川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「小康状態」続く

2011-02-28 14:17:17 | 父・家族・自分

2月28日(月)雨

 昼前に癌研有明病院の西尾先生から「通知簿」をもらいました。 「右肺に転移した癌は抗ガン剤で抑えられ小さくなった(1cm)状況が続

いているが、やや成長する気配が見える。他の臓器への転移は見られない。血液検査も正常範囲。」ということです。前回の抗ガン剤投与

終了時から2年半、引き続き小康状態が維持されているといえます。(ひと安心!)

 しかし、ガン細胞が活性化する気配が見えるので次の抗ガン剤(あの「イレッサ」です)の服用を決断しなければならなくなりそうです。「イ

レッサ」は僕の癌には効き目がある確率が高いといいます。しかし、もちろんそれなりの副作用があります。

 今回は今しばらく様子を見ることにしました。僕としては少なくとも7月に70の誕生日を迎える頃までは今のままで推移してくれないものか

と願っています。

 これで3月・4月はまた病気を忘れて春を楽しむことが出来ます。昨年は出来なかった故郷訪問の旅など早速計画してみようと思っています。

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「北朝鮮は第二のリビアになるか」

2011-02-27 10:44:39 | 韓国・北朝鮮

きのうは港区の三田で午後から夜遅くまで友人たちと議論をしました。在日コリアン問題にこの40年関わり続けてきた6人衆です。このところ川越に引っ込んでばかりの僕には久しぶりの会合で嬉しいひとときでした。移民国家への開国、北朝鮮帰国者・日本人妻問題…。自分に出来ることは何か、珍しく緊張して考えさせられたひとときでもあります。市民としての活動を「病欠」しているような僕ですがそろそろ社会復帰が出来るのでしょうか。

 

 「北朝鮮は第二のリビアになるか」という五味洋治さん(東京新聞記者)の記事を読みました。

 

残念ながらその可能性はきわめて低い」というのが五味さんの見立てで次の四つの理由を挙げています。

 

① まず、ネットが全く普及していないことだ。北朝鮮の教育機関にはネット網があると言われるが、国外とは接続されていない。金正日総書記やごく限られた指導層、朝鮮中央通信、ロシアや中国大使館といった特定機関以外ではネットは使えない。最近は、韓国ドラマが韓国とほぼ同時に北朝鮮に流入すると言われているが、DVDという形で持ち込まれており、外部世界から遮断されている。フェイスブックもツイッターも使えない。携帯は普及し、ショートメッセージも可能だが、プリペイド式でネット接続はできない。

 

 ② 2つめは徹底した思想教育だろう。労働者は火曜、水曜、金曜、土曜日が学習の日になっている。毎日2時間みっちり党の機関紙である労働新聞などを読まされ、自己批判などが行われる。毎年正月に労働新聞などが掲載する、その年の方針を定めた長文の「新年社説」は完全暗記させられるという。金総書記と父親の故金日成主席は、神格化されている。その存在を否定する人間は、即、収容所送りだ。収容所には4種類あって、金総書記は「社会の風紀を乱すものには1年間に10年分の労働をさせよ」と指示したとされており、過酷な労働が強いられる。

 

 ③ 3つめは徹底した相互監視システムだろう。北朝鮮の住民は労働党、国家安全保衛部、人民保安省、職場、人民班(隣組)の5つの組織から監視を受けている。「人民班」(20~40世帯で構成)の下では5戸が1組になっており、1種の共同体を構成している。反体制運動を起こしたくても、人民は孤立化させられている。同じ志を持っている人を探すのは大変で、民主化要求のためのしっかりした運動体を形成するのは困難だ。

 

 ④  最後は北朝鮮軍の位置付けだ。エジプトやリビアでは、土壇場になって軍が民衆の側に着いたとされ、権力者を追い詰めた。北朝鮮では軍は特権階級で、食糧の配給でも優遇されている。長い間金総書記の権力を支えてきた。兵力は110万人で、全人口の5%を占める。「常に米国との戦争に備えよ」と教育され、緊張させられている軍人たちが、自分たちの特権を放棄して率先して体制崩壊に協力するか。それは今のところあり得ないシナリオだ。

 

    隣国・中国の場合、ネットは一般家庭に普及し、携帯は農村でも使われている。散発的にせよ反政府デモが起きる可能性はあるが、北朝鮮では難しい。

 

 ●出典http://gendaikorea.com/20110222_01_gomi.aspx

 

 北朝鮮を脱出してきた友人たちから聞く情報と重なることばかりで「そうだろうな」とおもいます。このような厳しい現実をふまえながらどうやったら盤石に見える独裁体制を崩壊に導けるか、隣国に生きる一市民としても考え行動して行くほかはありません。

 

 

 


朝鮮総連本部仮差し押さえ

2011-02-26 05:22:18 | 韓国・北朝鮮

2月25日(金)晴れ

 春のような陽気に誘われて川越公園の散歩のあと、尚美学園大学の学生食堂で昼食、川越温泉に入って帰ってきました。

 尚美学園で会った女子学生はニュージーランドでの語学研修に行って遭難した学生たちの中に自分の友人もいると言っていました。近く無事帰ってくると言うことです。今シーズン初の花粉症に見舞われました。無警戒で出かけたため大打撃。

 川越温泉備え付けの「読売新聞」で朝鮮総連の本部ビルが仮差し押さえになったという記事を読みました。ようやくここまで来たのか。差し押さえ、競売になるのはいつになるのか。

 

朝鮮総連本部、整理回収機構が仮差し押さえ

読売新聞 2月25日(金)9時0分配信

 在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部(東京都千代田区)の土地・建物について、東京地裁が18日付で整理回収機構(東京)による仮差し押さえを認める決定を出し、同機構が21日に仮差し押さえを行っていたことがわかった。

 同地裁は2007年6月、同機構が旧朝銀東京信組などから買い取った債権のうち、約627億円分を事実上の朝鮮総連への融資と認定し、朝鮮総連に全額の返還を命じる判決を言い渡した。この判決に基づき、同機構は同本部の土地・建物を差し押さえようとしたが、登記上の所有者が朝鮮総連の関連会社名義になっていたため、名義を朝鮮総連の代表者に書き換えるよう求める別の訴訟を起こし、1、2審で請求が認められた。

 朝鮮総連側は現在、最高裁に上告中で、判決が確定すれば強制執行が可能となる。仮差し押さえは、強制執行に備えて債務者の財産を保全する手続きで、同機構は「念のための保全措置として、仮差し押さえを行った」としている。

最終更新:2月25日(金)9時0分

読売新聞

 

1兆4000億円の公的資金の注入を受けながら朝銀信用組合の多くは結局は破綻してしまった。 整理回収機構(RCC)が破綻した16信組から2009億円で買い取った不良債権のうち、627億円の債権が朝鮮総連に対する融資だったと裁判で認定され、総連に全額返還が求められていたのです。焦げ付いたこれらのカネが何のために使われたのかは闇の中です。北朝鮮の金独裁政権の財布に入ったことも関係者の証言から明らかです。朝銀を通して在日コリアンから収奪したカネが朝鮮総連から北に送られ金独裁政権を支えてきたのです。

 整理回収機構が総連本部を差し押さえ競売に付するのは当然のことです。北の独裁政権に盲従してやりたい放題をし続けてきた朝鮮総連の末路を暗示しています。在日コリアンから朝鮮総連が収奪した資産の多くが韓徳銖前議長らの個人名義になっていると聞いています。そちらの方の差し押さえはどうなっているのでしょう?

 ●参考図書「わが朝鮮総連の罪と罰」

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%8F%E3%81%8C%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%B7%8F%E9%80%A3%E3%81%AE%E7%BD%AA%E3%81%A8%E7%BD%B0-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%9F%93-%E5%85%89%E7%85%95/dp/4167679418

 


「私人統治の疑似国家」?

2011-02-25 06:55:20 | 政治・社会

昨日(24日)は定期検査のため午後、癌研有明病院へ往復。CT検査は正味10分ほどです。片道2時間ほどはいつも寝ていますが昨日は珍しく、往きは「東京新聞」、帰りは「週刊朝日」を買って読みました。

 「東京新聞」(2月24日)に面白い記事がありました。全文を記録しておきます。

この記事はリビアという国のあり方を正しく記述しているのだろうか。正しいとしたら語弊はあるが「面白い」。こういう国を何というのだろうか。「部族連合国家」?「大和朝廷」が覇権を確立して「律令国家」を作る前のこの列島の様子を想像すればいいのだろうか。

「辞任しようにもそもそもポストがない」。僕にはちょっと「カルチャーショック」だった。「辞任」はあり得ないから「殺害」か「逃亡」以外にないという。なるほど、そうか。「近代国民国家」観にとらわれてしまって世界が見えなくなっているなあ。

 

 「私人統治の疑似国家リビア」「省庁機能せず、軍も私兵」「高まる内戦の恐れ」 

【カイロ 内田康】リビアの最高指導者カダフィ大佐が22日夜の演説で「デモ参加者を根こそぎ掃討する」と断言したことで、内戦に陥る危険性が高まっている。リビアではもともと各地の部族長の力が強い。さらに各省庁は未整備で、政府の統治能力も低いのが実情だ。軍はカダフィ氏個人に忠誠を尽くす「私兵」に近く、エジプト政変で国軍が果たしたように、事態沈静化の仲介役を期待することは出来ない。

●カダフィ氏は演説で「私は大統領でも首相でもない。辞任しようにも、そもそもポストがない」と話した。

 同氏は軍籍を抜けて久しく、元軍人に敬意を表すリビアの習慣から、無血クーデター(1969年)を成功させた際の階級だった「大佐」と呼ばれているに過ぎない。本人が語った通り、国家を代表する肩書きはなく、外交筋は「法的に言えば民間人」と説明する。

●「人民の直接統治」という独自の革命思想を掲げるカダフィ氏は政府の存在を「本来は必要ない」と見なしており、実際に各省庁は機能していない。

●何ら法的な裏付けがないまま最高権力者として君臨するカダフィ氏は、家族や側近らと国家の原油利権を独占。この利権を有力な部族長に配分し、リビア全体を統治してきた。

●国会に相当する全人民会議は同氏の政策の追認機関であり、リビア軍も事実上、民間人のカダフィ氏が指揮する「私兵集団」だ。

●エジプト政変では国軍が当時のムバラク大統領に無言の圧力をかけ、辞任を迫ったとされる。軍の最高指揮官である大統領には法律で定められた権限があり、その地位は交代可能だからこそ、軍はムバラク氏との間に距離を置いた。指揮官の交代が想定されれば、国民に銃を向けることは出来なかった。

●リビア騒乱の背景には、各部族間の貧富の差があると言われる。カダフィ氏による利益配分が機能不全になり、発言力のある部族長が「反カダフィ」に回ったことで、リビア軍兵士の一部も、カダフィ氏側に銃口を突きつけ始めている。

●カダフィ氏は「最後の血の一滴まで戦う」とも語った。一方、反政府勢力はカダフィ氏に「退陣」を求めるが、同氏に辞任する法的な地位がない以上、退陣とは、殺害か、力による国外追放を意味する。外交筋は「リビアでは今後、おびただしい量の血が流れるだろう」と天を仰いだ。


三浦小太郎著『嘘の人権 偽の平和』

2011-02-23 06:41:03 | 韓国・北朝鮮

三浦小太郎著『嘘の人権 偽の平和』(高木書房,2010年12月)という本が僕の枕元にあります。気力があるときに時々読んでいます。若い頃「社会主義」に深く影響を受け、今もなお、思想改造に臆病な僕ですが、三浦さんの著作には学ぶところが多いのです。

「君が代」の強制と闘いながら朝鮮学校における「金日成将軍の歌」の強制には疑問のひとつも感じないらしい、左派の友人たちに読んでもらいたいと思う本です。僕には紹介の能力がありません。在日コリアンの学者のブログに関連記事を見つけました。勝手ながらそのブログを紹介します。

●「社会科学者の時評」http://pub.ne.jp/bbgmgt/

今日は練馬区の友人宅に昼食をごちそうになりに行きます。友人はいわゆる「残留孤児」で僕よりは4歳上の兄さんのような人です。同じ時代を生きながら、僕には想像も出来ない体験をしてきたに違いありません。どんなお話が聞けるか、楽しみです。


記者クラブマスコミの情報独占を打ち破る力となるか  自由報道協会 

2011-02-22 21:53:37 | 政治・社会

2月22日(火)晴れ

朝から見事に晴れ上がり風もないので、入間川・越辺川・高麗川の土手の上の道を通って坂戸の「ふるさとの湯」に入ってきた。空気はやや冷たかったが久しぶりの自転車こぎで気持ちよい。越辺川の白鳥は数えてみたところ100羽ぐらい。

夕食後、リビアの独裁者・カダフィの国民虐殺のニュースを見る。国際社会はてをこまねいていることしかできないのか?独裁の崩壊は近いだろうが犠牲がひどすぎてやりきれない。北朝鮮はどうなるのか。北で40年を生きた友人は内部からの反乱は起きようがない社会構造になっていると言うが…。

「小沢処分」も決まったらしい。恐ろしいことである。民主党の議員たちはどうするつもりだろう。反乱のひとつも起こせないのだろうか。リビアや北朝鮮と違って「殺される」ことはあるまいに。

この国の宗主国の思惑にしっぽを振るしか能のない霞ヶ関と御用マスコミに席捲・支配されるニッポン。「政権交代」に期待したが、小沢、鳩山とたたき落とされて、永田町の政治家たちはますますその奴隷と化している。是が現実だ。

どうしたらよいのか。

アフリカ諸国と同じように情報支配と闘うインターネットという武器は我々の側にもある。是を駆使して我々が学びあい、政治的自覚を高め、闘う市民になっていくこと以外には道はあるまい。

あちこちで地道な取り組みをしている人々がいる。僕のような時代遅れの人間でもこのような人々の取り組みの世話になりながら学び続けることは出来る。そこに希望を持ちたい。

フリーランスの記者たちが協力して「自由報道協会準備会」というものを作ったという。特権にあぐらをかき、権力情報を垂れ流すことに夢中になっている御用記者クラブに亀裂を入れやがては崩壊させる力になっていくか。

●自由報道協会http://fpaj.exblog.jp/

 


夢は安曇野へ

2011-02-21 21:03:06 | 出会いの旅

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2月21日(月)曇りのち晴れ

曇り空だったので街へベーグルを買うお使いに行ったほかは閉じこもり。5月中旬に予定している「第12回きいちご移動教室」の宿泊場所探しに熱中しました。

今回の旅先は長野県安曇野(あずみの)です。この地方の知友がいろいろと当たってくれたのですが、当日が土日ということもあって低料金の適当な宿泊施設がなかなか見つからなかったのです。

インターネットで難問に挑戦しているうちにやっと探し当てることが出来ました。

●農家民宿「ごほーでん」http://www.0263826820.com/

快適に過ごせそうな宿なので趣旨を説明するといろいろと便宜を図ってくれることが解り、嬉しいやら有り難いやら。早速予約することにしました。是で僕も一安心です。

 

安曇野は父母と共に訪ねたことがある思い出深いところです。将史兄さん夫妻も案内しました。昨年はここに住む時夫くんと会うことが出来ました。僕はもうわくわくしています。


「小沢処分」粉砕!

2011-02-20 12:08:20 | 政治・社会

菅さん(首相・代表)、仙石さん(代表代行)、岡田さん(幹事長)などの頭の中はどうなっているのか。検察・マスコミを動員してこの2年あまり執拗に展開されてきた小沢さん(元代表・首相になるはずだった人)を葬り去る策謀に荷担して「処分」するのだという。いったい、いかなる罪で元代表を断罪するというのだろうか。

そんなことをすればいかに民主党議員が不甲斐ないといっても造反のひとつや二つは起きるだろう。予算関連法案が通らないことが確実になり、早晩、内閣はつぶれるだろう。そんなことも予測できない思い上がった人たちなのか。

彼らのやっていることといったら、いかにして貧乏な人々から税金を搾り取ろうかという画策ばかりではないのか。もと自民党の知恵袋まで引き抜いてきて自民党政権がやろうとして出来なかったことをやろうとしているように見える。そこへきて政権交代の立役者を政治的に殺してしまおうというのである。「政権交代」に期待してきた人々の思いにとどめを刺そうということでもある。

民主党の国会議員はどうするつもりだろう。前にも書いたが命がけでとはいわない、せめて自分の議席くらいは懸けて、このような執行部に造反して欲しいものだ。執行部を糾弾する集会のひとつでもやってみたらどうだろう。市民集会を開いて街頭をデモ行進するのも良かろう。僕はこんな暴挙に行動のひとつも起こせない議員を支持することは出来ない。

先日、地元選出の小沢さんを支持する国会議員の事務所に市民集会の開催を提案をしてみたが今のところ反応らしきものはない。この方はどんな風にかんがえているのだろう?

9日、憲政記念館で「検察審査会の疑惑を究明する市民と国会議員の会」の旗揚げ集会があったという。昨夜、その集会の模様を時間をかけて視聴してみた。

●「検察審査会の疑惑を究明する市民と国会議員の会」http://vimeo.com/19784008

森ゆう子議員が最高裁判所とやり合って入手した資料を基に小沢一郎さんを「起訴議決」した検察審査会がいかに怪しいものであるかを力説している。この人は昨年12月5日の日比谷の集会で「命がけで頑張る」といっていた議員だ。国政調査権を持つ国会議員なのだからこのくらいのことはやるのが仕事で当たり前のことだ。それでも検察庁から脅かしを受けたらしい。事実であるとすれば民主党はそれだけでも真実を解明し、当事者を処罰しなければならない。冗談じゃない!森さん、がんばれ。

この会の司会を小沢遼子さんがやっていた。何となく嬉しかった。遠い昔、僕が学生自治会の役員をやっていた頃、小沢さんの所(法政大学)を訪ねて日韓会談に反対する共同行動などを話し合ったことがある。70を過ぎても市民の一人としての責任をきちんと果たしているなあ。昔からかわらない肝っ玉おねえさん。

お隣に座っているのは平野貞夫さん。いわずとしれた小沢さんの知恵袋。「ファシズムとの闘い」に自由民権の土佐の血を引くものの気概を示すと檄を飛ばす。

小沢遼子さんの話によれば今回のことで民主党の国会議員が市民の集会に参加したのはこれが初めてだという。何を恐れているのだろう。国会横の憲政記念館という場所も良かったのか川内議員ら40人ほどが紹介されていた。

僕はこういう取り組みが大事だと思う。当面、民主主義と人権を踏みにじる「小沢処分」を粉砕し、菅政権を退陣に追い込まなければならない。

 

 


今山遊歩道

2011-02-19 18:16:01 | 出会いの旅

2月16日(水)晴れ

伊豆高原の保養・二日目。一月に続いて西伊豆遊歩道「今山コース」に挑戦する。一月は安良里港から網屋崎に行くのが精一杯だった。今度は反対側の田子から網屋崎を目指す。

●安良里の網屋崎http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/be000fa84323d9afac43749a3a9888ee

交通指導中?のお巡りさんに旧田子中学校まで先導してもらってグラウンド脇から今山への細い道を登る。運転する妻には風景を見る余裕はないが田子港の美しい風光が眼下に見える。対向車があるとたちどころに困ってしまう道だが幸いにもそのようなこともなく「今山遊歩道入り口」にたどり着いた。農作業中の地元の方の指示に従って道路脇にワゴンRを止めさせてもらった。ここまで来た車がUターンしなければならないので一台止めるのがやっとだ。

遊歩道の取っつきは急な登りの階段つづきでいつ果てるのかと思うほどだ。途中の四阿で夕日の美しさで知られる駿河湾の景色に見とれたあと息を切らしながら頑張って登るとベンチのある広場?に出た。戦中戦後の食糧難の時に開墾してサツマイモなどを作ったのか?それにしてもこんな急斜面の道をどうやって行き来したのだろうか。子どもの時、山の畑のサツマイモを収穫して籠で運ぶのを手伝ったときのことを思い出した。前後に籠をつけたオクを肩に食い込ませながら少年の僕も山道を下りた。しかし、そんなことがこの急峻な崖の道で出来るのだろうか。

ベンチの脇から今山に登る道?があるというが、そちらは棄権して安良里港方面に向かう。昼のチャイムを聞いたような気がするので日当たりの良い道脇で昼食にする。よく見ると遠くの空高くうっすらと富士山の頂が見える。麓の方は霞んでいて何も見えないのに頂の方だけが浮かんでいる。よく見ていないと空の色にとけ込んで見失ってしまう。

この富士山の姿は木の間越しに安良里港方面に進む間、ずうっと見えていたのではないか。あのすっきりした冬の富士山とは違って、幻の世界に迷い込んだような不思議な気がした。

どこから引き返そうかと思い悩みつつもとうとう網屋崎への分岐まで来てしまった。念願を達成して四阿で一休み。残念ながらここからは安良里港の展望はきかず、先月到達した網屋崎も見えない。

同じ道をたどって田子側の登山口に引き返した。UP,DOWNの激しい道で僕にはけっこうハードだがこの日であった若い人はすいすいと歩いているようだった。田子側の急傾斜地に植えられたアロエの花を愛でに来たらしい。

●今山遊歩道http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-60899.html

3時過ぎに田子を出て松崎・河津を経て宿にたどり着いた。土手の河津さくらは一分咲きか。

 

これで西伊豆町の田子・安良里の遊歩道歩きも一段落か。昨年の一月から2年がかりだった。伊豆高原から半島を横断して通ってくれた妻に感謝。

西伊豆の散歩道はまだまだある。大瀬崎等々。昔歩いた南伊豆の遊歩道も歩いてみたい。

 

●西伊豆②安良里と田子http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/066a5ba4e534a5b5a2e60a494a42147d

 

 


大山参りと川越

2011-02-18 21:29:30 | 川越・近郊

2月18日(金)

9時前には天候が回復してきたので伊豆高原の宿を出て大山阿夫利(あふり)神社に寄って帰ることにしました。

昼頃に駐車場について長い階段を上ります。両側に土産物屋や宿がどこまでも並んでいます。その規模の大きさに驚きました。江戸時代から続く「大山参り」の伝統のすごさを感じます。妻は祖母から大山参りの体験を聞かされていますが参詣は初めてだといいます。

僕は1961年か62年に新聞部のハイキングで来ているはずですがほとんど何も思い出せません。途中から乗ったケーブルは1965年開設だといいます。阿夫利神社の社殿も新しいもののようです。半世紀の間に信仰やハイキングの山から観光の山へと変化したのかもしれません。

社殿の前からの展望はすばらしい。三浦半島はもちろん房総半島もよく見えます。驚いたのはふたつの半島の間に東京湾がよく見えることです。横須賀沖あたりにか、細長い島が見て取れます。あれは?

拝殿の横で妻が「川越」の名が刻まれた一対の巨大な天水桶があるのに気づきました。鋳物の天水桶は、明治37年(1904年)に川越の大山講の有志が奉納したもののようです。我が家の近くにあった鋳物屋さんの名前も刻まれています。

●「武蔵川越」天水おけhttp://iguan1.iza.ne.jp/blog/entry/2066665/

うちに帰って調べてみると川越では大山講が盛んだったようで大山信仰と関わりが深い「お太刀洗い」という行事がいくつかの町内に伝わっているようです。10年前の記述があります。

●「お太刀洗い」http://homepage1.nifty.com/okizumi/minzoku/otachi.htm

今も続いているのか、近くの町内でありながら見たことも聞いたこともありません。42年川越に住んでも新参者のうかがい知れない世界がこの町にはあるのです。


積雪

2011-02-15 07:55:33 | 父・家族・自分
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 2月15日(火)晴れ

 昨夜は今年初めて本格的な雪となり、家の周りはただいま10cm程度の積雪があります。

 今日はこれから伊豆高原の保養所に出かける予定です。いつもの通り、3泊4日ですから帰り着くのは金曜日です。天候の回復は早く日差しも出てきました。道路状況などを見てゆっくり出かけます。
 「川越だより」は2・3日お休みです。

 

川越・遊びの学校で脱北者の話を聞く

2011-02-14 18:22:14 | 韓国・北朝鮮

2月13日(日)晴れ

日高市のOさんのお宅で北朝鮮を脱出してきたAさんの話を聞く集まりがあるというので妻に連れて行ってもらう。この集まりを企画したの

は「川越あそびの学校」。1974年以来、季節の感覚を大切にしながら大人と子どもが一緒になって昔の遊びを楽しんできたグループだ。

昨年は緑綬褒章をもらった。いつ頃からか僕はよく知らないが、妻もメンバーに加えてもらっている。僕は初参加。

高麗道から少し入った一軒家の二階に集ったのは10数人。これがまた全員60代以上の老老男女。埼玉県西部が中心だが東京から来

られている方もいる。この方たちは「南京玉すだれ」を特技としているという。

40年近くもこの会をやってきたSさんが作ってきてくれた赤飯の昼食を共にしながらAさんの話を聞くのである。僕は何とも言えない温か

い気持ちになった。過去にもAさんのお話に耳を傾けたことがあるが、それは日頃から北朝鮮の人権問題に関心がある友人たちと一緒の

席だった。

今日の会は雰囲気も何も全然違う。僕の場合でいえば田舎の小学校の同窓会の席に近いか?それぞれに戦後を生き抜いてこられた、

生き方も考え方も学歴も仕事歴も様々な人がSさんのまわりに集っているのだ。CPの方もいれば足腰が痛い方もいる。Aさんのお話はこう

いう場所で聞いてもらってこそ生きてくるのではないか。

Aさんは北朝鮮の清津についてから40年に亘る人生を、出会った「日本人妻」を中心に話された。過酷な人生の話は3時間にも及んだがど

なたも熱心に耳を傾けておられた。50年も昔、帰国する朝鮮人のために開かれた送別会を記憶されている方もおられた。蕨市から駆けつ

けたNさんは少女期に北朝鮮に渡る叔母さん一家と別れた。いま、50年後に日本人妻の話をはじめて聞いたという。叔母さんは既に亡くな

られたというがその思いとはどんなものだろう。

Sさんは本を読むことも大事だが当事者の話を直接聞く大切さに改めて気づいたといっておられた。自分もそうだが参加されたお一人お

一人がAさんの話を心の奥深くで受け止めてくれたと実感しているようだ。

北朝鮮に閉じこめられた日本人妻に対する差別は過酷だが、生きて日本に帰りたいという一心で長生きしている人もいるという。日本のあ

ちこちで今日のような集いをもって、関心を呼び起こす取り組みを広げていきたいものだ。友人たちがSさんのように家族や自分のグループ

で北朝鮮を脱出してきた方の話を聞く機会を作ろうとするなら僕は喜んで協力します。ご検討下さい。

 

 

 

 

 


「大和」に飲み込まれた神武集団

2011-02-13 18:31:21 | 政治・社会

今日は日本書紀を読むことを趣味にしている?妻の文章(「きいちご」6号)を紹介します。「天孫降臨」や「神武東征」の神話はどんな史実と関わっているのでしょう。神話を学んだり研究したりすることは古代の世界を知る大切な方法だということはわかりますが僕は苦手です。神々の名前をなかなか憶えられずすぐ躓きます。妻の書いたものを読んだり、質問したりしてやっとその世界を覗いています。

 

連載エッセイ・「わたしの」古代史 其の五

大和」に飲み込まれた神武集団

                             鈴木倫子

えげつない話 

 

日本列島には、といっても書紀の世界ではせいぜい列島の西半分のことだが、製鉄技術を持つ大きな勢力がもう一つあった。出雲族である。書紀では出雲族の祖神を「国津神(くにつかみ)」として、「天津神(あまつかみ)」と区別している。ということは、天孫族よりも先着の部族ということになる。神武集団が覇権を争ったニギハヤヒの一族がどんな後ろ盾をもっていたのかわからないが、あるいは出雲の鉄と北九州の鉄が大和でガチンコ対決ということであったのかもしれない。ニギハヤヒを服従させ、三輪氏という、国津神と縁続きの老舗の娘を嫁にもらい、安住の地を手に入れた神武はよほど嬉しかったのだろう。神武紀の最後の方には、しみじみとした述懐が記されている。 

それにしても、畿内の豪族たちの処世術というのはなんとしたたかなものではないか。ニギハヤヒも「天孫族」であるからには、あとから入り込んできた集団に違いない。これが命がけで神武勢を入れまいとしたということは、ニギハヤヒ勢が覇権を握っていたということだろう。そのニギハヤヒが神武に屈服すると、畿内の豪族たちは、このさらなる新参者の覇権を認めてしまう。神武集団がもっていた鉄の技術は、ニギハヤヒのものよりも新しい、当時先進的なものであったろうから、大和の勢力は喉から手がでるほど欲しいと思ったのだろう。よそ者には地生(じばえ)のややこしい系類がないから、うまく取り込みさえすればなんとでもなる、とでも考えたのだろうか。神武の死後のできごとを見ると、どうもそんな気がしてならない。 

神武は九州時代に薩摩の吾平津姫(アヒラツヒメ))との間に手研耳尊(タギシミミノミコト)という男子をもうけている。大和の覇権を握ってから正妃として迎えた三輪氏の娘、媛蹈鞴五十鈴媛尊(ヒメタタライスズヒメノミコト)との間にさらに二人の男子が生まれた。タギシミミは大和産の二人の息子にとっては、年の離れた異母兄ということになる。神武の「東征」を共に闘い、その後も神武の片腕として働いてきた「糟糠の妻」ならぬ「糟糠の息子」だ。ところが、神武が死ぬやいなや、このタギシミミは弟たちの手で殺されている。古事記によればイスズヒメが実子たちに讒言したということだ。 

母親が年かさの庶息子(ままこ)を疎んじて、自分が産んだ息子を跡継ぎにしたいと思うのは、いわゆる親心ということになるだろうが、たぶん、そんな庶民並にお人好しな話ではない。この時代、子供は母方で育てられたはずだ。であるなら、タギシミミは「九州の男」だが、下の二人の息子は「三輪氏の男」「大和の男」として自己形成されたろう。下世話な言い方をすれば、三輪氏があるいは大和勢が「神武のタネだけ戴いちゃった」ということになる(神武のタネにはもれなく鉄が付いてくる?)。 

気の毒なのはタギシミミだ。冷酷で陰険で、増上慢で分というものをわきまえない、殺されて当然のとんでもない悪人にされてしまっている。えげつない話だが、これはまあ古今東西、「正史」というものの相場ではある。 

 

●ただの「荒唐無稽」話では「神話」にもなれない 

 

さて、神武の「東征」は神話なのか、史実なのか。戦前は「史実」として「国民教育」が行われた。戦後は「神話」とされてきた。「荒唐無稽」とも言われてきた。しかし、いかなる神話も、その話を共有する集団がなければ「神話」としてさえ成立することができない。たとえ口承に過ぎないものでも、そこには集団の構成員が受け入れられるような「史実」の断片が組み込まれている必要がある。まったくの「荒唐無稽なお話」は神話としてさえ成立できないのだ。アイヌにしてもネイティブアメリカンにしても、また南太平洋の島々の人々にしても、記述するための文字をもたなかった人々は、自分たちの「歴史」を口承によって伝えてきた。出来事が起きた時代から時が経つにつれ、口承は「史実」から次第に「神話」へと変容していく。それでもその「お話」は、人々の暮らしと深く結びついて、語る人、聞く人の感性や情念をかきたててやまないみずみずしさを湛えていた。「天孫降臨」神話や神武の「東征」話もまた、そのようなものとして受けつがれてきたものを含んでいたからこそ、書紀に記されたのではないか。 

だからわたしは、神武の「東征」話は「神話に片足をつっこんだ史実の断片」を綴り合わせたものではないかと考えたい。「正史」の作法に則って無理矢理に紀年を記したりしているが、そもそもが「むかしむかし」のできごととして記憶されてきたものであり、あちこちから拾ってきた断片を綴り合わせればごちゃごちゃ話になるのも必然だ。しかしどんなに荒唐無稽に見えようとも、「北斗の拳」や「エヴァンゲリオン」など(ちょっと古すぎる譬えだな。でも、最近のこの手のお話にはとんと疎くなってしまってる。ご勘弁を蒙りたい)とは一緒くたにしない方がよい。ここで「史実」の断片を拾い出してみると、こういうことになる。

〈むかしむかし「天孫直系」を名乗る集団がよそから大和にはいってきた。その集団のリーダーは大和に先住していた有力部族と婚姻関係を結びながら代を重ねた。大化改新によって大和政権を盤石なものとした天武・持統朝は、自分たちがその正統な後継者であると主張した。〉

 

●「お妃さま」の出自から見えてくること

 

書紀の系図は「神武以来の万世一系」だとしているが、「神武の直系」とはどこにも書いていない。では「万世一系」とはどういうことなのかというと、「五世」までは「一系」なのだという。そして、書紀の系図はギリギリこの「五世」の枠に収まるよう、入念に綴られている。だから「万世一系」をそそっかしく考えて早とちりしない方がよい。そんなことよりも、歴代の「嫁さん」の出自に注目して、それを古代の婚姻習俗の中で考えてみると、いろいろなことが見えてくる。

例えば、さきにふれたタギシミミ排除の一件がそうだ。跡目を継いだ異母弟の神淳名川尊(カムヌナカワノミコト)の母親イスズヒメは三輪氏の娘だが、息子のヌナカワが正妃として迎えたイスズヨリヒメは、イスズヒメの妹だ。この姉妹の父親はいずれも事代主(コトシロヌシ、出雲のオオナムチの息子)で、さらに次の磯城津彦玉手看(シキツヒコタマテミ)の正妃は事代主の孫とされている。いずれも「国津神」系と見ることができる。

書紀はこの三代の正妃について、別伝として「磯城県主(シキノアガタヌシ)葉江の娘」の名を記している。磯城県主というのも大和における有力な一族だが、この「一書」によるものを拾っていくと、七代目までの正妃が「磯城県主の娘」だ。五代目からは、さらに十市県主(トオチアガタヌシ)の娘が加わってくる。これも、大和の古い豪族だ。つまりは、九州につながるタギシミミを取り除いた三輪氏と大和の豪族たちが、「神武の鉄」をちゃっかりと手中に収めたということになる。

日本列島では出雲の神さまの時代から「妻問婚」というのが婚姻の習俗だった。女の生家に男の方が棲みついたり、通ってきたりするというもので、オオナムチは島根県の出雲から新潟県まで行ってヌナカワヒメを口説いたというのだから、元気というか熱心というか。姫川に翡翠があるからだろうが。(ここで、ヌナカワは、神武の跡継ぎの名前の一部になっているということを、思い出しておこう。)ニニギノミコトもヒコホホデミも、オオヤマツミとワタツミのところにそれぞれ妻問いしている。

妻問いという習俗は室町時代いっぱいごく一般的なものだったし、「嫁」が「人質」としての価値を持った武家社会では戦国時代から「嫁取り婚」に変わっていったが、天皇家やお公家さんのところはその点のんきにしていられたから、後々までこの習俗が守られてきた。幕末に、朝廷側を取り込むために仕組まれた「皇女和宮御降嫁」の際、この婚姻習俗の違いが両者の間で大きな軋轢となった話は(書紀の時代のことにくらべれば)、まだ記憶に新しいことだ。(ちなみに、妻問いは、「儒教大事」の朝鮮半島でも、李朝時代中頃まで行われていたそうだ。)

ともあれ男が「妻問い」をした古代社会では、うまれた子供は母親の実家で育てられることになる。「おまえのお父さんはこういう人だよ」と教えられ、ときどき父親が会いに来たり、ある程度成長してから「跡継ぎ」として父親の手許に引き取られることがあっても、帰属意識は母方のほうに強く抱くことになるのが自然なことだったろう。神武集団の息子たちも同じだ。大和で生まれた子供たちは、それぞれ「三輪の男」、「磯城の男」「十市の男」として自己形成をしていっただろう。「鉄」さえ手に入れば、よそ者はいらない。タギシミミはまさに「異物」として排除されなければならなかった。

ふたたび「お妃さまの出自」の話に戻ろう。

六代目まで別伝はあっても「お妃さま」は正妃に限られているのだが、七代目から様子が変わってくる。七代目のはすべて磯城県主や十市県主の娘ではあるが、正妃の他に「妃(みめ)」「亦妃(またのみめ)」というのがでてくる。そして八代目はというと、妻問いの先が大和から離れて近江や河内になっている。この八代目の国風諡号「大日本根子彦国牽(オオヤマトネコヒコクニクル)」を分解・翻訳すると次のようになる。「大和の可愛い、頼もしい男がなんとまあ国を牽いてきたよ」。「国」とは近江や河内のことで、正妃であれ妃であれ、娶(めと)るということは、その女性が帰属する氏族と同盟を結ぶ、あるいは支配下におくということを意味する。格下の「妃(みめ)」であれば「支配下においた」ということだろう。だから、八代目が版図を大和から外へ拡げたということになる。しかし、クニクルはすでに「ヤマト」の「ヒコ」だ。では「神武集団」はどこへ行っちゃったのか。わたしは、タギシミミの謀殺で終わってしまったと考えている。そして三代目の「磯城津彦玉手看(シキツヒコタマテミ)」か四代目の「大日本彦(オオヤマトヒコスキトモ)」あたりには、「神武集団」も「神武のタネ」も、「大和の豪族たちのブラックホール」にすっぽりと飲み込まれてしまっていると。

●神武はいつ「直轄地」を手に入れたのだろう

 

ところで、「県主(あがたぬし)」とは、どんな存在だったのだろうか。岩波文庫本の注には磯城県主も十市県主も「大和の古い豪族」としてある。三冊目の「あんちょこ本」上田正昭の『大和朝廷』を読んでいたら、要約すると次のような説明にぶつかった。

〈県主は国造より古い時代のもの。畿内には六つの御県(みあがた)がおかれ、これは皇室の直轄地だった。そこの支配者として畿内の首長を据えた。御県は、他には丹波におかれている〉。

上田さんは「皇室の直轄地」と書いているが、国造の時代でもまだ「天皇」ではなく「大王」だったのだから、「皇室」というと素人は惑わされてしまう。神武集団の親分がいつ「大王」になったのかさえわからないことなのだから、ここではとりあえず、ちょっと長ったらしいが「日本書紀であの人たちのご先祖とされている人たちの直轄地」というふうに頭に入れておくことにしよう。

ところでその「神武一族」はいつ、どうやって「直轄地」を手に入れたのだろう。磯城や十市の豪族が「はい、はい」と言って、自分たちの支配地を娘付きでさっさと差し出したのだろうか。また、「神武集団」がいくら少数者とはいえ、五人や十人ということはなかっただろう。少なく見積もっても、百人や二百人はいただろう。大和にはいった彼らはどこに宿営したのだろうか。食料はどうしたのだろうか。

そんなことが気になったら、夜が明けるまで眠れなくなってしまったのだが、ふと「弟磯城(オトシキ)というのがいたっけ」と思いついた。 磯城のヒトゴノカミ(首長)兄弟なのだが、弟の方は目端の利く男だったらしく、いち早く「神武軍」に帰順して、「兄磯城(エシキ)が頑固者で、わたしの意見を聞き入れず、あなた様を迎え撃つ支度をして待ちかまえています」と情報まで入れてきた。結局、兄磯城は神武軍に討たれてしまったから、その本拠が空いたことになる。神武はとりあえず弟磯城のところに寄りこんだか、あるいは弟磯城の手引きで兄磯城の本拠にはいったか。いずれにしてもここで、「神武集団」は、小さいものでも「直轄地」をとりあえず手に入れることができたと考えることができる。「いくさ」に勝つというのはそういうことで、それをどう活かし、どう拡げていくか、あとは「才覚次第」で、娘がオマケについてくることもあるだろう。

 ●これ以前の記事は「きいちご基金」のHPでご覧下さい。

http://www.geocities.jp/kiichigokikin/kiichigokara.html


網野善彦さん

2011-02-12 18:02:51 | 政治・社会
 2月12日(土)曇

 昨日今日と大雪が懸念されたが川越はみぞれが降っただけで積雪はない。寒いので家に閉じこもって寝たり起きたりの生活。

 昨日の「川越だより」のおしまいで服部英雄さんの「網野善彦氏の歴史学」(毎日新聞・04・4・23)という文章を紹介したが、改めて読んでいくうちに「網野さんという人」のすごさに驚いた。

 ぼくは網野さんの本をほんのちょっと読んでファンになっているだけだが、こんな文章を読むと僕の中では尊敬度がただごとではなくなる。この人のことをもっともっと知りたくなる。

    「網野善彦氏の歴史学」から

「(網野善彦)氏が人のしごとに差を付ける「賞」の受賞を拒み

 つづけた話はよく知られている。

 あらゆる権威を否定した。

 網野善彦の葬儀はなかった。

 遺体も献体されて自宅には戻らなかった。

 徹底して科学的なもの、合理的なもののみ追求し、強い意志を持ちつづけ、

 最後もそれに殉じた。

 墓も作られないような気がする。

 墓標はなくとも、多くの著作と継承される学問が残された。

 われわれひとりひとりに網野史学は生き続ける。」


 勲章を拒否した人の話は聞く。しかし「人の仕事に差をつける」と言ってあらゆる「賞」を拒否したという。賞には縁のない人間だが、もし何かの事情で賞をあげるといわれたら僕などはいい気になって喜んでもらうだろう。

 「献体」はどうだろう。昨年、「献体」を遺言して亡くなった知人がいた。遺族はその通りにして葬式と言うほどのものは行わなかった。これは是でいいなとは思ったのだが、僕自身の「献体」には何となく拒否感がある。


 墓は作られたのかどうか分からないが、この人の生き方(死に方)はすごいなあ。

「徹底して科学的なもの、合理的なもののみ追求し、強い意志を持ちつづけ、

 最後もそれに殉じた。」というがどういうことだろう。

 「科学的」「合理的」という言葉に違和感のある僕にはやや違うのではないかという思いもある。


 1967年までは北園高校の教員だったというから、僕を大切に扱ってくれた坊城俊民校長と同僚だったことになる。この人の生徒だった人も友人たちの中にいるかもしれない。歴史学徒で北園OBのMくんはどうかな。

 本当は著作を読んで網野史学の学徒になるのがいいのだが学問には縁が遠い。とりあえず、前に古本屋で買った『僕の叔父さん・網野善彦』(中沢新一著・集英社新書)を読んでみることにしよう。

紀元節

2011-02-11 16:07:34 | こどもたち 学校 教育

今日は「建国記念の日」です。大日本帝国の時代の「紀元節」を1967年に衣替えして祝日として復活させました。

僕は48年小学校入学ですからもちろん「紀元節」の式典は知りません。しかし、高知県繁藤(しげとう)小学校の「紀元節校長」のことはよく憶えています。

1956年(昭和31年)2月23日の参議院文教委員会での清瀬一郎文部大臣答弁。溝渕校長がやった「紀元節式典」の概要が分かります。

○国務大臣(清瀬一郎君) 本年の二月十一日に高知県長岡郡大豊村のうちの繁藤小学校、この学校は小さい学校で、児童薮が百三十五名、教員が七名、学級数が六ということでございます。校長は溝渕忠広という人でありまして、本年の二月十一日に紀元節の式典のようなことを行なったという報道がございましたから、文部省ではさっそくその取調べをいたしました。衆議院でも報告いたしましたから、こちらも機会があれば申し上げてみたいと思っておったところでございます。
当時やりましたことは、二月十一日の午前十時全校の児童のほかに、村民有志も参列いたしたのでございます。そうして校長は開式の言葉を述べ、かの昭和二十一年の一月一日に人間天皇の御詔書というものがございます。自分は現人神じゃない、人間だ。国民との間は信頼と敬愛で結ばれるのだという有名な詔書でございます。それを読みまして、そこで校長が訓話をいたしております。その訓話の内容は、人間が生れたときには、やはり誕生日を祝うごとく、国が生れた日に相当することについては祝いをしていいのだという趣きの訓話をいたしまして、そのときに来賓が祝辞を述べ、次に紀元節の歌「雲にそびゆる高千穂」という歌を歌いまして、その次に学校の校歌、学校の歌があるとみえまして、校歌を斉唱して閉会の言葉を述べ、当日は土曜日に相当いたしましたから、かれこれでお昼になったとみえまして、子供には帰ることを許した趣きであります。

中2の3学期のことになるわけですが新聞紙上などで賛否が激しく対立していたことを記憶しています。「建国」「愛国心」「紀元節復活」等という言葉が飛び交う中で自分がどう考えたかはこの時期の日記をなくしたため分かりません。ただどういう訳か「雲に聳ゆる高千穂の…」という歌だけは今でも歌えます。下宿の老夫婦が教えてくれたのではないかと思われます。

●「紀元節」http://www.youtube.com/watch?v=2UvYla-aZzc&feature=related

歌詞は難しくて分かりづらいのですが「天孫降臨」や「神武東征」の神話の世界をそれはそれとして楽しんでいたのかなあ。日本史は勉強していたからそれを史実として受け入れるようなことはあり得ません。当時、学校では記紀は神話であることが強調され、中身を学ぶことはなかったと思います。

これから10年後には「建国記念の日」が制定されるのですから、溝渕校長の突出した行動にも保守勢力の根強い支持があったのでしょう。繁藤には溝渕校長と神武天皇の銅像が建っているようです。どういう人がいつ建てたのか、次の帰郷の際には見てきましょう。

●繁藤小学校・溝渕忠広像・神武天皇像http://ameblo.jp/7tv9/entry-10665595611.html

紀元節は明治期の近代天皇制国家確立の過程で作られた祝祭日で、BC660年2月11日が日本国の「建国」とは何の関わりもないことはいうまでもありません。神武天皇が即位したという橿原(かしわら)神宮自体、1890年に新しく作られたものです。

新国家樹立に当たって建国神話をあたかも事実のように国民教育することは政治の常道のようです。

僕の世代は北朝鮮の歴史教育にその典型を見てきました。金王朝誕生の作り話を史実としてすべての国民が生まれたときからすり込まれているのです。笑止千万だと僕には分かりますが北朝鮮の人々は疑うことすら御法度です。その手本が大日本帝国の歴史教育なのかもしれません。

さて、ならば「日本」はいつ建国されたのか?あなたならどう答えますか?

少なくとも「日本」という国号はいつきめられたのか?

網野善彦さんの本には「689年」と書いてあります。「日本」が外国(唐)から認められたのは702年だとのことです。古代天皇制国家が確立していく過程で「日本」と名乗ったと言います。「倭」という国名を使って中国の王朝に朝貢していたヤマトの支配層が律令を定め、中国と対等な自らの帝国を作る姿勢を明確に示したのです。

もちろんこのころの「日本」の版図には東北や南九州は含まれていません。今日の「日本」(北海道~沖縄)となるのは19世紀になってからのことですね。

歴史の本を読み解く力の乏しい僕でも網野さんの『歴史を考えるヒント』は解りやすくて面白い。良かったらどうぞ。

●網野善彦『歴史を考えるヒント』http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/600597.html

●「網野善彦氏の歴史学」http://www.scs.kyushu-u.ac.jp/~hatt/amino1.html