://blog.umikaji.parasite.jp/?eid=149016 
 

 桐生一高の監督が辞任したそうですが、問われているのは高野連のリーダーであり朝日新聞社です。高校野球を食い物にする利権集団を解体除名しないかぎり、「
文武両道」の人間は育ちません。

 
  「野球できる平和に感謝」激戦地伊江島出身、浦添商・山城捕手
 
    ◇頂点まであと2勝、祖父母の思い心に
 

 夏の甲子園で準決勝に進出した浦添商(沖縄)の山城一樹捕手(3年)は、沖縄本島から約9キロ北西にある離島、伊江島(沖縄県伊江村)の出身だ。伊江島は第二次大戦沖縄戦の激戦地の一つ。山城選手も、戦争を体験した祖父から「おまえたちは戦争がなくて幸せだよ」と言われて育ってきた。悲願の頂点まであと勝利二つ。山城選手は「野球ができる平和に感謝したい」と話している。

 沖縄戦で米軍は1945年4月16日、伊江島に上陸。島を占領するまでの6日間で村民約4000人のうち約1500人が死亡したとされる。狭い島に逃げ場はなく、爆弾を抱えて米軍陣地に突進したり、集団自決に追い込まれる住民もいたことから、伊江島での戦闘は「沖縄戦の縮図」とも言われる。

 そんな伊江島に育った山城捕手は、祖父母らから平和の大切さを聞かされてきた。だが、具体的な沖縄戦の様子について祖父母の口は堅かった。小学生のころ、宿題で戦争体験を聞いたことがあったが、祖父義雄さん(88)は「銃剣を持たされて壕(ごう)の中にいた」とだけ話すと、涙を流して口を閉ざした。祖母ミドリさん(86)はただ涙を流すだけだった。

 山城捕手は「おじいが今でも泣くほど、戦争は残酷だったのだと思う。おじいからは『おまえたちは戦争がなくて幸せだよ』と言われるが、本当にそうだと思う」と話す。義雄さんからは「決勝には行くから」と励まされた。山城選手は「島のみんなに支えられて最高の舞台で試合ができ、幸せです」と笑顔で語った。【三森輝久、伊藤奈々恵】

           毎日新聞 2008年8月16日 西部夕刊

「終戦記念日」に思ったこと

2008-08-16 07:35:17 | 政治・社会
 15日、川越は酷暑、我が家の温度計も35度を示していました。戦没者追悼式をTVで見たあと、午睡。あまりに暑いのでプールに行こうかと思っているうちに甲子園の慶応高校ー浦添商業高校戦がはじまったので観戦する事に。お陰で暑い一日を何とか無事やり過ごすことが出来ました。両校のナインに感謝。

 今夏の甲子園の中継を見るのは初めてです。沖縄の浦添商業が公立高校としてはただ一校ベスト8に勝ち残っています。慶応は久しぶりの快挙で大応援団を送り込んでいます。ぼくはもちろん浦添の応援です。浦添のブラスバンドは阪神地区の学校の友情出演とか。「ハイサイおじさん」が軽快に演奏されます。一方は「陸の王者」。
一点を争う好試合は延長にもつれ込み、4-3で浦添の勝利に。よかった、よかった。
 沖縄の人たちはもちろんだが、阪神地区に多い沖縄出身者も日曜日の準決勝を楽しみにしているだろう。昨年春の室戸高校の応援をおもいだします。ぼくも楽しみが出来ました。

 「終戦の詔勅」聞いていただきましたか。
 文字付きだからといっても昭和天皇が何を言っているのか、理解に苦しむ方も多かったのではないでしょうか。63年前にラジオの前で聞いた人々はどうだったのか。たぶん、ちんぷんかんぷん?で、どうも戦争に負けたということらしい、という理解だったのでしょう。
 内閣書記官長(いまの官房長官)の迫水(さこみず)久常という人が御前会議での天皇の言葉を漢文調につづろうとして3日3晩ほとんど徹夜して書き上げた文章だといいます。その上に安岡正篤という漢学者の添削をうけました。
 吉川さんはその道の権威ですから卒倒しそうにもなれますが「ゴダイタメニサク」と聞いてもほとんどの人にわかるはずはないのです。
 神であるとされた天皇の声(玉音)が初めてラジオから流れるのです。わからなくとも有り難そうであれば良かったのでしょう。

 念のため全文とその日本語訳(?)を紹介します。

 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/3935/ww2/syusen.html

 昭和天皇について「無責任」だったと批判しましたが、今の明仁(あきひと)天皇については「ほんとうによく努力されているなあ」というのがぼくの率直な感想です。憲法で「象徴」とされたのですがどう振る舞うかどこにも見本はありません。
 主権在民(民主主義)、人権の不可侵、非戦非武装の憲法の基本原則をふまえ、注意深く行動されているように見えます。美智子皇后の努力には深い敬意を覚えます。小泉信三という人(慶応・塾長)が東宮の教育掛としてお二人を結びつけたのかと思いますがその先見の明にも脱帽です。

  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E6%99%BA%E5%AD%90_(%E7%9A%87%E5%AE%A4) 


 しかし、前にも書いたことがありますが、「日本国および日本国民統合の象徴」を特定の家系の人物にすることにはやはり無理があります。天皇家という「日本の超名家」に嫁ぐ、美智子さんや雅子さんへの精神的重圧が程度を越していることもその一例ですが、仮に「大和民族」の象徴としてOKだとしても、アイヌなどの先住民族の人々にとってもOKだというのは押しつけがましいことです。

 これから先、日本のあり方を考えるとき、率直な議論が行われるべきです。
 
 なお、戦争犠牲者の追悼については現在の皇居、或いは東御苑を沖縄の「平和の礎(いしじ)」を参考にして追悼公園に整備したらどうかと思っています。
 「平和の礎」には24万734名が刻銘されているそうです。沖縄県14万9130名、46都道府県7万7033名、米国1万4009名、英国82名、台湾34名、韓国364名、朝鮮82名。(2008年6月23日現在)

 国立の追悼公園には310万余の日本国民を始め、どのくらいの外国人の名を刻むことになるのか難しいところです。しかし、20世紀前半の戦争犠牲者をしのび平和を祈念することはこの国の人々のアイデンティティの基礎にかかわることです。議論に値すると思われませんか。
 靖国神社はそのままでいいかも知れないし、天皇(すめらぎ)さんが望まれるのならこの国立追悼公園の園長さんになってくださるのもいいのではないかとも思います。

終戦の詔勅

2008-08-15 07:17:37 | 政治・社会
 チベットのニュースに接するようになって、妻は松村徹さんのことを頻りに思い出すといいます。1979年カトマンズ(ネパール)のラマ教寺院で不慮の死を遂げた彼女の大学の先輩です。
 松村くんはぼくにとっては高校の後輩(4つ下)にあたります。土佐高校から教育大に入る人は珍しく、入学早々(1964年)会った記憶があります。79年思いがけない訃報を聞いて、妻と共に高知の彼の実家を訪ね墓参りをさせて貰いました。
 松村くんは大学入学後、世界各地を旅する人となり、最期の地がネパールとなったのです。妻は彼が日本を出る前日、偶然、大学の西洋史学科の控室で会い、飲みながら旅の話を聞いたそうです。

 昨夜、高校の同窓会名簿でお兄さんと思われる方の電話番号を調べ、思いきって電話してみました。ぼくのカンはあたり、お兄さんはぼくよりは5つ上の高校の先輩でした。長く県下の学校の教職にあった方ですが、最初の赴任地がぼくの故郷の高校で、室戸岬の町で一年を過ごしたというお話です。お世話になったという方々の名前を聞き、縁を感じずにはおられません。30年近く前お会いし、弟さんのことを伺っているはずですがそれは蘇ってきません。
 妻は自分が知っている松村くんの思い出を話します。突然の電話にお兄さんもびっくりされたはずですが、喜んでもくれました。
 秋に帰郷が出来たら、おたずねする約束をしました。彼の足はなぜカトマンズに向かったのか。なぜ、ラマ教寺院だったのか。松村くんの心と遅まきながら出会うことが出来るかもしれません。
 
 今日は「大東亜戦争」終結から63年の記念の日です。大抵は室戸岬の父の家で過ごし、午前中に父について岬に建つ「忠霊塔」を訪ねたものです。父の生徒だったたくさんの人々の名前が刻まれています。ぼくは生徒を「死なせた」という父の心の内を思いながら共に頭を下げました。

 最近『昭和二十年の「文藝春秋」』(文春新書)という本で吉川幸次郎さんの「心喪の説」という文章(『文春』1945年10月号)を読みました。「終戦の大詔」の中で昭和天皇は次のように「畏れ多いお言葉を賜った」そうです。

 帝國臣民にして戰陣に死し職域に殉し非命に斃(たお)れたる者及其の遺族に想を致せは五内(ごだい)爲に裂く
 
 「五内為に裂く」は両親の死に際してだけ使う人間最大の悲しみを表現する言葉だといいます。その言葉を臣下の死に使ったのでラジオの前に深く頭をたれていた吉川さんは「あまりの畏れ多さに、あわや昏倒せんばかりであった」そうです。
 その言葉のわりには昭和天皇は無責任であったというのがぼくの考えです。憲法の発布(46年11月3日)、東条らの処刑(48年12月23日)などの機会に退位を表明し、その道義的責任を明確に語るべきでした。彼がそれをする勇気を欠いたため、戦後の日本に無責任という道義的頽廃が蔓延したのです。

 興味のある方は「終戦の大詔」を聞いてみてください。
 
 http://jp.youtube.com/watch?v=S1t4tpVjYk8
 

 
 63年後の今、あなたはどんな風に受け止められましたか。
 
 
 

中国の核実験(4)ロブノル

2008-08-14 21:35:18 | 中国
 「きいちご基金」の世話人会ということで、昨夜は遅くまで交流が続きました。気心の知れた者同志ですから、遠慮のない意見交換が出来ます。ありがたいことです。
 遅くなったのでカツヨシさんが泊まることになりました。そこで今朝は二人でサイクリングということにしました。
 家の近くから川越・狭山自転車道に乗り、入間大橋・開平橋を渡って、上尾市の平方(八枝神社)で休憩。ここは舟運で栄えた村で、神社のおおケヤキが疲れをいやしてくれます。
 開平橋を戻って、荒川サイクリングロードに乗る。左に荒川、右に入間川を見ながら、合流点までは一直線の快適な道。ここで上江橋にあがり、荒川をもう一度わたります。荒川左岸の自転車道に入り、治水橋の袂まで走りました。ここにある、自動車教習所のレストランでお昼。疲れがドットでます。9時半に家を出て、3時間近くがたっていました。
 ここからカツヨシさんの家まではあと一息ですが、川越に引き返すことにします。上江橋まではもときた道。空が怪しくなってきたのでここからは自転車道を離れ近道をすることに。川越運動公園で休憩時から弱い雨に見舞われましたが、2時半頃には無事帰着しました。

 今日のサイクリングはパソコンなどに夢中になって運動不足になりがちなカツヨシさんを外に引き出すための戦略の一環です。気分が良くなったようで喜んでいます。彼がまた行きたいというようになれば、それぞれの家から平方に終結し、あちこちに遊びに行けます。とりあえず、作戦は成功裏に終了しました。昼食時に良く休んだせいか、疲れも取れ、ぼくも快適です。

 さて、中国の核実験についての補足です。

 
 中国政府が実態を隠して、実験で苦しめられた人々の実情を把握することは今日なお難しいようですが、日本人の中にも研究を進めている方がいるようです。

  
[高田 純の放射線防護学入門シリーズ]
中国の核実験
  ─シルクロードで発生した地表核爆発災害─

著者:高田 純(札幌医科大学教授)

■A5判・並製 ■80頁
本体価格 1,200円(税別)
2008年7月14日発行
ISBN978-4-86003-390-3

 中国は1964年から1996年までに,ウイグル地区ロプノルの実験場で延べ46回の核爆発を行った。シルクロードにおける世界で最も不透明な核実験の実態を,核放射線の物理と放射線防護学から透視。ウイグルの人びとの健康被害と核ハザードは,21世紀の現在も続いている。

出典    http://www.iryokagaku.co.jp/frame/03-honwosagasu/390/index03-390.html 

 ぼくは著作の存在を知ったばかりですが、実験場・ロブノルはシルクロード桜蘭の近くだそうです。NHKのだい好きなところでシルクロードは繰り返し放映されています。桜蘭に押し掛ける観光客も多いと聞きます。
 イギリスでは1998年に「death on the silkroad」という番組がつくられ83カ国で上映されたそうです。もう10年前のことですがこの際、紹介してほしいものです。

 米・露・英・仏・中などの核保有国が行ってきた核実験とその実験場に関する情報は次のHPをごらんになってください。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%AE%9F%E9%A8%93


 今これに北朝鮮が加わり、44年前の中国と同じように立派な声明を発し、日本を始め世界の人々を恫喝しています。これとどう向かい合うか、原水爆の禁止を求めるすべての人々の力量が問われています。
 

中国核実験の被害(3)日本の反核運動

2008-08-13 11:08:42 | 中国
 12日(火) 昼前に元同僚のYさんが見舞いがてら遊びに来てくれました。今も都立高校で働いています。様々な病気を抱えながら、楽しいとはいえない職場で奮闘する方に年寄りの無駄話が役に立つとは思えませんが5時間以上も付き合ってくれました。ありがたいことです。
 今日は「きいちご基金」の世話人会ということで友人達が我が家に来てくれます。このところ「川越だより」を覗いてくださる方は140人台が続いています。ありがとうございます。


 さて、中国政府声明を読んでいただいたでしょうか。ぼくは44年前にも読んでいるはずです。この声明を批判する『教育大学新聞』の<主張>(社説)がその419号(1964年10月)に掲載されています。真矢編集長の文章のようですが<主張>討論にはぼく(4年生)も参加したはずですから。月2回刊の新聞です。2週間に一度、全員参加のもと、討論を行い大抵は編集長が文章にまとめるのが習慣でした。
 
 今改めて読んでみると「核兵器を消滅させようとするため」だの「世界平和をまもる事業にたいする巨大な貢献」だの、自己の蛮行を正当化しようとする醜悪な文章という他はありません。
 
 当時、『教育大学新聞』は次のように主張しています。

 「中国核実験に抗議する」

 <1>略

 <2>
 いうまでもなく、今日、米ソによる核兵器開発競争は究極の段階に達している。そして、その結果、軍事的な手段をもって自己のイデオロギーと政策の全面的勝利をはかろうとすれば、世界的規模での熱核戦争が誘発されることは必至であり、人類の輝ける未来は一瞬のうちに廃虚と硝煙の中についえ去ってしまうであろう。ソ連の「名誉ある後退」によって戦争勃発をまぬがれた、キューバ危機における息詰まるような数日間は、まさにこのような全体的破滅の危険性が現実として存在することを示したのであった。
 
 我々はこれまで、熱核戦争偶発の可能性を指摘し、戦争の時代から、恒久的な世界平和の時代へと歴史を転換させる力は、自らが核兵器あるいはそれに優る兵器を保有し、「帝国主義者・報復主義者」をおいつめる手段によってではなく、平和共存下での全面核停・完全軍縮への、科学的分析に基づくネバリ強い要求を通して得られることを主張してきた。現代の世界情勢は、こういった段階的な手段による平和の実現を可能にしている。

 ところで、中国の核実験強行の根底には原水爆に対する楽観的な認識があるように思われる。そして、それはまた、この蛮行に同調し、支持の態度を表明した一部の国や、先の原水禁10回大会の支持勢力に共通していえることである。これまでに行われた核実験によって大気圏内に蓄積された放射能の量は、もはや無視できないものであり、後世に悪影響をもたらすであろうことが世界の科学者から報告されている。我々は核実験そのものが人類の生存にとって一大脅威になっている事実を深く認識せねばならない。 

 <3>略

 ぼくの考えもおおむねこの主張に重なるものだったと思われます。

 ところが原水爆禁止運動に大きな影響力を持っていた日本共産党は中国の立場を全面的に支持し、部分的核実験禁止(部分核停)条約の批准に反対するばかりか、
中国の核実験そのものを支持するキャンペーンを展開しました。これがため原水爆禁止運動は分裂に分裂を重ね、人々の支持を失っていきます。核武装や核実験を支持する原水爆禁止運動などというものを真面目に主張し、その主張に反対するものを「反党修正主義者」などと罵倒する人々をみなさんは想像できますか。

 共産党の国会議員の中から造反が起きました。5月の国会で部分核停条約の批准が行われた際、志賀義雄・鈴木市蔵という二人の共産党国会議員が党の方針に反対して賛成票を投じたのです。共産党は直ちに両名を除名しました。
 10月には12人の共産党文化人が党指導部を批判する声明を発表しますがこれらの人々も11月には除名されたようです。
 佐多稲子、出隆、国分一太郎、山田勝次郎、渡辺義通、朝倉攝(画家、舞台美術家)、佐藤忠良(彫刻家)、本郷新(彫刻家)、宮嶋義勇(映画監督)らの方々と共に丸木位里・俊夫妻の名が記録されています。
 これらの人々がどんな内容の声明を発したのか、知りたいところですが、資料が見つかりません。
 党書記長の宮本顕治という人やその後裔の不破・志位などという人はこれらの人々を含むたくさんの党員を査問、除名し、党外の批判に対してもあらゆる手段を使って攻撃し、それがため死に追いやられた人もいるぐらいですが、日本の反核運動にもたらした自らの致命的な誤りに反省謝罪したことがあったでしょうか。これらの人々がまちがって権力の地位についたとしたら日本はどうなっていたでしょう。

 中国共産党はソ連の崩壊後も独裁政権を維持し、批判的な諸々の勢力に徹底的な弾圧を加え続けています。アニワルさんは指摘しています。

 中国が初めて核実験をしたのは東京五輪の開会期間中。そして中国は核実験を繰り返し軍事力を世界に誇示しつつ、経済発展を遂げ、ついに五輪を開催できるまでになった。その影で実験のモルモットにされたウイグル人の生命、土地、資源が犠牲となってきた。
 中国は北京五輪開催を機に、国際社会に人権改善を約束したが、まったく守られていない。五輪後も、中国のウイグル人への人権弾圧は続くだろう。

 中国が共産党の独裁下にあり、批判するものに人権がない社会であることに気づかぬ振りをしている「友好人士」がこの社会には多すぎます。今、オリンピックを契機にやっと告発の声に直接接することが出来ました。
 今までなぜウィグルの核実験被害に無頓着だったかを私たち自身が自らに問い、事実を調べ、現実を明らかにして、苦しんでいる人々に手をさしのべる活動が求められます。

中国の核実験被害(2)中国政府の声明

2008-08-12 07:33:19 | 中国
11日(月)鳩山の農村公園の森を散歩したあと水くみ・入浴。夜は三河島の娘が送ってくれた毛ガニを堪能。近頃は築地で仕事をしている。就寝時に驟雨、涼しくなる。

 東京オリンピックには中国は参加していません。IOCの加盟が認められていなかったのです。国連の代表権も台湾に認められていた時代で米国とも、日本とも国交がなく、red china 中共などと呼ばれていました。インドネシアで開かれていた新興国スポーツ大会に力を入れています。結果としてインドネシア、北朝鮮も不参加となりました。
 アジアで最初の、しかも隣国の日本でのオリンピックの最中に核実験を行ったのです。中国政府にどんな政治的目的があったのでしょうか。
 改めて「政府声明」を読んでみました。長い文章ですが皆さんも声を出して読んでみてください。どう思われますか。 

 1964年10月16日・中国初の原爆実験に対する中国政府の声明

 中華人民共和国政府は1964年10月16日15時、一個の原子爆弾を爆発させ、第一回目の核実験を成功裡に行った。このことは中国人民が国防力を強化し、アメリカ帝国主義の核恐喝と核威嚇の政策に反対する闘争の中で勝ち取った大きな成果である。

 自国の防衛はいかなる主権国家にとっても剥奪することのできない権利である。世界平和の擁護は平和を愛するすべての国家の共同の責任である。日増しに増大するアメリカの核威嚇に直面して中国はじっと手を拱いていることはできない。中国が核実験を行い、核兵器を開発するのは、迫られて余儀なくするものである。

 中国政府は一貫して、核兵器の全面禁止、完全廃棄を主張してきた。もしこの主張が実現されていたなら、中国はもともと核兵器を開発する必要がない。しかし、我々のこの主張は、アメリカ帝国主義の頑固な抵抗を受けた。中国政府は早くから次のように指摘してきた。1963年7月、米、英、ソ三国がモスクワで調印した部分的核実験停止条約は、世界人民を愚弄する大ペテンである。この条約は三大核保有国の核独占の地位を固め、平和を愛するすべての国家の手足を縛ろうとするものである。この条約は、中国人民、全世界人民に対するアメリカ帝国主義の核威嚇を弱めないばかりか、かえってこれを強める、と。当時アメリカ政府は、なんら隠すことなく、この条約に調印することはアメリカが地下核実験をせず、核兵器を使用、製造、貯蔵、輸出、拡散しないことを意味するものでは決してない、と声明した。ここ一年あまりの事実も、このことを十分に証明している。

 この一年あまり、アメリカはすでに行ってきた核実験の基礎の上に立つ各種核兵器の製造を止めたことはなかった。アメリカはさらに完璧にしようとして、ここ一年あまりの間に何十回にもわたって地下核実験を行い、その生産する核兵器をいっそう完全なものにしてきている。アメリカ原子力潜水艦の日本「寄港」は、日本人民、中国人民、アジア各国人民に直接の脅威を与えている。アメリカはいわゆる多角核戦力を通じて、核兵器を西ドイツの報復主義者たちの手にまで拡散し、ドイツ民主共和国と東ヨーロッパの社会主義諸国の安全を脅かしている。アメリカの潜水艦は核弾頭をつけたポラリスミサイルを載せて、台湾海峡、バックボ湾、地中海、太平洋、インド洋、大西洋に出没し、至るところで平和愛好国家、すべての帝国主義、新旧植民地主義と闘う国々の人民を脅かしている。このような状況のもとで、アメリカが一時的に大気圏内核実験を行わないというみせかけの現象があるからといって、世界人民に対するアメリカの核恐喝と核威嚇がすでに存在しなくなったと考えることが、どうしてできるだろうか。

 周知のとおり、毛沢東同志には、原子爆弾は張り子の虎である、という名言がある。これまでも我々はそう考えて来たし、今でもやはり我々はそう考えている。中国が核兵器を開発するのは、核兵器の万能を信じて、核兵器を使用しようとしているからではない。まったくその反対に、中国が核兵器を開発しているのは、ほかでもなく、核大国の核独占を打ち破り、核兵器を消滅するためである。

 中国政府はマルクス・レーニン主義に忠実であり、プロレタリア国際主義に忠実である。我々は人民を信じている。戦争の勝敗を決定するものは人間であって、いかなる兵器でもない。中国の運命は中国人民によって決定され、世界の運命は世界各国人民によって決定されるのであって、核兵器によって決定されるのではない。中国が核兵器を開発しているのは防御のためであり、アメリカの引き起こす核戦争の脅威から中国人民を守るためである。

 中国政府は厳かに宣言する。中国はいかなる時、いかなる状況のもとでも、決して最初に核兵器を使用することはないであろう、と。

 中国人民は全世界のすべての被抑圧民族、被抑圧人民の解放闘争を断固として支持する。各国人民は、自分の闘争に頼り、相互に支援し合うことによって、必ず勝利を勝ち取ることができる、と我々は確信する。中国が核兵器をその手に握ったことは、現在闘争を行っている各国の革命的人民に対する大きな激励であり、世界平和を守る事業に対する巨大な貢献である。核兵器の問題について、中国は冒険主義の誤りを犯すこともなければ、また降伏主義の誤りを犯すこともないであろう。中国人民は信頼できる人民である。

 平和を愛好する国家と人民のすべての核実験の停止を求める善意の願望を、中国政府はよく理解している。しかしますます多くの国々が、アメリカ帝国主義とその一味の核兵器独占が強まれば強まるほど核戦争の危険が増大することを理解してきている。彼らがもし、あなたがたが持っていなければ、彼らはますます威張り散らす。彼らに反対する人々もまた持つようになってしまえば、彼らがそんなに威張り散らすことはなくなり、核恐喝、核威嚇の政策もそれほど効き目がなくなり、核兵器の全面禁止、完全廃棄の可能性が増大するであろう。我々は、核戦争が永久に発生することのないよう心から希望する。平和を愛好する全世界すべての国家と人民が共に努力し、闘争を堅持しさえすれば核戦争は防止することができる、と我々は確信する。

 中国政府は世界各国政府に対して丁重につぎのように提案する。世界各国首脳会談を開いて核兵器の全面禁止、完全廃棄の問題を討議する。各国首脳会議はその第一歩として、核兵器の保有国と極めて近い将来核兵器を保有する可能性のある国家が、核兵器を使用しないこと、つまり、核兵器を持たない国に対して核兵器を使用しないこと、非核武装地帯に対して核兵器を使用しないこと、そして相互の間での核兵器を使用しないことを保証する義務を負う、そのような協定に達するべきである、と。

 もしすでに大量の核兵器を保有している国家が核兵器を使用しないというこの点すら保証できないとしたら、核兵器をまだ保有していない国家に彼らの平和への誠意を信じて、可能なそして必要な防衛措置をとらないよう、どうして期待することができるだろうか。

 中国政府はこれまでと変わることなく、国際的な話し合いを通じて、核兵器を全面的に禁止し、完全に廃棄する崇高な目標の実現を促すためあらゆる努力をはらうものである。その日が来るまでは、中国政府と中国人民は国防を強化し、祖国を防衛し、世界平和を擁護するため確固として変わることなく自分の道をあゆむものである。

 我々は確信する。核兵器は人間が作ったものであり、人間が必ず核兵器を消滅することができる、と。

 出典 http://www.pyongyangology.com/index.php?option=com_content&task=view&id=262&Itemid=32

中国の核実験被害(1)ウィグル人医師の訴え

2008-08-11 10:16:40 | 中国
 昨日(10日・日)は曇り空で比較的涼しい一日でした。午後、自転車で川越狭山サイクリング道路を走り、荒川沿いの「三つ又沼ビオトーブ」(川島町)に行って来ました。真夏のこととて咲く花も見あたらず、木道を往復しただけです。あまり聞いたことのない小鳥の鳴き声がしきり。昨日なら市民団体の行事があり、教えてくれる人もいたようです。
 帰り道の田圃ではもう黄金色に近い稲穂の群れを見ました。副作用からの回復が順調であることに満足しながらペダルを踏みました。
 
 今朝は中国の新彊・ウィグル自治区でまた日本人記者が拘束されたというニュースがありました。読み終わると、次のような記事が目に付きました。中国の核実験に伴う被害の告発です。


  「中国核実験の被害を知って」 ウイグル人医師が日本で訴え
               2008.8.10 20:13  産経
 広島市で行われた原爆死没者慰霊式・平和祈念式に参列するため来日した中国・新疆ウイグル自治区出身の外科医で、世界ウイグル会議英国代表のアニワル・トフティ氏が都内で産経新聞と会見し、核実験で汚染された同自治区の実態を語るとともに、中国での五輪開催に抗議した。




 中国は1964年以来、私たちの土地で46回にわたり核実験をしてきたが、この事実はまだまだ知られていない。区都ウルムチの病院の腫瘍(しゅよう)専門外科勤務だった私は、病床に占めるウイグル人の割合が極めて大きいことに気付いた。調査すると、ウイグル人の悪性腫瘍発生率は、中国の他の地域の漢人と比べ、35%も高かった。漢人でも、新疆ウイグル自治区に30年以上住んでいる人は、発生率がウイグル人と同程度に高かった。

 英国のテレビ局のドキュメンタリー番組に協力し、取材で潜入した所では、放射能汚染の影響とみられる数々の悲惨な光景を目の当たりにした。

 南新疆では、内臓異常で腹やのどなどが肥大化した人が大勢いる村があった。先天性異常の大脳未発達で、歩くことも話すこともできない障害児ばかりが生まれる村もあった。山で木を切って調べたところ、広島に投下された原爆の300倍もの放射性の反応が出たこともあった。

 だが中国は核実験による放射能汚染や後遺症の存在を認めていない。海外の医療団体の調査立ち入りも認められず、すべてが隠蔽(いんぺい)されている。

 初めて日本を訪れた理由は2つ。原爆の悲惨さを世界で一番よく理解している日本の方々に、核被害で苦しんでいるのが、日本人だけでないことを知ってほしかった。

 もう一つは北京五輪の開催への一種の抗議だ。中国が初めて核実験をしたのは東京五輪の開会期間中。そして中国は核実験を繰り返し軍事力を世界に誇示しつつ、経済発展を遂げ、ついに五輪を開催できるまでになった。その影で実験のモルモットにされたウイグル人の生命、土地、資源が犠牲となってきた。

 中国は北京五輪開催を機に、国際社会に人権改善を約束したが、まったく守られていない。五輪後も、中国のウイグル人への人権弾圧は続くだろう。

 日本には毅然(きぜん)として中国に対峙(たいじ)してほしい。日本が弱腰になれば、中国は増長する。アジア太平洋地域で私が待ち望んでいるのは、力強い日本であって、強大で独裁的な中国ではない。

 アニワル・トフティ 1963年、新疆ウイグル自治区東部のコルム生まれ。区都ウルムチなどで病院に勤務し、98年に同自治区での核実験の影響を告発した英国テレビ局のドキュメンタリー番組の取材に参加し、99年に英国に政治亡命。世界ウイグル会議英国全権代表を務める。


 中国の核実験が最初に行われたのは1964年の東京オリンピックの期間中だったといいます。岩波・近代日本総合年表を開いてみました。

 10・16 中国、最初の核実験に成功。
    17 官房長官鈴木善幸、中国の核実験に抗議する談話を発表、社会・民社・公明・総評も抗議声明。共産党書記長宮本顕治、実験はやむをえない自衛手段との見解を表明。

 ここまできてやっと思い出しました。東京オリンピック(64・10・10~)の最中にぼくは全日本学生新聞連盟の京都大会に参加を要請する使命を帯びて九州各地の大学新聞を歴訪中だったのです。当時のアルバムを開いてみました。

 16日 岡山大学訪問後反原潜デモ。功君宅泊
 17日 北九州大訪問  佐賀大学寮泊
 18日 佐賀大訪問  16時21分 長崎着(急行・出島)爆心地を訪れ、長     崎大学寮泊

 「中国が初の核実験」 夕闇迫る頃、26聖人殉教地から爆心地公園、浦上天主堂、平和祈念公園を訪ねた。道案内をしてくれた中年の婦人に中国の核実験のことは何も聞かなかった。
  
 15日のフルシチョフ首相解任(ソ連)と共にこの旅はショックの連続だったとも書かれています。
 
 それにしてはしっかりと忘れていたものです。44年前のことです。ウィグルの人々の苦難は少なくともここからはじまっていたのです。実験は46回に及んだといいます。いつまで続いたのでしょうか。
 イギリスのTV局がドキュメント番組をつくったそうですが、日本では放映されたのでしょうか。ぼくは何も知りません。知ろうとする努力をしなかったのです。
                  (続く)