僕におろかもの之碑の存在を教えてくれた陣野守正著『大陸の花嫁』(1992年・梨の木舎)がやっと見つかりました。著者は1930年生まれで、都立高校に勤めておられました。お会いしたことはありませんが手紙のやりとりをさせていただいたことがあります。この本は品切れとなっているようなので該当箇所を紹介しておきます。
おろかもの之碑(P216~220)
1984年第6次の中国残留日本人が肉親捜しに来日した。定時制勤務だった私は、農業実習の授業を終え、生徒と一緒に給食をとっていたときこの問題に触れ、「中国孤児」から何を考えるかと質問してみた。女生徒の一人が「国の罪と戦争の愚かしさ」と答えた。
それから2年後の1986年10月、群馬県吾妻郡中之条町に小暮久弥氏(当時81歳)を訪ね、「おろかもの之碑」を案内していただいた。
おろかもの之碑は1961年に建てられたがそのいきさつは次のようである。
戦争中、大政翼賛会、翼賛壮年団、在郷軍人分会等の責任者だった者は、敗戦後、占領政策により戦争犯罪人として1947年より一切の公職から追放された。それから4年後、「公職追放」を解除された吾妻郡内の該当者全員が一堂に会し「あづま会」を結成した。
一同は会の設立以前から戦争に協力した行為を深く反省し二度と過ちは繰り返さないようにと、またお互いに励まし合う意味で年に一度の集まりを持っていた。そうしているうち公職追放などいずれ世の中から忘れ去られてしまうだろう、碑を建てたらどうだろうか、そのほうが集まりやすいし、という話になった。そこであづま会設立10周年に際し「おろかものの実在を後世に伝え再びこの過ちを犯すことなきをねがい」(碑文の一節)碑を建てることにした。世話係として西毛新聞社社長富沢碧山氏がおされた。
碑を作る段階で、「全員の名前を刻んでおくだけでもなんだから、名称を考えべえじゃないか」との発言があった。それに応えて萩原進氏が
とにかく前後も知らねえで悪いことに協力したのは馬鹿もんだから…馬鹿もんというのはおろかもんということだから、どうだ、おろかものとしては…。
といった。するとみんなが
それがよかんべ、馬鹿もんだったのだから、おろかものとしよう。
と同意し、碑の名称が決まった。
このような経過を経て1961年、会員だけで金を出し合い碑を建てた。碑の表には「おろかもの之碑」、裏面には碑を建てた趣旨と会員80余名の名前を刻んだ。
おろかもの之碑は、戦争に駆り出されて死んだ者はいちばん気の毒で申し訳ないのだからと英霊殿(現大國魂神社)の境内に建てた。ところが村長もやった遺族会会長が「おろかものとは何事だ、人を馬鹿にして」と強く反発、抗議した。
あづま会の人たちは、
そうじゃない、勘違いしている。わしらがおろかもんなんだ。わしらがおろかもんのために、あんたたちの息子さんたちみんなが戦争に駆り立てられて戦争で死んだんだ。その申し開きのために、反省のために碑を建てることにしたのだから、英霊殿に建てるのが一番いいと思って建てたのだ。
と誠意をこめて説明した。が、相手はどうしても納得してくれなかった。
そこでおろかものは素直に相手のいうことをきき、林昌寺の理解をえて、現在地の林昌寺の門前に碑を移した。
以上はあづま会の副会長小暮久弥氏から伺ったことであるが、会の現状についてもたずねてみた。それによると、死去した会員が多くなり、現在は例会も途絶えているとのこと。会員は一、二の例外を除いてほとんどが戦後は一切公職に就かなかったという。小暮氏もその一人である。
注 富沢碧山氏(故人)は、中之条町にあった月3回発行程度の西毛新聞社社長で公職追放組の人たちとも懇意だった。あづま会の世話係、会員の連絡係を引きうけてくれた。萩原進氏は当時小学校の先生であづま会とも交流があった。二人ともあづま会会員ではない。
たまたま何かの機会に萩原進氏が集まりに見えて、おろかもののヒントを与えてくれた。
紹介は以上です。小暮さんが碑の前に腕組みして立っておられる写真が載っています。20年以上前に聞いたことをまとめた文章ですが今となっては貴重な資料だと思います。僕はこれらの人々が「一切公職に就かなかった」という言葉に強い衝撃を受けました。小暮さんについて言えば1905年の生まれとすれば42歳で「追放」となり、以後一切公職に復帰しなかったということです。小暮武太夫さんや岸信介さんたちとは違います。
陣野さんはつづく文章で次のように書いています。
吾妻郡の戦時下のリーダーであった人々は、戦後、戦争の罪業とおろかさ、国家の戦争責任について深く認識できた。そこから、戦争に協力してしまった反省の思いに明け暮れる日々を過ごすことになった。
戦後の日本は、本来このような人たちによってこそ国の政治がなされるべきであった。
僕の父のことは今までに書いたこともありますが、折に触れて、戦争責任について語ってくれたことがあります。日記をつけてきた人ですからなにかの記述も在るかもしれません。おろかもの之碑を作った人たちにもきっとそのようなことが在るはずです。おろかもの之碑は私たちに大切なことをたくさん考えさせてくれる貴重な文化遺産です。さまざまな角度から研究を深め、社会の中に押し出していく責任が私たちには在るのです。
おろかもの之碑(P216~220)
1984年第6次の中国残留日本人が肉親捜しに来日した。定時制勤務だった私は、農業実習の授業を終え、生徒と一緒に給食をとっていたときこの問題に触れ、「中国孤児」から何を考えるかと質問してみた。女生徒の一人が「国の罪と戦争の愚かしさ」と答えた。
それから2年後の1986年10月、群馬県吾妻郡中之条町に小暮久弥氏(当時81歳)を訪ね、「おろかもの之碑」を案内していただいた。
おろかもの之碑は1961年に建てられたがそのいきさつは次のようである。
戦争中、大政翼賛会、翼賛壮年団、在郷軍人分会等の責任者だった者は、敗戦後、占領政策により戦争犯罪人として1947年より一切の公職から追放された。それから4年後、「公職追放」を解除された吾妻郡内の該当者全員が一堂に会し「あづま会」を結成した。
一同は会の設立以前から戦争に協力した行為を深く反省し二度と過ちは繰り返さないようにと、またお互いに励まし合う意味で年に一度の集まりを持っていた。そうしているうち公職追放などいずれ世の中から忘れ去られてしまうだろう、碑を建てたらどうだろうか、そのほうが集まりやすいし、という話になった。そこであづま会設立10周年に際し「おろかものの実在を後世に伝え再びこの過ちを犯すことなきをねがい」(碑文の一節)碑を建てることにした。世話係として西毛新聞社社長富沢碧山氏がおされた。
碑を作る段階で、「全員の名前を刻んでおくだけでもなんだから、名称を考えべえじゃないか」との発言があった。それに応えて萩原進氏が
とにかく前後も知らねえで悪いことに協力したのは馬鹿もんだから…馬鹿もんというのはおろかもんということだから、どうだ、おろかものとしては…。
といった。するとみんなが
それがよかんべ、馬鹿もんだったのだから、おろかものとしよう。
と同意し、碑の名称が決まった。
このような経過を経て1961年、会員だけで金を出し合い碑を建てた。碑の表には「おろかもの之碑」、裏面には碑を建てた趣旨と会員80余名の名前を刻んだ。
おろかもの之碑は、戦争に駆り出されて死んだ者はいちばん気の毒で申し訳ないのだからと英霊殿(現大國魂神社)の境内に建てた。ところが村長もやった遺族会会長が「おろかものとは何事だ、人を馬鹿にして」と強く反発、抗議した。
あづま会の人たちは、
そうじゃない、勘違いしている。わしらがおろかもんなんだ。わしらがおろかもんのために、あんたたちの息子さんたちみんなが戦争に駆り立てられて戦争で死んだんだ。その申し開きのために、反省のために碑を建てることにしたのだから、英霊殿に建てるのが一番いいと思って建てたのだ。
と誠意をこめて説明した。が、相手はどうしても納得してくれなかった。
そこでおろかものは素直に相手のいうことをきき、林昌寺の理解をえて、現在地の林昌寺の門前に碑を移した。
以上はあづま会の副会長小暮久弥氏から伺ったことであるが、会の現状についてもたずねてみた。それによると、死去した会員が多くなり、現在は例会も途絶えているとのこと。会員は一、二の例外を除いてほとんどが戦後は一切公職に就かなかったという。小暮氏もその一人である。
注 富沢碧山氏(故人)は、中之条町にあった月3回発行程度の西毛新聞社社長で公職追放組の人たちとも懇意だった。あづま会の世話係、会員の連絡係を引きうけてくれた。萩原進氏は当時小学校の先生であづま会とも交流があった。二人ともあづま会会員ではない。
たまたま何かの機会に萩原進氏が集まりに見えて、おろかもののヒントを与えてくれた。
紹介は以上です。小暮さんが碑の前に腕組みして立っておられる写真が載っています。20年以上前に聞いたことをまとめた文章ですが今となっては貴重な資料だと思います。僕はこれらの人々が「一切公職に就かなかった」という言葉に強い衝撃を受けました。小暮さんについて言えば1905年の生まれとすれば42歳で「追放」となり、以後一切公職に復帰しなかったということです。小暮武太夫さんや岸信介さんたちとは違います。
陣野さんはつづく文章で次のように書いています。
吾妻郡の戦時下のリーダーであった人々は、戦後、戦争の罪業とおろかさ、国家の戦争責任について深く認識できた。そこから、戦争に協力してしまった反省の思いに明け暮れる日々を過ごすことになった。
戦後の日本は、本来このような人たちによってこそ国の政治がなされるべきであった。
僕の父のことは今までに書いたこともありますが、折に触れて、戦争責任について語ってくれたことがあります。日記をつけてきた人ですからなにかの記述も在るかもしれません。おろかもの之碑を作った人たちにもきっとそのようなことが在るはずです。おろかもの之碑は私たちに大切なことをたくさん考えさせてくれる貴重な文化遺産です。さまざまな角度から研究を深め、社会の中に押し出していく責任が私たちには在るのです。