川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

戸田橋から舟渡へ渡る

2009-10-31 07:33:09 | 川越・近郊
 10月30日(金)はれ

 暖かく穏やかな晴天。荒川自転車道を東京の方にいけるところまで行くことにする。

 荒川自転車道http://kanata2003.hp.infoseek.co.jp/map0001.html 

 9時に家を出て国道16号の上江(かみごう)橋を渡ったところで自転車道に乗る。治水橋、羽根倉橋と過ぎると浦和の秋ケ瀬公園。広大な河川敷に広がる公園で森も豊かに見える。浦和の市民は恵まれているなあと思いながら秋ケ瀬橋をくぐるとやがて彩湖。新しく作られた荒川の遊水池。湖畔を鳩ヶ谷高校の生徒たちが走って(?)いる。全校生参加の校外行事だという。

 彩湖http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/saiko/index.html 


 外環道(幸魂大橋)をくぐったあたりで道が尽きたので自転車を土手の上に揚げる。
 本流の水際に住むホームレスの人が自転車にペットボトルを積んで水を運ぶ風景を見る。公園の水道の水を大きなペットボトルに詰めて20本近く運ぶ。高い土手には急な階段はあるが自転車道はない。何度も何度も往復している。どうして水際に家?をたてたのだろう。

 笹目橋を過ぎると戸田競艇場の巨大な建物、そして漕艇場。もうお昼だ。見渡しても食堂らしきものは見えない。埼京線の鉄橋に並行する戸田橋をわたって東京都板橋区側の土手下に降りる。

 舟渡小学校のそばにやっと見つけた中華そば屋で昼食。3時間半、ほぼ走りづめだった。ここらはぼくの生徒の家もある地域だ。ここまできた証拠に店のパンフレットを貰う。「ちゃい菜食堂 KIKOBO」。

 13時出発。帰りは荒川右岸の土手の上を行くことにする。左手遠くに高島平のアパート群。こちらの方が走りやすい。土手下まで市街化が進んでおり、河川敷も対岸に比べると狭い。森はない。

 羽根倉橋を過ぎると土手上の道は砂利道。びん沼のあたりで土手下におり、車の道を古谷本郷に向かう。車の道を行くのはやはり緊張が伴う。

 疲れを感じたので伊佐沼公園に寄る。明日から産業博覧会らしく出店やテントでいっぱい。やむなくベンチで小憩。家には4時前に到着。秋の日はつるべ落とし、明るいうちについて、めでたし、めでたし。シャワーを浴びて夕寝。

 ぼくはいつか東京湾まで行ってみたいと思ってきた。今日はその小手調べになった。羽根倉橋までは左岸、そこからは右岸を通った方が道が良さそうだ。いずれにしても一泊旅行だ。どなたの家に泊めてもらえるかなあ。

 20年ほど前、北区王子の学校から「中国クラブ」の生徒たちと荒川をさかのぼり、吉見町の八丁湖まで自転車で一泊旅行をしたことがある。女の子も多かった。楽しかったなあ。それ以来の冒険だった。


 29日(木)晴れ

 萬蔵寺によって心春ちゃんに会う。ハイハイもできるようになった。おそるおそる抱き上げてちょっとだけだが庭を散歩。あじさいの葉っぱに手を伸ばして口に近づける。生後6ヶ月余。笑顔がいっそうかわいくなり、目がくりくり。伸びゆく命、はぐくむ人も魅力を増していく。ぼくも若返りの生薬を飲んだようだ。

 この後、気になっていた滑川町の二宮展望台に連れて行って貰う。池のそばの山の上にふるさと創生資金で建てた立派な塔。あいにくの秋霞で遠望はきかない。
 コンビニ弁当の昼食。滑川町がこの山と池を公園として整備中。遊びに来るところが一つ増えたかな。街からは遠いので人影はない。


   二宮展望台http://namegawa.net/place/ninomiya_tenbou.htm#top

ダム撤去

2009-10-30 08:12:30 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)
 昨日、ダムの開放や撤去のニュースを二つ続けて読むことができました。 

 
     取水中止の影響?サケ・アユ遡上が3倍に

              (2009年10月28日09時41分 読売新聞)

 不正取水問題で水利権を取り消されたJR東日本・信濃川発電所の宮中ダム(新潟県十日町市)の上流で、今年は遡上(そじょう)するアユとサケの数が例年の3倍程度に増えたことが、地元漁協などの調査でわかった。

 漁協関係者らは「川の水が増えたおかげで、生態系が昔の状態に戻っているのでは」と喜んでいる。

 水利権取り消し処分を受け、最大毎秒317トンを取水していた宮中ダムの水門が3月に開かれた。このため、東京電力の西大滝ダム(長野県)から宮中ダム下流までの約60キロ・メートルの減水区間のうち、宮中ダム下流の約35キロ・メートルにわたる信濃川の水が、約70年ぶりにすべて戻った。

 この後、宮中ダム上流に遡上するアユ、サケが大幅に増加。中魚沼漁協(十日町市)によると、宮中ダム上流で信濃川に流れ込む清津川では、毎年7月中旬~9月に約5万匹の放流アユの釣りが楽しめるが、今年はこれに加えて、少なくとも10万匹ほどの天然アユが上がってきたという。

 また、国交省信濃川河川事務所では今月1日、ダムの魚道にかご型のワナをしかけて、約1か月にわたるサケの捕獲調査を開始。宮中ダムでは2001~06年同期に20~45匹程度の遡上が確認されてきたが、今年は27日までに150匹のサケが入ったという。

 同事務所は「宮中ダム取水中止によるものかどうかを調べるには、より詳しい分析が必要」としているが、中魚沼漁協では「今まで捕獲されてきたサケは傷んでいたが、今年はきれいなものが多い。川の増水で、サケが遡上しやすくなったと言えるのでは」としている。

 また、NPO法人新潟水辺の会(新潟市西区)によると、西大滝ダム周辺では、27日までに延べ12匹のサケの遡上を目視で確認。ダム上流で見つかった2匹のうち1匹は動きが鈍かったため、捕獲した。体長70センチ、重さ3・2キロのメスで、卵を抱えていた。

 高水漁協(長野県飯山市)の伊東芳治組合長(74)によると、1939年の同ダム完成以降、同ダム上流で生きたサケが捕獲された記録はないという。
 
 出典http://www.yomiuri.co.jp/eco/news/20091028-OYT1T00010.htm

 友人の生家が近くにあり、宮中ダムを見学したことがあります。

   宮中取水ダムhttp://sinn.dip.jp/suiryoku/hatudenn/miyanaka.htm


 ダムの取水禁止で70年ぶりに鮭が遡上してきたという。きいちご移動教室で訪ねた飯山の近くの千曲川のことです。日本中のダムを点検し、役割を終えたり、他の手段で代替できるダムはどんどん撤去すべきです。川をよみがえらせ、生態系を回復することはふるさとを回復することにつながります。
 自民党のリーダーや首都圏の知事たちが「美しい日本」「ふるさと再生」などとほざきながら、利権まみれのダム建設に今に至ってもこだわり続けるのは笑止千万です。彼らこそふるさとを破壊した張本人です。「保守」の看板も下ろしたらどうか。


 こちらは治山ダムの撤去による生態系回復の取り組みです。
 

  ダム撤去、自然回復へ…群馬・みなかみで工事開始

           (2009年10月28日10時25分 読売新聞)


 群馬県みなかみ町を流れる赤谷川支流の茂倉沢で、治山用の「2号ダム」の撤去工事が始まった。

 自然の営みを回復する目的で治山ダムを撤去するのは、全国的にも珍しいとされる。林野庁関東森林管理局と日本自然保護協会、地元住民らでつくる地域協議会が協力し、2004年から進めている「赤谷プロジェクト」の一環で、今後は、ダム周辺での生物の種類や土砂の流量などの変化を調査し、今回の撤去の効果を判断し、計画の参考にする予定だ。

 撤去されているのは、茂倉沢に建設されたダム17基のうち、下流側から2か所目にある「2号ダム」(幅約28メートル、高さ約9メートル)。1962年に完成した。7年前に一部が破損して土砂をためる機能が損なわれたため、試験的にダムの中央部をなくして水流を回復させ、魚などの生物が往来できるようにする。撤去部分はV字型で、幅は、上部で8・6メートル、底部で3・2メートル。

 現場では、重機が堤体の中央部を切り取るように壊し、できたがれきの山を移動させるなどし、26、27の両日で、取り崩しはほぼ終了。この後、数日かけ、壊れた堤体の表面を滑らかに削る作業などを行う。約200メートル下流では、土砂が流れる量を調整するためのコンクート製の構造物「保全工」を建設しており、今年度中に完成するという。

 赤谷プロジェクトでは、赤谷川流域周辺の国有森約1万ヘクタールの生物多様性を復元し、生態系管理を試みる。

    出典http://www.yomiuri.co.jp/eco/news/20091028-OYT1T00009.htm

  赤谷プロジェクトhttp://www.nacsj.or.jp/akaya/akf_index.html

『秋刀魚の味』『麦秋』

2009-10-29 09:32:45 | 映画  音楽 美術など
一昨日(10月27日)珍しい体験をしました。二本立て映画を見たのです。13時から始まって17時半まで。

 小津安二郎監督の松竹映画『秋刀魚(さんま)の味』と『麦秋』です。以下のHPをクリックしてみてください。ぼくと同世代の方ならタイムスリップして懐かしい人々にあった喜びに包まれることでしょう。


  スカラ座http://k-scalaza.com/index.html

  『秋刀魚の味』http://shochikuonline.jp/cinfo/s/000000072a/c/00048/

  『麦秋』http://ecx.images-amazon.com/images/I/51814tPuzbL.jpg

 
 『麦秋』は1951年(昭和26年)、『秋刀魚の味』は1962年(昭和37年)の作品です。11年の時の開きがあります。ぼくは小4と大2です。

 主役はいずれも笠 智衆(りゅう ちしゅう)。『麦秋』の笠 智衆を観て会場にどよめきがありました。「若い」のです。当日の観衆の多くのイメージは『秋刀魚の味』の笠 智衆だったのではないかと思われます。

 女性の主役は原節子と岩下志麻。ぼくは原節子ファン世代とはいえません。岩下志麻、本当に「美人」です。
 淡島(あわしま)千景、岡田茉莉子(まりこ)、杉村春子、岸田今日子。東野(とうの)英治郎、佐田啓二…。

 映画通だとはいえなかったぼくでさえ、懐かしさが染みわたってくる人々です。

 川越スカラ座は超満員になりました。ぼくは上映開始30分前に行ったのですがほとんど満杯で、一番前の中央の席に座りました。いつもの指定席には座れなかったのです。
 ここにはどういう訳か座席の前に長い台があってぼくはそれに足を載せて映画を観ます。こうすると足が冷えないのです。困ったなあと思っていたのですが一番前の中央の座席の前にも移動式の台があるではありませんか。助かりました。足を載せてその上に毛布をかぶせることができたからこそ5時間の上映を楽しむことができたのです。

 通常は数人程度の観客です。優れた作品なのに寂しい限りです。でも、この日は違いました。多くの人々とともに観る喜びを感じました。抑制的ですがどよめきがあり、喜びの声がありました。

 1950年代前半には室戸岬の町にも二軒の映画館(「ユニオン」と「岬劇場?」)があり、毎日二本立て上映でした。ぼくは小学生ですが夜の9時過ぎ、映画館から帰る人の足音やざわめきを毎日聞いて育ったのです。たまにはぼくも見に行きました。『鞍馬天狗』や『笛吹童子』などのこども向けの作品のほか、『原爆の子』『ひろしま』などではなかったかと思います。
 岬の町に映画館ができる前は学校から行列して隣町の「中央館」に行きました。『鐘の鳴る丘』や『蜂の巣のこどもたち』『三太物語』などかな。

 中高時代(50年代後半)は高知市、学生時代(60年代前半)は東京でたくさんの映画を観ました。映画は娯楽であるとともに人生の学校でもありました。

 この日、スカラ座に集まった人々のほとんどはぼくと同じような映画体験の持ち主といえるのかもしれません。右隣のご夫婦は80代で夫君はシベリア抑留の体験者でした。大正の末年生まれだとか。奥さんが昔の映画を観たいというので夫婦できたとか。右隣は同年配かやや上でスカラ座にはふだんから通っているようです。いつも数人ですから、電気代にもならないのではないかと、心配してきたといいます。今日の満杯に驚き、喜んでおられます。

 映画館で映画を観る喜びを久しぶりに味わったなあ。そんな感じです。30分の休憩時間には蔵造りの街に出て、蜂蜜ソフトを味わいました。

 『秋刀魚の味』は小津さんの最後の作品だとか。ぼくも人生を重ねたせいか、こういう作品を味わうことができるようになったようです。

 題名は佐藤春夫の「秋刀魚の詩」を意識したものでしょうか?秋刀魚は映画のどこにも出てきません。

 秋刀魚の詩http://www.midnightpress.co.jp/poem/2009/06/post_95.html 


 

登米 鳴子・鬼首  宮城の旅⑤

2009-10-28 10:54:14 | 出会いの旅
 10月21日(水)つづき

石巻から北上川に沿って登米(とよま)を目指す。本流に架かる橋を渡ると国道から川の風景がよく見えるようになる。

 北上川http://ciao66.exblog.jp/7194834/

 このあたりに河原は見えないがつい『北上夜曲』が出てくる。この歌の碑があるという北上市や花巻の方まで来春には行ってみたいなあ。

 登米大橋を渡ると登米の市街、高倉勝子美術館に直行する。「宮城の明治村」といわれる歴史的景観地域の中心に位置する。

 この地の若い美術の先生が「川越だより」にTBしてくれました。

 高倉勝子美術館http://hakusuke.exblog.jp/9088770/

 高倉さんは文字通りの被爆者で九死に一生を得た方です。戦後はこの地域の美術教師として活躍されてきました。北上川流域に生きる名もなき女性たちの姿を愛情を込めて描いています。
 「原爆の図」はご自分の体験を絵巻物風に描いたものです。広島の市民が被爆体験を描いた展覧会をみたことを思い出しました。

 妻は丸木美術館の資料を渡して若い職員の方と交流していました。丸木夫妻のことはここでは知られていないようです。美術の先生や職員の方々との出会いが何かを生み出すことにつながってくれればいいなあ。

 サザエさんの家族が寄ったという「海老喜」という味噌屋でみそアイスに舌鼓を打ち、おいしいウナギ料理の昼食をとったあと、土手に登って北上の流れにしばし時を忘れる。ここもまた一泊くらいはしたいところだ。古い立派な高等小学校の校舎が保存され、教育資料館となっているのを見学して、後ろ髪を引かれる思いで鳴子温泉に向かう。

 登米http://www12.plala.or.jp/aburahu/toyoma/ 


 10月22日(木)晴れ

 鳴子峡の景観に酔いしれた後、鬼首(おにこうべ)へ。鳴子で育ったという丸木美術館の事務局のAさんがとっておきの紅葉の名所を教えておいてくれたのだ。
 鬼首温泉から荒尾岳の麓の快適な道を地熱発電所方面に向かう。道の前方に広がる木々の紅葉に歓声を上げる。


  鬼首紅葉http://senndai-tabi.seesaa.net/article/66064510.html#more


 宮城の旅の報告はこれで終わりです。息子夫婦のそれぞれから「楽しかった。来年もまた一緒に出かけよう」と電話を貰って私たちは喜んでいます。

超微力だが、ぼくも…

2009-10-27 08:43:28 | 父・家族・自分
 昨日は雨降りの寒い一日でした。癌研有明病院で血液検査、X線撮影の後主治医の診断がありました。病状にさしたる変化はみられず、通常の生活をしてよろしいとのことです。左肺摘出手術から4年、右肺への転移から2年が経ちましたがおかげさまで小康状態を維持し続けています。
 夜のNHKで免疫療法の開発が進んでいるとの報道がありました。抗ガン剤治療は副作用を伴います。予算が乏しくアメリカについていけない現状だとのことですが無駄なダムやミサイル迎撃ミサイルなどは直ちにやめて、癌との闘いにカネを回してほしいものです。
 ぼくの場合は様々な条件に恵まれ自然の免疫力がガン細胞の活性化を抑えているのかと思います。ありがたいことです。
 
 帰りに移民政策研究所に寄り久しぶりに坂中英徳さんに会いました。12月14日が北朝鮮帰国第一船が新潟を出港して50年になる日です。北朝鮮帰国者への関心を呼び起こすためにいくつかの企画を進めておられます。その熱意に頭が下がります。微力であってもぼくも手助けをしたいと思います。

 夜のニュースで鳩山首相の施政方針演説を聴きました。社会的弱者、少数者の側にたった政府を作るぞ、という鳩山さんの決意に共感します。この政府を失敗に終わらせてはなりません。超微力ではあっても提言や批判はできます。市民としてできることをやりたいと思います。
 
 自民党の谷垣禎一総裁は「感傷的で具体性に乏しかった」と評していました。「感傷的」とはどういう意味なのでしょうか。鳩山さんのいいところは人の話に耳を傾け、学ぼうとする姿勢があることです。

 谷垣さんはそのような姿勢を政治家らしくないとあざ笑っているように聞こえます。人としても政治家としても失格です。これでは自民党の再生はあり得ません。

 <施政方針演説から>
 
 (友愛政治の原点)

 私もまた、この夏の選挙戦では、日本列島を北から南まで訪ね、多くの国民の皆さまの期待と悲痛な叫びを耳にしてきました。

 青森県に遊説に参った際、大勢の方々と握手させていただいた中で、私の手を離そうとしない、一人のおばあさんがいらっしゃいました。息子さんが職に就けず、自らのいのちを絶つしか道がなかった、その悲しみを、そのおばあさんは私に対して切々と訴えられたのです。毎年3万人以上の方々のいのちが、絶望の中で絶たれているのに、私も含め、政治にはその実感が乏しかったのではないか。おばあさんのその手の感触。その目の中の悲しみ。私には忘れることができませんし、断じて忘れてはならない。社会の中に自らのささやかな「居場所」すら見つけることができず、いのちを絶つ人が後を絶たない、しかも政治も行政もそのことに全く鈍感になっている、そのことの異常を正し、支え合いという日本の伝統を現代にふさわしいかたちで立て直すことが、私の第一の任務です。

 かつて、多くの政治家は、「政治は弱者のためにある」と断言してまいりました。大きな政府とか小さな政府とか申し上げるその前に、政治には弱い立場の人々、少数の人々の視点が尊重されなければならない。そのことだけは、私の友愛政治の原点として、ここに宣言させていただきます。今回の選挙の結果は、このような「もっとも大切なこと」をおろそかにし続けてきた政治と行政に対する痛烈な批判であり、私どもはその声に謙虚に耳を傾け、真摯に取り組まなければならないと、決意を新たにしております。




 鳩山首相施政方針演説 http://www.asahi.com/politics/update/1026/TKY200910260067.html?ref=reca

つづき
http://www.asahi.com/politics/update/1026/TKY200910260068.html?ref=reca

石巻・日和山  宮城の旅④

2009-10-26 05:22:50 | 出会いの旅
 10月21日(水)晴れ

 朝、宿近くの旧北上川の中州を散歩。橋の中央に立つと滔々たる流れに圧倒されそうだ。
 中州の川上側の先端部に行ってみた。船の舳先のようだ。秋葉神社がある。水面はすぐそこにあり、ちょっとした増水で水没しそうだ。近くの畳屋のおばさんに聞いてみると昨日も水が出たという。なるほど道がぬれている。

 長い年月にわたってそれでもここに人々の生活がある。すごいことだ。長男は埼玉県新座市に住むが次男の方が跡を継いでいるという。 

 小高くなった橋のたもとに「岡田劇場」がある。歴史を感じさせる建物で石巻の大衆文化のセンターになってきたところだ。由利徹はここから生まれ、石ノ森章太郎は映画を見に通ったという。

 岡田劇場http://www.sukima.com/16_hanamaki01_05/08okada.html

 私たちが泊めて貰った水沢屋旅館はこの劇場に近い。島倉千代子、フランク・永井、などなどの宿舎になり,女将さんは裏口から入って実演を見せて貰ったと語る。
 ついでながらこの旅館はホテルのようにこぎれいとはいえないが、廉価で部屋も風呂もさっぱりとしている。海の幸が食べきれない。
昔は修学旅行のこどもたちが多く泊り、従業員が手分けして市場などをガイドしたという。


 今日からは二人きりのレンタカーの旅。宿近くの日和山公園に登る。石巻市街はもちろん昨日訪ねた猫の島も指呼の間だ。

 日和山公園。http://www.youtube.com/watch?v=DMyrD8ofkwA&feature=player_embedded

 ぼくにとってはなじみのある人々の碑があった。北上川を船で下って初めて太平洋をみた10代の啄木と宮沢賢治の作品が興味深い。

   石川啄木の歌碑

    砕けてはまたかへしくる大波のゆくらゆくらに胸おどる洋

 明治35年5月28日、石川啄木が盛岡中学5年生の修学旅行で石巻を訪れ、長浜海岸を詠んだ2首中の1首。


   宮沢賢治詩碑

われらひとしく丘に立ち
青ぐろくして ぶちうてる
あやしきものの ひろがりを
東はてなく のぞみけり
そは巨(おお)いなる 鹽(しお)の水
海とはおのも さとれども
傳へてききし そのものと
あまりにたがふ ここちして
ただうつつなる うすれ日に
そのわだつみの 潮騒の
うろこの國の 波がしら
きほひ寄するをのぞみゐたりき

宮沢賢治(明治二十九年岩手県花巻町(現花巻市)生まれる。大正三年盛岡中学校卒業、大正六年盛岡高等農林学校(現岩手大学農芸化学科)卒業、詩人、童話作家、農業科学、鉱物研究者、童話では「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」、詩「雨ニモマケズ」は代表作、賢治が明治四十五年五月二十七日中学校四年の修学旅行に北上川を川蒸気で下り、石巻の日和山から生まれて初めて海を見て強い感動を受け、その折の印象を読んだものである。

 
 釈超空の作品はまさにこの地に立って昨日私たちが訪ねた田代島・網地島(あじしま)方面を遠望したときの感慨である


  釈 超空 歌碑

  海のおも いよいよ青し このゆふべ
  
        田しろあぢしま かさなりて見ゆ

釈 超空(本名 折口信夫)明治二十年大阪に生まれる。同四十三年国学院大学を卒業、慶応大学、国学院大学教授、文学博士、歌人、国文学者、民俗学者として著名。詩集「古代感愛集」は昭和二十三年芸術院賞をうけた。三十二年「折口信夫全集」全三十二巻を刊行 日本芸術院賞受賞。昭和二十三年四月神社庁の仕事で石巻を訪れ、前掲の歌はその折の作品三首中の一首である。

出典 日和山公園 碑巡りhttp://members.jcom.home.ne.jp/urawa328/hiyoriyama.html

 遠い昔、ぼくの祖父たちが船を泊めただろう川沿いの市場は今はなく湊町という地名だけが残っているだけだという。

松島 田代島  宮城の旅③

2009-10-25 06:54:22 | 出会いの旅
19日(月)続き

 松島で遊覧船での島巡りを楽しんだ後、奥松島の大高森に登る。道は結構きつかったが絶景。海と山から松島を堪能した。

  大高森http://senndai-tabi.seesaa.net/article/32315101.html

 ここにも晩翠の詩碑があった。

  晩翠詩碑http://watarubuu.web.fc2.com/0262.htm

 石巻の夜。海の幸が豊かでやすい。仙台もそうだった。


 10月20日(火)晴れ

 北上川旧河口の岸から田代島に向かう。息子夫婦に誘われて甲板に出る。波があり、やや揺れるが快適なクルージング。昔訪ねた牡鹿半島が沖にのびている。

 50分ほどで大泊という港に着く。船の代理店をやっているというおばさんに出会う。超過疎で村は空きやだらけだという。

 村を歩いていると民宿があった。「垂れ耳のジャック」のいる「はま屋」である。弘子さんが声をかけると主人が出てきてくださった。垂れ耳のジャックは行方不明である、生涯を終えたのではないかとのこと。弘子さんはこの猫のことをずうっと気にかけてきたようだ。


  垂れ耳のジャックhttp://catalog.typepad.jp/catalog/2006/09/post_0313.html

  ジャックはどこにhttp://www.sanriku-kahoku.com/news/2009_07/i/090723i-neko.html  

  はま屋の主人http://www.trot-web.jp/miyakura/index.html


 大泊からもう一つの港・仁斗田めざし山道を歩く。ゆったりと時が流れる。猫神社で夫婦は共同通信の記者の取材を受ける。猫が好きな人々の世界ではこの島は特別の存在なのか。仙台から取材にきたらしい。

 仁斗田の村ではあちこちで猫の歓迎を受ける。妻が持っているビニール袋にえさが入っているかと寄ってくる。この島では観光客がえさをやることは禁じられている。それでも寄ってくる。

 帰りの船がやってくるまでの2時間近くを港の待合所などで過ごした。一時間ぐらいは仰向けになって昼寝。
 当てにしていた昼食はとれないまま。ホテルのフロントで民宿で昼食はできる、予約はいらないと聞いてきたのだが事実ではなかったのだ。民宿にもただ一軒の雑貨屋(カップラーメンなどがおいてあるらしい)にも人影がないのである。

 これもまたいいか。「猫の島」だと騒がれても人間のこどものいない年寄りばかりの島である。観光客目当ての商売など誰も考えないのであろう。

 夕方、石巻で横浜に帰る息子夫婦と別れる。それほど話を交わしたわけではない。船や島でゆったりした時をともに過ごしただけである。でもぼくにはそれがうれしかった。誘ってくれてありがとう。

 街中の水沢屋旅館に泊まる。

晩翠忌  宮城の旅②

2009-10-24 20:22:28 | 出会いの旅
 10月18日(日)晴れ 一時小雨


 紹平・弘子夫婦と初めての旅が始まる。二人が結婚して間もない頃、祖父に顔見せのため室戸岬に行ったとき妻と娘は同道したがぼくはまだ仕事があったため遠慮した。その後、二人は「BAR招福堂」を開業し、旅行どころではなかった。

  BAR招福堂 http://r.gnavi.co.jp/a181700/

 5年たっていくらか落ち着いてきたのか、こんな日が来たのである。仙台で仙山線に乗り換えて作並下車、ついたのはニッカウィスキー宮城峡蒸溜所。

 案内嬢の後について一巡りする。前夜の川越祭りの接待の疲れのせいか、おいしいウィスキーの試飲のあとよれよれ。池畔のベンチで仰向けになる。四周の山に秋の気配。

 宮城峡蒸溜所http://www.nikka.com/reason/introduction/miyagikyo/photo/index.html

 若い夫婦にとっては研修旅行でもあるようだ。どんな仕事でもその道の専門家になるのは容易なことではない。息子はこの道15年である。僕らがこの夏に訪ねた北海道・余市の蒸溜所などもすでにいったことがあるという。

 夜、仙台の居酒屋で妻と二人の会話を聞いていると昔のことが思い出される。ある時から息子は父との旅行はごめんだと言い張ったという。九州へ行っても社寺巡りばかりである。対馬の山の上で「紹平、あれが朝鮮半島だ」という。何のことかいと思ったらしい。

 だから、息子と一緒の旅というのも本当に久しぶりだ。


 19日(月)晴れ

 朝、美順(みすん)からのメールで「ひ孫」が誕生したことを知る。母子ともに元気、優里花(ゆりか)と名付けたという。順子(すんじゃ)の二人目の孫である。宮城の旅の朝に聞くうれしい知らせ、元気づく。

 青葉城を訪ねる。今日は晩翠忌らしく胸像の前で記念行事が進行中だ。観光はそっちのけでぼくはこちらの仲間入り。草笛で「荒城の月」を演奏している。様々なグループが選ばれて参加しているという。最後は全員で「荒城の月」の大合唱。ぼくもにわか参加者となる。仙台にきてよかった。

  土井晩翠http://suifut.blog40.fc2.com/blog-entry-108.html

 様々な歌手の「荒城の月」をどうぞ。ジュリーも歌います。

 荒城の月http://www.youtube.com/watch?v=NdW9VpjlJNY&NR=1

宮城の旅①  鳴子峡・北上川

2009-10-23 12:47:04 | 出会いの旅
 宮城県の旅から昨夜9時頃帰ってきました。おかげさまで元気です。

 とりあえず、印象に残った風景を二つ。

 昨日(22日)みたばかりの鳴子峡。 今はこの渓谷に降りる道は閉ざされており、橋の上からの眺めですが息をのむような景観です。

 鳴子峡http://kouyog.jp/common/photo/koyog/normal/K04M01000-M00967.jpg


 21日 登米(とめ)市登米(とよま)町の土手上から眺めた北上川。川幅いっぱいゆったりと流れています。

 北上川http://miumiu.tea-nifty.com/photos/uncategorized/2007/07/27/uni_2497.jpg

お客

2009-10-18 06:33:16 | 友人たち
 川越祭りに池袋商高校OGOBの孝子さん、幸代さん、浩二くんの3人と李さん一家4人とがきてくれました。11時に川越駅で迎えてから、夜の8時過ぎに同じところで見送るまで一日を楽しむことができました。

 ぼくがうれしかったのは北朝鮮から苦難の果てにやってきた家族と今年50になる昔の生徒とが心を開いて交流することができたことです。卒業生が皆、それぞれの人生を精一杯生きてこの一家の人々の抱える課題を一人の隣人として受け止めることができる魅力ある人になっているのです。

 祭りが結びつけた偶然の出会いですがまたとない最高の人生大学です。これが土佐で言う「お客」です。祭りの喜びをともにしながら、それぞれの人生を交流しあうのです。料理もお酒もおいしくなるに決まっています。

 今日はこれから大宮に行って、息子夫婦との東北の旅に出発します。

 夕べのうちにカツヨシさんからメールが届いていました。


 明日から旅の空ですね。
  
    ・秋風、行きたい方へ行けるところまで
    ・何を求める風の中ゆく
    ・行き暮れてなんとここらの水のうまさは

 元気で行ってらっしゃい! 

 
 ありがとうございます。どんな旅になるのでしょう。どこかの宿から旅の便りを出すことができるでしょうか。                
         





日本八景 室戸岬

2009-10-17 07:31:39 | ふるさと 土佐・室戸
 今日から川越祭りです。池袋商業高校卒業生3人と李さん一家がきてくれます。我が家では久しぶりに「お客」をします。昨年末、北朝鮮を脱出してきた二人の小学生と会えるのでぼくはわくわくしています。
 こどもの時の祭り(室戸では神祭といいます)を思い出すと心が高揚するのです。獅子コマ、棒うち、チョーサイ(御輿)、行列など神事に関わる思い出はもちろんのことですが、ふだんより多い小遣いを貰って何を買うか、わくわくしたものです。
 彼らには日本での祭りは初めてかもしれません。心に残る一日になるといいなあ。

 明日からは息子夫婦との初めての旅行です。松島にも行くので調べてみると「日本三景」は江戸時代の儒学者の著作に由来するということです。

 故郷・室戸岬は1927年に日本八景に選定されていますが、その際、田山花袋が紀行文を書いて発表していることを知りました。

 日本新八景
 
 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2009/08/14 08:40 UTC 版)

 1927年(昭和2年)に、大阪毎日新聞社、東京日日新聞社主催、鉄道省後援で、一般からの投票をもとに選定された日本を代表的する8つの景勝地。

 山岳、渓谷、瀑布、温泉、湖沼、河川、海岸、平原の8部門について、一般からのハガキ投票による各部門の投票数10位までを候補地とし、文人、画家、学者、政治家等の名士による審査で八景を決定した。選定された景勝地には、著名な文人と画家が訪れ、その紀行文が新聞紙上に掲載された。また、八景の選に漏れた景勝地の中から、日本二十五勝、日本百景も選定された。

 ちょうど一般の国民が観光に目を向けるようになった時期に行われた日本新八景の選定は、広く国民の関心を集め、投票総数は当時の日本の総人口を大きく上回る約9,700万通にも及んだ。


 日本新八景

海岸:室戸岬(高知県) - 田山花袋
湖沼:十和田湖(青森県・秋田県) - 泉鏡花
山岳:温泉岳(雲仙岳)(長崎県) - 菊池幽芳
河川:木曽川(愛知県) - 北原白秋
渓谷:上高地(長野県) - 吉田絃二郎
瀑布:華厳滝(栃木県) - 幸田露伴
温泉:別府温泉(大分県) - 高浜虚子
平原:狩勝峠(北海道) - 河東碧梧桐
(注)部門:景勝地(所在地) - 紀行の作者の順


 『日本八景』という本も出版されて、これらの紀行文が収載されています。http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/31504616

 図書館で借りてきて早速、「室戸岬」を読んでみました。花袋は大阪から汽船で室戸沖を通り、高知からハイヤーで室戸岬を紀行し、油屋という旅館で泊まっています。新聞記者なども同道していて町長などの案内を受けた名士のありきたりの観察のように感じました。
 先日、山頭火がこのあたりの木賃宿で書いた日記を読んだばかりですから、ちょっとばかり花袋には気の毒ですが~。

 近頃の室戸岬の様子を伝えるブログを見つけました。ぼくの小学校の同級生の息子さんの手によるもののようです。室戸岬の入り口(土佐湾側の)で喫茶店と宿を経営されています。暇がある方は立ち寄ってみてください。現代のお遍路さんの姿もうかがい知ることができます。

http://blog.umamenoki.com/?eid=1491645

 
  うまめの木


 明日は横須賀で室戸岬会があると案内を受けました。関東に住む室戸岬出身者の同郷会です。小学校の同級生・功子さんの誘いを受けて去年初めて出席させて貰いましたが、今年は旅の空です。
 横須賀市浦賀に一時、「室戸岬町」がありました。マグロ船の基地だったのです。ぼくが息子夫妻と訪ねる宮城県石巻も日本有数の漁港で室戸岬の船も世話になったところです。これも何かの縁かもしれません。

 功子さん、皆さんによろしく伝えてね。来年はきっと。

愛車・順子(すんじゃ)号

2009-10-16 07:16:44 | 父・家族・自分
 15日(木)
 穏やかな好天で体調も良さそうなのでいつもより早く9時頃には家を出てこども動物自然公園を目指すことにしました。

山田の土手から入間川自転車道に乗り、荒川自転車道で北上します。
 
鳥羽井沼を過ぎたあたりで数十人の男たちがカメラを構えてたむろしているのに出会いました。北国から東南アジアに渡る小鳥が夜明けとともにこのあたりの藪に羽を休めていると言います。一羽か二羽の小型の鳥で名も聞きましたが思い出せません。
 藪から飛び立つ一瞬を撮ろうとしているのでしょうか。気長な人たちです。

鳥羽井沼では釣り人が糸を垂れています。
 
ぼくと同じ前期高齢者が多いのかと思われます。ぼくは自転車こぎと散歩で日々を過ごしています。こんなに悠長にカメラを向けたり、釣り糸を垂らしたりして待ち続けることはできません。

 ふと前日に読んだ山頭火の遍路日記を思い出しました。旅に生き旅に果てた人生です。様相はだいぶ違いますがぼくもまた日々を旅に生き、旅に果てようとしているのかと思ったのです。日帰りの自転車の旅の連続でたまに列島のあちこちに出かけます。

 荒川自転車道と別れて比企自転車道に入りました。市ノ川の土手上を行くのですが市ノ川大橋までは未整備で砂利道です。

 比企自転車道http://www.cyclesports.jp/jitenshado/023/index.html

 昼頃こども動物自然公園着、昼食。幼稚園や小学校の遠足のシーズンなのか幼児の群れがあちこちに。その中の芝生でしばし午睡。

 帰りは途中から自転車道を外れ、いつもの越辺川の土手を落合橋まで。家に着いたのは4時を過ぎていました。

 ぼくの自転車は「順子(すんじゃ)号二世」といいます。ぼくが手術を受けて学校に復帰した06年夏に順子からプレゼントして貰いました。荒川区のリサイクル・ママチャリです。
 退職後は川越でぼくの足になっています。近頃、前後輪が相次いでパンクしたためタイヤとチューブを取り替えました。ブレーキが甘くなったのも直して貰いました。
 40年近く世話になってきた自転車屋さんが高齢のため閉店してしまい、これはもう新車を買うほかはないのかと思っていたら、足下の思わぬところに自転車屋さんが見つかりました。
 これでまだしばらくは「順子号」に役立って貰えます。「二世」というのはその前の自転車も同じようなリサイクル車で、順子に買って貰ったものだったからです。
 順子は昔の生徒ですがぼくの義娘です。まだ40台なのに孫もいます。我が家の血のつながったこどもたちに孫はいないのですがぼくにはひ孫までいるのです。
 15歳の順子と出会ったのは77年のことですからもう32年がたちました。いつの頃か義「親子」の盃を交わしました。人の面倒をみるために生まれてきたような人です。「父」らしいことを何かしてきたわけではありませんが折に触れてぼくのことも気にかけてきてくれたのです。
 

 「順子号」は初代から数えればもう10年もぼくの足になって東京の大塚、牛込界隈を走り、今は埼玉・入間野、比企丘陵を疾走!しています。


中国残留孤児 最後の闘い

2009-10-15 05:35:39 | 中国残留日本人孤児
 昨日(14日)は川越氷川神社の例大祭でした。旧市街地はどこも紅白の幔幕がかけられて17日18日の川越祭りが近いことを思わせます。今年の川越祭りの予定です。

 川越祭り(予定)http://www.city.kawagoe.saitama.jp/www/contents/1105080001602/index.html

 17日には池袋商高の卒業生たちがきてくれるそうで楽しみにしています。

 昨日は「きいちご基金」の移動教室の企画で右往左往しました。インフルエンザの蔓延で無期延期になっているのですが、「残留孤児」のかたがたが楽しみにしていて、バスの旅とは違った形で何かできないかという声があるのです。
 11月に「川越散歩」というのはどうだろうかと考えて、昼食交流会の場所候補をあちこち訪ねてみたりしました。近年の川越ブームで日曜日に大勢で昼食会ができるところはなかなかありません。伊佐沼のほとりにある元の国民年金保養センターに空きがあることがわかりました。世話人の皆さんと相談して実行の可否を決めたいと思います。
 学校ではインフルエンザのため休校や学級閉鎖になるところが少なくないようです。友人たちとの再会を楽しみにしている方々の気持ちもよくわかります。どうしたものでしょう。

 菅原さんたちが「残留孤児」支援問題で「最後の闘い」に立ち上がるというニュースがありました。ぼくの友人のなかには様々な事情のため、今の支援策もうけられない方がいます。何とかしなければなりません。


「尊厳守る会」設立総会 菅原代表、全国大会開催決める                 
               2009/10/01 毎日新聞 神奈川
 ◇「最後の闘い」

 「中国残留孤児の尊厳を守る神奈川の会」(横浜市中区吉田町)の設立総会が30日、市内で開かれた。代表に選ばれた菅原幸助さん(84)=鎌倉市=は「新政権ができ、待遇改善の最後の闘いだ」と訴えた。11月2日、全国大会を市内で開くことを決めた。

 会には県内の孤児とその2・3世、支援者ら約200人が参加した。過半数が生活保護だった孤児に対し、自公政権下でできた新支援策が昨春実施されたが、「生活保護に準ずる額であり、問題が多い」との不満が新組織結成につながった。

 大会宣言で「国策で棄民された孤児に対し、国の謝罪はなく、孤児が受けた心の傷は癒やされていない。新政権の誕生を機に再び団結し、全面解決をはかろう」と訴えた。

 全国大会には鹿児島や京都などの孤児団体が集まる。菅原代表は「民主党は孤児問題に理解があり、近く菅直人副総理や江田五月参院議長に会い、政府交渉を始める。高齢者が多く、残された時間は少ない」と語った。【網谷利一郎、写真も】

 菅原幸助さんhttp://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/efec8e4eec16591da3e57bbe7a9c75bd

山頭火 室戸岬

2009-10-14 18:27:17 | ふるさと 土佐・室戸
皆さんは種田山頭火(たねだ・さんとうか)という人をご存じですか。

 ぼくは自由律の俳人で旅に生きた人、ぐらいしか知りません。あちこちを旅しているとこの人の句碑があったり、写真集が目に入ったりするのですから、結構、有名人のようです。

 高知県東洋町甲浦(かんのうら)にも句碑がありますから高知にもきたことは知っていますが、ぼくの故郷・室戸岬も訪れていることがわかりました。
 
 1939年11月、四国遍路をして徳島から室戸岬、高知を経て松山に向かっています。松山に住み着いた後、翌年死去したといいます。次のブログには「死に場所を求めて四国に渡り」と書いてあります。

 山頭火http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic41.html


「四国遍路日記」<1939(昭和14)年11月1日~1939(昭和14)年12月16日>というものがあります。
 
 11月4日に阿波路(徳島県)から土佐路(高知県)に入って東洋町甲ノ浦(かんのうら)に、5日は室戸市佐喜浜に泊まりました。
 
 室戸岬の尖端に立ったのは6日午後3時頃と書かれています。24番札所東寺に登った後、麓の町・津呂で泊まるつもりが、断られて室戸の原屋に泊まったそうです。この津呂にぼくの生家があります。(生まれたのは41年7月ですから2年くらい後のことです)。

 毎日5里(20km)とか6里(24km)とか歩いているようです。徳島県境から室戸岬までは今では立派な国道が通じています。平安の昔、同じ道(といっても険阻な山道ですが)を空海が歩き、室戸岬で悟りを開いたそうです。
 ぼくになじみの深い、といっても歩いたことはありません、このあたりの遍路日記を紹介します。読んでいると当時の様子が想像できてけっこうおもしろかったのです。

 旅心が芽生えた方がおられたらご連絡ください。何かの役に立てるかもしれません。



 十一月四日 雨、風、行程六里、甲ノ浦、三福屋。

 雨中出立、そして雨中 行乞(ぎょうこつ)(今日、牟岐町で、初めて行乞らしく行乞した)、雨が本降りになった、風が強く吹きだした、――八坂八浜を行くのである、風雨のすきまから長汀曲浦を眺めつつ急ぐ、鯖(さば)大師堂に参詣する、風で笠を吹きとばされ、眼鏡もとんでしまって閉口していたら、通りがかりの小学生が拾ってくれた、ありがとうありがとう、雨いよいよしげく、風ますますすさぶ、奥鞆(おくとも)町で泊るより外なくなったが、どの宿屋でも泊めてくれない、ままよとばかり濡れ鼠(ぬれねずみ)のようになって歩きつづける、途中どうにもやりきれなくなり、道べりの倉庫の蔭で休んだ、着物をしぼったりお昼をたべたり、二時間ばかりは動けなかった。
 どしゃぶり! まったくそうだった、そしてそれを吹きまくる烈風、雨が横さまに簾(すだれ)のようになってそそいだ、私は天からたたきつけられたように感じた、むしろ痛快だった。
 
 暮れちかく宍喰(ししくい)町まで来たには来たが、また泊れない、ようやく甲ノ浦(かんのうら)まで来て、ようやく泊めて貰うことが出来た、ありがたかった、よい宿でもあってうれしかった、同宿に気むつかしい病人がいていやだったが。
 宿のおばさんがお祭の御馳走のお裾分(すそわけ)だといって、お鮨(すし)を一皿おせったいして下さった、おいしかった、私も今夜は二杯傾けた。……

  野宿いろ/\

波音おだやかな 夢のふるさと
秋風 こんやも星空のました
落葉しいて寝るよりほかない 山のうつくしさ
生きの身のいのちかなしく 月澄みわたる

  いつぞやの野宿を

わがいのちをはるもよろし
大空を仰げば月の澄みわたるなり

留置郵便はうれしいありがたい

秋のたより一ト束おつかけてゐた
波音の松風の秋の雨かな
歩るくほかない秋の雨ふりつのる


 十一月五日 快晴、行程五里、佐喜浜、樫尾屋。

 すっきり霽(は)れあがって、昨日の時化(しけ)は夢のように、四時に起きて六時立つ。
今日の道はよかった、すばらしかった(昨日の道もまた)。
山よ海よ空よと呼かけたいようだった。
波音、小鳥、水、何もかもありがたかった。
太平洋と昇る日!
途中 時々行乞。
お遍路さんが日にまし数多くなってくる、よい墓地があり、よい橋があり、よい神社があり、よい岩石があった。……

 おべんとうはとても景色のよいところでいただいた、松の木のかげで、散松葉の上で、石蕗(つわ)の花の中で、大海を見おろして。

 ごろごろ浜のごろごろ石、まるいまるい、波に磨かれ磨かれた石だ。
早いけれど、佐喜浜(さきのはま)の素人宿ともいいたいような宿に泊った、浜はお祭、みんな騒いでいる、今夜も私は二杯傾けた! 一室一人で一燈を独占した、おかげで日記をだいぶ整理することが出来た。
行乞の功徳、昨日は銭四銭米四合、今日は銭二銭米五合、宿銭はどこでも木賃(きちん)三十銭米五合代二十銭、米を持っていないと五十銭払わなければならない。
行乞のむつかしさ、私はすっかり行乞の自信をなくしてしまった、行乞はつらいかな、やるせないかな。

(牟岐、長尾屋)  (甲ノ浦、三福屋)

夜 菜葉、芋    菜葉

  塩鰯        煮魚
  唐辛佃煮      菜漬

朝 味噌汁     味噌汁

×唐辛佃煮     ×菜漬

 菜漬

(×印をお弁当に入れる)





(十一月五日、室戸岬へ)

おほらかにおしよせて白波

  ごろごろ浜

水もころころ山から海へ

  銃後風景

おぢいさんおばあさん炭を焼いてゐる
旅はほろほろ月が出た
旅のからだをぽりぽり掻いてゐる
病みて旅人いつもニンニクたべてゐる

(室戸)

わだつみをまへに わがおべんたうまづしけれども
あらなみの石蕗の花ざかり
松はかたむいてあら波のくだけるまゝ
蔦(つた)がからまりもみづりて電信棒
われいまここに 海の青さのかぎりなし
秋ふかく分け入るほどはあざみの花
墓二つ三つ大樟(おおくす)のかげ
落葉あたたかく噛みしめる御飯のひかり
いちにち物いはず波音

  野宿さま/″\

こんやはひとり波音につつまれて
食べて寝て月がさしいる岩穴
枯草ぬくう寝るとする蠅もきてゐる
月夜あかるい舟があつてそのなかで寝る
泊るところがない どかりと暮れた
すすき原まつぱだかになつて虱(しらみ)をとる
かうまでよりすがる蠅をうたうとするか
水あり飲めばおいしく洗ふによろしく
波音そのかみの悲劇のあと

  太平洋に面して

ぼうぼううちよせてわれをうつ

 現実直前の力。

大地を踏みしめ踏みしめて歩け!


 十一月六日 曇、時雨、晴、行程六里、室戸町、原屋。

 朝すこしばかりしぐれた、七時出立、行乞二時間、銭四銭米四合あまり功徳を戴いた、行乞相は悪くなかったと思う、海ぞいに室戸岬へいそぐ、途上、奇岩怪石がしばしば足をとどめさせる、椎名(しいな)隧道は額画のようであった、そこで飯行李を開く、私もまた額画の一部分となった訳である。

 室戸岬の突端に立ったのは三時頃であったろう、室戸岬は真に大観である、限りなき大空、果しなき大洋、雑木山、大小の岩石、なんぼ眺めても飽かない、眺めれば眺めるほどその大きさが解ってくる、……ここにも大師の行水池、苦行窟などがある、草刈婆さんがわざわざ亀の池まで連れて行ってくれたが亀はあらわれなかった、婆さん御苦労さま有難う。

 山の上に第二十四番の札所 東寺(ひがしでら)がある、堂塔はさほどでないが景勝第一を占めている、そこで、私は思いがけなく小犬に咬(か)みつかれた、何でもないことだが寺の人々は心配したらしい、私はさっさと山を下った、私としてこれを機縁として、更に強く更に深く自己を反省しなければならない。

 麓(ふもと)の津呂(つろ)で泊るつもりだったけれど泊れなかった(断られたり、留守だったりして)、とうとう室戸の本町まで歩いて、やっと最後の宿のおかみさんに無理に泊めて貰った、もうとっぷり暮れていたのである。

 片隅で無燈、一杯機嫌で早寝した(風呂があってよかった)。

(十一月六日)“室戸岬”へ

波音しぐれて晴れた

あらうみとどろ稲は枯れてゐる

かくれたりあらはれたり岩と波と岩とのあそび

海鳴そぞろ別れて遠い人をおもふ

ゆふべは寒い 猫の子鳴いて戻つた

あら海せまる蘭竹のみだれやう

 東寺

うちぬけて秋ふかい山の波音

 土佐海岸

松の木松の木としぐれてくる


 十一月七日 秋晴、行程四里、羽根泊(小松屋)。

 早起、津寺(つでら)拝登、行乞三時間、十時ごろからそろそろ西へ歩く――(銭十六銭米八合)。

 途中、西寺(にしでら)遥拝(すみません)、不動岩の裏で、太平洋を眺めながら、すこし早いが、お弁当を食べる、容樹(アコウ)の葉を数枚摘む。

松原がつづく、海も空も日本晴、秋――日本の秋、道そいの畑には豌豆がだいぶ伸びている、浜おもとがよく茂っている、南国らしい、今日は数人のおへんろさんと行き逢ったが、紅白粉(べにおしろい)をつけた尼さんは珍らしかった、何だか道化役者めいていた、このあたりには薄化粧した女はめったに見あたらないのに。
 喜良川(きらがわ)の松原で、行きずりの老遍路夫婦と暫らく話した、何となしに考えさせられる事実である、三里あまり歩いて来て、羽根(はね)、その街はずれの宿――屋号が書き出してない――家に泊った、木賃宿としては新らしい造作で、待遇も悪くない、部屋も井戸端も風呂も、そして便所も広々として明るくて、うれしかった、なかなかよい宿であった。

 今日は三時前の早泊り、先夜昨夜に懲(こ)りたから。
清流まで出かけて、肌着や腰巻を洗濯する、顔も手も足も洗い清めた、いわば旅の禊(みそぎ)である、こらえきれなくて一杯ひっかける、高いと思うたけれど、漬物を貰い新聞(幾日ぶりか!)を読ましてくれたから、やっぱり高くはなかった、明日は明日の風が吹こう、今日は今日の風に任せる、……好日好事だった、ありがたしありがたし。

 夜はおそくまで執筆(一室一人一燈のよさだ)、昨夜をとりかえしたような気がした。
 
 先日から地下足袋(じかたび)が破れて、そのために左の足を痛めて困っていたところ、運よくゴム長靴の一方が捨ててあるのを見つけた、それを裂いて足袋底に代用したので助かった、――求むるものは与えらるということ、必要は発明の母という語句を思いだしたことである。

 寒い地方の人がまろい、いいかえると、温かい地方の人間は人柄がよくない、お修行しても寒いところの方がよく貰えると或る修行遍路さんが話した、一面の道理があるようだ。

 行乞していると、今更のように出征の標札――その種類はいろいろある、地方によって時節によって異るが――その標札が多いのに気がつく、三枚も並べてあるのにはおのずから頭がさがる。……

 
 安宿では――木賃宿では――遍路宿では――


□一人一隅、そこに陣取って、それぞれの荷物を始末する。
□めいめいのおはちを枕許に(人々の御飯)。
□一室数人一鉢数人一燈数人。
□安宿で困るのは、便所のきたなさ、食器のきたなさ、夜具のきたなさ、虱(ムシ)のきたなさ、等々であろう。
○安宿に泊る人はたいがい真裸(大部分はそうである)である、虱がとりつくのを避けるためである、夏はともかく冬はその道の修行が積んでいないとなかなかである(もっとも九州の或る地方のようにそういう慣習があるところの人々は別として)。

(夕食)        (朝食)

莢豆と芋との煮付    味噌汁二杯
南瓜の煮付       大根漬
大根浅漬

御飯もお茶もたっぷり  たっぷり


犬二題


□四国の犬で遍路に吠えたてるとは認識不足だ、犬の敵性。
□昨日は犬に咬みつかれて考えさせられ、今日は犬になつかれて困った、どちらも似たような茶色の小犬だったが。
□“しぐるるや犬と向き合つてゐる”


 四国をまわっていて、気のつくのは空家が多いことである、ベタベタビラを張られた空家が見すぼらしく沿道に立ちならんでいる!

 阿波の着倒れ、土佐の食い倒れ、というそうな。
阿波では飲食店、土佐では酒を売る店が多すぎる!
土佐は南国暖国、秋のおわりに、豆苗が伸び、胡瓜がたくさんぶらさがっている、よい国だ。
今度、四国を巡遊して、道路がよくなっていることを感じたが、橋梁が至るところに新らしく美しいのを観た。
米が二度出来るのは安芸郡――この地方である、伊尾木は殊に温暖で収穫も多いらしい。  


(十一月七日)

草の実こんなにどこの草の実
ここで泊らう草の実払ふ
牛は花野につながれておのれの円をゑがく

 途上即事

ついてくる犬よおまへも宿なしか

石ころそのまま墓にしてある松のよろしさ

旅で果てることもほんに秋空

ほろほろほろびゆくわたくしの秋

一握の米をいただきいただいてまいにちの旅

“自適集”





-----------------------------------------
 四国遍路日記 - 種田 山頭火 ( たねだ さんとうか )   http://novel.atpedia.jp/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E9%81%8D%E8%B7%AF%E6%97%A5%E8%A8%98-%E7%A8%AE%E7%94%B0%20%E5%B1%B1%E9%A0%AD%E7%81%AB/page/3273.html

浅沼稲次郎さんの死から49年目の日に

2009-10-13 07:15:44 | 父・家族・自分
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 昨日は浅沼稲次郎社会党委員長が暗殺されて49年目の命日でした。浅沼さんの死が当時の僕にどんな大きな打撃を与えたかは先に紹介した父宛の手紙から想像してもらえると思います。身も心も深く傷んで回復に日時を要しました。浅沼さんは19歳の僕にとって政治上の父のような存在ではなかったのかと思われます。

 昨日、こんなHPを見つけて読ませてもらいました。暗殺されたときの演説の下書きがあります。49年目に初めて読みました。民主主義の確立を訴える壇上で殺されたのです。読みながら改めて深い敬意を感じました。

  人間機関車 ぬまさんhttp://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/asanuma.htm 

 夜になって当日(1960年)の日記を見てみました。

 10月12日(水)ああ!浅沼委員長倒る!本日午後 右翼の凶刃に!

 こういう見出しに始まって実に15ページを費やしています。赤い色鉛筆の大きな文字で「浅」「沼」「稲」「次」「郎」と一字一字5ページにわたって書き、締めくくっています。

 こんな一節があります。

  あなたはこれから先も、今までと同様に、またはそれ以上に、ぼくの胸に生き続けられることでしょう。でも、私は、何よりもあなたとともにもっともっと生きてみたかった。今、あなたを失ったことは、ぼくにとってこれ以上の不幸はないでありましょう。失礼な言い方ですが、あなたを踏み台にして、ぼくはもっと生きたかったのです。
 あなたを失ったことは生命に一番大切な栄養の重大な部分を失ったことです。現在、残念でたまらないのに、未来のいつか、どれほど悔しく思うことでしょうか。それを思うと私は空虚です。
   (略)
 でも、あなたのあの機関車のように力強く、生き生きした青春の成熟した情熱は、私たちをして、あなたを生かしめずにはおかないでしょう。せめて!せめて!
それだけでもおなぐさめにしてください。 (略)

 
 高校生の頃に読んだ有島武郎の「小さき者へ」が心の支えになっているようです。

 何十年ぶりかに「小さき者へ」を読んでみました。幼くして母を失った子供たちに心を尽くして書いた父のメッセージです。

 浅沼さんを失って49年。この方に感じた敬意は今もぼくのなかに生きていてなかなか「歴史上の人物」になってはくれません。(合掌)



 「小さき者へ」有島武郎http://www.aozora.gr.jp/cards/000025/files/206_20463.html

 浅沼さんの暗殺 父への手紙②http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/086229c1a0bc99a875d23da02f23ee03