川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

敬意と弔意

2008-06-30 09:14:03 | 友人たち
昨日は一日雨、元気が出てきたのか電話をして何人かの方と話しました。
 Fくん。学生の頃、新聞部の同期生。青森県十和田市在住。事務局作成の名簿からいつの間にか名前が欠落していたため、近く同窓会をおこなうという連絡が届いていないことに前夜ふと気づいたのです。30年以上前の古い名簿を頼りに探索して、ご本人と連絡が付きました。43年ぶりですが昔の口調が残っていて懐かしく話が出来ました。
 Tさん。東京都の残留孤児指導相談員。6月からI市K市に1日ずつ勤務。その様子をほとばしるように話してくれました。職場の雰囲気もよく、残留孤児とその家族にとってかけがえのない存在になりつつあるようです。幼くして解らなかった父母の苦労が少し見えてきたといっています。孤絶したひとびとの現状は想像以上に厳しいようです。
 真夜中10時からNHK教育TVで博多の孤児たちが祭りにデビュウする様子を見ました。

 今朝、コメント欄でmatsumotoさんの父上の訃報に接しました。

「カツヨシ先生の最後の書込みの日に、父が永眠いたしました。10日ほど、20時~翌朝9時にかけて、簡易ベッドで隣に横たわりながら、ずっと手を握っていましたが、時折、マヒしている手に力が入って、握り返してきました。最期は、家族では私だけが見送りました。」
 
 ぼくにはとても出来ない(想像もつかない)父との別れです。長きに亘る介護、お疲れさま。お陰で父上は安らかに眠りにつくことができたでしょう。
 matsumotoさんに余裕が生まれたら一度ゆっくり父上のお話を聞かせてください。激動の時代を精一杯生きてこられたに違いありません。
 
 その生涯に敬意を表しご冥福を祈ります。

 天候も回復してきたので甲州あたりに連れて行って貰って田舎の空気を吸ってきます。 

「誰が祖国を分けてしまったの」 イムジン河 (3)

2008-06-29 11:05:55 | 韓国・北朝鮮
 在日コリアンの中には日本の植民地支配を強調する余り、朝鮮半島の分断にも日本の責任を云々する人が少なくありません。これに呼応するかのように「イムジン河」を歌って、朝鮮を分けてしまったのは「日本」だと語る日本人・フォークシンガーまで出る始末です。
 日本が帝国主義の時代にロシアと争って朝鮮半島を領有し、45年まで植民地として支配したことは紛れもない事実です。下関の教育長が今敢えてこれを否定しているのは理解できません。

  “植民地支配”は「史実に反す」 下関市教育長が発言
                 2008.6.27 13:32 産経

 山口県下関市の嶋倉剛教育長が、教育補助金の増額の陳情に訪れた山口朝鮮学園の関係者に対し、戦前の日本の朝鮮半島統治について「歴史的事実に反する」と発言していたことが27日、分かった。

 下関市教育委員会や同学園によると、学園関係者は26日、嶋倉教育長に対し「植民地支配により日本に渡航せざるを得なかった朝鮮人子弟が通っていることを踏まえ対応してほしい」と要望。教育長は「植民地支配という部分は歴史的事実に反するので受け入れられない」と述べたという。

 嶋倉教育長は27日、発言内容を認めた上で「教育行政と歴史の話は関係なく、持ち出すのはルール違反だ。日朝併合の部分をどのように表現するかは自由だ」と話した。下関市は歴史的に朝鮮半島と密接な関係があり、韓国・釜山市と姉妹都市関係を結ぶなど現在でもつながりが深い。


 朝鮮統治は「植民地支配ではなかった」といいたいようですが、では何だったのでしょう?
 こういう人がいるからといって、敗戦によって支配権を失った日本に分断の責任まで求めるのは「坊主憎くけりゃ袈裟まで」の妄言という他はありません。
 ぼくが出会ったフォークシンガーは何故このようなことをいうのでしょうか。金丸(自民党副総裁)・田辺(社会党委員長)訪朝団が戦後の分断にも責任があり補償義務があると共同声明を出して帰国し、国民の強い批判を浴びたことがあります。
 これらのひとびとは一見誠実そうに見えるのかも知れませんが、無責任の極みです。

 
 日本の左派はもはや歴史となった朝鮮戦争とみずからの関わりについてきちんと総括すべきです。
 保守派が吉田茂首相を先頭にして「北朝鮮の侵略」ととらえ、マッカーサーの指示に従って再軍備に踏み切ったのに対し、共産党(労働運動などの分野で今よりは遙かに影響力が強かった)は分裂し、主流派は「山村工作隊」などを組織し、非合法の武装闘争に突入しました。東アジアの革命戦争に呼応しようとしたのです。在日コリアンの党員がその先頭に立ちました。
 「祖国解放戦争」が失敗し、北朝鮮が「自主的平和統一」という看板を掲げる(ウラではゲリラ南派など武力統一策動を繰り返す)と今度はそのスローガンをオオム返しに繰り返す。主体性のない(自分の判断が出来ない)追随勢力であったのです。そのために「地上の楽園」に在日コリアンとその日本人妻を送り込み、独裁政権の日本人拉致に気づくことも出来なかったのです。
 ぼくは子供の頃(53年が6年生)ナパーム弾を投下するアメリカ軍の写真などを見てどちらかというと北朝鮮・中国軍に味方していたように思います。北側が始めた戦争などと考えたこともなかったのです。こんな見方は大人になっても結構ながく続きます。
 しかし、北側が始めた戦争であることは今日疑う余地がありません。米軍の介入がなければ地上に韓国は存在しなかったかもしれません。台湾と似たように済州島に亡命政権が出来たのでしょうか。
 当時、日本の国民が結局のところ、親米・吉田政権の単独講和・日米安保条約路線を支持したのはやむを得ないというほかはありません。スターリン・毛沢東・金日成とそれに追随する日本共産党などに日本を含む東アジア全域の支配を許したとしたら堪ったものではありません。
 ぼくは19世紀から続く帝国主義の時代の歴史を深く学ぶことに賛成です。侵略や植民地支配、それらに対する抵抗についてはとくにきちんと学ばなければなりません。それは共に未来を創るためにであって、若者に他民族への憎しみを植え付け、自己の支配を正当化するものであってはなりません。同時に、若者に贖罪意識を植え付け、ありのままの現実を直視する目を曇らせるものであってはなりません。

「誰が祖国を分けてしまったの」 イムジン河 (2)

2008-06-28 20:31:58 | 韓国・北朝鮮
 27日(金) いつもの通り、豊洲の「竹ちゃん」でちらし寿司を食べたあと、時間があったので炭火焼きコーヒー店で一休み。癌研有明病院へ。ここにもコーヒー店が開店したばかりで顔なじみの看護士さんが行列に加わっていました。
 主治医・西尾先生。血液検査の結果、赤血球・白血球などの数値は回復基調で心配はないとのこと。したがって予定どおり7月には4回目の抗ガン剤の点滴をやります。7月12日にぼくも呼びかけ人になっている「教育大新聞会OBG会」があるので入院はそのあとにして貰うことにしました。3回目の点滴から4週間以上経ってしまいますがよかろうとのことでした。これからしばらく自由の身になったような気分です。
 疲れたのか、夕方7時半には就床。今朝もなかなか起きられず、朝ドラは昼の部を見ました。下肢のシビレ(副作用)が続いています。

 さて自問自答です。「誰が祖国を分けてしまったの」

 
 朝鮮戦争を誰が始めたかについてはいろいろな研究・著作があります。次のブログを参照してください。

 http://www.piks.or.tv/book/war.htm
 
 これらのうちぼくが読んだのは和田さん、赤木さん、荻原さん等の著作ですが北朝鮮当局や朝鮮総連から「友人」とみなされている和田さんの本でも、朝鮮戦争を発動したのは金日成とされています。北当局や朝鮮総連、その取り巻きの詭弁を別にすればほぼ勝負はあったというべきでしょう。
 中国革命の成功(49・10・1)に勢いを得た金日成はスターリンを訪ねて説得し、毛沢東の支持をとりつけて50年6月25日「祖国解放戦争」に打って出たのです。済州島の蜂起(48年4月)以来の韓国での反政府闘争を有利な情勢として過大評価したり、米軍の介入をないものとしたもくろみがはずれ、「統一・解放」に失敗したのです。
 
 数百万の民衆を犠牲にしながら、その責任を南朝鮮労働党の指導者などになすりつけて「粛正」し、金王朝の栄華を築き上げていく歴史は皆さんも学んだでしょうか。

 ならばこの国を分断したのは誰か。
 
 日ソ中立条約を破棄し、「満州」や朝鮮半島に攻め入り(45年8月9日)、北部朝鮮を占領したのはスターリンのソ連軍です。彼らはどういうわけか、38度線で踏みとどまり、南部の占領を遅れてきた米軍に任せました。ヤルタの会議などで日本敗戦後の朝鮮半島分割占領が密約されていたものと考えられます。

 北部ではその後、金日成を頭に押し立てながら地主勢力の粛正・追放など社会主義朝鮮の「基地」づくりがソ連軍をバックにすすめられます。実質的にソ連好みの国が作られていったのです。
 南部では米軍の手で共産主義者が弾圧され、やがて李承晩の反共政権が樹立されます。(48年8月15日)

 こうした事態をふまえて「だれが」を考える必要があります。
 
 第二次大戦後の勢力拡大を目指す米(ルーズベルト、トルーマン大統領)ソ(スターリン首相)が深く関わっていることは間違いありません。しかし、様々なひとびとによる分断固定化を許さないとする努力にもかかわらず「北進統一」を唱え続けた李承晩、「南進統一」戦争に踏み切った金日成。これらのひとびとにも重大な責任があるのは事実です。とくに、戦争という最終解決の道を選んだ金日成の責任は免れないとぼくは考えます。

 この歌は北朝鮮の歌だということです。二番の歌詞はもともと次のような意味で「誰が祖国を分けてしまったの」は訳詞者の創作だといいます。


   川向こうの葦原では ヨシキリが悲しく鳴き
   干からびた大地では 草の根を掘るばかり
   協同農地に実った稲穂の 波の上で踊れるのなら
   リムジン河の流れを なぜに耕せん
 
 出典 「リムジン川の本当の歌詞」http://www.han.org/hanboard/c-board.cgi?cmd=one;no=243;id=
 
 社会主義・朝鮮は「千里馬(チョンリマ)」の勢いで躍進し、共同農場の稲は豊かに実っているのに、アメリカ帝国主義の植民地・南朝鮮では食べるものもなくひとびとは草の根を掘っている。そんな意味でしょう。

 「アメリカ帝国主義とその傀儡政権(韓国)のもとで苦しむ南朝鮮人民」を「解放」せんとする人の叙情歌です。訳詞者が何故、こう訳したのかは解りませんが、当時日本では漠然とではあっても「誰」とは「アメリカ」を意識して歌う人が多かったのではないかと思います。

 今でもいい歌だと思っている人がいます。メロディに釣られて歌ってしまうこともあります。しかし、みずからの誤りを問わないで、責任はみな他者になすりつける独裁政権の宣伝歌ともいえます。少なくとも今歌う人にはこの歌の歴史的な意味を考えてほしいとぼくは思います。

「誰が祖国を分けてしまったの」 イムジン河(1)

2008-06-26 21:36:24 | 韓国・北朝鮮
 今朝カレンダーを見て昨日が6月25日だったということに気づきました。1950年のこの日、朝鮮戦争が勃発し朝鮮半島のひとびとを塗炭の苦しみに追いやったばかりでなく、第二次大戦後の日本の社会をも大きく揺さぶることになりました。
 日本共産党は国際共産党(コミンテルン)に呼応して武装闘争に走り、多くの若者がその渦に巻き込まれて深く傷つきました。プサンにまで赤旗が立つと怯えた支配層は警察予備隊・保安隊・自衛隊と急速に再軍備をすすめ、非戦非武装の憲法秩序が空洞化します。戦後史の曲がり角をもたらした大事件です。
 あれから58年が経ったことになりますが、昨日の新聞で一つだけ関連記事を見つけました。

 「朝鮮戦争 引き起こした国は? 正解率5割切る                             韓国の中高校生を調査」(産経)


 【ソウル=黒田勝弘】韓国の中学、高校生の半分以上は朝鮮戦争(1950~53年)が北朝鮮によって引き起こされたことを知らず、また韓国にとって安全保障上、北朝鮮より米国や日本が脅威と考えていることが明らかになった。

 これは韓国の行政安全省が朝鮮戦争58周年の25日を前に、全国の中高校生1016人を対象に行った意識調査で分かった。この結果について韓国の新聞は、過去10年の親北政権下で対北融和政策が進められたことや、学校教育で親北・左翼系の労組「全教組」の影響が広がったことなどを背景として指摘している。

 調査によると「朝鮮戦争を引き起こした国」として北朝鮮を挙げた正しい回答は48.7%に過ぎず、次いで、誤った答えとして日本13.5%、米国13.4%、ロシア10.9%などとなっている。「日本」が多いのはマスコミや教育などで依然、「侵略国家」のイメージが強調されているためとみられる。

 韓国の安保にとって最も脅威になっている国としては米国28.4%、日本27.7%、北朝鮮24.5%、中国13.0%の順になっている。また安保上、最も協力すべき相手では、米国34.6%が最も多く、次いで北朝鮮22.3%、中国17.7%で日本の14.8%を上回っている。
 
 
 韓国ではずうっと正解は一つ。国家保安法で北朝鮮の労働党と政府を敵と定め徹底的な反共教育を行ってきました。しかし、冷戦の崩壊と共に韓ロ・韓中の国交を樹立し、金・廬の親北政権が続くうちに様子が変わってきたのです。
 中国の「愛国主義教育」については先に書きましたが、韓国では「ウリ民族主義」が社会を席巻し、これらのひとびとにとって主敵が米国や日本になったのでしょう。
 休戦から55年、いくら戦争を知らない子供たちの回答だとはいえ、「日本」は間違いです。誤った歴史認識はただして貰わなければなりませんが、困難で厄介な課題です。
 
 日本ではもともと正解が幾つもあります。北朝鮮、ソ連、中国、韓国、米国等。冷戦崩壊後、「北朝鮮」派が優勢ですが、「韓・米」派が自己批判したとは聞いたことがありません。正解を留保して「勃発」などとごまかしている人や韓国の中高生のように「日本」という人がいないとは限りません。あなたは何派ですか?
 
 話はやや違いますが、03年に埼玉県のあるフォークシンガーが「イムジン河」という歌を歌い、「祖国を分けてしまった」のは「日本」だと語るのを聞いて仰天したことがあります。
 ぼくが知っているのはこんな歌ですがご存じですか。


  「イムジン河」

        朴世永原詩・松山猛訳詞・高宗漢作曲

イムジン河 水清く とうとうと流る
水鳥 自由にむらがり 飛び交うよ
我が祖国 南の地 想いははるか
イムジン河 水清く とうとうと流る

北の大地から 南の空へ
飛び行く鳥よ 自由の使者よ
誰が祖国を 二つに分けてしまったの
誰が祖国を 分けてしまったの

イムジン河 空遠く 虹よかかっておくれ
河よ 想いを伝えておくれ
ふるさとを いつまでも忘れはしない
イムジン河 水清く とうとうと流る

 出典 メロディーも http://www.fukuchan.ac/music/j-folk1/imujingawa.html
 
 ①「大東亜戦争」(アジア太平洋戦争)に日本が敗北する過程で日本の植民地であった朝鮮半島が米ソ両国によって分割占領されたこと ②48年に「韓国」「朝鮮」という二つの国家が樹立されたこと ③朝鮮戦争の結果、分断が固定され今日に至っていること。これらの事実について争いはありません。

 だとしたら「誰」とはだれ?

 ちょっとえらそうに質問してごめんなさい。この歌を歌ったり聞いたりしたことがある方にお聞きします。あなたは「誰」だとおもってきましたか?

 ぼくの答えは他日にさせてください。

 北朝鮮の「核申告」があり、米政府が「テロ支援国家」指定を解除する手続きに入ったというニュースが流れています。
 
 




小沢屋廃業

2008-06-25 21:37:35 | 出会いの旅
 24日(火)昼前、久しぶりの好天に釣られて北山田の土手までサイクリング。歩くのは無理でも自転車なら大丈夫です。青々とし始めた一面の水田を眺望する桜堤に仰向けに寝て休みます。
 昼食はウナギにしようと落合橋を渡って、川島の小沢屋に行って見ると大変なことになっていました。
 営業をしている風情がないのです。のれんも出ていません。不審に思って玄関に入り声をかけてみました。ややあって女将さんが出て来られ、「廃業」を告げられました。ほんとうにびっくり!。
 ご主人を亡くされたあと息子さんが調理を引き継ぎ、頑張ってこられたのですが歳には勝てないと言うのです。伝統あるこの家も処分し、女将さんはマンション住まいになるようです。

 小沢屋は江戸時代から越辺川(おっぺがわ)と入間川が落ち合う川島町伊草の渡し場で船宿(?)などをしていたのがいつの頃からか川魚料理の店になります。戦前には島崎藤村がたびたび川遊びに来ていたことが写真や色紙から解ります。
 ぼくがここを初めて訪れたのは1966年か67年です。大島高校に就職した年に川越女子高校を学校訪問させて貰ったとき、大学時代の友人たちや先輩が連れてきてくれたのです。図らずも69年からは川越に住むようになり、折に触れて世話になるようになります。
 安くておいしいばかりでなく、時間を気にせずゆっくり過ごすことが出来ます。高知の両親はもとより、川越を訪ねてくれた知友を案内してきました。我が家では「川越の奥座敷」とよんでいます。
 この2月に佐藤勝巳さんをお呼びして「六十路の会」を開いたのが最後になりました。戦後補償を求めて闘った陳さんの奥さんの人生を語っていただいたこともあります。
 小沢屋さんの3代にわたるひとたちに世話になったことになります。なくなるとは考えたことがないので私たちはさしあたって困ります。小沢屋にかわる座敷を近隣に見つけられるとは思えないのです。

 京都からここに嫁いでいつも笑顔で迎えてくれた女将さんに感謝の言葉を伝えて帰途につきました。

 この日、土本典昭さんの訃報がありました。70年代、土本さんが制作した映画『水俣ー患者さんとその世界』を繰り返し繰り返し、授業で上映させて貰いました。川本輝夫さんを偲ぶ集いが東京であったとき、お話を聞いたのが最後になりました。

 追悼新聞記事
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080625-00000248-mailo-l43

大島の樹木葬墓園

2008-06-24 09:44:41 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)
 日曜日早朝6日ぶりに外出、80mくらいの所にあるコンビニで「産経」を買ってきました。宅配の新聞を読むのをやめていらい、たまに買うとすれば「東京」か「産経」です。100円で買えるということと主張が比較的はっきりしているためです。あとの新聞は温泉に行ったとき等にロビーで読みます。130円出して電車の中で読むとたいてい後悔します。中身がないのです。スポーツ新聞は買いません。でも先日の西武球場での阪神戦の出ている「デイリースポーツ」は入院途次の駅で買い熟読しました。今も大切にとってあります。

 さてその『産経』にこんな記事が載っていました。
 
 『樹木葬、静かな人気 好きな木の下で安眠』

 読んでいくと伊豆大島にも樹木葬専用の墓園「千の風 みらい園」があるとあります。さっそくHPを開いてみました。


 
 
■「樹木葬」とは?

樹木葬は、現地に自生する苗木や花を植えた里山を区画し、そこにお骨を埋葬する葬法です。
大きな墓石を設置せず、墓碑として樹木を植裁するため、外観は自然の里山とほぼ変わりません。

■千の風みらい園の樹木葬の特長

高額な墓石を使用せず、樹木や花を植えて墓碑とする葬法「樹木葬」専用墓地です。
芝生地に埋葬する芝生葬型もあります。
子孫や家族に没後の面倒を掛けたくない、お墓の継承者がいない、
質素なお墓を望まれる方などが、多く選択されています。
やがて植裁した木々が育ち、墓地全体が里山として保全されますので
環境保護、里山保全の観点からも注目されています。
法事、法要は通常と同じように行うことができます。

樹木の他に小さなネームプレートを置きます。
子孫や家族に没後の面倒を掛けたくない、お墓の継承者がいない、
質素なお墓を望まれる方が、多く選択しています。
ペットと一緒に眠れる樹木葬区画もあります。

■樹木葬 埋葬のしかた

埋葬にはカロート(納骨室)を設置せず、1m程度掘り下げた土中にご遺骨をそのまま埋葬します。

埋葬した墓碑として、現地で自生できる樹木を植えます。大島桜、もみじ、サルスベリ、ハナミズキなどがありますが、ご自宅で育てられた樹木をお持ち頂くことも可能です。木々は毎年育ち、種類によっては花をつけますので、墓参の度に樹木の成長を楽しんで頂くことができます。

樹木だけでなく、眠っている方の名前などを残したい場合、ご遺骨を埋葬した場所の上に、お名前を彫ったプレートを置くことができます(プレートの料金は含まれています)。

 みらい園
 http://www.miraien.jp/
 
 
  
 ぼくは墓は要らない、骨はなるべく小さくくだいて故郷・室戸岬の生家の裏山にまき、そこにヤマモモを植えてもらえたらと思ってきました。墓石は重くていや。土に還ったら大地の一構成要素となって大好きなヤマモモのささやかな栄養素になれるかも知れない。墓標は要らない。懐かしんでくれる人がいたらその人の記憶の中にいるだけで嬉しい。
 というわけで田舎に帰ったとき裏山を探索してみたのですが、我が家のもと墓地があったあたりも今は藪となってとても近づけません。結局、姉兄の許可を得て父母や弟の家族墓の敷地の角に散骨し、そこにヤマモモを植えてもらうしかないのか等と妻に話していたのです。海の見える山の一角で景色はいいのですがちょっと狭すぎます。

 大島のみらい園の情報を得て、こういうのが現実的かも知れないと思います。里山的といっても墓地公園には違いないので違和感は残るのですが。大島はぼくの第2の故郷です。このみらい園は結婚当初妻も住んだことのある教員住宅から近いところにあります。妻も賛成してくれるかも知れません。今度大島を訪ねたとき寄ってみようかと思います。

 先日、訪ねてくださったOさんがメールを送ってくれました。

 こんにちは。
はじめてブログという画面を拝見しました。
 お見舞いに伺って、かえって私の方が慰められる程、私の話をしっかり
聞いてくださり、気づかないうちに長居してしまいました。
 私がお話した以上に晃和丸についても調べられ、心のこもった文章であらわし
てくださり、心から感謝を申し上げます。

 私は、先生が病に打ち勝って、ご健康をとりもとすことを祈念しております。
お見舞いに行く前は、相当苦しんでおられるだろうと思いましたが、
先生のお顔を拝見し、また、闘病の経過をお聞きして、先生はきっと健康に
なられると思いました。
 倫子さんをはじめ、ご家族のみなさまの力強い支えによってご健康が快復
されることを、心からお祈りいたします。
 
 
 お墓のことを書いたからといって生きる気力を失ったわけではありません。安心して大地に還る日が迎えられるよう、これからも精一杯生きて友人達と共に人生を楽しみたいと思っています。
 それにしても遠慮会釈なく掛かってくる墓園の販売業者の電話には閉口します。蓬莱の島をこの数十年で墓石で満たしてしまってもまだ恥じない元凶の恐喝です。
 寺院がこれらと結びついているのですから堪ったものではありません。僕らが自分の生き方に照らして葬送や埋葬のあり方をしっかりと考えることが結局のところ大事だということです。
 






 


川辺川からの贈り物

2008-06-23 17:56:59 | 友人たち
 昨日は娘の誕生日だというので、人吉の賀明さんが送ってくれた鮎を塩焼きにしていただきました。ぼくの味覚もスッカリ回復したのか、一年ぶりに川辺川の幸を堪能させて貰いました。
 三人で会食中に電話を入れて、ご夫妻に感謝と喜びを伝えました。このところ人吉は豪雨に見舞われ、下流の村の人たちは避難を余儀なくされているそうです。ですから、釣りどころではありません。さすがの釣師もしばらくは川の様子の観察に終始するのでしょう。
 賀明さんのブログを開いてみます。
 
 川辺川鮎日誌 http://blog.goo.ne.jp/fsfc-gamei/d/20060602

 我が家に鮎が届いたのはぼくが入院中の13日のことですから、解禁直後の貴重な釣果をおくってくれたのです。ありがたいことです。

 ぼくはかつて2度ほど人吉を訪ね、川沿いの宿に泊まったことがありますが川辺川を合流させた球磨川の流れは真夏の日照りの時でも恐ろしいほどの勢いだったように記憶しています。今頃はどうなっているのでしょうか。

 娘に川辺川について尋ねてみましたがほとんどイメージ出来ないようです。皆さんはいかがですか。関東の八ッ場(やんば)ダム(群馬・吾妻川)と共にその建設が大問題になっているのが川辺川ダムです。
 <尺鮎の住む日本一の清流、あの「五木の子守歌」の里を流れる>。これで娘は少し想像のヒントを得たようです。尺鮎は昨年、賀明さんに堪能させて貰ったばかり。北上川の釣り名人だった隣のおじさんでさえ近頃見たことがないといいます。大自然教の信徒としては今や「ムダ」と判定が出たこのダム造りをなんとしても中止してほしいと願っています。
 ぼくは何が出来るというわけではないのにこの川を見たいために99年夏、妻に頼んで人吉から五木・五家荘・樅木(源流に近い)と連れて行って貰ったのです。このとき正調五木の子守歌というものも初めて知りました。ますます愛おしくなりました。
 賀明さんはダム本体の予定地・相良村の出身です。この川に育てられた河童のようなものです。ダムによって川が殺されることは命の危機を意味すると思われているのではないでしょうか。

 川辺川を命の川と思う人々のHPです。

 http://kawabegawa.jp/

片桐正一さん

2008-06-20 16:25:00 | 友人たち
 北海道池田町の片桐さんから連絡があり、10月18・19日の川越祭りの頃、来てくださるとのことです。片桐さんにお世話になった始まりは1962年のことですから半世紀近く付き合っていただいたことになります。
 池田町は十勝平野のど真ん中、利別川が十勝川に合流するあたりにあります。学生時代に世話になったのを思い出して1973年から3年間毎夏、池袋商業高校の生徒達と大森という地区の農家に泊めて貰って農村の生活を体験したのです。その世話をしてくださったのが当時は商工課長をされていた片桐さんです。生まれて半年の息子も連れての旅で我が家の家族一同も片桐ご夫妻を始め池田のみなさんの世話になったのです。

 大森地区 池北線高島駅と勇足駅の中間の利別川の畔です。
 http://www16.plala.or.jp/Liberalism8/tokatikannai%206.html

 78年には同じ十勝の広尾にある三親牧場に世話になりました。こうした体験が子どもたちの成育にどんな影響を与えたのかよくは解りませんが、ぼくにとっては大きな意味を持ちました。農村に兄貴分の友達を持つことが出来たのです。何がどうというわけではありませんが東京の友人達とはまた違った交流があって心強いのです。娘が帯広の地で大学生活を送ることになったのも何かの縁でしょう。
 池田町は丸谷金保町長の下、その後「十勝ワイン」のまちとして有名になり、片桐さんは教育長として尽力されました。今で言う村おこしの先駆けだったのです。

 丸谷金保さんhttp://blog.hokkaido-np.co.jp/ikeda/2007/10/post_91.html

 ぼくは自分の人生を振り返るとき、片桐さんという方の存在の大きさを感じずにはおれません。かつて世話をしたことがあるとはいえ、公安から「過激派」という情報がもたらされていたというぼくの願いをいともあっさり受けとめてくれ、「東京の高校生の農村生活体験」を町の事業としてくれたのです。ぼくはこの体験から生徒たちに「人にはすすんで世話になれ」と話すようになりました。自分が自分になろうとする過程で「世話になった」体験は人生の宝です。人間に対する信頼と感謝の心を知らず知らずのうちに育てるのです。
 02年にぼくが退職して大森に伺ったとき、片桐さんも来てくださって祝杯をあげてくれました。今回はいとこ会を箱根でやったあと川越を訪ねてくださるということです。ありがたく嬉しい報せです。

近況報告

2008-06-19 14:10:16 | 父・家族・自分
12日に入院し、13日に抗ガン剤の点滴、16日に退院。15日から副作用が症状に現れるようになり、退院後も寝てばかりです。昨日から食欲が少し回復、パソコンに向かう意欲も出てきました。白血球の減少などの症状はこれからなお進行しますが気分は日一日と良くなっていくはずです。
 ブログの更新が出来ない間も毎日,多くの方がアクセスしていただいてありがとうございます。熊本県川辺川の釣師・賀明さんからは今年もたくさんの鮎が届きました。今しばらくして味覚が回復した頃、御馳走になります。感謝の限りです。
 栗駒山山麓付近の地震の時には癌研有明病院もかなり揺れました。宮城県の北部はぼくにとっては未知の地ですが美しいブナ林があるということで一度は訪ねてみたいところでした。震災に遭われた方々の再起を祈るばかりです。
 
 栗駒山http://page.freett.com/maru51/2006b/265/265.html
 

 追悼・駒ノ湯温泉 犠牲になった方にはこんな人も居られました。
http://kageri.air-nifty.com/seoul/2008/06/post_f9fa.html

阪神の勝利に酔う 西武球場

2008-06-12 08:50:19 | 出会いの旅
 西武創立30周年と言いますから西武球場で野球を見るのは30年ぶり2回目です。小さい子どもたちと出来たばかりの球場にいったのを記憶しています。近鉄戦です。当時はドームではなく、緑の豊かな光のあふれる球場でした。
 今回はナイターです。ぼくは3塁側内野席。内野も外野も見晴るかすタイガースのファンで埋め尽くされています。一年に一回、誰もがこの日を待っていたのでしょう。ぼくの隣は年輩のご夫婦、奥さんがあめ玉をくれました。ぼくと同じように子供の時から阪神を応援してきたのでしょうか。
 代打檜山の三塁打で西武の追撃を振り払い、ウィリアムス、藤川の完璧な投手リレーでタイガースの快勝。檜山の長打の時にはぼくも若い人並みに興奮してその健闘をたたえました。
 好機に金本死球。アニキを気遣う大きなどよめきが球場を覆います。大好きな金本と同じ所にいるっていう実感、いいものですね。

 タイガースの選手とファンの交感に快い疲れを感じてうちに着いたのは真夜中近くでした。

 今日、これから3回目の入院です。抗ガン剤の点滴を受け数日、病院で様子を見ます。グッドタイミング。よい一日をくれたものです。
 
 いつも「川越だより」を覗いてくださる皆さんありがとうございます。今回の入院は短い予定ですのでパソコンの準備はしません。3,4日休みます。また来週、よろしくお願いします。



    強い阪神 もう、どうにも止まらない!
          スポーツニッポン - 2008/6/12 7:01

2回1死、右越えソロを放ったフォードを迎える阪神ナイン 【阪神6―4西武】勢いが違った。今の阪神に怖いものなど何もない。セ・パ首位決戦も何のその。獅子を一息にのみ込んだ。今交流戦西武相手に3連勝。両リーグ最速の40勝に到達した。

 「40勝?そんなこといちいち考えていない。これで終わりじゃないからな」。岡田監督のコメントは控えめだが、表情は明るい。

 アニキのバットが苦手左腕を“KO”した。3点リードで迎えた3回2死一塁。フルカウントからの速球を強振した打球は石井一の左足首を直撃する内野安打。昨年の対戦成績は17打数1安打。チームとしても通算11勝28敗だった左腕をマウンドから引きずり降ろした。最大で4点のリードが、7回には1点差に迫られたが8回には、代打・桧山が値千金の適時三塁打。貴重な1点をもたらした。先頭の代打・葛城が右前打で出塁し、矢野がきっちり送って1死二塁。「葛城が打って、すんなりと矢野さんが送ってくれた。自分は強い打球でヒットを打てれば」。大沼の初球は外角へストレート。迷いなくバットを差し出すと、右中間への打球は浅く守る外野の頭を楽々越えた。

 8回の代打攻勢。初回2死一、二塁から今季2度目の先発出場となった高橋光が左越えの先制2点二塁打。岡田采配もずばりはまった。主役から脇役まで、西武の強力打線のお株を奪って13安打。チームは今季初の6連勝で2位・中日には今季最大8・5ゲーム差をつけ、交流戦の単独首位にも浮上した。

 「連勝も伸びた?投手が抑えてるからやろ。そんなに点を取られてないやろ」と指揮官。60試合消化までに40勝到達は過去、セ・リーグで10チームあるがすべてリーグ優勝を果たしている。V率100%。阪神の勢いは誰にも止められない。

 ≪5投手で16K≫阪神投手陣も、西武打線から計16三振を奪った。先発・上園は初回無死満塁のピンチを3者連続三振で切り抜けると、4回まで自己最多タイの9奪三振。6回から登板した2番手・渡辺は3三振。さらに4番手・ウィリアムスが1三振を加え、最終回は藤川が三者三振で締めた。「連続三振?他のアウトの取り方を忘れてしまいました」。チームの6連勝中、1勝5セーブの守護神はジョークまじりに振り返った。



故国の洋上に父を訪ねる旅

2008-06-11 13:33:42 | 友人たち
 連日の散歩で疲れたのか、好天にもかかわらず、昨日は一日ごろごろしていました。3時過ぎに東京・荒川のOさんが様子を見に来てくれました。
 Oさんは1945年4月13日に日本統治下の済州島に生まれた在日コリアンで私たちとの交友はもう30年近くに及びます。現在は「在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会」の副会長です。19歳の時来日して以来40年余り、済州島での青年時代の進取の精神を失わず、まさにこの「地の塩」であり続けてきた人です。地域の子どもたちの自立を支援する子供会を夫人や友人と共に運営してきました。今は3人のお子さんもそれぞれに自分の道を歩み、Oさんは主夫の役割を果たしながらボランティア三昧の日々です。
 
 この5月に韓国・木浦(もっぽ)沖に父上の慰霊の旅をした話を聞きました。

 Oさんの家族は戦前から東京に住んでいたのですが45年3月10日の大空襲を
契機に故郷済州島に引き揚げたのです。お母さんのおなかにはOさんが宿っていました。4月、男の子の誕生に大喜びした父上は日本から送った荷物をとりに木浦に向かう定期航路に乗ったということです。待っていればいずれ届くのに、念願の長男の誕生がよっぽど嬉しかったらしいのです。荷物の中に何か大切なものがあったのでしょうか。
 この船が米軍機の攻撃を受け、多くの死傷者を出しました。Oさんのお父さんも残念ながら命を失います。泳げなかったためと言います。

 当時のことを調べた人の記事があります。

  ○1945年5月7日月曜日、運命の朝を迎えました。
 ○当時、済州と木浦の間には、連絡船として晃和丸一つしかありませんでした。
 ○日本軍の疎開令によって、はじめて出航する船でした。
 ○定員は350名でしたが、その二倍の750名余りの人が乗りました。
 ○午前七時済州港を出航。楸子島入港直前、午前十時から十時半の間に、米   軍戦闘機の第一回空襲。この時は人命の被害はありませんでした。
 ○楸子島出港後、午後一時ごろフェンガン島を通り抜ける時、米軍機の爆撃。
 ○撃沈されて四、五日後、数えきれないほどの死体が浮かんでいました。

 ○乗船人数700~750人
 ○生存人数150~180人
 ○死亡人数520~600人

  出典 真実を知りたい   http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/2008/02/index.html


 「疎開令」に関してはこのブログを読んでもつじつまが合わないのですが、沖縄戦に続いて済州島が戦場になると考えた軍部が足手まといになる住民を「陸地」に移住させようとしたのでしょうか。

 生まれた直後に父を失い、13歳にしてお母さんにも死別したOさんはお姉さん達の世話になりながら成人し、やがて日本で平和な家庭を築くことになります。その人生はドラマそのものです。還暦を迎えた頃父の遭難の海を訪ねたいと思ったのは何となくわかるような気がします。

 成田から仁川に飛び、バスを乗り継いで完島に一泊し、翌朝早くフェリーで楸子島にわたり、釣り船をチャーターして晃和丸沈没海上に向かったと言います。この日の海はまれに見る凪で乗船をかたくなに拒否していた夫人も行を共にすることが出来ました。Oさんはどんなにか嬉しかったことでしょう。人生を共にしてきた最愛の人をお父さんに会わせる(?)ことができたのですから。偶然のことに船長の祖父に当たる方も遭難者の一人で慰霊の機会に恵まれたことを感謝されたそうです。63年前のお父さんの命日に当たる日でした。

 妻の言葉。「Oさんはいつにも増して元気で明るい顔をしていました。何かが吹っ切れたのでしょう」。Oさんは来春、済州島に住むお姉さん達を父の眠る海に案内するつもりです。何年か前、友人達とOさんの故郷を訪ねた際、お会いすることが出来たお姉さん達の姿が懐かしく思い出されます。 

 楸子島は小さな島ですがインドネシア等からきた500人の外国人青年が漁業を支えているそうです。

 病院からのお呼びが掛からないので今日は西武球場に「阪神・西武戦」を見に行くことにしました。 
 

『コンパッションー悲』

2008-06-10 04:54:45 | 中国
 信州から爽やかな風が吹いてきました。篠ノ井の長谷寺の住職さんが中心になって編集発行した冊子の紹介文が飛び込んできたのです。ぼくはさっそく電話をかけて5冊注文しました。
 住職の岡沢さんが書かれた文章があります。詩というより他はない心にしみる文です。どうぞ、ゆっくり読んでみてください。



 僕が呼びかけ人の1人である「チベット《問題》を考える真言宗智山派有志の会」では、チベットの歴史や仏教の概略、チベット問題の経緯やその現状と今後について、「まず知る」を目的とした小冊子『コンパッション-悲-』を企画発行いたしました。

 問題の本質は何なのか、私たち僧侶はこれをどう考え、どう対応していけばいいのか。「悲(コンパッション)」をキーワードとして、チベット問題から見えてくる諸問題に対する私たち僧侶のアプローチのあり方を提案します。

本宗のお坊様には、各地区青年会の勉強会などにぜひご活用ください。

宗派外の方でも、もちろんお坊さんでなくても、OKです。



● 頒布価格  1部500円(送料別)

● 申し込み方法  下記までお申し込みください。

● 申し込み先 〒388-8014長野市篠ノ井塩崎878 長谷寺内

チベット《問題》を考える真言宗智山派青年僧侶有志の会 呼びかけ人 岡澤慶澄

電話026-292-2102
    ◇
    
 Compassion‐悲‐


今、チベットから風が吹いている。

強い風だ。

チョモランマから吹く風だろうか。

チョモランマというチベット語は《大地の母》という意であるから、

母なる風であろうか。

しかしこの風が母なる風であるなら、

まるで行方知らずになった愛しい我が子を探し求める母の声のようである。

それは、あまりに悲痛な呼び声である。



この風が吹く時、チベットでは人々が泣いている。

この風が強く吹けば人々が傷つけられている。

もっと強く吹く時には、人々が殺されている。

しかし、この風には嘆きや悲しみの声だけではなく、

よく耳を澄ませば祈りの声、自由への歌、マントラ、

そして命をかけた叫びが微かに鳴っているのが聞こえるだろう。



コンパッション。

サンスクリット語でカルナー。

我々はこれを悲と呼ぶ。

その意味は、

同悲同苦、

憐れみ、

愛、

近頃では共感共苦、

種字では「キャ」、

すなわち観世音菩薩の本性に他ならない。

世の苦しみ(煩悩)の音を観るのが、

共感共苦、

悲であり、

コンパッションである。

あなたにチベットから吹く微かな風の歌が聞こえるなら、

あなたのうちなる観音性、コンパッション-悲-は生きている。

あなたに、

あの風の歌が聞こえないなら、

あなたの観音性は何処かへ亡命しているであろう。

しかし、死んではいない。

ずっとあなたに呼びかけている。

あなたの観音性を念じている。

その呼び声に応えるなら、

亡命していた悲は帰り来たり、

観世音菩薩は現れるであろう。



我々はチベットに吹く風に

再び子供らの笑い声と

僧侶たちの祈りの声が響き渡る日が来ることを信じている。

大地の母なるチョモランマから吹く風が、

我が子を深く抱きとめる子守唄のような風の歌を歌う日が来ることを信じている。



そのために、

今チベットから吹いている悲しみの風を大悲の帆に受けとめて、

日本仏教という船は苦海に漕ぎ出さなくてはならない。

目の前に広がるのはまるで暴流のごとき大海であろうが、

コンパッションを海図に進むなら、

荒れ狂う海に沈みそうなチベットの友を引き乗せることもできるし、

海図を失っている中国の友と船底を分かち合うことも出来るし、

いつの日にか

曼荼羅世界という彼岸へと渡っていくことさえ可能であると信じている。

この荒海を漕ぎ渡る筏こそ、

観世音菩薩の船、

コンパッション-悲-である。



上の文は、この小冊子『コンパッション-悲-』の巻頭言として書かせていただいたものです。

僕なりに、チベットから今世界に吹いている風を感じてのものでした。

皆さんも、それぞれの肌で感じているチベットの風があると思います。

いま、僕ら僧侶は、仏教という凄い船を持っているのに、帆が風を受けとめられず前に進まずに時代の大海にただ浮かんでいるような気がします。

でも、今チベットから吹いている風を帆に受ければ、僕らの船は再び大航海に船出できるのではないかと思うのです。

帆を揚げよ、そして風を受けて進め、ですね。




この小冊子は、チベット問題への関心の裾野を広げることを第一の目的としています。

ですから、決して難しい内容ではありません。

でも、だからといって、レベルが低いわけでは決してないと思います。

タイトルが共感共苦を示すコンパッション(悲=慈悲)ですから、今チベット人が感じている悲しみや苦しみを分かち合いたい、そこから始まるものがあるのではないか。

あるいは、仏教徒としてのアプローチとはどんなものであろうか、というものです。

その意味では、今の今までチベットについて無関心だったけど、どんなものなのか概略を知りたいと思う方には、おすすめです。

それに、入門編から専門編まで、幅広い著作や映画、ウェブサイトなどの紹介コーナーもあります。

もちろん、専門家によってまとめられたものなんですよ!



この企画から発行までに要した時間はなんと10日間でした。

僕らの宗派の青年会長様との対話からアイディアが生まれ、それに仏画師の牧宥恵先生の進言が加わって「形あるものにまとめよう」と企画の原型が生まれたのが5月2日。

聖火リレーからわずか1週間のことでした。

その間に、原稿依頼(2日、または3日)、原稿最終締め切り(8日)、構成編集(9日)、校正(9、10日)、出力製版・印刷・製本(12日)、そして納入が5月13日でありました。

ということは、執筆協力いただいた皆様は依頼当日から締め切りまでほぼ1週間で書き上げてくださったことになります。

これは大変なことであります。皆さん、本当に本当に有り難うございました。

しかもしかも、原稿が届き始めたのは、4日からでしたが、6日頃から本格的に編集をしてくださったデザイナーさんは他の仕事の合間に進めてくださり、最後は徹夜続きで仕上げてくださいました。感激しました。長野を代表する女性天才デザイナーのAさん、そして編集者のMさん、有り難うございました。



というわけで、ぜひ皆さんお読みください。

よろしくお願いします。

出典 長谷寺 http://www.hasedera.net/blog/2008/05/post_60.html



土手まで歩く  近況報告

2008-06-09 10:51:27 | 父・家族・自分
 昨日は昼食がてら妻と散歩に出かけました。
 紫陽花の咲き誇る山田の八幡宮に参拝。江戸時代にはこのあたり10か村の鎮守だった社は現在修理中です。屋根は銅板で葺きかえられ、彫刻の飾りも新しいものがはめ込まれています。今の時代にこのような大改修が行われると言うことは地域が活力を維持しているからでしょう。川越北部の農村部ですが都市化もすすんでいます。
 参道の脇にヤマモモの木があり、緑の実が可成り大きくなっています。
ヤマモモは高知県の県の花です。梅雨時になると赤黒く熟した実を売りに来ます。朝早く採った実をその日のうちに食べなければ直ぐに饐(す)えてしまいます。ぼくはこのヤマモモが大好きでした。川越でも実がなることがわかりましたが、今のところいい苗木に出会えません。
 
 ヤマモモ

 http://www.chiikibun.com/hanagoyomi/yamamomo.html
 

 広い田圃の中を道草を食いながら歩いていきます。田植えが終わったばかりの水田が続きます。ところどころ畑になっていて、農家の自家菜園になっています。ヒバリが声を張り上げながら大空に舞い上がっていきます。その一部始終をながめました。
 妻の話。昔、ヒバリはお日様に金を貸したが、どういうわけか返してくれない。そこで思い出すたびにお日様に向かって借金返せと飛んでいくのだが、力つきて果たせないのだという。
 入間川の土手にたどり着きます。川風が心地よく仰向けになると眠ってしまいそうです。ここは桜堤になっていて、子供を連れた若い夫婦が幾組も遊びに来ています。父親がザリガニ取りを指南しているのでしょうか。水路のあたりに子供が群れています。

  北山田 桜堤ポプラ
 http://www.koedo.or.jp/0_japanese/photolibrary/shizen/natsu/index19.html

 土手からの眺めはなかなかのものです。水を張った緑の田圃の広がりの果てに川越の市街が見えます。
 帰りはバスにしようと城西川越高校の構内を通って停留所へ。定刻までに時間があるので歩くことにする。今度は国道254の西側の福田という村の道を南に。子どもたちが小さい頃自転車に載せてよくきたところ。今、川越北部循環道路という4車線の道路工事が進められている。山田中学校近くに来ると疲れが出てきたが何とか3時すぎに帰宅。
 
 昼食や休憩を含めて3時間半。とろとろとはいえ、よく歩いたものです。
 
 抗ガン剤の点滴から3週間が過ぎて体力がだいぶ回復した証拠です。寝てばかりの生活から、歩く時間がだいぶ増えてきました。(ぼくの歩調に会わせるので妻は疲れます。)
 そろそろ3回目の点滴を行うための入院呼び出しの電話が掛かってくるはずです。とりあえずあと2回、入院・点滴を繰り返せば一段落です。
 体力の落ちている夏は大島で過ごせとK君夫妻が言ってくれます。好意に甘えるつもりです。秋には元通り元気になって何をするのかな?
 
 

we are the world の心

2008-06-08 05:57:01 | 政治・社会
 先日「U2とアフリカ」のところで、ぼくがこの20年来、「we are the world のこころ」と題する授業をしてきたと書きました。都立北高校に勤めていたとき、残留孤児2世のT君がVTRをもってきてこれを見ようと提案してくれたのがきっかけです。ぼくが知る限り、誰の心にも感動を引き起こす歌です。歌詞の意味を理解して聞くと思いは更に深まります。ぼくは次の歌詞の意味を考えることを課題としました。
  
   We're saving our own lives それは自分の命を救うことなんだ


 次の青い文字の部分をクリックしてみてください。映像と歌声がながれてきます。http://jp.youtube.com/watch?v=ezzxDk_vvXA
  

We Are The World- Micheal Jackson & More

There comes a time when we heed a certain call
When the world must come together as one
There are people dying
Oh, and it's time to lend a hand to life
The greatest gift of all

今こそ あの声に耳を傾ける時がきた
世界が 一つとなるのだ
人々が死んでゆく
やっと 手助けできる時がきた
これほど 素晴らしい贈物はない

We can't go on pretending day by day
That someone, somewhere will soon make a change
We're all a part of God's great big family
And the truth - you know love is all we need

これ以上 知らんふりしているわけにはいかない
誰かが どこかで変化を起こさなければ
僕らはすべて神の下 大家族の一員
そう すべての人に必要なのは愛なんだ

CHORUS:
We are the world, we are the children
We are the ones who make a brighter day
So let's start giving
There's a choice we're making
We're saving our own lives
It's true we'll make a better day
Just you and me

僕らは仲間 僕らは子ども
明るい明日をつくるのは僕らの役目
さあ 今こそ始めよう
選ぶのは君だ
それは自分の命を救うことなんだ
そうさ 住みよい世界を創るのさ
君と僕とで...

oh, send them your heart
So they know that someone cares
And their lives will be stronger and free
As God has shown us
By turning stones to bread
And so we all must lend a helping hand

そう 心がとどけば
支えになってあげられる
そうすれば 彼らも強い心と自由を手に入れられる
神様が示してくれたように
石をパンに変えて
僕らもみんなで
救いの手を差しのべるのだ

CHORUS:
We are the world, we are the children
We are the ones who make a brighter day
So let's start giving
There's a choice we're making
We're saving our own lives
It's true we'll make a better day
Just you and me

僕らは仲間 僕らは子ども
明るい明日をつくるのは僕らの役目
さあ 今こそ始めよう
選ぶのはまさに君だ
それは自分の命を救うことなんだ
そうさ 住みよい世界を創るのさ
君と僕とで...

When you're down and out
There seems no hope at all
But if you just believe
There's no way we can fall
Well, well, well, let's realize
That a change can only come
When we stand together as one

見放されてしまったら
希望なんてなくなってしまう
負けたりしないと信ずることが
大切なんだ
そう そう そう 変化は必ず
起こると確信しよう!
僕らが 一つになって 立ちあがればいい

REPEAT CHORUS:
We are the world, we are the children
We are the ones who make a brighter day
So let's start giving
There's a choice we're making
We're saving our own lives
It's true we'll make a better day
Just you and me

僕らは仲間 僕らは子ども
明るい明日をつくるのは 僕らの役目
さあ 今こそ始めよう
選ぶのはまさに君だ
それは自分の命を救うことなんだ
そう 住みよい世界を創るのさ
君と僕とで...

REPEAT CHORUS:
We are the world, we are the children
We are the ones who make a brighter day
So let's start giving
There's a choice we're making
We're saving our own lives
It's true we'll make a better day
Just you and me

僕らは仲間 僕らは子ども
明るい明日をつくるのは 僕らの役目
さあ 今こそ始めよう
選ぶのはまさに君だ
それは自分の命を救うことなんだ
そう 住みよい世界を創るのさ
君と僕とで...

REPEAT CHORUS:
We are the world, we are the children
We are the ones who make a brighter day
So let's start giving
There's a choice we're making
We're saving our own lives
It's true we'll make a better day
Just you and me

僕らは地球の仲間 僕らは神の子
明るい明日をつくるのは 僕らの役目
さあ 今こそ始めよう
選ぶのはまさに君だ
それは自分の命を救うことなんだ
そう 住みよい世界を創るのさ
君と僕とで...

REPEAT CHORUS:

出典 http://immigrantebook.blogspot.com/2006/12/we-are-world-usa-for-africa-japanese.html


 昨日はカツヨシさんを誘って鳩山町高野倉の里山を歩いたあと、玉川の菖蒲園に行きました。高野倉の八幡神社の裏山はぼくのとっておきの森です。

高野倉そぞろあるき
http://www.geocities.jp/sat0b1/index.html

 http://blog.goo.ne.jp/neunviervier/e/15bfb084f1ac48aacdab8d0caa679328

「世界を変えた歌 we shall overcome!」

2008-06-07 06:34:21 | 政治・社会
 先日、キング牧師の演説『Ihave a dream』を紹介しましたが読んでいただけたでしょうか。ぼくは声を出して読んでいるうちに気分が鼓舞されて一日、元気を貰った感じです。KKKなどの脅威をうけながら、公民権運動に立ち上がっていったひとびとに限りない激励と希望を与えたことでしょう。その故に彼は凶弾に倒れてしまうわけですが。
 公民権運動といえばwe shall overcomeを忘れることは出来ません。この歌を広めたピートシーガーやあの高い澄んだ声のジョーンバエズを思い起こす方も居られることでしょう。
 ぼくは1965年頃からはじまった、小田実さんたちの「ヴェトナムに平和を!市民連合」の集会やデモで知ったのではないかと思います。教員になって授業でも紹介するようになります。1988年にNHKが『世界を変えた歌 we shall overcome』を放送してからは毎年VTRを上映します。


  We shall overcome, we shall overcome

  我ら打ち勝たん    我ら打ち勝たん

We shall overcome some day

  我ら打ち勝たん  いつの日か

Oh deep in my heart, I do believe

  心に深く        我は信ずる

That we shall overcome some day

  いつの日か 我ら打ち勝たんことを


 次の青い文字をクリックしてください。メロディが流れ、NHK番組の解説文が出てきます。よろしかったら口ずさみながら読んでみてください。

 http://www5b.biglobe.ne.jp/~chfujimi/hymn-2nd-164.htm

 人権の確立を目指す闘いがあるところには思想があり、歌があるようです。日本でも「宣言」があり、「解放歌」(嗚呼、解放の旗高く)がありました。宣言が発せられたのは1922年のことですが、いじめに苦しむ今の高校生にも勇気と力を与えます。
 we shall overcome もそんな力を持っているように思います。敵にうち勝つためには自分にうち勝つ必要があります。overcome という言葉に込められた思いはそういうものでしょう。抑圧され、差別を受けてきたものこそ「人間をいたわることがなんであるかをよく知っている」。そんな自分たちが自分に誇りを持って立ち上がるときだ。の心と通ずるものがあります。
 
 この社会に生まれ育ちながら、選挙権も公務員就任権も否定されている43万人の在日コリアンのひとびとが何故その不条理に立ち向い、現代の公民権運動に立ち上がらないのか。何故、私たちの運動に「そうだ」と共鳴しないのか。そんな思いがもういっぽうに渦巻いています。