「北高新聞」(1988・3)に掲載された「中国から来た友達の手記」の二つ目を紹介します。
春江さんの娘さんがこの春、高一になりました。先日の話を思い出すと自分の高一の時の思いを大切にして、親として精いっぱい生きようとしていることがわかります。
日記として書いた文章です。親の思いを受け止めながら、自分を確立して生きたいという誠実でまっすぐな気持ちがつづられています。春江さんの「第二の誕生」の産声だといえるのかも知れませんね。
詩のような文章です。声を出して読んでみてください。あれから22年、春江さんはどんな世界を見つけたのでしょう。
私はもう子どもじゃない
○○春江
私はもう子どもじゃない、自分は大人です。子どもだといわれたくないのです。
だって15歳以上は青年だとみんながいうのです。だったら私は青年だ。
自分はいつも自分はもう子どもじゃないから、できるだけ自分でやる、できるだけ自分で考える。それに、家族に何かあった時、みんなで相談するといいな、と私はいつも思います。
しかし、両親にとっては、私は子どもだ。たとえ私は大人になっても両親にとってはやっぱり子供だ。
しかし、、自分がやれる時には、両親は何もいわないで、ただ見守っていればよいと思うのです。
もし、、自分ができない時に、ちゃんと話してくれるといいな。
自分の子どもも一年一年大きくなって、親はこれを見て嬉しいでしょうー。嬉しいよね!
私は今と昔を比べてみるとまるで別人の気がするのです。
中国の時は、多分、子どもの時だから、毎日はただ遊んで食べて寝るだけです。しかし、今は自分も考えていなかったぐらい変わったのです。一体どうしてこんなに早くかわったのでしょうー。
多分、私は別の世界に来たからだ。それに自分の目の前は中国にいる世界と全然違うからだ。別の世界に来て、自分は自分を変えた。
それにこの社会も私を変えたのです。日本は豊かな国です。みんなは一生懸命働くし、それに自由です。こういうことで私も、変わったのです。
今、私は中国の国籍です。みんなこういうのです。
「日本の国籍に変わったら、そうすればあなたはもう日本人ですよ。それに、中国の国籍だと自由もないし、さびしいと思わないですか?」
友達の話を聞いて、私は少し不安です。どうしよう。自分でゆっくり考えてみると、私は中国人だ、中国人を恨んではいけない。
確かに中国には外国を旅行したりする自由がないのです。でも私は中国人でいることは忘れていないのです。
中国には10億の人々がいます。その人たちはみんな中国人で、そのような自由がなくても、みんなは楽しい生活を過ごしています。
私は別の世界に来て、いろんなことがわかったのです。
幼い時の世界はいつまでも私の心に残っています。
新しい世界は、今住んでいる世界です。
これから私は未来の世界をさがしにいきます。
私はもう子どもじゃないのです。
大人だよ、大人だよ、未来の世界をさがしにいきますからー。
(88年1月25日)
彼女たちの働きに感謝して中国料理店「家園」で夕食会を楽しんだ後、昨夜は早速このベッドで休んでみました。幅がやや狭い感じですが寝心地に問題はありません。
パソコンの机がすぐ横にあるのでベッド付きの僕の仕事?部屋ができたというところかな。これでAくんなどが来ても安心して泊まってもらえます。
最近、うれしい報せが続きました。偶然のことですが二人とも在日コリアン三世です。
○Fくん
こちら、地球一周もいよいよ南米に入りました。
最近まで北欧にいてカリブ海に近づくや否や突然夏になり、体調管理が大変です(
笑)。
いまベネズエラにいますが、チャベス大統領率いる21世紀の新社会主義国は、賛
否がある中でもオイルマネーによる教育や医療などの無料化や、エル・システマ
と呼ばれるクラシック音楽を用いてのこどもたちへのアクションなど、刺激的な
政策に興味が尽きません。
一方て貧富の差が著しく、それが最大の課題。
最近の日本はいかがですか?
来月末には、帰国します。
地球一周旅行は、大変な事も沢山ありますが、病み付きになります(笑)。
皆様にくれぐれも宜しくお伝え下さいね。
またお会いしましょう!
[僕のひとこと]
どうしているのかな?僕としてはちょっとばかり心配していたので、地球の反対側からの便りがことのほか嬉しかったのです。世界をめぐってどんな発見があったのか、聞かせてもらうのが今から楽しみです。
○亜未さん
私は、2007年~2010年3月まで、タイ・バンコクにあるバンコク日本人学校で小中学校の教員を勤め、この4月からは池袋にある大学で助手として音楽教育科の学生とともに仕事をしています。(略)
追伸:バンコクで3年間一緒に仕事をした仲間が、この4月から大島の高校に配属になり、家庭科の教員として赴任しました。
[僕のひとこと]
こちらは3年ぶりの消息です。着実に働くところを得つつあるようで大いに安心。
こののちに僕の在日コリアン関係図書をもらいうけしてくれる友人の研究者を紹介してくれました。近く連れてきてくれるそうです。在日コリアン三世の若い研究者に役立ててもらえたらこんなにうれしいことはありません。
亜未さんの同僚だった人が大島の教員になられたとか。昔、僕の生徒だった人たちの孫に出会うかもしれませんね。
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昨日も一日、本や資料の整理です。生徒の書いたものはなかなか捨てられません。
「北高新聞」(78号 88年3月8日)が出てきました。
22日に紹介した春江さんの日記から二つの文章が「中国から来た友だちの手記」として掲載されています。高一の1月に書かれたものです。貴重な記録ですから皆さんにも読んでもらいたいと思います。
二つの名前
○ ○春江
私は日本の名前が大嫌いなのです。日本の名前は意味がないから、私は気にくわないのです。
それに、おばあちゃんは私に相談もしないで、かってに決めたのです。もし相談してくれたら、私は春江と呼ばれないかもしれない。
この名前を決めた時、「これはだれの名前ですか?」と私は中国語でおばあちゃんに聞いたのです。「あなたの名前ですよ」と答えた。
どうして私の名前なの?私は李茹(リール)です。どうして変わるのですか?ね、どうして変わるのですか?
「日本に来ているから、日本の名前を使わないとだめだ。」とおばあちゃんが言った。
そうかもしれないけど、しかし、勝手すぎます。どうして私に相談してくれなかったのですか?
私は中国の名前が好き。だって、意味を持っているから。茹(ル)というのは、がまん強いという意味です。これは中国のおばさんがつけてくれたのです。
私は日本に来て、自分の名前を変えないといけないことを知っていた。私はずっと自分の名前を考えたのです。それなのにおばあちゃんはかってすぎます。相談もしないで。
お父さんは私を<由美>とつけたのですが、自分の名前は自分で決めるわ、と私はお父さんに言ったのです。「それでもいいよ」とお父さんが言った。
私は自分がやっぱり中国の名前と思って<Yリール>と決めたのです。
おばあちゃんに話をしようかなと思った時に、もうおばあちゃんが区役所で春江とつけていたのです。
今年で私は日本に来て四年目になります。
自分でゆっくり考えてみると、春江っていい名前です。だって私は春に生まれたのです。春をつけてくれたことは今思うと少しうれしいです。
それに先生たちは私のことを春江さんと呼ぶのです。
現在、私は二つの名前を持っています。他人ができないことです。
李茹(リール)という人はいつも私の心にいる。
春江は今の私です。
李茹は私が中国にいる私です。
春江は日本にいる私です。
こういうふうに考えてもいいじゃないかと思います。
今、私は日本の名前は嫌いじゃないのです。
しかし、中国にいる私も忘れていないのです。
と、私は今思います。
1988年1月24日
金曜日に「資源化センター」を訪ねたら新品同様?のベッドが3000円程度で買えることがわかりました。一階の板の間において僕が利用することにしました。二階への登り下りが大層になればいずれそうしなければと思っていたのです。
本の山を片付けなければベッドはおけません。土日と二日がかりで整理をします。月曜日には娘がベッドをタンス(1000円台)とともに運んできてくれるのです。
晴れていれば野や山に遊びに行きます。本はほとんど読みません。ですからもはや無用の長物です。
ただ、70年代から読み始めた「在日コリアン関係」の本はこのまま捨てるのはもったいない気がします。まとめてもらってくれる方はいないものでしょうか?
妻と二人で読んだり買ったりしたものですから結構な量になります。妻が一時期、出版社に勤めて関連図書の編集に携わったので専門家向けの本もいくらかはあります。
在日コリアンを理解するための本の山です。歴史、言葉、文学、人権、教育、民俗・料理、などなど。
古本ですからもはや「研究」の対象かもしれませんね。僕のような人間がどうやってできたか? こんな奇特な研究をしようなどとはだれも考えないかな?
数は少ないけれど、似たような傾向を持つ日本人が70年代から80年代にかけて現れ出たことは歴史的事実です。その功罪を論ずることは未来のために必要なことであると思われます。
僕自身も,特に02年9月以来、そういう研究を余儀なくされています。精いっぱい、一生懸命に生きてきたとしてもそれが人々の役に立ってきたかどうかは別です。地獄の底に導かれた人もいるかもしれないのです。
「地獄への道は善意で敷き詰められている」といいます。そういう思いを実感しているのです。
どなたかもらってやろうという方がおられたら声をかけてください。
keisukelap@yahoo.co.jp
2880円(送料100円)と結構高いが発行元に連絡すればだれでも買うことができる。
「星への歩み出版」581-0863 八尾市西山本町7-6-5 3F
Tel/Fax072-990-2887
翻訳・編集は「朝鮮高校への税金投入に反対する専門家の会」だが代表は萩原遼さんである。
朝高の歴史の教科書を読んでみたいと思っていたがやっとその機会に恵まれた。
わずか8年間(1945~53)を112ページを割いて記述してある。皆さんも購入して(公共の図書館にリクエストして)ぜひ読んでもらいたい。僕は全3巻のうち第一巻だけしか購入していないがすでに全巻が発行されたようだ。
ここでは萩原さんが書かれた翻訳・刊行の趣旨を全文掲載させてもらう。
僕としては6・25から60年にあたるに際し、「朝鮮戦争はどちらが始めたのか?」の一点に絞り記述の全体を資料として紹介したい思いだが、そうはいかない。そこで、まことに勝手ながらごく一部を抜書きさせてもらった。
刊行の趣旨には大いに賛成である。教科書をはじめこの学校に対する数多くの疑問を事実に即して議論すべきだ。左右を問わず、日本の検定教科書を口をきわめて批判する人たちが朝高の教科書ひとつ読むこともしないでああだこうだと言っているのは笑止千万だ。
萩原さんたちが翻訳・刊行して議論のたたき台を作ってくれたことに感謝したい。
朝鮮高校『現代朝鮮歴史』の翻訳・刊行にさいして
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1.朝鮮総連が運営する朝鮮高級学校(高校、以下同じ)の現代史教科書『現代朝鮮歴史』の第1巻を全文翻訳し、世に出すことにした。現在、日本各地の朝鮮高校で使われているもので、1巻から3巻まである。これを3年間で教えているとみられる。第1巻に次いで2,3巻も引き続き翻訳出版する。
昨年末ごろから鳩山内閣が高校授業料の無料化方針を打ち出したことに関連して、朝鮮総連や朝鮮学校関係者から朝鮮高校も無償化すべきだとの意見があがった。
2010年3月の衆議院議員本会議で、日本の高校授業料無償化法が通過した。このさい、朝鮮高校については教育内容がわからないいから「第3者機関」を設け検討して判断し、決定するとした。
2.このころから、朝鮮総連や朝鮮学校関係者から「朝鮮の子どもを差別するな」の意見がはげしくなるにつれて、マスコミやインターネット上で賛否の議論が行われている。教育問題から政治的問題へと発展しつつある。
これらの論議に問題点が多い。朝鮮学校の教科書は朝鮮語で書かれている。多くの論者が朝鮮語を読めず、中身を知らないままであれこれのべあっている段階である。
3.われわれは朝鮮問題を長く研究してきた専門家の立場から、朝鮮高校の現代史教科書を翻訳して、討論の参考に供することにした。中身で判断していただくことが基本である。
4.翻訳にあたっては、原文に忠実に訳した。写真や図表の位置、ページ数も原書と同じように配列した。ただし不要と判断する表などは翻訳を省略しそのままハングルで残したものも若干ある。巻末の索引は省略した。
原文は漢字を排し、地名、人名はハングル書きであるが、日本でよく知られている韓国・朝鮮の人名、地名などは漢字を当てた。
複数のもので翻訳を分担し、萩原が全体を統一した。
5.著作権についてふれる。著作権法が保護する著作物は「日本人の書いたもの」に限られる。国交のない国のものはこの保護を受けないというのが日本の文化庁の見解である。
日本の公費を要求する以上、朝鮮学校側がその教科書を日本語に訳し、関係方面に配り判断を仰ぐのが筋である。それどころか、朝鮮学校側は教科書をあたかも秘密文書のように隠して公表を抑えている。われわれの今回の措置はそうした秘密主義を排し公明正大な土壌で論議するための一つの試みである。
6.この機会に、われわれ専門家の立場も明らかにしておく。
朝鮮教科書の内容は虚偽が多い。たとえば朝鮮戦争は南北どちらの側が起こしたか、についてはおびただしい証拠や文献によっていまでは北の主導による南進であったことが国際的常識になっている。にもかかわらず、朝鮮高校教科書は、アメリカと韓国による北朝鮮への侵略戦争だと教えている。虚偽はこれだけではなく、ソ連軍の手で植民地朝鮮の解放がおこなわれ、次いで北朝鮮地域におけるソ連の軍政が行われたことも隠されている。1960年代の帰国事業についても正反対のことを教えている。
いうまでもなく、教育の目的は、真実を求めることであり、愛と助け合いで平和に生きるための人材を育てることである。
虚偽を教え込むことは、ある種の犯罪である。南とアメリカが北を侵略し、人命や財産、国土に甚大な破壊をもたらしたと言いつのるならば、南の側との和解や共生はうまれない。逆に南北対立をあおり復讐のためには命を賭して邁進しようとする若者を育てることになりかねない。
朝鮮高校の卒業生のなかから日本人拉致や韓国での破壊活動に従事する者が少なからず生まれていることも、こうした教育と無関係ではない。
虚偽を教育の柱としている機関に日本の公費をつぎ込むことは犯罪に手を貸すことになる。
7.教育に政治を持ち込むなとの意見についても、無理解がある。朝鮮総連は彼らの経営する民族教育を「在日朝鮮人運動の生命線」と規定し、「高等学校授業料無償化」を必ず勝ちとるよう運動をおこなうと決定した(2009年11月11日の本部での会議決定)。そして、この方針が偉大なる金正日将軍様のご指導であるとこう述べている。
「敬愛する将軍様におかれましては、今年を『民族教育を強化する年』とお定めくださり、決死の覚悟と不退転の意思で民族教育を守り発展させることについての方針をお与えくださいました」(2010年1月13日 朝鮮総連本部委員長・中央団体責任者会議での報告から)
教育に政治を持ち込んでいるのは朝鮮総連であり、それを指導する朝鮮民主主義人民共和国である。北の朝鮮労働党は機関紙「労働新聞」でこういっている。
「在日朝鮮学校を政府の支援対象から除外しようとする日本当局の方針はたんに金銭にかかわる問題ではなく、朝鮮総連の民族教育の権利を奪うための犯罪的策動である」「反朝鮮総連、反共和国政策の産物である日本反動どもの今回の策動はわが朝鮮人民の憤怒を激発させている」(2010年3月9日付)
こうした感情論ではなくきちんとした話し合いこそ教育問題の基本である。
8.われわれの立場と行動は、朝鮮高校生を差別するものではない。真実と平和を愛する子どもを育てるという普遍的な理念から出発するものである。
この翻訳.刊行が正しい論議のたたき台となることを期待する。
2010年4月15日
「朝鮮高校への税金投入に反対する専門家の会」 代表 萩原遼
○朝鮮戦争は南北どちら側が始めたのか?
朝鮮高級学校教科書『現代朝鮮歴史 高級1』
「第2編 祖国解放戦争(1950.6ー1953.7)」抜粋
「共和国政府は…祖国の平和統一を終始一貫主張し続け、米帝と李承晩の戦争挑発策動が絶頂に達したときにも、なんとしてでも戦争を防ぎ平和統一を実現するためのあらゆる努力を尽くした。………しかし南朝鮮当局は…ついに全面戦争に挑発する犯罪の道へと進んだ。」(P77~78)
「米帝のそそのかしのもと、李承晩は1950年6月23日から38度線の共和国地域に集中的な砲射撃を加え、6月25日には全面戦争へと拡大した。共和国政府はただちに李承晩「政府」へ戦争行為を中止することを要求し、もしも侵攻をやめないときには決定的な対策をとることを警告した。しかし、敵は戦争の炎を引きつづき拡大した。」(P79)
「6月25日共和国に作り出された厳重な事態と関連して朝鮮労働党中央委員会政治委員会が招集され、ついで共和国内閣非常会議がひらかれた。敬愛する金日成主席様におかれては、会議で朝鮮人をみくびり刃向かう米国の奴らに朝鮮人の根性を見せてやらねばならないとおっしゃりながら、共和国警備隊と人民軍部隊に敵の武力侵攻を阻止し即時反攻撃に移るよう命令をお下しになった。」(P79)
(参考までに)
「3年間の祖国解放戦争は、全朝鮮を占領し、さらにアジアと世界を制覇しようという米帝の侵略計画を破綻させた。また、米帝の強大性の神話を打ち砕いてしまい、下り坂の始まりとなり、民族解放のための世界人民の闘争を大いに鼓舞した。」(P111)
「朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議常任委員会は、祖国解放戦争で卓越した軍事知略と指揮によって敵に殲滅的打撃を与え、祖国の歴史に不滅の業績を積まれた敬愛する金日成主席様に1953年2月7日、朝鮮民主主義人民共和国元帥称号を、7月28日には朝鮮民主主義人民共和国英雄称号を捧げた。」(P111~112)
○僕のコメント ここまでではなかったが僕が昔読んだ本の記述にも似たようなものが多かったように思う。今このような記述を正しいとする歴史学者はいるのだろうか。
僕は次のような著作を読んで米韓説が完全なデマゴギーであることを確信した。
萩原遼『朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀』(文藝春秋 のち文春文庫)
萩原遼『「朝鮮戦争」取材ノート』(かもがわ出版 のち文春文庫)
赤木完爾編『朝鮮戦争-休戦50周年の検証・半島の内と外から』(慶應義塾大学出版会)
和田春樹『朝鮮戦争全史』(岩波書店 2002年)
ウソで塗り固められた歴史を小さいころから叩き込まれた子どもの不幸は計り知れない。
僕はかつて「大東亜戦争」の時代に「少国民」錬成にかかわった父の苦悩や錬成された先輩たちの悲劇を学んだ。今、朝鮮学校の子どもたちはまさに銃後の「少国民」や愛国青年として錬成されているのだろう。そのような教育(犯罪)を許したり、助成したりしていいはずがない。
こんなニュースが流れている。頼みとする中国でも変化が起きつつあるのだろうか。
朝鮮戦争 「北朝鮮侵攻」と中国紙が異例の記述
(2010/6/25 22:17 日経新聞)
中国国営の新華社系列の中国紙「国際先駆導報」は25日付で、朝鮮戦争開戦60周年に関する特集記事を掲載し「北朝鮮軍が38度線を越えて侵攻、3日後にソウルが陥落した」と紹介した。義勇軍を派遣した中国は公式には開戦の発端が「北朝鮮の南進」だったとは認めておらず、異例の記述になった。
記事は「北朝鮮の侵攻による開戦説が中国でも定説になっていることを示した」(中国メディア関係者)との見方が出ている。中国外務省の秦剛副報道局長は24日の記者会見で、開戦の経緯に関する質問に直接の言及を避けていた。(北京=佐藤賢)
出典http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C9381959FE0E7E2E1908DE0E7E2E4E0E2E3E29494E3E2E2E2;at=ALL
53年に休戦になりましたがこの戦争は形を変えて今なお続いていることを私たちは片時も忘れてはなりません。その後に起きた在日コリアンの「北送」も日本人拉致も引き続く「戦争」の一環なのです。
この日本も彼らにとっては立派な「戦場」です。金日成・金正日の影響下にある者たちが王朝の防人(さきもり)として日々工作活動に従事しているのです。その中心にある合法組織が朝鮮総連です。甘く見てはなりません。
朝鮮戦争について書いた文章を再掲します。
川越だより「朝鮮戦争のウソ」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/ddee0cfb228a1d01e30b01464fc57a03
先日の「東京新聞」の記事です。
60年も続く戦争の最大の犠牲者は北朝鮮の民衆です。「先軍政治」の下で飢えを強いられているばかりでなく日々「強制収容所」や「公開処刑」の恐怖にもさらされています。日系の人々の受難は特に深刻です。
中国からモンゴルへの逃避行で非業の死を遂げた少年の物語「クロッシング」を上映中ですが避難民の苦難は今日も続きます。
日本政府は北朝鮮独裁政権の後ろ盾となって難民を迫害する中国政府ときちんと向かい合うべきです。当面、モンゴルやタイの政府と協力して難民の保護にあたらねばなりません。難民には日本国民も含まれているかもしれません。
植民地支配が終結して65年になります。日朝ピョンヤン宣言の趣旨に沿って朝鮮半島北半部の人々に対する「補償」の気持ちを表すとしたら今この時期にこそ助けを求めている人々に必要な援助の手を差し伸べなければなりません。「国交が回復してから」では遅すぎます。
工作員拡散の懸念 タイ経由入韓の脱北者急増
(2010年6月23日 東京新聞・朝刊)
北朝鮮から中国などを経由してタイに流入する脱出住民(脱北者)が増加している。脱北者を“政治難民”と見なすタイ政府が安全を保証し、韓国など第三国への移動を容認しているためだ。その情報は広く伝わり、脱北者が進んで出頭するケースも多い。一方で脱北者に北朝鮮工作員が紛れ込む懸念も生じている。 (タイ北部チェンライ県で、林浩樹、写真も)
メコン川を挟んでラオスと国境を接する街チェンセン。川沿いに遠目からでも目を引く巨大な黄金の仏像が座す。仏像そばの交番に勤務する警察官は「舟で逃げて来る脱北者の間では“金色の仏像を目印に上陸”が合言葉だよ」と話した。
仏像から約八キロ下流にあるチェンセン警察署。昨年の脱北者拘束数は約四百八十人と一昨年の三倍強で、今年も昨年を上回るペースが続く。今月十七日、近くのバス停にいた脱北者八人が警ら中の署員に自ら拘束された。同署幹部は「脱北者は警察に出頭すれば安全に韓国に行けると知っている」と言う。
難民条約未批准のタイでは、脱北者は建前上、不法入国者。だがタイ政府は実際は強制送還せず、拘束後、裁判を経てバンコクの入国管理施設に移送。早ければ数カ月で第三国に送る独自システムを運用する。国連などの介入を認めない半面、「人道的に配慮している。定住の心配がないため規制も緩い」(関係者)とみられている。
タイへの流入が増加したのは二〇〇六年以降。それまで主要ルートだったベトナムは〇四年七月、大量の脱北者を韓国に移送して北朝鮮から猛抗議を受け、以来、対応を厳格にしたからだ。
タイを拠点とする脱北者支援団体によると、昨年のタイへの脱北者は推定千五百~二千人に上り、中国を除けば最大規模の北朝鮮からの脱出先となっている。理由は不明だが、女性と子どもが約八割を占めるという。
脱北ルートは中国南部雲南省からラオスの山岳地帯を経由し、メコン川などを下りノンカイ、チェンライ両県に入るのが主流。仲介者はキリスト教団体や韓国人支援者で、北朝鮮からは最短約一カ月で到着する。約二十万バーツ(約五十五万円)とされる脱北費用を稼ぐため、中国で数年間不法就労してタイに渡る例も少なくない。
増え続ける脱北者に警察当局などの負担も増大している。最前線のチェンセン警察署では、予算不足に伴い幹部が自腹で脱北者の食事代や調べに必要な通訳代を支払う。出国までの収容施設能力にも限りがあり、環境の悪化が懸念される。
一方、韓国当局は四月二十日、北朝鮮から韓国に亡命した黄長〓(ファンジャンヨプ)元朝鮮労働党書記の暗殺を目的に韓国に入国したとして、工作員二人を国家保安法違反容疑で逮捕した。
調べでは、工作員二人は脱北者を装いタイルートで韓国に入国。脱北者に対するタイ当局の調査能力の限界を露呈した形で、今後も工作員の第三国入国経路として悪用される恐れがある。
タイ警察によると、中国雲南省には少なくとも数万人規模の「流入予備軍」がいる。北朝鮮に拉致された人々を救援する会の海老原智治チェンマイ代表は「難民認定をはじめ、タイ政府は国連も巻き込んで脱北者対策を抜本改革する時期にきている」と訴えている。
※〓は、火へんに華
出典http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2010062302000068.html
11時頃、Fさんがドライブに誘ってくれる。
○騎西中央公園 加須市騎西の田園地帯に造られた広大な公園。あじさい、特にガクアジサイが美しい。
○渡良瀬遊水池 「谷中湖」近くのウォッチングタワーから遊水池全体を眺める。
http://precious.road.jp/tochigi/yanaka.htm
この後、Fさん行きつけのの秘密の場所で桑の実を食べる。ウグイスのさえずりが心地よい。芦原のど真ん中。アシに混じってススキか荻かが茂っている。持って帰って妻に鑑定してもらったがどちらかは解らなかった。
○白岡町の森下さんの畑
帰りに山吹高校時代の同僚・森下さんの家を訪ねた。突然の訪問で恐縮だったがあの穏やかな笑顔で迎えてくれ畑に案内してくれた。
退職後、昔の生徒で障害を持つ人たちとともに暮らす。彼らは昼間は通所施設で働いているが時にはここで森下さんと一緒に農作業をする。
畑の隅に手作りの小屋が建っている。これまた手作りの囲炉裏に座ってお話を聞いた。屋久島で生まれ育った方だ。今はこのあたりの区長もされている。地に足の着いた生活とは森下さん夫婦のような生活を言うのだろう。
丹誠込めてつくったブルーベリーを摘ませてもらっておみやげにもらった。森下さんはジャガイモを掘ったり野菜を収穫したりして二人にそれぞれ持たせてくれる。
7月7日には蓮田市に奥さんが障害を持つ人たちとともにカレーの店を開店するという。
名前は「どんぐり」。昼食時の営業になるらしい。
暇をもてあましている我ら二人にはとてもいい話だ。
Fさんは7時前に僕を川越に届けてくれた。今日が誕生日にあたる娘が森下さんのブルーベリーのプレゼントをことのほか喜んだ。
退職して3年余、Fさんのおかげで森下さんを訪ねることができた。お二人に感謝。
○6月22日 日韓基本条約が調印された(1965年)
日本と韓国の間に国交が樹立されるとともに諸協定が締結された。
◎請求権協定 日本が5億ドルの経済協力資金を韓国に供与することによって「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、(略)完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」とされた。
植民地支配に関わる補償問題はこれで「完全かつ最終的に解決された」というのが日本政府の公式見解であり、いわゆる戦後補償裁判で日本の裁判所も多くがこの見解を支持して補償要求を却下している。
◎在日コリアンの法的地位協定 朝鮮半島出身者のうち1945年8月15日以前から引き続き日本に居住している韓国籍保持者(及び協定発効後5年以内に日本で出生した直系卑属)に対し一般の永住許可とは別の永住許可(「協定永住」)を与えることとした。
後に「特別永住」と改訂され朝鮮籍の人を含めて子々孫々同じ地位がみとめられることになった。とはいっても「外国人」には違いなく参政権はもちろん、公務就任権も部分的にしか認められていない。現在約40万人。
○6月23日 沖縄戦が終結した(1945年)
日米安保条約が発効した(1960年)
◎沖縄戦の終結
沖縄戦は、沖縄防衛第32軍司令官牛島満(うしじまみつる)中将と同参謀長の長勇(ちょういさむ)中将が1945(昭和20)年6月23日未明の沖縄南部・糸満・摩文仁(まぶに)の丘の中腹にあった司令部壕内で自決したことにより、終結した。つまりこの日、日本軍の米軍に対する組織的抵抗が終わった。
牛島司令官の孫が祖父の歩みを調べ沖縄戦の真実に迫る授業をしているという。牛島貞満さん。今朝、この記事の写真を見て昔出会ったことがある人だと思い出した。思いもよらなかったことだ。
牛島司令官の孫・貞満さんが沖縄戦語るhttp://ryukyushimpo.jp/news/storyid-3345-storytopic-7.html
<参考> 牛島満沖縄戦司令官http://monodialogos.fuji-teivo.com/archives/1655
◎新安保条約の発効 1960年
朝鮮戦争の最中にサンフランシスコ条約を結んで日本は独立した。同時に日米安全保障条約を結び日本は「自由主義陣営」の一員となった。沖縄は引き続きアメリカの占領下におかれ朝鮮戦争(50~53)の出撃基地となった。
60年に改訂された新安保条約は50年続いてきたことになる。条約の期限は10年とされ、後はいつでも一年前の通告により廃棄することが出来る。
ヴェトナム戦争(60~75)の最中の70年6月に10年目を迎えた。アメリカのヴェトナム戦争への荷担に抗議して僕らも安保の廃棄を訴えた。
6月22日は学校を休んで集会とデモに参加した。僕が教員有志のビラをつくった。夕方、お茶の水の病院で娘が生まれた。夜になって面会することが出来た。
あれからでも40年がたった。「安保廃棄」を唱える人はめっきり減った。今改めて新首相の口から「日米同盟と米軍の抑止力の重要性」が語られているほどだ。
僕は憲法の「落とし子」で自衛隊も安保(米軍の駐留)も違憲だと認識しているが、今現在、これらを直ちに廃止すべきだとは考えていない。考えが変わったということになる。
僕の場合は北朝鮮と中国という二つの独裁国家に対する認識の変化がその重要な要素になっている。
(だからといって沖縄の危険きわまりない米軍基地の一つも廃止できないというのは明らかに間違っている。必要なものなら「本土」に持ってくるか、アメリカの領土に持って行くかを菅首相はまじめに追求し、アメリカと交渉しなければならない。)
「戦争によらない国際紛争の解決」。言うは易いが現実は「強いもの勝ち」を容認し続けるだけ。どうしたらいいのか。
二年目のテッセンが風呂の窓を覆い尽くすような勢いです。花も連日、5つ6つ咲かせます。
http://www.google.co.jp/imglanding?q=%E3%83%86%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%B3&imgurl=http://mymimosa.net/archives/2006/05/images/1148732291.jpg&imgrefurl=http://mymimosa.net/index.php%3Fdate%3D2006-06-02&usg=__J0hWHLByd2t3hrV6ZTsKlBYDWuU=&h=480&w=640&sz=336&hl=ja&um=1&itbs=1&tbnid=yw0ofXp0rMw0yM:&tbnh=103&tbnw=137&prev=/images%3Fq%3D%25E3%2583%2586%25E3%2583%2583%25E3%2582%25BB%25E3%2583%25B3%26um%3D1%26hl%3Dja%26sa%3DX%26rlz%3D1T4TSJB_jaJP347JP347%26tbs%3Disch:1&um=1&sa=X&rlz=1T4TSJB_jaJP347JP347&tbs=isch:1&start=0#tbnid=yw0ofXp0rMw0yM&start=0
今朝は妻が炬燵(こたつ)をしまいました。抗ガン剤の副作用で僕の足が異常に冷えるので梅雨寒に備えてそのままにしてあったのです。
このところ川越の気温は高く、夜も窓を開け放したままです。こういう時の方が体調はいいのです。
6月19日(土)<Yくん姉弟と友人たち>つづき
歳は下なのですが入学したときからY介くんやOくんはYくんを何かといえば頼りにしていました。
10歳で来日したYくんの方が日本語も達者で日本社会にも通じていたのです。15.6で来日したばかりの二人には灯台のように大事な存在だったのでしょう。
Oくんは直近に来日したばかりで日本語が全く出来ません。学校では定員(15)を超えてまで合格とさせるかどうか大議論があったほどです。ほとんどをマンツーマンの授業とすることになり、すでに転勤されていた忠幸さんが講師として配属されたのです。
忠幸さんはもちろんのことYくんがいなければ卒業というわけには行かなかったのかもしれません。穏やかな性格ですが人に対して優しく誠実な好青年だったのです。
この日は何年ぶりかの再会ですがタクシードライバーの先輩として失業中のY介くんにはこれまでもアドヴァイスしてきたようです。トラック運転手のOくんと3人の会話は中国語でぼくには解りませんが仕事の話が中心のようです。
妻を含む4人の女性たちの会話は盛り上がりっぱなしです。中断するということがないのです。
こちらの話の内容は僕にもよくわかります。
子育てにまつわる春江さんの話が印象に残っています。
受験産業の謀略に引っかかってこどもを「受験」に駆り立てる友人たちとつきあいながら、自分は高一になる一人娘とどういう関係を築いてきたかという実践報告です。
この6年の間に春江さんは自分の生き方に自信を持ってきたのだと思いました。離婚体験も今は「恥ずかしい」とは思わなくなったと言います。新しいお父さんと娘さんとの関係構築も自然で反抗期のやりとりもなかなかのものだったようです。
もともと自分で何事もしっかり考える人です。小さいときから日記をつけていて、高校生の時にそれを読ませてもらったことがあります。
来日にあたり、おばあちゃんが「春江」と一方的に名前を付けたことに対する疑問や思いを日本語でしっかり書いてありました。
僕はそれを「北高新聞」で紹介したことがあります。自分の人生ですから自分で納得できるように生きたいという思いが子供心にも息づいていました。
大人になっても困難に直面しながらも納得できる人生を切り拓いてきたのです。そこから生まれた自信が「親といえどあなたの人生を生きることは出来ない」と力強い「自立」のメッセージを娘さんに送らせるのでしょう。
僕は「自由放任」という言葉を思い出していました。保護をしなければならないときが過ぎたらその人(子)の人格を尊敬して保護の任務を放つのです。「自立」と「共生」の関係が親と子の間にも生まれることが望まれるのです。
精一杯誠実に人生を生きて力強さを獲得した一人の女性に会っている喜びを感じました。それが自分の生徒だった人なのですから我がことのようにうれしいのです。
6時を過ぎても「討論」は終わりそうにないので「継続」を提案して6時半頃にようやく散会となりました。久しぶりにビールを飲んでいい気になった僕が少し疲れてきたのです。
自制して酒をやらなかったYくんが帰りも川越の我が家まで送り届けてくれました。
余ったごちそうはおみやげにして持たせてくれたので三日後の今日まで我が家では妻がいろいろと手を加えて美味しく食べさせてくれました。
Yくんが造ってくれた思いがけないプレゼント。これがまた何かにつながるかもしれません。ありがたい思いを大切にして日々を生きたいと思います。
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今日は夏至で日が長いと思って自転車で森林公園まで行ってみることにしました。
荒川自転車道を2時間ほど走って大芦橋で一般道に下りて森林公園に向かったまではよかったのだが国道407号を渡った辺りで道に迷い、たどり着いた東松山市大岡の市民活動センターで昼食としました。
疲れもピークに達していたのでゆっくり休みました。
午後からは日差しも強くなってきたので森林公園は諦め、帰路に。東松山市の中心街の公園で一休みした後、国道254に出て一路川越に向かいました。
3時過ぎに落合橋を渡って城西高校裏の土手のベンチでお昼寝。水田から渡って来る風が心地よく小一時間、夢心地。
これが今日のすべて。走ったのは40Kmくらいかな。
手術後には行ったことのない国営森林公園への挑戦は失敗に終わったが汗をしっかりかいて気分は爽快、体調もよい。 良しとしよう。
6月19日(土)曇り
数週間前に予告されてはいましたが、こんな日があるといいなと想っていた一日がついにやってきました。
Yくんが10時半頃、車で我が家まで迎えに来てくれて昼頃には足立区にある自宅につきました。それから日が暮れる頃まで豪華で楽しい宴を張ってくれたのです。
Yくんは北高88年入学の「中国帰国生徒」(おばあちゃんが「残留婦人」)です。僕が北高に赴任して2年目に<帰国生徒担当>となった4月に入学してきた16人の生徒の一人です。
91年3月卒業後もOBのCamp、結婚式(96年)などで顔を合わせました。しかし、97年夏、北軽井沢のCampでお連れ合いのEさんと赤ちゃんだったSさん共々一泊二日を過ごして以来は久しく会う機会がなかったのです。
専門学校卒業後会社員となって全国各地を飛び回ったり、運送会社で働いた後、数年前からは都心を拠点とするタクシードライバーになっています。川越からの車中でこの13年の歩みを聞きました。
中国からやってきて日の浅いEさんと二人で三人の娘さんを育てながら懸命に生きてきた日々です。Sさんは中2,Aさんは小6,Yさんは5歳になりました。
丈夫な体に恵まれたとはいえ、仕事はきつく家に帰ることが出来ない日々が続いたり、腰を痛めて転職を余儀なくされたりもしました。
タクシードライバーになって3年、不況のあおりで水揚げは落ちる一方ですが、仕事の面でも家族の生活の面でも今、ようやく安定の局面を迎えることが出来たのです。
家は都営アパートの4階にあります。車から降りると女性ばかり数人の歓声が中空から響き渡りました。Yくん一家のほかにお姉さんの春江さんも来てくれていました。
春江さんは一つ上です。2004年4月、一人娘のRさんと日光への日帰り旅行(第一回きいちご移動教室)を楽しんで以来です。
「一週間前に弟に知らされて以来、夜も眠られませんでした」。こういって僕が元気なのを喜んでくれました。
見たこともないような大きな画面の液晶TVのある部屋で開宴を待ちます。やがて二つ並んだテーブルに三人がつくったという料理が運ばれてきます。
見事な鯛の丸揚げ餡かけを中心に中国の家庭料理が所狭しと並んでいきます。その豪華さに驚きます。
昔、母が元気な頃、正月や神祭には我が家の表の間には手作りの皿鉢料理が並びました。磯魚の活け造リや鯛を酒と薄口醤油で炒りつけたものをはじめとして各種のお寿司(カマスの姿寿司・海苔巻き)、昆布巻き等々。母が前夜から丹誠を込めて造っていました。
そんな日のことを思い出しました。最後にできあがったばかりの水餃子が次々に運ばれてきます。今日はまた何という日なのでしょう。
予定時間間際にY介くんとお連れ合いのHさん、息子のKくんがOくんの車で到着。いよいよ開宴です。
Y介くんOくんはYくんの同級生です。こんなうれしい集いが用意されているとは直前になるまで僕にはわからなかったのです。(つづき)
お変わりありませんか。鈴木啓介です。
映画「クロッシング」の感想をブログに書きました。お目通
し下されば幸いです。下旬から全国各地での上映も始まります
。ごらんいただければうれしい限りです。
川越だよりhttp://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/1efbd8f1b7fbc9b5cf28c75454ef61fb
僕の押し売りメールにもかかわらず、沢山の方が読んでくれたようです。ありがとうございます。
返信を下さった方の中から勝手にいくつかのメール(全文ではありません)を紹介させていただきます。
一人でも多くの方に見てもらえるように皆さんのご協力をお願いします。ごらんになったら感想など送って下さい。「川越だより」で紹介させてもらいます。
昔の生徒からうれしい近況もいくつか届きました。元気づけられます。紹介は他日を期すことにします。
○ Kさん(在日コリアン三世・静岡)
メールをくださりどうもありがとうございます。
是非、映画館に見に行きたいと思います。
取り急ぎ御礼まで
○Sさん(文京高OG)
映画のお知らせありがとうございます。
早速友達を誘い、見に行くつもりです。
わたくし事ですが、最近、日本禁煙学会に入りました。
禁煙促進に看護師として、活動できればと思っています。
現在勤務している病院も精神科では珍しく敷地内全面禁煙を実施しています。
喫煙していない看護師が、患者さまの喫煙にて受動喫煙となっている実情が
他の精神科では公然の姿です。
健康問題を解決する職場で、健康を阻害しているのが現状です。
先生に教えて頂いた、社会問題に目を向ける姿勢をいつまでも忘れないようにし
たいと思います。
○ Kさん(元同僚)
こんにちは♪
映画「クロッシング」、渋谷のユーロスペースで見ました。シルバー料金で。(^
。^)
「牛の鈴音」もシルバー料金で見させてもらいました。
クロッシングは政治的な主張を後景において家族愛を主旋律として描いているの
で、当の韓国人(韓国映画人)がこのように抑えた映画を作れるというのは本当
に成熟した社会なのだなぁ、と変なところに納得してました。
牛の鈴音も静かないい映画でした。若い人も感動させる映画ではと思って映画館
をあとにしたものです。
○ Aさん(宮崎)
久しぶりにブログを読みました。
体調はまぁまぁのようで、少し、安心しました。
「クロッシング」は、私も気をつけて、ぜひ、見たいと思います。
在日の人権問題に関心がある人が、北朝鮮の人権問題には目をそらしている
人が多いのは残念です。
○Iさん(高校同級生 高知)
映画とブログ紹介ありがとう。貴兄の熱血漢ぶりは、なをかくしゃくとして
おられますね。(略)
[蛇足]
帰還が開始されたのが1959年だから我々は高校三年生。
その少し前だったと思うが、自宅で父のいとこ連、みな明治生まれで
いまは他界してしまったが、彼らの宴席での発言を、私は幼な心に
覚えています。
北へ帰りたいというのはしょうがないが、これを大いに奨励する
新聞がある・・。行けば地獄というのがわからんのじゃろうか・・と。
後年、或る機会に朝日など新聞記事の過去を同僚とめくってみる機会を得たが
確かにそのとおり、いや、北奨励は日本の当時「世論」だったような感がある。
高名な寺尾五郎氏(添付)をご覧下さい。(略)
○ Nさん(高知)
情報ありがとうございました。
なかなかの作品のようですね。
高知では10月16日にあたご劇場にて上映予定です。
ただあたご劇場は,隣の愛宕病院が買収し,9月には
閉館するとも言われていまして、どうなるのかわかりません。
(略)
私はあいかわらず零細企業の主で苦労しています。
○ Mさん(池袋商業高OB)
御無沙汰しております。先生もお変わりないようで何よりです。
私の母が乳癌になってしまい、来週から入院検査が始まります。
父も85歳と高齢の為に家事をしなくてはなりません。
大変興味のある映画ですが、仕事と家事で時間がとれそうもありません。機会があれば是非見に行くように致します。
○ Nさん(元同僚 熊本)
私も何とか忙しくしておりますが、高血圧始めいろいろとガタがきています。まあ歳相応といったところでしょう。
人吉では自主上映くらいで、映画は熊本か八代まで出かけねば観られません。「クロッシング」は当分熊本ではだめでしょう。しかし必ず観ることにします。
○パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
今、教育が民主主義が危ない!!
東京都の「藤田先生を応援する会有志」による、民主主義を守るためのHPです。
http://wind.ap.teacup.com/people/4149.html
○パワー・トゥ・ザ・ピープル!!管理人R.Kさん
http://wind.ap.teacup.com/people/4131.html#comment14058
藤田さんやぼくのコメントまで紹介して下さったR・Kさんに感謝します。
日本の人権運動をリードしてきた左派の人たちの奮起が期待されます。
関連「川越だより」左派の友へhttp://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/0e5c701eaf360a818447f6c66352ffd1
こんな歌詞です。
作詞:武政英策、作編曲:武政英策
1 南国土佐を 後にして
都へ来てから 幾歳(いくとせ)ぞ
思い出します 故郷の友が
門出に歌った よさこい節を
土佐の高知の ハリマヤ橋で
坊(ぼん)さんかんざし 買うをみた
2 月の浜辺で 焚火を囲み
しばしの娯楽の 一時を
わたしも自慢の 声張り上げて
歌うよ土佐の よさこい節を
みませ見せましょ 浦戸をあけて
月の名所は 桂浜
3 国の父さん 室戸の沖で
鯨釣ったと 言う便り
わたしも負けずに 励んだ後で
歌うよ土佐の よさこい節を
言うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ
潮(しお)吹く魚が 泳ぎよる
よさこい よさこい
歌のヒットに合わせて小林旭の同名の映画(日活)も作られ、彼は大スターへの道を切り拓きます。
映画「南国土佐を後にして」(1959年)の中でペギー葉山が歌っています。どうぞお聞き下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=kBDDWlENyWM&feature=related
○この歌は武政英策の作品とされていますが元々は「鯨部隊」に所属した四国の兵士たちが中国の戦線で故郷をしのびながら歌った唄なのです。高知県(土佐)出身者も多かったのでしょう。
http://www7.ocn.ne.jp/~gunka/showa.html#9.よさこいと兵隊
○鯨部隊の慰霊塔です。
歩兵第234連隊(通称号:鯨6882部隊)http://www.geocities.jp/bane2161/hohei234rentai.htm
○「戦地へ来てから幾歳ぞ」「自分も負けずにいくさの後で 歌うよ土佐のよさこい節を」
東京に遊学して僕も時にこの唄を声張り上げて歌うようになりました。唄の歴史を知ってからは中国戦線で父を失った同級生を思い出すようになります。やがて中国人の友人も出来ます。いやでも前線を想像します。
3番になると調子が高ぶってきます。自分を育ててくれた室戸の人々を誇りに思う気持ちにかわりはありませんが歴史の流れにもてあそばれた先輩たちと日中の友人たちの心の内を思わないわけにはいきません。日本の中国侵略戦争はいやしがたい苦しみを日中の人々に与え続けてきたのです。
○それではもう一度ペギー葉山の声をお聞き下さい。
御畳瀬(みませ)・浦戸(うらど)は地名です。「見ませ」「裏戸」と掛詞になっています。
http://www.youtube.com/watch?v=JziDNVUum2M
○資料 日活映画「南国土佐を後にして」http://www.nikkatsu.com/dig/DVDLINEUPS/dvd_line_HEROS01.html#nangoku
○熊野捕鯨図(紀州)
室戸の捕鯨は紀州の人から学んだ。
http://www.chohoji.or.jp/promenade/yoshimune12.htm
○古座浦捕鯨図(紀州)
6枚目の写真。
http://www.kushimoto.jp/kozajisi/sub05.html
○古座町史料・捕鯨編
ゴンドウ鯨や勢子船がよく描かれている。
http://blogs.yahoo.co.jp/shigeyoayumi/47665260.html
○土佐津呂組捕鯨の絵馬
海の神様・讃岐の金比羅宮に津呂組(僕の生まれた村の捕鯨組)が奉納したもの。
http://www.shikoku-np.co.jp/feature/kotohira/42/index.htm
○津呂・王子宮
04年5月に「第3回 日本伝統捕鯨地域サミット」が室戸で開かれたときの「土佐室戸捕鯨の史跡をたずねて」というツアーの様子。案内するのは地元の 島村泰吉先生です。
津呂・王子宮の絵馬や鯨の模型などが見えます。王子宮は津呂の氏神ですが敗戦直後(1947年)ここが僕らの幼稚園でした。妻との結婚式(1968年8月1日)もここです。05年の秋・神祭の時、朴保(ぱく・ぽー)くんが「鯨狩り」を奉納してくれました。
http://www.e-kujira.or.jp/topic/tra/04/0529/index.html
「鯨狩り」http://www.youtube.com/watch?v=AzaqDx-RyKQ
龍馬の銅像がある桂浜の裏側に当たる浦戸にホエールウォッチングの基地があるとは思っても見なかったことです。
・ホエールウオッチングin桂浜の新着情報 http://www.kujira28.com/topics/topics.cgi
僕は土佐湾のほとりで18歳までを過ごしましたが泳ぐ鯨を見たことはありません。文京高校の修学旅行で大方町でウオッチングを試みたときにも見えたのはイルカだけです。
捕鯨が原則中止となり、鯨が住める海になってきたのでしょうか?
僕の祖父の時代までは沿岸捕鯨が盛んで僕の生まれた津呂(室戸市室戸岬町津呂)は捕鯨で成り立っていた村です。
江戸時代末期の津呂を舞台に山本一力が書いた小説があります。
『くじら組』(文藝春秋刊)http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000032218193&Action_id=121&Sza_id=C0
僕は高校の同級生の一郎くんが切り抜いておいてくれた新聞の連載で読みました。
父方の祖父は「羽差し」という花形であったらしく父の自慢の一つでした。
その時代はウォッチングではなく捕まえるのが仕事だったのです。銃などというものはなく、人間が文字通り、鯨と格闘したのです。
桂子さんのように土佐湾でホエールウォッチングを楽しむ人がこの海で100年ほど前までは続いた捕鯨の物語を知ることが出来ればよりいっそう充実したひとときを過ごせるのではないかと思います。『くじら組』を薦めます。