久しぶりに薄日が差したので、花粉を恐れず、川越公園の落葉樹の森を歩いてきました。やっぱり、気持がいいものです。
かつて属していた教職員組合のOB会のニュースに「憲法と私」という文章を書くよう求められていたので今朝ほど送りました。前に『川越だより』に書いたものを縮小改編したものです。
『停戦求め国民集会を 日本国民の責務』http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/36f5abad6fefe184fe86edc6b5ab6ff0
憲法と私 鈴木啓介(1941年生まれ)
「平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。
近年、憲法のこの文言に対して「現実的でない、馬鹿げた認識」の見本だとして批判的な意見が多く見られます。
現実の世界がカネと暴力によって支配されていることは冷厳な事実です。アメリカの巨大な金融資本が世界を攪乱し私たちの生活を脅かしています。近隣の中国も飽くことなく軍事力の強化につとめ東アジアの盟主たらんとしているようです。
北朝鮮は核武装に踏み切り、「先軍政治」と称して軍国主義を自賛する始末です。そして工作員が我が国の領土領海を深く侵して平和に生きる庶民を拉致する暴挙までおかしました。今日に至るまで誠実に解決する姿勢さえ示していません。
この憲法は日本を亡国に導くというひとびとの主張がますます説得力を持つような現実です。
しかし、いや、だからこそ、非戦非武装の憲法を堅持し、非暴力の原理にのっとった国民的闘いによって国際紛争を解決出来ることを世界に示さなければなりません。その覚悟が私たち一人一人に問われているのだと、ぼくは考えます。
戦争によって平和を確立することはできません。数千年のパレスチナの歴史が教えてくれます。生み出すものは憎しみと暴力の果てしない連鎖です。
戦争に負けて私たちはこの憲法を手にし、精神的にもアメリカの植民地になったという人もいますが、曲がりなりにも侵略を自省し、復讐の思想からも解放された私たちは人類史の貴重な財産かも知れないのです。
ぼくは戦争がもたらす苦しみに比べたら、平和の創造に力を注ぐ苦労はそれがどんなに大変であっても耐えられるのではないかと思います。戦争以外の方法で国際紛争を解決するという日本国憲法の原理原則は人類の灯火なのです。問題はそれを行動によって示すことが出来るかどうかです。
かくいうぼくがそうであったように、言うならば一種の「平和ぼけ」がこの国のひとびとの中にあったことは否めません。同胞が隣国の独裁政権の手によって拉致されているのにそのことに気づくことも出来なかったのです。
憲法を守ろうとする勢力に世界の情勢を「公正」に認識する力が欠如していたことを、事実として認めなければなりません。「社会主義」を自称する専制国家を「平和勢力」と思いこむイデオロギー的な偏向があったことはたしかです。冷戦の崩壊後、誰の目にも明らかになったことです。
護憲勢力が国民的信頼を得られない大きな原因の一つです。
世界は未曾有(みぞう)の混乱のただ中に落ち込もうとしています。自らの歴史認識・世界認識をこれでいいかとたえず問い返しながら、独裁に反対し民主主義と人権を地上に実現しようとする世界中の全ての人々の行動に微力でも与していきたいと思います。「平和を愛する諸國民の公正と信義」が不滅であることを、私たち自身が行動によって示すほかに人類生存の道はありません。
かつて属していた教職員組合のOB会のニュースに「憲法と私」という文章を書くよう求められていたので今朝ほど送りました。前に『川越だより』に書いたものを縮小改編したものです。
『停戦求め国民集会を 日本国民の責務』http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/36f5abad6fefe184fe86edc6b5ab6ff0
憲法と私 鈴木啓介(1941年生まれ)
「平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。
近年、憲法のこの文言に対して「現実的でない、馬鹿げた認識」の見本だとして批判的な意見が多く見られます。
現実の世界がカネと暴力によって支配されていることは冷厳な事実です。アメリカの巨大な金融資本が世界を攪乱し私たちの生活を脅かしています。近隣の中国も飽くことなく軍事力の強化につとめ東アジアの盟主たらんとしているようです。
北朝鮮は核武装に踏み切り、「先軍政治」と称して軍国主義を自賛する始末です。そして工作員が我が国の領土領海を深く侵して平和に生きる庶民を拉致する暴挙までおかしました。今日に至るまで誠実に解決する姿勢さえ示していません。
この憲法は日本を亡国に導くというひとびとの主張がますます説得力を持つような現実です。
しかし、いや、だからこそ、非戦非武装の憲法を堅持し、非暴力の原理にのっとった国民的闘いによって国際紛争を解決出来ることを世界に示さなければなりません。その覚悟が私たち一人一人に問われているのだと、ぼくは考えます。
戦争によって平和を確立することはできません。数千年のパレスチナの歴史が教えてくれます。生み出すものは憎しみと暴力の果てしない連鎖です。
戦争に負けて私たちはこの憲法を手にし、精神的にもアメリカの植民地になったという人もいますが、曲がりなりにも侵略を自省し、復讐の思想からも解放された私たちは人類史の貴重な財産かも知れないのです。
ぼくは戦争がもたらす苦しみに比べたら、平和の創造に力を注ぐ苦労はそれがどんなに大変であっても耐えられるのではないかと思います。戦争以外の方法で国際紛争を解決するという日本国憲法の原理原則は人類の灯火なのです。問題はそれを行動によって示すことが出来るかどうかです。
かくいうぼくがそうであったように、言うならば一種の「平和ぼけ」がこの国のひとびとの中にあったことは否めません。同胞が隣国の独裁政権の手によって拉致されているのにそのことに気づくことも出来なかったのです。
憲法を守ろうとする勢力に世界の情勢を「公正」に認識する力が欠如していたことを、事実として認めなければなりません。「社会主義」を自称する専制国家を「平和勢力」と思いこむイデオロギー的な偏向があったことはたしかです。冷戦の崩壊後、誰の目にも明らかになったことです。
護憲勢力が国民的信頼を得られない大きな原因の一つです。
世界は未曾有(みぞう)の混乱のただ中に落ち込もうとしています。自らの歴史認識・世界認識をこれでいいかとたえず問い返しながら、独裁に反対し民主主義と人権を地上に実現しようとする世界中の全ての人々の行動に微力でも与していきたいと思います。「平和を愛する諸國民の公正と信義」が不滅であることを、私たち自身が行動によって示すほかに人類生存の道はありません。