2013年9月6日午後11時14分、鈴木啓介は肺癌のため永眠いたしました。72歳でした。
このブログの記事にもございますとおり、癌による呼吸困難のために8月31日に川越・赤心堂病院に入院し、呼吸改善のための処置を受けておりました。しかしながら日を追うごとに状況は悪化し、9月4日には苦痛軽減のためのモルヒネ投与が始まりました。
いったんは9月5日に癌研有明病院への転院が予定されたのですが、移送中の危険が大きすぎるとの判断で、断念せざるを得ませんでした。
9月5日午後には妻倫子、娘陽子、息子紹平を前に2時間ほどの「最後の授業」を行いましたが、夜には呼吸困難に睡眠時無呼吸が加わり、いっそう苦しい時間をすごしました。
6日未明から何度か「おしまい」という一言を笑顔で繰り返しておりましたが、朝には意識がはっきりとして、午前8時半ごろ「今日が僕の最期の日かもしれない。もしそうなら教えてね」と言っておりました。
午前10時半ごろから眠りにつき、その後は無呼吸状態も無く、連続した睡眠をとることができていたと思います。時折目を覚まして笑みを浮かべたり、主治医の山内先生に御礼を言いたげな様子も見せてはいましたが、結局その後は会話を交わすことが無いまま、最後は静かに息を引き取りました。
本人の強い希望により、通夜・告別式等葬儀は一切執り行わず、近親者のみで9月9日に荼毘に付しました。斎場の係員の方に「めったに出会わないほど立派なお骨です」と褒めていただくほど、骨量が多く喉仏や頭蓋骨もしっかりと形をとどめた遺骨でした。
現在は自宅にて安置しておりますが、後日これも本人の希望通り、故郷の室戸岬にございます墓所に埋葬する予定でおります。
遺言により、香典・供物・供花等につきましてはご辞退申し上げます。大変失礼なことではございますが、生前の啓介をご存知の皆様には、ご理解いただけるものと思います。どうかご容赦ください。
なおブログ「川越だより」はこのまま皆様に閲覧していただける状態を保つ予定でおります。たまにアクセスしていただき、啓介の面影を偲んでいただければ幸いです。
最後になりますが、啓介が生前にいただきましたご厚情に深く感謝申し上げます。
2013年9月10日 遺族一同
先生に教えていただいた事は、私の宝物です。
文化祭の時にお嬢さんのチョゴリを着せて頂いたのはとても楽しい思い出です。
川越だよりをたまたま見つけてからは、昔と変わらぬ先生の信念に触れ合う事で、昔を懐かしんでいました。
心よりご冥福をお祈りします。
先生、素敵な授業ありがとうございました。
12年ほど前の生徒です。
本当にいろいろとお世話になりました。
先生の生き方やお人柄に学ぶところが多く、その後の自分自身の考え方にも影響を受けました。
私も教員になりましたが、先生のようにあたたかい心で生徒と接していきたいなと、思います。
ご冥福をお祈りいたします。
ありがとうございました。
長い闘病生活のご様子は折々に「川越だより」で拝見しておりましたが、このところすっかりご無沙汰しており今回の入院についても見過ごしておりました。
啓介さんには1964年夏の原水禁大会取材後の室津のご実家訪問、66年夏の大島高校赴任時の訪問、また坊城俊民先生のことなど、半世紀にわたり様々な局面でいろいろとお世話になり、思い出はつきません。
志を貫き通した骨太の生き方にあらためて敬意を表し、ご冥福をお祈りいたします。
思えば46年前からの長きに亘り担任の先生でした。近年は特別、沢山、沢山の元気と生き方を教えていただきました。先生のブログで毎日授業を受けているようでした。一週間更新がされなかったので心配でしたがきっと再開されると・・・。
どうぞ安らかに、心よりご冥福をお祈りいたします。
思い起こせば、鈴木さんとは6年ほど前から、ブログを通じての交流でした。朴保さんのコンサートが室戸市であるとお知らせいただき、駆けつけて聞いたものでした。
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_a84f.html
2度ほど私の自宅へも来ていただきました。1度は川越へも行かないといけないと思っていた矢先の訃報でした。
社会的弱者への思いやり。強い反権力の意志。鈴木啓介さんの意志を少しでも引き継ぎたいと思います。
世の中変な方向へ行こうとしています。鈴木啓介さんは心底心配していました。日本を変な方向へ行かさないように、残されたわたしたちは頑張ります。ご安心ください。
心よりご冥福を申し上げます。
ご家族の皆様の心中お察しいたします。
5月の 浜離宮庭園 芳梅亭でのお話が
私にとっての 最後の授業になってしまいました。
「次は 何処に行こうか」
「何年後かには 皆で高知へ行こう」と仰っていて、
本当に 実現できるのではないかと思うほど
足取りも軽く歩いてらっしゃったのに、
とても残念です。
四十九日が明け、ご家族の皆様が落ち着かれた頃に
また 皆で川越を訪問させていただきます。
その時はまた 素敵な笑顔を見せて頂けるよう、
奥様もお体大事に お過ごしください。
万葉の歌 (有間皇子)
岩代の 浜松が枝を 引き結び
真幸くあれば また還り見む
挽歌 如夢令
『悼念啓介先生』
樹莓文化交流 師尊鈴木主導
奉仕為大衆 授業闘病辛労
鞠躬 尽瘁
精神万古長青
2013.09.11 林祖銘 山野文雄 敬挽
先生との出会いは、私達が多感な高校生の時に遡ります。大学を卒業され、新任の教師として着任された時です。ある程度閉鎖的であったな島の中で、年齢も近く若い先生の赴任は刺激的に満ちていました。革新的な考え方、社会的弱者への眼差し、太平洋戦争への向きあい方など、授業以外の触れ合いの中で、多くの影響を受けた者も少なくありません。私自身も進路問題で悩んでいた時期、建学二年目の和光大学を進めてくれました。教育大の恩師、梅根先生が学長をされていて、民間の教育運動の成果を取り入れた、新しい大学だと言う事でした。
当時の大学は何処も、大学紛争前夜で、活気に満ち溢れていました。私も学生自治会の執行委員長をやったり、あの東大紛争では、都学連の幹部として、積極的に関わっていました。これも先生から受けた影響だと思っています。
私達の還暦を過ぎ、60代半ばに差し掛かり、自分の人生を振り返る年齢になってきました。「何をなしたか」よりも、「どんな生き方をしたのか」が大切だと思います。先生のブログ「川越だより」を拝見していますと、交流の多彩さ、友人の多さ、原発問題などの今日的課題など、今もなお向き会っているお姿に、先生の生き方に、感銘を受けてまいりました。
たいへんだった癌との闘病も明るく対峙されて、多いに励まされていました。
今はただ、安らかなお休み下さいとの思いでいっぱいです。
いつもわたくしたち18期生の同窓会にご出席くださりありがとうございました。来年の同窓会は先生のお姿はありませんが、先生の思い出話に花を咲かせます。奥様も大きな病気をされました。お体大切になさって、先生の分まで長生きされて下さい。合掌
都立大島高校第18期生
代表 竹中秀紀
浜離宮でお会いしたときも ゆらゆらと 高校時代の先生のままで。
自分の人生の中において 有り得ないと思える出逢いもさせていただきました。
授業 まだ 受けたかったと思います。
今はまだ、きちんと言葉にできません。
ただ ありがとうございましたとだけ言わせて下さい。