川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「殺戮を止めてください」

2008-12-31 05:55:04 | 政治・社会
 世界中のひとびとが見ている中で果てのない殺戮(さつりく)が続いています。イスラム原理主義ハマスの壊滅をめざすイスラエル軍のパレスチナ・ガザ地区への無差別攻撃はとどまることがありません。米英両国がイスラエルの行動を支持容認しているため誰もこれを停めることが出来ません。
 日本の出番ではないでしょうか。戦争と戦力を放棄した憲法を持つ日本の指導者が先頭に立って紛争をテロや戦争という武力で解決しようとする者にNO!の声を届けるのです。
 衆参両院で国会決議をする。東京などで国民集会を開く。賛同する全政党が共催し、イスラエルとパレスチナの国民の心に届くようなメッセージを採択する。首相と両院議長が国民を代表してイスラエルとパレスチナを訪れメッセージを届ける。
 とりあえずこの程度のことは出来ないでしょうか。「殺戮をやめ、話し合いで解決する」。私たちのほとんどの思いと願いを結集し、形にし、伝えに行くのです。麻生さん、小沢さん、志位さん、太田さん、福島さん、綿貫さん…。リーダーシップを発揮してくれませんか。
 生きたいと願うひとびとの意志を萎えさせてしまいそうな絶望的な状況を何とか改善しなければなりません。パレスチナ・イスラエル問題は現代の世界を引き裂き、ひとびとを不安に陥れている最大の要因の一つです。

 力になるかどうかはわかりません。しかし、世界中の多くのひとびとが共感してくれるはずです。戦争の放棄を誓った私たちにして出来ることです。

 殺戮の連鎖を止めさせるために、私たち、日本国民が一つになって立ち上がるときではありませんか。
 新しい年はもうすぐそこです。
 

不知火海の旅 備忘録(4)水俣・つづき

2008-12-30 07:21:45 | 出会いの旅
 20日(土)晴れ

 賀明さんご夫妻と別れる。私たちは水俣湾埋め立て地の丘につくられた市立水俣病資料館を見学。ぼくは脚が棒のようになって疲れ果てる。
 少し休んだあと親水護岸付近につくられた水俣病慰霊碑や広い芝生に並ぶ「魂石」群付近を散歩。

 魂石http://www.southwave.co.jp/swave/8_cover/cover_200036.htm


 水俣湾の水銀ヘドロを埋め立てたこの広大な広場を取り囲む鋼矢板の耐用年数はたかが50年だという。東京都が築地市場の移転候補地にしている豊洲の東京ガス跡地のことを思い出した。有毒物の撤去のため数千億円の投与が見積もられている。50年などというのは地球の歴史からすればほんの一瞬だ。水俣はどうするつもりなのだろう。
 
 百間(ひゃっけん)排水口へ。有機水銀を含む工場排水が垂れ流されていたところだ。百間港は埋め立て地となり当時の風景を想像することも難しい。水俣の漁師たちはわざわざ漁船をこの排水口付近につなぎに来たという。フナムシなどが寄りつかなくなり船が長持ちすると言い伝えられたらしい。

 水俣の旅の最後に水俣病の原点ともいえるところを訪れた。チッソの幹部たちはものごとが明らかになってからも排水の垂れ流しをやめなかった。国の幹部も県の幹部も知らんぷりを続けた。。取り返すことのできない生態系の破壊が進み、この世の地獄を生み出した。なぜ、このようなことを平然とやれるのだろう。どうしたらいいのだろう。


 水俣川に沿う道を遡り、鹿児島空港に向かう。途中、大口という町のお好み焼き屋さんで昼食後、曽木の滝による。
 想像していたよりも雄大な風景に疲れていた足も動く。

  曽木の滝http://www.pmiyazaki.com/kyusyu/sogi_taki/

 付近に野口遵がつくった発電所の遺構があるというので観に往く。今はダム湖に沈んで何も見えなかった。


  曽木発電所遺構http://kyushu-heritage.jp/map/36sogi/36sogi.html


 不知火海の旅のいよいよ最後にとうとう「野口遵」に行きあたった。チッソの祖(おや)である。

 鹿児島空港からの飛行機では雲海の果ての夕焼けがみごとだった。

(付録) 

 昨夜、「野口遵」についてパソコンで調べてみた。一代で財閥を築いた巨人であることは間違いない。紹介は他日を期す他はないが、ぼくの人生と関わりのあった「朝鮮奨学会」の代表理事の権碩鳳さんの言葉が出てきたので忘れないように記録しておきたい。肯定的な人物評価をされている。
「興南(北朝鮮)に本籍を移し」たとか、「唯一の住所にした」とかとある。出典などを知りたいものである。年表に寄れば「死」は伊豆の韮山である。

 

 20世紀日本の経済人61 飛翔篇 (日本経済新聞00・3・6)
「おれの全財産はどのぐらいあるか」。1940年(昭和15年)2月、野口が京城(現ソウル)で病に倒れたとき、側近をまくら元に呼んで調べさせた後、こう語ったという。
 「古い考えかもしれんが、報徳とか報恩ということが、おれの最終の目的だよ。そこでおれに一つの考えがある。自分は結局、化学工業で今日を成したのだから、化学方面に財産を寄付したい。それと、朝鮮で成功したから、朝鮮の奨学資金のようなものに役立てたい」
 こうして私財3000万円(現在の価値で約300億円)のうち、2500万円で化学工業を調査研究するための「財団法人野口研究所」が設立され、500万円を朝鮮総督府に寄付して「朝鮮奨学会」の原資とした。日本にも古今、富豪と呼ばれる人は数多いが、全財産を投げ出してまで社会貢献を志した例は、あまりないのではなかろうか。
 野口研究所は戦前、アセチレンやイオン交換樹脂の製造と利用といった分野で業績を上げ、戦後も木材化学やプラスチックの研究、森林資源開発の調査などで多くの寄与をしている。
 「野口の行動には、戦時中の植民地主義のにおいが全くなく、すがすがしささえ感じる。それは金銭に恬淡とし、純粋な開拓精神に突き動かされていたからではないか」(野口研究所理事の藤本透-2000年3月当時)
 朝鮮奨学会代表理事の権碩鳳も、「朝鮮で事業を展開しているうちに、郷土愛のようなものが芽生えたようだ。興南に本籍を移し、自ら唯一の住所としたのもその表れ」と分析する。
 野口の理念や情愛によって生まれたといえる朝鮮奨学会は、いまも朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)籍と韓国籍の理事が同数ずつで構成、南北の人間が机を並べて仕事をしている団体だ。これまでに4万人近い奨学生を送り出した実績を持つ。
 「個人の所属や思想、信条にかかわらず一致協力して奨学事業を推進していきたい。それが国家や民族を超えて事業を追求した、野口の遺志を継ぐことにもつながる」(権)という。

 出典 野口研究所とは?http://www.noguchi.or.jp/lab_noguchi.html




不知火海の旅 備忘録(3)水俣

2008-12-29 11:32:16 | 出会いの旅
 12月19日(金)
 相思社を訪ね水俣病歴史考証館を見学する。遠藤邦夫さんが90歳の義母にもわかるようにチッソの設立から今日までの歴史を丁寧に説明してくれる。ぼくは今まで勉強していなかった野口遵(したがう)という人についてもっと知りたいと思うようになった。チッソの創立者。
 東大OBの技術者だった彼が塩田跡地を買いたたいて工場を建てたときから水俣での歴史がはじまった。戦中に昭和天皇を水俣工場に案内する得意満面の写真がある。彼は晩年にその財産の大半を寄付したという。
 朝鮮奨学会の設立も彼の寄付に基づく。今日に至るまで多くの在日コリアンがこの奨学金の世話になっている。ぼくの生徒たちも例外ではない。しかし、彼らのほとんどは植民地支配の歴史と共に「朝鮮窒素」の名は知っているかも知れないが自らが世話になった奨学会の祖・野口遵の名は知らない。水俣病との関わりで思い起こす人も少ないだろう。
 野口遵とはどんな人だったのだろう。野口町がある町である。水俣の人たちにとっては格別の存在なのだろう。そんなことを調べてみたいと思った。

 水俣病歴史考証館http://www.soshisha.org/koushoukan/koushoukan.htm
 
 柳田さんや高倉さんなど70年代に「水俣病を告発する会」で活躍し、相思社の設立にかかわった方々は今はここを離れている。「ガイア水俣」という別の組織を作り、水俣の人になりきっているようだ。相思社も世代を重ね、担う課題も少しずつかわってきているのだろう。

 午後は相思社に近い茂道(もどう)の港に行ってみた。県境が近いところなのでわざわざ鹿児島県に入り、海沿いの細い道を通った。美しい港だ。恵比寿さんが祀ってある。水俣病の患者さんの多く住むところだと聞いている。今年亡くなられた杉本栄子さんもここの方ではなかったか。もやってある漁船にその気配がある。港から見える山には甘夏柑がやわらかい日差しに輝いている。

 杉本栄子さんhttp://blog.goo.ne.jp/maxikon2006/e/adaf2e239aa9de48cc474a2f443f933a 

 村のはずれまで来ると「グリーンスポーツ水俣」という看板があった。入ってみると照葉樹の森。タブの木もありぼくの田舎と変わらない。キャンプ場がある。森の外に出てみると穏やかな海の広がり。まさに魚付きの森だ。水俣湾が豊饒の海だったことが容易に想像できる。劇症患者が多発したのは何という運命か。

 袋(ふくろ)湾から湯堂へ。ここでは港に大きな合板工場が目に付く。
坪段(つぼだん)という石積みの美しい港があるというので国道から降りてみる。海を埋め立てて大きな港をつくっているようだった。そのはずれの国道の下に古い小さな港があった。そこらに転がっている石を集めてきて丁寧に積み上げた石積みの港である。石牟礼道子さんの文章に出てくるおじいさんたちの仕事はこんな風だったのだろうか。
 犬をつれて散歩している女性が話してくれた。
 
 こどものころ、ここに住む祖父母の家に夏になると遊びに来て目の前に浮かぶ恋路島に連れて行って貰った。きれいな海岸で泳いだり、貝を採ったりした楽しい思い出は尽きない。祖父母が育てた父はめでたく会社(チッソ)にはいることが出来、私たちは町で不自由なく暮らすことが出来た。しかし、祖父母は水俣病に冒されてなくなった。

 この町にはこのような方も少なくないのであろう。大人になって水俣を離れていたが今はこの近くに住んでおられる。大切にしてくれた祖父母に対する思いは深く、美しかった海岸は忘れられない。世話になった会社という思いもある。
 50年に亘る水俣病の歴史はこの町のひとびとを引き裂いてきたに違いない。この方やこの方の家族のように我が身が割かれてきた人もいるだろう。そのときどういう生き方があったのだろう。
 
 僕らと同世代の方でぼくと同じようにあちこち旅をするのが楽しみらしい。ゆっくりお話を伺いたかったが夕暮れが迫って来てそうもいかなかった。
 
 ぼくは昔、チッソ水俣工場の第一組合の山下さん(?)の水俣病裁判での証言を授業で読みあったのを思い出す。会社の組合つぶしの攻撃の中で、患者さんの側に立とうとした社員もたしかにいたのである。その方々はお元気だろうか。

 (ネット検索で山下善寛さんであることがわかった。貴重なお話が紹介されている。是非読んでいただきたい。)http://www.southwave.co.jp/swave/8_cover/2002/cover0218.htm 


 今水俣では「もやい直し」という言葉がはやっている。元々は患者の緒方さんが使い始めた言葉だが、今では行政側が積極的に使っているらしい。分裂の歴史に終止符を打ち、新しい水俣のアイデンティティーをうち立てようとする動きを象徴している。
 ある企業が水俣の水源地帯につくろうとした産業廃棄物の最終処分場を市民の力で撃退したことが報じられている。新しい動きのひとつである。


 水俣市 産業廃棄物最終処分場問題http://www.minamatacity.jp/jpn/kankyo_etc/stop_sanpai/stop_sanpai.htm
 もやい直し http://www.soshisha.org/gonzui/49gou/gonzui_49.htm
 

 宿に着くとまもなく人吉から賀明さん紀子さん夫妻が到着し、この宿の自慢である魚料理を囲んで遅くまで語り合うしあわせな時を過ごすことが出来た。

08憲章

2008-12-28 06:19:48 | 中国
12月10日の世界人権宣言記念日に中国の知識人が発表した「08憲章」の日本語訳をやっと読むことが出来ました。「おもいつくまま」というブログに掲載されています。宣言の起草者の一人とみられる劉暁波さんは8日以来拘留されたままです。日本でもペンクラブが彼の釈放を求める声明を出したようですが肝腎の憲章をマスコミが黙殺しているため読むことが困難です。「おもいつくまま」にはリンクフリーとありますので勝手に紹介させて貰います。少し長い文章ですが年末年始の暇なときに声に出して読んでみませんか。

 中国の知識人が一党独裁の内側から民主主義と人権の確立を求める明確な声を挙げたことは同じような願いを持つ世界中のひとびとに対する励ましでもあります。この憲章を読んでいると日本国憲法を思い起こします。そしてその憲法の素晴らしい言葉が色あせていることに気づきます。現実にこの国を支配しているのは憲法ではなく東大OBの霞ヶ関官僚やトヨタやキャノンの経営者たちであることを知っているからです。彼らのやりたい放題をこれ以上許すわけには行きません。
 中国の知識人の闘いにぼくは深い敬意を抱いています。私たちもまた、勇気を奮い起こして民主主義と人権をこの地上に実現するために学びを深め、力を尽くしましょう。そのことなしに東アジアの平和も「共同体」もあり得ません。年の瀬に力強いメッセージを受け取りました。
 




 08憲章=中華連邦共和国憲法要綱

一、まえがき

 今年は中国立憲百年、「世界人権宣言」公布60周年、「民主の壁」誕生30周年であり、また中国政府が「市民的及び政治的権利に関する国際規約」に署名して10周年である。長い間の人権災害と困難かつ曲折に満ちた闘いの歴史の後に、目覚めた中国国民は、自由・平等・人権が人類共同の普遍的価値であり、民主・共和・憲政が現代政治の基本的制度枠組みであることを日増しにはっきりと認識しつつある。こうした普遍的価値と基本的政治制度枠組みを取り除いた「現代化」は、人の権利をはく奪し、人間性を腐らせ、人の尊厳を踏みにじる災難である。21世紀の中国がどこに向かうのか。この種の権威主義的統治下の「現代化」か? それとも普遍的価値を認め、主流文明に溶け込み、民主政体を樹立するのか? それは避けることのできない選択である。

 19世紀中葉の歴史の激変は、中国の伝統的専制制度の腐敗を暴露し、中華大地の「数千年間なかった大変動」の序幕を開いた。洋務運動はうつわ面での改良を追求し、甲午戦争(日清戦争1894年)の敗戦は再び体制の時代遅れを暴露した。戊戌変法(1898年)は制度面での革新に触れたために、守旧派の残酷な鎮圧にあって失敗した。辛亥革命(1911年)は表面的には2000年余り続いた皇帝制度を埋葬し、アジアで最初の共和国を建国した。しかし、当時の内憂外患の歴史的条件に阻害され、共和政体はごく短命に終わり、専制主義が捲土重来した。うつわの模倣と制度更新の失敗は、先人に文化的病根に対する反省を促し、ついに「科学と民主」を旗印とする「五四」新文化運動がおこったが、内戦の頻発と外敵の侵入により、中国政治の民主化過程は中断された。抗日戦争勝利後の中国は再び憲政をスタートさせたが、国共内戦の結果は中国を現代版全体主義の深淵に陥れた。1949年に建国した「新中国」は、名義上は「人民共和国」だが、実際は「党の天下」であった。政権党はすべての政治・経済・社会資源を独占し、反右派闘争、大躍進、文革、六四、民間宗教および人権擁護活動弾圧など一連の人権災害を引き起こし、数千万人の命を奪い、国民と国家は甚だしい代価を支払わされた。

 20世紀後期の「改革開放」で、中国は毛沢東時代の普遍的貧困と絶対的全体主義から抜け出し、民間の富と民衆の生活水準は大幅に向上し、個人の経済的自由と社会的権利は部分的に回復し、市民社会が育ち始め、民間の人権と政治的自由への要求は日増しに高まっている。統治者も市場化と私有化の経済改革を進めると同時に、人権の拒絶から徐々に人権を認める方向に変わっている。中国政府は、1997年、1998年にそれぞれ二つの重要な国際人権規約に署名し、全国人民代表大会は2004年の憲法改正で「人権の尊重と保障」を憲法に書き込んだ。今年はまた「国家人権行動計画」を制定し、実行することを約束した。しかし、こうした政治的進歩はいままでのところほとんど紙の上にとどまっている。法律があっても法治がなく、憲法があっても憲政がなく、依然として誰もが知っている政治的現実がある。統治集団は引き続き権威主義統治を維持し、政治改革を拒絶している。そのため官僚は腐敗し、法治は実現せず、人権は色あせ、道徳は滅び、社会は二極分化し、経済は奇形的発展をし、自然環境と人文環境は二重に破壊され、国民の自由・財産・幸福追求の権利は制度的保障を得られず、各種の社会矛盾が蓄積し続け、不満は高まり続けている。とりわけ官民対立の激化と、騒乱事件の激増はまさに破滅的な制御不能に向かっており、現行体制の時代遅れは直ちに改めざるをえない状態に立ち至っている。

二、我々の基本理念

 中国の将来の運命を決めるこの歴史の岐路に立って、百年来の近代化の歴史を顧みたとき、下記の基本理念を再び述べる必要がある。

自由:自由は普遍的価値の核心である。言論・出版・信仰・集会・結社・移動・ストライキ・デモ行進などの権利は自由の具体的表現である。自由が盛んでなければ、現代文明とはいえない。

人権:人権は国家が賜与するものではなく、すべての人が生まれながらに有する権利である。人権保障は、政府の主な目標であり、公権力の合法性の基礎であり、また「人をもって本とす」(最近の中共のスローガン「以人為本」)の内在的要求である。中国のこれまでの毎回の政治災害はいずれも統治当局が人権を無視したことと密接に関係する。人は国家の主体であり、国家は人民に奉仕し、政府は人民のために存在するのである。

 平等:ひとりひとりの人は、社会的地位・職業・性別・経済状況・人種・肌の色・宗教・政治的信条にかかわらず、その人格・尊厳・自由はみな平等である。法の下でのすべての人の平等の原則は必ず実現されなければならず、国民の社会的・経済的・文化的・政治的権利の平等の原則が実現されなければならない。

 共和:共和とはすなわち「皆がともに治め、平和的に共存する」ことである。それは権力分立によるチェック・アンド・バランスと利益均衡であり、多くの利益要素・さまざまな社会集団・多元的な文化と信条を追求する集団が、平等な参加・公平な競争・共同の政治対話の基礎の上に、平和的方法で公共の事務を処理することである。

 民主:もっとも基本的な意味は主権在民と民選政府である。民主には以下の基本的特徴がある。(1)政府の合法性は人民に由来し、政治権力の源は人民である。(2)政治的統治は人民の選択を経てなされる。(3)国民は真正の選挙権を享有し、各級政府の主要政務官吏は必ず定期的な選挙によって選ばれなければならない。(4)多数者の決定を尊重し、同時に少数者の基本的人権を尊重する。一言でいえば、民主は政府を「民有、民治、民享」の現代的公器にする。

 憲政:憲政は法律と法に基づく統治により憲法が定めた国民の基本的自由と権利を保障する原則である。それは、政府の権力と行為の限界を線引きし、あわせて対応する制度的措置を提供する。

 中国では、帝国皇帝の権力の時代はすでに過去のものとなった。世界的にも、権威主義体制はすでに黄昏が近い。国民は本当の国家の主人になるべきである。「明君」、「清官」に依存する臣民意識を払いのけ、権利を基本とし参加を責任とする市民意識を広め、自由を実践し、民主を自ら行い、法の支配を順守することこそが中国の根本的な活路である。

三、我々の基本的主張

 そのために、我々は責任をもって、また建設的な市民的精神によって国家政治制度と市民的権利および社会発展の諸問題について以下の具体的な主張をする。

1、憲法改正:前述の価値理念に基づいて憲法を改正し、現行憲法の中の主権在民原則にそぐわない条文を削除し、憲法を本当に人権の保証書および公権力への許可証にし、いかなる個人・団体・党派も違反してはならない実施可能な最高法規とし、中国の民主化の法的な基礎を固める。

2、権力分立:権力分立の現代的政府を作り、立法・司法・行政三権分立を保証する。法に基づく行政と責任政府の原則を確立し、行政権力の過剰な拡張を防止する。政府は納税者に対して責任を持たなければならない。中央と地方の間に権力分立とチェック・アンド・バランスの制度を確立し、中央権力は必ず憲法で授権の範囲を定められなければならず、地方は充分な自治を実施する。

3、立法民主:各級立法機関は直接選挙により選出され、立法は公平正義の原則を堅持し、立法民主を行う。

4、司法の独立:司法は党派を超越し、いかなる干渉も受けず、司法の独立を行い、司法の公正を保障する。憲法裁判所を設立し、違憲審査制度をつくり、憲法の権威を守る。可及的速やかに国の法治を深刻に脅かす共産党の各級政法委員会を解散させ、公器の私用を防ぐ。

5、公器公用:軍隊の国家化を実現する。軍人は憲法に忠誠を誓い、国家に忠誠を誓わなければならない。政党組織は軍隊から退出しなければならない。軍隊の職業化レベルを高める。警察を含むすべての公務員は政治的中立を守らなければならない。公務員任用における党派差別を撤廃し、党派にかかわらず平等に任用する。

6、人権保障:人権を確実に保障し、人間の尊厳を守る。最高民意機関(国会に当たる機関)に対し責任を負う人権委員会を設立し、政府が公権力を乱用して人権を侵害することを防ぐ。とりわけ国民の人身の自由は保障されねばならず、何人も不法な逮捕・拘禁・召喚・尋問・処罰を受けない。労働教養制度(行政罰としての懲役)を廃止する。

7、公職選挙:全面的に民主選挙制度を実施し、一人一票の平等選挙を実現する。各級行政首長の直接選挙は制度化され段階的に実施されなければならない。定期的な自由競争選挙と法定の公職への国民の選挙参加は奪うことのできない基本的人権である。

8、都市と農村の平等:現行の都市と農村二元戸籍制度を廃止し、国民一律平等の憲法上の権利を実現し、国民の移動の自由の権利を保障する。

9、結社の自由:国民の結社の自由権を保障し、現行の社団登記許可制を届出制に改める。結党の禁止を撤廃し、憲法と法律により政党の行為を定め、一党独占の統治特権を廃止し、政党活動の自由と公平競争の原則を確立し、政党政治の正常化と法制化を実現する。

10、集会の自由:平和的集会・デモ・示威行動など表現の自由は、憲法の定める国民の基本的自由であり、政権党と政府は不法な干渉や違憲の制限を加えてはならない。

11、言論の自由:言論の自由・出版の自由・学術研究の自由を実現し、国民の知る権利と監督権を保障する。「新聞法」と「出版法」を制定し、報道の規制を撤廃し、現行「刑法」中の「国家政権転覆扇動罪」条項を廃止し、言論の処罰を根絶する。

12、宗教の自由:宗教の自由と信仰の自由を保障する。政教分離を実施し、宗教活動が政府の干渉を受けないようにする。国民の宗教的自由を制限する行政法規・行政規則・地方法規を審査し撤廃する。行政が立法により宗教活動を管理することを禁止する。宗教団体(宗教活動場所を含む)は登記されて初めて合法的地位を獲得するという事前許可制を撤廃し、これに代えていかなる審査も必要としない届出制とする。

13、国民教育:一党統治への奉仕やイデオロギー的色彩の濃厚な政治教育と政治試験を廃止し、普遍的価値と市民的権利を基本とする国民教育を推進し、国民意識を確立し、社会に奉仕する国民の美徳を提唱する。

14、財産の保護:私有財産権を確立し保護する。自由で開かれた市場経済制度を行い、創業の自由を保障し、行政による独占を排除する。最高民意機関に対し責任を負う国有資産管理委員会を設立し、合法的に秩序立って財産権改革を進め、財産権の帰属と責任者を明確にする。新土地運動を展開し、土地の私有化を推進し、国民とりわけ農民の土地所有権を確実に保障する。

15、財税改革:財政民主主義を確立し納税者の権利を保障する。権限と責任の明確な公共財政制度の枠組みと運営メカニズムを構築し、各級政府の合理的な財政分権体系を構築する。税制の大改革を行い、税率を低減し、税制を簡素化し、税負担を公平化する。公共選択(住民投票)や民意機関(議会)の決議を経ずに、行政部門は増税・新規課税を行ってはならない。財産権改革を通じて、多元的市場主体と競争メカニズムを導入し、金融参入の敷居を下げ、民間金融の発展に条件を提供し、金融システムの活力を充分に発揮させる。

16、社会保障:全国民をカバーする社会保障制度を構築し、国民の教育・医療・養老・就職などの面でだれもが最も基本的な保障を得られるようにする。

17、環境保護:生態環境を保護し、持続可能な開発を提唱し、子孫と全人類に責任を果たす。国家と各級官吏は必ずそのために相応の責任を負わなければならないことを明確にする。民間組織の環境保護における参加と監督作用を発揮させる。

18、連邦共和:平等・公正の態度で(中国周辺)地域の平和と発展の維持に参加し、責任ある大国のイメージを作る。香港・マカオの自由制度を維持する。自由民主の前提のもとに、平等な協議と相互協力により海峡両岸の和解案を追求する。大きな知恵で各民族の共同の繁栄が可能な道と制度設計を探求し、立憲民主制の枠組みの下で中華連邦共和国を樹立する。

19、正義の転換:これまでの度重なる政治運動で政治的迫害を受けた人々とその家族の名誉を回復し、国家賠償を行う。すべての政治犯と良心の囚人を釈放する。すべての信仰により罪に問われた人々を釈放する。真相調査委員会を設立し歴史的事件の真相を解明し、責任を明らかにし、正義を鼓舞する。それを基礎として社会の和解を追求する。

四、結語

 中国は世界の大国として、国連安全保障理事会の5つの常任理事国の一つとして、また人権理事会のメンバーとして、人類の平和事業と人権の進歩のために貢献すべきである。しかし遺憾なことに、今日の世界のすべての大国の中で、ただ中国だけがいまだに権威主義の政治の中にいる。またそのために絶え間なく人権災害と社会危機が発生しており、中華民族の発展を縛り、人類文明の進歩を制約している。このような局面は絶対に改めねばならない! 政治の民主改革はもう後には延ばせない。

 そこで、我々は実行の勇気という市民的精神に基づき、「08憲章」を発表する。我々はすべての危機感・責任感・使命感を共有する中国国民が、朝野の別なく、身分にかかわらず、小異を残して大同につき、積極的に市民運動に参加し、共に中国社会の偉大な変革を推進し、できるだけ早く自由・民主・憲政の国家を作り上げ、先人が百年以上の間根気よく追求し続けてきた夢を共に実現することを希望する。

括弧内は訳注。

 出典http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/597ba5ce0aa3d216cfc15f464f68cfd2

観音さま

2008-12-27 06:55:28 | 友人たち
 朝から寒さが身にしみる一日でしたが昼前に東京に出かけました。内モンゴルから来て数年になるというMさんが社会福祉の現場で働いてみたいというので知人を紹介するためです。友人たちは忙しい年の瀬の昼休みを私たちのために割いて応対してくれました。
 Mさんは元もと高校の先生をしていましたが日本に留学して臨床心理学を学びました。将来内モンゴルに帰り、学んだことを生かしたいと考えています。多民族化が進む東京の中で言語の壁に悩むマイノリティーのカウンセリングに従事して学びを深め、実践力を高めたいのでしょう。
 内モンゴルでもモンゴル族は少数民族で、圧倒的な漢民族文化の前に言語の命すら危うくなっているようです。砂漠化の進行や貧富の差の拡大という問題と相まってMさんの危機意識と使命感は強くなっていくようです。

 帰りの電車の中でモンゴル民族文化基金という団体があることを教えて貰いました。パソコンで検索してみると理事長さんの文章が目にはいってきます。アイヌの国会議員だった萱野茂さんの生涯とその仕事を話題にして(ぼくとしては励ますつもりで)別れました。今日の友人たちとの出会いが新しい展開につながればいいのですが…。

 モンゴル民族文化基金
http://www.mongol-ncf.com/youkou/aisatu2003_1.htm

 Mさんと別れたあと最近お母さんになったばかりのTさんを訪ねてお祝いをいってきました。生後50日くらいになった心海(ここみ)ちゃんはぼくの腕に抱かれて2時間近くも過ごしました。ときどき笑顔をみせてくれます。べろを唇の間に突き出すこともあります。観音さんのようだと思いました。
 Tさんは今、都心のど真ん中のお母さんの家に帰っています。マンションの9階です。3歳の時からここで育ったと言います。買い物に街に出るとなかなか帰ってこられないそうです。昔の知り合いの近隣の人たちがTさんと心海ちゃんを見つけて盛り上がってしまうからです。ここにそのような村があるなんて…意外ですが嬉しい話でした。誰にも積極的に接するTさんの人柄にもよるでしょう。
 Tさんとそのお連れ合いは共に24歳、Tさんのお母さんは48歳、心海ちゃんは0歳。この家族はふた周りずつ違う子(ねずみ)ばかりだそうです。
 年の瀬にめでたい親子に会うことが出来ました。ぼくの生徒だった人ではもっともわかいお母さんです(多分)。心海ちゃんがおしっこで目覚めたところでお母さんに帰しました。元気いっぱいに泣き、ミルクをぐいぐいと飲みました。健やかな成長を祈ります。また、ね。

不知火海の旅 備忘録(2)天草

2008-12-26 05:29:06 | 出会いの旅
  17日(水)快晴 無風

 この日は昔の生徒のお祖母ちゃんを2年半ぶりに訪ねて挨拶した他は天草下島の観光スポットを南から北へと辿る。
 
①権現山展望所 高い山から天草南部を俯瞰する。

 ②鶴葉山公園 天草最南端の風光。長島から遠く薩摩半島に続く山並みがみえ         る。
 ③崎津天主堂
 ④大江天主堂http://www.yado.co.jp/kankou/kumamoto/amakusa/ooetens/ooetens.htm
 
 ⑤富岡城址 天草北部の外洋の景観。
 
 旅の疲れも出てきたので早めに投宿。

 「アレグリアガーデンズ・天草」というリゾートホテル。天草の中心・本渡の郊外にあり、有明海(島原湾)に面している。僕らの旅にはほとんど縁がなかった豪華な宿。目の前の丘にある温泉に早朝から深夜まで車で送迎してくれるのには驚いた。

 http://www.hotel-alegria.jp/perola/spa/index.html

 夕食はホテルで教えて貰った居酒屋にタクシーで行く。運転手さんがここは何時も満杯、予約なしには無理と言っていたがこの日は大丈夫だった。新鮮な魚料理が安くておいしい。その量がまたすごい。どの料理も2人前あれば私たち4人がもてあますほどだ。皆さんも天草に行かれるときがあったら是非利用してみてください。

 
 居酒屋 かし原tabelog.com/kumamotohttp://r./A4305/A430501/43000837/ 

  18日(木)曇りのち晴れ 無風
 
 樋島(ひのしま)
 宿でゆっくり過ごしたあと、天草上島の不知火海の岸辺をドライブ。樋島に渡る。小学校を訪ねてアンモナイトの化石や民具、子どもたちの作品をみせてもらう。最南の町・牛深の出身だという保健室の先生が丁寧に案内してくれる。この島を始め天草の水道水は海底の送水管で九州本土から送られているのを知る。後日、水俣病資料館の近くで御所浦町が建てた「感謝の碑」というものをみる。水に苦労したひとびとの思いが察せられる。

 松島の風光を楽しんだあとフェリーで八代へ。ここで娘が銅羅焼きを買うというのであちこちしているうちに球磨川の河口をみる幸運に恵まれた。

八代・球磨川河口

http://www.qsr.mlit.go.jp/n-kawa/tsusinbo/2006/kuma_01.html

 水俣・相思社に挨拶し、湯の児の斎藤旅館に日の落ちる前にはつくことが出来た。

 相思社http://www.soshisha.org/

不知火海の旅 備忘録(1)長島

2008-12-25 07:01:25 | 出会いの旅
 12月15日(月)
 9時35分羽田発JAL1865便。快晴。
 富士山がよく見えるとスチュワーデスが私たちを最後尾の窓際に案内してくれる。ぼく一人はずうっとここに残って地上の風景を眺め続けていると職員のかける椅子を空けてくれた上、飲み物ももってきてくれる。ぼくは大島上空あたりから沿岸沿いに南下する飛行機(高度10000m)から日本列島を俯瞰し続ける。
 南アルプス、三河湾などは遠望。昨年訪ねた熊野の山々や故郷の土佐湾の広がりも一望のうち。剣山・石鎚山は白い雲の中。宮崎あたりから九州を横断、鹿児島空港へ。最後は霧島山塊はもとより錦江湾と桜島の風景をきちんとみせてくれる。
 記念にといって乗務員が飛行機の模型(後日、洋介くんの長男・海斗くんにお土産とする)とメッセージを手書きしたカードを手渡してくれる。こんな待遇を受けたのはぼくだけ。
 
 川内川中流の宮之城で昼食のあと出水のツル渡来地。万余のナベヅルと少数のマナヅル。ぼくは二三羽が飛んでいたり、田圃を歩いていたりする風景の方がいい。

 黒之瀬戸大橋の袂の梶折鼻公園。
 九州本島と長島の間の海峡。海辺まで降りて散策。ちょうど潮目の替わり時。バリという魚を釣り上げた人たちと出会う。針には猛毒があるが美味だという。

 唐隈(からくま)港 
 遣唐使が漂着した記念碑があるというので寄る。小さな港。碑があるところから海に出ると丸い小さな石の海岸。東シナ海の風波に洗われたのか。今日の旅の疲れを癒してくれる風景に佇む。

   唐隈港に向かう国道からの風景http://www.geocities.jp/moyuruomoi/toppage_back_06_nagashima.htm 

 サンセット長島泊まり 刺身がことのほか美味。


 16日(火)快晴・無風

 針尾公園 
 行人岳に登ったあと弁当を買って針尾公園へ。伊唐島、諸浦島などを含む不知火海の絶景。まるで極楽浄土。展望台で昼食。
 野良の母猫が私たちに張り付く。父親と子猫は警戒しながら餌を待つ。猫好きの娘が弁当の一部を割いて均等に行き渡るように駆け回る。

 http://www.geocities.jp/moyuruomoi/toppage_back_12_azumasyoura.htm
 

 伊唐島(いからじま)
 宮之浦港を散歩したあと伊唐島へ。至る所にじゃがいも畑が広がっている。

 諸浦島葛輪(しょうらじま・くずわ)
 いまは橋でつながった長島町の北の果ての集落。目の前に獅子島。
 海岸で妻と娘はヒオウギ貝の貝殻を見つけ収集に夢中になる。ぼくは彷徨っているうちに中元さんという女性に出会う。天草からここに嫁いだあとご夫婦で長く静岡県に住んでおられたという。若いときは大島紬を織ったりもしたがいまはヒオウギ貝の養殖などをやっておられる。この島でも近年水俣病の健康手帳を持つ人が増えたがご自分はもらえない。結婚当時、届けをしていなかったため書類が整わないためらしい。
 そういえばこの島のあちこちで道ばたに小さな看板が立っているのに気づいた。水俣病にかかわる相談にのるという出水地区の患者さんの組織(?)が建てたものだった。健康手帳は最近制度化されたもので発病したときの医療費が無料になる。補償とは違うが経済的負担が軽減されるのは間違いない。
 中元さんはお茶でも飲んでいきなさいと言ってくださったが残念ながら時間切れ。後ろ髪を引かれる思いで車に乗る。

 北方崎ヘゴ自生地
 地図の上の鳴瀬鼻というところにヘゴの自生地があると知ったときから行くことにしていたところ。針尾公園から遠望した美しい入り江の上の道を幾重にも曲がりながらここかと思うところにたどり着き、看板などを捜してみたがいっこうに見つからない。畑仕事中のかたがあそこだよと親戚の家だと言うところを教えてくれる。ホンの今通ってきた村の屋敷の裏に確かにヘゴの木が並んでいた。声をかけてもどなたも出てこないので勝手にみせてもらっていたら、隣家の方が出てきてくれた。
 お父さんがかつて採ってきて植えたものが増えたのだという。自生地には遠足で行ったことがあるがいまは道がなく容易にはいけないらしい。断崖の下の海岸に群落があるのだろうか。
 ぼくはかつて大隅半島で「ヘゴの北限地」を見学している。この2月には奄美大島でその美しさをたっぷりと堪能した。北限がここにもあったので探索しないわけには行かないのだが断念することにした。フェリーの時間が迫っている。

http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20080221
 

 蔵之元港から天草・牛深へ
 急いでついた蔵之元港でフェリーの時刻が変更になったのを知る。宿で貰った時刻表が暫く前のものだった。今更どうすることも出来ない。
桟橋の管理をするおじさんに聞いてみる。
ヘゴの自生地へは遠い昔に行ったことがあるが近頃のことはわからない。
 鹿児島県と熊本県の県境にあたる長島海峡は大潮の時には海流の流れが速くフェリーも流されるという。遠い昔、初めてポンポン船が牛深との間に就航したときのことを懐かしそうに話してくれる。
 フェリーから長島を振り返ると風力発電の風車がやけに目立つ。

 宮野河内
 牛深から長島海峡沿いの狭い道を北上して貰う。昔ながらの漁業の村を幾つか通って石牟礼道子さんが生まれたという宮野河内による。大蓮寺では声をかけてみたが人の気配がなくむなしく引き返す。夕暮れ時に今宵の宿・愛夢里につく。

餃子パーティに招かれて

2008-12-24 14:56:31 | 中国残留日本人孤児
 緒方正人さんの記事に最首(さいしゅ)さんのブログを追加紹介しました。また、トラックバックしてくださった方の記事もご覧ください。でも、これだけでは緒方さんの考えや生き方を理解するのは困難ですね。
 著書を読んだり、行動の軌跡を辿ったりして彼が言おうとしていることを少しでも理解したいと思います。私たちの人間観・自然観はこれでいいのかとその根底を問いかけている方です。ぼくが学んできた「大自然教」と通じる思想でもあるような気がします。
 
 ・『常世の舟を漕ぎて-水俣病私史』(1996年/世織書房)

 ・『チッソは私であった』   (2001年/葦書房)

 日本橋高校の入学拒否事件についてはお二人の方がコメントをよせてくれました。ぼくも昔の体験を書きました。学校にかかわる人が避けて通れない問題といえます。あなたの意見を聞かせてください。感想でもいいですよ。


 21日(日)Tさん宅の餃子パーティに招かれました。

 ご夫婦の他に次男・洋介くん一家4人、長男のお嫁さんと娘さん、忠幸さんと私たち。都営住宅の居間と台所ははち切れんばかりです。
 奥さんと二人のお嫁さんが次々と中国・東北の家庭料理をつくってくれて食卓に乗り切らないほどです。一時から七時まで珍しくぼくの箸が休むことがありません。ビールも進みました。久しぶりの賑わいにTさんの顔も綻びがちです。

 当日の話から(記憶のメモ) 

 Tさんは1943年生まれでぼくよりは2歳下です。45年黒竜江省林口で孤児となり、養父母に育てられます。実子に恵まれなかった両親に大切に育てられました。
 57・8年頃の大躍進の頃には食べるものがなく、木の葉の粉を団子にして生き抜いたと言います。
 耐えられなかったのは文化大革命期の迫害です。比較的経済的に恵まれていた養父母は日本人を養子にしていることと相まって批判の矢面になったのです。この時のことは40年が経ったいまもTさんの深い心の傷になっているようです。
 中国に帰ったとき30万円(?)を投じて養父母の墓を建てたと言います。中国では庶民に縁のない 金額です。養父母への思いの程が伝わってきます。
 洋介くんは15歳の時日本に来たのですが、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんにかわいがって貰った日々が懐かしそうです。

 10歳の頃の写真があると古い新聞記事をみせてくれました。80年代のはじめの訪日調査に加わったときの日本の新聞にいまの写真と共に並んでいます。一瞥してTさんだとわかります。目がくりくりしてさっぱりした男前です。
 この写真は地方政府の役人が来て撮ったそうです。だとすれば1953年頃には中国の公式帳簿に日本人孤児Tさんは写真と共に記録されていたはずだと忠幸さんは言います。本名はわからなかったにせよ、日中両国政府にその気さえあればその時点で身元調査が可能だったのです。
 日本政府が身元調査に乗り出したのはこの時からでも30年後のことです。Tさん自身も文革期の迫害を逃れることは出来ませんでした。「日本人であること」がいいことは一つもなかったのです。責任を果たさなかった日本政府に代わって「侵略戦争」のツケを一身に担わされたのです。
 日本に帰ってからは頭痛と日本語の壁に苦しんできました。それはいまも変わりません。

 洋介くんのお連れ合いは生き生きとしています。何ものにも挑戦して自分の世界を広げていこうとする若い女性の魅力があふれています。この四月から残留孤児の支援相談員になって学ぶことの大切さ、喜びを知ったからでしょう。小学生の娘さんからローマ字を習ってパソコンにも挑戦したそうです。最初にみたHPが「川越だより」だとかでぼくも感激です。
 世の中の風潮にながされないように子育てをしたいと考えています。忠幸さんにもぼくにも問いかけがありましたが、これもまた本当に難しいことです。
 しかし、嬉しい気持ちになりました。ここに考える母親がいるなあと思えたからでしょう。こういう人が孤立することなく話し相手を見つけられるようにぼくも手を貸せればいいと思ったことでした。
 

 Tさんの奥さんは来日して一年ですが夜間中学に通って日本語の力をめきめき付けています。先日の日本語のテストは98点だったとTさんが自慢します。もともとが才能に恵まれた方です。そこに来て努力家ときています。数年を経ないうちにこの社会に根を下ろしてTさんにとってはもとよりみんなの頼りがいのある存在になるのではないかと思われます。
 
 御馳走になりながらTさんの家族と半日を過ごしました。洋介くんと出会ってから20年が過ぎましたがこうして家族ぐるみの交流を楽しむのは初めてのように思います。
 どの家族もが抱えもつ難題をTさんの家族も抱えもっています。残留孤児家族特有の課題もあります。でもこの一家は魅力ある嫁さん連合を中心にして一つ一つ課題を解決していくだろう。我が一族と同じだな。帰りの電車の中で思ったことです。
 
 一家の団らんに招かれて皆さんと友達であり続けると思うことはぼくにはとても嬉しいことです。妻も忠幸さんもこの点では同じ気持ちだと思います。
 ごちそうさま。ありがとうございました。
 

緒方正人さん

2008-12-21 09:49:29 | 出会いの旅
 昨夜(20日)遅く川越に帰り着きました。天草・水俣の旅の6日間、このような日々が続いていいだろうかというような穏やかな天候に恵まれました。不知火海の風光はまるで極楽浄土です。旅の最後の水俣の宿には遠い昔の同僚・賀明さん夫妻が訪ねてくれ、一宿二飯を共にしてくれました。90になる妻の母も寒さに弱いぼくもおかげさまで元気いっぱいです。
 
 旅の間は「川越だより」を発信することが出来ませんでした。にもかかわらず、この間も毎日たくさんの方々が覗いてくれました。ありがとうございます。

 今日はこれから東京に住むTさんご一家の餃子パーティに出かけます。Tさんは「中国残留孤児」でぼくの生徒だった洋介くんのお父さんです。親とも子ともそれぞれの方とつきあいがありますが一緒に集うのは久しぶりです。

 旅の最後に緒方正人(おがたまさと)という方と出会いました。水俣病の患者さんです。お会いしたわけではありません。資料館の展示を通してこの方の生き方(思想)に興味を持ち始めたところです。よろしかったら皆さんも緒方さんのお話を聞いてみてください。地獄の体験をくぐり抜けながら生み出されてくる思想の深みに感動を禁じ得ません。展示の最後に記されていた緒方さんの言葉です。

 「人は自然を侵さず、人は人を侵さず、人は自然の中にはぐくまるものなり
人は人と人との間に生きる人間でなければならない。」

 

  <いのち>のひびきあい~緒方正人『チッソは私であった』を読む~
無量という思い――直命、直魂に触れた緒方正人   最首悟http://www.geocities.jp/saishjuku/0119_t.html
  
 緒方正人さんhttp://www.southwave.co.jp/swave/6_env/ogata/ogata01.htm

不知火海をめぐる旅

2008-12-15 04:25:41 | 出会いの旅
 これから天草・水俣の旅に出発します。天草には06年7月以来です。

 天草・水俣の旅ですが地図をみると八代海(やつしろかい)を一巡りする事になります。旧暦の8月1日の深夜に海上に現れる不知火から不知火海(しらぬいかい)とも呼ばれます。
 どんな人や自然との出会いがあるのかいつもながら楽しみです。
 今朝の熊日の記事に寄れば石牟礼さんが故郷の村に帰って居られたようです。私たちも河浦町に泊まります。一家が世話になったという大蓮寺にも寄ってこられるかも知れません。
http://kumanichi.com/feature/kataru/ishimure/20081214001.shtml 

 パソコンの環境が整っている宿があったら「不知火海だより」を発信します。

 14日は多文化共生教育研究会に出席のつもりでしたが日和をみて欠席させて貰いました。VTRで「水俣の図・物語」をみました。
 胎児性の患者さんとの出会いに緊張の連続だった丸木夫妻が坂本しのぶさんや加賀田清子さんと交流を深めていく姿に言いしれぬ感動を覚えました。
 この体験をふまえて東松山の美術館の一角「流流庵」で<水俣>を描く先生たちの姿はまさに闘いそのものです。彼女らに対する深く大きな愛情が画業の根底に燃えていることがわかります。
 30年近く昔の映像ですがつい先日のようです。ご夫妻に対する敬愛の気持ちがますます深まっていきます。

 映画のDVDも出ています。原爆の図・丸木美術館は天然のエアコンですから寒くはありますが「暗い」美術館ではありません。地獄のような人間世界で生きようとする命への熱い眼差しが満ちあふれているところです。

 水俣の図・物語http://www.cine.co.jp/php/detail.php?siglo_info_seq=22

 原爆の図・丸木美術館http://www.aya.or.jp/%7Emarukimsn/

東京の支援相談員の不安

2008-12-14 04:54:13 | 中国残留日本人孤児
 中国残留邦人支援法の改正に伴い、国は08年4月から、支援相談員制度を発足させました。
 本年度から国民年金の満額支給と月額最大八万円の生活支援給付金の支給が制度化されましたが、これらの事務が円滑にすすむよう中国残留日本人孤児(法律では「残留邦人」・1946年12月31日までに生まれた人)やその家族(配偶者と同行入国した2・3世)を支援することが主な仕事です。
 残留孤児家庭の実態や歴史的背景などを理解していなければつとまりません。中国語と日本語に通じていることも 絶対条件です。これらの事情から残留孤児2・3世の方々がもっとも適任と考えられます。

 厚生労働省の決めた基準では対象者30名に1名の割合で区市に配置することになっています。

 東京都で支援給付を受けている人員が多いのは次の区市です。08年6月現在

足立(218人)江東(188)江戸川(171)板橋(145)葛飾(121)太田(103)北(87)墨田(69)八王子市(50)立川市(41)新宿(34)昭島市(30)三鷹市(29)杉並(27)荒川(26)港(26)世田谷(24)西東京市(23)中央(22)府中市(22)

 どの区に何人とはわかりませんが千代田区のように残留孤児が一名(もっともこの数字は区市側が把握しているもので実際はもっと多いのではないかと思われます)となっているところにも支援相談員は配置されています。週一日勤務です。

 ぼくは新制度発足を知り、かつての同僚である忠幸さんと共に昔担当した元生徒(2・3世)数人に受検を薦めました。区市がそれぞれ募集するのが当然ですが、それを行わず、東京都が一括採用し区市に派遣する形になったところも少なくありません。
 労働条件(勤務日数・賃金・交通費など)は国からの補助金を元に自治体で決める建前ですから区の非常勤職員としてきちんと処遇しているところから、東京都のようにまるでボランティア扱いかと思うところまで結構開きがあります。

 ここに来て東京都で一括採用されたひとびとについては来年度は雇い止めになることがわかりました。区市での雇用になるというわけです。 私たちは受検を薦めた責任もあり、10月に都庁を訪ねて制度改善に指導責任を果たしてくれるように要望してきました。が、年末になっても継続採用は保障されるのか、労働条件はどうなるのか、東京都から本人たちには何の説明もされていないようです。

 支援相談員に採用された卒業生が水を得た魚のように熱心に活動している様子を見聞きしてぼくは心から喜んでいます。制度を整え、安心して働けるように自治体の方々には智慧を絞ってほしいと思います。同じ仕事をして労働条件に極端なアンバランスがあるようでは困ります。
 残留孤児支援事業は私たち日本国民と日本政府が長く放置してきた戦後責任を幾分なりと果たすための施策です。区市当局はそのことをきちんと自覚して仕事をしてほしいものです。私たち市民もこれらのひとびとが「日本に帰ってきて良かった」と安堵してくれるように 交流の場をつくり共に生きる歩みを印していきたいものです。


水俣の図

2008-12-13 07:19:34 | 出会いの旅
 原爆の図・丸木美術館の一番奥まった部屋に巨大な「水俣の図」が展示されています。丸木位里・俊夫妻が1980年に制作した作品です。

 説明文です。俊先生が書かれたものでしょう。
  
    
    水俣の図 (1980年)
          

 「水俣は遠いアジア日本のことではない。
   ブルターニュが危ない。
   バスクが危ない」



 水俣のことを教えてください、とフランスで言われました。
帰国してすぐに水俣へ行きました。
戸をあけた時、若い娘さんが発作を起こしていました。
「早く、タオルを」
と、母親が呼んでいます。
発作のため、ひざとひざがすれ合って皮がむけ、
血が出る、というのです。



その娘さんは目鼻だちよく、黒髪が苦しげに汗にぬれていました。
弓のようにのけぞってあえぎながら新しい客を見ています。
わたしたちは描くこともならず、失礼を心にわびながら立ちすくんでいました。



水俣チッソ工場がたれ流した廃液の水銀を魚が食べ、
猫が食べ、人間が食べ、魚や鳥やたくさんの生物たちが
病み苦しみ死んでいったのです。



この家では、母親は軽い水俣病にかかっていました。
母親の胎盤を通した水銀に毒されて、
重傷の娘が生まれました。
生まれながらの水俣病患者になっていたのです。



認定患者2200人、申請患者18000人の苦しみは
今も続いているのです。
不知火の海が逆行に美しく輝いていました。
海のまわりの町や村や、島々で、たくさんの人が死に、
10万人を越える人びとに悪い影響を及ぼしていることを、
この澄んだ水に淡い島影を浮かべる美しい風景は物語ってくれません。

  出典http://www.aya.or.jp/%7Emarukimsn/kyosei/minamata.htm
 

 「原爆の図」をもって世界中を歩いた丸木夫妻はあちこちのひとびとの批判や疑問や質問や願いに出会っていきます。先生たちがえらいなあと思うのはそういう時自らの無知を隠さず、新たな出会いを求めて挑戦していくことです。「原爆の図」の連作も「水俣の図」もこうして生まれたのです。


 <水俣>」にかかわってドキュメンタリー作品を作り続けてきた土本典昭さんの作品に「水俣の図・物語」があります。作品に添えられたメッセージです。

 水俣を描く
 
 1979年晩秋、水俣湾のほとりに紙をひろげ写生にかかる丸木位里、丸木俊夫妻の姿があった。広島の被爆の体験を地獄図として描いた丸木夫妻が、今、水俣を表現しようとしているのだ。
 位里さんは風景だけで悲劇の海を描ききってみようと思っていた。俊さんは克明な人物像をすでに描いていた。刃先のように絵筆を紙に立て、中腰で一線一点を描く俊さん。それにかまわず太い刷毛で墨をのせ、よごし魔のように駆けぬける位里さん。

“水俣シンフォニー”
 完成した3m×15mの絵を前に二人が語る。「水俣の風景は美しい。人間もいいにんげんばかり。わしは明るい水俣を描こうと何べんも思った。患者の闘いも描こうと思った。しかし明るくはならなかった」「石牟礼道子さんの本『苦海浄土』とはよく水俣をあらわしたことばと思うけど、苦海ばかりの絵になってしまって…」
 東京・上野での製作発表。初めて絵と対面する水俣から来た石牟礼道子さんをはじめとする水俣の人たち。カメラは絵を横に歩き、縦に近づき、動態の流れにそってたどる。石牟礼さんの詩「原初よりことば知らざりき」が語られ、武満徹さんの「海へ」が流れる。カメラアイと詩と音楽の“水俣シンフォニー”だ。

 水俣の女人像
 
 1980年晩秋、二人は再び水俣を訪れる。そして胎児性患者の坂本しのぶさん、加賀田清子さんと出会う。俊さんは二人の肖像画を描くことで、位里さんは清子さんの願いを受けて水俣の海の風景を描くことで「浄土が垣間見えてきた」と語る。それは第二の図、水俣の女人像に結実していく。
 1981年1月、絵の中の二人の娘の掌には丸々とした赤ん坊が描かれた。その赤子と女人像に、位里さんの手で後光のような真赤な絵の具が施されていった。
   
 出典 http://www.cine.co.jp/php/detail.php?siglo_info_seq=22
 

 水俣病の患者さんと共にあってたくさんの作品を発表し続けてきた土本さんも本年亡くなられました。「水俣ー患者さんとその世界」からはじまって何本かの作品をみせていただきました。水俣にかかわるぼくの記憶の大半はこれらの映画によるものです。99年、患者リーダーの川本輝夫さんを偲ぶ会でお話を伺ったのが最後になりました。
 丸木美術館で働く娘がその人柄を尊敬しています。なにかのおり美術館に来られたときのちょっとした出会いが心に深く焼き付けられたのでしょう。
 今朝は『回想 川本輝夫』(99年8月42分)を見ました。「土本典昭作品 私家版」とラベルにあり、感想、ご批判をお寄せください、とあります。住所・電話番号・メールアドレスもしるされています。
 ぼくにとっては土本さんは途方もなく偉い人で、感想を送るなどということを思いつかなかったのではないかと思います。今となっては申し訳なく、また残念なことです。
 遠い昔、妻が市議選に出たとき土本亜理子さんがTV番組をつくってくれたことを懐かしく思い出します。土本さんの娘さんでした。ぼくはこの番組のVTRを恥ずかしげもなく授業で子どもたちにみせてきました。政治参加の一例として。

 丸木先生たちがはじめて水俣を訪れてから30年近くたちます。その水俣をやっと訪ねようとしています。

天草のおばあちゃん

2008-12-12 06:39:39 | 出会いの旅
天草を訪ねることになったので、おばあちゃんの様子を聞こうと久しぶりにNさんに電話してみました。文京高校時代の元生徒です。なんと、11月に赤ちゃんが生まれてお宮参りが済んだばかりだといいます。
 名前は心海(ここみ)ちゃん。海のように広い心をもった人になってほしいという願いが込められています。夏休みのたびに天草の海に親しみ、新婚旅行もモリジブにいったというNさんらしい命名です。メールで生まれたばかりの心海ちゃんの写真を送ってもらいました。しっかりした顔立ちの赤ちゃんです。
 天草のおばあちゃんは来春、もう一人の孫娘の結婚式に出席するため東京に来る予定だといいます。体調を崩し医者通いが続いているようですが、持ち前の気力で一人暮らしを貫いているのでしょう。
 
 2006年夏、NさんのおばあちゃんAさんを天草に訪ねたときの文章があります。手術後の抗ガン剤治療が終わり、学校に復帰した直後のことでした。ぼくがこのおばあちゃんに受けた励ましを計ることはできません。二年ぶりにお会いできるかと楽しみにしています。

  Nさんの泳いだ羊角湾http://www.yado.co.jp/kankou/kumamoto/amakusa/sakitu/sakitu.htm

http://washimo-web.jp/Trip/AmakusaTrip/amakusa1.htm 


列島ところどころ 13  天草       

鈴木啓介(都立新宿山吹高校)
 
7月13日から5泊6日で島原・天草の旅に連れて行ってもらった。恒例の義母と妻との道中の復活である。武雄の友人を見舞い、諫早湾干拓地でもと漁師さんたちに歓待されたあと、島原城・原城址などを訪ね、口之津からフェリーで天草・鬼池港にわたった。今は天草市となっている天草下島のある村にAさんを訪ねたのは15日のことである。

前夜、河浦城址の麓につくられた愛夢里という宿にくつろいだ私たちはこの朝、すぐ近くの天草コレジョ(キリスト教神学校)址を散歩したり、天正の少年使節が持ち帰ったグーテンベルクの印刷機(複製)やキリシタン本などが展示されている天草コレジョ館を見学したあと、レンタカーでA さんの自宅に向かった。美しい入り江に臨む村々をいくつも通り過ぎていく間僕はいくらか興奮していたのではないか。ぼくにとってはこの人にお会いするのが年来の楽しみであった。
 
数年前の9月、授業を担当していたN さんからレポートをうけとったのがことの始まりである。夏休みに田舎のおばあさんの家に集まった従姉妹たちと来る日も来る日も稲刈りをして汗を流した様子や作業が終わると田圃の横を流れる川に飛び込んで水掛をして楽しむ風景が生き生きと報告されていた。

 ぼくの授業では夏休み前に<自然と人間>というテーマを設定し、生態系について学び、自然観の変革について考える。夏休みに森や川や海に出かけたとき、自然にい抱かれることの心地よさや、自然の脅威を実感してもらうとともに、人間の一人として自然とのつきあい方を考えるきっかけになればと思ってのことである。レポートは任意提出で優秀作品にはぼくが思いつきの賞品をあげることにしている。

  都心で育った少女が稲刈りに汗を流す、想像するだけでこんなことが本当にあるのかと思った。家族そろっての採り入れがどんなに楽しかったか、鎌を持って稲を刈った体験がその後の人生でどんなにぼくに自信をつけてくれたか、という自分の小学校時代の体験と重ね合わせてNさんのレポートを授業で紹介した。このことがきっかけで(?)Nさんと親しく言葉を交わすようになった。母方の祖父がコリアンだったということもまもなく知った。天草に住むというそのおばあちゃんに会いたいとぼくはますます思うようになったのである。
 

Aさんは孫娘から知らされていたとはいうものの初対面の私たちを居間に迎えいれて、Nさんがいかにしっかりした農民であるかを語ってくれた。子どもの時から、東京からやってくるとおばあちゃんよりも先に田圃や畑にでたがったという。こんな子はこの村にもおらず、なかなかの評判らしい。
 
 やがて、Aさんは自分の人生について語り始めた。ぼくはただただ驚き、感動し、深く励まされた。
 
 3ヶ月近く前のことでもあり、細部は曖昧模糊となってしまってあらすじだけだが記憶に残っていることを書くこととする。

Aさんは昭和3年の生まれだが、人生で二度、親から捨てられたという。

 最初は14歳のとき。尋常小学校高等科の卒業式のあった日、家に帰ると周旋屋の男が来て待っていた。親がAさんを100円で売っていたのだ。Aさんはその場で男に引き渡された。卒業式のセーラー服姿のままだったという。
そのまま奉天(今の中国・瀋陽)に連れて行かれ、下働きをさせられた。収入はわずかだったが闇の商売をして何倍にもして毎月、親に送った。一生懸命だった。

ソ連軍が攻め込んできてからからは地獄のようだった。丸坊主になって男の格好で奉天から釜山まで歩いて逃げ回った。川を渡るとき親に捨てられた子供を助けようとしたら、お前はいざというときこの子を殺してやることが出来るか、それが出来ないならここに置いていってやれと叱責され、見捨てるほかなかった。

清津の収容所で何ヶ月か過ごした。食べていくために、Aさんは饅頭を作って街に売りに行った。みんな食料を求めていたから、よく売れた。毎日、売り上げの中から次の日の仕込みに必要なお金を取りのけてあとはすべて食料にかえた。収容所で待っている保護者のいない子どもたちに食べさせてやるためだった。

発疹チフスがはやって、人がばたばた死んでいった。Aさんも感染して生死の境をさまよったが面倒を見ていた子供たちが一生懸命看病してくれたおかげで一命をとりとめ、日本に帰ってくることが出来た。


二度目は天草に帰り着いてからである。

自分が送った金は兄弟たちの進学のための費用になったのに親からよく帰ったとも言ってもらえなかった。その当時、羽振りのよかった朝鮮人のBさんとやはり命からがら引き揚げてきた姉さんとが見合いをしたが、姉さんの「主人のような人」が帰ってきたので、結局、AさんがB さんと結婚させられることになった。
Bさんは土地などの財産も持っていたがいろいろな形で親に取り上げられ、挙句の果てに、Aさん夫婦が貧乏のどん底に落ちたとき親に助けられるどころか、お前たちはここから消えてくれといわれた。
乳飲み子を抱えて二人は熊本に渡る。長崎や東京での長い生活を経て天草に帰ったのは老年になってからである。今、国民年金に入っていないAさんの生活は子供さんたちの送金によってしっかりと支えられている。
 

僕は[親に売られた]という言葉を当の本人から聞くのは65歳にしてはじめてである。親と家族のために異郷の地から送金を続けたのに、お帰りとも言ってもらえなかった17歳の気持ちを想像することも困難である。親にどんな事情があったか詳しくはわからないが貧窮の果てに娘を売ったのではないらしい。

よくも生きてこられましたね。親を恨む気持ちはないのですか。という問いに、懐かしいとか、慕わしいとか、そんな思いはないけれど恨みはないですねえ、そんな時代じゃあなかったんですかねえ、と答えられた。私は馬鹿だからいきてこられたんです。ものごとをいいように解釈して努力することしか頭にないんですよ。とも。

その後の日蓮との出会い、信仰がこの数十年の人生をささえる原動力になったという。僕たちとの話し中にも何本かの電話がかかってくる。ふるさとの村に帰って、いま、ひとびとの信頼を得て、人のため動き回っているのだろう。安らぎの中にも稟としたリーダーの姿勢があった。

ぼくは啓介よ、しっかりせい、とどやされたように思う。一人の女性の人生の真実をさえ、おまえはどこまで若い人たちに伝えてきたというのか。おまえの仕事はこれからだ。こんな励ましを心の奥深いところで感じたのである。
 
Aさんに別れて、Nさんたちが毎年盆の頃にやってきて収穫を手伝ったという田圃を見に行った。川沿いにどこまでも水田が広がっていた。想像していたよりもはるかに広かった。このおばあちゃんの孫娘なんだなー、Nさんの笑顔を思い出しながらぼくはなかなか立ち去ることが出来なかった。
(この文章を書くためAさんに相談したところ、このように名前を変えて紹介することになりました。読者の理解をお願いします。)
     『木苺』129号(06年10月発行)所収
 
 







長芋

2008-12-11 11:31:06 | 友人たち
 こんな風景をごらんになったことがありますか。

 どこまでも続く長芋畑です。ぼくは今年9月に青森県三沢市の郊外で遠望しましたがこれは北海道帯広市近郊の写真です。 
 http://takemovies.blog.so-net.ne.jp/2008-11-30

 北海道十勝池田町のMさんとKさんから相次いで宅急便が届きました。小豆、大豆、手作りの羊羹、そして十勝ワインに長芋etc.

 夜にはお礼の電話作戦を展開しなければなりません。いつものように川越公園を歩き我が家の神明町温泉に入ったあと昼寝してそなえました。

 長芋は房子さんがTさんの畑の収穫を加勢して得たものです。M家ではタケシさんの病気をきっかけにきれいさっぱり農業をやめました。農地はTさんに貸与しています。かつて池商の生徒たちが世話になったT家では道明さんが引退したあと、お子さんお孫さんと跡継ぎの方々が大規模営農を続けているのです。長芋畑は2haあるそうです。
 バックホーという器械で畝と畝の間に深さ1mほどの塹壕のような溝をつり、そこに降りて長芋を掘り出す仕事をするということです。機械化が進んでいるとはいえ、結構厳しい労働ではないかと想像できます。

 バックホー http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1750405.html 

 K家は陽子さんが元気な声を聞かせてくれました。頑張ってあと一年営農を続けるそうです。嘱託農業といっていますが小豆と小麦を20haはつくっています。マサキさんが70になる前に引退を決意したのは農地貸与の見通しがついたからでしょうか。今夜は帯広の十勝川温泉だそうです。
 ぼくと同じ年頃の働き者のご夫婦二組です。出会ってから半世紀以上がたちました。元気な声を伝えることができ喜んでもらえました。ありがたいことです。

公務員

2008-12-10 22:35:50 | 中国残留日本人孤児
 9日(火) 
 昨日貰った宿題に取り組みました。Aさんにかかわるいくつかの課題です。国民年金加入問題、永住資格取得問題、パスポート取得問題etc。どの問題にも収入がほとんどないこと、つまりカネが隘路ですが対応する人の心の貧しさが立場の弱い人をいっそう苦しめていることがわかります。
 市役所や社会保険事務所、入国管理事務所などで働いている公務員に接すると情けなくなります。その人の立場に立ってわかりやすく説明するという姿勢が欠如しています。社会的弱者を対等な人間と見ていないのです。これでは怖くなって二度と近づきたくなるのは当然です。そのために大切な権利が空洞化し、ますます本人が生きがたくなります。
 個々の問題に詳しい知友に相談すると道が開けるかと思いあちこちの友人に電話しました。直ぐにどうなるというわけにはいきませんが協力を得られそうな話しもあり元気づけられました。



 前に紹介した城戸久枝さんのノンフィクションがNHKでドラマになるというニュースがあります。忘れないように新聞記事を貼り付けておきます。

 


  城戸さん(松山生まれ)原作 ドラマ撮影始まる 八幡浜

              2008/11/30 愛媛新聞

 松山市生まれのノンフィクション作家・城戸久枝さん(32)=東京都在住=のルポルタージュで、第三十九回大宅壮一ノンフィクション賞などに輝いた『あの戦争から遠く離れて―私につながる歴史をたどる旅』(情報センター出版局刊)を基にしたNHKドラマの制作がこのほどスタート。二十九日、八幡浜市を皮切りに愛媛ロケが始まった。十二月三日まで、同市のほか松山、伊予、西予の各市で撮影予定。
 原作は、中国残留孤児として育ち一九七〇年に帰国した城戸さんの父幹さんの人生をたどったルポ。幹さんは旧満州(中国東北部)で将校だった故城戸弥三郎・八幡浜市議の長男で実家が同市にある。
 ドラマのタイトルは「遥かなる絆」で二〇〇九年四月から毎週土曜日に六回放送予定。中国残留孤児を描いたドラマ「大地の子」を手掛けた岡崎栄さんが演出し、六十歳をすぎた幹さんを加藤健一さん、青年時代の幹さんを香港映画などで活躍するグレゴリー・ウォンさんが演じる。久枝さん役は鈴木杏さん。
 
  鈴木杏さん  
 http://ameblo.jp/anne-al/entry-10155097999.html
 
 

 同日は同市保内町川之石の診療所で、帰国した幹さんが妻となる陵子さん(佐藤めぐみさん)の働く病院を訪ねるシーンを撮影。岡崎さんは「人間愛をうまく表現したい。日中関係が良い方向に向かう作品になれば」と話していた。