川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

交友Ⅰ  四国路②

2009-11-30 15:53:06 | ふるさと 土佐・室戸
 四国の旅のメモの続きです。

 11月21日(土)晴れ

 小豆島でゆっくりしたため愛媛県中央市の恵康病院着は暗くなってから。鄭秀男さんがいつものようににこやかに迎えてくれる。初めて訪ねる姉に細やかな配慮をされるのが心に残る。

 インフルエンザの蔓延で病院を空けるわけにはいかず、病院に隣接した自宅のキッチンで交流する。近年ますます学ぶことが多く、医者が楽しくなったと聞いたのは前回訪問時だが、顔色もよく充実した活躍ぶりが伺われる。しかし、派遣医の引き揚げで地域医療の困難は増しているという。
 
 夜になっても患者さんの対応に追われる先生と別れて私たちは土居駅近くの蔦廼家(つたのや)さんで瀬戸内の魚料理の接待を受けた。中学の同級生だった鄭くんと交流が始まって二十数年になるが近年はゆっくり飲み交わすというのが難しくなった。地域医療の最前線にますます余裕がなくなったということだろう。先生にはそれを楽しんでいる?風情もあるが…。

  恵康病院http://keikouhosp.ftw.jp/

 

 11月22日(日)曇りのち雨

 病院でしばらく交流した後、祖谷渓を見学して高知へ。室戸に帰る姉を見送る。3時過ぎホテルに車をおいて、土電で鏡川をわたって土佐高校裏の「太助」へ。

 主人の彰人さんと奥さんが待ち受けていてくれる。従姉もきてくれた。

 焼いてくれる牛肉の味が、普段は縁のない上物であることがぼくにもわかる。キスの丸焼きも格別だ。いつになくビールがおいしい。

 彰人さんは高校の先輩であり、遠戚にもあたる。父上には中高の保証人になっていただいた。ぼくが帰高するたびに接待してくれ、励ましを受ける。

 大学を出てから、新宿・西口の朝鮮料理・明月館で修業し、いつの頃からか自宅で「太助」を開業した。

 12月14日の新潟での追悼集会の案内を渡すと1960年代初めの話をしてくれる。北に「帰る」家族と残る家族の分裂・離散の悲劇についてである。この数十年間心を痛めてきた人がぼくの近くにもいたのだ。

 彰人さんのそばにいるとこの人は「高知のふんどし」じゃないかと思わされる。焼き肉屋の主人だが長い間、民生委員をやってこられた。

 担当してきた一人一人との関わりがただごとではない。ぼくのように口先だけではなく、手足と頭を総動員して世話をし、自立をとことん助けている。

 それでも地域社会と家族の崩壊に手のつけようはなく、個人の活動の限界は明らかだ。行政の担当者のお役所仕事への批判は厳しい。

 ぼくはただ聞くだけだが、この兄(に)やんはただ者ではないなあと思ったり、励ましを受けている自分がいることに気づく。

 後輩であるということはありがたいことである。こうして思い切りかわいがってもらえるのだ。

 高知の友人たちが「太助」を利用したとき、この兄やんと出会ってくれることをぼくは願っている。

 
 炭火焼き・太助 http://www.sairatown.com/town/diary-000095.shtml


映画 『名もなく貧しく美しく』

2009-11-29 21:42:23 | 映画  音楽 美術など
 久しぶりの川越は晩秋から初冬へと移っていくところです。昨日歩いた入間川の河川敷の森はどこを歩いても落ち葉でいっぱいです。林床に暖かい日差しが届いています。。
 我が家の玄関脇のハナミズキは赤い葉をアスファルトに散らし続け、一応庭はコリンゴの落ち葉で埋まっています。

 今朝は図書館に行って『二十四の瞳』のVTRを予約した後、「名作映画会」で『名もなく貧しく美しく』を鑑賞しました。我々世代を中心に会場は満杯でぼくは最前列の中央の席を確保しました。

 主演は『二十四の瞳』の高峰秀子です。監督は松山善三。『二十四の瞳』の撮影期間中に助監督だった松山さんが高峰秀子に交際を申し込み、翌年(1955年)二人は結婚した、とは昨夜枕頭の書で読んだばかりです。1961年、松山善三監督の第一作だといいます。

 今日の映画会の案内では「戦争末期、終戦から戦後の困窮時代、そして今日に至る十数年を聴覚障害を持った女性が、貧しいながらも美しく強い夫婦愛で生き抜いた姿を描く感動の物語」と紹介されています。

 
「SILENTSHEEP*NET」というブログに印象に残る映評があります。「差別と闘う」という生き方を模索してきたはずのぼくも頷きながら読みました。勝手ながら紹介させてもらいます。

『名もなく貧しく美しく』を観てhttp://silentsheep.net/silent/namonaku.html

 

『二十四の瞳』 四国路①

2009-11-28 22:12:21 | ふるさと 土佐・室戸
 21日(土)晴れ

 小豆島二日目。草壁港から醤油工場の建ち並ぶ路を経て、「二十四の瞳映画村」を訪ねる。
 壺井栄文学館を見学した後、「松竹座」で『二十四の瞳』を見る。途中からで、すぐ出るつもりがすっかり引き込まれて、ついに最後まで鑑賞する。

 1954年の作品だという。ぼくが見たのは中一の時だったことになる。55年ぶりだ。画面に釘付けになった。涙があふれて止まることがなかった。

 皆さんはこの映画を見たことがありますか。とりあえず、さわりだけでも見てください。

 映画『二十四の瞳』http://www.youtube.com/watch?v=tPB3sb9U3-8


 あらすじやキャストです。
 
 『二十四の瞳』物語http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/24.htm


 見ているうちにこどもの時に見た記憶がよみがえってくるとともに、今自分が68になってこどもの時とはまた違った見方をしていることにも気づきます。

 この映画を作った木下恵介監督のまっすぐな気持ちが伝わってきます。
 
 一人一人のこどもがかけがえのない存在です。そのこどもたちと向かい合う大石先生も同様です。戦争へと向かう時代に巻き込まれる一人一人に注がれる木下さんのまなざしは優しく、静かにそしてきっぱりと非戦の意志を伝えます。

 映画を見た後、近くの苗羽(のうま)小学校田浦分校を訪ねました。1971年まで実際に使われていた校舎が公開されています。「岬の分教場」のモデルになったところです。

 映画はあくまでも映画であり、現実ではありません。壺井栄の原作にモデルがあったのかどうか知りませんが物語であることには変わりがありません。しかし、いつの間にかぼくはそのことを忘れていました。

 たった一日しか滞在していない島なのですが映像に出てくる風景も登場人物も何かとても懐かしく感じられるのです。

 寒霞渓を遊覧して帰りのフェリーに乗りました。遠ざかっていく島影を見ながら今日の映画のシーンを次々に思い起こしていました。

 大石先生と12人の先輩たちに55年ぶりに再会して、今までよりはずうっとこの方たちを理解することができたのです。小豆島で『二十四の瞳』を見た満足感でいっぱいでした。

 今、壺井栄文学館で買ってきた『「二十四の瞳」からのメッセージ』(澤宮優著 洋泉社)を読んでいます。映画ももう一度きちんと見るつもりです。木下恵介という人のメッセージを確かに受け取りたいと思うのです。

北朝鮮帰国運動50年 集会と追悼

2009-11-27 16:14:40 | 韓国・北朝鮮
 12月14日は北朝鮮帰国第一船が新潟港を出港して50年になる日です。「地上の楽園」とだまされた在日コリアンと日本人配偶者のその後の運命は想像を絶するものでした。
 多くの人が亡くなりましたが日本への帰国に望みを捨てていないかたも少なくはありません。
 亡くなった方々を悼み、生き残った人々とその子孫の自由往来の実現を求めて13,14と集会などがあります。

 皆さんが時間を割いて参加してくださるようにお願いします。ぼくは両日の行動に参加します。

 詳細は移民政策研究所のHPをご覧ください。

http://jipi.gr.jp/


 北朝鮮を脱出し、来日することができた若い女性のブログを教えてもらいました。学ぶことの多いブログです。

 [日本に生きる北朝鮮人] リ・ハナの一歩一歩

  http://www.asiapress.org/apn/archives/2009/03/03185948.php


 こちらは「川越だより」で紹介したことのあるブログです。ぼくと同じ年頃の在日コリアンで北朝鮮で40年余りを過ごしてきた方です。


 帰国者チャンネル
http://blog.livedoor.jp/kikokushachannel/archives/51283446.html

 あれこれと思い悩むのではなくこうした機会にこれらの方々と出会い、友達になり、自分にできることがあったら協力する。そういう人が一人でも増えてほしいとこの文章を書いています。





川越帰着 元気いっぱい

2009-11-26 20:10:06 | 出会いの旅
 今朝、東京港に着いた後、荒川区の順子宅に寄り、やって来てくれた美順(みすん)母子と会いました。
 
 もうすぐ二ヶ月になる優里花(ゆりか)ちゃんとは初対面です。首も据わってぼくが長く抱いても泣きません。お姉さんの優杏(ゆあん)ちゃんは2歳になります。赤ちゃんの時にあって以来です。ぼくとも対等に遊んでくれるこどもに成長していてびっくりしました。
 赤ちゃんの時から知っている美順が二人のこどもの母親になり、とても頼もしく、魅力的に見えました。こどもの時から苦労の連続で家族の世話に明け暮れてきた順子ですが、こどもや孫たちに囲まれて家族のぬくもりを実感しているようです。こどもたちの義曾祖父を自任しているぼくもなんだかうれしくてなりません。

 あちこち体にガタがきている順子は草津の湯治を試してみてだいぶ楽になったといいます。話を聞いていると湯治というのはただ漫然と湯に入るのではなく湯長さんの指導のもと一定の流れに従って行う治療行為のようです。酸性の強い草津の湯ですがそれだけに治癒力もあるのでしょうか。
 母子に昼食をごちそうになって夕方、川越に帰着しました。

 たくさんの人の世話になり、ゆっくりと四国の旅を楽しむことができました。いつものようにきままな備忘録を残しておきたいと思います。

 おかげさまでぼくはすこぶる元気です。高知の健ちゃんがそのブログで私たちの近影を紹介してくれました。どうぞ、ご覧ください。

 http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-819c.html

高知のコニヤンのブログでも紹介してくれました。

 http://blogs.yahoo.co.jp/gogokoniyan/49764401.html
  

高知から

2009-11-24 08:25:56 | 出会いの旅

 高知での日程をすべて終え、これから帰途に就きます。今日は香川県のひがしかがわ市の温泉で休養し、明日昼前徳島発のオーシャン東九フェリーに乗ります。東京港着は26日(木)早朝です。

 小豆島、四国中央市、高知で先輩や友人たちと楽しいときをすごすことができました。満たされた気持ちです。ありがとうございました。

小豆島から

2009-11-21 07:36:19 | 出会いの旅
 昨日、高松からフェリーに乗り3時前に小豆島に来ました。池袋商業時代に修学旅行で何回か来たところですが記憶はよみがえってきません。

 エンジェルロードというところに寄って見ました。

http://blog.goo.ne.jp/chika-5151/e/5d2818006672e287609333f9779a29c5

 美しい瀬戸内の風光が広がっています。残念ながら島への道は海の底です。

 姉に疲れが見えるので早めに国民宿舎「小豆島」に着き、ゆっくりすごしました。高台にあるふるさと村の一角にあり、瀬戸内海を一望できます。

 今日は午前中は「晴れ」の予報です。小豆島を楽しみます。

室戸岬からⅡ

2009-11-20 07:07:09 | ふるさと 土佐・室戸
 19日(木)晴れ
 午後室戸岬海岸を歩く。竜宮岩のところでアザミ採りの範子さんに会う。青年大師で知子さんを訪ねるとお土産にといって妻がお気に入りの手作りの味噌などを持たせてくれる。いつもの通り海洋深層水の風呂に入る。ゆったりしたときが流れる。
 5時頃武実くんが迎えに来てくれ奈半利で遅くまで夕食とカラオケ。帰郷のたびに小学校の同級生の武実くんの接待を受けるようになって30年になる。互いに病を持つ身になったが来年もまた会おうと言い合う。

 土佐湾に落ちる夕陽と広い空をキャンバスとする雲の芸術がすばらしい。

 20日(金)晴れ

 今日はこれから姉をさそって小豆島に向かいます。室戸の滞在が短く少し名残惜しい。好天です。

室戸岬から

2009-11-19 12:12:47 | ふるさと 土佐・室戸
 17日(火)雨

 昼ごろ丸木美術館に着くと豊洲北小学校の子供たちは館内見学と昼食を終えたところだった。朝から冷たい雨になってさすがに川遊びは出来なかった。岸辺を近隣の寺まで歩いたらしい。

 大沼校長にせかされて八怪堂に集まった子供たちの前に立って話をする。
寒いから今日はこういう機会はないと思っていたので慌てた。とっさに「ピカは落とさにゃ落ちてこん」というという丸木スマさんの言葉を紹介し、なぜ?って考える力を身につけ、人のために働く人になってほしいとメッセージを送った。

 この学校に通う子供たちは諸条件に恵まれ学力が高い子が多いという。いうなれば僕の少年時代と同じだ。自然の懐に抱かれて、友達と心ゆくまで睦みあって楽しい思い出をいっぱい作っておいてほしいと思う。人とともにあることがどんなに楽しく人生を豊にするかを自然に身に着けてほしいと思う。
 そんな願いを持ちながら話をしているうちに言葉に詰まってしまった。僕は人生を通じていい生徒、友人に恵まれ、今またこのように未来を担う子供たちにメッセージを送るチャンスを与えられた。なんという喜びだろう。そういう思いがこみ上げてきたのではなかったか。

 大沼くんはぼくとの出会いを語り、決意を述べて子供たちを励ました。16歳のときに出会ってから43年の月日が経っている。僕がかれ(かれら)にとってどういう教師であったか。精一杯に日々を過ごしたにしても正に未熟そのものであったに違いない。
 それから後の時間をそれぞれに生きて、再び出会うことが出来た。僕は彼の人生を少しずつ知り、その歩みに学ぶ。今の学校世界でこれほどのやんちゃ校長はそうはおるまい。こどもたちと喜びと悲しみを心から分かち合うことが出来るのだ。
 
 僕が何かを伝えたわけではないが、僕の生徒だった人が今最高の働きをしている。僕にとって本当に嬉しいことである。
 今日の生徒たちが何時の日か、丸木美術館の思い出を大沼くんや担任の先生方と語り合う日が来るに違いない。そのうちの一人は学校の先生になっているのかなあ。


 充実した思いに満たされて雨の道を有明埠頭に向かった。豊洲北小の近くのレストランで夕食にした後、徳島行きのフェリーに乗った。


 18日(晴れ)

 朝から快晴。一時過ぎ、徳島港着。通いなれた道を一路室戸へ。

 東洋町の役場により沢山町長に面会を求めたが東京に行っているとのこと。残念。(今朝の新聞によると、最高裁判所に行っていたことがわかる。澤山さんたちの主張を最高裁が認める画期的な判決が出たという。)

 生家に着くと同時に兄が「おきゃく」を開いてくれた。小学校の同級の池本さんや濱田くんが来てくれた。驚いたことは遠い昔世話になった山本ヒサさんの姿があったことだ。

 僕が問題に関心を持つようになって初めて室戸の被差別を訪ねたとき、解放同盟の山本さんご夫妻が丁寧に応対してくれた。その後も帰郷のたびに小さかった子供たちをつれてお邪魔した。
 ごぶさたばかりだが夫の茂光さんがなくなられて13年が過ぎたという。89になられたそうだが元気いっぱい矍鑠としておられる。
 ヒサさんが千葉県から室戸に来られたのは1950年だという。「同和問題」については無知で、苦労の連続だったそうだ。今では室戸の町に欠かせない素敵なおばあちゃんリーダー。池本さんが近頃この方に出会って、昔の元気を取り戻しつつある喜びを語ってくれた。

 大先輩がわざわざ出向いてくれて励ましてくれました。ご自分も「爆弾」を抱えているというのに本当にありがたいことです。遠い昔、世話になっただけで何の恩返しもしていません。正月などに訪ねて、僕が遠慮なく出されたご馳走をすっかり平らげるのが嬉しかったといわれます。

 室戸も寒い一日でしたがこんな再会に恵まれてありがたい一夜でした。
 

海 『四国遍路』

2009-11-17 06:51:04 | ふるさと 土佐・室戸
 今日は江東区立豊洲北小学校の6年生のこどもたちが丸木美術館を訪れる日です。

 この学校とはいろいろと縁ができました。校長の大沼謙一さんがぼくの遠い昔の生徒であったことが始まりです。彼は毎年、6年生をこの時期に連れてきます。美術館を見学した後、都幾川の流れにこどもたちを誘い、しばし戯れます。そういう風景を毎年、見せて貰うのが楽しみになりました。
 謙一くんも来年は60です。そう思うとこんな機会ももう何回もありません。四国への旅の予定を一日繰り下げて一行を迎えることにしました。

 あいにくの天候です。大沼くんはこどもたちにどういう一日をプレゼントするのでしょうか。雨なら雨、風なら風、いろいろと考えているに違いありません。一年前、北の国からきたAちゃんも今は生徒の一人です。友達や先生とまたとない一日を過ごして、忘れられない思い出をその心に刻むことでしょう。

 豊洲北小学校http://www.koto.ed.jp/toyosukita-sho/


 一行を見送った後、ぼくも豊洲の先の有明埠頭にいき、7時発のオーシャン東九フェリーで徳島に向かいます。一年ぶりの帰郷の旅です。
 と、いうわけで「川越だより」はしばらく不定期刊になります。友人たちとの再会の喜びやわくわくするような出会いの感動を旅先から伝えられたらうれしいですね。あしからず…。

 枕頭の書、『四国遍路』(辰濃和男著・岩波新書)を読みました。先に山頭火の室戸路の日記を紹介しましたが、今日は辰濃さんの室戸路(一部)の書き写しです。

 高知・へんろ道

   1 解き放つ    ゆきゆきてふと海を見つ

(略)

 青緑の海があった。白い波の白い輝きを長い間見つめた。二十三番薬王寺から室戸岬の二十四番最御崎寺までの距離は約80キロである。その間、長い海沿いの道が続く。
 演歌者添田唖蝉坊は、単調な海岸線にあきれはてたように、「右は山、左は海。どこまでもどこまでも右は山、左は海」と表現している。右手が低い山々で、左手が海、という風景は、本当にどこまでも続く。国道を走る車の群れを視界から除けば、どこまで行っても山と海と空だ。

 (略)

 翌日もまた海辺の道を歩く。
 立ち止まる。海原に光の粒がある。光の粒に雲の影が映り、雲の影が風の形を教えている。その影を追って砂浜に降りてみる。砂を踏むと靴を脱ぎたくなり、靴を脱ぐと寝そべりたくなる。寝そべって足の裏をお日様にさらして目をつむると、瞼に光と風がある。波の声と風の声と鳥の声が融け合っている。目を開ける。海面すれすれに飛ぶ鳥がいる。上空には何羽かのトンビがさまざまな線を描いている。風が吹いて海鳥の声がちぎれる。さらに強い風が吹いて波の声が乱れてくる。

 海にはなぜ、これほどまでにこころをゆさぶるもの、こころをたかぶらせるものがあるのだろうと思った。なぎさでだらぁっとしていると、こころを縛りつけていた鎖がやんわりと解かれていくのを感じる。肩の力を抜き、長い息を吐いてみる。

 心臓にこころがあればゆったりと、ひたすらゆったりと生命の音を刻んでもらいたいし、胃にこころがあれば、あくせくせずに昼寝をたのしんでもらいたいと他愛なく思う。からだの隅々にまで流れる元気の素にこころがあれば、あらゆる滞りを流し去ってもらいたいし、足裏にこころがあれば、太陽の力を存分に吸い取ってもらいたい。そんな気分で長いときを過ごした。

 立ち上がって浜辺から道に戻る。歩きだす。また立ち止まる。点在する漁船を見る。水平線に浮かぶ蒼い雲を見る。なかなか前に進まないが、まあ、いいか。こころが解き放たれると、空高く飛翔することがそう不思議なことではないという妙な感覚がでてくる。下り坂になる。追い風が吹く。その風に乗って両手を鳥の羽にして歩く。アホまるだしの老人の姿だが、本人は結構、宙に浮く気分になっている。

 生きるうえで極めて大切なことは、こころを解き放つときをより多くもつことだろう。小さなことでもすぐいらだち、小さなことでもすぐ気にし、小さなことでもすぐ怒る私のような小人は余計、旅での解き放ちが大切になる。防波堤わきの道を歩きながら三好達治の詩をくちずさんだ。私が暗唱することのできる数少ない詩の一つだ。

 こころざしおとろへし日は  いかにせましな

 冬の日の黄なるやちまた

 つつましく人住む小路

 ゆきゆきてふと海を見つ


 「ゆきゆきてふと」海を見たとき、達治は海に心をゆさぶられ、心が解き放たれるのを感じただろう。以前は「こころざしおとろへし」の語句に達治の閉じられた溜息を感じたりしたものだが、四国の海辺では、ゆきゆきてふと海を見る詩人の、解き放たれた感覚のようなものを強く感ずるのだ。志にもいろいろあるが、野暮な、ぎらぎらした志なんかは衰えちゃったほうがいい。

 海がこれほどまでに魂をつかむのは、私たちのこころの奥底にある生物としての感受性が海に故郷を感ずるからだろうか。

 人間は本来、海という故郷を離れては生きていけないのに、いつか故郷を離れ、故郷を忘れ、脳の力ですべてが解決できるという錯覚を抱きはじめた。

 私たちは概念の殻から解き放たれることで、体内にある生き物の生命力を実感することができる。その生命力が、海にある原始の生命力と呼応して、私たちのこころをゆさぶるのではないか。

 (略)

 

 明日午後、ふるさとの岬への単調な海岸線を走ります。ぼくもこの道を歩きたいと思う日が来るだろうか。

 室戸岬http://www.city.muroto.kochi.jp/hopweb/joho/html/joho00000114.htm

 写真 右手奥が徳島県方面。左手が高知市方面。岬のすぐ左の港町がぼくのふるさと室戸岬町津呂です。

小山くん

2009-11-16 06:21:07 | 友人たち
【川越だより】過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)


日付 閲覧数 訪問者数 ランキング
2009.11.15(日) 546 PV 203 IP 5295 位 / 1324693ブログ
2009.11.14(土) 646 PV 211 IP 4815 位 / 1324203ブログ
2009.11.13(金) 528 PV 212 IP 5490 位 / 1323750ブログ
2009.11.12(木) 629 PV 198 IP 5729 位 / 1323321ブログ
2009.11.11(水) 608 PV 246 IP 4981 位 / 1322827ブログ
2009.11.10(火) 617 PV 209 IP 5516 位 / 1322300ブログ
2009.11.09(月) 678 PV 226 IP 5238 位 / 1321824ブログ

 
 11月14日(土)曇り

 午後、小山省吾くんが様子を見に来てくれる。遠い昔の大島高校OB。茨城県八郷町に住んで久しい。大工仕事の隙間を見つけて仕事着のまま、軽トラできてくれた。
 1970年代の初めきてくれたことがある、という。大島高校のOBたちが『教育公害』を発行し、自分たちの生き方を模索していたとき、千代田区立麹町中学の不当な内申書のため進学妨害された保坂展人くんと交流した。
 ある日、この川越の我が家に10数人が集まり、夜を徹して語り合った。「農林科」だと言って差別を受けた大島の卒業生と「過激派」のレッテルを貼られて入学差別を受けた保坂くんとが交流し、協力関係を模索したのだ。

 我が家は今の半分だった。狭い部屋に若者がぎっしりだった。展人くんのお父さんもきてくれて討論に参加していた風景が印象に残っている。

 中村くんとの共同の贈り物だといって椿の花模様が入った焼き物を貰った。中村くんは別の学校の卒業だが、当時、小山くんたちと出会った。

 あれから30数年が経っている。二人はともに茨城県に住むこととなって、交流が続いている。初心忘れずと言うか、年月を重ねる中で地域の人々と豊かな関係を作ってきた。
小山くんの家には毎年、障がい者とその家族がたくさん集まり、栗拾いパーティが行われている。いつの年だったか、ぼくも参加したことがあるが、中村くんも忙しく働いていた。

 そんな二人が気にかけ続けてくれた。ありがたいことである。小山くんはぼくが思ったより遙かに元気なのに驚いて?いた。

 昨年ぼくの最初の生徒だった小山くんの兄さんたちに会ったときの写真がこの部屋のふすまに貼ってある。そういえばこの兄さんは東京からきてこの家への引っ越しを手伝ってくれた人だ。我が家の最初のお客さん?でもあったことになる。

 来年は茨城を訪ねて省吾くんの家族やお母さんの介護で家を離れられない中村くんともゆっくり会いたいものだ。


 11月15日(日)晴れ

 午前中、都心で会議。なじみ深い友人たちと久しぶりに会う。いいものだ。


『あの日を忘れない』新潟港追悼集会

2009-11-15 21:00:16 | 在日コリアン
坂中英徳さんの「帰国者問題入門講座」が14日で終結しました。最終回の冒頭部分を紹介します。

   「あの日を忘れない」新潟港追悼集会


1959年12月14日は975人の在日コリアン及び日本人妻らが乗った最初の帰国船が新潟港から北朝鮮に向けて出港した日である。2009年12月14日はその50年の節目の日にあたる。


私たちは、戦後最大の悲劇である北朝鮮帰国者問題を歴史の闇に葬らせるわけにはいかないと考えている。悲劇の幕が上がった日をいつまでも語り継いでいく。


あの日、新潟港から希望に燃えて北朝鮮に移住した帰国者たち。しかし、行った先は人間の住める国ではなかった。北朝鮮政府から最下層の身分に指定され、官憲から監視され、想像を絶する迫害を受けた。強制収容所で亡くなった人や処刑された人は優に1万人を超えると言われている。


日本人でありながら北朝鮮公民とされ、日本に帰国することが許されなかった日本人妻のほとんどは、祖国に帰る願いがかなわず無念の死に追いやられた。日本人妻の遺言は「頭を日本海のほうに向けて埋葬してほしい」というものであった。


日本に残ったコリアンも帰国運動の犠牲者である。肉親が本国に囚われの身となり、この上ない残酷な仕打ちを受けたからだ。北朝鮮への怨念を抱えたまま「憤死」した在日コリアンは多数にのぼる。


痛恨に堪えないことだが、これらの膨大な数の死者たちの霊はいまだとむらわれていない。ここに私たちは、北朝鮮帰還事業開始から50年目の日を迎えて、新潟港において帰国運動の犠牲者の霊の平安を祈る追悼法要をいとなむとともに、今も北朝鮮に幽閉されている帰国者全員の解放をめざして全力を尽くすことを霊前に誓うため「『あの日を忘れない』新潟港追悼集会」を挙行する。


 「帰国者問題入門講座27」
http://blog.livedoor.jp/jipi/


「川越だより」をのぞいてくださる皆さん、一緒に受講していただけましたか。

できなかった方はこの際、まとめて挑戦してみてください。

 コリアン帰国者、日本人妻の方々やそのこどもや孫に注ぐ坂中さんの暖かいまなざしと、これらの人々の解放への熱い思いに気づいて心を揺さぶられます。

 坂中さんが所長を務める移民政策研究所人道移民支援センターが主催して12月14日に新潟港で追悼集会が行われます。また13日には東京でシンポジウムが予定されています。

 詳細が発表されれば「川越だより」でもお知らせします。関心がある方は両日をあけておいてください。

 

春まだ浅く

2009-11-14 08:35:11 | ふるさと 土佐・室戸
 高知県東洋町長沢山さんのブログで森繁さんに「春まだ浅く」という歌があることを知りました。啄木の『雲は天才である』という作品の中の詞に古賀政男が曲をつけたということです。

 青い文字をクリックして森繁さんの歌を聴いてみてください。詞の全文は沢山さんのブログからコピーさせて貰いました。

 http://blogs.yahoo.co.jp/naibusyougai_x1/58167688.html

 「春まだ浅く」

     石川啄木

春まだ浅く 月若き 命の森の夜の香に
あくがれ出て 我が魂の 夢むともなく夢むれば
狭霧(さぎり)の彼方そのかみの 望みは遠くたゆたひぬ

自主の剣を右手(めて)に持ち 左手(ゆんで)にかざす愛の旗
自由の駒にまたがりて 
進む理想の道すがら
今宵命の森の影 水のほとりに宿借りぬ

そびゆる山は英傑の 跡を弔ふ墓標(はかじるし)
音なき川は千載に 香る名をこそ流すらむ
ここは何処と我問へば なが故郷と月答ふ

勇める駒のいななくと 思へば夢はふと覚めぬ
白羽の兜 銀の盾 皆消え果てぬ さあれど
ここに消えざる身ぞ1人 理想の道にただづみぬ

雪を頂く岩手山 名さへやさしき姫神の
山の間(はざま)を流れゆく 千古の水の北上に
心を洗い身を清め 理想の道を我行かむ


 どこかで聞いた曲のような気がします。滋賀大学経済学部の前身である彦根高等商業学校の偲聖寮寮歌が本歌で、昭和11年(1936年)、日活映画『情熱の詩人啄木』の主題歌(有島通男・唄)として挿入されたそうです。

 今も啄木の母校渋民小学校の校歌(曲は違う)であり、盛岡市役所からは朝昼晩とこの曲が流されているようです。

 岩手県盛岡市立渋民小学校http://www.city.morioka.iwate.jp/14kyoiku/sch-e/shibutami/01about.html

 
 沢山さんは中学生の時に音楽の先生から学びその人生はこの歌とともにあったといいます。ぼくも中学生の時に松村薫先生に啄木の歌をたくさん教えて貰い、ファンになりましたが「春まだ浅く」との出会いはありません。残念な気がします。

 ぼくの想像する沢山さんの人生は闘いの連続です。解放、反原発ゴミ、民主町政の樹立…。
 孤立に苦しむ日もあったに違いありません。

「ここに消えざる身ぞ1人 理想の道にたたづみぬ」
「心を洗い身を清め 理想の道を我行かむ」

 若き啄木の詞が森繁節に載って沢山さんを励ましてきたのでしょう。いい先生と出会われてよかったなあと思います。

 町造りははじまったばかりです。体に気をつけて息の長い取り組みを町民の皆さんとともに続けられますように!

 沢山さんのブログ
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小沢一郎民主党幹事長

2009-11-13 07:09:01 | 政治・社会
⑨外国人選挙権、小沢氏に「丸投げ」
法案取り扱いで首脳会議
 
鳩山由紀夫首相や民主党の小沢一郎幹事長らによる政府・民主党首脳会議が11日夕、官邸で開かれ、永住外国人に地方選挙権を与える法案の取り扱いについて小沢氏に一任することを決めた。

 平野博文官房長官はこれに先立つ記者会見で、今国会中に政府の法案として提出するのは困難との考えを示し、議員立法で今国会に提出するか、来年の通常国会以降に先送りするかなどの判断を小沢氏に“丸投げ”した形となった。

 同法案をめぐっては、山岡賢次国対委員長が議員立法での提出に言及した一方、小沢氏は政府提出が望ましいとの考えを記者団に表明。平野氏は国会日程が窮屈なことを理由に法案提出に難色を示すなど、鳩山政権内で足並みが乱れていた。国民新党の亀井静香代表(金融・郵政改革担当相)も慎重姿勢だ。

 国会会期の延長問題に関しては、来年度予算編成作業への影響を懸念する観点から、当面は30日までの会期内に政府提出法案などの成立に全力を挙げる方針を確認した。

(2009/11/11 20:03 【共同通信】

 ⑩外国人参政権法案で小沢氏「やがて片が付く」 韓国民主党代表に

 民主党の小沢一郎幹事長は12日、来日中の韓国民主党の丁世均(チョン・セギュン)代表と党本部で会談した。同席者によると、小沢氏は永住外国人への地方参政権付与法案について「(議員立法でなく)政府が提案した方がいいと思ってやっている。やがて片が付きますよ」と述べたという。

 一方、民主党の山岡賢次国対委員長は同日の与党国対委員長会談で、社民、国民新両党に対し、同法案の今国会提出を見送る方針を伝えた。山岡氏は、11日の政府・民主党首脳会議で、同法案の対応を小沢氏に一任したことを報告し、「しっかり議論する時間を取るべきだ。法案をつくることを考えれば、提出するとしても(来年の)通常国会になっていくのではないか」と述べた。

                     (2009.11.12 18:38 産経)

 外国人地方参政権法案を巡る狂騒曲は小沢幹事長の登場で一段落したようです。この間、小沢さんの考えを忖度して周りの人々がうろうろしているような印象を受けました。小沢さんと党役員たちの関係はどうなっているのか、ぼくもマスコミ並みに心配になってきます。
 この問題は韓国政府や韓国の政党とは関わりのない問題です。韓国民団などが韓国政府に頼って運動を進めてきたため、外交問題に変質しています。そのため、もっとも肝心な在日コリアン大衆の意見が無視されています。韓国民団が在日コリアンの意見を代表しているとは到底いえません。

 小沢さんは外国の政府や政党の声を聞くばかりではなく、在日コリアン大衆の声に耳を傾け、この社会で生まれ育った人々や、これから生まれてくる人々の人権に想像力を働かせてほしいものです。なぜ、投票権だけの、しかも「地方」参政権なのですか?なぜ、「オバマさん」になってはいけないのですか?

 政治家ばかりで議論しても始まりません。民主党はコリアン大衆の中に進んで入り、人々の声に耳を傾けるべきです。
 千葉法相は担当大臣です。かつて拉致実行犯人の釈放嘆願書に署名したそうです。人権を看板にする人が人権の侵害者に手を貸したのです。なぜ、そのような決定的な過ちを犯したのか、しっかり考えてください。その上でこの問題を解決に導いてください。

 健ちゃんが言われるように小沢さんが「大衆政治家」かどうか、ぼくにはわかりません。ただ、この人がいなければ今日の民主党政権はなかったことだけは確かです。
 自民党の幹事長だった方がなぜそこから飛び出したのか?この国に民主主義を確立するためには自民党に対抗するもう一つの政党が必要だという彼の言葉をぼくは文字通り受け取り、それを支持してきました。10年ほどはかかりましたが、今それは実現しつつあります。すごい人だと思います。

 権謀術数だけでこんな大事業ができるはずはありません。どんな方なのか、知る努力をしたいと思います。今度の帰郷で「タマリン館」に寄ります。

 こんなニュースがありました。


 小沢氏「キリスト教は独善的」 仏教は称賛
 
 民主党の小沢一郎幹事長は10日、和歌山県高野町で全日本仏教会の松長有慶会長と会談後、記者団に宗教観を披露した。この中で小沢氏はキリスト教に対し「排他的で独善的な宗教だ。キリスト教を背景とした欧米社会は行き詰まっている」との見解を表明。イスラム教については「キリスト教よりましだが、イスラム教も排他的だ」と述べた。

 国政に影響力を持つ与党の実力者による批判発言だけに、波紋を広げる可能性がある。
 一方、仏教に関しては「現代社会は日本人の心を忘れたり見失っている。仏教は人間としての生きざまや心の持ちようを原点から教えてくれる」と称賛した。

               (2009/11/10 20:56 【共同通信】)

 民主党のHPにもう少し詳しい発言内容が載っています。「仏教は大自然の中に生きる人間がどのようにあるべきか、その生き様を原点から教えてくれると思っている」
 小沢さんの考えの深いところはわかりませんが、その発言に共感します。

  小沢幹事長、松長有慶・高野山真言宗管長と会談
http://www.dpj.or.jp/news/?num=17239

森繁久弥さん逝く 知床旅情

2009-11-12 08:22:45 | 出会いの旅
森繁さんが亡くなりました。若いときからぼくの生活の中にも自然におられる方だったように思います。ラジオの時代の「日曜名作座」は毎週のように聞いていました。加藤道子さんとの二人芝居です。
 
 しかし、森繁といえば「知床旅情」です。1960年代の学生時代に同宿の梶原晃くんがコンパのたびに歌ってくれました。例の森繁節で。

    知床旅情http://www.youtube.com/watch?v=uqkUIjMT0ec

 パリで人力車を引いている梶原くんのグラビアが週刊誌に出たことがありますがいつからか消息が絶えてしまいました。「知床旅情」を聞くたびに彼のことを思い出します。

 父は「お客」のたびに「妻を娶らば」を高唱していました。

 http://www.tei3roh.com/tetsukan.htm

 家族や親族、友人たちが団らんした懐かしい故郷の風景が思い出されます。正月、神祭…。

 
 こんな記事がありました。

 知床旅情ありがとう…森繁さん死去に秘境も悲嘆
             (11月11日0時51分配信 読売新聞)

ありがとう、森繁さん――。戦後日本の大衆演劇を牽引(けんいん)し、北海道とも縁の深かった俳優の森繁久弥さんが10日朝、亡くなった。

 森繁さんが「知床旅情」を作詞作曲してから半世紀。この曲が全国的に大ヒットし、知床の魅力が全国に知れ渡った後も、折に触れて北海道との親交を深めてきたとあって、道内のゆかりの人々はその死を惜しみつつ、口々に感謝の言葉を述べた。

 森繁さんが「知床旅情」を作ったのは1960年。映画「地の涯(はて)に生きるもの」の撮影で訪れた知床で、ロケに協力した地域住民と仲が良くなり、撮影最終日に感謝の気持ちを込めて一晩で仕上げたものが原曲になった。その後、加藤登紀子さんの歌で大ヒットし、知床ブームがわき起こった。

 ロケの時に羅臼村(当時)の職員として受け入れを担当した羅臼町元助役の志賀謙治さん(85)は、「森繁さんはお酒が好きで、羅臼にあった14~15軒の店をほとんど飲み歩いた。旅館に戻る頃には国後の方が明るくなっていて、その体験が知床旅情の『白夜は明ける』という歌詞につながったと聞きました」と思い出を振り返りながら「長い間ご苦労さまでした。いい歌をこの世に残してくれたことに感謝します」としみじみ語った。

 このロケで森繁さんと共演したのは前斜里町長の午来昌さん(73)。当時は喜劇役者のイメージが強かった森繁さんが、頑固者の漁師役を演じる時、「撮影が始まると顔の表情、雰囲気がガラッと変わり、男の中の男の厳しい表情になった。さすが大物役者だと感心した」という。午来さんは「知床に大きな流れを作った偉人。いつも知床のことを気にかけてくれて、町長に当選したとき『善政を頼む』とメッセージをくれた。本当に素晴らしい方だった」と声を詰まらせた。

 映画ロケの際に斜里町商工会長として森繁さんを案内した滝川一馬さん(故人)の長女で札幌市の溜谷真弓さん(63)は、家族ぐるみで森繁さんと親交があった。「71年に私が結婚した時、出席してくれた森繁さんがアカペラで知床旅情を歌ってくれました。張りのある歌声に、出席者全員がしみじみと聞き入ったものです。お亡くなりになり、残念でなりません」と別れを惜しんだ。

 森繁さんは74年、池田町に完成した「池田ワイン城」の落成式に出席し、式典では来賓や町民約5000人とともに「知床旅情」を大合唱したこともあった。当時、池田町長だった丸谷金保さん(90)は「歌声が響き渡り、隣町で『暴動では』と騒ぎになったほど。森繁さんは『こんな田舎に、こんな城を作った池田の町づくりに感動したからギャラは要らない』と言ってくれた」と当時を懐かしんだ。

 森繁さんが知床旅情を作詞作曲してから来年で50周年を迎えるため、地元では祝賀イベントも予定されていた。羅臼町の脇紀美夫町長(68)は、「記念行事を考えていただけに本当に残念。知床が世界遺産となり、今の羅臼の観光があるのは、森繁さんのお陰です。安らかにお眠り下さい」と話していた。

 出典http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091111-00000056-yom-ent

 池田町の丸谷町長は1973年から3年間、ぼくと池袋商業高校の生徒たちを夏の間受け入れてくれた方です。ワイン城が完成したときこんなことがあったのですね。今もお元気とのこと、うれしい知らせです。

 教育大に牛来正夫という地鉱学の先生がおられました。羅臼の町長さんは「午来」となっていますが先生とつながりがあるのかと話題になるたびに思うことです。
 いつのことだったか、妻と一緒に羅臼の街を訪ねて鹿の刺身と「トド」のジンギスカンを食べたことがあります。また行ってみたいところです。

 懐かしい思い出とともにある森繁さん、ありがとうございました。ゆっくりお休みください。