川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

高齢者は無料です

2012-08-31 06:38:40 | 友人たち

8月30日(木)

 朝、勝義さんと久しぶりに会話。さいたま市与野の旧居の売却が完了し、いよいよ横浜市港南区の新居での生活が本格的に始まったようです。

 旧居最後の日は片づけが済んだ部屋で末嬢と「月の砂漠」などを歌ったとか。長く一緒に生活してきた父娘がそれぞれに独居生活に踏み出すのですから感慨が深かったのでしょう。

 勝義さんの新居は娘さん夫婦のお宅の近くですから何かと心強いこととおもわれます。

 難病を抱えている上に引越しの作業で腰を痛めたといいます。療養に努めてまた一緒に旅ができるようになってほしいものです。幸い近くに病院も見つかったようです。

 勝義さんの転居は僕にとっても大事件です。年に数回は川越に来てくれていました。僕も自転車を漕いで与野のお宅を訪ねました。そういう行き来ができなくなるのですから大変な打撃です。年をとると同じ時代を生きてきた友人はますます大切な存在です。

 久しぶりに新河岸の曼荼羅で昼食にしました。主人の井上くんは高校の同窓会で?10年ぶりかで帰郷するといいます。何人ものクラスメートから「帰って来い」のラブコールがあったといいます。「覚えちょいてくれた」のがよっぽどうれしかったようです。早割りで飛行機の切符を安く手に入れたとのことです。

 暑いので川越公園のプールに行くことにしました。65歳からは無料なので僕はちょくちょく利用します。今年、66になる曼荼羅の主人はこのことを知らなかったようで新知識を喜んでくれました。そこで年寄りの先輩として披露した知識のいくつか。

 ①65歳以上は無料の施設(埼玉県営)  水上公園のプール(川越・上尾など) 埼玉こども動物自然公園 川の博物館(寄居)

  その他の県立の博物館・美術館

 ②入浴料の助成  65歳以上の川越市民  年6回 200円の割引券(市役所・支所で手続き)

 ③「敬老の日」のみ 市立の本丸御殿・蔵作り資料館・博物館・美術館・まつり会館が無料(65歳以上)

 (注) 川越まつり会館は9月1日から7日まで誰でも無料開放

   9月14日から一週間  旭湯(市役所近くの銭湯)が無料(65歳以上)

 ④60歳以上は無料の施設 オアシス(温水プール)後楽会館(風呂) (手続き必要)

貧乏人の年金生活にとってこうした施策は生活に潤いを与えます。僕は結構活用しています。

 

 

 


『人生の扉は一つじゃない』 大崎博澄 詩集

2012-08-30 07:01:54 | 友人たち

8月29日(水)はれ

大崎博澄さん(前高知県教育長)が詩集を送ってくださった。

 

イメージ 1

大崎さんは「あとがき」の中でこう書いています。

 ぼくは、極貧に生まれ、多感な思春期を劣等感にまみれて育ち、けつまずいたり転んだり、人生をこの上なく愚かに生きて晩年にいたりました。今なお苦しみの中にいる子どもを抱え、収入も蓄えも乏しく、年老いて体力も衰えました。なんたる不幸な人生、と思うでしょう?

 ところが、ぼくは不幸ではないのですね。むしろ、自分をひたひたと満たす不思議な幸福に包まれています。

それは、子どもの頃から敗北の連続の人生の中で身に付けた小さな哲学、小さなものを愛する好奇心、人の心の痛みに想いを寄せる想像力が、自分を支えてくれる多くの人との出会いをもたらしてくれたおかげです。

大崎さんは僕の人生の終末期に出会うことができた4歳下の友人です。こういう風に言い切ることができる大崎さんの人生に僕は深い敬意と共感を抱きます。生まれも育ちも僕とは違いますが「そうだね」と心から同意することができます。

大人になっていくキミへ、生きづらい日々を懸命に生きているあなたへ、どうしたら絶望を希望に変えられるか、悲しみを受け入れてささやかな夢を実現できるか、人生をこの上なく愚かに生きたぼくが学んだ知恵のすべてを、この詩集に刻みました。」

今を懸命に生きている若い友人たちに読んでほしいと思います。

一つだけ大崎さんの詩を紹介します。これが詩というものなら僕も詩人になりたい、なれるかも知れないと思ったものです。

詩の書き方   

  大崎博澄

さて、どう書くか

 

上手に書こうと思ってはいけないよ

詩は下手なほうが上手

むつかしい言葉を使ってはいけないよ

やさしい言葉ほど、キミのやさしさが伝わる

古い歯ブラシで二、三度こすると

言葉にあたらしい意味が宿るんだ

 

さて、何を書くか

 

詩のタネはキミの身の周りの至る所に

見つけようとする人にだけ、それは見つかる

ひとりで食べた朝ごはん、円満橋の下に群れるボラ

歩道に咲く小さなスミレ、街ですれちがった美しい人

詩のタネはキミの心の扉をいつもたたいている

ドアノブは心の内側、だから開けるのはキミ自身

 

さて、何のために書くか

 

詩を書くことよりも

人生をよく生きることのほうが大事だよ

恥をさらすことをおそれないで

透き通る悲しみから目をそらさないで

今日一日、孤独に耐えた自分を励ますために

それがどこかで誰かを励ますことを信じるために

 

さあ、これで

今日からキミは詩人、そして、ぼくの友達です

 

<詩集の入手の方法> たんぽぽ教育研究所へ電話するのが一番。大崎さんが出るかも知れません。一冊1000円(送料込み)。

 088-855-4546  または090-7626-3543

 

 

 

 

 

 


小山義幸くん

2012-08-29 09:36:12 | 友人たち

8月29日(火)晴れ

神奈川県海老名市に住む小山義幸くんが来てくれ、昼食をともにしながら4時ごろまで交流しました。1966年4月、都立大島高校に就職した僕にとって最初の生徒になった130人の一人です。当時3年生で、7つ違いの弟のような年頃です。

写真: 僕の一番最初の生徒だった小山義幸くんが遊びに来てくれました。 

「うたしない 炭鉱の記録 写真集」の表紙

 7月に私たちは小山くんの故郷・北海道歌志内市を訪ね、貴重な写真集をもらってきました。それを手渡しがてら人生の話を聞きました。41年前、引越しを手伝いに来てくれて以来の来訪です。

丁寧に整理されたアルバムを何冊も持ってきてくれました。歌志内の少年期から大島高校時代までの義幸くんと家族の歩み。

敗戦直後、兵役から東京に帰ったお父さんは当時唯一景気のよかった炭鉱夫になる道を選び歌志内に一族の活路を求めたようです。

 男ばかり5人兄弟の4番目として昭和23年(1948年)ここで生まれた義幸くんにとって歌志内・東光一区はまさにふるさとです。中学2年までをここの炭住で過ごしました。

 東光一区の写真

東光一区だけで2000人が暮らしていました。小山一家は炭住街の一番奥、この写真の左上の丘の上にあり、父は真っ黒になって炭鉱で働く傍ら、七面鳥・鶏を飼い、あちこちに畑を作ったといいます。男ばかり5人の子どもを育てるのですから必死だったのでしょう。お母さんは家事の傍らニコヨンをやっていたそうです。

 僕が知る限り義幸くんは温厚篤実な青年ですがここではスキーや卓球の得意な少年だったといいます。当時の写真や地図を示しながら子ども時代を語ってくれました。

その思い出の詰まった地が忽然として消え去ってしまったのです。2000人もの人々の生活の場が山野に帰り、一部は産廃工場などになりました。今は住民はゼロです。

別れに当たって写真屋さんで撮った級友たちのプロフィール。今は誰一人、消息がわからないとか。

こんな人生があるんですねえ。僕が運んできた写真集がきっかけになって遠い昔を語り合うことができる友人が一人でも出てくるといいなあ。そんな風に思いました。

9月には結婚式があり、兄弟が顔を合わせるそうです。『炭鉱の記憶』が回し読みされて、故郷への想いが語りあわれるかな。

義幸くんは高校を卒業して早稲田の電器店で働き始めて以来、家庭電器業界一筋。土日が休めないので旧友とは疎遠になったがいい友達に恵まれたようです。

終生の友となったのはアルバイトでであった沖縄出身の青年。日大全共闘の一員として闘ったため大学を首になった方のようです。生涯、喧嘩と言うものをしたことがないという義幸くん、どんな交友だったのかな?覗いてみたい気がします。

その彼も、そして僕と同年の長兄も近年相次いで逝ってしまったとか。

近年、左肺の一部を切除した義幸くんは僕のがん友でもありますが発見が早かったため再発の可能性は低く、元気いっぱいです。

定年後も仕事をしていますが今日のように暇を見つけて旧友とも遊んでくれるとうれしいな。

 

 

 

 

 


小康状態続く

2012-08-28 06:21:25 | 病状

8月27日(月)晴れ

 13時前、癌研有明病院呼吸器内科の西尾医師の診断がありました。

「血液検査にさしたる問題点はない。体調もよいので引き続き抗がん剤(「タルセバ」)服用を続けよう」。次の検査・診断は9月24日。

予約時間より遅れること一時間半、僕に言い渡されたのはこれだけです。味気ないといえば味気ないのですが順調だということなのでさっ

さと退室してきました。

 昨年8月「イレッサ」服用を始めて一年になります。肝炎を併発する副作用があり、薬は「タルセバ」に変わりましたがこちらはたいした副

作用もなく、右肺に転移した癌の増殖を押さえ込んでいます。

 今年の夏は暑さに負けることもなく動き回っています。CTによる病状検査は10月ですがこの分だと元気に12月を迎えられそうです。

左肺摘出手術から満7年になります。

07年3月の退職以来、あらゆる社会活動から「隠退」して、自分の健康のためだけに生きてきた日々です。多くの知友のおかげで充実し

た闘病生活を送ることができました。今しばし、人生の余韻を楽しませてもらえそうです。感謝のほかはありません。

夜、高知の功くんが見舞いの電話をくれました。中学以来の同級生ですが今も現役の医者です。休みの日に「お四国めぐり」をしているそう

です。奥さんと一緒に川越を訪ねてくれるのを心待ちにしています。

 

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川辺川の鮎

2012-08-27 05:38:13 | 友人たち

 8月26日(日)

今年も熊本県川辺川の鮎がたくさん届きました。人吉に住む賀明さんが釣果を送ってくれました。

 出典●「だんだんなー」http://blog.goo.ne.jp/fsfc-gamei/e/efbdaeba260142487747b5d1e50fc8bc

ダムを作らせない闘いのおかげで川辺川の水質は日本一です。そこで生育した鮎ですから味もまた格別です。

この川辺川が流れ込むおかげで合流点より下流の球磨川本流も水質がよくなるそうです。球磨川上流にはダムがあり、水質汚濁が進ん

でいます。同じように水は流れていても川は死にかけているのです。

 自然の川の恵みを今年も頂戴します。脚の冷えがコタエルようになったので川に入れるのは今年が最後になるかも知れないとのことで

す。心してありがたくいただきます。

 

 

 


慰労の旅 北信

2012-08-26 10:05:41 | 出会いの旅

Kさんを誘って北信の旅をしました。北朝鮮を脱出してから数年、北に残る家族や友人たちの消息に心が休まることがありません。わたしたちにできることはたまに一緒に遊ぶことだけです。大自然に抱かれればたとえつかの間でも命の洗濯になるのかも知れません。

8月23日(木) 川越=下仁田~白樺湖(昼食)~八島湿原~松本~大町(大町山荘)

八島湿原をゆっくり歩きました。アサマフウロ・ヤナギラン・コオニユリ・マツムシソウ・シモツケ・ワレモコウ 花々の歓迎が本当にうれしそうです。

 

写真: 信州 八島湿原 

8月24日(金) 白馬村の八方尾根にゴンドラ・リフトを乗り継いで登り、八方池までのハイキングを楽しみました。Kさんの笑顔を紹介できる日がくるといいなあ。

 

 

 写真: 信州白馬村姫川のほとりの茶屋で休んでいます。写真はさっきまで居た八方尾根ケルン。 

姫川の畔で休んだ後、仁科三湖をめぐり、夕刻に若一王子神社に参詣しました。見事なわらぶきの屋根は観音堂です。神仏習合の時代の雰囲気がそのまま残っていて「国宝」に指定されているそうです。

 社頭にたって祈るKさんの姿が印象的でした。

 

8月25日(土) 大町~木島平村~カヤの平~志賀高原~渋川=川越

朝の散歩で宿近くの「常光寺」を訪ねたのですが見当たりません。畑仕事中の方が丁寧に教えてくれました。「廃仏毀釈」で完全に打ち壊され地名だけが残った、と。昨日の若一王子宮とは対照的です。

写真: 信濃大町常光寺 道祖神 写真: 信濃大町霊松寺山門 

 

廃寺跡に行ってみると一面の田んぼで道路端に「道祖神」が立っていました。かわいいでしょう?

教えてもらうままに帰路、霊松寺によりました。山中の曹洞宗の大寺。わらぶきの山門が見事です。

旅の最後に新潟県境近くの木島平村を訪ねました。高山すみ子さんにお会いするためです。高山さんはこの数年、Kさん一家に心を寄せ続けてくれた方です。移動教室での出会い以来、自家菜園で作った野菜などを送ってくれます。かつての自分と重なる運命を北朝鮮を命からがら脱出してきたこの一家に感じているのでしょう。

 あいにく「慰霊祭」で中野に出かけていました。「満州」での逃避行の途次、高社郷開拓団は「集団自決」を余儀なくされ、高山さんは二人のこどもを喪いました。本人は「殺した」と言われます。67年がたっても心が晴れる日は来ないのです。今年は病後で在宅だろうと予告せずに訪ねたのが見込み違いでした。残念。

 お孫さんのお嫁さん・奈美さんと一緒に写真を撮らせてもらいました。二人目のひ孫さんも元気に育っていました。

今日は先を急がなければなりません。「高山さん、また来ます。どうぞ、お元気で」。

カヤの平に登ってブナ林を散歩。見事なブナの森がおばあちゃんに会えなかった寂しさを癒してくれたでしょうか。

志賀高原の景観を楽しんで川越についたのは7時過ぎです。

 関連記事「高社郷開拓団・犠牲者の命日に」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/a56b3c2390082ec867232d1f90af8a9a

 


大町にて(2)

2012-08-25 05:40:49 | 出会いの旅

 昨日は八方尾根に遊びました。好天に恵まれ吹く風も爽やか。気苦労の絶えないkさんも美しい高山植物の歓迎に我を忘れています。

今日は木島平村の高山さんを訪ねます。kさん一家に心を寄せ続けるおばあちゃんです。突然の訪問にびっくりされることでしょう。

 

 

 

 


被災地の旅

2012-08-23 04:51:00 | 出会いの旅

先日、岩手県久慈市のべっぴんの湯に泊まっているとHさんから電話をもらいました。小学校の管理職をしている夫人といっしょに陸中の海岸を旅してここにたどり着いたのです。べっぴんの湯を選んだのには「川越だより」が役立ったかな?肌がすぐにすべすべする気持ちいい湯です。お連れ合いが喜んでくれたようです。

 Hさんたちは僕とは逆に一関~陸前高田~釜石(泊)~宮古~久慈と北上して大震災と津波に見舞われた津々浦々を観てこられたようです。

僕は友人たちがどんどん被災地のたびを体験してくれるといいなあと思っています。被災地というとボランティアと発想し、観光旅行など不謹慎などと思われる方もいるかもしれません。

 震災直後にはそうだったかもしれませんが一年半近くが経ちました。道路などのインフラの復興も進んでいます。旅人が邪魔になるとは思えません。

 1000年に一度といわれる大災害です。まだ生々しい被災のあとを見学することは映像で見るとは違った感慨が湧いてきます。自分の生き方や考え方に変化が生まれるかもしれません。百聞は一見に若かず、ですね。

 年寄りのたびは復興の手助けにはなりませんが賑わいにはなります。「枯れ木も山の賑わい」。

 三陸海岸はもともとが有数の観光地です。優れた景観に恵まれています。「森は海の恋人」という言葉を生んだ地でもあります。自然の営みのすごさ、すばらしさに気づいて圧倒されます。

 ひとりひとりの落すカネは些少でも「チリも積もれば」です。旅館やホテルは生き返るでしょう。

僕らは各地で出会った人々に喜んでもらえた上にいろいろな手土産までいただく始末でした。

「見捨てられるのはさびしい」という方もいました。そうだろうと思います。

修学旅行で訪れる学校も増えつつあるとか。

修学旅行 被災地へ 遊佐の西遊佐小

写真:被災した大槌町役場を見学する西遊佐小の児童=岩手県大槌町新町拡大被災した大槌町役場を見学する西遊佐小の児童=岩手県大槌町新町

 

 山形県遊佐町の西遊佐小学校(黒木佳昭校長・児童数72)の6年生15人が27日、修学旅行で岩手県大槌町を訪れ、被災した学校や役場などを見学した。市街地が壊滅的に被災した大槌に、修学旅行生が来たのは初めて。

 西遊佐小は、例年、宮城・岩手両県の観光地を修学旅行の場所にしている。今年は、黒木校長が「直接、被災地を自分の目で見ることで新たな気づきがあるはずだ」とコースに組み込むことを提案。先生や保護者に異論はなく、例年1泊2日だった日程を1泊延ばした。

 遊佐町と大槌町は、どちらも湧き水が豊富に出ることから交流が続いている。昨年10月と今年3月には、大槌町の児童らが稲刈り体験などをした。その縁から、大槌が選ばれた。

 一行は、バスで6時間かけ、まず避難所にもなった吉里吉里小学校に。岩切博文副校長から津波を目の前に見て避難した体験談を聞き、児童の演奏を聞いたり一緒に写真を撮ったりした後、被災した市街地に向かった。

 がれきやヘドロに負けずに生き残った希少な淡水型イトヨの生息地や、被災した小中学校や役場などを巡り、高台で廃虚となった市街地を一望した。町職員が「庁舎2階まで津波が来た」と説明すると、「あんな高くまで」と指をさしてはメモを取っていた。

 参加した鈴木涼さん(12)は「大槌の小学生は思ったより明るかった。初めて被災地を見て、命は大切だなと思った。帰ったら家族や下級生に伝えたい」。三国郁也君(12)は「普通なら観光地を旅行するんだろうけど。今日のことはずっと心に残ると思う」と話していた。

 ツアーを組んだトム旅行(山形県酒田市)によると、山形から修学旅行で被災地を訪れる計画をしている学校は、少しずつ増えているという。(東野真和)

出典●http://www.asahi.com/edu/news/TKY201206280350.html

そういえばHさんのお連れ合いは小学校の校長先生です。今度のたびの見聞が生かされるときがくるのかも知れません。

去年・今年と夏休みなどにボランテァで被災地を訪ねた教員も多いと思われます。教育委員会や校長はそうした教員のイニシアティブを生かして創意ある修学旅行を計画してほしいものです。

きいちご移動教室は一泊ですから宮城や岩手は無理です。北茨城やいわきの海岸地帯なら訪ねられるかな、そんなことを考えています。 

 今日はKさんを誘って長野県大町に行きます。

 

 

 

 


月見草の花

2012-08-22 08:59:09 | 川越・近郊

8月21日(火)晴れ

娘が福島のこどもたちの夏休みに付き合うために里帰りしています。パソコンのリフレッシュでできなくなっていた印刷をできるように修整してもらいました。これで旅先で世話になったかたがたに「川越だより」の記事を送ることができます。

午後からは猛暑となったのでおちおち昼寝もしておられません。川越公園にいって消夏することにしました。日差しは強くても「けいすけ号」で土手の道を走るのは結構快適です。

①午後の公園には人影がありません。木陰にシートを敷いて休むと涼しい風が吹いてきました。せみの声もします。

写真: 人影のない公園。セミの声。日陰は天国

②河川敷の森の散歩 キツネノカミソリの花盛りです。

③池のほとりでの休憩

近くのプールもそろそろ店じまい。僕もそろそろかえろうかな。

④落日

写真: 散歩帰り。落日。

入間川のサイクリング道路を帰ります。外秩父の山に落ちる夕陽。涼風が気持ちよい。

秋には遠いのに出てくるのは「ゆうぞら晴れて 秋風吹き」。そして「月見草の花」。

 はるかに海の 見える丘
 月のしずくを すって咲く
 夢のお花の 月見草
 花咲く丘よ なつかしの

出典●http://emuzu-2.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-ab24.html

小学生の昔から大好きな歌です。「月の滴(しずく)を吸って咲く」という表現に惹かれます。


 

かくて21日が終わりました。きょう(22日)も暑い一日(熊谷で38度)との予報です。さて、どうするかな。韓国併合条約の調印から102年になる日でもあります。

 

 

 

 

 

 


『兄 かぞくのくに』を読んで

2012-08-21 12:30:38 | 韓国・北朝鮮

8月20日(月)晴れ

『兄 かぞくのくに』(ヤン・ヨンヒ著 小学館)という本を読んだ。

先日、テアトル新宿で映画「かぞくのくに」を観たときに買って、著者のサインももらってきた。

映画の原作という感じのノンフィクションで珍しく一気に読んだ。

著者の父親は朝鮮総連大阪本部の副委員長であった。多くの在日朝鮮人を北朝鮮に送り出した責任者の一人だ。

帰国運動の高揚期が遠ざかった71年になって高一の次男と中三の三男を北に送った。本人の「希望」だというが送った父親の立場がか

かわっていただう。

数ヵ月後の72年、こんどは朝鮮大学校の一年生だった長男が送られた。今度は本人の意思とはかかわりがなかった。組織の命令だっ

た。金日成の還暦の祝いに朝鮮総連が朝鮮大学生200人を「献上」することになり、その一員に指名されたのだ。

二人の弟を送り出したばかりの父はさすがに納得できず、中央本部に「長男だけは勘弁してください」と懇願したが聞き入れられなかった

という。かくしてまだ7歳だった著者は三人の兄すべてを相次いで新潟港から見送ることになった。

この生きた人間を「首領」への贈り物にするという発想は常人には想像もつかないがそれをやってのけたのが朝鮮総連である。

遠い昔、日本史の時間に「生口」という言葉を習った。こんな具合である。

107年、倭国王帥升らが後漢安帝へ生口160人を献じた(『後漢書』)。その後、卑弥呼239年景初2年)に魏明帝へ男生口4人、女生口6人を、243年(魏正始4年)に魏少帝へ生口を献じ、その後継者の台与248年に生口30人を魏へ献じた(『魏志倭人伝』)。

卑弥呼の時代に中国の王朝に奴隷として差し出された人々のことである。20世紀になって「在日の王」は卑弥呼の真似事をしたのであろう。王朝に忠誠を誓い、自らの地位の安泰を願ったのか。

こんなことが民主主義の日本でまかり通るから不思議だ。金日成の還暦の前後には朝鮮大学を各種学校として認可した美濃部都知事が訪朝し、金日成と会見して北朝鮮を褒め称えた。こんな具合だったのだ。

拉致問題が明るみに出てからこの事件もやっと表面化しNHKが番組を作った。当時、朝鮮大学校の副学長だった人の痛恨の思いを紹介した。

金日成に贈られた200人の朝鮮大学生の運命●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/4fcfebd04e1a73a2bd90fde59f31b852

それから5年がたってこの本が出版され、映画化された。送られた当事者や黙って送ることしかできなかった家族の実像がようやく見えるようになった。

長兄は狂い死にし、三番目の兄は出世して商社マンという名の工作員?になった。父は功成って革命墓地に祭られた。

この一事を知るだけでもこの本は読むに値する。

 僕は東京朝鮮中高級学校に近い学校で働いたおかげで、「在日コリアン問題」を終生の課題とすることになった。だが70年代のあるとき、「朝鮮民主主義人民共和国」と「朝鮮総連」を「ともに天を戴かず」と認識してから、これらにかかわりがある人たちから意識して遠ざかってきた。そのせいもあって朝鮮総連を構成する人たちの社会のことをほとんど知らない。

これは今を生きる人間として正しい生き方とはいえない。こんな非人間的な組織がなぜ今も生き延び、社会に害悪を与え続けることができるのか。在日コリアンはなぜ、自分たちの手でこの組織を解体できないのか。よく学んでそれなりの対処をしなければ北朝鮮にかかわる人権問題は何一つ解決することはできない。

この本は朝鮮総連のエリート家庭に育ちながら、自分を生きることに挑戦し続けることができた、奔放な末娘の半生記ともいえる。「朝鮮総連」とはどういう世界か、今までのどの本よりも語ってくれているような気がした。

 


川越だより 訪問者数

2012-08-20 13:18:59 | 父・家族・自分

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坂戸よさこい 2012

2012-08-20 07:36:36 | 川越・近郊

8月19日(日)はれ

 自転車で坂戸に行ってまずは大阪屋で冷麺昼食、ふるさとの湯でのんびり。

4時近くから街に出て「よさこい」。元町の通りで最初に出会ったのが「本庁筋踊り子隊」。名前から高知から来たのかと思いきや、関東各地の人々で構成され高知の「本庁筋」の支部のようなものですとの説明を受けた。道路端に腰を下ろして次々と流してゆく踊りを見た。

「よさこい」が入間野に響く。故郷の思い出につながる響き。

ステージ会場の上総組のテントに寄ってみた。案の定、高知県出身者のたまり場。土佐市蓮池出身の青年が故郷の話をしてくれた。

この祭りの仕掛け人・菊池さんの元気な姿も見えた。いまや、坂戸市最大の年中行事になった。ハチキンの面目躍如。

 写真: よさこいの余韻を楽しみながら高麗川の土手を自転車で川越に向かいます。

高麗郡建郡1300年を祝う旗をふりまわすグループがあった。高句麗の遺民がこのあたりに集められ高麗郡が作られたのは716年、2016年で1300年になる。高句麗は中国東北部・北朝鮮にあった古代国家だ。

このあたりを流れる高麗川はアイヌ語由来だという越辺(おっぺ)川に合流する。縄文文化の先住民の時代から人々の営みがあった豊かな地であったということだろう。今この地によさこいが根付いた。

落日が近づいたころ高麗川の土手を川越に向かった。涼風が吹いてまことにさわやか。よさこいの余韻が心地よい。

坂戸よさこい・2010「川越だより」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/8ba004acef647c2dd51c860573b7efb0


『かぞくのくに』をみて、ヤン・ヨンヒさんを応援する。

2012-08-19 09:11:51 | 韓国・北朝鮮

8月18日(土)晴れ

2時半から映画『かぞくのくに』を見た。終了後、ヤン・ヨンヒ監督の話を聞いた。

こういう人が(やっと)出てきたのか、僕は深い敬意を感じた。

兄に「北のスパイになれるか」と聞かれる場面がある。兄役の井浦新も妹(ヤン・ヨンヒ)役の安藤サクラも好演でこの映画の最大の見所といってもよいシーンである。

 ヤンさんは語っている。「(この)シーンを映画に入れるかどうかが一番、悩みどころでした。これを出したらお兄ちゃんに迷惑がかかるとか、母が知ったときのショックを考え、ずっと黙っていましたから。でも、どこか心の底で、こういうことを表に出せば、それ以上はできなくなるんじゃないかと考えました。拉致も明らかになるとできませんからね。」「スパイのことはすごく深い傷を負いました。それは兄から負った傷というよりは、今の組織とか国とか、すべての状況の中で、この強烈な記憶があるから、この映画を作ったのかもしれません。」(「民団新聞」8・15)

 横田滋・さきえ夫妻が「めぐみ」の名前を表に出すことを承知してわが娘の救援に立ち上がっていったときのことを思い出した。娘の「命」を見据えた夫妻のこの決断が北朝鮮の独裁者に立ち向かう不退転の闘いの出発点になった。いまだ成果を挙げるにはいたっていないが、全世界に問題の所在を知らせ、国論を統一して独裁政権をあわてさせ追い込むところまではきている。

 30歳過ぎのときに兄の口から出た独裁政権の「スパイになれ」という意思をきっぱり断ったヤンさんが10数年の歳月の後にそれを映画という形で社会に押し出した。横田夫妻をはじめとする拉致被害者家族が切り開いてきた運動がヤンさんという優れものの開き直りの精神を後押ししたのではないか。僕はそんな風に思う。

 10万人に近い人たちが北に送られた。金日成の還暦の貢物として贈られた朝鮮大学生だけでも100人はくだらない。その人たちの家族や友人の中からヤンさんに続く人が出てくるだろうか。朝鮮総連と北朝鮮の王朝にはっきりと背を向けて自分を語り始める人が続出してほしい。そのことだけが北の地で塗炭に苦しむ帰国者たちの運命を切り開く。

 自分たちの村内で日本の社会の批判には長けていても自分たちが直面し続けてきた独裁政権の罪業にはただただ沈黙するだけ。そんな在日朝鮮人「知識人」を僕は尊敬しない。一緒に歩みたい、友達になりたいなどととても思えないのだ。

ヤンさんはわたしの家族にはまだまだ映画にできる話がある。できることなら続きを作って行きたいといっておられた。自分にできる応援をしたいなあと思う。

 皆さん映画館に足を運んで「かぞくのくに」を見てください。どんな感想を持ったかを教えてください。この映画が多くの人に見られたらヤンさんがつぎの作品に挑戦できるのです。

 


『かぞくのくに』 監督ヤン・ヨンヒさんの話

2012-08-18 10:10:32 | 韓国・北朝鮮

『かぞくのくに』という映画の上映が始まっているようです。「北朝鮮帰国事業」で北に渡った兄の奇跡的な来日の二週間。在日コリアン2世のヤン・ヨンヒさんが自身の体験に基づく劇映画を作ったのだという。

長兄は金日成の還暦のときにお祝いとして北朝鮮に送られた一人だった。この事件については「川越だより」でも何度か紹介したが当事者の家族の話をヤンさんのインタビューで始めて聞いた。勝手ながら紹介させていただく。

出典●アジアプレスネットワークhttp://www.asiapress.org/apn/archives/2012/08/07113726.php

今日はテアトル新宿で映画(2時半~)上映後ヤンさんの話があるという。これから駆けつけます。

「北朝鮮と私、私の家族」 ヤン・ヨンヒ監督インタビュー2 ~長兄の帰国は組織の決定だった

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北朝鮮に帰国した兄が奇跡的に日本にやってきた。兄滞在中のドラマを描いた映画「かぞくのくに」のヤン監督へのロングインタビュー第二弾。なぜ三人の兄は、北朝鮮に渡ったのか。(聞き手 石丸次郎/アジアプレス)

◆サイキンキコクシャ

石丸:今日本に200人ちょっとの脱北者がいます。皆、元在日の帰国者と北朝鮮生まれのその子どもたちです。韓国にも大体200人くらいの帰国者が脱北して入っているんです。

ヤン:その人たちも元在日ということですよね。北に行って脱北して韓国にいる人。

石丸:僕はその「脱北帰国者」に50人ぐらい会っています。その中には70年代に北朝鮮に渡って、後に脱北して来た人たちもいます。そのうちの一人で、東京朝鮮高校の出身で70年代半ばに一家で帰った人がいる。彼女は北朝鮮に着いた後、60年代に先に渡っていた帰国者から、「何で今頃帰国して来たの?朝鮮がどんな所か、まだわかってなかったの?」と言われたというんです。

ヤン:私らはしょうがないけど、70年代に帰国するなんてあんたらはアホやみたいな感じですよね。

石丸:彼女に言わせると、70年代の帰国者は、60年代に先に帰国した人たちから「サイキンキコクシャ=最近帰国者」と呼ばれたそうです。

ヤン:あぁ、ニューカマーのニューカマーだ。

石丸:そう。ヤンさんのお兄さんたちのように71、72年の帰国者も「サイキンキコクシャ」なわけですよ。流れからいうと、62年ぐらいまでが熱気の中で帰った。

ヤン:中断しますよね、帰国事業が。

石丸:はい。68年から70年まで中断してます。

ヤン:その中断した時に、総連の決まり文句というか、「祖国へ帰る権利を取り戻そう!」となるじゃないですか。

石丸:帰国希望者が激減したので日本政府が事業を延長しなかった。ところが、それに総連が反発して運動を展開し、再開されることになったわけです。

ヤン:あれで帰国事業が終わっていればよかった。少なくとも兄たちは行っていなかったですね。

 

ヤン・ヨンヒ監督と石丸次郎 (撮影ナム・ジョンハク/アジアプレス)
◆長兄は金日成の還暦プレゼントとして北朝鮮に

 

石丸:72年に長兄さんも帰ってますね?

ヤン:72年の3月に金日成の60回目の誕生日の「プレゼント」として行きました。朝鮮大学校で200人を帰国させようとしたそうなんですが、そのうち100人が断わったので、どうしても残りの100人を確保せなあかんということで、総連組織が長男を指名したんです。だから、下の二人と長兄の帰国は完全に別だったと思います。上のオッパ(兄)を帰す時に、どれだけうちの両親が抵抗したか、勘弁してくれ!みたいなことを言ったかという話を、最近オモニ(お母さん)がし始めたんですよ。昨日の夜もまさしくその話で。

石丸:組織に対して?

ヤン:そう。

石丸:一人は残したいと?

ヤン:長兄の朝鮮大学校時代の同級生たちと会った事があります。兄が向こうに行って躁うつ病になったと聞いてびっくりしている人もいました。死んだことも全然知らない人もいて。オッパが北朝鮮行きを指名されたときの話を聞きました。当時、やっぱり儒教的なこともあるのか、金日成主席の60回目の誕生日、つまり還暦祝いのプレゼントとして、帰国する学生を指名することになったんですが、長男と一人息子は指名しないという了解があって、クラスで女の子が何人か指名されたらしいんです。で、うちのオッパの場合は長男だし、ましてや下の弟が先に、それもつい数か月前に行ったばかりなので、オッパが指名されたときには全員が、「嘘だろ!あり得ない」とびっくりしたと言うんですよ。

石丸:ふーむ。長兄さんの同級生がそう言ったわけだ。

ヤン:うちのアボジ(お父さん)はああいう性格で、万歳!も叫びつつ、「こういうところが組織のあかんとこや」と率直に言う人だったので、組織の中では、もうめちゃくちゃうざったく思われてたので有名だったんです。だから、ヤン・コノ、つまりオッパは、うちのアボジを黙らせるための決定的な人質だと。子供3人も行ったらさすがのヤンさんもおとなしくなるだろう、みたいなことが理由だったというわけです。「大げさに言ったらそういうこともあるのかな」じゃないですよ。「間違いない」ってオッパの同級生たちが言うんです。もう私は本当にめまいがするくらいびっくりして。いったいどんな時代だったのか、当時の朝鮮大学校って、今なんかは問題にならないくらい左寄りというか、文革みたいなもんじゃないですか。

石丸:そんなことがあったんだ......。

ヤン:うちのオッパはどんなつもりで北朝鮮に行ったんかなと思って。死んじゃいましたけどねえ。

石丸:お兄さんが指名されとき、ご両親はどんな反応だったんですか?

ヤン:さすがに長男が指名されたときに、「なんでや?」っていうことになって、アボジもオモニもびっくりして。下二人行かせたあと、長男は朝鮮大学校を出て、総連の仕事をするだろうから、趣味で音楽聴いて、クラッシック喫茶行ければええやみたいに考えてたと思うんですよ。だから最初指名されたときは、「総連の仕事をさせますんで長男だけは勘弁してくれ、一人ぐらい残させてくれ」って、総連の中央にアボジも一生懸命電話したって言うんですよ。人にも会いに行ったし。でもことごとく、「(幹部としての)模範を見せろ、アカン」という感じで。

石丸:組織決定に従わされたわけですね。

ヤン:当時グリル喫茶して商売してたオモニは、ノイローゼになりそうだったと言うてました。なんでそこまで言われなあかんのやろうって。総連組織の仕事を私らここまでがんばってるやないかと。長男を出せというのは、二人ではまだ足らないのかと。結局、問答無用みたいな感じで言われて、もうオモニは、準備が間に合わへんと。オッパに何も持たせず船に連れていかれて乗せられるようなことは出来ないので、泣きながらオッパが持っていく布団縫ってたんです。

「祖国訪問」を終えて日本に帰る時。ウオンサン港を離れた船のデッキから、港で見送る息子たちに手を振るヤン監督のお母さん。2001年。

(続く)

 

※8/4から封切りされたヤン・ヨンヒ監督作品「かぞくのくに」の上映情報です。
http://kazokunokuni.com/theaters/index.php

※在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業
1959年から1984年までに9万3000人あまりの在日朝鮮人と日本人家族が、日朝赤十字社間で結ばれた帰還協定に基づいて北朝鮮に永住帰国した。その数は当時の在日朝鮮人の7.5人に1人に及んだ。背景には、日本社会の厳しい朝鮮人差別と貧困があったこと、南北朝鮮の対立下、社会主義の優越性を誇示・宣伝するために、北朝鮮政府と在日朝鮮総連が、北朝鮮を「地上の楽園」と宣伝して、積極的に在日の帰国を組織したことがある。朝鮮人を祖国に帰すのは人道的措置だとして、自民党から共産党までのほぼすべての政党、地方自治体、労組、知識人、マスメディアも積極的にこれを支援した。

ヤン・ヨンヒ(梁英姫)
映画監督。64年11月11日大阪市生まれ。在日コリアン2世。済州島出身の父は大阪の朝鮮総連幹部を務めた。朝鮮大学校を卒業後、大阪朝鮮高校の教師、劇団女優を経てラジオパーソナリティーに。95年から映像作家として「What Is ちまちょごり?」「揺れる心」「キャメラを持ったコモ」などを制作、NHKなどに発表。97年から渡米、6年間NYで過ごす。ニュースクール大学大学院メディア学科にて修士号取得。日本に住む両親と北朝鮮に渡った兄の家族を追ったドキュメンタリー映画「ディア・ピョンヤン」(05年)、「愛しのソナ」(09年)を監督。著書に『ディア・ピョンヤン―家族は離れたらアカンのや』(アートン新社・06年)、『北朝鮮で兄(オッパ)は死んだ』(聴き手 佐高信・七つ森書館・09年)、『兄―かぞくのくに』(小学館・2012年)。

「ディア・ピョンヤン」で、山形国際ドキュメンタリー映画祭アジア千波万波部門特別賞、ベルリン国際映画祭フォーラム部門最優秀アジア映画賞(NETPAC賞)、サンダンス映画祭審査員特別賞、第8回スペイン・バルセロナ アジア映画祭最優秀デジタル映画賞(D-CINEMAAWARD)を受賞。

「かぞくのくに」で、ベルリン国際映画祭アートシアター連盟賞、パリ映画祭人気ブロガー推薦作品賞を受賞、他現在も各国の映画祭から招待が続いている