川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

湾岸生活(3)

2008-04-30 13:06:10 | 父・家族・自分
僕は今、抗生物質の点滴を受けているところです。
 抗ガン剤の投与から11日目の月曜日の夕方、突如発熱し、このような始末となりました。この時期は白血球がもっとも減少し、細菌感染のおそれがあるのです。がたがた震えのようなものがあったりしていささか不安におそわれたりしましたが、それは短い時間でした。暖めて貰ったり、抗生物質の点滴を受けたりして夜半からは平安を回復しました。
 その後発熱はなく白血球も少しずつ回復していますが、日に2回の点滴はしばらく続きます。これで今週末の退院はなく来週になりそうです。抗ガン剤は血液成分を破壊してしまう副作用があります。今回はとくに白血球がやられ、抗菌力が著しく低下したのです。
 
 発熱の日、旧友のT君から見舞いのハガキを貰いました。久しぶりに『川越だより』を見て、びっくりされたそうです。昨年11月、N君夫妻と5人で高知の得月楼で宴を張った際、ブログの話もしたのです。
 1960年10月12日、浅沼稲次郎社会党委員長暗殺の日、その衝撃に耐えられなかった僕は伯父の家を出て大岡山のT君の下宿で遅くまで世話になりました。月の明るい夜でしたが、兄が心配して大井町の駅まで迎えに来てくれていました。深夜、あれこれと懐かしく思い出されて心が温まります。T君はピンチの時に助けてくれた友人なのです。
 山吹高校のMさんからの手紙もこの日妻が届けてくれました。『わたしは家であいさつをしません』で紹介した人です。

http://blog.goo.ne.jp/admin.php?fid=editentry&eid=88fa6592699335298f0d58b17f7dd1ba

 短い文章の中に「現代社会の授業は、今でも私の心の中に残っています」とあり、僕を喜ばせてくれます。人生の危機の時代、青春期を生きる人を励ますのが僕の仕事です。ちょっとでも役立てたら、こんなうれしいことはありません。「抗ガン剤治療頑張ってください」。「よし、頑張るぞ」と心の中でいってみます。

議会制民主主義

2008-04-28 14:16:59 | 政治・社会
山口県選挙管理委員会
     衆議院山口県第2区選出議員補欠選挙
                 【平成20年4月27日】

   開票状況  回示7回目 平成20年4月27日 23:25現在


第二区  定数:1
団体名    山本 しげたろう    平岡 秀夫      計
下松市        12,735     16,129      28,864 確定
岩国市        34,678     47,817      82,495 確定
光市         12,968     18,050      31,018 確定
柳井市        11,218     10,601      21,819 確定
周南第二        3,991     4,863       8,854 確定

周防大島町      7,444      6,390      13,834 確定

和木町        1,314      1,892       3,206 確定

上関町         1,669     1,052       2,721 確定
田布施町        4,582     5,265       9,847 確定
平生町         3,805     4,289       8,094 確定

第二区計       94,404    116,348      210,752 確定


 衆議院議員補欠選挙で民主党の平岡さん(社民党推薦)が当選、与党候補は惨敗しました。「年金・老人医療」「ガソリン暫定税率」と争点もはっきりしていましたから、有権者の判断が明確になりました。暫定税率の復活(増税)はno!、後期高齢者医療制度は再検討、です。
 この地域は昨年夏、旅したばかりです。周防大島と上関(かみのせき)はゆっくりと過ごしたところで、行きずりの出会いもありました。そこで自治体別の得票を調べてみました。

 周防の旅             http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20070911
 先の市長選挙では与党の候補を選んだ岩国の市民が今度ははっきりと野党を支持しました。「米空軍機の移駐」には「やむを得ない」という判断をした人たちが今回は野党の主張を支持したと判断する他はありません。
 僕の印象に深い二つの町だけが自公の候補を勝たせました。過疎化、高齢化が一番進んでいると考えられる地域です。「高齢者の乱」などと書いた新聞もありますがどうとらえたらいいのでしょうか?周防大島から橋を渡って沖神室(おきかむろ)の島に行ってお年寄り達の話を聞いてみたいものです。

 さて、選挙こそ間接民主主義の根幹です。自民党が長く政権を維持してきたのは選挙に勝ってきたからです。前回の参議院選挙、今回の衆議院補選は野党の勝ちです。自民党に対抗する政権交代可能な野党がようやく登場したのです。野党の主張を受け入れるか、衆議院を解散するか、どちらかであることは明確です。
 そのどちらも無視して、衆議院での再議決をやると宣言する与党は今や民主主義の敵です。「郵政民営化」選挙で与党が3分の2の議席を得たことは事実ですが、補選とはいえ、民意が選挙ではっきりと示されている課題に、再議決などあり得ません。
 最高裁の判断まで無視するプリンスホテルと同じように法秩序を破壊するものです。人民の抵抗権の発動によってこれを阻止する他はありません。

 昨日は杜君夫妻、Sさんの3人が自転車で見舞いに来てくれました。今日の血液検査では予想されたことではありますが、白血球が更に下がっており、今週末あたりまで入院して健康管理を受けることになります。

 

千年の森構想はいま

2008-04-27 06:16:26 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)
土曜日は支援相談員の受験者から合格の知らせが続き嬉しい一日でした。お陰で僕の足先の冷えも改善され、ブログ書きが出来ます。


 以下はカツヨシさんがコメント欄に書いてくれた文章です。

 けいすけさんオススメ(?)の「湾岸の落日風景」を眺めながら帰途につきました。ゆりかもめから見る真っ赤な太陽、林立する高層ビル群、低く力なく波打つ海。気恥ずかしい表現になりますが、僕らが子どものころ思い描いていた「未来都市」がそこに広がっていました。けれど、その「未来都市」の光景も、山々のまばゆいばかりの新緑の命あふれる情景には及ばない、と「大自然」教の一教徒としては思ったものでした。


 湾岸生活も1週間が過ぎました。僕の病室からは遠くに若洲海浜公園の発電用の風車が見えます。手前には海面が広がっていますがそのほとんどがコンクリートで囲まれた貯木場です。湾岸とはいっても海とも港ともいえない構造物の固まりばかりが目立ちます。命の息づかいはどこにも感じられず、励ましを受けることはありません。
 
 だいぶ昔のことになりましたが、千年の森構想というのがあったことを思いだして検索してみました。
  
   千年の森づくり構想
 明治維新以来、日本人の暮らしは、西洋近代化の波が押し寄せるなかで、大きな変化を強いられてきました。

  近代工業化、そして戦後の高度経済成長は、世界有数の経済大国を築き上げた一方で、それまで何千年来と大切に育て、受け継いできた、誇るべき身近な自然や文化を犠牲にし、瀕死の状態に陥れてしまいました。

  このような過去の歴史を教訓に、森づくりを通して伝統的な自然観や自然生態系を回復させ、世界の人々の範となるような日本人の心を取り戻していきたいと考えています。
 かつての東京-江戸-は、当時世界で最大の人口を抱えながらも、豊かな自然、高度な文明と文化によって、今日でいう循環型社会を形成していました。しかし、現在、巨大都市東京はその自然環境の豊かさを失い、そこに住む人々の心まで荒廃してきています。共生の心が失われた結果、人間のエゴがはびこって対立的な社会になっています。東京湾のゴミの埋立地はその象徴です。

 私たちはこのゴミの島に、自然生態系を取り戻すための本格的な森づくりをし、その活動を通して人々の心をも回復してゆきたいと考えています。

 この事業は単に緑を増やすというものではなく、森の持つ自然の力を最大限に生かしながら、破壊した環境を百年、千年というスパンで修復し、持続可能な地域循環型の社会モデルを提示しようというものです。この事業の実現には、計画段階から、行政・市民・企業のみなさんの積極的な参加や協力を欠くことはできません。

 この文章の出典
http://members.at.infoseek.co.jp/milforest/011026/sennenHP/pege02.htm

 

 大自然教の信徒になり始めの頃かで、哲学のある構想と期待する気持ちがありました。その候補地であるゴミの島が右手後方の国際展示場の屋根の向こうに見えます。クレーンのようなものが見えますがこの構想はどうなったかを調べてみました。東京都の施策で「海の森」として整備されるようです。

 海の森構想
http://www.kouwan.metro.tokyo.jp/jigyo/uminomori/index.html


 調べていくと都立の大きめの公園が島の一角に新たに作られるだけで、千年の森構想とは似て非なるもののように思えます。僕としては少なくともこの島全体を照葉樹などの森として東京圏の生態系に多少でも影響を与える構想をイメージしていたのです。将来は鳥獣も住める森、栄養豊かな水を生み出す魚付きの森。そんな夢を目指して老幼助け合って森づくりに励むのです。砂漠よりもひどい足尾の山肌に
みどりを育てる取り組みが進められています。ゴミの島がたとえ毒の島であっても何百年かかけて蓬莱の島に変えられないとはいえないはずです。
 東京都港湾局の構想について市民の間でどんな意見が出ているのか知りたいのですが、発見出来ません。みなさんはどう思われますか。
 この病院の反対側の窓からは高層ビルの屏風が望まれます。石原さんの時代になってそれはいっそう豪華になったようです。海辺で育った僕の素朴な考えによればこれは東京圏の炎熱地獄を加速させ、遠くない将来に東京を廃虚とする謀略です。海辺に広大な森を作り、少しでも清浄になった空気を海風に載せて内陸に運んで貰う。そんなことを考えていたのです。高層ビルの屏風はこれを不可能にしてしまいます。
 海の森公園は灼熱地獄から車で脱出して涼みに来るところのようですが、こことて風の通らない熱帯であることを免れないでしょう。僕の住む川越あたりは昨年40度近い気温に苦しめられました。東京の炎熱が北上してきたのではないかと思います。抗ガン剤治療で疲れた体には耐えられそうもありません。避難地をさがさなければなりません。

 石原さんは大きなことを決断できる人ではなかったのですか。どうも方向がまちがっているようですぞ。 

中国民衆の声に耳を澄ませる  聖火リレーに思う

2008-04-26 13:16:31 | 中国
昨日、白血球が大幅に減少していることが解りました。感染症を警戒して、口腔を清潔にすることなどの注意が必要です。
 夕方、妻が知友に貰った野草やふきの煮物をつくってもってきてくれました。買ってきてくれたサバ寿司などと一緒においしくいただきました。食後に忠幸さん。
お孫さんへのみやげだという「おゆまる」という粘土細工の材料をひとつおいていってくれました。2年余り前の入院の時にはアイルランドの音楽をたくさん録音して届けてくれました。これは今も僕の就寝時の慰めになっています。さて、この粘土細工は?
 真夜中に背中などがかゆくなって目を覚まし、看護士さんの世話になりました。これも一種の副作用なのでしょうか。眠れなくなってパソコンを開いてみたところうれしいニュース。

 こんばんわ。
都庁のほうから手紙があって、先生のお陰で相談員は候補者として選ばれました
のでおしらせいたします。正式なことは、又後日にお知らせをするだそうです。
今後、帰国者ニ世として、多くの残留帰国邦人たちの為にお役に立つことができ
て、本当に嬉しく思います。まだ、未熟な面は沢山ありますが、勉強しながら、
一生懸命に頑張って行きたいので応援をしてください。


 Tさんが東京都の中国残留孤児支援・相談員に合格(候補)。いつになっても発表されないのでこのところずうっと気にしていたのです。Tさんのお父さんなどが渾身のがんばりで裁判闘争に立ち上がり、勝ち得た成果の一つなのです。そのことを肝に銘じ、力を磨いてほしいものです。他の受験者からもいずれ連絡があるはずです。二人の元生徒は働き初めてそろそろ一ヶ月。残留孤児2世の活躍の舞台がようやく出来つつあります。

 今日は朝から、長野での聖火リレーのニュース。世界の各地で留学生を動員して五星紅旗を振らせる中国の指導者達の感覚は僕には理解不能。他人が自分のやっていることをどう見るか、という視点がこの人達にはないのでしょうか。
 中国共産党独裁政権に苦しめられているのはチベットやウイグルだけではありません。膨大な中国農民を収奪して私腹を肥やすばかりか、北朝鮮難民をとらえては金正日に引き渡しています。「人権」はどこにも存在しないのです。日本の政府もマスコミもそして政党までが知らぬ顔を決め込んでいます。彼らと友人であることが目先の利益になると思っているからです。
 国威発揚(共産党の支配する中国こそ世界一)のためのオリンピックは中国の独裁政権の凶暴さを世界に暴く絶好の機会になりつつあります。私たちも耳を澄まし、目を凝らして、隣人達のアピールを受け止めなければなりません。

袋だたきに会う在米留学生http://jp.epojp/2008/04/html/d92467.html
chtimes.com/

湾岸生活(2)

2008-04-23 18:00:29 | 父・家族・自分
20日(日)
 副作用出始める。緩やかな症状で苦痛はないが一日中横臥。妻と夕食。

21日(月)
 午後、若い娘さんが現れたので誰だろうかと少しとまどった。よく見れば顔色のよい順子(すんじゃ)。高一で出会って31年が過ぎたという。夏の日にサンダル履きで錦糸町の家庭訪問をしたのがありありと思い出される。
 ある時から僕は父のいないこの人のパパということになった。病気入院中のお母さんには申し訳ないことだが、僕もいいよということで可成りの年月が経つ。ただ存在するだけで、親らしいことは何もしてやれないが大切な娘である。苦労の続く人生をへこたれることなく生き抜いている。近頃は築地でも働いていて、様子を見に来てくれた。
 5月17日には僕には孫に当たる美順(みすん)の結婚式。既にひ孫も生まれている。みんなの喜びの日に僕も存在する喜びをわかちあいたい。


22日(火)
 勝義さん。久しぶりに元気な顔を見せていただいた。喉の手術も成功し、昔の声が蘇った。生まれと育ちは違うが、僕とほとんど同じ途を歩いてきた。今は週4日、工業高校で日本語を教える。今日は朝から3時間授業をしてこられた。インド、中国、フィリピンから来た生徒達。朝早くから出かけて、相変わらず、職人的完璧を期す授業を行っているのであろう。定年で解放感に浸って、遊んでばかりいた僕とは大違いである。
 お見舞いに大相撲48手を描いた手ぬぐいをいただいた。僕は相撲は好きだが、こどもの時からまわしを締めたことはなく、技もよくは解らないままに、実況のまねごとをしたりする。小学校の時、朝の教室で治雄君がよく相撲を教えてくれた。土俵に上がる機会が一度もなかったことは今となっては残念な気がする。八代という町で子どもたちが大人の指導を受けながら、土俵に上がる風景を見たことがある。いいなーと思って立ち去れなかった。小学生が相撲を取れる環境を整えたらどうだろうか。なにか、大切なものが得られるような気がする。妻と夕食。食欲なし。

23日(水)
 同室のHさんは僕と同じ治療。一日先行。もうスッカリげんき。僕はまだすっきりとは行かない。一日横臥。でも、夕方になってパソコンに向かう元気が出た。

湾岸生活

2008-04-19 19:24:28 | 父・家族・自分
 17日(木)11時入院。ガン研有明病院856病室。この2年間のうちに看護士さんもほとんどかわっており、ちょっと淋しい。血液検査に異常なく明日から治療開始。『銅山の町・足尾を歩く』(村上安正・随想舎)をよむ。

 18日(金)朝早く旧友中川医師(院長)が見舞ってくれる。手術の時、ここに研修に来ていた文(むん)医師も来てくれる。4月から呼吸器外科のスタッフになった。
 この病院では毎朝8時から会議があるという。職員がそろうためにはここしかないという。終日抗ガン剤などの点滴。
『田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』(布川了・随想舎)を読む。

 19日(土)1・3・5土曜日は開院。『満鉄中央試験所』(杉田望・講談社)に目を通す。
 午後、娘が見舞いがてら来てパソコンがやれるようにしてくれる。
 今日は脱北帰国者支援機構の主催する日本人妻救援の講演会がある。代表の坂中英徳さんと交信して欠席をわび、歴史的な闘いの意義を語り合う。坂中さんは明朝
10時、TV朝日の報道番組にでて、1000万人を受け入れる移民政策について提言する。
 70年代から法務官僚として、外国人政策の立案と実行にかかわってきた方だが、いま一市民として誠実に多文化共生社会を到来させるために尽力されている。
僕はこういう人がいることを日本のために喜ぶ。

しばらくお休みです?

2008-04-17 07:32:03 | 父・家族・自分
 足尾・渡瀬遊水池などの下見をして昨夕、帰ってきました。宿泊したサンレイク草木やわたらせ渓谷鉄道の神戸(ごうど)駅周辺のサクラ・桃などはまるで桃源郷にいるようでした。忠幸さんが同行してくれたお陰で、充実した楽しい旅になりました。これで忠幸さんが中国語の旅の案内を思うように作ってくれ、中国から来たひとびとに足尾と田中正造たちの闘い、そして足尾の生態系恢復に努めるひとびとのことを体感してもらう移動教室が出来ることでしょう。
 帰ったら、本日午前中に入院することが通知されていました。僕としては来週と思っていたので、少々腹づもりと違いますがやむを得ません。忠幸さんと楽しんだ足尾の旅を手みやげにしばらく東京湾の岸辺で過ごすことにします。
 癌研究会有明病院呼吸内科病棟で、抗ガン剤治療のため3週間程度の入院予定です。この4月から、中高の同級生の中川健先生(呼吸外科)がこの病院の院長になりました。ぼくの元主治医です。また文京高校で僕にとっては最後のHR担任したKさんが一階上の病棟で看護士をしています。入院は残念なことですが、ここでも友人達に世話になり、安心して治療を受けられます。ありがたいことです。

 癌研究会有明病院http://www.jfcr.or.jp/hospital/
 中川健 http://health.yahoo.co.jp/katei/writer/detail.html?cd=0237 



 5月17日には孫の美順の結婚式、25日にはきいちご移動教室で足尾方面に行く予定です。これらのことを楽しみに副作用をやり過ごしたいと思います。
 ブログやメールは病院でも出来るように娘が工夫してくれますが、うまくいくかどうかは解りません。うまくいかなくてもメールは家族が届けてくれます。いつもと同じようにおつきあいください。湾岸方面にお出かけの際は寄ってください。楽しみにしています。皆さんもどうぞお元気で。

頼もしい歩み

2008-04-15 06:46:27 | 友人たち

 土曜日に71年3月卒業の池袋商業高校3年4組のクラス会がありました。女性ばかりのクラスで、49名の内11人の出席です。僕は2年次の担任。会うのは6年ぶり。前回は僕が退職する日。31年の歳月を経ての再会でした。少人数なので一人一人の人生の話にじっくり耳を傾けることが出来ました。
 Iさん。離婚後、東電の検針員をしながら3人のこどもを育てあげました。先日、雨の中で合羽を着た若い女性が家の周りを検針しながら歩いている姿に出会ったばかりです。そのときのことを思い出しながら、拍手を送りました。
 Yさん。飯能の病院でヘルパーさん。高校生の時には想像できなかったヴァイタリティを感じます。どの人にも人を大事にする気質が身に付いており、、頼もしい思いがします。いやな人が一人もいないのです。
 Sさん。三味線と民謡のお師匠さん。昔の話ですが先妻さんから19歳も年上のお連れ合いを奪って一緒になったと同級生が説明します。その方は津軽三味線の大家だそうです。Sさんのお母さんが民謡酒場をやっており、高校生の時からこの世界に馴染んでいたのです。僕は津軽三味線といえば高橋竹山という人しか知りません。昔、淡谷のりこと二人のコンサートに行ったことがあります。Sさんはボランチアなども含めて結構忙しい日々のようです。「残留孤児の人たちにも民謡を聴かせてやってね」という僕の提案に相好を崩して喜んでくれました。7月27日に王子の北とぴあで一門の発表会があるそうです。ご夫妻の出演もあります。僕の67の誕生日の直後です。この日、未知の世界で生きてこられたご夫妻の芸と出会うよろこびを楽しみにして僕は闘病する事にします。
 このクラスの人たちと僕を30余年ぶりにつないでくれたのはHさんの娘さんが
僕が働く高校の生徒だったからです。親子2代の縁です。Hさんの娘さんは演劇部を一人で再建した人ですが、今は音楽活動もしているそうです。


 この一家は親子、それぞれが自分を生かすために精一杯活動しているように見えます。Hさんは仕事の余暇にフラメンコ、お連れ合いは高校の教員ですが、僕と似た方面で多忙。娘さんはきいちご移動教室にも参加してくれたことがありますが、劇や音楽の分野でチャレンジ。どの人にも無理をしないで、といいたくなります。
 
 このクラスの人たちの次の集まりは2年後ですが、僕としては次々に家庭訪問、職場訪問をして、一人一人の人生と更に出会っていきたいと思います。

 今日は好天に恵まれて、これから足尾の旅です。5月25日のきいちご移動教室の下見ということで忠幸さんが同行してくれます。一泊して、明日は佐野、渡瀬遊水池に寄ってきます。朝から気分が高揚しています。
 


2年ぶりの入院

2008-04-12 09:09:16 | 父・家族・自分
 昨日、癌研有明病院の主治医から、抗ガン剤投与の治療を始めた方がよいという提案があり、近く入院する事になりました。CT検査によれば右肺以外への転移は認められないが、転移したガン細胞の増殖のテンポが結構早いようです。今の内に抗ガン剤を投与して小さくするのが目的です。副作用が結構あるので、最初は3週間程度入院して治療を受けます。
 いずれこういう時期が来ることは解っていましたので大きな驚きはありませんが、ちょっと残念。この春は東北各地の昔の生徒などを訪ねながら、花を追いかけようと楽しみにしていたからです。なかなか思うようにはいかないものです。

 帰りに豊洲北小学校を訪ね、大沼校長に会ってきました。昨年、江東区で26年ぶりに新設されたという学校です。いつもながらの元気の出る話に僕は大いに励まされました。一つだけ紹介します。
 昨年の学校公開の時、一人の脳性麻痺の少年がやってきました。この学校に入りたいといいます。校長は即座にOKをだし、トイレの改修などに取り組みました。区教委も校長の熱意に圧されて協力します。あちこちの学校から拒絶されてきた体験を持つその子の母親は2度泣いたと自治会のニュース(?)に書いたといいます。絶対涙をみせないと心に誓って、子育てをしてきた人が、心ある人の心ある対応に深く心を動かされたのでしょう。当たり前のことをして何故感謝されるのか、僕には解らないと彼はいいます。
 この4月からこの学校の生徒になって、どんな風に過ごしているのでしょうか。年輩の女性が彼のケアーをするために働いているようです。校長は次の出番を楽しみにしています。自分が開発した方法でこの子にプールで泳ぐ楽しみを教えるのです。何でも自分が先頭に立ってやる校長です。先生方も親たちも頼りにし、尊敬しているように見えます。子どもたちにとっては、いつも元気をくれる優しくてちょっぴり怖い校長先生。 
 この人達と出会ったのは1966年春、伊豆大島。僕は教員1年生、彼は高校1年生。42年の月日が流れ、彼はその素質をしっかり磨いて、僕から見ると頼もしい指導者。「クニはもういい。島に戻りたい」といいますが、学校世界に活を入れるために今しばらく頑張ってほしいと思います。元気を貰って、妻と二人、月島まで歩いてみました。
 今日は池商で最初にHR担任をした人たちのクラス会です。71年3月の卒業です。

山村留学

2008-04-11 06:57:00 | こどもたち 学校 教育
 「育てる会」のHPを見ていると学ぶことばかりです。山村留学の子どもたちの日々の生活の様子はたとえば、このHPで知ることができます。

山村留学 大岡ひじり学園 
 http://www.grn.janis.or.jp/~o-hijiri/main/mainFrame.html

 学園と地域と学校が力を合わせて子どもたちを育む様子がわかります。40年におよぶ実践を積み重ねてきたリーダーの考えのいったんは機関誌『育てる』の巻頭言にうかがえます。

  2007年12月10日
472号:特集 山村留学の収穫祭1
巻頭言

   子どもの中に二つの「自分」をつくる
   ―「主従自我蘇生教育」の実践―


 まず、何をおいても、子どもたちの作文、いや、ややオーバーな表現かもしれないが、文章による子どもたちの心の叫びに耳を傾けてほしい。
 これは、長期間親元を離れて、集団生活と自然体験活動をしてきた子どもたちの記録である。
 作文の課題は、「僕の(私の)心の収穫」である。


洗濯と歩くこと・・・小学三年生
 「家族とはなれて、知らなかった人と一緒に生活できるようになったことと、自分で洗濯できるようになったことと、たくさん歩けるようになったことです。洗濯は、早く干すことができなかったけれど、今は、早く干すことができるようになったことと、早く歩けるようになったことです。」

いろんなことが見えるようになった・・・小学五年生
 「最初はホームシックで眼に涙をためていた。だんだんなれて、いろんなことが見えるようになってきた。余裕ができたら、自然などにも興味が向いてきた。今思えばバカバカしい事も、あの時は真剣だった。親がいなくても大丈夫になったし、大勢の共同生活にも慣れたし、自分で自分をほめたいくらいだ。」

受験のための勉強でなく自分のための勉強・・・小学六年生
 「今年は受験がある。目標は勉強だ。受験だから勉強するのではなく、自分のための勉強をするのだ。」

洗濯と歩くこと・・・小学三年生
「反省がある。一番の問題点は、勉強をやらないことだ。充分わかってはいるが、ついついほっぽらかしにしてしまうことだ。」

「こん畜生」と言わないか、寝言が心配だ・・・小学六年生
 「学校ではおこられっぱなし、センターでは大忙し、農家ではいまいち、夜、寝る時だって、「こん畜生」とか、「世の中、どうなっているんだ」とか、寝言で叫ばないか心配だ。授業中まじめにやろうとしたし、困っている人を助けようともしたし、忘れ物をなくそうと、手を代え、品を代えやってみた。信じてもらえないと思うが、僕は一生懸命努力した。それなのに、僕の稲穂はちっとも実ってくれそうにない。もう、ため息ばかりの生活はいやだ。せめてため息をつくのは控えよう。うん、何をすればいいのか・・・わからない。だからこれから考えるのだ。」

四つできるようになったこと・・・小学六年生
 「まずは、忘れ物をそんなにしなくなったこと。去年は毎日していた。具立つ目は、自分の部屋がきれいになったこと。去年は部屋の半分を自分の荷物で占めていた。今年は別人のようにきれいになった。三つ目は、洗濯がちゃんとできるようになり、着るものがなくて人のものを借りることがなくなった。今年はまだ一回も借りていない。四つ目は、なんと言っても学校が楽しくなったことだ。友達ができた。次の目標は、言葉使いを直すことだ。」

今の自分と今までの自分・・・中学一年生
 「ここに来るまでは、外で遊ぶことが少なく、友達の家でゲームをしたり、ゲームセンターに行って、夜遅くまで遊んだりしてダメな人間だった。でも、ここに来て自分がすごく変わったように思う。自然の中の片道5キロの通学路を歩きとおしたし、今までやったことのない活動をたくさんやって、一歩一歩成長しているのだと思う。」

私が「私に」なれるまで・・・中学三年生
 「今年、私が決意したこと、それは、無遅刻、無欠勤、無保健室だ。去年はひどかった、遅刻4回くらい、欠席は6回くらい、保健室へは週2~3回通いだった。それが、遅刻は腹痛で1回だけ。欠席ゼロ。保健室は風邪っぴきで1回だけ。とりあえず、自分を褒めてあげたい。
 も一つの決意。去年は、つっ立ったままで動かなかった自分を捨てて、ちゃんと動く、新品の自分を作り上げたことだ。自己評価になるけれども。
 私が、「私に」なれるまで、その期間は長く、予想以上に悩めるものだった。」

 紙面の都合で、ここでは数例しか掲載できないが、多くの子どもたちの文章を繰り返し読むうちに、それぞれの文章の中に、二人の子どもが存在することに気がついた。
 上記の文章例を再読してほしい。それぞれの文章には、一人の自分と、もう一人の自分が存在し、相互の比較、葛藤が述べられている。言うなれば、以前の自分と現在の自分との比較を通しての、今の心情の「吐露」であるとみられる。
 この仕事を続けて四十年が経過した。千数百人の、長期間の自然体験と集団寝食体験を積んだ子どもたちの後姿を眺めてきた。そして、この教育活動の優れた教育効果について確信を深めてきた。と同時に、その教育効果の奥に「核」となって存在するもの、子どもの内部に変革をもたらす原動力、それは何か、と問い続けてきた。
 それは、子どもの内部に、従来の自分と、もう一つ違った自分をよみがえらせることではないかと洞察する。子どもの内部に二つの自分を醸成させること、これこそが長期自然体験と集団生活の使命ではなかろうか。
 子どもの従来の家庭生活、都会生活での自分(自我)と、新しい体験生活によって得られた自分(自我)、この両者の葛藤こそが、子どもを成長させる「核」であり、原動力となる。そして、後者の自我(新しい自我)が主自我となり、前者の自我を従自我として、それの優位に立つ、これだ、と看た。
 新しい自我は、その子のその後の生活での価値基準となり、人生のケルンとなるであろう。「主自我の蘇生教育」、ここに育てる会の課題がある。

  この文章の出典http://www.sodateru.or.jp/blog/gekkan/archives/2007/12/post_13.html

 親元を離れる、集団生活。遠い徒歩通学、正座での食事、TVやTVゲームのない生活、農作業……。新しい環境の中で四苦八苦しながら「もう一つ違った自分を蘇らせる」のだという。それが人生の核になる。指導者には実践から得た確信があります。
 僕は中学から親元を離れ、都市の学校に行くため下宿生活という集団生活を体験しました。山村留学とは「逆」の留学といえるかも知れません。大きくなるに従い、この生活で得たもの、失ったものを吟味しながら生きてきたように思います。山村留学の体験をした人たちはその後、どんなふうに自分の歩みを振り返っているのでしょうか。そういう方の文章も捜して読んでみたいと思います。





山村留学を国策に

2008-04-10 12:17:21 | こどもたち 学校 教育
 昨夕、一年と少しぶりにMさんと電話で話をする事ができました。07年度はうまくいかないことが多く精神的にも参っていたようです。学校は6年目の今年も学籍を残し何とか高卒の資格を取りたいといいます。カウンセラーなどの助力で近頃はいくらか元気になり、学習やアルバイトの意欲も出てきたそうです。友達はみな卒業していなくなりましたが、担任の先生を信頼しています。気が向いたら川越に遊びに来てくださいと伝えました。
 学校を辞めてから一年が経ちました。その間にMさんのことも忘れてしまうところでした。Sさんとの教育再生の話にかかわって、突然思いだし、彼女の記録を読んだり、電話をかけて励ますことができました。ありがたく、また、嬉しいことです。小さいときから閉ざされた心をときはなち、ひとびとと交流しながら大人になっていくことは並大抵のことではありません。僕にできることはほとんどなく、ひとびとの助けを借りながら自立していくことを祈るばかりですが、忘れることなく応援のメッセージは届けたいと思います。

 Sさんのお孫さんが世話になっている長野県売木(うるぎ)村の山村留学を運営している法人のHPを紹介します。


(財)育てる会 売木学園の元気な子どもたちの山暮らし日記

http://asunaro45.blog62.fc2.com/

26期生11人の姿があります。共同生活するセンターから3km程離れた学校に通う子どもたちの様子も紹介されています。この中の一人の中学生がSさんのお孫さんなのでしょう。ここで山村留学を体験し、今は都立高校に通っている先輩の話を聞いたりしてみずから希望してここを選んだといいます。センターでの共同生活、里親のもとでの家庭生活、そして地元の中学校での学校生活。都会の真ん中ではできない貴重な体験を積み重ねながら、自立への確かな力を身につけていくことでしょう。
 40年も前から山村留学に取り組んできたひとびとがいたことに僕は驚きました。これらのひとびとの取り組みがネットワーク化されて、全国各地でこのような実践が展開されているのかも知れません。僕も1973年から3年間、北海道池田町の農家にお願いして高校生を夏休みにホームステイさせて貰ったことがあります。80年には広尾町の牧場にお願いしました。問題意識は似たところがありますが、継続的で組織的な活動に頭が下がります。
 ここで僕がいいたいことはこのような取り組みを国家、または自治体の重点的な取り組みにする時期に来ているということです。小中学生の内、希望する人はことごとく受け入れられるように体制を整えるのです。学校から帰ったらあいさつする人もいない夜を過ごさなければならないMさんのようなこどもはただの一人もいてはなりません。山村留学のような道が用意されても良いはずです。金がかかります。こういうところに税金を投入するのです。
 山村の過疎化は日々進み、限界集落が増え、学校が廃校になっています。今ここに税金を投入し、村人の力を借りて、子どもたちを育てて貰う政策を打ち立てるべきです。今が最後のチャンスです。年寄りは力を失い、村は消滅する瀬戸際です。学校がなくなってからでは遅すぎます。

「私は家であいさつをしません」

2008-04-09 18:04:34 | こどもたち 学校 教育
 日曜日にSさんが僕の様子を見に川越に来てくれました。駅前のお好み焼き店とケーキ屋さんをはしごして語り合いました。Sさんのお孫さんが山村留学をしているという話から、僕が教育のあり方について論じてしまいました。Sさんは有力な政治家に知人も居られるのです。

 たとえばこんな生徒がいます。僕が抗ガン剤治療あけに学校に復帰した06年5月の最初の授業のあとMさんが自分のノートに書いた文章です。
 
 私は感想を書くのが苦手なので、大変そうだなあと思いました。自分の意見をうまくまとめることができません。感想やなにかをまとめる時はいつも途中であきらめてしまいます。この授業を通じて少しでも自分の意見をまとめられるようにしたいです。
 私は家であいさつをしません。ほとんどしゃべりません。私の家は母子家庭で、母は夜はスナックで働いています。なので、一人でいることが多く、あまりしゃべりません。小学校4年生くらいの時に、「ただいま」とか、「行って来ます」とか、あいさつをいうのをやめました。(誰もいないから意味ないので)
 声を出してあいさつをするというのはとても大切なことだと思います。あいさつをするように心がけたいと思います。


 小学校の時代から、「ただいま」といっても「おやすみなさい」といっても答えのないひとりぼっちの夜の日々です。僕にはこのこどもの心を想像することさえできません。尾崎豊を授業のテーマにしたとき、Mさんはこう書いています。

 尾崎豊の歌詞の「自分の存在が何なのかさえ解らず震えていた」という部分で、私は昔、よく夜、家で一人でいるとボォーッとして、上も下も、どこに地に足をつけているのかわからなくなって、死にそうになってたりしてました。
 尾崎豊の歌は思春期の不安定な気持ちを歌っていて共感できました。自分と尾崎豊とではなにもかも違うのに不思議です。尾崎豊はもう何年も前に亡くなっているのに、歌を通して尾崎豊のメッセージが伝わってきました。
  
 よくも頑張って、高校生になったものです。授業の初めに僕は「おはよう」とか「こんにちは」といいます。山吹高校の生徒はあいさつを返してくれる人が少ないのです。僕の提案にMさんが応えようとしてくれたことは本当に嬉しいことです。挨拶からはじまって少しずつでも自己を表現する意欲と力を獲得していってほしいものです。
 Mさんは例外的な存在でしょうか。事情は違ってもありのままの自分を表現することができなくて苦しんでいる高校生が多いように思います。教育に責任を持つ人たちが今しなければならないのは、いまを生きようとする子どもたちの苦しみの根源を明らかにし、解決の道を提示することです。僕は先人達が児童憲章というものを制定し、「児童はよい環境の中で育てられる」とあったのを思い出します。いま、家庭も地域も崩壊し、自然からの隔離も進んでいます。「環境」の再構築なしに教育の再生はできないと思われます。Sさんのお孫さんがみずから選んだという「山村留学」は大切なヒントを与えてくれます。
 
 

 

菜の花とサクラ

2008-04-06 11:57:33 | 川越・近郊
 4日、川越・狭山自転車道で入間大橋を渡り、上尾の丸山公園で昼食。荒川左岸を北上、樋詰橋を渡って横堤防から川島に出て帰ってきました。
 川越のゴミ焼却工場を過ぎるあたりから、入間川右岸の土手の菜の花がみごとです。サクラとの組み合わせは言葉にならないほどです。その中を僕は順子さんに買って貰ったリサイクル車でゴトゴト進みます。
 丸山公園は子どもたちの佃煮状態。公園らしい造形美。榎本牧場の脇を過ぎてからの風景に驚きます。広い荒川の河川敷全体が見晴るかす菜の花の絨毯。ふだんは牧草地や畑になっているところです。
 まだ、しばらくはこの風景が見られます。暇が作れるかたは自転車で出かけてみたらどうでしょう。浦和から森林公園に続く自転車道も吉見あたりを中心にして菜の花とサクラの見所が多いようです。ひとの作品ばかりで恐縮ですが幾つかHPを紹介します。(青い部分をクリックしてください。素晴らしい世界が広がっています)
 
 http://blog.livedoor.jp/ohtako/

 地図つきの案内はこちら
 http://homepage3.nifty.com/t-arena/machi/cycling/cycling_03.html

日本人妻とシンさん

2008-04-05 11:49:23 | 韓国・北朝鮮
 集会のお知らせ二つです。

◆ シンポジウム『一刻も早く日本人妻等の救出を・日本人妻の斉藤博子さんは訴える』

 北朝鮮帰国運動で北朝鮮に渡った日本人妻の多くは、「日本へ帰りたい」という願いを果たせずに亡くなった。現在、無念の死を迎える人たちが増えており、高齢の日本人妻の救出は緊急を要する。「日本の土を踏んでから死にたい」という日本人妻の願いを叶えるために…いま我々は何をなすべきか。


◆日時: 4月19日(土) 13時30分~16時15分

◆会場: 港区勤労福祉会館 第一集会室

◆プログラム:
Ⅰ.坂中英徳と神田真実が語る北朝鮮帰国者問題
Ⅱ.パネルディスカッション
  コーディネーター 河明生
  パネリスト 
    斉藤博子(日本人妻)
    石原進 (外国人政策研究所理事)
    神田真実(脱北帰国者支援機構相談員)
    坂中英徳 (脱北帰国者支援機構代表)

◆参加費: 無料(先着100名まで)

◆主催:  脱北帰国者支援機構

◆連絡先: 03-6662-5230  事務局まで


 1960年頃、帰国運動の熱狂の中で北朝鮮に帰った在日朝鮮人に付き添っていった日本人女性達のことです。2・3年すれば一時帰国ができるという話を信じて夫についていったとのことです。「日帝」の血を引く者として社会の最底辺に位置づけられ、すでになくなった方が多いようです。
 日本人の保護は日本政府の義務です。拉致被害者と同様、これらの方々の消息を確かめ、日本への帰国の道を切りひらかなければなりません。
 脱北帰国者支援機構は元東京入管局長の坂中英徳さんが中心になって設立されました。日本政府の役人が退職後、市民運動を始めたのです。設立時から僕も一会員です。19日は受付の手伝いをします。ご都合のつく方は足を運んでください。
 
 脱北帰国者支援機構HP http://kikokusyashien.com/003.html


 もう一つ、集会の案内です。

コメント欄に勝義さんがシンさんの本『収容所に生まれた僕は愛を知らない』(KKベストセラーズ)について感想を寄せてくれました。勝手ながら紹介します。


『収容所に生まれた僕は愛を知らない』の感想を記します。読みながら付箋をつけた箇所を辿りながら。
・「ダム建設現場での大惨事」……「1999年3月のある日、水を堰き止めるコンクリートの堤防の上で、左官3人と彼らを補佐していた13歳の女の子3人、そして男の子2人が働いていた。(中略)コンクリートの壁が崩れ落ちるのを、私は目の前で目撃した。私は叫んだ。『おい、おい、おい……!!た、倒れる、倒れる!!』しかし、すでに時は遅く、そこで働いていた左官と男女生徒の8人が、コンクリートの壁とともに30メートルの高さから墜落し始めた。結果は言うまでもない。彼らは数十トンのコンクリートの下敷きになり、形もわからないほど押し潰された。それでも私たちは、彼らの遺体を片付けることができなかった。保衛員たちが『今している仕事を続けろ』と言うからだ。しかし、建設現場で誰かが死んだからといって、悲しんで涙を流す人はいない。ただ自分の命がまだあることだけを確認して、もう一度自分の持
ち場で働くだけだ」……この書は、こういう悲惨な体験に満ちています。なぜ闘わないのか、暴動を起こさないのか、逃げ出さないのか。読み進めるうちに、恐ろしい暴力装置(虐待・拷問・公開処刑など)と戦慄的な監視体制(密告制度や強制的な相互批判など)とともに、邪悪な「心の鎖」が見えてきます。「お前たちは罪を犯した。だからこの土地で一生労働することによって罪を償うのだ」という執拗な刷り込み。人々にとって一辺数十キロの四辺形のようなこの土地の現実と、自分は罪人(なぜかわからぬが)なのだという認識が全てです。自由に考えることもできず、「ここより他の場所」を夢見ることもできないそら恐ろしさ!
・「温かい看護を受け奇跡的に回復」……収容所内の男女の間に生まれた筆者シン・ドンヒョクさんは、13歳の時に、残虐な火あぶりの刑を受けます。そのとき一人の人物に出会います。火の拷問のために熱があって食欲がなかったドンヒョクさんに、自分の食事を差し出してその人は言います。「『お前はまだガキでちっこいから、まだ生きる日も多かろう。ねずみの穴にも日が昇る日があるとか。熱心に食べて生きなさい』
私はまだ幼くて希望があるから、具合が悪くても飯をちゃんと食べれば傷もはやく治って、いつか明るい日も見られるだろうと、おじさんは言うのだ。真明(シンミョン)おじさんは『まだ幼いのだから、よい世の中を見なければ』とか、『空が崩れても生き残る道がある』などと、私の力になる言葉を続けてくれた。その言葉に力を得て、私は無理にでも飯を食べるようになった」 筆者は続けて「おじさんを殺さずに、仕事もさせず、ただ監房の中にだけ20年間も閉じ込めているのは、おじさんが当代の大人物であったからではないか」「おじさんの人に対する態度は、かつて何かを多く学んだ人のように見えた」と書いています。このような地上の地獄の中でもなお人間であろうとする人がいる、そして僕(ら)は収容所に呻吟する人々と同時代を生きている……「感動」と呼ぶのも軽々しく思われるような深く厳粛な思いが僕を捉えていました。
父親が心を開いて語った言葉も印象的です。「『お前は機会があったら、世の中がどんなものか見てみるべきだ。私にも、そんな暮らしをしたときがあった…』
父は私に、どんな方法を使ってでも収容所を抜け出して、外の世界を知って、一族を絶やさずに引き継いでくれと言った」
・脱出へ……シン・ドンヒョク青年に大きな影響を与える人物が現れます。「朴課長」とシンさんが呼ぶ人物は、シンさんの「麻痺した意識を覚醒してくれて」一緒に脱出を試みることになります。北朝鮮の実情や韓国に関する情報を率直に語る朴課長に「真心」を感じたシンさんが、しだいに「ここより他の場所」へとこころを膨らませてゆくプロセスは、こちらも胸が熱くなりました。(いきなりはしょりますが)脱出後に彼が見た北朝鮮・中国・韓国の印象も正直に語られています。ぼくには次の言葉が特に重く響きました。「二つの体制下で生きてきた私は、民主主義がどれほど人間の意識を覚ましてくれるのかを、本当に感じることができた」 そしてソウルの街角で見た労働者、学生のデモ行進への驚嘆を語ります。彼の中で「民主主義」は輝ける価値として存在しています。

 長くなりましたのでまとめます。ぼくはこの本を大きな問いかけとして読みました。
 「収容所に生まれた僕は愛を知らない」と言うが、この苦難の中でも「人間性」を失わなかったこの青年はすでに「愛を知っている」のではないか? ならばぼくはどのような「愛を知っている」だろうか? また、この収容所の人たちは「一辺が数十キロの四辺形の現実と、『お前は罪人なの』だという執拗な刷り込みに縛られている」と書いたが、ぼくも形は違うにせよ、ある種の「刷り込み」の中にいて、囚われずに自由に考えることを失ってはいないか? シンさんの中で「民主主義は輝ける価値としてある」と書いたが、ではぼくは「民主主義」を日々大切に行使しているだろうか? 矢継ぎ早に問いかけが飛んできます。目を洗いなおされる気持ちでした。自分の立ち位置を確認させてくれる一冊でした。
 それともう一つ。シンさんの行動を突き動かしたものが、シンミョンおじさんの温かさと知性、父親の情愛、朴課長の豊富な情報だったことです。これからの北朝鮮を考える上で、示唆的だと思いました。
  


 そのシン・ドンヒョクさんが証言されます。12日に池商71年卒業の方々のクラス会があり、僕は残念ながら13日は休養です。よろしかったらシンさんにお会いしてみてください。25歳の青年です。


 NO FENCE IN NORTR KOREA (北朝鮮強制収容所をなくするアクションの会)
    発足記念発表会

 08. 4月13日(日)10:00am~4:20pm 午前の部(発足報告)、午後の部( 記念講演)

  記念講演、
    申東ヒョクさん
    キムテジンさん
   カンチョルハンさん
      安明哲さん


   [会場] 星陵会館ホール (地下鉄永田町駅6番出口)
                  参加費 千円 学生500円

主催
  NO FENCE IN NORTR KOREA (北朝鮮強制収容所をなくするアクションの会)
  東京都千代田区平河町1-5-7-203  tel / fax 03-3262-7473
 共同代表 小沢木理、砂川昌順

   インタネットhttp://www.netlive.ne.jp にて同時中継。




暫定税率の廃止は当然

2008-04-01 12:31:13 | 政治・社会
 今日からガソリン等にかかる税金の内、暫定税率の部分が廃止されました。ガソリンが25円ほど安くなるということです。当然のことです。良いことです。
 30数年前、2年間の暫定措置として決めたことをズルズルとやってきたというのですから驚きです。昨年の参議院選挙で民主党が勝ったために、私たちはこんなでたらめにやっと気づくことができたのです。国土交通省の高級役人と道路族の自民党国会議員、ゼネコンが結託して、税金から甘い汁を吸い続けてきたわけです。
 NHKをはじめ、TVや新聞の報道姿勢は概してでたらめです。福田政権の無為無能をたたくどころか、肩を持つ始末です。報道機関の幹部達がふだんから政府の審議会委員になったりして提灯持ちをしているから当然のことではありますが、むかむかします。NHKに対する不払い、宅配新聞の購読拒否で報復したらどうでしょう。僕が新聞を取らなくなって一年が経ちましたが不自由なことは何もありません。坂戸の温泉にいったときに新聞を読みますが、パソコンで読む以上のメリットは感じません。
 道路についていうなら高速道路の建設はもういい加減やめたらどうですか。僕は高速道路に縁の遠い高知県の東部によく帰ります。国道55号が通っているだけです。困ることは何もありません。
 山の中に地域高規格道路という高速道路並みの道が造られつつあります。徳島県南部と高知県中央部を効率よく結ぶためのようです。完成すれば便利になるに決まっています。しかし、この日本有数の過疎地帯で一日に何台、通過するのでしょう。工事で破壊される自然の営みの傷みの大きさは?
 ここは嘗て日本有数の林業地帯でした。魚梁瀬(やなせ)杉の名だけは今でも残っています。道路予算の何分の一かで山を甦らせることができるはずです。間伐の入らない死の森を国策をうち立てて手入れするのです。限界集落に若者を呼び寄せるのです。森の再生なしにこの荒廃した人心を立て直すことはできません。山だけではありません。海も川も同様です。自然によって私たちは生かされているのです。
 カネ(予算・税金)の使い方がまちがっているのです。上に立つ人が変わる必要があります。とりあえず、政権交代が可能になることです。一党支配が続く限り、どんな変化も期待できません。
 中国や北朝鮮の独裁政権ほどではありませんが石原都政を見ていても独裁の弊害が明らかです。失敗が明白な実質都立の銀行を廃止することすらできないのです。独裁者とおべんちゃら集団のもたらした惨劇に私たちはなぜ学ぶことができないのでしょうか。
 僕は暫定税率の廃止を断固支持します。衆議院での再議決等というたくらみはなんとしても阻止して、納税者の意気を示しましょう。そしてこの数週間、税金の使い道を僕らが決めるんだというつもりであれこれ勉強して、少しは賢くなりましょう。