川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

善助さん・国恵さんを訪ねて

2012-01-31 12:12:31 | 父・家族・自分

1月29日(日)☼

12時過ぎ、京急野比駅からタクシーで安田善助・國恵さんを訪ねました。

國恵さんは僕の母の従妹です。91歳になられたということです。先年、妹の桂子さんに先立たれ気弱になっていますが、近くのスーパーなどに買い物にも出かけ家事をこなしています。

善助さんは4・5歳年下です。脚の自由が効かないといいますが時にはバイクで出かけることもあるようです。元々がスポーツマンですから自由に歩け回れないことが悔しくてたまりません。

ご夫婦がそれぞれにたまりたまったお話を間断なく聞かせてくれました。

備忘録・あれこれ

①善助さんは競泳の選手として高知県代表として度々全国大会に出た。ヘルシンキオリンピック(1952年)に出場した西野恭正さん(高知市出身)に100m背泳で勝ったこともある。

練習場所は室戸岬港だったからターンの練習ができなかった(岩壁には牡蠣殻がいっぱい)。大会が近づくと40数km離れた安芸高女のプールで練習した。渡辺格先生が同道して自転車で往復した。

宿毛高校で西野さんの講演を聞いたことがある青年が善助さんが漁労長をしていたマグロ船に乗ったことがある。西野さんは「安田に負けたのが悔しくてたまらなかった」と話していたという。

(室戸岬小学校の二間廊下に飾ってあった善助さんの賞状の正体が解明された)相撲も強く国体で活躍した。

②安田家は軍人一家。長兄(海軍航空隊)はフィリピンで戦死。特攻隊の一員として台湾に待機していたとき、フィリピンに赴く兄とはからずも面会。兄は死ぬのは嫌だが国の命令だからやむを得ないと言ったという。善助さんは鹿屋に配属替えとなって終戦。

 次兄はシベリア抑留中に病死。上官からお母さんに送られてきた最期の様子を知らせる手紙がある。「憎きはロシア、この仇は必ず取る」とあった。

軍人の妻となった國恵おばさんのあの時代に対する嘆きは深い。

③生き残った三兄は敗戦後、海難事故で殉職。パトリシア台風に巻き込まれたマグロ船「みさご丸」、全滅。1949年10月末。

(この時のことはこども心に覚えている。伯父の「三号富佐丸」も全滅。船長は旧安田家の前隣りの森さんだった。)小学校の岩貞先生が作った歌を時々歌った。「時は10月 秋深く 故郷遠く 三崎沖 行く手を阻む 台風は 恨みぞ深き パトリシア」

 

④父の作った通知簿。

 次兄の安田安彦さんの遺品として小学校時代の通知簿が仏壇に保管されている。昭和11年3月27日付となっている津呂尋常小学校高等科一年の通知簿。今で言えば「オール5」。父が担任だったが数字ばかりで通信文を書く欄はない。(父の作った通知簿を初めて見た)

善助さんはそろばんを習った。「よく噛んで食べろ」「味噌汁は三杯飲め。バカの三杯汁と言うのは嘘だ。こればあ栄養のあるもんはない」と教わったらしい。

おばさんは松本先生に裁縫を習ってその道の達人になった。松本先生は「ブルさん」と呼ばれていた。僕にもかすかな記憶がある。

父は昭和7年(1932年)から27年まで津呂の学校(今の室戸岬小学校と旧室戸岬中学校)の教員(戦後は校長)だった。室戸岬の慰霊碑に刻まれている父の生徒だった人の名前は百数十名にのぼる。いつの頃からか自分は戦犯だといっていた。前途ある青年を侵略戦争に送った責任について語り、平和教育の大切さを説いた。安彦さんの姿も思い浮かべていたのか。

⑤海の男

戦後はマグロ船(僕の伯父の船)の漁労長をした。漁獲に恵まれた。その後は水産庁の取締船などに乗った。去年の津波で壊滅した三陸の漁港の惨状を見るのが耐えられないという。

4時前においとました。またお会いできる日まで達者でね!

宿泊は三浦海岸の「マホロバ・マインズ 三浦」。

食後「歌声サロン」に寛いだ。懐かしい歌・新しい歌‥。昔の「歌声喫茶」によく似た歌の広場。リードボーカルのお姉さんが可愛い。

 

 マホロバ・マインズ 三浦

  ●http://www.maholova-minds.com/index.php

 

 


三浦半島お見舞い旅行

2012-01-29 06:27:04 | 父・家族・自分

1月29日(日)

寒い日が続きます。家に閉じこもって日差しのあるベッドで地図を眺めたり、音楽を聴いたりして過ごしています。

今日は三浦半島方面に出かけることにしました。久しくお会いしていないおばさん夫婦に会うためです。

おばさんは母の従妹で90歳をすぎています。お連れ合いの善助さんと二人暮らしです。

善助さんがマグロ船の船員だったため、故郷を遠く離れて、船の基地だった浦賀(横須賀市)辺に住むようになったのです。   

 ファイル:UragaMeiji.jpg

(1890年頃の浦賀港)

(浦賀港)出典●http://koia.web.fc2.com/uraga1.html

 

僕の母校・室戸岬小学校には競泳などで優勝したとして善助さんの賞状がいくつも掲額されていました。文武両道に優れた大先輩です。

そのおじさんも何度か病気をして10mを歩くのがやっとだといいます。同郷の人々が集う「室戸岬会」にもでらなくなったとか。

日頃の無音をお詫び方々お邪魔します。

三浦海岸で泊まったあと、明日は横浜の娘さん宅で療養中の勝義さんを訪ねます。

世代は違ってもそれぞれの分野で精一杯生きてこられた先輩・友人が元気に春を迎えられますように! 

 

 

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2012.01.28(土) 1464 PV 273 IP 2839 位  / 1677841ブログ
2012.01.27(金) 1557 PV 357 IP 1931 位  / 1677454ブログ
2012.01.26(木) 1268 PV 281 IP 2870 位  / 1677147ブログ
2012.01.25(水) 1397 PV 316 IP 2450 位  / 1676823ブログ
2012.01.24(火) 1611 PV 334 IP 2207 位  / 1676474ブログ
2012.01.23(月) 1401 PV 411 IP 1631 位  / 1676086ブログ
2012.01.22(日) 1336 PV 332 IP 2187 位  / 1675734ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2012.01.22 ~ 2012.01.28 10034 PV 2304 IP 2259 位  / 1677841ブログ
2012.01.15 ~ 2012.01.21 11245 PV 2211 IP 2370 位  / 1675324ブログ
2012.01.08 ~ 2012.01.14 15776 PV 1989 IP 2922 位  / 16727
<form style="text-align: left; padding: 0px; margin: 0px;" action="http://blog.goo.ne.jp/admin/access_count/#access_total" method="POST">
トータル閲覧数(PV) <input style="font-size: 12px; vertical-align: middle;" type="text" name="accesst/accesst_pv_user" value="1019337" /> PV
トータル訪問者数(IP) <input style="font-size: 12px; vertical-align: middle;" type="text" name="accesst/accesst_uu_user" value="264227" /> IP

</form>

日本人妻・残留邦人の救出

2012-01-28 06:53:17 | 韓国・北朝鮮

日本人妻の帰国が実現するかもしれないというニュースがあった。事実とすれば、一刻も早くその日を迎えたいものだ。

15年前には500人の日本人妻の帰国が実現寸前まで行ったが日本政府の不手際でおジャンになった。その時の立役者は日本財団の笹川陽平会長だった。

 2007年に書かれた笹川会長の手記を紹介する。「飢餓」を目撃した貴重な記録でもある。

「15年」の月日の経過は酷い。帰郷を願い続けて生き残った人はどのくらいおられるのか?今度こそ、どんな方法でも、絶対に救出しなければならない。 


「北朝鮮在住の日本人妻 救出」


1959年に始まった帰還事業で、在日朝鮮人の夫と共に北朝鮮に渡った日本人妻は約1800人といわれる。

日本の家族や親族へ、手紙で金や物資を無心する過酷な生活環境は大きな社会問題となり、私の記憶に誤りがなければ、1997年頃までは70回以上も国会で論議された。

その頃、拉致問題のメディアでの報道はなく、もっぱら日本人妻の帰還が大きな社会問題であった。その後、拉致問題が大きくなり、日本人妻帰還問題は拉致問題の陰に隠れ、取り上げられることはなくなった。

最近ようやく、超党派の『日本人妻等自由往来促進議員連盟』は、日朝交渉で取り上げるよう福田首相あてに要請文を提出したという。

私はこの問題解決に深く関与した立場から、過去の経緯を述べておきたい。

1997年6月、北朝鮮の食糧危機の実情調査のため訪朝した。その時の悲惨極まりない農村の実態を視察したのは、世界で私一人だったといってもよいだろう。

私は、高級招待所(宿泊場所)で出される山海の珍味も、数百人規模の歓迎パーティーも全て拒否した。理由は「食糧飢饉を調査に来た人間がご馳走を食べることは出来ない。市民と同じ物を食べる」と宣言し、小さなお椀一杯のお粥と数切れの漬物で二日間を過ごした。

社会主義の国々では、このような招待所(ロシアの場合も)は食事のサービス係、メイドに至るまで、全て情報関係の人々が勤務している。私の行動も遂次、上層部に報告されていたことは間違いない。

多分、その結果であろう。首都・平壌(ピョンヤン)郊外の農村部での視察が許された。

ピョンヤンから同行の党幹部も、初めて見る光景に目を潤ませていた。私が農家の一軒一軒の扉を勝手に開けて中の様子を見ると、そこは地獄の惨状で目を覆うばかりであった。

後日200万~300万人が餓死したことが報道された。

このことは後日書くとして『日本人妻帰還問題』に戻る。

到着した翌朝、『張成択』氏との会談となった。『張成択』氏は金正日の実の妹の夫であり、当時は金正日の側近中の側近であった。

朝10時頃、彼は一人で招待所に現われた。写真は駄目という中、絶対に公表しないことを条件に撮影し、今日まで約束を守っている。

二人の激しいやり取りは夕方7時頃まで続いた。

私は、日本人妻の無条件帰国500人を提案した。
なぜ500人に固執するのかとの問いに「ジャンボ機で一度に運べる人数」ということで第1回目は500人を要求。

先方も「元気で帰国出来そうな人数は500人程度かもしれない。1回100人程度でどうか」との提案に「結構です。ただ北京経由は複雑なので日本から直接飛行機を持ち込むこと」で合意した。

「明日の貴男の帰国にピョンヤン市内の日本人妻3名を準備しているので連れて帰ってくれ」との要請に、新たに条件を出される可能性を考え「飛行機を持って来るからその時一緒にしてくれ」と、丁重にお断りした。

帰国まもなく、ピョンヤン放送よりアジア太平洋委員会の名のもと「北朝鮮は人道的立場から日本人妻の無条件帰国を決定した」との発表があった。

この経過は、中山太郎会長(衆議院議員・元外相)のご尽力で、自民党外交部会で説明させていただいた。

ここまで順調に進んでいた日本人妻帰国問題は、橋本首相(当時)の「そういう話はきちっと筋を通してやってほしい」との公式談話で、外務省が突如北朝鮮との交渉に乗り出してきた。

私は、日本人妻帰国問題は民間人の募金活動で実現したいと考えていた。

なぜなら、日本人妻は自分達の自由意志で北朝鮮に行かれたわけである。これに国費を投入することは出来ない。

外務省に「南米諸国に自由意志で移民した人々が帰国したいといったら国費を出すか」と問い質したが、聞く耳を持たなかったどころか、私と張成択氏との交渉経過の事情聴取もせず、北朝鮮の統一線部・金容淳や外交部との直接交渉に乗り出した。

ある日、外務省の責任者が挨拶に見え「日本人妻帰国問題は1回につき16人~17人の人数で決定した」と報告した。

私は「1回100人で交渉は妥結したのだからその線で再考慮願いたい」といったところ、「中国人孤児の帰国は一度に16~17人と厚生省(現・厚生労働省)が決めているので、暗に厚生省が100人に反対している」というような説明があった。

私は、政府が活動を開始した以上民間人が介入することは失礼だと考え、以来、北朝鮮問題については一切沈黙を守っている。

日本人妻は二度にわたる小規模な帰国が実現されたが、その後中断され、今日に至っている。北朝鮮の信じられない無条件での大幅な譲歩を生かしきれず、絶好の機会を逸したことは慙愧にたえない。

歴史に“ i f (イフ)”は禁句だが、あの時、1回100人、日本の飛行機がピョンヤンに飛んでいれば、あるいは拉致被害者もその延長上で解決されていたかも知れない。

先ほども書いたように、日本人妻の帰国問題以来、北朝鮮への日本政府の直接交渉が始まり、以後、北朝鮮問題では一切の発言をしないことにした。

政府が直接交渉を開始された以上、民間人の勝手な動きは自粛するのは当然であるからであり、また今の私にはその力もない。

日本人妻の帰国を望む家族や拉致被害者家族の悲痛な叫び声を聞くたびに、ただただ胸をつまらせるのみである。

当時の毎日新聞と雑誌『選択』を参考までに添付した。




記事の内容は下のファイルで見れます

 
出典・笹川陽平●http://blog.canpan.info/sasakawa/archive/1340

韓国の核燃料再処理 河野太郎議員に学ぶ

2012-01-27 09:31:58 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

1月26日(木)☼

 昼前、久々に川越公園の遊歩道を歩いた。ふらふらと不安定なあゆみ。人が見たら夢遊病患者と思うかもしれない。

それでも30分ばかりで往復することができた。歩くことがどんなに大切か。一歩一歩歩きながら考えさせられた。

 

 河野太郎さんのブログに韓国の使用済み核燃料の再処理に関わる記事があった。日本に続いて韓国が再処理を始めると東アジアの核不拡散体制が崩れ東アジアの不安定化が一気に進むという。

 何兆円という膨大な金を使ってすすめられてきた日本の再処理は故障だの不具合だので無駄そのものだが、アジアの緊張を高めることにもなっている。

 気付かなかったことばかりで勉強になった。

 

韓国の再処理を止めよ

2012年01月24日 08:16|外交問題核燃料サイクル自民党役職停止中

正月のワシントン訪問で、普天間移設問題やF35の調達のようにまだ前面には出ていないが、底の方で大きなうねりになっていた問題が、韓国の再処理だ。

日本は、核燃料をアメリカから協定に基づいて供給を受けており、アメリカから輸入した核燃料を再処理する場合は、アメリカ政府の合意が必要とされていた。

一九五五年の日米原子力協定では、使用済み核燃料は米国に返還されるものと明示され、日本での再処理は認められていなかった。

一九六八年の日米協定で、初めて日米両国が共同決定した場合に、日本で再処理ができるという条項が盛り込まれた。

そして東海村の再処理施設の運転に関して条約上の共同決定が必要となり、一九七六年から九か月にわたる日米再処理交渉が行われ、一九七七年九月十二日に日米合意が成立した。

当時、カーター政権は、核不拡散政策を強化しつつあり、日米交渉は難航したが、この日米合意は、日本が再処理を行うことを認める一方、日本に対してそれまで以上の義務を課すものではなく、日本の原子力関係者は、再処理を『交渉で勝ち取った権利』と認識するようになった。

日本と同様に、韓国も再処理を始めるためには、米韓原子力協定の改定が必要だ。そして現行の米韓協定が満了する2014年にむけてこの問題はだんだん大きくなっていくだろう。

韓国では、原発施設内での使用済み核燃料の中間貯蔵拡大に対する地方自治体の懸念、北朝鮮の核開発に対する警戒、そして、再処理が日本に対して認められているのにもかかわらず韓国にそれが認められていないことなどから、再処理を始めようという気運が原子力関係者の中で盛り上がっている。

韓国の原子炉の中には、2016年までに使用済み核燃料プールが一杯になるものがある。しかし、自治体の反対で、同じ敷地内の新しい原子炉の使用済み核燃料プールに移したり、ドライキャスクに移したりすることは難しいと、韓国の原子力関係者は主張する。

アメリカ政府は、再処理は経済的合理性がない、放射性廃棄物の処理を複雑にするなどと韓国の再処理に反対の姿勢を見せているが、日本があくまでも再処理にこだわっていることが、韓国の立場をより強硬にしている。

2009年5月の北朝鮮の核実験以降、韓国は"Nuclear Sovereignty"、つまり再処理に対して日本と同じ権利を韓国が持つべきだと主張している。

しかし、日本に続いて韓国にも再処理を認めれば、その次にどこかの国が同じ主張をした時に、アメリカはますますノーと言いにくくなる。そして、すでに南アフリカが再処理に名乗りを上げようとしている。

日本にとって、再処理はもはや前向きな意味を持たない。だから、まず、日本が再処理から撤退し、韓国が新たに再処理を始めることをやめさせるべきだ。

韓国が再処理を始めれば、朝鮮半島で核レースが始まりかねず、北東アジアは一気に不安定化する。また、もし、韓国が再処理を始めれば、現在の核不拡散の体制は崩壊しかねない。


日本国内に、再処理は、日本の抑止力維持のために必要だなどという主張がある。そんなばかげた議論にはまったく与するつもりはない。しかし、プリンストン大学のフォン・ヒッペル教授によれば、アメリカの核弾頭に使われているプルトニウムの総量は、38トンであり、日本が保有するプルトニウムの総量は45トンだ。日本はもう既にアメリカの核弾頭以上のプルトニウムを保有しており、抑止力云々というばかげた議論を展開するにしても、再処理でこれをそれ以上増やす必要は全くない。

韓国が再処理を始めるのを止めるためにも、我が国の原子力政策を転換し、再処理から撤退すべきなのだ。


出典●http://www.taro.org/2012/01/post-1151.php


『お兄ちゃん』 倍賞千恵子著

2012-01-26 09:10:23 | 映画  音楽 美術など

1月25日(水)晴れ

昼前風もなく日差しもあったので久しぶりに市街に。ベーグルを買ったあと丸広に寄ってお弁当などをゲット。たったこれだけのお使いなのにすっかり疲れてしまった。寒さで閉じこもる日が続いたので体がなまっているのだろう。

 午後は日差しのあるベッドで『お兄ちゃん』(倍賞千恵子著、廣済堂出版)を読む。娘がインターネットで取り寄せてくれた古本。渥美清がなくなった翌年・1997年の刊行だ。

       お兄ちゃん 倍賞千恵子

渥美清の思い出に触れながら自分の半生を語る‥そんな本である。一気に読んだ。

第2章が「滝野川から『下町の太陽』へ」。

 僕にとっても懐かしい滝野川での一家の生活が彷彿としてくる。階段の途中に並んでとった5人姉弟の写真がいい。1950年代半ば、千恵子さんは中学生か?

お姉さんの節子さんは中学を出ると万年筆会社で働きながら定時制に通った人だ。池商はまだなかったから、北園高校かな?

あるとき突然「ブラジルに行きます」と言って一家を大騒動に巻き込んだらしい。妙なことだがこの辺が一番印象に残った。

著者はこう書いている。

「ただやさしいだけじゃなくて、人には見せびらかさないけど、心の中にはいろいろドラマを持っていて、でもわがままを通さずに、周りの人たちのためを考えているような、そんなさくらさんを演じられればなあと、節ちゃんを見ていて思ったものでした。」

寅さんの台本とともに「さくら」役が降ってきたときに倍賞さんは節子姉さんの姿を観察して「さくらになーれ」と呪文を唱えたという。

寅さんの葛飾・柴又は倍賞さんにとって「滝野川でなじんだ世界」「知り尽くしている世界」だった。

 

「あー、こんな人たちにまた会えるんだ、こんな人たちが住んでいるところが映画の舞台になるんだ」感激して、声をだして滝野川の人たちに伝えたいほどでした。

 

自分のなじんだ世界で自分の大好きな「節っちゃん」を思い浮かべながら役作りをするのですから心強く嬉しい映画づくりだったろう。

倍賞さんに「さくら」役が回ってきたのは69年5月頃だったという。

僕が滝野川の池袋商業に転勤したのは69年4月のことだ。八木茂夫さん一家をはじめこの地域で世話になった方々も「寅さん」に出てきて少しも違和感のない人たちだ。そんなことも思った。

八木さんはガリ版と鉄筆で製版(蝋原紙)する筆耕を仕事とする方だった。


最高裁宮川裁判官の反対意見 国旗国歌強制問題

2012-01-25 07:15:05 | こどもたち 学校 教育

16日の最高裁(第一小法廷・裁判官5人)の判決文の中から宮川裁判官の反対意見を紹介する。

東京都教育委員会が卒業式等において「君が代は歌えない」と静かに着席する教員に対し、懲戒処分を課し、定年後の再雇用を認めないなどの報復処分をすることを最高裁は追認する判決を出した。

 これは驚くべきことである。こんなことを許したら「学校」は死んでしまう。僕はそう考える。

「君が代の強制」に疑問を感じ、強権が発動された中でも静かに自分の意思を表明できる教師は今や「学校の寳」ではないのか。そんな多少でも「自分」を持つ人間を排除して成り立つ「学校」のおぞましさを想像できる裁判官が一人でもいたことは救いだ。

 宮川裁判官が指摘していることは人類普遍の原理として僕らが小学校で習ったことだ。ごくごく普通のことを言っているに過ぎない。だが、その原点に帰って民主主義と人権をこの国の社会と学校に確立する闘いを私たちひとりひとりが開始していかなければならない。

 

裁判官宮川光治の反対意見は,次のとおりである。

 多数意見は,本件職務命令は憲法19条(思想及び良心の自由)に違反せず,ま

た,第1審原告X4を除くその余の第1審原告らに対し戒告処分をした都教委の判

断は懲戒権者としての裁量権の範囲にあるとするが,私は,そのいずれについても

同意できない。なお,第1審原告X4に対する減給処分を裁量権の範囲を超えるも

のとした結論には同意できるが,理由を異にする。

 第1 本件職務命令の憲法適合性について

 1 原審は,第1審原告らがそれぞれ所属校の各校長から受けた本件職務命令に

従わなかったのは,「君が代」や「日の丸」が過去の我が国において果たした役割

に関わる第1審原告らの歴史観ないし世界観及び教育上の信念に基づくものである

という事実を,適法に確定している。そのように真摯なものである場合は,その行

為は第1審原告らの思想及び良心の核心の表出であるか少なくともこれと密接に関

連しているとみることができる。したがって,その行為は第1審原告らの精神的自

由に関わるものとして,憲法上保護されなければならない。第1審原告らとの関係

では,本件職務命令はいわゆる厳格な基準による憲法審査の対象となり,その結- 17 -

果,憲法19条に違反する可能性がある。このことは,多数意見が引用する最高裁

平成23年6月6日第一小法廷判決における私の反対意見で述べたとおりである。

なお,そこでは,国旗及び国歌に関する法律と学習指導要領が教職員に起立斉唱行

為等を職務命令として強制することの根拠となるものではないこと,本件通達は,

式典の円滑な進行を図るという価値中立的な意図で発せられたものではなく,その

意図は,前記歴史観等を有する教職員を念頭に置き,その歴史観等に対する強い否

定的評価を背景に,不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制すること

にあるとみることができ,職務命令はこうした本件通達に基づいている旨を指摘し

た。本件では,さらに多数意見が指摘する「地方公務員の地位の性質及びその職務

の公共性」について,私の意見を付加しておくこととする。

 2 第1審原告らは,地方公務員ではあるが,教育公務員であり,一般行政とは

異なり,教育の目標に照らし,特別の自由が保障されている。すなわち,教育は,

その目的を実現するため,学問の自由を尊重しつつ,幅広い知識と教養を身に付け

ること,真理を求める態度を養うこと,個人の価値を尊重して,その能力を伸ば

し,創造性を培い,自主及び自律の精神を養うこと等の目標を達成するよう行われ

るものであり(教育基本法2条),教育をつかさどる教員には,こうした目標を達

成するために,教育の専門性を懸けた責任があるとともに,教育の自由が保障され

ているというべきである。もっとも,普通教育においては完全な教育の自由を認め

ることはできないが,公権力によって特別の意見のみを教授することを強制される

ことがあってはならないのであり,他方,教授の具体的内容及び方法についてある

程度自由な裁量が認められることについては自明のことであると思われる(最高裁

昭和43年(あ)第1614号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号6- 18 -

15頁参照)。上記のような目標を有する教育に携わる教員には,幅広い知識と教

養,真理を求め,個人の価値を尊重する姿勢,創造性を希求する自律的精神の持ち

主であること等が求められるのであり,上記のような教育の目標を考慮すると,教

員における精神の自由は,取り分けて尊重されなければならないと考える。

 個々の教員は,教科教育として生徒に対し国旗及び国歌について教育するという

場合,教師としての専門的裁量の下で職務を適正に遂行しなければならない。した

がって,「日の丸」や「君が代」の歴史や過去に果たした役割について,自由な創

意と工夫により教授することができるが,その内容はできるだけ中立的に行うべき

である。そして,式典において,教育の一環として,国旗掲揚,国歌斉唱が準備さ

れ,遂行される場合に,これを妨害する行為を行うことは許されない。しかし,そ

こまでであって,それ以上に生徒に対し直接に教育するという場を離れた場面にお

いては,自らの思想及び良心の核心に反する行為を求められることはないというべ

きである。音楽専科の教員についても,同様である。

 このように,私は,第1審原告らは,地方公務員であっても,教育をつかさどる

教員であるからこそ,一般行政に携わる者とは異なって,自由が保障されなければ

ならない側面があると考えるのである。

 3 以上のとおり,第1審原告らの上告理由のうち本件職務命令が憲法19条違

反をいう部分は理由がある。

 第2 懲戒処分の裁量審査について

 1 多数意見は,本件職務命令の違反を理由として,過去に同種の行為による懲

戒処分等の処分歴のない第1審原告らに対してなされた戒告処分(以下「本件戒告

処分」という。)は,懲戒権者としての裁量権の範囲を超え又はこれを濫用したも- 19 -

のとはいえないという。そこで,私も,本件職務命令の憲法適合性に関する判断を

留保し,また,本件戒告処分自体も憲法19条に違反する可能性があるが,その判

断を留保し,その上で,本件の懲戒処分に係る裁量審査に関し,私の反対意見を述

べる。以下,2において考慮すべき諸事情のうち第1審原告らの行為の原因,動機

及び行為の態様と法益の侵害の程度について述べ,3において本件では戒告処分は

実質的にみると重い不利益処分であることを指摘し,4において他の非違行為に対

する処分及び他地域の処分例と比較すると不公正であることを述べる。

 2 第1審原告らの不起立行為等は,「日の丸」や「君が代」は軍国主義や戦前

の天皇制絶対主義のシンボルであり平和主義や国民主権とは相容れないと考える歴

史観ないし世界観,及び人権の尊重や自主的に思考することの大切さを強調する教

育実践を続けてきた教育者としての教育上の信念に起因するものであり,その動機

は真摯であり,いわゆる非行・非違行為とは次元を異にする。また,他の職務命令

違反と比較しても,違法性は顕著に希薄である。

 第1審原告らが抱いている歴史観等は,ひとり第1審原告ら独自のものではな

く,我が国社会において,人々の間に一定の広がりを有し,共感が存在している。

また,原審も指摘しているが,憲法学などの学説及び日本弁護士連合会等の法律家

団体においては,式典において「君が代」を起立して斉唱すること及びピアノ伴奏

をすることを職務命令により強制することは憲法19条等に違反するという見解が

大多数を占めていると思われる。確かに,この点に関して最高裁は異なる判断を示

したが,こうした議論状況は一朝には変化しないであろう。

 第1審原告らの不起立行為等は消極的不作為にすぎないのであって,式典を妨害

する等の積極的行為を含まず,したがって,式典の円滑な遂行に物理的支障をいさ- 20 -

さかも生じさせていない。法益の侵害はほとんどない。

 3 第1審原告らは,最初の不起立行為等で本件戒告処分を受けたのであるが,

その処分が第1審原告らに与える不利益については過小評価されるべきではないと

思われる。確かに,戒告処分は法の定める懲戒処分の中では最も軽いが,処分を受

けると,履歴に残り,多数意見も認めるとおり勤勉手当は当該支給期間(半年間)

において10%の割合で減額され,昇給が少なくとも3か月延伸される可能性があ

り,その延伸によりひいては,退職金や年金支給額への影響もあり得る。そして,

東京都の教職員は定年退職後に再雇用を希望するとほぼ例外なく再雇用されている

が,戒告処分を受けるとその機会を事実上失い,合格通知を受けていた者も合格は

取り消されるのが通例であることがうかがわれる。

 都教委は,不起立行為等をした教職員に対し,おおむね1回目は戒告処分,2回

目は1か月間月額給与10分の1を減ずる減給処分,3回目は6か月間月額給与1

0分の1を減ずる減給処分,4回目は停職1か月の停職処分等という基準で懲戒処

分を行っていることがうかがわれる。毎年度2回以上の卒業式や入学式等の式典の

たびに懲戒処分が累積加重されるのであるから,短期間で反復継続的に不利益が拡

大していくのである。戒告処分がひとたびなされると,こうした累積処分が機械的

にスタートする。

 以上のとおり,実質的にみると,本件では,戒告処分は,相当に重い不利益処分

であるというべきである。

 4 教職員の主な非行に対する標準的な処分量定(東京都教育長決定)に列挙さ

れている非行の大半は,刑事罰の対象となる行為や性的非行であり,量定上それら

に関しても戒告処分にとどまる例が少なくないと思われる。原審は,体罰,交通事- 21 -

故,セクハラ,会計事故等の服務事故について都教委の行った処分等の実績をみる

と,平成16年から18年度において,懲戒処分を受けた者が205人(うち戒告

が74人)であるのに対し,文書訓告又は口頭注意といった事実上の措置を受けた

者が397人,指導等を受けた者が279人となっており,服務事故(非違行為)

と認められた者のうち懲戒処分を受けたのは4分の1にも満たないとし,これによ

れば,戒告処分であっても,一般的には,非違行為の中でもかなり情状の悪い場合

にのみ行われるものということができるとしている。

 さらに,不起立行為等に関する懲戒処分の状況を全国的にみると,懲戒処分まで

行っている地域は少なく,例えば神奈川県や千葉県では,不起立行為等があって

も,またそれが繰り返されていても,懲戒処分はされていないことがうかがわれ

る。

 このように比較すると,本件戒告処分は過剰に過ぎ,比例原則に反するというべ

きである。

 5 以上を総合すると,多数意見がいう不起立行為等の性質,態様,影響を前提

としても,不起立行為等という職務命令違反行為に対しては,口頭又は文書による

注意や訓告により責任を問い戒めることが適切であり,これらにとどめることなく

たとえ戒告処分であっても懲戒処分を科すことは,重きに過ぎ,社会通念上著しく

妥当性を欠き,裁量権の範囲を逸脱し,又はこれを濫用するものであって,是認す

ることはできない。この点に関する原審の判断は相当である。

 第1審原告X4については,多数意見は減給処分の取消請求を認容した原審の判

断を是認することができるとしており,結論において同じとなるが,上記のとお

り,私の意見は理由を異にする。なお,多数意見は,過去の処分歴に係る非違行為- 22 -

がその内容や頻度等において規律や秩序を害する程度の相応に大きいものであるな

どの場合は,減給処分が裁量の範囲にあるものとされる可能性を容認していると思

われる。そうであるとすると,前述のとおり式典は毎年度2回以上あり,不起立行

為等を理由とする戒告処分は短期間に累積されていくのであるから,ある段階では

減給処分がなされる可能性がある。多数意見は,起立斉唱行為に係る職務命令は思

想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることを認めていることに

鑑みると,ただ単に不起立行為等が累積したにすぎない場合に減給処分が裁量の範

囲にあるものとされる可能性を容認することは,相当でないと思われる。

(裁判長裁判官 金築誠志 裁判官 宮川光治 裁判官 櫻井龍子 裁判官   

横田尤孝 裁判官 白木 勇)

 出典●最高裁判決(全文)http://okidentt.sakura.ne.jp/hinokimi/2012saikousaihanketsu/2012saikousaihanketsu.pdf

 

 


恢復を!祈る

2012-01-24 06:11:13 | 友人たち

1月24日(月)

昨日は夜になって雪になりました。積もるかと昼のうちにスコップを用意しておいたのですが、朝になると道路に雪はなく、屋根や塀の上などに残っている程度です。いいお湿りになったかな。

太陽のない寒い日が続きました。今日は陽の光を浴びて散歩が出来るかと期待しています。

昨日、神戸に住む大学の新聞部の幸子先輩が病に倒れたという知らせを受けました。大事には至らなかったとも聞いてホッとしています。

僕が就職して大島高校に赴任したとき、「日本史事典」を送ってくれました。学校の都合で「日本史」を担当することになった窮地を察してくれたのです。

 70年代にはなんども神戸を訪ねました。在日コリアン問題や問題で先進的な取り組みをしていた福地幸造さんなどに教えを請うたのです。そんな時に泊めてもらいました。

 去年秋、何十年ぶりかにお会いしたばかりです。

70をすぎて老齢世代になったのですから「病気」も自然な現象ですが、元気そのものだった先輩の姿を思い起こして「発病」の現実をなかなか受け容れられません。何人かの友人に知らせて、衝撃を和らげました。

また、あの笑顔に接することができる日を願うばかりです。

 勝義さんも旧年末、交通事故にあって足を骨折したということです。今は横浜の娘さんの家に身を寄せてギブス生活を続けています。幸いにも回復は順調で2月8日にはもとの生活に戻れそうだとのことです。

 今日あたりから天気も回復してきそうです。僕も散歩などで元気をつけて横浜に見舞いに行こうかと思い始めています。三浦半島まで足を伸ばして親戚の叔母さん夫婦にもお会いしてこようかな。

 先輩や友人の世話になりながら歩んできた人生です。しみじみそう思います。

 

 


孫正義・少年時代の詩    「涙」

2012-01-23 05:52:32 | 在日コリアン

              涙        安本正義

君は、涙を流したことが

あるかい。

「あなたは。」

「おまえは。」

涙とは、どんなに、

たいせつなものかわかるかい。

それは、人間としての

感情を、

あらわすたいせつなものだ。

「涙。」

涙なんて、

流したらはずかしいかい。

でも、みんなは、涙をなが

したくてながしては、

いないよ。

「じゅん白の、しんじゅ。」

それは、人間として、

とうといものなのだ。

「とうとい者なん

だよ」

それでも、君は、はずかしい

のかい。

「苦しい時」

「かなしい時」

そして、

「くやしい時」

君の涙は、自然と、あふれ

出るものだろう。

それでも、君は、はづかしい

のかい。

中には、とてもざんこくな、

涙もあるのだよ。

それは、

「原ばくにひげきの苦しみを、

あびせられた時の涙」

「黒人差別の、いかりの涙」

「ソンミ村の、大ぎゃくさつ」

世界中の、人々は、今も、そして、

未らいも、泣きつづけるだろう。

こんなひげきをうったえる

ためにも、涙はぜったいに欠

かせないものだ。

それでも君は、はづかしいの

かい。

「涙とは、とうといものだぞ。」

 

 (1970年2月4日) 出典『あんぽん 孫正義伝』P69~

孫正義さんが北九州市立引野小学校6年生の時「通信ノート」に書いた詩。ノートは担任だった三上喬さんの手元に保管されているという。

三上喬さん。

「思い出すのは、そう、彼の目です。授業中、目をかっと見開いて、正面を見据えているんです。微動だにせずに。子ども離れしたすさまじい集中力でした。」

「しかも、その目が澄み切っていた。邪心というものがないんです。何かを必死で学びとろうと、熱い視線を教師に向けている。そんなことを感じることなど、長い教師生活でもめったにありません。」

孫さん(安本という通称を使っていた)は「あんぽん」と卑しめられた。4年生のときには教師になりたいと思うが国籍条項があることを知り、帰化をしたいと父に問う。父は祖父が生きている間は無理だと答えたらしい。

三上先生は彼が在日コリアンであることは知らず、その悩みにも気付かなかったという。

今この詩を読むと正義を「社会の子」として育てなければと思った父の思いがよく理解できる。


『あんぽん 孫正義伝』

2012-01-22 09:37:14 | 在日コリアン

ワクワクドキドキ、久しぶりに本を読む醍醐味を味わった。一昨日は病院の行き帰りの電車の中、昨日は一日中ベッドの上で夢中になって読んだ。『あんぽん 孫正義伝』 小学館が創業90周年記念企画として出版した本だという。著者は佐野眞一。                                                

この本を紹介したり、評論したりする力は僕にはない。それでも「川越だより」の読者に読んで欲しいと思うので小学館の宣伝文の受け売りをする。

      

ここに孫正義も知らない孫正義がいる 


今から一世紀前。韓国・大邱で食い詰め、命からがら難破船で対馬海峡を渡った一族は、豚の糞尿と密造酒の臭いが充満する佐賀・鳥栖駅前の朝鮮に、一人の異端児を産み落とした。
ノンフィクション界の巨人・佐野眞一が、全4回の本人取材や、ルーツである朝鮮半島の現地取材によって、うさんくさく、いかがわしく、ずる狡く……時代をひっかけ回し続ける男の正体に迫る。
“在日三世”として生をうけ、泥水をすするような「貧しさ」を体験した孫正義氏はいかにして身を起こしたのか。そして事あるごとに民族差別を受けてきたにも関わらず、なぜ国を愛するようになったのか。なぜ、東日本大震災以降、「脱原発」に固執するのか――。
全ての「解」が本書で明らかになる。

 

宣伝文通りだなあと思う。かつて佐野眞一という人の本を読んだことがある。『遠い「山びこ」 無着成恭と教え子たちの40年』(新潮文庫)。

「山びこ学校」の卒業生たちのひとりひとりを訪ねて一冊の本を書き上げていく著者の姿勢に深い敬意を感じたのではなかったか。

今回の取材はより一層困難だったに違いない。正義の父・三憲への最後の取材を著者は「最終決戦」と名付けているくらいだ。『週刊ポスト』連載中の

取材で舞台裏も明かされていて迫真力がある。正義の父方、母方の親族の人々が次々と登場する。ド外れた骨肉の愛憎物語で満ちている。

正義も知らない正義を生んだ歴史に深く切り込んだ著者に正義は感謝しているが、さすが大人物だなあと思わずにはいられない。

正義の思想や言動に批判・危惧を感じながらも深く尊敬する著者の正義への心のこもったエールの書かもしれない。

自分を生んでくれた歴史と風土から逃げるな、それを捉えかえすところから正義はさらに進化し、人々の期待に応えられるリーダーに深化するだろう。そんな願いが込められたエールだ。

 僕は感動のしっぱなしだったが、二箇所だけ紹介する。

①「正義はわが子ではなく“社会の子”」(P138~P143)

「孫が小学校低学年の頃、こんなことがあった。(略)。三憲はそんな大人びた正義の表情を見て、この子は自分の子じゃない、社会のために使わなければと思ったという。

出来すぎた話のように見えるが、その後の孫と三憲の関係は、確かにこの通りに進んだ。三憲は正義をわが子としてではなく、いわば”社会の子”として扱ったのである。」

(略)の部分に何が書かれているかは、本を読んでのお楽しみ。小6の時に書いた詩「涙」には心を打たれる。確かに社会のリーダーに成長していってほしい子である。そう認めて三憲は自分のやり方で「エリート」教育をした。「孫正義」は確かにこの父の子だ。

②「泣いても喚いても連れ出す」(P247~P250)

  出典●武雄市長物語●http://hiwa1118.exblog.jp/15274154/

孫正義は2011年3月22日、福島県田村市の体育館を訪ね、被災者たちに語りかけたという。同行した佐賀県武雄市の樋渡市長の目撃談。

「孫さんは、完全に鬼神と化していましたね。ここにいる人を何としてでも救わなければ、という使命感です。‥避難所の方ひとりひとりに声をかけて、目をしっかり見て話しかけておられました。しかも、孫さんの目は涙ぐんでいるのです。」

「孫さんは、『こんな放射能の危険性のある場所からは、一刻も早く退去したほうがいい』『九州への移動費用は私が出します。雇用もなんとかします』と切々と訴えていました。感極まったのか、時々、手が震えていました。」

孫正義は福島に行く前日に西日本を中心に17の県知事に直接電話でかけあって30万人の被災者の受け入れ枠をとって福島に乗り込んだのだという。

正義の言葉。

「泣いても喚いても、引っぱたいてでも連れ出すのが本当のリーダーだと思う。地元も人たちは『誰が家畜に餌をやるんだ』『誰が畑に水をやるんだ』といって動こうとしませんから。政府が明確に避難命令を出さなければいけない。『全部補償するから、安心して、まず一回避難しましょう』といえばいいんです。

残っている人がいると、商店やガソリンスタンドなど、ライフラインの人たちやその家族も残らざるをえない。人情や義理が絡んで、しがらみで動けない。結局、動けない人は弱者だったり、いい人だったり。」

こういうことを言える人が今の日本にもひとりはいたのである。政治家にはただひとりもおらず、被災者は放射能地獄のただ中に置かれ続けている。

 危機のただ中にあって福島の人々に心を込めて避難を呼びかけた人がコリア系日本人の孫正義という人だったことを私たちは心に刻み込んで置かなければならない。僕はコリア系のこどもたちはこの国の宝のような存在だと言い続けてきたが、この本を読んで心が高ぶるような感動を覚えている。

 

 

 

 

 

 

 



しばらくは「自由の身」

2012-01-21 06:40:02 | 父・家族・自分

1月20日(金)みぞれ・雨

寒い一日。午後、癌研有明病院で西尾医師の診断がありました。

「イレッサの服用中止から2週間。副作用による肝機能障害は改善に向かっている。今日以後グロチリンなどの服用はやめる。

2月6日のCT検査の結果を見て抗がん剤タルセバによる治療開始日を決める。」

 CT検査の結果がわかるのは2月10日(金)です。

それまではカリウム不足を補う「スローケー」という錠剤を飲み続けるだけで「自由の身」です。

病気を忘れて少しでも体を動かしたいものです。

故郷の同級生、巨樹くんの声を聞きました。

肺がんと闘ってきた先輩です。イレッサを2年半服用し、其の後5年間発病の無い方です。すっかり元気を取り戻して畑仕事もしているようです。

「タルセバ(抗がん剤)は飲まんといかん。あとは気力」と励ましてくれました。

 


コリア系日本人 孫正義さん

2012-01-20 06:55:39 | 在日コリアン

東日本大震災・福島第一原発の事故という未曾有の災厄のただ中で傑出した存在感を示し、リーダーシップを発揮したのは孫正義(そん・まさよし)さんでした。多額の寄付のみならず、「脱原発ー自然エネルギーへの転換」という道筋を素早い行動ではっきりと示したのです。

 僕などは何もできませんがケータイをDocomoからiPhoneに切り替えてささやかながら孫さん支持を行動で示すことにしました。

孫さんの行動はコリア系日本人の存在感を日本社会にはっきりと示すことにもなりました。

孫さんの両親は朝鮮半島から渡来してきた人ですが孫さんが生まれたのは佐賀県鳥栖市であり国籍は日本です。日本国籍を持つという意味では紛れも無く日本国民であり、日本人です。ルーツを明示する言い方をすればコリア系日本人ということになります。(僕は土佐系日本人です)。

 「コリア系日本人」。単民族国家観が支配してきた日本社会ではまだ一般的な呼称になっているとはいえませんが既に数十万人の単位で存在しています。(アイヌ系日本人よりは多いと思われます)。孫さんの存在と行動はコリア系日本人がこの社会の大切な構成員であることを改めてそして鮮やかに私たちに示しました。歌の世界やスポーツの世界で示してきた人はいますが世論のリーダーとして社会を引っ張るところまで活躍した人は初めてだと思われます。社会的混乱のただ中でしたからその存在は一層光ります。

 孫さんの活躍は在日コリアンのこどもや青年にも大きな影響を与えていると思われます。

「在日コリアン」。植民地支配の時代に日本に渡来したコリアン・及びその子孫で「韓国」または「朝鮮」の国籍を持つ人。日本政府が「特別永住」という在留資格を認めている。日本生まれの2・3世が中心で4・5世が生育中。39万人くらい。

民団や総連の在日コリアンの旧来型のリーダーたちは今日に至ってもこどもや青年たちに「韓国人」「朝鮮人」として生きるように誘導しています。この国で生まれ育った人たちに外国人として生きよといっているのです。

北朝鮮の独裁政権を支える海外公民として若者を錬成しようとしているのが「総連」です。韓国の国民として韓国の国会議員や大統領選挙に参加しようと呼びかけているのが「民団」です。

 朝鮮総連のやっていることは犯罪に等しいと僕は思っています。韓国民団のやっていることもこどもや若者を惑わせる時代錯誤の間違った指導です。(この点については改めて書きます)。

「コリア系日本人」という生き方が在日コリアンのこどもや青年にとってもっとも自然な道で、自分を生かし、社会に貢献する人生につながると僕は考えています。

孫さんはそのような生き方を切り拓いてきた先覚者の一人であり、そのために様々な困難を乗り越えてきた人です。今その努力が実って後輩たちの輝かしい灯台となったことを僕は心から讃えます。

孫さんが乗り越えた困難二つ。

 ①通名ではなく本名で起業

ソフトバンクの前身であるユニソン・ワールドを起業する際、日本名である「安本」ではなく韓国名の「孫」の名前で会社を興すことを決め、そのことを一族に伝えたが、親・親戚には、在日が日常生活で差別されることはかなり減ったが、就職では間違いなく差別され、銀行も絶対金を貸さない、お前の認識は甘い、ハードルは十倍あがる、わざわざ好んでその難しい道を行くのか、と猛反対された。それに対して孫は「たとえ十倍難しい道であっても、俺はプライドの方を人間としてのプライドの方を優先したい、俺はどれだけ難しい道だって堂々と正面突破したいんだ」 と答えた。一族からは「お前は青い」とも言われたが、父親は何も言わず黙って孫の話を聞いていたという。[24]孫の名前にこだわった理由はもう一つあり、それは渡米する際に心に決めた志と通名による起業が矛盾するということであった。孫は佐野眞一に対して「何十万人といる在日韓国人が、日本で就職や結婚や、それこそ金を借りるとき差別を受けている。 でも在日韓国人であろうが、日本人と同じだけの正義感があって、能力がある。それを自分が事業で成功して、 証明しなきゃならないと思ったんです。これからの在日の若者に、それを背中で示さなきゃいけないのに、俺が 本名を隠してこそこそやったんじゃ、意味がなくなるじゃないか、アメリカに行った目的が達成できないじゃないか。 あとから、あの事業を興したのは、実は孫でしたと言ったって……」(NEWS ポストセブン 2012/1/4 孫正義氏「安本」ではなく「孫」を名乗った時親戚は反対したより引用)と述べている。
 出典●http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%AD%A3%E7%BE%A9

 ②孫という姓で日本国籍を取得 
 孫は,アメリカの大学留学時に知りあった2歳年長の妻:大野優美に頼り,彼女をてこに使うという高等戦術を案出・駆使して,日本国籍を取得した。孫 正義が通名:安本正義を棄て,その韓国の氏名のままで,日本国籍を取得するためには相当の時間を要した。というのは,法務省が孫という姓のままでの「帰化」申請を,長いあいだ認めなかったからである。

 日本人がアメリカ国籍を取得するさいは,たとえば「佐藤→サトウ:Satou」「鈴木→スズキ:Suzuki」「孫田→マゴタ:Magota」となるだけで,日本〔人〕の姓じたいを無理やりかえさせられることはない。孫はそこで,日本国籍取得での難問:アポリアを克服するに当たっては,「一休頓智話」のような逸話を残してみごと解決した。まず配偶者の大野に日本の法律にしたがい「孫」に改姓させ,つぎに日本にも孫という姓があるという実績を踏まえて,「孫」という姓への帰化=日本国籍取得を実現した。

 法務省は,日本人の姓には存在しない〔とする!〕「姓=孫」なのだから,日本国取得のさい選ばせる『日本の「姓」』としては認めていかった,というのである。もっともいまでは「金でも李でも朴でも」「〈帰化〉申請できる」ように改正されているが,孫という韓国の姓によるその申請がまだ認められない当時,正義は便法:迂回作戦を企図・実行し,「孫」という姓で日本国籍をとったのである。

 出典●http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=4107982

 

 

 日本国籍をとって「コリア系日本人」の道を選択したのは1990年のことで孫さんは33歳でした。タブー視されてきた道を一人切り拓く行動力の源はどこにあったのか。

 「あんぽん」という本が出版されたそうです。今日の病院への行き帰りに買って読んでみます。

  【書評】『あんぽん~孫正義伝』佐野眞一著

孫さんたちが切り拓いた道を歩いてやがてこの国の政治的リーダーになる人も現れるでしょう。

 

 

 

 

 


1000年前の高知市

2012-01-19 09:22:14 | ふるさと 土佐・室戸

こんな図を見せてもらいました。高知市の1000年前だといいます。紀貫之が国司の任を終えて国府(南国市・大津の右上方)~大津~浦戸を経て京都に向かったのは934年と言いますからだいたいその頃の高知です。

 

出典●http://bbs9.aimix-z.com/gbbs.cgi?page=&viewcont=th&room=tosa&mode=res&no=190

 

僕の想像とそれほどの開きはなかったのですが西の方にも海が深く入り込んでいたのですね。

山内一豊が大高坂山に城を築き今の高知市街を作ったのは17世紀の初めです。「河内」と呼ばれていたと中学生の頃に郷土史を読んで知りました。「田辺島」「比島」などという地名には馴染みがあり、土佐日記が書かれた頃には海だったことは僕にも十分想像できることでした。

それでもこの想像図を見ると「そうだったのか」と改めて思い知らされます。

ブログ友・ケンチャンの住む双葉町は「葛島」の西南辺りで、浦戸湾沿いのゼロメートル地帯です。敗戦直後の南海地震では水没しました。

  

いずれ確実に起こるであろう南海地震・津波などの災害に備えて数年前から自主防災組織を作っていざというときに備えて活動されています。高岡郡仁淀川町との交流もそのひとつです。日頃からの交流を深めて災害時には集団疎開などを含めた協力関係を結ぶ試みです。

      

 出典●ケンチャンの吠えるウオッチングhttp://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/cat22725754/index.html

途方もなく遠大な構想を着実に現実のものにしていく取り組みには驚くばかりです。「市民」とはこういう人たちのことか、と思わされます。

東日本大地震級の地震・津波が起これば高知市街の大半が水没するといいます。1000年前の想像図を見れば納得がいきます。

干拓・開拓地の上に市街を築いてきた祖先たちの営為も大自然の猛威の前にはひとたまりもありません。そんなことを私たちは去年教えてもら

ったのですね。「高台に逃げる」「高台に移住する」以外に何か対抗策というものがあるのでしょうか。

 

 


iPhone

2012-01-18 09:37:05 | 父・家族・自分

1月16日(月)

 諸般の事情からdocomoの携帯電話を廃棄し、softbankのiPhone4に切り替えました。面倒な切り替え手続きは全て娘任せです。電話番号の変更などはありません。

   Iphone 4G-2.jpg

 非常用に携帯電話を持つようになって2年。年寄り向けの?もっとも単純なケータイなのに使いこなせているとは言えません。そんな人が時代の先端を行くiPhoneを持つというのですから、どなたも「?!」でしょう。

 これも時代の贈り物とありがたく受け止めて可能なところから利用していきます。

今日こんなニュースを読みました。こどもまでケータイが普通になると人間社会はどんなことになるのか?僕は乱暴にも中学を卒業するまでは禁止せよなどと心の中で思ったりします。

昨年11月の移動電話、普及率が100%突破

産経新聞 1月17日(火)16時21分配信

 電子情報技術産業協会(JEITA)と情報通信ネットワーク産業協会(CIAJ)は17日、移動電話(携帯電話・PHS)の累計契約数が2011年11月に総人口を初めて超え、普及率は100・4%に達したと発表した。

 JEITAの担当者は「小さな子供も利用するようになったほか、(昨年12月発売されたプレイステーションVitaのように)通信機能を持つ携帯型ゲーム機での契約にも後押しされ、契約数はさらに伸びるだろう」と話している。

 まとめによると、昨年11月の携帯電話出荷台数は193万5000台で、前年同月比36・7%減と大きく落ち込んだ。ただ、調査対象の10社にアップルが含まれていないため、同社が10月に発売したスマートフォン(高機能携帯電話)「iPhone4S」の分の欠落が原因のひとつだとみられる。


最高裁が決めた処分基準 国旗・国歌強制問題

2012-01-17 09:27:08 | こどもたち 学校 教育

 

最高裁判所は昨日(16日)、学校の卒業式などにおいて日の丸・君が代の強制に不服従の意思を示し着席する教員に対する処分基準を「判決」と称して発表した。

東京高裁段階では「懲戒処分は不当で無効」から「減給」「「停職」まで判断が大きく別れていた。 

最高裁の決めた基準は懲戒処分を妥当とするもので例え度重なっても「減給」や「停職」は「慎重に」というものだ。宮川光治裁判官だけは懲戒処分そのものに反対の少数意見。

 僕の目には司法の一員たる衿持を保つ裁判官は宮川さんだけであとの4人は行政権や立法権を併せ持つ「お上」そのものに見える。

この問題の背景には今日の世界情勢の中で学校教育の目的をめぐる大きな対立がある。国権重視と民権重視の対立という側面もある。

僕の考えはしばらく置いて今日は「毎日」と「産経」の社説を紹介します。見つかり次第、宮川裁判官の意見も紹介します。読者が今この国

にどんな教育が必要かと考える資料にして欲しいと思います。大阪では「教育基本条例」を作って不服従に「免職」をもって対応しようとして

います。ただならぬことです。

 

毎日新聞社説:日の丸・君が代判決 行き過ぎ処分には警鐘

 学校の式典で、日の丸に向かって起立せず、君が代を斉唱しなかった教職員を懲戒処分にするのは妥当か。東京都立学校の教職員が処分の取り消しを求めた訴訟で、最高裁が具体的な考え方を初めて示した。

 結論としては、学校の規律や秩序保持などの見地から重すぎない範囲で懲戒処分をするのは、懲戒権者の「裁量権の範囲内」というものだ。

 では、どういう場合が重すぎるのか。最高裁は「戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択するに当たっては、慎重な考慮が必要となる」と指摘して、まず線引きをした。

 さらに、停職処分については「直接の職務上、給与上の不利益があり、昇給にも影響が及ぶ。式典のたびに懲戒処分が積み重なると、不利益が拡大する」と指摘。学校の規律や秩序の保持と処分による不利益の内容を比較し、「停職処分が相当だという具体的な事情が必要だ」とした。具体的な事情は、過去の処分歴や本人の態度などから判断するのだという。そして、最高裁は停職と減給処分を受けた2人の処分は取り消しが妥当と結論づけた。その点を都教委は重く受け止めるべきだ。

 一方で、戒告処分の教職員について、判決は処分を妥当だとした。1度の不起立行為での戒告処分も認めた。要するに「行き過ぎ」はいけないということだろう。

 都教委は03年、「式典の際に教職員は国旗に向かって起立し、国歌を斉唱すること」と通達した。また、校長に職務命令を出すよう指示し、違反者に次々と懲戒処分を科して処分件数は400件を超える。

 だが、そもそも教育現場で、力で抑え込むような指導が妥当なのかは疑問が残るところだ。生徒らの入学や卒業を祝う式典の場ではなおさらではないだろうか。

 学校で君が代斉唱を巡り処分が相次ぐようになったのは、99年に国旗・国歌法が成立した影響も大きいだろう。だが、当時の小渕恵三首相が国会論議で述べたように、個々人に強制するものであってはならない。

 最高裁は昨年、君が代斉唱時に起立を命じた校長の職務命令が合憲だとした判決で「君が代の起立・斉唱行為には、思想・良心の自由に対する間接的な制約となる面があることは否定し難い」と述べた。たとえ戒告処分であっても慎重に判断すべきなのは当然だ。判決を「より軽い処分」のお墨付きにしてはならない。

 大阪府では昨年、公立校教職員に君が代の起立・斉唱を義務づける全国初の条例が成立した。府議会には、「常習的な職務命令違反者」の分限免職も規定した教育基本条例案が提出されている。最高裁の判決の内容も踏まえて議論してもらいたい(毎日新聞 2012年1月17日 2時31分)

 

 

【主張】
国旗国歌判決 悪質違反は厳しく処分を

2012.1.17 03:36 [産経新聞主張

 最高裁で学校行事での国旗国歌をめぐる3件の判決が下された。国歌斉唱の際、起立しなかった教師に対する東京都の処分を不当とした2審判決を破棄するなど、大筋で妥当な判断である。しかし一方で、停職や減給を行き過ぎとした一部判断には疑問が残る。

 3判決では、国旗国歌への指導や教師への職務命令について昨年5月以降の最高裁判決を踏襲し、改めて合憲と判断した。そのうえで懲戒処分のうち最も軽い「戒告」に問題はなく、昨年3月、教職員約170人への戒告処分の取り消しを命じた2審・東京高裁判決を破棄し、処分を有効とした。当然である。

 ところが戒告よりも重い「停職」や「減給」などについては裁量権の逸脱を一部認め、処分の取り消しを命じた。国旗の引き下ろしやゼッケンの着用、文書配布といった積極的な妨害や抗議行動などがない場合、停職や減給処分まで科すのは違法という判断だ。教育委員会に抑制的で慎重な対応を求めたといえる。

 だが、停職処分が取り消された教師は過去2年間で3回、不起立により処分を受けている。積極的な妨害はしていないといっても、校長による再三の指導や処分にも一向に耳を貸さず改めなかった。判決がこうした実態を踏まえなかった点は残念だ。

 指導を無視し続けた結果、処分が重くなっていったのは当然である。そもそも卒業式など厳粛な式典の雰囲気を壊し、児童生徒に及ぼす悪影響を考えると、停職1カ月の処分はむしろ妥当で、「公務員は身分が守られ過ぎている」と感じる国民は多いだろう。

 大阪府では再三の職務命令にも従わない教職員について、処分を明確にする条例が検討されている。処分に高いハードルを課す今回の最高裁判決によって、条例化の作業自体が停滞する恐れもある。さらに各地の教育委員会が処分をためらい、見て見ぬふりをしている教育界の悪弊が一層強まることも危惧される。

 国旗や国歌を大切にするのは国民の素養だ。子供たちにも、きちんと教えなければならない。ところが学校では、長年にわたって国旗や国歌を政治闘争や裁判闘争の道具とする教師勢力がおり、さまざまな弊害がもたらされてきた。教育委員会には、さらなる毅然(きぜん)とした対応を求めたい。

関連「川越だより」

 「都教委の処分は職権濫用」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/b57c92cab11803c3398b39a02023b3eb

 「宮川裁判官の少数意見を支持する」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/2ef915a55703b1983cee9d3bf32292a7

 「『故郷』をもうひとつの国歌に」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/92f7f41a1714996a070cd8798ad04b6f

 

 

 


アムール

2012-01-16 05:03:42 | 父・家族・自分

伊豆高原の宿で大相撲の中継を見たとき「阿夢露(アムール)」という力士が新十両として紹介されていた。ロシアの出身でアムール川のほとりで少年期を過ごしたという。もう28才になるが強くなりそうにみえた。中日現在、7勝1敗である。

       阿夢露アムール川とは聞きなれた川だがどこにあるのか?さっぱり思い出せない。「アムール川の波」という歌を思い出すと妻は言うがこれも?

昨日、黒い箱(パソコンのこと)に教えてもらった。 

極東ロシアを流れハバロフスクを経て間宮海峡に注ぐ。中国では黒竜江という。中ロ国境を流れる大河だ。

なんだ、そうだったのか。(近頃はこんなことが多い。いろいろなことをどんどん忘れていくなあ)

今年の夏には黒竜江省を尋ねるかもしれない。95年に行ったときにはハルビンの近くで黒竜江の支流・松花江(songhua)を見たが今度は黒竜江(amur

)を見にいけるだろうか。      

ロシアでは父なる大河というそうだが黒竜江省から来た残留孤児2世たちにも自慢の大河だ。

「アムール川の波」を聞いてみた。遠い昔よく聞いた歌だった。  

    アムール河の波 AMURSKIE VOLNY

【作曲】 M.キュッス KJUSS MAKS A 
【編曲】 V.サカロフ SOKOLOV VLADISLAV G 
【作詞】 ワシレフ VASILEV KONSTANTIN B 
     ポポフ POPOV SERAFIM ALEKSEEVICH 
【訳詞】 合唱団白樺

1.見よアムールに波白く  シベリアの風立てば
  木々そよぐ川の辺に
  波さかまきて あふれくる水 豊かにながる

2.舟人の歌ひびき  くれないの日はのぼる
  喜びのうたごえは
  川面をわたり はるかな野辺に 幸(さち)を伝える

3.うるわしの流れ  広きアムールの面(おも)
  しろがねなし しろがねなし さわぐ川波
  広き海めざし 高なりゆく波
  しろがねなし しろがねなし さわぐ川波

4.自由の河よアムール  うるわしの河よ  
  故郷の 平和を守れ
  岸辺に日は落ち 森わたる風に
  さざなみ 黄金をちらす

5.平和の守り 広きアムール河
  我が船は行く しぶきをあげて
  へさきに立てば 波音高く
  開け行く世の さちをたたえて

6.見よアムールに波白く  シベリアの風立てば
  木々そよぐ川の辺に
  波さかまきて あふれくる水 豊かにながる

 

 鮫島有美子「アムール川の波」 ●http://www.youtube.com/watch?v=_xl88vfS5UU