異常低温に体がついていけないため、昨日(24日)は一日中寝ていました。こういう日は呼吸が少し苦しくなります。今日、午後癌研有明病院に再入院、5回目の抗ガン剤治療を受けます。順調にいけば週末には退院できるはずです。それまでしばらく「川越だより」はお休みです。
北京オリンピックが終わりました。開会式の「口ぱく少女事件」がこの大会を象徴しているように思います。ひとりひとりの人間をまるで機械か、道具としか見ない、権力者の人間観が透いて見えてくる演出です。中国では「普通のこと」らしいが、「声」と「姿」を別々に供出させられた二人の少女の心がどれだけ傷つき歪められたことだろうかと思いやられます。まさに、人間の精神に対する暴力としか思えません。あのような人間の尊厳を冒涜する行為に対し、国際オリンピック委員会を始め、大会関係者が目立った抗議をすることもなかったようです。彼らもまた同じような人間観の持ち主なのでしょう。いまもって大会参加選手からも観客からも抗議の声は届きません。
駐北京アメリカ大使がオリンピック期間中に逮捕、拘留されたままの8人の同国人の釈放を求めたということです。「フリー・チベット」という横断幕をどこかに掲げようとした米国人がこの始末です。なんの後ろ盾も持たない中国の人々がどんな目に遭わされているか、想像力というものがあるひとにはわかります。
IOCの会長は「デモ公認公園」でのデモが一件も認められなかったことに遺憾の意を表したとのことですがこれも茶番です。本当に世界の人に訴えたい人が、あとで弾圧を受けることがわかっているデモ申請をするものでしょうか。軍警民一体となった弾圧体制によって中国全土で人々の口は封じ込められていると考えられます。
こんなニュースがあります。真偽のほどがきちんと伝えられることを願います。
「チベットで中国軍発砲、140人死亡か」ダライ・ラマ発言
出典
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080821-OYT1T00722.htm
一党独裁国家の独裁者たちが国策としてやりたい通りのオリンピックをやりました。IOCや世界中の国家や報道機関がこれに協力しました。このツケはどのように廻ってくるのでしょうか。
23日が金門島砲撃から50年に当たり、24日台湾政府主催の式典が金門島で行われたそうです。中国大陸の目の前に浮かぶ小島ですが国共内戦以来ずうっと台湾政府の管轄下にあります。中国軍の砲撃はぼくが高校生の時のことで、今回、鳥居民という方の評論を読んで、そういうことだったのかとはじめて理解したところです。
一党独裁下の共産党の指導者の人間観は昔(毛沢東)も今も変わらないようです。人々は自分の理想や国策達成のための機械か道具です。民主主義と人権の確立を目指して闘う人々の声に耳を澄まし、恥じることのない生き方をしたいものです。
「産経」は読まないという方がおられるようです。「川越だより」に転載しますので目を通してみてください。そして、いろいろ教えてください。
このブログに書いたように「大躍進」や「人民公社」についてさえ、ぼくの勉強ははじまったばかりです。何が真実だったのか究明することはやさしいことではありません。今もその独裁権力が続いているからなおさらのことです。ぼくの学びの過程で書いたブログを4つ再掲します。暇を見て読んでみてください。
◎ 「 三年自然災害」という人災
http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20080122
◎ 恐ろしいこと
http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20080123
◎ 共産主義・人民公社(1)
http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20080316
◎ (2)
http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20080322
金門砲撃50年と北京首脳の狙い 鳥居民(「産経」・8月21日)
≪大躍進さなかの大騒ぎ≫
8月23日の午後6時半、金門島を囲む大陸沿岸に据えられた500門の大砲が一斉に火を噴いた。1958年のことだ。その夕刻から8月の末まで、中国は金門の10万の将兵を兵糧攻めにするのか、上陸作戦に打って出るのか、アメリカはどう対応するのかと全世界はかたずを呑んで見守ることになった。
同時に中国側は脅迫と挑発の戦いもつづけた。だが、砲撃はやがて1日おきとなり、散発となり、いつかやんだ。
その砲撃開始の日から50年になる。中国専門家はその砲撃戦を説明して、毛沢東は金門を奪取するつもりだったのだが、それに失敗したのだと説いてきている。
ところで、1958年の中国は、金門砲撃の騒ぎとはべつに、大変な年だった。とてつもない年だったと言うべきだろう。
毛は大躍進を号令した。省党書記はこぞって大豊作を報告し、その年の末には食糧と綿花は前年生産量の倍となった。鋼塊は増産目標の達成数字を何回も訂正して、年末にはこれまた前年の生産量の倍となった。
大躍進の激動のさなか、さらに毛は全国の党書記に命じて、人民公社を創設させた。この共同体のなかに、農、工、商、学、兵のすべてを一体化させてしまうのだと毛は説き、軍事組織をそのまま労働組織にするのだと主張し、16歳から50歳までの男女を集め、民兵隊をつくらせた。
≪「まことにおもしろい」≫
そこで毛沢東がやらせた金門砲撃が、かれが同じときに命じた大躍進と人民公社の建設と繋(つな)がりがあったにちがいないとだれもが考えよう。
だが、その証拠がないことから、はじめに記したとおり、毛は金門を奪取しようとして、それに失敗したのだと語るだけのことになっている。
なぜ砲撃したのか、じつは毛本人が明らかにしている。
15年前、1993年12月26日は毛沢東生誕100周年だった。その2日前の「人民日報」に金門の戦いを指揮した葉飛(ようひ)という高級軍人の回想が掲載されている。
そのなかで毛沢東が部下の国防部長、彭徳懐と中央軍事委員会秘書長の黄克誠に宛てた手紙を載せている。つぎのような内容である。「徳懐、克誠同志、眠れないままに考えてみた。金門を砲撃する。しばらくして適当なときに撃つのをやめて様子を探る」という書き出しだ。
「…しばらくのあいだ砲撃しないで、時機を見て、また砲撃する。もしも相手が●州、汕頭(スワトウ)、福州、杭州などを攻撃してくればまことに面白い。こういう考えを君たちはどう思うか」
毛はこの前年から金門攻撃のための兵站(へいたん)用の鉄道を敷かせ、金門島をぐるりと包囲する沿岸に大砲陣地をつくらせていた。そしていよいよ砲撃開始の直前になって、毛は彭徳懐、黄克誠に自分の考えを明かしたのである。
≪毛と江の本当の思惑は≫
金門を砲撃する。アメリカ側がそれに対抗して、汕頭、福州、杭州を砲撃してきたら、「まことに面白い」と毛は自分の本心を明かした。
毛のロマンチックな地上の楽園の建設は、かれが頭脳の平衡を失い、不可能な夢を追っていただけのことであったといまになれば、研究者も、伝記作家も遠慮会釈なくこきおろしている。
だが、毛はそのときも抜け目なく計算していた。大衆が本当は嫌っていること、望んでいないことをやらせるためには、かれらをどのような状況に置いたらよいのかを承知していた。
福州が砲撃された、杭州が砲撃された、アメリカ軍が攻めてくる、蒋介石を助け、地主のために土地を奪い返しにやって来ると国内向けに大々的に宣伝する。われわれの土地を守り抜くのだと「全民武装」を説き、編成した民兵隊を人民公社の大黒柱にする。
毛沢東の金門攻撃はこんな狙いを隠していた。あとになって口惜しがり、アイゼンハワーの肝っ玉がもう少し大きければ、杭州や福州を砲撃させることになって、大躍進と人民公社はあんな結末とはならなかったのにと毛は負け惜しみを言ったのであろうか。
つまらぬ蛇足を加えた。もうひとつ蛇足を記そう。前に本欄で述べたことの繰り返しになる。1996年3月、台湾の総統選挙戦のさなか、江沢民が台湾の基隆と高雄の沖合にミサイルを着弾させたことがある。李登輝を落選させようとしたのだとだれもが解釈した。台湾に戒厳令を復活させ、総統選挙を断念させようとしたのが、江沢民の本当の狙いだった。独裁国民党の李登輝が総統をつづけて一向に構わなかった。
民主的な国が隣に誕生することが、北京の指導者は恐ろしかった。いまもそれは同じだ。(とりい たみ=評論家)
●=さんずいに章