川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「川本さんと水俣病の患者さんたち」

2008-11-30 06:49:47 | 出会いの旅
 水俣を訪ねることが決まったのであれこれと勉強することにしました。
昨年春、完全年金生活者になったとき、<東京・水俣病を告発する会>のニュースの購読を停止したので現在の状況がわからなくなっているのです。皆さんにも参考になるかも知れませんのでぼくの学びの様子をときどき掲載します。

 最初にぼくと<水俣>との関わりを書いた文章を紹介します。2000年5月発行の『木苺』97号「おもいで話ー私の出会ったひとびと⑥」の一部です。HPを閉鎖したので書き写します。


 「チッソ東京本社での交渉の時、隅っこに居させて貰いました。川本さんをはじめとする患者さんたちの問いかけは、わたしの生き方にも確実に影響をあたえるものでした。心から哀悼の気持ちをおつたえします。」

 水俣病患者さんのリーダー川本輝夫さんの追悼文集『熱意とは、事ある毎に意志を表明すること』に、久保田好生さんがぼくのハガキを紹介してくださった。
 99年8月1日に東京で開かれた川本さんを偲ぶ集いで、土本典昭さんや原田正純さんなどのはなしに耳を傾けながら、ぼくは感動に浸っていた。30年間もこの問題とかかわり続けてきた久保田さん(都立高校教員)のお陰でこの集いに参加できたのだが、水俣病事件にかかわってぼくが何かをしたということはない。

 池商の教員有志で、何年間であったか、月々相思社設立のためにカンパを送り続けたぐらいである。だが、チッソ東京本社での交渉を垣間見た患者さんたちの姿は、今日なお鮮明である。
 授業で<水俣病>をテーマにしたのは1972年。石牟礼道子さんの『苦海浄土』を読み、映画『水俣ー患者さんとその世界』(東プロ、2時間46分)をみ、クラス毎に生徒の有志が文集をつくった。そして、寺本元熊本県知事の出張尋問のため水俣から患者さんが見えるというので、6月25日の集会に生徒の希望者を募って参加した。
 川本さんの迫力ある姿に接したのは73年3月、裁判勝訴のあと、東京本社で行われた直接交渉の時である。
 田上義春さんや浜本二徳さんなど映画で何度も見たことのある患者さんや石牟礼道子さんも居られた。ぼくは部屋の隅っこに居させて貰っただけだが、島田社長に迫る川本さんの言葉はきびしいがやさしく、人の生き方を問うものだった。
 ぼくはこれらの人々の言葉や行動に、忘れかけていた故郷の室戸の漁師であるおんちゃんらの姿を重ね合わせても居た。

 自分の言葉で、臆することなく、人であれ、と迫る。公害地獄をみ、体験した深みから、無責任な殺人企業の社長に対し発せられる言葉なのだが、それは優しさに満ちていたと、ぼくは今でも思っている。

 チッソ水俣工場の労働者が公害という名の人殺しに荷担してきたように、「単位の奴隷」から「賃金の奴隷」へと姿を変えることによって、ぼくらは日本の現実ー公害地獄の中にますます深く絡め取られていく。どうしたらそうでない生き方が出来るのか…。

 川本さんは、ぼくにも生徒にも問いかけていた。

 1955年秋に弟が急死したとき、親戚のおばあちゃんたちのご詠歌がぼくをなぐさめ落ち着かせてくれたのだが、患者さんたちも、ときどき、白装束でご詠歌を詠いながら東京の集会に参加した。
 ぼくはここでも患者さんたちの優しさに癒され、活力をいっぱい貰ったように思う。

 岩瀬政夫さん(都立高校教員)が<水俣>と出会って、全国を巡礼したときの日記を『水俣巡礼ー青春グラフティ70~72』として公刊(現代書館)された。ぼくのような表面的な関わりとは違う、患者さんとの出会いの中で、岩瀬さんが絶句しつつ学んだ「人間を癒し、突き動かす水俣の力」について書いている。一読をおすすめしたい。

天草・水俣の旅(日程)

2008-11-29 09:15:42 | 出会いの旅
 11月28日(金) 朝、忠幸さんから宅急便でシクラメンが届きました。前日こんなメールがあったのです。

  「さんぽ路の途中の農家でいいものを発見。今年一年のいろいろな意味をこめて、お二人にプレゼントします。明日のSURPRISEをお楽しみに!」

 寝るとき以外は四六時中居る居間兼食堂兼応接室のパソコン置き場の隣で赤紫の花を咲かせています。ありがとうございました。3年前手術のため入院の時、山吹高校の同僚たちが送ってくれた蘭の花が咲くのはこれからでしょうか。

 びっくりしたことがあります。昨夜、パソコンで娘に注文して貰った『水俣病50年』(西日本新聞社)が翌日の夕方には宅急便で届いたのです。AMAZONという会社の仕業ですがどうなっているのでしょう?こんなに便利でいいのか?というのが正直な感想です。

 12月に「天草・水俣」の旅をすることにしました。参加者は妻の母・妻・娘・僕の4人です。妻の母は12月1日で90歳になります。春先には4人で奄美大島の旅をしましたが、僕の入院・治療などがつづき一緒に出かけるのは久しぶりです。

 <天草・水俣の旅>

 15日(月)鹿児島空港からレンタカーで長島へ。サンセット長島泊

 16日(火)長島・諸浦島から天草へ。河浦・愛夢里泊

 17日(水)天草南部から中部へ。本渡・アレグリアガーデンズ泊

 18日(木)天草北部から水俣へ(松島フェリー利用)。水俣・斎藤旅館泊

 19日(金)終日水俣滞在       斎藤旅館泊

 20日(土)水俣から鹿児島空港へ。17:35鹿児島発羽田へ

 70年代の始めに<水俣>と出会って30数年が経ちます。僕の中では水俣は「聖地」なのか、なかなか遠いところです。天草、八代、人吉、鹿児島などにはいったことがあるのに水俣だけは訪ねたことがないのです。とっておきのところなのかも知れません。

 八代海に浮かぶ御所浦島にいくのを楽しみにしていました。ところが本渡~御所浦島~水俣のフェリーは運行していません。HPでは時刻表まで出ているのに念のため電話で問い合わせてみると廃止になったといいます。天草の倉岳からはいけるそうですが往復しなければなりません。あきらめかけています。
 この島も水俣病の被害者をたくさん出したところです。橋でつながっている牧島では近年になってやっと患者さんが名乗りをあげたといいます。通りすがりの旅ではありますが通ってはおきたい思いがあります。どうするかな?
 どういう方と出会うことができるか、楽しみです。
 

東京新聞「中国の核実験被害」報道

2008-11-28 09:55:35 | 中国
 『東京新聞』に中国の核実験被害にかかわる記事があったことを知りました。このことについては8月に「川越だより」に何回か書きました。

 中国の核実験(4)ロブノル                       http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/739ee96ad1c34c5e3989ed8372a94239
 

 日本のマスコミは中国政府の報復を怖れてタブーにしてきました。
 『東京新聞』は比較的マイナーな新聞ですがときどきおかしいことにおかしいという記事を掲載します。一部100円ですので電車に乗るときに買って読みます。私たちがいかに恐ろしい情報操作のもとに生きているか、思い知らされます。高田純さんの地道な研究がさらに多くの人に知られていくことを願います。


 東京新聞 11/21朝刊 【特報】

   中国核実験 96年まで46回実施か 
   住民19万人が死亡と推定 隣国カザフの調査 

     日本人科学者が分析 (2008年11月21日)

 東アジアでは北朝鮮の核兵器開発が国際社会から問題視されているが、中国は既に一九五〇年代半ばから核兵器開発にまい進してきた。

 少数民族が居住する新疆ウイグル自治区で行った核実験は四十回以上に及ぶ。
しかし中国政府は実験データはもちろん、実施の事実すら公表していない。核汚染や周辺住民への被害はこれまで闇の中だったが、その実態が日本人科学者の手によって初めて明らかになりつつある。  (外報部・浅井正智)




「旧ソ連時代、中国の核実験による放射線の影響は、(新疆ウイグル自治区の)ロプノル核実験場から北西に約千キロ離れた隣国カザフスタンで監視されていた。そのデータを2001年に入手したことは、中国の核実験の実態を追跡する上で大きな意味があった」

 原発事故のチェルノブイリや臨界事故の東海村をはじめ、世界各地の放射線被害の現地調査を手掛けてきた高田純・札幌医科大学教授(放射線防護学)は、札幌市内の研究室でこう語りはじめた。

 中国は実験現場を公開していないが、どう調査したのか。用いたのは、旧ソ連が監視していた中国の核実験威力や爆発温度、風向き、さらに風下のカザフスタン東部マカンチに実験直後に降り積もった核分裂生成物の分析から、新疆ウイグル自治区の被害を推定するという手法。

 現地調査をせずに核汚染を科学的に分析するこの方法を適用することで、中国が隠し続けてきた核実験災害の実施時期に突破口をひらいた

 中国が同自治区で行った核実験は、1964年か96年までに延べ46回とみられ、「これらの実験のために致死レベルの放射線を浴び、死亡した住民は19万人と推定される」と高田教授は具体的な数字を挙げた。

 劣悪な医療環境などから、その4倍の75万人が死亡したとする説もあるという。
死に至らなくとも、白血病やその他のがんの発生、胎児への影響が高まる地域には129万人がいたとみられる。核実験はもう10年以上行われてはいないものの、「住民の健康被害は続いており、まさに現代の問題」にほかならない。

 実験地点は シルクロードの要衝として栄え、日本人が好んで観光に訪れる楼蘭に近い。「地下核実験で地下水が汚染されている恐れがあり、飲むのは避けるべきだ」と警告する。

 46回の実験のうちメガトン級の地表核爆発は67年、73年、76年の三回。核爆発は爆発点により、空中、地表、地下に分類されるが、地表爆発は核汚染された土壌の粉じんを巻き上げ、周辺および風下に大きな放射線災害をもたらす。

 高田教授によると、メガトン級の地表核爆発は米国も旧ソ連も内陸では行っていない。中国はそれを三回強行した。
 インターネットの動画サイト「ユーチューブ」では中国の核実験の映像が見られるが、防護服などを着ていない人々が巨大なきのこ雲に向って万歳する姿が映し出されており、安全面の対策を講じないまま実験を行った可能性が極めて高い。

 ただ中国当局は一つの重要な「配慮」をしたとみられる。67年と73年のメガトン級地表核爆発は同じ6月に行われ、当時の気象記録からカザフスタン方向に風が吹いていたことが分かっている。「毛沢東ら共産党指導者のいる北京に゛核の砂゛が飛んでいかない季節を選ぶという最大級の配慮をしたはずだ」と高田教授は皮肉を込めた。

 残る一回のメガトン級爆発時(76年11月)の気象データは、今のところ判明していない。11月という季節から、核の砂は北風によって南に隣接するチベット自治区に運ばれた可能性が考えられるが、解明は今後の研究に委ねられている。

 高田教授は研究成果をまとめ、北京五輪に合わせて今年、著書「中国の核実験」(医療科学社)を出版した。先月下旬、アルゼンチンで開かれた国際放射線防護学会でも「中国の核実験災害と線量評価」と題し報告を行った。

 これまで謎に包まれていた中国の核実験の実態から見えてくるものは、「主にウイグル人が居住している場所で、安全面の対策も立てず、国家によって犯罪的実験を行った。」(高田教授)というおぞましい現実だ。
 三回のメガトン級爆発は、すべて文化大革命(66~76年)という未曽有の大混乱の間に行われている。中国共産党は81年、新中国成立以来の歴史を総括する「歴史決議」でその文革を「過ち」と公式に認めた。

「ならば」と高田教授は強調する。

「文革の熱狂の中で行われた危険な核実験の過ちも認め、データを開示し、被災者の補償をすべきだ。それをしない限り、中国は決して国際社会から信頼される国家にはなれない」


◆通常兵力後回し、「核」に重点


 中国の核兵器開発のスタートは1955年ごろにさかのぼる。54年に日本で自衛隊が発足したのとほぼ同時期、当時の中国指導者、毛沢東は早くも核武装を決意していたことになる。国民経済は疲弊していたが「毛沢東は核兵器が米国と渡りあうために必要な政治兵器だと明確に認識していた」と中国軍事専門家、平松茂雄氏は話す。

 最初の核実験は64年。約十年で核兵器開発を成し遂げた。80年には米国に到達する大陸間弾道ミサイル(ICBM)の発射実験にも成功し、対米核抑止力を初めて獲得する。 米英仏などが通常戦力を整備した上で核兵器開発に移行したのとは異なり、中国は通常兵器を後回しにし、いきなり核兵器に重点を移したところに特徴がある。

 中国が核武装する究極的な目的は「台湾有事の際に米軍の介入を思いとどませることに 置かれている」(平松氏)

 中国は近年、軍事技術と密接にかかわる宇宙開発を精力的に進めており、ミサイル技術も着々と進化しているとみられる。中国の核弾道ミサイル数十発は日本に照準をあわしているとされ、「北朝鮮より中国の核兵器の方が日本の安全保障にとってはるかに脅威だ」と 平松氏は指摘している。


 <デスクメモ>

 実態以上に中国を汚染国に仕立て上げ、日本は安全、だから国産をえらびましょうーとの゛布教゛には疑いの念をもって接したい。偽装を生む土壌が増えるばかりだから。でも、チベット問題といい、核実験といい、「臭いものにはふた」の姿勢は大問題。 人の犠牲の上に築いた大国の地位に価値はあるのか (剛)






スポーツ刈り

2008-11-27 09:51:04 | 父・家族・自分
 抗ガン剤の最終投与から3ヶ月が経ち、頭髪がスッカリ再生してきました。スポーツ刈りのようになり、友人たちが「若返った」と言ってくれます。丸木美術館の学芸員日誌に僕の最新影が載っているので紹介します。

 豊洲北小学校6年生の前にたって話をする僕
   http://diary.jp.aol.com/454hpkhtj/

写真をクリックするとやや大きく鮮明になります。雰囲気ぐらいはわかるかも知れませんね。
 何ヶ月も髭を剃る必要もなかったのですが近頃は毎日そらなければみっともなくなります。副作用から次第に解放されてきた証拠なのでしょう。
 目に見えない副作用の「しびれ」のほうはいっこうに改善されません。このために横になれば一日何時間でも寝ていることが出来ます。自然に眠くなります。

 遊びに出かけたり、会議に出席したりして活動していると眠くなることはありません。シビレも引っ込んでいるのでしょう。寒くなるとどうしても引っ込みがちになります。何かありましたら誘ってください。無理なく活動する方がいいに決まっています。
 温かい陽差しがある日は自転車で出かけて少しでも散歩するようにしています。

天性を磨く 大沼謙一くん

2008-11-26 10:11:37 | 友人たち
 25日(火) 今日は江東区立豊洲北小の6年生が丸木美術館を訪れる日です。幸いにも好天に恵まれました。僕がついた頃には一行はもう付近の散歩を終え、館内の見学をしているようでした。静かで物音一つしません。2階に展示された原爆の図とこどもたちがそれぞれに向かい合っているのでしょう。

 大沼謙一くんとは10月のクラス会であったばかりです。相変わらず、元気いっぱいの笑顔で迎えてくれました。もう何度目になることか。彼が豊洲小の校長時代からこうやって子どもたちをつれてくるのが恒例になりました。
 
 ゆっくり見学したあと僕に話をさせてくれます。終わったらグループごとに昼食。そして都幾川での川遊びです。

何時も変わらぬ風景です。昨年の今頃、学芸員の岡村さんが書いた報告や写真があります。僕が感じたことも少し書いてあります。よろしかったらご覧ください。

  丸木美術館学芸員日誌http://diary.jp.aol.com/applet/454hpkhtj/20071121/archive
 豊洲小・豊洲北小のこどもたちhttp://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20071122

 昨夜来の雨で増水した川に入ったまま、子どもたちの渡河を支援している先生がいます。最後の生徒と一緒に女の先生も川を渡ります。
 子どもたちの名前を呼ぶ校長の声が響き渡ります。驚いたことに先生の名前も同じように呼ばれています。たとえば「ケイスケ!」「ノリコ!」という具合にファーストネームで呼び捨てです。
 
 僕も親しい子どもたちは呼び捨てでした。ですから今でも「ケンイチ」であったり、「タカコ」であったり、「スンジャ」であったりです。「小山」などと姓を呼ぶ元生徒もいます。時には「小山くん」と言います。40代や50代になったのにどうかと思わないわけではありませんが僕にとっては自然な呼び方です。しかし、同僚はたいてい「田中さん」です。ちなみに家族は「のりこ」(妻)「ようこ」「しょうへい」(こども)です。

 これが社会的に妥当かどうかはわかりませんが、相手との距離がなくて、本当に大事に思っていなければ呼び捨てには出来ないような気がします。僕を「けいすけ」と呼んでくれるのは田舎の雄吉さんです。親戚の兄さんです。小さいときから遊んでくれました。今でもそう呼んでくれます。嬉しい一時です。

 相手はどう感じているのかわかりませんが大沼くんが一人一人を心から大切に思っていることがわかります。言うならばこどもも先生も一家族なのでしょう。一人一人の事情や心の動きをしっかりとらえているように思います。一緒に力を合わせて生きる仲間と思っているのです。僕は前にガキ大将のようだと書いたかと思いますが大将の器には違いないと思います。

 高校時代の「ジャムけん」がどういう人生を経て腹の据わった、人に優しい大将になったのか?僕には十分わかっているわけではありません。しかし、大島の漁師の親から受け継いだ天性を一生懸命に磨いてきたことはたしかです。順調に教職に就いていたらこうはいかなかったでしょう。

 高知県の大崎教育長のことを思い出します。お会いしたことはありませんが感性や資質に共通点があるような気がします。東京の学校を作りかえるつもりで頑張ってほしいと思います。

 元気をいっぱい貰った嬉しい一日でした。


 豊洲北小http://www.koto.ed.jp/toyosukita-sho/koutyou_aisatu/koutyou_aisatu.htm
 

 大沼謙一講演会http://www.tvac.or.jp/di/13996.html 

 

 

至誠 

2008-11-25 20:42:07 | 友人たち
 24日(祝) 昼過ぎから池袋北口の中国料理店で杜くん夫妻が昼食会をひらいてくれました。宴に列するのは杜くんの昔の教師である忠幸さん、友人のSさん夫妻それに私たちです。
 杜くんが長年の念願が叶い智慧子さんの夫として来日したのは去年の11月21日だったそうです。あれからもう一年が経ったのです。この間、杜くんは中耳炎で入院手術ということもあったそうですが元気に中国料理食材工場で働いています。智慧子さんに大切にされながら彼の今までの生涯ではもっとも安定した日々を過ごしてきたのではないかと思われます。

 日本に来て良かったことはいろいろあるが他のことはどうでもよい。先生が元気になって本当に嬉しい。

 不自由な日本語で僕のことを心配し続けてきた思いを伝えようと一生懸命です。僕には中国語が通じないので大変なのです。夜間中学に行って身につけた日本語を総動員して一語一語発信します。店中に響く大きな声です。

 「この思い、確かにありがたく受け取りました」。ぼくが心の奥で思ったことです。至誠天に通ず、という言葉があります。どういう意味かよくは解りませんがこんな言葉を思い出します。まごころが確かに啓介に通じたのです。

 前にも書いたことがありますが昔、杜くんが横浜の波止場から国外追放になって以来、僕が彼のことを気に懸けてきたことは事実です。その思いがあったから、偶然とはいえ、入管に収容されている彼と出会うことが出来たのです。しかし、彼がいま、幸せをかみしめているとしたら、それは言うまでもなく骨身を削って献身した智慧子さんのお陰です。僕は忠幸さんをはじめ知友の協力を得て彼の再入国が出来るように自分に無理なく出来ることをやっただけです。

 それでも杜くんが「日本のお父さん」と言ってくれます。幼くして父を失った人の言葉です。僕は恥ずかしがったり、当惑したりしていてはなりません。この人を悲しませないように元気に生きていかなければならないのです。そう思いました。

 帰りは雨になりました。小雨なので駅まで走って帰ろうとしました。杜くんが自分のジャンバーを脱いで僕の頭からかぶせます。走ってはいけないと言いながら、杜くんとSさんが両方から僕の腕を組んで護送してくれました。

 杜くんのことhttp://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20080105

過ぎゆく日々

2008-11-24 09:35:07 | 父・家族・自分
 11月21日(金) 小春日和に誘われて小川町の仙元山の展望台に連れて行って貰う。筑波山から浅間山まで北関東の山並み。日光連山や上越国境の山々は白銀に輝く。ふるさとの湯に入って帰る。
 夜、Aさんから電話。僕の最後の生徒の一人。この日本に身よりは叔父さんだけ。お母さんは病気で台湾にかえった。卒業後、通信制大学に入ったが閉じこもりになり、やっと電話をする気力が出てきたという。高校生の頃、進路のことなどで川越まで相談に来てくれたことがある。2年ぶりに訪ねる元気が出てくれればいいが。私たち3人はそれぞれに心配しています。
 
 22日(土) 朝、大島高OGの陽子さんからお菓子が届く。還暦祭で妻が一人一人にプレゼントした手作りのアクセサリーがよっぽど嬉しかったらしい。「使うと汚れるからケースに入れて飾ってあります」と同封の手紙にある。さっそくお礼の電話。妻「飾っておかないで使ってちょうだい。壊れたり、汚れたら修繕します」。春になったら、八ヶ岳の麓の旧友・典子さんを訪ねる旅をする約束。

 午後、東京で政府の中国残留孤児受け入れ策について勉強会。忠幸さん、俊英さんも一緒。
 A区で長年、福祉行政に取り組んで来たNさんが丁寧なレクチャーをしてくれる。今年度はじまったばかりの「地域生活支援事業」が来年度から政府の補助金を受けながら自治体が主体的に行う事業になるという。自治体にやる気がなければ消滅してしまう。残留孤児の半数近くを受け入れてきた東京の自治体の受け入れ態勢は今でもお寒い限り。私たちとしては支援相談員となった卒業生などの連絡協議の場をつくることにする。
 この会を主催してくれたのは自治体で働くMさんYさんなど。僕は若いときから生徒のことでこの人たちに世話になってきた。仕事だとはいえ、その尽力には頭が下がる。出世とは縁がないこれらの人々のお陰でどれだけの人が助かったことだろう。

 23日(日) 高知に住む従姉妹が「山北みかん」を送ってくれる。小粒で甘い。毎年毎年、ありがとう。先日、コニヤンの職場訪問の帰りに寄ったが留守だった。行き当たりばったりの報いだ。
 一日、寝たり起きたり。白鵬と安馬の決戦は良かった。

 24日(祝) 杜くん夫妻が昼食会によんでくれている。杜くんが来日し、二人が安定した生活を送るようになって一年になる。これから池袋へ。忠幸さんも来られるはずだ。




国籍法改正ー不当な河野太郎議員への攻撃

2008-11-22 10:40:52 | 政治・社会
 最高裁判所が国籍法第3条を「違憲」としたため、政府が提案した改正案が昨日衆議院を通過しました。これに対し、一部の人々が誤った情報に基づいて河野太郎議員に口汚い攻撃を続けています。問題点があれば慎重に議論するのは当然です。しかし、提案者ではない河野議員に攻撃を集中する人たちには民主主義社会に生きる人間が自覚しなければならない約束事が身に付いていないようです。ネット上だから言いたい放題を言っていいでしょうか。

 河野議員のその後のブログでの応対は与党議員として行き届いたものだと僕は感心しています。ニュース記事とブログを紹介します。


 日本国籍取得要件の改正法案 ネット上に反発、自民にも懸念
                   11月17日19時25分配信 J-CASTニュース


 日本人と外国人の間に生まれた子どもの日本国籍取得要件を緩和する法案をめぐり、波紋が広がっている。ネット上では「誰でも日本人になれてしまう」と反対運動が噴出。さらに、自民党内にも懸念する声が出始めた。また、二重国籍解禁に向けてのプロジェクトチーム(PT)で座長を務めた河野太郎衆院議員のブログが「炎上」。PTでの議論は今回の改正案とは別件なのだが、おもわぬ「とばっちり」を受けている形だ。

■お金をもらって不正に認知するのでは?

 発端となったのは、2008年6月の最高裁判決だ。現行の国籍法では、未婚の日本人男性と外国人女性の間に生まれた子どもが出生前に認知されなかった場合、日本国籍を取得するためには「出生後の認知」のほかに、「父母の婚姻」が必要だとされている。判決では、この「婚姻」要件が違憲とされた。これを受け、法務省が改正案を検討してきた。

 改正案では、出生後に認知されていれば、両親が結婚していない場合でも、届出を出せば日本国籍を取得できるようになる。また、偽って届け出た場合は、1年以下の懲役または20万円以下の罰金が科せられる。

 今回の法案は議員立法ではなく、内閣が提出する。11月4日には閣議決定され、11月12日には、自民・民主の両党が、同法案を含む4法案を11月30日の会期末までに成立させる方向で合意。審議は「トントン拍子」で進行している格好だ。

 ところが、11月に入ってから、懸念を表明する声が噴出している。例えば、

  「ホームレスの男性がお金をもらって不正に外国人の子どもを認知するのではないか」
  「誰でも『日本人』になれてしまうのではないか」
  「罰則が軽すぎるのではないか」

といったものだ。

■自民党の国会議員32人が「徹底的な審議を」

 ネット上には「まとめサイト」まで登場し、懸念される点を分かりやすく解説した動画も登場している。改正案を懸念する声はネット上にとどまらず、11月14日には、自民党の国会議員32人が「国民の不安が払拭されるまで、徹底的な審議を」などと衆院の山本幸三法務委員長などに申し入れている。

 また、今回の騒動の余波は、今回の「婚姻」条項以外にも広がっている。自民党では、ノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎氏が米国籍を取得し、日本国籍を放棄していたことを受け、08年10月に「二重国籍」解禁に向けてのプロジェクトチームを立ち上げて議論を進めている。国会で審議が行われている「婚姻」条項とは、基本的には別件だ。

 ところが、PTの座長を務める河野太郎衆院議員が11月12日、ブログに「座長試案」という記事を掲載したところ、批判的な意見が殺到。これらのコメントを削除したことから、さらに批判が加速し、「炎上状態」となった。

 11月14日になって、ブログに「国籍法に関するQ&A」と題した記事を掲載し、国会で審議が進んでいる改正案についての見解を表明。その中で、コメントを削除した経緯につて

  「事実と全く違うことに基づいた誹謗中傷や看過できない人種差別的、外国人蔑視的なコメントが数多く寄せられた」

と説明している。11月17日現在、コメント欄は閉鎖されている。



 河野太郎発行メルマガ「ごまめの歯ぎしり」

 http://www.taro.org/blog/

 自民党の中で「在日コリアンの国籍取得特例法案」を推進してきたのは河野さんのPTです。最高裁が違憲とまで判決した事案にこのような無責任な批判が与党からも続出する事態です。在日コリアンの国籍取得法案に対してはよりいっそうの攻撃が予想されます。法案提出の気配が見られないのはこのような政治状況と関わりがあると思われます。
 僕は在日コリアン3世の人々が自分の意見や願いをしっかりと日本社会に届けることが大事だと思います。大多数の日本国民は聞く耳を持っています。声を発する人があまりにも少なすぎるのです。闘いをしないで権利を獲得することは出来ません。
 

経過観察

2008-11-20 20:53:31 | 父・家族・自分
19日(水)午後、癌研有明病院で主治医・西尾先生の診断がありました。血液検査「数値は順調に恢復」。右肺のX線検査「10月と変化は認められない」。次回は1月にCT検査。生活上の制限は何もなく引き続き経過観察を続けるということです。
 一月まではとにかく無罪放免です。脚にシビレがあり、疲れやすい特徴はありますが年末年始を楽しく有意義に過ごしたいと思います。

 夜、小山台高校で柏レイソルの李忠成さんの話を聞きました。夢や希望の実現に向かって自分が精一杯生きていれば社会の評価はあとからついてくるという積極的な生き方に共感します。23歳だということですがコリア系日本人として生きていく社会的役割をしっかり自覚している頼もしい青年だと思います。それに引き替え、仲間内での評判ばかり気にして、思っていることも実行に移せないコリアンのリーダーたちをふがいないと改めて強く思います。
 終わったあと久しぶりに会う友人たちと遅くまで交流して帰りました。

 今日は昼近くに妻が室戸岬の知子さんが送ってくれた自家製の味噌を使って豚汁をつくってくれました。また、夕食には知ちゃんに教えて貰ったといって味噌炒めをチンゲンサイと焼き鰹でつくってくれました。僕にはおいしかったなあとしかわかりませんが妻は知ちゃんの味噌はさすがに土佐の食材によくあうと喜んでいます。

「“高知”という聖地」?

2008-11-19 07:16:18 | ふるさと 土佐・室戸
 連日、他の方のブログの紹介で恐縮です。長野・長谷寺の住職・岡沢さんのブログに高知に招かれて講演した際、考えたことが紹介されています。「坂本龍馬」と「廃仏毀釈」をキイワードに現代に生きる私たちの思想的課題に論及しています。高知では「廃仏毀釈」が激しかったといいますが僕にはそのことについて如何なる知識もありません。このブログを読んでくださる方には高知に縁のある方も居られます。岡沢さんの「聖地」論をどう思われるでしょうか。

 高知・濱長での僕らのHRでは医師と教師と僧侶の覚醒が話題となりました。奇しくも今年になって教師と僧侶の優れたブロガーに出会うことが出来ました。


  山岳仏教の聖地から"高知"という聖地へ
             2008年9月21日 (長谷寺住職日記)


 12日、前日に石鎚山に登った私は、私に会うためにわざわざ(上司と喧嘩してまで)会社を休んで松山まで駆けつけてくれた高知の友人Hの車で、国道33号線をひた走り松山から久万高原町、そして仁淀川に沿っていの町、高知へと向った。

 真言宗智山派の高知教区で開催された教化研究会に参加するためである。

研究会のテーマは「慈悲再生~チベット問題に学ぶ~」ということで、この中で僕に与えられたテーマは「僕たちはなぜ立ち上がったか」というもの。

聖火リレーを機に僧侶の有志で行った様々な活動について話すことであり、と同時に、僕自身がチベット問題に多少なりとも関わっている動機や、チベット問題をきっかけに見えてくる日本仏教の僧侶の今後についてなど、荷の重い内容であった。



与えられたテーマに沿ってこの半年を振り返ると気づくこともいろいろとある。

中でも、僕が「宗派を超えてチベットの平和を祈念する僧侶の会」に参加していて興味深いのは、幹事として関わっているたくさんの僧侶の方々が、一人ひとり実に多彩な問題意識の中にあることだ。そして依って立つ思想的な根拠や歴史観も違う。

僕は、どっちつかずと言われても甘んじるが、右か左かという意思決定をしろといわれると悩むだろう。

例えば、憲法九条について考えると、そのどっちつかずが鮮明になる。それぞれの言い分に、それぞれその通りだなあと思ってしまうのだ。僕のようなどっちつかずの人間には、誠に弱ってしまうのが憲法問題であり、と同時に、なぜ憲法の前で僕は迷うのかも分からない。自分の国の憲法なのに「これはいい」といい切れないのも変だが、「これはダメだ」といい切れるのも変だ。その意味で「作り直したほうがいいのだ」という意見もあろうが、「憲法改正断固反対」という立場の声にも、ナルホド、と思えるものもある。

案外、国の意見を割り続けることにこそ、この憲法を作成した人たちの意図はあったのかもしれない。 それは、「主体」の問題としても、僕らに難問となっている。



そんな僕の目から見ても、ううむ不思議だ、と思えるくらいに、チベットに関しては呉越同舟、そもそも意見合わないでしょうあなた方、という人同士が、「フリーチベット」では一致するのだ。

これはいったいどうしたことだろうか。

その上、政治的に右も左も分からない僕のようなものもたくさんいる。

また僕の印象としては、メンタルな悩みを抱えていたり、精神的に社会とうまく折り合いのつかない人も(僕自身も含めてであるのは言うまでもないが)多い。

なぜなのだろうか。

僕は、高知に行ってそんなことをなぜかずっと考えていた。

むろん、チベット問題への取り組み姿勢では相互に異論もあるし「仲良し」ではない。

けれども、そういう価値観や歴史観において対極にある人同士でも、チベットの問題には、それぞれの人にとって「自分の問題」「自分のテーマ」として受け止められる何かがあるのだ。僧侶ばかりではない。チベット問題には、現代人が抱える諸々の問題にすべてつながっていく性質があるのではないだろうか。



なぜ高知でそんなことを考えたのか、というと、坂本龍馬(薩長同盟)と廃仏毀釈(近代化)である。

龍馬には数々の偉業があるけれども、なかでも、彼の仕業の中で僕が凄いと感じるのは薩長同盟だ。

どうして、あれほど憎みあっていた薩摩と長州を結びつけることが出来たのだろうか。

その「どうして」については、司馬遼太郎をはじめたくさんの作家や歴史家がいろいろと述べているように、土佐高知の風土や環境があるのではないか、と思う。憎みあい、価値観も違うもの同士を結びつけようとする大胆な発想を生み出す風土が、高知にはあるのではないだろうか。

ナンデモ昔、新しい地名にするに当たって、竹林寺の住職に役人が相談に行ったという。すると住職は鏡川が流れる河口周辺を「河内」と呼んでいたので、この呼び親しんだ名をもとに「高」と「知」を当てるようにと提案したという。もちろんそこには仏陀の知恵を暗示したに違いないが、ふと、坂本龍馬の「視点」の高さを思う。

幕末・開国の時代は、西洋列強のアジア進出と植民地化の時代であり、中国を始め、アジアの国々は酷い目にあっていた。そんなアジアの状況の中で、日本の雄藩である薩摩と長州が、日本国内というローカルな問題で対立していては、よりグローバルな国際競争の前で日本は西洋の植民地となってしまう。龍馬にはそういう危機感がリアルにあった。

でも、こういう歴史は後の者が言うは容易いが、あの時点で、そのような観点をもって行動できたのは大変なことに違いない。まさしく龍馬は「高い知」を持つ者だったのだと思うが、龍馬に限らず、土佐の人間にはより大きな観点からローカルな物事を見るような性向があるのではないだろうか。

そして、この「高知」にはるばるやって来て考えるのは、チベット問題における右と左の"薩長同盟"である。



チベット問題には、思想的に、あるいは信条的に右と左に立って対立する人同士をして「平和的解決」というひとつの目的に向けた協調を可能にする。

不思議ではあるが、このことは龍馬の観点や気づきが薩長の人々をして対立から同盟へと前進させたように、私たち現代の日本人にとってのチベット問題は、ローカルな問題をより本質的に考え直したり、またよりグローバルな観点から私たちの置かれている状況(問題)を点検することへと「気づき」を与えてくれるものとなり得る、のではないだろうか。

あるいは、ローカルな価値観に縛られてより大きな危機に気がつかないような状況に「気づき」を与えてくれるのではないだろうか。

川が流れ込むということは、河口周辺は山々からの養分が堆積することでもあり、それによって肥沃な土地も形成される。考えてみると、尾張名古屋にも川がたくさん流れて肥沃な平野を形づくっているが、信長・秀吉・家康という、従来の国意識を越えた「天下」を発想し得た人物もまたこんな土地から生まれた。

天下というグローバル社会をイメージすることが出来た人が、天下人になっていくのだが、そんな人が海に面する「河内」からしばしば生まれる。この「河内」は、地理的な条件、歴史という川が流れ込んで肥沃な文化的、社会的土壌をも形成するのではないだろうか。それらを養分にして天下をイメージできる人間が生まれる。

今、戦後も60年以上を過ぎ、明治の近代化から150年近くがたとうとしている。

この僕らがおかれている時代は、またに近代化という川が洪水のように従来の歴史や文化を押し流し、河口のように起伏ある世界を均質に均してしまっている。しかし、均されてしまったこの「河内的時代」であっても、私たちの足元には、先人たちの育てた文化的、精神的な遺産が深く肥沃な地層を形成している。そう考えれば、現代こそ、この河内性の中から「高知性」がグイと立ち上がってきても良いのではないだろうか。



一方で、高い知によって天下をイメージしようとする高知ではあるけれども、明治初めの廃仏毀釈が激烈だったことでも知られている。

龍馬という人間を生んだ風土には、一方で伝統を一挙に突き崩そうとするエネルギーも秘められているのだろうか。

まるで文化大革命のように、人々は寺院を破却していった。その行動の原因は一口には説明のつかない「熱気」によっているのだと思う。それは近代化という衝撃をまともに食らってしまった出来事ともいえようか。

廃仏毀釈は、地域によって「温度差」があったが、やはり幕末までに領民に対して厳しい封建的な対応を続けていた藩の土地ほど激しかったようだ。

そこには積年の恨みによる仕返しという要素も多分にあったにせよ、龍馬ばかりか武市瑞山や中岡慎太郎、後藤象二郎、板垣退助などを生んだ土地柄が、他の地域に比べて文明開化の意識が低かったとは思えない。むしろ、文明を開花することに対して苛烈なまでに自覚的だったと思う。だからこその廃仏だっのではないだろうか。

しかし、近代化、西洋化、文明開化というものが、伝統的な精神文化である仏教(もっと言えば神仏習合)を否定することによって進められた結果、私たち日本人はどうなってしまったのだろうか。

仏像をなくした?

寺院が減った?

いやいや、もっと目には見えない日本人の霊性というような、いわば魂に関わる大切な働きに禍根を残したのではないだろうか。

↑廃仏については、松岡正剛さんのこちらが参考になりました。またこちら「高知近代宗教史」も具体的で勉強になります。



高知のお坊さんたちが現在どんな意識でいるのかは知らないが、少なくとも宗派の教区という公的な機関が主催してチベット問題を学ぶ会を開催することの中には、廃仏を遠因とする問題意識が必ずあると僕は思う。

共産化、文革によって国内の寺院を破壊してしまった中国人たちと似た体験を、明治初頭の高知人たちは味わっているのではないだろうか。だから、その喪失の重大さもよく分かるのではないだろうか。廃仏毀釈は神仏分離という実行を伴って、今なお日本人の精神に打撃を与え続けているのではないか。

チベット問題が単に中国一国、チベット一国の問題に収まらない世界的な近代化、近代史の負の部分から発生してきている問題であることを思えば、日本における近代国家成立に向けた取り組みの中でも、もっとも大きな過誤といえる神仏分離、廃仏毀釈の深い痛手をこうむった高知において、チベット問題を勉強会のテーマに据える意味はとても大きいと思う。

しかもテーマは「慈悲再生」というものである。それは仏教再生であり、宗教心再生といってもいい。

高知において140年前に起こってしまった宗教破却とその後の復興の物語を、僕らは今再び見直すべき時を迎えているのだと思う。高知において、いち早くこうした事柄が学びのテーマになった意義も理解されてくる。

対立するローカルな利害や信条を超える坂本龍馬のようなグローバルな視点と、近代化を負の部分を検証することを通じて、改めて現代の社会に続発する諸問題を見つめなおすこと。

薩長同盟を実現した発想と、今日に続く廃仏毀釈から近代化を検証する姿勢。



折りしも、近畿一円の寺社仏閣を巡礼して、日本人の神仏習合の深い文化を再発見しようという大きなプロジェクトが動き始めている。→http://yosino32.cocolog-nifty.com/blog/(←「神仏霊場会」に詳しいブログ)

大阪應典院で考え、霊峰石鎚山で感じ、高知という「聖地」で考えまた感じながら、チベットから吹いている風を思う。

長々と「迷想」の日記で、最後まで読んでくれる人はあるのだろうか。

独白のさ迷い日記であるが、書くことで考えている。

   出典 長谷寺・住職日記
  http://www.hasedera.net/blog/2008/09/post_86.html#more






つぶされた感性を取り戻す

2008-11-18 16:40:14 | ふるさと 土佐・室戸
 高知のコニヤンのブログに次のような「はなし」が載っています。ぼくの13歳後輩に当たるかたです。僕のコメントと共に紹介します。
 この機会にコニヤンのブログを読んでみてください。自分を大切にして生きている一人の教師の歩みが日々記録されています。


 
コニヤンの今日も笑顔でボチボチでhttp://blogs.yahoo.co.jp/gogokoniyan/45606624.html#45630685


  「息子には、まだ語れない・は・な・し」


土曜日(15日)は天気がいいのに、二日酔いのために
部屋にずっとこもっていました。
文章を書いたら、また居眠りし、
また文章を書くというような・・・。

時々のことですが、ふと自分自身の十代のことがフラッシュバック
することがあります。

でも、私は、自分自身がかつて十代のときに、
高知の私立の進学校中学高校で
いったいなにを学んでいたのかと
自分に問うこと自体を今でも恐れています。

十月に息子を連れて大阪の大学受験に
同行したときに
私は本命の大学受験には
二校とも(当時の国立の一期校二期校)失敗し、
すべりどめで受けた私立の大学1校だけに受かり、
仕方なしにいやいや四年間通ったはなしを
初めて息子に語りました。
息子は酔うた私の話をじっと聴いてくれました。

私は教師になってから今まで30年以上かかって
その分をやっと取り戻せた気持ちになっています。
まだまだエンドレスに続くのだと思いますが、
十代のときに、つぶされた感性を取り戻していくには
それぐらいの時間がかかるのです。

私は小学四年(10歳のとき)から塾にずっと通い、
十八歳まで受験のためだけに生きてきたような
人生でしたから。

私が管理職を辞退したのは、
せっかく取り戻した感性がまたつぶされていくのを
自分で感じたから。

同和教育主任になり、またその後、不登校の担当になり、
今までの教師生活のなかでは見えなかったものが
見えてきた。
「人間」として成長していくことの意味や生き方を
学んでいく中で、初めて自分が見えてきたのだと
思っています。

私の母校とは違うが、同じような私立の進学校の中学に通っていた息子は、
エスカレート式に行けるその高校には行かないと
中学3年で決意したのだと思います。
私は実に驚きました。
私にはそんな勇気も決断もできなかったのに、
息子は人生の十代なかばにして
はやくもすごい選択をした。

それは、私にとっても転機でした。
息子がそういう決断をしていなかったら、
私は多分今でも、いやいやでも
管理職を続けていた
ように思います。

私は息子の姿を見て、
私も決断をしたんです。
(親としてずいぶんと情けないはなしですが、正直な気持ちです。
私は今でも息子に感謝しています。)
それは、すごく勇気のいることでした。
ずいぶんと悩みました。
O前高知県教育長はすごい制度を
考えた人です。
そして、私は
高知県教育委員会の「管理職降格制度」を一番はじめに
活用した人物なのです。

でも、その後も研究所で復活してから
今の自分に戻るまでにはやはり時間はかかりました。

先日、私は、体験入学に引率して参加し、
K高校の子どもたちと一緒に、しかも
研究所の卒業生と一緒に昼間部で授業を
受けました。初めてのことです。
夜間部では以前から
やっていたので経験がありましたが、昼は
初めて。
しかも息子が選択している授業。
私は感動してしまいました。
こんな感じで毎日授業を受けているのか・・・と。
そんな息子がちょっぴりうらやましかったです。

家で時々、息子と人権のはなしや人間の生き方のはなしになることがありますが、
そんなとき、「オレは、K高校に行ったから学んだがぜ。T高にいきよったら
絶対にわからんかった」と言うのです。
「人間学」の単位はバッチリなんですよね。

そして、先週の金曜の午後の授業。
またまた感動です。

最近は毎日感動してしまいます。
こんな感じは、以前不登校の担当していたときには
感じたことはありません。
もちろん本当はたくさんあったかもしれないのに
見えていなかったのだと思います。

だから、毎日「遺書」のつもりで
いろいろと書いています。
記録していないと忘れます。
感動を書き留めておくこと。
これは感性の磨きです。

今、再び、そういう仕事に毎日従事できることを
シアワセにも感じます。
日々感動を味わいながら、感性を磨いています。

このはなしは、まだ息子には語れません。

そのうちに、機会をみて、
このはなしは、息子に話したいと思っています。

ああ有情。

 
 【僕のコメント】

 
 僕は23歳の時、大島高校の教員になって自分と違う体験を味わってきた高校生と出会ったときから、自分が10代に得たものと失ったものを自覚するようになりました。そのときから自分の自覚的な学びがはじまり人生がはじまったのです。
 出身の同級生・Tくんとであったのは38歳の時。それ以来、小学校の同級生と少しずつつながりができました。
 失ったものを回復することは出来ませんが人として生きる喜びを確かめながら、学んだことが少しは我が血肉になっていくことを願っています。
 こにやんの歩み、我が身にも覚えがあることとして読ませてもらいました。


在日コリアンのリーダーたちに聞きたい

2008-11-17 06:14:44 | 在日コリアン
チョジャさんからコメントを貰ったり、Jさんから李忠成さんの講演会の案内を受け取ったりした機会に在日コリアンの選挙権・被選挙権など公民権確立運動について一言。
 
 曾祖父母やそれ以前の代からこの地に住み、この地のかけがえのない構成員でありながら国会議員の選挙権も被選挙権もない子どもが今日もなお生まれ育ち続けていることは僕にとっては見逃せないことです。これらの子供は一部の例外を除き公務員にもなれないのです。なぜこんな理不尽なことが解決されないのか。

 結局のところその原因は在日コリアンの組織のリーダーや学者などの社会的リーダーたちがこの半世紀以上に亘って、在日コリアンが日本国民になることを否定し、韓国もしくは朝鮮の国民として生きることを主張し、問題解決に動こうとしないからです。
 国民国家という現代の社会では国籍を持たない限り国会議員の選挙権・被選挙権を持つことは出来ません。これは日本に限ったことではなく国際社会の現状です。(だからすべての人に国籍を持つ権利が保障されています)。
 
 日本の社会で在日コリアンの組織として一般的に知られているのは大韓民国民団(民団)と在日朝鮮人総連合会(総連)の二つです。
 
 総連は「在日コリアンは朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の海外公民だ」と主張し、彼ら流儀の国民教育に力を入れてきました。このために在日コリアンの内のかなりの人々が独裁政権の駒のようにあつかわれ運命を狂わされたことは今日多くの人の知るところです。
  
 民団系の学校は少なく韓国民育成に力を入れているとはいえません。しかし民団の「綱領」にはその筆頭に「我々は大韓民国の国是を遵守(じゅんしゅ)する」と書いてあります。
 これは韓国の国民として韓国の憲法や法律に従うという意味です。日本に住んでいても外国人として生きることを宣言しているのです。このような組織が日本国籍を取得して参政権を獲得しようとする運動をするはずがありません。歴史的に言えば日本国籍を取得しようとする人を「民族の裏切り」といって断罪してきたことは先日書いたとおりです。
 在日コリアンの学者や弁護士などの法律家の中からも問題解決に動こうとする人が出てきません。東京大学の姜尚中(カンサンジュン)教授のように日本社会に影響力のある政治学の先生でさえ、黙ったままです。二つの民族団体と同じ考えなのでしょうか。意見の開陳をする義務がある立場だと思いますが聞いたことがありません。

 僕はこれらの団体やリーダーたちは無責任きわまりないと思っています。

 現実には李忠成さんのように一年間に一万人近い在日コリアンが帰化という手続きを取って日本国民になっています。申請すれば半年くらいでほとんど例外なしに許可されています。
 日本政府の姿勢が昔と変わったのです。しかし、問題はあります。書類集めの煩雑さ、費用などの他に当用漢字以外の漢字が認められないため氏や名を新しくつくらなければならないなど。尹、姜、趙、崔などの姓を持つ人はこの姓を氏とすることが認められていないのです。こんなことをあなたなら許せますか。
 
 僕(ら)は特別永住者については届け出だけで無条件に日本国籍を認めるべきだと運動をしています。
 かつて一方的に日本国籍を剥奪された人々およびその子孫は現在「特別永住」という在留資格を認められています。一般外国人とは区別された「特別」扱いを受けているのです。それは歴史的経緯から生まれた在留資格なのです。
 これらの人々について遅まきながら国籍を選択する権利を認めるのが民主主義の国家として当然ではないかと主張しているのです。

  在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会   http://members.jcom.home.ne.jp/j-citizenship/

 国籍剥奪の経緯からもこれを妥当だとする国会議員も少なくなく、2001年には与党(自公など)の法案も準備されたほどです。

 僕は二つの団体や学者などは在日コリアンの意見を代表していないと考えます。しかし、日本社会に知られるのはこれらの人の意見だけです。各界各層の在日コリアンはこのことについて積極的に意見を表明すべきです。コリアン大衆の願いと動向をふまえ、日本の国会と政府が自らの社会の課題として解決すべきだと考えます。
 
 世代交代がすすみ在日3世や4世が親になろうという時代です。子どもたちがなぜ何時までも「自分は何人?」と悩まなければならないのでしょうか。
 コリア系日本人(コリアにルーツの一つを持つ日本国民)でなぜ悪いのでしょうか。
 李さんは在日4世だということです。どんな考えから日本国民になったのでしょうか。こどもの人生に関わりを持つすべての人が耳を傾けるべきです。
 
チョジャさんのコメントの最後の部分が気になります。日本国籍をもっているのが「楽な立場」だから言いにくい、とはどういう意味ですか。
 僕は子どもたちのそばにいて子どもたちの気持ちや悩みを比較的理解できる教師という仕事をしてきました。知り得たこと、切実に思うことを誰にであれ、しっかり伝え改善を求めることが人間として当然のこととして運動にかかわってきました。 
 コリアンのなかには「日本人が何を言うか。おまえたちにわかってたまるか」という人がもしかしたらいるかも知れませんが、いたら大いに議論をすればいいのです。幸か不幸か僕はそんな人に出会ったことはありません。 
  

 

李 忠成さんの講演会

2008-11-16 07:47:25 | 在日コリアン
 Jさんからメールがありました。貴重な機会だと思いますので皆さんにも紹介します。19日は癌研有明病院に「経過観察」を受けに行きます。体力・気力が残っていたら僕も聞かせてもらいに行きます。  



 講演会のお知らせです


転送・転載歓迎
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都立小山台高校定時制で、
Jリーグ柏レイソル所属・北京オリンピック日本代表、
李忠成(イ チュンソン、り ただなり)さんをお招きして講演会をおこないま
す。
李忠成さんは都立高校出身で、22歳、在日コリアン4世です。北京オリンピッ
クを期に日本国籍を取得しました。現在柏レイソルで活躍しています。
生徒対象の人権講演会ですが、一般に公開しています。
どのようなお話しを聞くことができるのか楽しみです。



講演       『夢を追い続けて サッカー・オリンピック日本代表 
          李忠成さんに聞く』


講師        李忠成さん
           (柏レイソル所属・北京オリンピック・サッカー日本代
            表)

助言者       尹チョジャ先生
           (東京都大田区立蒲田小学校・地球こども教室担当)

日時        11月19日(水) 
18時40分 開場
             19時00分 開始
             20時00分 終了
         
場所 財団法人小山台会館
          東急目黒線武蔵小山下車 徒歩3分 
          東京都品川区小山4-11-12 
          改札口右を出て、 小山台高校前から左手へ武蔵小杉方面、
          線路に沿って徒歩3分。つきあたりにあるビルです。

                           
申込方法     定時制 大窪副校長まで 電話での申込みのみ   
           03-3714-8155 (13時~22時)
  http://www.koyamadai-h.metro.tokyo.jp/teijisei/jinkenkouenkai1.html
      
都立小山台高校定時制ホームページ        l      
  http://www.koyamadai-h.metro.tokyo.jp/teijisei/index.htm
              

参考記事
              
李忠成選手「もっとも印象に残っている試合とは・・・。オリンピック出場を
決めたサウジアラビア戦は印象深かったですね。負けたらオリンピックには出場
できないというギリギリのところでの出場決定でしたし、あんな経験はなかなか
できないと思うんです。最後の3試合はスタメンで試合に出られたし、自分が予
選 突破を果たした輪の中にいたっていう達成感は人一倍ありましたね。


僕はもともと韓国籍だったんですけど、日本も好きだし韓国も同じくらい好き
でした。韓国代表で試合に出るという夢も考えていましたけど、両親やいろいろ
な人に相談したときに「お前はこれから日本でサッカーしていくんでしょ?」っ
て言われました。僕もKリーグ(韓国のプロリーグ)じゃなくてJリーグでプレー
していきたかったし、日本に帰化するならタイミングは今しかないと感じたんで
す。自分はまだ若いですからいろいろな人からアドバイスをもらって帰化すると
いう決断を下しました(日経トレンデHPより一部抜粋)
http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20080125/1006452/     
                      
  参考図書                                
                  
『忠成 生まれ育った日本のために 日本サッカーは俺たちが引っ張ろう!』
ごま書房   
 
2つの祖国、2つの名前、帰化という選択、サッカーへの飢餓感、情熱、焦燥 …
…。    
綿密な取材をもとに李忠成“チュンソン”の原点に迫るスポーツノンフィクショ
ン!

上尾・丸山公園

2008-11-14 10:26:34 | 川越・近郊
 昨日(13日)は文字どおりの小春日和。近くの寺山というところからサイクリングロードに乗り、上尾の丸山公園に向かいました。
 川越初雁高校の生徒が走ってくるのに出会います。立ち番の生徒に聞くと20kmロードレースであと4kmだといいます。やがて女子生徒に会いました。同じ距離を走るようです。
 暫く行くと三々五々話をしながら歩いているグループが増えてきます。耳にイヤホーンをしている生徒もいます。ゴミ焼却場の前の土手の上にPTAの給水場があります。入間川の対岸の川島側から沈下橋をわたって登ってくる生徒がたむろしています。ねころばっていたり、グループで座り込んで懇談したり…。
  
 ここまで来るとロードレース、マラソン大会という雰囲気ではなく緊張感はありません。「これもまあいいか」。何となく複雑な感想です。
 僕は20kmも走ったことがないのです。教員になったころ、大島高校の校内マラソン大会に出場して二度完走しました。学校から三原山の中腹(?)にある測候所付近で折り返すコースで10kmぐらいでしょうか。最初の年は男子180人くらいの内100番台でゴールしました。マラソン大会のことは今でも何かの時に共通の話題になります。みなそれなりに一生懸命だったからではないでしょうか。だから達成感のようなものもあったのです。でも20kmは無理だったかも知れません。
 今日の少なくない生徒たちにとってマラソン大会はどんな意味を持つのでしょうか。どんな思い出として語られるのでしょうか。昔の「遠足」のようなものかな。こにやんたちのやる「トライ&トライ」のことも思い出します。こにやんだったらどういうだろう?

 丸山公園は秋景色、池の向こうの木々が色づいていい雰囲気です。自転車を押して散歩しながら昼食のため「新道」に向かいました。ここの女将さんは神戸からきたそうで話し好きです。「まぐろカツ」定食を食べながら世相談義をしました。
 「定額給付金」で意見が一致。2兆円も使うなら一生懸命働いても生活が出来ない介護士などの待遇を改善せよ。働く若者が報われ無い現実こそ諸悪の根源。お札をばらまくことは人心を荒廃させるだけだ。
 ここは丸山公園の森をながめる小高い丘の上にあります。忠幸さん、カツヨシさんなどとの清談会の会場に良さそうです。三者の住居からほぼ等距離に位置しています。女将さんは何時間でもゆっくりどうぞ、といってくれました。それぞれがサイクリングがてら来るのもいいし…。

 榎本牧場によって久しぶりにジェラートを堪能し、樋詰橋で荒川を渡って川島経由で帰ってきました。旧・小沢屋を覗いて見ましたが人影はなく、新しい持ち主による事業再開の気配はありません。清談会を始め川越の奥座敷としてここを再び利用できる日は来るのでしょうか。

こにやんが訪問記を職場の皆さんに配布してくれたそうです。恥ずかしいやらうれしいやら。
 それにしても5泊6日の土佐路のたびは豪華でした。人生を自分らしく精一杯生きて居られる先輩、友人が何人も僕らのために時間を割いてくれたのです。ありがたさをかみしめています。

 
 

田母神論文を読む

2008-11-13 05:52:39 | 政治・社会
航空幕僚長というのは航空自衛隊のトップだそうです。今回の論文問題の政治的背景は根深く自衛隊がどういう人々によって占拠されているかをかいま見せたといえます。幹部隊員などの教育も彼らの手で行われているのです。
 「定年退職」で収めていいとはとても思えません。皆さんに時間があったらとりあえず、この懸賞論文「最優秀作」を読んでみませんか。そして彼らの歴史認識の特徴を明らかにし、批判の観点をはっきりさせましょう。いかにばからしい認識でもそれが時の勢いになるとどんなに恐ろしいことになるか、昭和の歴史は教えています。一人一人の透徹した歴史観の確立が大切です。
 
「真の近現代史観」懸賞論文 http://www.apa.co.jp/book_report/index.html

      日本は侵略国家であったのか
             
           田母神俊雄(航空幕僚長)


 アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。

 この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936 年の第2 次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937 年8 月15 日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。

 1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。「マオ( 誰も知らなかった毛沢東)( ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論( 黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力」を磨け( 櫻井よしこ編、文藝春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。日中戦争の開始直前の1937 年7 月7 日の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争( 岩間弘、岩間書店)」。もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。

 我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の1932 年1 月には3 千万人の人口であったが、毎年100 万人以上も人口が増え続け、1945 年の終戦時には5 千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の35 年間で1 千3 百万人の人口が2 千5 百万人と約2 倍に増えている「朝鮮総督府統計年鑑」。日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。

 我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また1924 年には朝鮮に京城帝国大学、1928 年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降9 つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6 番目、台北帝国大学は7 番目に造られた。その後8 番目が1931 年の大阪帝国大学、9 番目が1939 年の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊(ホンサイク)という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校2 6 期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその1 期後輩には金(キン)錫源(ソグォン)大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。日本兵約1 千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金賜勲章を頂いている。もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。1 期後輩で蒋介石の参謀で何応欽(カオウキン)もいる。

 李王朝の最後の殿下である李垠(イウン)殿下も陸軍士官学校の2 9 期の卒業生である。李垠(イウン)殿下は日本に対する人質のような形で1 0 歳の時に日本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠(イウン)殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子(まさこ)妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠(イウン)殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。因みに宮内省はお二人のために1930 年に新居を建設した。現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀(フギ)殿下の弟君である溥(フ)傑(ケツ)殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。

 これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。一方日本は第2 次大戦前から5族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである。第1 次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている。

 時間は遡るが、清国は1900 年の義和団事件の事後処理を迫られ1901 年に我が国を含む11 カ国との間で義和団最終議定書を締結した。その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2 600 名の兵を置いた「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。また1915 年には袁世凱政府との4 ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21 箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4 年後の1919 年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「日本史から見た日本人・昭和編( 渡部昇一、祥社)」。また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。1901 年から置かれることになった北京の日本軍は、36 年後の廬溝橋事件の時でさえ5600 名にしかなっていない「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も変わらない。

 さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し3 百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局( N S A )のホームページに載っている。膨大な文書であるが、月刊正論平成18 年5 月号に青山学院大学の福井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは1940 年から1948 年までの8年間これをモニターしていた。当時ソ連は1 回限りの暗号書を使用していたためアメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、日米戦争の最中である1943 年から解読作業を開始した。そしてなんと37 年もかかって、レーガン政権が出来る直前の1980 年に至って解読作業を終えたというから驚きである。しかし当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し1995 年に機密が解除され一般に公開されることになった。これによれば1933 年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には3 百人のコミンテルンのスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2 の財務次官ハリー・ホワイトであった。ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け、戦闘機100 機からなるフライイングタイガースを派遣するなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ1 ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。

 ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第1 撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。さて日米戦争は避けることが出来たのだろうか。日本がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし一時的に戦争を避けることが出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第2, 第3 の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。

 さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2 百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ。

 一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難である。日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返ってこない。ロシアとの関係でも北方四島は6 0 年以上不法に占拠されたままである。竹島も韓国の実行支配が続いている。

 東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63 年を経てもなお日本人を惑わせている。日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は2 0 年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。

 自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポーで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。

 日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。

 出典http://officematsunaga.livedoor.biz/archives/50734794.html