川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

オバマ大統領のツイッター

2013-02-28 09:41:50 | 政治・社会

2月28日(木)

昨日も一日、家にこもる生活でした。妻が12年分所得税「確定申告」の書類を作るのを手伝いました。

2012年一年間に支払った医療費の合計は27万円余です。抗がん剤などの自己負担金がほとんどです。高額療養費の適用を受けているのでこのくらいで済んでいるのです。これに通院の旅費を加えて医療費控除の申請をしました。一万円程度の還付金があるはずです。

 医療費のほかに国民健康保険料(約20万円・2人分)介護保険料(約12万円・2人分)などを医療保健関連で支払っています。僕の場合は健康保険財政に巨額の世話になっているのでこの程度で済んでいることに感謝しなければならない、と思っています。

夜になって偶然、オバマさん(USA大統領)のツイッターを読むチャンスがありました。

 Barack Obama @BarackObama

Find out what's at stake for kids, seniors, and the mentally ill if Congress doesn't stop severe budget cuts:

 「議会が予算カットを中止しなければ、子ども・老人・精神病者が生きていけなくなる」かな?

英語をまじめに読んだのは高校生までです。良くはわかりませんが大統領が必死になって国民に呼びかけているようです。

オバマさんに声援を送りたくなります。

弱肉強食の原理が支配するUSA.貧乏な人びとの社会保険はどうなっているのか?ぼくのようにガンに犯された人はどういう治療を受けられるのだろう?

(英和辞典を取り出してきました。時々オバマさんのツイッターを読んでみようか。)

日本の社会保険制度は世界に冠たるものだと聞いたことがあります。もしそうだとすればそれはこの60余年、非戦に徹してきたからこそでしょう。なんとしても守り抜かねばなりません。

だからといって何から何まで国の安全保障はUSAにおんぶに抱っこというわけにも行きません。東アジアの雲行きは怪しくなるばかりです。「戦争以外の方法で立ち向かう」と決めた以上、わたしたち国民も知恵を出し合わなければなりません。

 

 


在日コリアンはなぜ独裁と闘わないのか?

2013-02-27 07:34:25 | 在日コリアン

2月27日(水)

 安倍政権が朝鮮高級学校に「授業料無償化措置」を適用しないことを決めた。あちこちの自治体が各地の朝鮮学校への助成金の支出を取りやめる動きも広まっている。

 金王朝への限りない忠誠を求める「教育」に税金を支出することはできない 、それはごく当たり前の感覚だ。「民主主義と人権」を基調とする憲法や教育基本法に照らしても当然のことだ。

 左派系のコリアンや日本人から「差別」だ、「人権の無視」だのというアピールが僕の耳にも届く。まことに笑止千万だ。

 北朝鮮やそれに盲従する朝鮮総連の実態がこれほど暴露されても、子どもを朝鮮学校にやろうという親とはどういう人たちだろう?ぼくには想像がつかない。(知友にはそんな人はいない)。

 いくら北朝鮮に「人質」をとられていてもここは日本だ。在日4世や5世を「将軍様」の学校にささげないと生きてはいけない事情があるのか?

 王朝の「奴隷」の身分に慣れきって、何の疑問も感じないのか?


 11年の暮れに紹介した朝鮮高級学校OBの元智慧さんのアピールを再度紹介したい。

 朝鮮総連・朝鮮学校の解体・民主化は在日コリアン自身のたたかいによって実現されるべきではないのか。安倍政権に任せるのは恥ずかしいことではないのか。


 

   北朝鮮の世襲後継がおこなわれ国際世論の非難を浴びるなか、在日社会も変化しなければならない時が来ている。(略)

 私は、ほかではない、在日同胞にもの申したい。

 これまで、在日が歩んできた道程は厳しいものであった。

 拉致事件以降、韓国籍に変える人、帰化した人は数知れず、それはそれで可能な限りの抵抗であるという見方もできるが、私はやはり自分さえ関わらなければよい、という在日の在り方にも疑問を呈する。

 在日の皆様(帰化した人も含めて)、拉致事件をこのまま何も進展がないまま放っておくつもりですか?

 北朝鮮のような野蛮な国家を、ただ眺めているだけですか?朝鮮総連の実態を内外に告発するべきではないですか?

 そのような邪悪なものから、わが子を守るべきではないですか?ただ組織から離れて自分の道を歩めば、それでよいのですか?そして、何も行動を起こさないつもりですか?

 日本の方にも問いたい。

 われわれのすぐ傍らにこのような学校という名の工作員養成所が存在するというのは、恐ろしい限りではありませんか?無償化云々以前に、存在そのものを消す必要があると思いませんか?

 少なくとも、往時の純粋な在日同胞のための誇り高き教育を取り戻せないのであれば、総連や民族教育は害悪である以外のなにものでもない。

 私は、授業料無償化の議論より、在日のための組織ではない、北朝鮮のためのスパイ組織を消滅させなばならないことが喫緊であると確信する(もちろん、さしあたっては無償化断乎反対である)。

 心ある在日同胞の皆さん、今こそ立ち上がろうではありませんか!

 そして、心ある日本の皆様から、そのためのお力添えをいただきたい所存である。

 ●「光射せ!」第6号http://hrnk.trycomp.net/hikarilist.php  

参考「川越だより」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/69455967873cb8478107ac01a9536d89


朝鮮総連本部やっと競争入札へ

2013-02-26 09:21:59 | 韓国・北朝鮮

 2月26日(火)今日も明日も寒く、外には出られないかな。それでも日々は過ぎていきます。


 

昨日、朝鮮総連の本部の競売の日程が決まったと報道されました。こんな当然のことが決まるのになんとまあ時間のかかることか。

RCCが朝鮮総連から回収しなければならないのは少なくみても627億円です。本部がいくらで競り落とされるのかわかりませんが、回収目標の一割にもならないのです?。

総連から「北」の王朝に貢がれた巨額の献金が原爆やミサイル、果ては金ぴかの銅像に化けているのです。やりたい放題の「経営」の結果、組織が破綻するのは当然ですが、その尻拭いまで税金でやるのは許せません。RCCは手を尽くしてきちんと回収の仕事をしてほしいものです。

 総連幹部らは各級朝鮮学校まで抵当に入れて借金を重ねました。売却された学校もあるといいます。韓ドクス前議長の豪邸(新宿区中落合)はどうなったのでしょう。本部と同じように総連とは所有者が違うと裁判にでもなっているのかな?

朝鮮総連本部、競売入札は3月12日から

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 在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部の土地・建物(東京都千代田区)について、東京地裁は25日、競売のための入札手続きを公告した。入札期間は3月12~19日で、購入できる下限の価格は約21億3400万円。同月29日にも売却先が決まる。買い手が現れれば、「事実上の北朝鮮大使館」とも言われた最重要拠点が総連以外の手に渡ることになる。

 中央本部が入るビルは地上10階地下2階、延べ床面積約1万2千平方メートル。敷地は約2400平方メートルある。総連に対して借金の返済を求める権利(債権)を持つ整理回収機構が昨年7月に競売を申し立てた。地裁は土地・建物を差し押さえたうえで、資産価値の評価などを進めていた。買い手がつかなければ、手続きが停止されることもある。

 土地・建物の登記上の所有者は「合資会社朝鮮中央会館管理会」だったが、機構は実質的な所有者が総連であることの確認を求めて提訴。昨年6月に最高裁で機構の勝訴が確定し、競売が可能になった。

出典●http://www.asahi.com/national/update/0225/TKY201302250045.html

朝鮮総連中央本部の競売、来月に入札 評価額約26億円

産経新聞 2月25日(月)10時47分配信

 在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)に債権を持つ整理回収機構(RCC)が強制執行(競売)を申し立てていた朝鮮総連中央本部(東京都千代田区)の土地・建物について、東京地裁が競売を公告したことが分かった。公告は25日付。入札の下限である買い受け可能価額は約21億3460万円。入札期間は3月12~19日で、26日に開札し、29日に売却先を決定する。

 公告によると、中央本部の土地は約2390平方メートル。鉄筋コンクリート製、地上10階、地下2階建ての建物の延べ床面積は1万1740平方メートル。

 不動産鑑定士による評価書によると、評価額は約26億6800万円。JR飯田橋駅徒歩約4分の好立地だが「東日本大震災で壁に亀裂が入るなどし、建物を十全に使用するには、大規模修繕を行う必要がある」としている。

 RCCは、経営破綻した在日朝鮮人系信用組合から不良債権を引き継ぎ、このうち約627億円については、全額の支払いを総連に命じた平成19年の東京地裁判決が確定した。登記上、中央本部の所有者は「合資会社朝鮮中央会館管理会」となっているが、実質的な所有者が総連であることの確認などを求めた別の訴訟でも、昨年6月、最高裁でRCCの勝訴が確定。RCCの申し立てを受けて、地裁が同年7月に競売手続きの開始を決定していた。


秋名の「平瀬マンカイ」 奄美⑤

2013-02-25 09:37:54 | 出会いの旅

2月25日(月)晴れ

寒い日が続きますね。08年2月の奄美大島の旅を思い起こしながら暖かい海岸を訪ねる夢を膨らませています。


 

 秋名の里は奄美大島北部の龍郷町にあります。ぜひまたいってみたいところです。

ここは奄美では珍しく水田の開けたところです。

写真: 奄美大島龍郷町秋名  奄美では珍しく水田が広がっています。 

サタヤドリというサトウキビ搾りの小屋が名所だというので探し当てました。今は観光客のために休日に実演しているだけでかわいい馬が草を食んでいます。この馬が動力源になっているのです。一馬力。

奄美の砂糖生産は幕末から維新期に活躍する薩摩藩の財源になったのですが、それがヤンチューという奴隷制度に支えられていたことはこの旅で買った本で初めて知ったことでした。

サトウキビを切って持たせてくれた大田さんや娘さんが埼玉に嫁いでいるといってタンカンを車に押し込んでくれたおばさんとの出会いもあって秋名は忘れがたい地となりました。

写真: 秋名のおばさん  収穫中のタンカンをたくさん持たせてくれた。

 秋名には「平瀬マンカイ」と呼ばれる豊作に感謝する祀りがあるといいます。旧暦八月最初の丙の日。一度は人びとの賑いの中に身をおいてみたいものです。

平瀬マンカイ●http://www.youtube.com/watch?v=ZjQPXZvW7yk

 参考・川越だより「秋名の里」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/d1269754ce4f6fe3162f02c21d669704

「西郷隆盛」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/c86971f4cb782468e068c4c01913fb13


シマ唄  奄美④

2013-02-24 07:26:44 | 出会いの旅

 2月23日(日)晴れ

奄美大島といえば「島唄」ですが、「島」は「むら」「集落」を意味するようです。山が海に落ち込むような感じの奄美大島には海に向かって開けた村がありますが、その一つ一つが孤立していて海岸部に連絡道路はありません。脊梁に道路ができるまでは隣村との交通は船以外にはなかったようです。

 そのムラの一つ一つが「シマ」なのです。唄も祀りも「シマ」ごとに違うのですね。

シマからは「立神」と呼ばれる岩が望まれます。守り神とされているのでしょう。

写真: 立神 奄美大島

ヘゴの森の所在を尋ねようと「学校」に寄ったら、廃校となり、堀さんという画家夫婦のギャラリーとなっていました。

写真: 奄美大島  旧嘉徳小学校 堀さん夫妻

なんとここは「元ちとせ」の母校、旧・嘉徳小学校だったのです。入学も一人、卒業も一人だったといいます。アカダモ?の巨木に守られた学校です。

このシマに伝わるのが「嘉徳なべ加那節」。元ちとせさんもこのシマ唄に馴染んで育ったのです。

嘉徳を紹介する瀬戸内町のHPです。「なべ加那節」も聞くことができます。

また、訪ねてみたいなあ。

 「嘉徳」●http://amami7.com/tannboukatoku091128.html

参考・川越だより●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/b133e8585dc383104ca9874c54c67696


東電の家宅捜査を直ちに行え!

2013-02-23 10:21:42 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

2月22日(金)晴れ

午後から夜まで珍しくがんばりました。

 4時から東京地方検察庁前。福島原発告訴団の人びとが署名を提出して原発事故責任者らを速やかに起訴せよと要請します。午前中にゆっくり休養して4時前に長い行列のあとにつくことができました。

福島を午前中にたって到着した人たちを中心にして1時間あまりの要請行動です。未曾有の大事故を引き起こした東電の家宅捜索が2年がたとうとしているのに行われる気配がありません。東電の証拠隠しに国会事故調査委員会も怒っています。検察庁はなぜ、仕事をしないのか。

 犯罪を犯した連中が罪の自覚もなく原発を稼動させる。こんな恐ろしいことが始まろうとしているのです。福島の犠牲者は無視されたままです。

 700人の参加者と発表がありましたが女性の姿が目立ちます。子を守る意識がやはり男とは違うのでしょうか。検察官も男世界です。でたらめばかりが目立ちます。ここで起死回生の仕事をしてほしいものです。

責任者がただの一人も訴追もされないとすればこの国の正義は影も形もなくなり、混沌たる無法・闇の世界に突入します。

  被告訴人 寺坂信昭 元原子力安全保安院院長ら

         斑目春樹 元原子力安全委員会委員長ら

         坂東久美子 前文科省生涯学習政策局長ら

         山下俊一 福島県放射線健康リスク管理アドヴァイザーら

         勝俣恒久  東電 前会長

         西沢俊夫  東電 前社長

         清水正孝  東電 元社長ら

         東京電力株式会社         (33人・法人)

寒さが堪えてきたので東電前には移動したものの集会には参加せず、法政大学の夜の集まりに向かいました。

 

 


今日は東京地検包囲行動日

2013-02-22 08:47:11 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

2月22日(金)晴れ

福島原発告訴団のかたがたが今夕、東京地検包囲行動を行うそうです。

日和もよさそうなので出かけようかと思っています。気づいた方はぜひご一緒しましょう。金曜日ですが寒そうなので夜の部は遠慮します。


 

福島原発告訴団・東京地検包囲行動へ

【東京地検に私たちの『本気』を伝えよう】

福島原発告訴団は2月22日、全国に呼びかけて、東京地検前にて、『要請と激励』行動を行います。
ぜひご参加をよろしくお願いいたします。

つい先日の報道で、昨年行われた国会事故調の福島第一原発1号機の調査の際、東電は、本当は建屋の中に明かりが差し照明が使えるのに、「中が真っ暗なので調査ができない」と虚偽の説明をしていたことがわかりました。

未曾有の大事故を引き起こして尚、東電のこの体質にはあきれるばかりです。
私たちの告訴を受けて、検察は事情聴取を始めています。勝俣恒久東電前会長、清水正孝元社長、班目春樹元原子力安全委員会委員長などが呼ばれたと聞いています。

しかしそれだけではなく、検察が強制捜査を行い証拠の押収をしなければ、真実が闇に葬られてしまう可能性があります。
検察が厳正な捜査をする姿勢を見せなければ、東電や政府の態度は変わらないと考えます。

この事故の原因がどこにあり、誰にあるかをはっきりとさせ、ただしていかない限り、原発事故被害者はますます困難を極め、分断され、救われることはありません。
そしてあらゆる命が安心して生きられる世界を創るための新しい価値観は生まれてきません。

みなさん、是非ご参加下さい。

福島原発告訴団 武藤類子


2月22日(金)
*16:00 東京地検前集合 要請と激励行動
     [案内図]東京地方検察庁
     http://www.kensatsu.go.jp/kakuchou/tokyo/tokyo.shtml

(移動)

*17:30 東電本店前 アピール行動



ちいさな春 見つけた

2013-02-22 08:07:51 | 川越・近郊

 2月21日(木)晴れ

午後、風が弱まってきたので川越公園の散歩に出かけました。久しぶりで「病後」のようなよたよた歩きです。日当たりの良い林床で小さな小さな花が咲いているのに気づきました。

イヌノフグリ。

写真: 小さい春見つけた   イヌノフグリ

こちらはホトケノザ。

寒い日が続いて気合が入りません。小さな野の花の営みに力をもらう喜び。

 池のそばに腰を下ろしてしばし休憩。静かです。美しい青空です。こんなときにも放射性物質や北京のスモッグがアタマをよぎります。恐ろしい時代を生きることになったものです。

写真: 芝生で遊ぶ大学生の「輪」が飛んで行った先

芝生の広場では大学生が12・3人遊んでいます。輪投げ?の輪がケヤキの梢に引っかかって根元に蹴りを入れる人もいます。落ちてはきません。

やがて三角ベースの野球のようなものが始まりました。ボールは小さな枕のような感じですが結構遠くまで飛びます。

大学のサークル活動だといいます。小学生のとき数人で楽しんだ三角ベース。バットなどの道具を持って現れた指導者?がメンバーを二つに分けたり、ルールの説明をします。

初めて目撃する風景です。なんといえばいいのか。唖然としてしまいました。

 

 

 

 

 


浦賀 室戸岬のマグロ漁の基地の街

2013-02-21 06:49:36 | ふるさと 土佐・室戸

2月16日(土)曇

 久里浜からバスに乗って浦賀を訪ねた。浦賀病院前下車。

(L字桟橋 戦後南方からの復員船が着いたところだという)

ここは黒船来航のころ、船番所があったところで小公園になっている。 

     写真: 浦賀舟番所跡

「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船) たった四杯で 夜も眠られず」

 日本史で必ず習う黒船来航(1853年)で「浦賀」を聞いたことがない人は珍しかろう。

その船番所あとに立つ浦賀病院の土地にかつて高知県室戸岬鰹鮪船主組合の建物が建っていたという。

 浦賀は昭和14年(1939年)から30年間にわたって室戸岬のマグロ漁の前進基地ともいえる街だった。

 その間の事情を書いた長崎大学の先生の論文がある。熊野さんのお話とも大体符合するので紹介しておきます。

 

 高知県室戸の鮪延縄漁業  楠原直樹 (1977年)

(略)

 漁船の動力化によって漁場は拡大され,黒潮にのって北は金華山沖から南は鹿児島沖まで鰹(かつお)漁に出漁するようになり,冬期は鮪(まぐろ)漁を行っていた.動力漁船数の増加とともに漁獲量も著しく増加した.
 これらの鰹鮪漁船の年間操業状況をみると 3-4月は南下して鹿児島沖、4-5月は土佐沖
で操業し,地元室戸・高知-水揚げした. 6-7月は休漁し8-10月は北上して青森県鮫漁港・
岩手県釜石港を基地にして三陸沖で操業し, ll-12月は神奈川県三崎漁港を基地にして房総半島から金華山沖にかけて操業するのが一般的であった.

 このように県外で長期間操業するようになると燃料・食料の仕込み・漁獲物の水揚げ・販売等を船主に代って漁業組合・船主組合が駐在員を各々の基地において代行させていた.

 本格的に三崎漁港を基地にするようになったのは, 1937年(昭和12年)頃からで,三崎漁港を基地に野島崎沖から金華山沖にかけて操業していた.

 その頃三崎の市場手数料3%を2%に下げるよう交渉したが,当時三崎漁港の水揚量のうち高知県漁船の水場量の占める割合が少なかったこともあって発言力が弱く,交渉は決裂した.

 丁度その時,横須賀市から基地誘致の話がもちこまれたこともあって,これを機に1939年(昭和14年)に基地を浦賀に移して冬季に犬吠崎沖から野島崎沖にかけて鮪漁を行ない下級品を地元浦賀で販売し,上級品は東京・横浜・埼玉方面へ出荷していた.

 室戸町,室戸岬町合わせて約70隻の鮪漁船が浦賀を基地として操業していたが, 一航海は約40日で,年間7 -8航海の操業が普通であった.

 しかし,この様に順調に発展していた鮪延縄(はえなわ)漁業も,やがて第二次世界大戦を迎えることになる.第二次世界大戦に入り,鮮魚介配給統制,東京卸売市場の仲介制度の廃止などとともに燃料・食料・漁具など漁業資材の不足によって全船が操業することは困難になった.また漁船は次々と徴用され,終戦時には建造中に終戦を迎えたものを含めて9隻の老朽船しか残らなかったという.

 戦後,食糧難を乗り切ろうとする政策を受けて昭和21年に第-次代船建造が農林中央金庫の融資によってなされ,新船建造・中古船の買入れに合わせて12隻が新たに出現した.漁船数は1949年頃には戦前の状態にまで復活するとともに1948年には浦賀基地も復活して東京への水扱げも始まった.

 浦賀基地の再開と前後して,東京市場への水揚げが始まったが,次にその比重が高まった.東京市場への出荷は,当初浦賀事務所が事務を行っていたが,不便なため, 1968年に東京事務所が開設されるとともに,浦賀事務所は閉鎖された.

出典●http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/9659/1/kyoyoJ17_00_04_t.pdf


室戸・室戸岬両港を根拠地とする鮪延縄漁業は全国有数の規模を誇ったが、悲しいかな両港が消費地から遠かったため、前進基地を各地に置かざるを得なかった。三崎・浦賀・焼津…。

だから室戸岬の人びとにとって「浦賀」は特別の街であった。

僕がこの街を始めて訪ねたのは大学生になった1960年代の初めだ。小学校同級生の子安麟吉くんの両親を観音崎灯台に訪ねたあと、祖母(母の叔母)に会いに来た。港近くで船員相手の食堂をやっていた。幼馴染の田原利和くんにもあったのではなかったか。利和くんの父上が漁協の燃料担当の仕事をしていたことは今回熊野さんに聞いてわかったことだ。

 その昔には伯父の丸興水産の水産加工工場もあったとのことだ。鮪漁盛んなりし頃の浦賀は土佐・室戸人の街で賑わったのだろう。今はもう寂れた歴史の街である。

(昔懐かしい本屋さん)(浦賀・紺屋町近く)

(東・西浦賀を結ぶ渡船・営業中)

 室戸岬出身者の「室戸岬会」は毎年、横須賀で会食をしているが高齢化で継続が危ぶまれているという。僕に声がかかるようになったのは近年のことで一回しか出ていない。

 善助オンちゃんの野辺の送りに出て、熊野さんのお話も聞けた。僕の「根っこ」を作ってくれた人々の営みがやっと少し見えてきた、か。

 元気に生きてせめて「室戸岬会」には出席させてもらおう。「落葉帰根」というが帰るべき根っこがまだまだわかっていないのだ。

 

 


「為やん」の授業風景

2013-02-20 05:48:39 | 父・家族・自分

2月19日(火)曇

室戸で言う「しびくた」日和、東京では昼時に「吹雪」になったとか。一日、コタツにもぐってぼけっとしました。妻は和服のリフォームに余念がありません。今度はどなたに差し上げるのかな?

 浦賀の熊野さんは几帳面な方です。写真はきちんと整理されていました。小学校の卒業記念の写真帳に父の姿が映っていました。

昭和14年度(1939年度)「津呂尋常小学校卒業記念写真帳」

父は熊野さんの2つ上の高等科2年の担任だったと思われます。今で言えば中2にあたります。父は32歳、僕の生まれる2年前です。

熊野さんは習ったことはなかったがお兄さんから「為やんは怖い」と聞いていたそうです。

父は旧姓の「坂井為利」で教壇に立っていましたが地元の人は誰もが「為やん」と呼んでいました。(僕は「啓やん」です)。昭和7年(1932)から20年までは津呂小の「訓導」(今の「教諭」)ですから、「支那事変」から「大東亜戦争」の期間の室戸岬の教育の中核を担ったことになります。

昭和16年(1941年)からは「小学校」が「国民学校」となり、戦時色一色になります。どんな先生だったのでしょう。僕の知らない時代の父の写真を見つけてこの時代に生徒だった方々の証言をほとんど聞いていないことにあらためて気づきました。僕が室戸岬の町を離れて高知や東京で暮らしている間にすっかり故郷の人びとと疎遠になっていたのです。

 善助オンちゃん・熊野のオンちゃんの年から上の人には戦死した人が数多くいます。岬端の「忠霊塔」に刻まれている100数十名の「教え子」の名をなぞりながら、教師になった僕に自らの戦争責任を語ったことがあります。

 師範学校という軍隊式の学校を出ていても大正デモクラシーの空気を吸っている人です。

父には昭和3年の詳しい日記が残されています。10年後の日々の思いはどんなものだったのでしょう?

 参考「川越だより」●「昭和3年 父の日記③ルソー」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/d0f36c3b7c04ab3595ec773aaf402f72


Nちゃんのチョコレート

2013-02-19 08:14:35 | 友人たち

2月16日(土)

 不在で受け取れなかったRさん母子からの郵便小包が朝早く届きました。開けてみるとなんとチョコレート。小さくてかわいいのが高校進学が決まったNちゃんからのものです。

手紙が入っていました。高校合格に「早春賦」を送ったのを喜んでくれたようです。

「わたしの中学校生活はとても充実していたと思います。」「高校生活も充実したものにしていきたい」と結ばれています。

 小学生のときに北朝鮮を命がけで脱出した人です。中国で「日本に行く」と知って泣いて拒否したと聞いています。幼少時からの教育で「日本」=「怖いところ」と思い込んでいたのです。

小6~中3と日本の東京で4年間の学校生活を送って、いま、「充実」という言葉をきけるのは本当にうれしいことです。本人はもとより家族・先生方・友人たち、さまざまな人たちの努力・協力の賜物です。

進学の祝いに『アンネの日記』を送りました。僕が教員だった頃に高一のすべての生徒に紹介した本です。

 川越だより「アンネの言葉 ①理想と希望」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/4183f4dc7835cd9fd1c17e25c5443fce

アンネは15歳でいのちをたたれました。同じように出口の見えない圧政下で北の少女たちはどんな風に生きているのでしょう?

豊かな感性に恵まれたNちゃんの東京での高校生活がどのように展開するのか、わくわくどきどきしながら応援できるのはうれしいことです。

2月18日(月)曇

昼前、癌研有明病院で西尾医師の診断がありました。X線・血液検査ともに大きな変化はありません。抗がん剤「タルセバ」の効能は落ちてきていますが4月のCT検査まではこのままの治療を続けることになりました。

元主治医のN先生がまだまだ大丈夫、75までは今までどおりがんばろう、と励ましてくれました。旧友の言葉を聴くとうれしくなって元気が湧いてきます。


熊野一貫さん

2013-02-18 05:23:39 | ふるさと 土佐・室戸

2月15日(金)午後・雨

 浦賀駅後背の高台の住宅に熊野さんを訪ねました。奥さんを亡くされ一人住まいです。善助おんちゃんの葬式以来、二度目の面会ですが、同郷のよしみで話はすぐに佳境に入ります。

写真: 浦賀のお宅に熊野一貫さんを訪ねました。

これが昭和18(1943)年8月、室戸岬の青年が神宮の国民錬成大会「800米継泳」で全国優勝したときの写真です。

前列右が安田善助さん、後列左が熊野一貫さん。今で言えば高校生です。善助さんが熊野さんの一級上で主将。中央は浜田先生。

国民錬成大会メダル(ニッケル製・裏)。「体育」が消え、「錬成」に。

右は「紀元2599年」(昭和14年、1939年)高知県大会(小学生)のメダル。

写真: 少年時代 熊野さん(左)  高知県大会

(少年時代・高知県大会に出場。左が熊野さん。昭和14年度「津呂小学校卒業記念写真帖」より)

今と違ってどの学校にもプールがあるというわけではないので、海で育った室戸の子どもたちが競泳でも強かったのでしょう。県の大会では毎年のように良い成績だったようです。

熊野さんは昭和18年(1943年)12月、海軍航空隊(予科練)に進み、三重県香良洲で軍隊生活。幸いにも生き残って戦後は復活したマグロ船の船員・船頭として昭和38年まで働いたといいます。

写真: 敗戦後 漁師になった熊野さん

(室戸岬の鮪漁船時代の熊野さん)

 昭和37年(1962年)ソロモン海域で台風に巻き込まれ無線連絡も途絶えてしまったときの船頭としての苦闘をタンタンと話してくれました。山のような波と暴風の中で船の難破を避けるための懸命の作業。帰ってきてお子さんから「おかあちゃんの体からいっぱい水がでちょった」と聞かされ、やがて船を下りる決断をしたということです。

 下船後は室戸岬船員同志会の中谷清明会長に誘われて浦賀の事務所で漁労部の仕事を2年ほどしました。船員の賃金保障や年金制度の確立のために中谷さんは東京にもよく出張され、水産庁では有名な存在だったとか。

黒い箱で調べるとこのごろに「室戸岬鮪船労働協約」が結ばれている。

「昭和39年10月24日,室戸岬鰹鮪船主組合と船員同志会は10年来の懸案であり,3’年にわたる交渉の成果である,賃金の一部固定給化に成功した.これは固定給付き奨励金制ともいわれる.」
 ●https://ir.kochi-u.ac.jp/dspace/bitstream/10126/1309/1/H014-10.pdf

 室戸岬鮪漁業の前進基地・浦賀で活躍した人々の名前が次々に出てくるものの、顔を思い出せる方は少ない。「低気圧のオンちゃん」。確かに聞いたことがあるなあ。12歳で故郷をあとにしてしまい、「津呂のことは何も知らない」人間になってしまった僕の宿命です。それでも熊野のおんちゃんにお会いすることができて何かとてもうれしい気持ちになることができました。

先祖は捕鯨の技術を伝えるべく熊野(和歌山)から室戸岬に招聘された一族だといいます。知力にも体力にも恵まれて海の男として生き抜いてこられたのです。娘さんは国際結婚でアメリカ、息子さんは明石の病院のお医者さん。お子さんたちもみなそれぞれに「いごっそう」「ハチキン」をやっているのでしょう。

4時近くにおいとましました。

 

 

 

 

 

 


三浦三崎

2013-02-17 10:43:37 | 東京・関東

2月15日(金)曇雨

勝義さんを三崎口駅に送った後、三浦三崎の街歩き。三崎港で不思議な光景に見とれました。

宮古港の151勝運丸の水揚げ。鮪(まぐろ)がクレーンで吊り上げられています。こんな光景を見るのは初めてです。仲買の人たちの姿もありますがセリがあるのか?鮪はトラックの冷凍庫にそのまま積み込まれていくように見ました。

右手が城ヶ島。海峡にかかるのが城ヶ島大橋。

このあたりは古くからの漁港です。昭和のはじめに室戸岬のマグロ船が野島崎沖にまで来るようになってここを基地にするようになったと聞いています。今も徳島県・高知県出身者が多く住んでいるとのことです。

港近くに海南神社があります。拝殿の懐かしい風景。 

街は昔日の繁栄の面影を残しています。丘の上には寺が多く、三浦一の生まれたという最福寺を訪ねました。

港で漁協女性部が運営する「ハマユウ」の煮魚が美味しいと聞きました。次回、きっと。

 

 


剣崎灯台から城ヶ島

2013-02-16 21:45:00 | 東京・関東

2月14日(木)

 三浦海岸でレンタカーを借り、啄木の夫婦歌碑を見た後、剣崎灯台へ。三浦大根の畑の中の道の果て。はるかに房総の山々。突然の誘いに乗った勝義さんが喜んでくれた。

(駐車場が整備されていないのはどういうことか。)

写真

城ヶ島公園はスイセンの花盛り。見事な公園に整備されていた。

泊まりは油壺の観潮荘。

潮の湯。しびれた脚にもしみわたる。


コニヤンは人びとの心の中で生き続ける ありがとう!コニヤン

2013-02-14 05:17:30 | ふるさと 土佐・室戸

2月14日(木)

 今日、高知ではコニヤンの野辺の送りがあります。

けんちゃんの話だと昨日のお通夜には500人もの人が駆けつけたといいます。こんな通夜は初めてだともいわれていました。

「コニヤン 早すぎるぜよ」●http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-548c.html

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  コニヤンは地道で目立たない存在でしたがまさに「地の塩」だったことの証です。
ご家族や友人たち、コニヤンに世話になった生徒やOBの方々の無念をあらためて強く思います。
 
 コニヤンが尊敬する先輩であり同志であった梅原さんがメールをくれました。
 
 「昨夜、葬儀場の控え室で、本人、奥さん、子供達に会ってきました。ふとんに寝かされた小西を『寝えたらいかん、はよう起きえや』と揺すぶって涙が止まりませんでした。
 30年の付き合い、まっこと惜しいです。いくら寿命とはいえ、早すぎます。春まではとは思っていましたが、あれが限界だったのですね。
   (略)
 入院中は『鈴木先輩もがんばっちゅう、気を大きく持って療養せないかん』と励ましましたが、正直、いつまでもつろうかと、心の中では泣いていました。予想より相当早かったです。

 早く教師をやめても、次の夢がいっぱいある、頼もしい男でした。それもやれず、
まっこと惜しいです。」
 
 僕はたった4年余りの交友でしたが、100年の知己のような気でつきあわせてもらいました。遠慮なく心を通わせることができる大切なともだちになりました。
 
おかげで梅原さん・健ちゃん・大崎さんなどという得がたい友の輪にも入れてもらうことができました。心強い思いがしています。 
 コニヤン、ありがとう。しばしの別れだね。
春になったら高知に帰ってコニヤンの奥さんやお母さんに会いに行きます。
今日は勝義さんを誘って三浦半島に海を見に行きます。コニヤンの本を読んでくれた僕の大切な友人です。
 
 
 

 ①コニヤンからの「第一声」08年5月9日
 
はじめまして (コニヤン)
2008-05-09 03:28:10
コニヤンです。
今朝グーグルで「コニヤン」と
検索して調べていたら
なんとここにたどり着きました。
びっくりしました。
そして、うれしかったです。
さらに高校の大先輩ということも
知り、また恩師の竹村一水先生が
担任であったことも知りよけいに
うれしくなりました。
どこに
書き込みをしたらいいのか
わからないので
ここに書き込みました。
今後とも
よろしくお願いします。
コニヤン
 ●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/1dcc0e1b499a9306053ba6ad10cb8d68

 ②コニヤンとの出会いはブログを通じてでした。その「川越だより」を訪問してくれた方が昨日で400078人となりました。ありがとうございます。「今後ともよろしくお願いします。啓介」。