川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

父のプレゼント

2007-09-28 11:55:08 | 父・家族・自分
 昨夜は山の端に出た満月が煌々として、風もさわやか、秋の気配です。子供の頃はご馳走を持って室戸岬に月見に行く習慣がありました。尖端に「月見が浜」は今もありますが月見の話題は聞きません。
 思いのほか、故郷滞在が長引きました。父の状態にかわりはありませんが、姉も日常生活に復帰しましたので、私たちはいったん川越に帰ることにしました。
 
 父の見舞いといっても僕は何をしたわけでもありません。妻は家事を引き受けましたから、姉にとっては大助かりです。東京で育って東京しか知らなかった人が、この39年間のうちに僕よりもこの町になじんでいます。家族に何かあれば飛んできて面倒を見てきたのです。いつの間にか、土佐弁も身について、僕の友人たちも驚いています。こんな「嫁さん」はどこにもいないのです。
 父がくれた長い故郷滞在(子供のとき以来でしょう)の間に、体験したことはあらましここに書いてきましたが、12歳の少年のまま忽然と消えた人間ですから、生活の襞(ひだ)にまで降りてこの村の人々を理解することは困難です。これがまた新たなきっかけとなって同級生たちとの交流が深まることを楽しみにしています。長く、鮪船に乗っていた人たちも今ようやく安穏な生活に帰ったのですが、友人たちと交流する機会は少ないようです。病気を抱える人も増えています。
 過疎の過酷な現実が進むばかりで、希望のもてる話は聞けません。そんな中で堀川さんとその仲間たちに出会えました。少しでも多くの人に知ってもらいたい人たちでした。都市に住む人間にどんな協力が出来るか、ぼくも心に留めておきます。
 他に加領郷の琵琶ケ瀧、北川村の不動の瀧、伊尾木川の源流部なども訪ねました。徳島県木頭村との境に近いところで、拡大造林が進む頃、ぶなの原生林を購入保存した人がいることを知りました。近年、その遺族が安芸市に寄付し今は森林公園になっています。歩いてみる時間がなく、その人の名を記録して帰りました。いま、高知県東部でぶなの原生林が残っているのはここだけだということです。この事実もここまで(物好きにも)いかなければわからないことです。せっかくの公園を知る人はほとんどいないようです。
 農民を煽動して拡大造林を進めた学者や役人(林野庁)の中でその責任を明らかにした人の名を聞いたことがありません。徹底的に自然を破壊したのみならず、山に人が住めないようにしたのです。NO!といった人を変人扱いにし、孤立させていったのではないでしょうか。村里であったおばさんはぶなは役に立たない木だから(しょうがなかった)といっていましたが。

 あちこちの村を訪ねたり、彼岸まで海洋プールで浮かんだりして僕は元気をたくさん貰いました。高校生になってもまだ、父についてもぐりに行っていた僕のことです。そのひ弱さを良く知っているので、人生の最後のときまでこんな機会を与えてくれたのかもしれません。「命ある限り生きなきゃならない」。父に聞いた最後の言葉です。今年4月のことでした。父は自分に言い聞かせながら僕を励ましてくれたのでしょうか。
 
 先日の稲刈りの様子が写真で紹介されています。
 http://www.neconote.jp/gc/p070923yonegaoka/

カマスの釣堀

2007-09-25 22:44:29 | ふるさと 土佐・室戸
 昨日は一日雨。今朝は晴れたので、室戸岬新港に散歩に行ってみると岸壁に釣り人がぎっしり並んでいる異様な風景に出くわしました。市場側にはカナル君もいます。港にカマスの群れがはいって、入れ食いの状態です。防波堤に登って数えてみると釣り人は100人前後です。
 この町にこんなにおんちゃんがいたのかとちょっとびっくり。僕の知り合いは他に近所のユキボウだけです。午後覘いてみたときにも人数が減った気配はありません。高い油代を費やして沖に出るより、こちらのほうが「良い漁場」なのかもしれません。季節によって様々な魚がこうやって回遊してくるようです。

 夕方、福田首相が誕生しました。安倍前首相と自民党幹部が民主主義の原理をわきまえている人たちであれば、これは参議院選挙直後になされていたはずのことです。なぜそれができなかったのか。「国政に対する責任がある」とか言っていたが、要するに一度手にした権力を手放したくなかっただけのことでしょう。それがこのていたらくです。世界中に恥をさらした挙句、空転国会のために、おそらく数十億円という単位の国費が吹っ飛んでしまうはずです。こんな傲慢でわきまえのない連中に国政を壟断されている日本国民こそ、いい面の皮です。「責任がある」と胸を張っていらっしゃったお方たちに、せめて空費された数十億円の損害賠償を求めたらどうでしょう。
 安倍さんは国民に謝るというなら、少なくとも国会議員を辞職すべきです。野党の党首が会ってくれなかったからだとか、見え透いたうそまでついたのですから。野党にはこういう点もしっかり追求してほしいものです。現状を追認し、ただ面白おかしく、映像を垂れ流すだけのTV局にもあきれ果てます。少なくてもNHKの視聴料は支払拒否で対抗したらどうでしょうか。新聞も同様です。これはとらなくても何も困りません。4月から我が家は定期購読をやめました。読みたいときにはコンビニで買います。
 選ばれたのが元首相の子供だというのもあきれます。先刻、元首相の孫が不始末をしでかしたばかりだというのに、だいじょうぶなんでしょうか。福田さんといい、麻生さんといい、こんな人しか自民党にはいないのか。田中真紀子さんではありませんがまるでボンボンの幼稚園です。野党の人たちにここは頑張ってもらって、衆議院の解散総選挙を一日も早くやらなければ議会制度が機能しなくなります。といっても、野党のほうもいまいちピシッとしませんね。妻は「国会議事堂はボンボン議員の『イケス』だ。カマスが釣れるだけ『平成の阿呆堀』のほうがましだ」と言っています。
 どこを見ても若者が希望を持って生きるのが難しい現実です。国会にも人々の苦労がわかる人をおくりたいものです。僕がコリア系の友人たちに、この国の批判者にとどまることなく国民となって政治に参加する道を切り拓いてほしいというのはこのことともかかわってっています。間接民主主義のシステムが確立してから60年、そろそろアイヌ系、沖縄系、コリア系の首相候補が出てくるようでなければ未来はないと僕は思っています。

 

稲刈り

2007-09-24 16:15:51 | ふるさと 土佐・室戸
 昨日は堀川さんの田んぼの稲刈りの「見学」に行きました。朝早く、咲子さんがお連れ合いが獲ってきたばかりの鯖を届けてくれました。事情を話すと他の方に分けて上げる分まで「皆に食べてもらって!」。この日が彼岸の中日ということで姉が作った「おこわ」と兄に貰った日本酒とともに、私たちとしては最高の差し入れが出来ます。

 稲刈りの主役は高知大学の学生、10余人。人文学部の上田健作ゼミの学生たちで堀川さんの後輩です。地元の方のアドバイスを受けながら稲刈りとハザ作りが同時進行です。田んぼの水はけが悪くドロに足を取られながら、女子学生が鎌を手に刈り進めます。刈り取った稲はあぜ道までそのたびごとに運ばなければなりません。上田先生もときどき指示を出しながら一緒に働きます。
 男子学生はこの村で一番若手の百姓だという方の指導を受けながら、竹を3本組み合わせた支えの間に長く太い棒を渡してハザを作ります。
 僕は見学しているだけというわけにはいかないので稲刈りにほんのちょっと挑戦。ドロ田に降りなくてもいいようにあぜ道から手の届く範囲の4株ぐらいを一列だけ、それも休み休み刈り取りました。鎌で刈る感触を味わうのは1975年以来です。73年から3年間、北海道の池田町の農家に生徒たちと世話になって農作業の真似事をさせてもらったのです。
 ドロまみれになりながら働く、近くの女子学生に話しかけてみました。小学校で田植えや稲刈りの体験があるとか、田舎生活に関心があるとかの返事が返ってきます。上田ゼミではこの奈っチャンの田んぼだけでも何回も作業支援に来るのです。田植えと稲刈りだけではありません。当然のこととはいえ、一人ひとりに、このゼミに参加した動機があるようです。
 一列だけ刈るのがやっとで休んでいると、奈っチャンから稲を束ねるように指示が出ました。30センチぐらいの紐でハザに架けられるように、束ねていくのです。休み休みしながら、それでも3時間ぐらい働いたところで、お昼。

 妻は先生の奥さんと一緒にみんなの食事作り。丸木美術館の行事のたびに経験していることですから、今回も飛び入りとはいえしっかり役立ったことでしょう。咲子さんの鯖もシメサバとなって若い人に喜ばれました。炎天下に机と椅子を出しての食事風景。僕はとてもついていけないので屋内から眺めました。
 昼食後、新入生二人と雑談しました。Aさんはお隣の田野町、Bさんは兵庫県宝塚市の出身。卒業後のことを考えるのは未だ先のことですが、こうやって地に足をつけてものを考え、力をつける営みに積極的に参加する姿勢に感心させられます。
 上田先生は50過ぎくらいで九州の農家の育ちらしいのですが、いつごろからどうしてこういう取り組みを始めたのでしょうか。僕のような口舌の徒ではありません。大学の先生が過疎の村の人々と連携して、村の再生の可能性に実践的に取組む。奈っちゃんのような人が育ってきているのですから、研究の面でも教育の面でも力のある方に違いありません。
 奈っちゃんは大学院に進むそうです。どういう人生航路をたどるのでしょうか。高知の地で師に恵まれ、友に恵まれた人々の姿を見て僕も本当に嬉しい。
 午後は働く人々からひとりはなれて、生活体験学校の一室で昼寝を決め込みました。バターンキューで2時間も眠ってしまいました。女子学生たちが帰るときに僕らも辞することにしたのですが、奈っちゃんや地元のかたがた、男子学生たちはこの日の作業を終わらせるべく、力を尽して働いていました。

水掛地蔵

2007-09-22 21:31:58 | ふるさと 土佐・室戸
 今朝は遍路道を登って東寺(最御崎寺・ほつみさきじ)にハイキングするつもりで室戸岬に行きました。彼岸だということで、駐車場の脇の水掛地蔵さんがにぎわっていたので寄ってみると同級生のテルマサ君夫妻に出会いました。長く船に乗り、定年で降りてからは沿岸の小型漁船で漁に出ています。4年前に帰郷したとき、何十年ぶりかで会うことが出来ました。
 台風などで遭難した数え切れないほどの漁船の乗組員の霊を供養する地蔵さんが並んでいます。たいていは船ごとに一体で、台座に遭難者の氏名が刻んであります。室戸岬の鮪漁船が盛んだった頃には毎年のように遭難事故があったのです。
 僕が小2の昭和24(1949)年10月には3号富佐丸とみさご丸が遭難し、乗組員全員が行方不明となりました。学校の先生が歌を作って、僕らに教えてくれました。

  「時は10月 秋深く ふるさと遥か 三崎沖 行く手を阻む台風は 恨みぞ深き パトリシア」

 富佐丸の船主は伯父だったので、従兄弟の家には今でもそのときの船から発信された悲痛な電信記録が残されています。「ケンメイニササエチュウ」という言葉を覚えています。

 テルマサ君は自分も船乗りでしたから、思いは深いのだと思います。長い柄の竹柄杓で地蔵さんに丁寧に水をかけお参りをしています。ナオキ君のおとうさんが昭和31年に遭難していることを教えてくれました。僕らは中3のときになります。僕はここに居らず、親しかった友の悲しみにほんの今まで気づかなかったのです。

 テルマサ君について忠霊塔にも行ってみました。岬町出身の戦死者の名前が数え切れないほど刻まれています。何度も父と来たところです。
 堀内真輝治。大学生のとき、中平解というフランス語学の先生(東京教育大)が僕を呼び、この人のことを調べさせました。明治大学の学生のとき、「出征」し、戦死したのです。先生は堀内さんのことが忘れられず、僕に歌一首を作ってくれました。先生は文学部長、僕は文学部の自治会委員長という出会いでした。

 テルマサ君の二人の伯父さんの名が刻まれています。先日あったヒガキ君やタケボウのお父さんの名もあります。これらのことも初めて知ったことです。中高という大人になり始めるときに、一緒に生活しなかったということはこんなにも大きな欠落を僕の中にもたらしたのです。ナオキ君のことといい、これではとても友達とはいえません。
 今日は偶然、テルマサ君ご夫妻にあえて本当に良かった。並んで写真を撮ってもらいました。小学校以来のことでした。

 東寺への長い階段の道を登り、お参りをし、鐘をついて帰ってきました。札所めぐりのお遍路さんにたくさん出会いました。歩いているのはほとんど男です。

 日差しの強い一日だったので夕方は新港で泳ぎました。竹田君と楠本君という岬小の6年生が泳ぎ仲間になってくれました。シャツを着て靴を履いて泳ぎます。僕のまねをして浮かびます。ナガリもとるし、魚つきもやるそうです。さすがに室戸の子です。6年生は男11人、女3人だそうです。好きな人の奪い合いをするとか。二人は少年野球も一緒で、本当に仲がいいのでしょう。
 6年生まで、この二人のように、毎日遊んだり、勉強したりした、ハルオくん、マサやん、トシカズくんたちのことを思い出します。はやく逝ってしまって、いい友を持った喜びを今、分かち合うことが出来ないことは本当に寂しい。

きいちご基金HP開設

2007-09-21 20:51:33 | 中国残留日本人孤児
 
四月に発足した『きいちご多文化共生基金』のHPが開設されました。
 
     http://www.geocities.jp/kiichigokikin/
 
 一人ひとりの事情や特徴をともかく認めた上で、交流を大切にしながら民主主義の社会を作っていく。その為に意見交流や出来ることをやっていく小さなグループです。当面、中国残留孤児や脱北帰国者(北朝鮮を脱出して日本にたどり着いた元在日コリアンとその家族)のかたがたとの交流を中心に出来ることをやります。
 こういうことは私たち名もなき者が「相身互(あいみたがい)」の思いをほんのちょっとずつ大切にして、生きている限りやっていくことです。ですから思いがある限り誰でもが仲間です。
 どうか、ときどき、ご覧になって、よかったら感想や意見を遠慮なく書き込んでください。
 当たり前のことを実現することが難しい世の中です。異見を我慢をしながらでも認め、いっしょに取組むことを見つけていきたいものです。


 奈判利(なはり)の米ケ岡を訪ねたときのことを写真つきで紹介してくれたブログがあります。なはりサポータークラブというのは個性的な魅力ある人がいるのだなあと改めて感心しました。日曜日の稲刈りに招待されましたので、見学に行きます。

 http://www.neconote.jp/gc/

 

故郷はあなたを忘れていません。

2007-09-21 12:17:21 | ふるさと 土佐・室戸
 19日(水)朝、散歩がてら、漁船の水揚げの様子を見ようと市場に行きました。向こうから挨拶してくれる方がいます。小学校の同級生の咲子さんです。お連れ合いの勇さんの船が沖から帰るのを待っているのです。先にお兄さんの船が着き、奥さんが水揚げを手伝っています。
 やがて勇栄丸がやってきました。「待っちょりよ」といってから、勇さんが魚庫からタマアミで箱に掬い揚げた魚の水揚げを手伝います。鯖(さば)、赤ムロ、とびうお、うるめ鰯(いわし)など。釣果は少ないそうです。
 漁獲のなかから、食べきれないほどの魚をビニール袋に入れて持たせてくれました。思いがけないことですが、本当に嬉しい。勇さんは5歳くらいは年上か、僕は今までお会いしたことがありません。小学校までしかここで育っていない僕がこの町で知っているのは同級生だけ、といってもいいくらいなのです。黒く日焼けして、いかにも室戸の漁師らしい温和な笑顔を見せてくれました。お礼の言葉は伝えたつもりですがきちんと届いたでしょうか。
 前夜、10時ごろ出港。一本釣りです。針が手に引っかかって病院に世話になったりもしたそうです。近頃は不漁続きで、油代にならないこともあるが、沖に出る生活は毎日、変わらないようです。
 勇栄丸は市場の岸壁を離れ、母港に帰っていきます。咲子さんはこれから勤めに出掛けます。「また来(き)いよ」といってバイクを走らせました。
 咲子さんのお父さんと僕の父は同級生だということですが54でなくなられたそうです。子供の頃、家が近かったので仲も良かったのかもしれません。勇さんの叔父さんの米一郎さんは父の朋輩で、正月など僕が帰郷しているとき、子供のころの話などを楽しそうに話してくれました。
 父が退職後、市会議員になったのは米一郎さんが議員職を退くに際して、後を「為やん」(為利ですが誰もがこう呼びます。僕は「啓やん」です)に託したからでした。晩年、高知市に住むようになり、一緒に飲む機会がなくなったことは父にとってもっとも寂しいことだったと思います。
 咲子さんとは4年前に子供のとき以来の邂逅がありました。それがきっかけで咲子さんから聞いた話を「木苺」に書いたのです。1960年10月、帰国43船で北朝鮮に帰った朴貞香(中2)元達(小6)姉弟のことです。僕は室戸岬小学校の校庭の隅に朴さん一家が立てた植樹記念碑を前から知っていたのですが、この一家のことを何一つ知らなかったのです。
 朴姉弟と家が近かった咲子さんに再会することで、一緒に遊んだ日々のことを聞くことが出来、僕もなんだか会ったことがあるような懐かしい気持になりました。咲子さん(僕らはさっこちゃんと呼びます)は「出来ることならまたあってみたいなあ」といわれたので、僕も本当にそういう日を来させたいと思うのです。
 貞香さんは61か2になっています。北朝鮮の何処かで元気に生活していることを祈るばかりです。土佐の室戸の友達のことを思い出すことがあるに違いありません。そのなかには「さっこちゃん」がきっと含まれていることでしょう。芯は強いが温和で優しいお姉さんだったはずです。
 室戸を訪ねてくれたら、寂しい思いはさせません。姉弟を思い起こすことの出来ない僕もそう思っています。
 自分かわいさのために、日本からの帰国者が生まれ故郷を訪ねることすら認めない、金独裁政権とどう闘ったらよいのか。マツモトさんのご意見を戴いたばかりですが皆さんはどのように考えていますか。
 北に「帰った」人は10万人近くにのぼるのです。そのなかには朝鮮人の夫に連れ添った日本人女性もたくさんいます。それらの人々は今も「日本国民」です。拉致された人々のことと共にこれらの人々の消息を明らかにすることは、日本国家の最低限の義務です。なぜ、このことが政治的課題にならないのか。問われているのは私たちでもあります。
 
 

拉致被害者家族の声を受けとめることから

2007-09-19 11:38:27 | 韓国・北朝鮮
小泉訪朝、「拉致被害者8人の死亡」など衝撃的なニュースが流れてから17日で5年がたちました。横田めぐみさんなどを取り戻す目途が立たないうちに横田さんのお父さんは入院とか。僕は2度お会いしたことがあるだけですが穏やかでリベラルな元銀行マンです。何とかして娘さんを取り戻してお孫さんとともに家族団らんのときを過ごしてほしいものです。
 だいぶ前に松本さんのコメントをいただきましたが、僕は拉致被害者家族の方々がときに過激な発言をされるのは当然のことだと思っています。大事なことは政府や国民である私たちが救出のために全力を尽しているかどうかということです。他国の部隊が領海領土を侵し、平和のうちに生活している人々を拉致して行ったのですから、これは立派な「侵略」です。
 戦争を放棄した日本国民として、同胞を取り戻すためになにをしたらいいのか、一人ひとりが考え、力を合わせて闘うほかはありません。そういう体制が整ってきているでしょうか。残念ながら政府任せになっているように見えます。特に人権運動に取組んできた『護憲派』知識人、政党の退廃振りは目に余るものがあります。
 拉致が金正日の命令によることがはっきりしてからも、拉致被害者の声に耳を傾け、力を合わせて独裁政権とその手先である朝鮮総連幹部と闘う道に踏み出そうとしないのです。
 拉致問題を政府の最大課題と位置づけてきた安倍政権の無責任ぶりもこの国の権力層の退廃を示すものです。国民の「不信任!」をはねつけて、挙句の果てになんにもせずに政権を投げ出す。安倍さんは天罰を受けて当然です。自民党は解党して民主主義の破壊を天下にわび、政権を野党にゆだねるべきです。
 現実はどうか。開会された国会は空費され、野党もマスコミも自民党の親分選びを指をくわえてみているだけ。この人たちには怒りというものがないのだろうか。そんなにこの国は安泰なのだろうか。僕はただただあきれ果てています。天罰を受けるべき人は病院に逃げ込み、麻生だ、福田だという権力争いが面白おかしく繰り返される。
 これで右も左もまともに拉致問題に取組んでいないことがはっきりしました。右の人は国家権力を振り回す楽しみだけにこの問題を利用していただけ。情けないことです。僕は「命を懸ける」とか「職を賭して」とかの言葉が嫌いです。そんな無理をする前に、出来ることを力を合わせてやることが大事だからです。「命を懸ける」といっていたはずの人とその仲間は、せめて国会議員という職を辞して過疎の村に帰ってください。おんちゃんやおばさんに頭を下げて、人生をやり直す方法を学びなさい。
 誰にも頼れないとしたらどうしたらいいのか。とりあえず私たちがしなければならないことは被害者とその家族の苦しみをしっかり知ること、本の一冊でも読むこと。家族の話を聞くこと。こんなことは誰でもすぐに出来ることです。そして友人たちと話合うこと。一人で出来ること、数人で出来ること。
 敵は核武装して居丈高に振舞う金政権。世界中が振り回されています。簡単にはいきません。拉致被害者家族と交流を深めて、心から怒り、闘う思想を私たちの中に養って行きましょう。
 僕のところに横田さんご夫妻などを招いて話を聞かせてもらったときの冊子が残っています。読んでくださる方に差し上げます。ご一報ください。

堀川奈津さん

2007-09-18 22:29:22 | ふるさと 土佐・室戸
 昨日は室戸市の隣の奈半利町米ケ岡(よねがおか)を訪ねました。高知大学の広報誌でここに女学生が住み着き、村人の支援を受けながら百姓をしていると読んだからです。しかも将来、ここで子供を生み育ててみたいとも書いてあるのです。そんな人にあってみたいと8月にも試みたのですが道が崩れていてたどり着けなかったのです。父がくれた故郷滞在が長くなったためもう一度挑戦しました。
 国道55号から6キロぐらい山道を登ったところに突然開ける棚田の景観が印象的です。奈半利町立生活体験学校という看板がかかっているので近寄ってみると、白髪のすばらしい浜渦さんというおんちゃんが出てくるところでした。村の話を伺いました。
 元禄の頃、今は北川村となっている北面の谷の野川の人たちが二三男対策のためこの山の開拓に乗り出したのが始まり。水路を引く工事は難航を極めたに違いないが立派な棚田が開かれ村が出来ていった。指導者は白石神社に祀られている。土佐の藩主・山内の殿様が参勤交代で通る野根山街道が通っており、ここまでは車が通る道が出来たが、過疎は深刻で農家の後継ぎはいない。小学校も平成1年に廃校となり、その後を整備して、生活体験学校を作った。
 奈半利小学校米ケ岡分校という看板が残っている体験学校を覘いてみました。子供たちが宿泊して生活できるように風呂や炊飯施設が整っているようです。庭の卒業記念碑に女性の名が刻まれています。一人だけです。平成元年とあります。この人が最後の卒業生なのでしょう。
 学校の前にすばらしい池があり、その向こうの丘に展望台が見えます。ここでお昼にします。こんもりとした森になっている丘の南面は墓地。展望台から見える景観はスケールにおいて土佐町の千枚田風景には遠く及びませんが、400年近い人々の営々たる歩みの結晶です。草ぼうぼうの田んぼは見当たりません。奈半利小学校の水田も高知大生の3枚の田んぼも収穫のときが近いようです。
 車で行けるところまで行って、東洋町野根に続く「街道」を覘いてみました。ここに従兄弟が住むという高知市から来たお兄さんが色々と解説してくれました。昔から一度はと思っていた参勤交代の道を歩きとおすのは今の僕には出来そうにもありません。幕末は脱藩の道であり、蜂起の道です。http://www.neconote.jp/shizen/noneyama/

 あってみたい人、堀川奈津さんの家を訪ねました。座敷でゴロゴロしている7、8人の若者が突然の客を迎えてくれました。華奢な感じのくりくりした目の娘さんが廊下に出てきて、てきぱきと応答してくれます。堀川奈津さんです。少し前の写真ですが高知大学のHPに出ています。ご覧になってください。
 http://iii.cc.kochi-u.ac.jp/jinbun/student/sed.jsp

 奈津さんのことは色々のメディアで紹介されているようです。高知県教育委員会のブログでも。http://kazekirari.sblo.jp/article/5177939.html

 堀川さんは「百姓修行中」というロゴの入った名詞をくれました。若々しい女学生が離農の進む山の村に住み、田舎の回復に挑戦する。学生や卒業生がこの事業に集う。村のお年寄りと学生の協働での村おこしが始まっている。でもここは農村の中でも困難な条件の重なった村のように見える。誰もが成功を疑問視するだろう。そのことを百も承知の上、ゆくゆくはここの人となり、妻となり、母となって、日本の田舎の可能性に挑戦するのである。『学生』という身分の利点を生かして、先の長い取り組みをしたいという。
 故郷は愛媛県の双海町だという。地図帳を持ってきて教えてくれました。海と山の間に一筋の村が続く夕日の美しいみかん作りの町です。その故郷の過疎化を、なぜ、と思い始めたそうです。好奇心の強い、行動力のある子供だったに違いありません。妻は良い両親に恵まれて、人を信じて行動する優れた資質を身につけたのだろうといいます。
 こんな娘さんにあったら誰でも嬉しくなることでしょう。耕作放棄された田んぼを借りたいとお願いしたら、持ち主は頭を下げて、こちらこそ宜しくお願いしますといわれたそうです。今住んでいる家もさいきんりホームされ、農機具も全部そろっているのですが、無料。やむを得ず山を降りた方は、耕作できなくなった自分の田んぼが草ぼうぼうになって隣近所の人々に迷惑になることを心苦しく思っていたのです。
 借りた田んぼは道から離れていて耕作機械の搬入が困難です。そんなところから放棄されていくことになります。若い力と工夫で何とかできたということです。

 僕は堀川さんの話を聞きながら、ついにこんな人が現れたのかと心の底から感動し、言い知れぬ喜びを感じました。堀川さんのように農業をやりたい人は少なくないそうです。しかし、農地の貸借や売買はなかなかスムーズにいかない。戦後の自作農創出の農地改革の法制度が今は桎梏になっているとか。
 この日は大阪に住んでいる卒業生や高知工科大学の学生も来ていました。堀川さんが切り拓こうとしている道の協力者です。こういう若者の事業が少しでも前に進むように役人も国会議員も大臣も智恵を寄せ集めなければなりません。「美しい日本」などと空言を弄しているときではありません。私たちも自分に出来ることを考え、協力することが大事です。
 あちこちで過疎の中で生きるお年寄りに会ってきました。今やっと、可能性に満ちた若者の姿に出会うことが出来ました。日本の希望はここにある。この人の歩みの中にある。この人とこの人を育てた人々に僕は心から感謝したい。
 今度の連休が堀川さんの田んぼの稲刈りです。
 なはりサポータークラブのHPです。
   http://www.geocities.jp/naharisc/

父のこと(2)

2007-09-17 06:38:49 | 父・家族・自分
 父は大正12(1923)年に高知師範学校に入り、昭和2(1926)年に小学校の「訓導」(今の教諭)になって1969年3月に退職するまで43年間、室戸市内の学校で働きました。46(昭和21)年以来23年間は小中学校の校長です。55年56年は安芸教職員組合長を勤めています。
 父がどんな教師だったのか、具体的にはほとんどわかりません。2年前に生前葬ということで99の白寿の祝いをしたとき、20歳以上年の離れた元同僚のかたがたが「天下に隠れなき憲法校長」といわれて、その志を継ぐとお話になっていました。
 講話の長いことでも知られていますが、憲法の指し示す方向に希望を託していたことは確かです。憲法記念日が近づくと、先生方に憲法をきちんと教えているかと聞いていると僕に語ったことがあります。
 僕が未だ中学生のときに和紙に筆でこんな言葉を書かせました。
  I for japan
Japan for the world
The world for ?
And All for ?

?は peapleとpeace か、記憶があいまいです。この言葉を勤めていた室戸小学校のよく見えるところに貼っておくといっていました。
 父は内村鑑三や矢内原忠雄先生を尊敬しています。いま、父の本棚の『矢内原忠雄全集第21巻』(岩波書店)を開いてみると、矢内原先生は『教育者の自由と責任』と題する講演(1954年)の中でこの言葉に触れて教育の目的を語っています。父は内村鑑三の墓碑銘の ChristとGodを?に置き換えたのです。これは確か、矢内原さんの前に東京大学総長を務められた南原繁さんの提案ではなかったかと思います。

 昭和の始まりとともに教師になった父はやがて「聖戦」に協力します。1988年末、昭和天皇の重態が伝えられた頃、長崎の本島市長が「天皇の戦争責任はある」と発言し、自民党を含む右翼勢力に攻撃を浴びているとき僕は本島さんにはがきを書きました。その一部が『長崎市長への7300通の手紙』(径書房)に収められています。 

 私の父は教師として、百余名の生徒を「聖戦」だと「だまして」死に至らしめ、多数の中国・アジアの人々を殺さしめたことを、痛恨の思いで語ってくれました。平和教育の大切さを高校教師である私に言い続けています。
 一介の教師がその責任の大きさを告白していました。大元帥に責任がないとはどこの世界に通用するのでしょうか。天皇さんの一族を伊勢神宮に落郷させるのが子孫のためであると考えますがいかがでしょうか。

 「」は父の言葉であることを強調するためです。伊勢神宮案も父の考えです。戦後、徐々にこのように戦争責任を自覚するようになったとのことです。8月15日には室戸岬の先端にある「忠霊塔」に同道しました。そこには戦死した生徒の名が刻まれているのです。そこで僕の同級生のI君のお母さんに会ったことがあります。夫は父の生徒で戦死したのです。先生のせいではない、時代の流れですと言ってくれます。その言葉をどんな気持で聴いていたのでしょうか。
 「犯罪」を自覚することはただならぬことです。戦後の父の歩みは非戦の思いに貫かれていますが、その罪びととしての心は晴れることがなかったと言えるでしょう。
 僕はその父に育ててもらった子として父の思いを代をついで実現することが自分の責任だと思ってきました。戦争への反省を礎にして民主主義・人権・非戦の、憲法の指し示す日本を作ること。教員二代目はどう見ても非力で観念的です。もう少し、人間が大きければ父の期待に少しは応えられるのにと思うことがあります。
 

慶賀の銀杯

2007-09-16 10:30:17 | ふるさと 土佐・室戸
 台風の影響か、晴れたり、降ったりの不安定な日々です。おとといの夕方、散歩に出たとき驟雨にあいました。雨の気配に魚市場に避難し、驟雨が通っていく一部始終を目撃しました。
 岬の先端から順々に雨となり山が見えなくなります。市場の辺りが激しく降り始めると、岬のほうはもう青空がのぞいてきます。気象の変化にともなったこんな面白い景色をすっかり忘れていたことに気づきました。
 
 昨日は高知市に住むO君が来岬したのでSさんの喫茶店『うまめのき』にH、T、Kくんに来てもらって、同窓会の相談をしました。今夏、広島に住んでいた松本邦啓君の訃報を聞いたばかりですが、僕の幼友達はどんどんいなくなっています。20年前の横山正広君に始まって、田原利和、中野治雄、大黒浩昭…。長く鮪船で活躍してきたH君もK君も僕と似た病歴を持っています。
 T君は同窓のつどいを人生の大事と言います。大げさなと言う人もいますが、誕生日も一緒で小学生の時にはほとんど毎日顔を合わせていた松本君などは半世紀以上、顔を見ることなく逝ってしまいました。元気なうちに会っておこう、ということで、その日が11月10日と決まりました。
 僕がこのH君に会うのも四半世紀振りです。前回あったときに、大きなワニの剥製を貰ったのです。南米から来た『花子』は今も我が家の茶の間に横たわっています。大阪暮らしだったMさんと電話で話しました。姉さんの世話をするため帰郷し、二人暮らし。家を空けることが難しそうです。大阪弁が身についています。一時期体調を崩していたそうだが、元気を回復しているようで安心。
 僕らの学年は120人あまり。今、室戸岬小学校の一年生は8人だということです。
 敬老の日ということで市の行事があり、父に安倍晋三内閣総理大臣名の100歳を慶賀する書状と銀杯が渡されました。病院で眠り続ける父に代わって、兄が受け取ってきました。誰でもがもらえるものではなく、父とともに喜びたいところですが、正直言って感慨はありません。
 夕方、久しぶりに新港で泳ぎました。台風の影響で港内も少し波立っています。

室戸岬海岸と遠い昔の子供たち

2007-09-14 09:40:17 | ふるさと 土佐・室戸
 昨日は室戸岬海岸を散歩した後、僕の「最初の生徒」を尋ねて47年ぶりに会うことが出来ました。
 中岡慎太郎の銅像の前から遊歩道に出ました。ちなみに慎太郎は坂本竜馬とともに『維新』に身をささげた倒幕の志士。生地北川村に記念館があります。
  中岡慎太郎記念館@北川村ウェブ

 銅像は僕の父の家から2kmぐらいのところにあり、桂浜にある坂本竜馬と向き合っていると小さいときに聞きました。土佐といえば「竜馬」ですが、僕としては若き庄屋としての責任を背負いながら、人々のために新時代を切り拓こうとした慎太郎のことをもっと知ってほしいと思っています。
  みなとめぐり室戸の港観光@国土交通省四国地方整備部港湾空港部

 京都の大学院で農業工学を専攻しているという3人組にあったので、アコウの大樹を見てもらいました。。亜熱帯性のこの植物は気根が発達していることが特徴です。林をなしているのは西南日本でも珍しく室戸の植生の特徴です。この地で修行した空海が讃岐に満濃の池を作ったことなどを話し、若い学徒を励ましました。
 ハマホウの花がさわやかです。キスゲが咲き残っています。巌の間に続く遊歩道は海浜性植物が豊です。僕は海が好きなのであちこちの海岸を歩きますが、巌のすばらしさはなんといっても室戸岬です。
  室戸岬@woodypersonal gooside
 ホテルの近くに一度だけお会いしたことのある奴田原(ぬたはら)さんの句碑があります。

   泣きに来て 室戸の浪に 噛みつかれ
 

 室戸にはやはり巌に砕ける白波が似合います。空海はこう詠みました。

   法性(ほうじょう)の 室戸といえど 我が住めば
      有為の波風 立たぬ日ぞなき


 19歳の讃岐の青年が籠もり、明星が口に入って悟りを得、やがて空海と名乗ったという御厨人洞(みくろど)の近くには二つの句碑。
   
   潮けむり  あがりし磯の 遍路道

   竜巻に そうて虹立つ  室戸岬

 後者は虚子。台風の接近する前後の浪のすごさは忘れられません。山のような波が次々に押し寄せて見飽きることがないのです。風が強くなると怖くてとても外には出られません。僕のうちのように比較的丈夫に出来ている家でも地鳴りがするような感じです。子供のときの感覚ですが。

 新しく出来た海洋深層水のプール・温泉・ホテルの複合施設「ディープ・シー・ワールド」で昼食。
 
 午後は3キロぐらい離れた三津というところにSさんを訪ねました。建設会社の経営をされています。
 1960年、思いがけず、浪人をして、6年ぶりに故郷に帰った僕がこの村の5人の小学生の勉強の相手をしたのです。
 この年は6月まで日米安保条約の改訂をめぐって日本中が緊張していたのですが、僕は『家』とか『血』とかをめぐる悩みに心を暗くしていました。父の姉妹たちの振る舞いが許せなかったのです。藤村の『家』などの作品を身につまされるように読みました。
 そんなときに、砂利道を自転車で訪ねて、子供たちと過ごすことは何よりの助けでした。男3人、女2人。時には子供たちが海に連れて行ってくれ、ナガリ(とこぶし)とりに興じ、時には山のヤマモモの大樹に登り、食い放題。
 父がくれた故郷での長い休暇がSさんを訪ねる機会をくれたのです。60になるSさんは僕のことを先生と呼び、半世紀の昔のことをあれこれと話してくれました。そして、それぞれの履歴を交換しました。18から19になる頃の僕の姿がこの人の記憶の中に鮮やかに刻まれていることに僕は言い知れぬ喜びを感じました。別れのとき、僕は古い字引をプレゼントしたそうです。
 そのことは忘れていますが、にぎやかなお別れ会をしてもらい、8月の末に東京に向かったことを思い出しました。また何時かきっと、と約束をしたはずなのにこんなにも時がたってしまいました。近くに住む一人を除いて消息がわからないそうです。Sさんは少年の頃の面影をどこかに残していますが、町であっただけではわかりません。おしゃまな少女だった姉妹は診療所の娘さん。父親の故郷、徳島に住むのかなー。本当にあってみたいものです。
 このブログで大島を訪ね最初の生徒たちに感謝の気持を伝えたと書きましたが、僕にはそれよりも6年前、小さい生徒たちがいたのです。小2で逝った弟と同学年です。

周防の旅(2)

2007-09-12 11:04:14 | 出会いの旅
 8日(土) 岩国藩の納戸といわれたという柳井の白壁の商店街を歩いた後、上関(かみのせき)町へ。下関、中関につづく瀬戸内航路の要衝。朝鮮通信使の寄港地であり、近年は原発立地で知られる港町。
半島の先端にある室津で観光の基地ともなっている四階楼という船待ち客の旅館だったところによる。朝鮮通信使については簡単な説明があるのみ。海峡にかかる大橋で長島に渡る。ここに上関の港がある。海沿いを歩いても、正使らが泊まった寺を訪ねても説明らしきものはない。最後に訪ねあてたお番所の前に申維翰の詩が刻まれた碑が立っていた。ここに行くにも道らしい道がなくこの町は原発誘致以外に何の関心もないのかと思う。
  朝鮮通信使と大名船@上関町観光情報ガイド

 昔からの町並みを歩いてみたが人の気配はなく、役場の入り口に原発による活気ある町づくり推進本部の看板がかかっているのみ。レストランで昼食後、原発立地のことを聞いてみたが愛想のない返事が返ってくるので、上盛山展望台に登って遠望することにする。
 絶景、九州の国東半島も四国も見える。この長島の果てに祝島もはっきり。候補地の対岸にある島で、原発に反対している唯一の漁協がある。島の人々にあってみたい心を残して、今夜の宿、山口に向かう。
 途中、防府(ほうふ)で三田尻港を訪ね、竜馬ら脱藩の志士たちの足跡を探したが気配すらしなかった。
 
 9日(日)公立学校共済組合の経営するホテルの人に江戸時代の山口はどんな町でしたか、何か名所でもありますかと聞いてみるがその意味がわからないようだ。毛利氏が萩に藩庁を置いて防長二国を支配するようになって、山口はどうなったのか知りたかったのだが。答はこのHPにありました。
  大内氏と山口@山口市観光案内処
 結局、大内氏の時代のものである瑠璃光寺五重塔を訪ねる。寺の後ろの墓地に「中国残留婦人の慰霊碑」があったのでお参りする。日本に帰ることのできなかった残留婦人の霊を慰める碑。小さい鐘がつるしてあった。例によって撞く。
 
 島根県の津和野へ。西周(にしあまね)旧居を見て、川沿いに散歩していると町外れの公園で一人休んでいる方がいるのでベンチに座って話を伺う。喜島哲弘さん。昭和9(1934)年生まれ。73年の人生をここ、鷲原で歩んできた。製紙工場を定年退職して、今は公園の目の前の田んぼを耕す。悠々自適。若くして妻を失い、二人のお子さんを育てた。国鉄に入った息子さんは民営化の時にやめ、今は浜田におられる。娘さんは広島の宇品に嫁いだ。津和野でも仕事はなく若者は出て行く。
 奥さんをなくしてから30年余、その歩みはどんなものだっただろうか。田んぼには刈り取ったばかりの稲がはざ架けに干してある。2週間ばかり陽光に宛てる。病気になったとき、人に頼んで機械で収穫したことがあるが米の出来がぜんぜん違うと言う。干した稲の元のほうはビニールで被ってある。自分の納得のいくように丁寧な仕事をなさっているのだろう。
 田んぼの横に立派な倉庫。ここは農業機械の収納庫。狭い田んぼで経済的に成り立つはずもないが、それでも農業は生活の中心、やめることは考えたことがない。 建設省が河川改修して水流を変え、水辺に鯉だまりを作った。この地の生き字引とも言うべき喜島さんは水流を変えることは難しいと反対意見を言ったが聞かなかった。今、その鯉だまりには水が流れず、鯉も住まない。一見すると石材を使った津和野川の護岸は美しく見えるが、ここもまた、川とともに生きてきた人の意見を無視して無駄に税金を投入した、役人や学者たちの傲慢と無責任を物語る「遺跡」だった。
 はざ架けをバックに喜島さんといっしょに写真を撮らしてもらった。元気を分けてもらう心地である。
 印象深い人にお会いできて津和野はもういいかと思ったが、山上の城跡を歩いて盆地の町のたたずまいを眺めた。喜島さんの田んぼが良く見えたが、ご自宅は森の陰に隠れて確認できなかった。
 山口県との堺の六日町に向かう。途中に唐人屋というところあり。秀吉の朝鮮侵略のとき李朗子という人が連れてこられ、ここに登り窯を作ったという。
  山陰インターネットビジョン@ハイライトジャパン
 六日市では旧道面家住宅を訪ねた。このブログ(4月17日)で紹介した恵美ちゃんのお連れ合いの実家がその近くにあると聞いていたからである。
旧道面家住宅についてはこのHPをご覧下さい。
  旧道面家住宅@島根県商工会連合会
 僕の目的はお連れ合いのNさんが育った村の雰囲気を知りたかっただけです。高津川の源流部に近いことは確かだが水田の広がる風景は僕の想像外です。近くと言ってももう少し奥の方かと歩いて、なかばあきらめかけたところで草刈中の青年に聞いてみました。すぐ近くにその家はあったのです。それはなんと、妻が車を止めた旧道面家の前の空き地のすぐ奥でした。
 おばあちゃんが家の周りで仕事をしているので声をかけてみました。小柄でかわいらしい顔をされています。よく吼える犬を家の中に入れて、応対してくれました。おじいちゃんは岩国の病院に入院中で、あわただしい毎日のようです。恵美ちゃんはこの人を母とすることができたことを自慢にしています。優しくて、芯が強くて働き者で…。
 僕はほんのちょっとお会いしただけですが、本当に嬉しい気持になりました。早くに母を失った恵美ちゃんの喜びがわかります。妻と並んだ写真を撮らせてもらいました。しばらくお母さんと会っていない恵美ちゃんに見せてやりたいのです。何時か、ゆっくりとお邪魔して、Nさんを育て恵美ちゃんの母になった半生を聞かせて貰いたいものです。お会い出来れば嬉しいと願って訪ねてきたその人にあえて、満たされた気持で、県境を越え岩国市錦町の山峡の宿に急ぎました。

周防の旅(1)

2007-09-11 11:28:19 | 出会いの旅
 今朝はタオルをかけないと寒いほどでした。父は相変わらず、眠り続けています。1週間ご無沙汰しました。実はこの間、周防の国(山口県南東部)を訪ねていたのです。
 6日(木)前日、父に高知県教職員互助会より、一泊旅行の案内が届く。源平古戦場を訪ねて下関まで往復すると言う。これがヒントになって、急遽、山口県を旅することにする。47都道府県のうちどういうわけか、ただの一度も行った事がない唯一つの県である。
 妻に相談すると、ちょうど、周防大島出身の宮本常一さんの『民俗学の旅』(講談社学術文庫)を読んでいるところで即座に賛成。とりあえず今夜は松山のマサシ兄さんのところに泊めてもらうこととする。7時過ぎについて、ご馳走になる。
 
 7日(金)お連れ合いのチヨミさんが活躍する愛媛県立武道館のすばらしい外観を眺めた後、三津浜港まで送ってもらう。フェリーで10時半頃、周防大島・伊保田港着。
 7月に開館したばかりの星野哲郎記念館をゆっくり見学。この地の出身で演歌の詩を書き続けた人。都はるみや北島三郎が来て開館行事があったという。この方の物語を知り、僕も妻に改めて深く感謝(心のうちで)。
  星野哲郎記念館
 隣接する周防大島文化交流センターで宮本常一さんについてにわか勉強。父と同じ年の生まれで生誕100年の様々な行事があったばかり。柳田国男を師としながら、学問のための学問ではなく、常に人々のたつきを考え、生活改善のリーダーでもあった。特に離島の人々の生活苦を改善する運動の事務局長を務め、離島振興法成立に尽力したという記述が心に残った。佐渡の村では柿づくりを推奨し、今では名産となっているとか。
 自分を生み育ててくれた島の人々やその祖先の生活が生み出した民俗への愛着が、この国の辺境に生きる庶民を深く愛する学風を打ち立てたのであろう。僕はこの人のことを何も知らない。知りたいと思う。僕と同じように知らない方はとりあえず、先の本やセンターのHPをご覧になってください。
  周防大島文化交流センター

昼食後は本を読んだばかりの妻が宮本さんの幼少年期を育てたふるさとの風景を探索しながら案内する。白木山。374Mの頂上から村々を俯瞰。宮本さんを生んだ長崎は真下に見える。瀬戸内の風光がすばらしい。
 山を降りて橋を渡って沖家室島(おきかむろじま)に行く。沖家室大橋が完成するまでは離島の離島。洲崎という漁港の道端で3人のおんちゃんが寛いでいたので早速お邪魔する。漁船が帰ってくるのを待っているのだが一向に帰らない。漁がないのだろうと言う。宮本さんの名は聞いたことがあるが何も知らないと声をそろえる。
 日焼けして男ぶりの良い川村義次さんが、自転車で自宅に戻ってこの村の一軒一軒の名前の出ている地図を持ってきてくれる。島巡りの参考にしなさいと言う。90になるといわれるがとてもそんなには見えない。台湾で生まれ30年をすごした。引き揚げ後30年を会社勤め、定年で親の故郷のこの島に帰り、漁師になったと言う。奥さんを失い、一人住まい。都市に住むお子さん方が時々、孫をつれて遊びに来る。
 石積みの素敵な港の眺めを前にして、いつまでも聞いていたい人生の話である。過酷な過疎がここにもあるが一人でも矍鑠(かくしゃく)として、穏やかな日々を送られているように見える。一緒に写真をとらせてもらってお別れを言う。
 長崎の八幡宮に参詣し、宮本さんの生家付近をさまよった後、大島大橋を渡って国民宿舎うずしお荘へ。

澤田誠一郎さん

2007-09-04 12:44:09 | ふるさと 土佐・室戸
 室戸も朝は涼しくなりました。1日から3日まで、嶺北と高知に行ってきました。妻の骨休め。吉野川で遊んだり、友人や先輩を訪ねたり。
 1日。 穴内川を遡り、本山町へ。ここは嶺北と呼ばれる高知市の北方、吉野川の中上流地域の中心です。領主・野中兼山を祀る帰全山公園の川原で吉野川に足を入れる。美しい小石の宝庫。ペンダント作りの妻のため僕もせっせと拾う。
 早明浦ダム見学。吉野川を堰きとめた四国の水がめ。この水の半分は下流の徳島県に行くが、残りの大半は流域ではない香川県に供給される。飲料水、農業用水、工業用水のどれをとっても香川県民の命綱である。高知県にはほんのわずか鏡川に分水されている。弘法大師が作ったという満濃の池をはじめ、ため池によって生きてきた人々がこのダムと香川用水の完成(1975年)によって、慢性的水不足から解放された。水資源機構で貰った資料を見ると香川県内でこのダムから送られる水とかかわりのないのは琴南町だけである。
 膨大な量の流木がダム湖の一角に集められている。間伐をしても林間に放置されている材木が大雨のたびに流されてくるのであろう。ダムに沈んだ村は山腹に棚上げされたのか、向かい側の山に家々が見える。日本有数の降雨量を誇る四国山地ではあるが、保水力の減退等のためこのダムの底が見える風景を私たちは時々見せられる。
  早明浦ダムデータ@ダム便覧2007
 湖畔のさめうら荘どまり。夕方から雨になり、けぶる山々が美しい。

 2日 白髪山の麓、汗見川渓谷の白髪の瀧を見る。枕状溶岩という変成岩の間を清冽な水が流れる。岩の姿に圧倒されてしばし腰を下ろして休む。
 土佐町田井のスーパーで弁当を買い、高知市(旧土佐山村)との堺の伊勢川というところに千枚田を見に行く。重層する田んぼの間をどんどん上っていくと「雲海展望台」という案内板があったので、更に登る。道から橋を架けて鉄骨の上に作った四阿屋(あずまや)風の展望台に立ってみた。真下も向かい側も左側も見晴るかす千枚田。家々も林もその間にある。こんな風景は見たことがない。どなたかが、個人で作った空中に浮かぶ展望台で戴く弁当が美味しい。
 昼食後、展望台からちょっとうえに上がってみると「大国通り(だいこくどおり)ふれあい広場」があった。スイレンの美しい池のまわりを散歩していると軽トラでおじさんが現れた。ビニールハウスを改造した集会所に案内し、コーヒーを飲んでいけと言われる。
 澤田誠一郎さん、79歳。この地に生まれ、若いときは南国市稲生の機械会社で働き、鳥形山から須崎港に石灰石を運ぶベルトコンベアー等を製作。土佐町に帰ってからは早明浦ダムの工事現場でコンクリートミキサーの保守の仕事をしたそうだ.
ミキサーの中に入り、摩滅したり、壊れたりした部分を溶接する。使った溶接棒が何トンとか。あの巨大なダム工事の陰にそんな仕事があったのかと驚くばかりだった。今は奥さんも失い、一人で一町歩以上の棚田(もちろん何十枚の)で米を作っている。
 集会所には50人ぐらいが入れる。焼肉用のテーブルと椅子が並ぶ。全て澤田さんのお手製。流し台、ガス台、鍋、薬缶。食器棚には皿小鉢や湯のみ、カップ、グラスがそろっている。カラオケ設備まである立派な宴会場だ。広場には子供のための遊具、周りの田んぼ跡にはソメイヨシノの植林。これには近郷の人たちの名札が立てられていて、ここを将来公園にして後輩に託すつもりとか。先の展望台ももちろん澤田さんの作品だ。
 近頃はこの村でもお互いに挨拶ぐらいはするが人生にかかわる話をすることがなくなった。展望台を作ったのがきっかけになって、村人が交流する場を作ることにしたのだと言う。食べ物の材料は持ち込みだが、他はすべて整っている。使用料は一人200円。
 穏やかで美しい土佐弁。日焼けした柔和な笑顔。お話を聞きながら、心が震えてくる。こんなおんちゃんがいるのか。世相を嘆くのでなく、自分の金と智恵と技術を投入して人と人を結ぼうとしているのです。
 利用者は結構いるようだが、50代60代のおっさん達が利用態度に問題あり。飲んで騒ぐのは良いがよごしっぱなし。ソメイヨシノを植えたはよいが植えっぱなし。それでも澤田さんは嵐でやられた木に代わって、新しい苗木を植えてやる。自分の植えた木がなくなっている人の寂しさを思うからである。
 人の思いをただ利用するだけ。それを滋養にして自らを育てる努力をしない民度の低い人たち。悲しいがこれが私たちの現実。
 それでも澤田さんは止めない。すぐ近くの自宅に宿泊所を作り、岩風呂も沸かせるようにした。酔っ払ったら泊まっていきや。宿泊料は200円、岩風呂は400円。重油を焚くので岩風呂は3人以上入らないとこれでも元が取れない。
 布団干し、後片付けは利用者がすることになっている。人々の姿を見守りながら、交流のあり方をそれとなく教育していくおんちゃん。カラオケ利用料だけでも何万もの持ち出しである。おんちゃんの無償の働きはそれでも続くのである。良かったと思うことが多いからであろうか。
 「米を作ることはたいしたことじゃない。公園を作ることが何倍も難しい」。澤田さんは自分がやっていることを公園作りといっている。将来、地区の後継者にこの土地ごと無償譲渡し、町の助力も得て維持していくつもりのようだ。
 土佐町ウェブ

 澤田さんの4代前の祖先たちが出雲に出掛けて勧請したという「大国大神」に参詣しました。明治16年のことだったようです。営々として棚田を拓き、今もこんなに美しく守り続けている村人。その核になっている人とはこんな人だったのです。僕も妻も感動に浸って涙が出そうでした。今度はゆっくり泊めてもらいに来ますといってお別れしました。おんちゃんは鈴なりになっているミニトマトをたくさん摘んで持たせてくれました。
 その夜は旧友夫妻と真夜中まで交流しました。僕がお会いしてきたばかりの澤田さんのことを熱弁をふるって伝えたことは言うまでもありません。高知市から澤田さんの広場までは90分くらいです。今は黄金の千枚田の風景、秋は紅葉、お世話にならない手はありません。