川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

[我らこの地に奏でて燃える]

2010-04-30 17:31:20 | 友人たち
 昨日は安曇野に住む奥島くん(75年 池商1~7)から電話をもらいました。亡くなった友人の墓参りで里帰りした途次に川越に寄ってくれたそうです。ぼくは北上の旅の最終日でした。残念。

 遅くとも夏には安曇野を訪ねます。同級生の人達と一緒ならなおさら楽しいことでしょう。どなたか同行しませんか。

 今日は多美子さん(98年 文京1G)から男児出生のたより。しっかりした感じの赤ちゃんの写真も。そのうちに会いに行くよ、奏太くん。

 名は表現力の豊かな子に育てという親心から。お母さんと同じように15の春にも会ってみたいものだ。

 日高火防祭(昨年)の25歳厄年連「丑桜(ちゅうおう)乱」の演舞曲が見つかりました。


あぁ光満ちあふれ 花が咲き誇り  遠い昔の心 懐かしき故郷よ
あぁ目には決して見えぬ風が歌いかけ  大地広がる姿 愛しさ増してゆく

   踊り回れ 今宵燦然  我らこの地に奏(かな)でて燃える 
   踊り回れ 伝統を守り  力強く 舞い上がれ

 ※1 さくら 夜風に抱かれ 旅人よ何を想う
    今宵月に照らされて さすらう飽くなき道を

あぁ桜咲き乱れ 今宵始まる丑桜乱  生まれ 慣れ親しみ よき友よ
   逞しき姿を写す思い抱き  繁栄と力強さ一元大武

   踊り回れ 今宵燦然  我らこの地に奏でて燃える
   踊り回れ 伝統を守り  威風堂々 舞い上がれ

 ※2 さくら 我写す鏡 永久の歴史と共に
    今宵咲き乱れる華 謳歌の委ねるままに

   奥州の風流星に照り返しこの空の下で
   歴程の伝統重んじ意気軒昴たる思い

   さくら我写す鏡 永久の歴史と共に
   今宵咲き乱れる華 謳歌の委ねるままに


   「さくら さくら
    弥生の空は 見渡す限り

    いざやいざや 見にいかん」



「誠虎連」の曲は見つかりません。雰囲気を知るために聞いてみてください。(演舞曲をクリックしてください)。

 丑桜乱 http://www3.to/chuohran-25/

 明日から5月です。奏太くんをはじめ世界中のすべてのこどもが健やかに生育して行くことを祈ります。

日高火防(ひぶせ)祭り  誠虎連

2010-04-29 23:51:26 | 出会いの旅
 昨日遅く北上の旅から帰ってきました。我が家ではコリンゴの花が辺り一杯に散ってご近所の玄関前も真っ白です。

 忘れないうちに旅の報告です。

 4月28日(水)雨

 旅の最終日は水沢(今は奥州市の一部)方面に向かいました。

 途中の金ヶ崎に「城下町」とあったので役場で地図をもらって訪ねてみました。

 「白糸まちなみ交流館」の若い女性がさらに詳しい地図をくれました。仙台藩の要害「金ヶ崎城」址と街並みが「伝統的建造物群保存地区」となって散歩道が整備されています。

 岩手県でもこの辺りから南は仙台・伊達領であり、国境での緊張関係がこの城を造らせたのでしょう。

 北上川を望む崖の上の城跡の道を歩いてみました。ここでは桜が7~8部咲きで遠景の北上川や川辺の柳とマッチして最高の景観です。

 菅江真澄が近江八景に倣って「八景和歌」を詠んだとのことです。北上川帰帆、早地峰(はやちね)暮雪、国見山晩鐘、…。

 一昨日、昨日と訪ね歩いた辺りが雨にけぶっていてもあの辺りかと見はるかすことが出来ます。真澄とまではいかなくとも、今日、雨の中でこんなすばらしい散歩が出来るとは思ってもみなかったことです。

 

 胆沢城跡に近い「埋蔵文化財調査センター」を再訪したら、水沢市街に「アテルイの里広場」があると知ったので早速いってみました。

 ○アテルイをたずねて~水沢 http://www61.tok2.com/home2/adachikg/mizusawa.htm 
 
 ○北のまほろば・蝦夷(えみし)の矜恃 http://www.jomon.com/~emisi/semi/14semi/material/yamaki.htm

 「広場」と道路を挟んだ反対側には地元の新聞社が作ったアテルイ軍が坂上田村麻呂の軍勢を北上川に追い落とす場面を描いた合戦図があります。

 水沢ではアテルイが郷土の英雄として町造りのシンボルにまでなって復権しているのでしょうか。

 ○http://www.pref.iwate.jp/~hp2518/kakubu/chiiki/chiikidukuri/jouhousite/jirei/matidukuri/aterui/ateruirekisikouenn.html

 
 雨の中を祭りの衣装を着て通り過ぎていく青年の一団があります。これから踊りを披露するところに向かっているとのことです。


 早速駆けつけてみました。明日(29日)が日高神社の「火防祭り」で25歳と42歳の厄年に当たる人達がそれぞれに「連」を作って市内のあちこちで踊るのです。今日はいわば前夜祭です。

 日高火防祭りhttp://www.city.oshu.iwate.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1206757054265&SiteID=1205400059532

 25の人たちの今年の連の名前は「誠虎連」。毎年、旧水沢地域の三つの中学校の同級生が実行委員会を作って名前、曲、歌詞などを考え、すべて自力でやっているそうです。

 百数十人の踊りが始まりました。鳴子は持たないけれど高知の「よさこい」に似た統制のとれた踊りです。

 見ているうちに深い感動にとらわれました。涙がじわっと出てくるような感じです。

 踊りがすばらしく上手いと言うわけではありません。なんと言っても即席のグループです。全員での練習はとても難しいでしょう。

 中学を出てから10年が経っています。様々な体験をした青年たちが再び集って一つの大事業に力を合わせて挑戦しているのです。そのこと自体が今の時代には希な貴重な体験です。

 今も水沢に住む人たちが実行委員となり、万端の準備を整え、各地から帰郷する旧友たちを迎え入れるのです。

 日本全国で共同体の崩壊が進み、祭りそのものが成り立たなくなっています。

 いつの頃からは知りませんが水沢の人たちがこのような形で同級生が集える場を作ったことは大変すばらしい知恵だと思います。10年ぶりに故郷の祭りに集まって一緒に踊るという濃密な交流が出来るのです。

 ここから始まるあたらしい何かがあるはずです。人と人が助け合って生きるという先人たちが伝えてきた共同体の原点のようなものを発見出来るかもしれません。

 町のため、村のため、みんなのために何が出来るかを考えるきっかけになるかもしれません。

 そんなことを想像するだけで何かうれしくなってくるのです。

 誠虎連http://joukoren2010.web.fc2.com/index.htm

 旅の終わりに元気をもらいました。

 夏油(げとう)温泉はまだ雪に閉ざされているというので麓の「宝珠の湯」でゆっくりして、7時過ぎ北上発の新幹線で帰途につきました。


 

 

 

北上から②

2010-04-28 06:56:04 | 出会いの旅
 4月27日(火)曇り

 前日とは打って変わって寒い一日です。花巻の郊外に高村光太郎が晩年を過ごした山小屋を訪ねました、本当に粗末な小屋で今は二重に覆い屋で保護されています。

 智恵子抄の作者として高校生のとき深い影響を受けた方です。ひとり千恵子の名を呼んでいたという丘に登ってみました。詩人として戦争に深く協力したことへの思いはどうだったのか?

 午後は東和町というところに萬鉄五郎という人の美術館を訪ねた後、花巻の町のあちこちに宮沢賢治の姿を求めてさまよいました。

 最後は北上川を見下ろす小公園に立つ『雨にも負けず』の碑です。ここは羅須地人協会があったところで賢治の声が聞こえてきそうです。僕には農民運動指導者としての無念の思いが伝わってきます。

 28日。今日は雨模様なので温泉に入ってゆっくりすごします。

北上から(①)

2010-04-27 05:34:46 | 出会いの旅
4月25日(日)晴

 午後,北上川の畔にある民俗村で`鬼剣舞(おにけんばい)を楽しみました。桜祭りのさなかですが展勝地の開花はまだ先になりそうです。

 柳の新緑が美しい北上川の風光を嘆賞し、渡し舟に乗って帰りました。

 4月26日(月)快晴

 レンタカーで早池峰のふもとの村を訪ねました。早池峰神社に詣でた後、まだ閉ざされたままの道を歩きます。雪をいただく早池峰の景観に感動するばかりです。

 午後は遠野に向かい、自然石に線刻した五百羅漢に心を奪われた後、鍋倉城址を歩きました。

 桜は大幅に遅れていますが好天に恵まれ快適な日々を過ごしています。感動の体験を何とかして上手に伝えたいものです。

 27日(火)今日は花巻を訪ねます。


北上へ

2010-04-25 05:14:50 | 出会いの旅
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4月24日(土)晴れ

 小畔川(こあぜがわ)をどこまでもさかのぼって高麗方面に行ってみることにしました。土手はよく整備されていて菜の花がいっぱい。

 御伊勢塚公園があったので一周散歩。江戸時代に御伊勢さんにお参りする代わりに「伊勢塚」というものが築かれたらしい。小高い丘のようになっていた。

 川越西高にも寄ってみました。丘の上のキャンパスは春の盛り、公園のようです。ソフトボール部の練習をしばし見学。息子はここのバトミントン部OBです。

 高萩で小畔川の堤の道が尽きてからは迷いっぱなしです。昼頃に着いたのは城西大学付近の高麗川。高麗の里の下流です。

 せっかくのことだからと城西大学を見学させてもらいました。

 丘陵を背景にした景観は広大でびっくりするほどです。

 市民にも開放されている図書館(9階建て)へ。9階の閲覧室に人はまばらだったので展望台代わりに利用させてもらいました。まさに絶景。赤城山もよく見えます。こんな図書館があるのですね。

 2時過ぎに学食。土曜の午後で閑散としている。カツ丼、400円也。

 構内の森を歩いたあと帰途に。あちこち迷いながらも4時過ぎに帰着。地図を持たないで感覚だけで関東平野の西端をさまよう一日でした。


 4月25日(日)

 今日はこれから新幹線で岩手県北上市に向かいます。駅前のホテルに3泊して北上川中流地方を歩きます。去年の秋の下流部に続く北上川の旅です。

 北上は昔、黒沢尻と呼ばれていました。黒沢尻工業が甲子園に出たのを覚えています。(近頃は花巻東です)

 黒沢尻工業高校・甲子園http://iwate.hb-nippon.com/schoolinfo?schoolid=TIWKU06

 「北上夜曲」もここで生まれました。

 北上夜曲http://www.youtube.com/watch?v=cpOunPFAMsk


 花にはまだ間があるかな?上手くいけば「北上だより」をお届け出来るかもしれません。


  参考・北上川http://www.bunka.pref.iwate.jp/shizen/kawa/main.html

希望の少ない時代を生きる

2010-04-24 06:54:03 | 友人たち
 4月23日(金)曇り時々雨

 寒い日が続きます。閉じこもり二日目です。懸案の年賀状の整理をしました。住所録の訂正・メールアドレスの登録など。お年玉の当選は二枚だけ(切手シート)。恵美ちゃんと坂井くん夫婦、ありがとう。

 朝のコニヤンのブログで大崎弟(大崎博澄さんの詩人としての名前)さんに『野の思想史』という本があることを知る。24年前、40歳の時の作品だという。

 コニヤンの引用文から。

「……ぼくは思想が(あるいは論理が)人間や世の中を変えるとは思いません。
ただ、「ひっそりと交わることのできる人と出会う。折に触れてそういう人々のことを想い起しながら暮らす。」
それだけの、つつましい人間のつながりを大切にしたい。

そういう人間的つながりだけが、希望の少ないぼく達の時代の中で、ぼくが持つことのできる希望のすべてです。

、ぼく達自身の生き方を揺るがし、ひいては世の中を変えて行くかけらほどの可能性のすべてでもあると思います。」

 コニヤンのブログhttp://blogs.yahoo.co.jp/gogokoniyan/50553415.html#50554540

 大崎さんはぼくとは4つ違いですから同じ時代を生きてきた方です。しかし、生きた環境や時代のとらえ方には大きな違いがあります。ぼくは「思想が人間や世の中を変える」と思うこともありました。

 今は20数年前に書かれたという大崎さんの言葉に共感します。
「ひそやかな、心細くちぎれそうな人間的なつながり」だけを大切にして日々を生きているような気がします。

 この人の言葉がどういう生の営みの中から生まれたのか、知りたいと思ってきました。

 「たんぽぽ教育研究所」に電話して早速本を注文しました。手に入らなかった『こどもという希望』(キリン館)も送ってくれるそうです。

 近頃は本をほとんど読みません。寝ているか、野を駆けているか、です。でもこの方の本は読みます。読みたいのです。

 「自由は土佐の山間より」と言われましたが、大崎さんを生んだ「あの強靭な生命力を誇るハタカリさえも生えなかった乾燥地」とは?

 ハタカリ(メヒシバ)http://www.google.co.jp/imglanding?q=%E3%83%A1%E3%83%92%E3%82%B7%E3%83%90&imgurl=http://www.kumaya.jp/6_5_2402311.jpg&imgrefurl=http://www.kumaya.jp/sanpomiti42.html&h=360&w=480&sz=37&tbnid=naS5Wor11qN5qM:&tbnh=97&tbnw=129&prev=/images%3Fq%3D%25E3%2583%25A1%25E3%2583%2592%25E3%2582%25B7%25E3%2583%2590&hl=ja&usg=__v15_QFHf2BHS4r9ItYijJTCT0Uw=&ei=xRfSS_qKHYGY6gOtwpWqDw&sa=X&oi=image_result&resnum=1&ct=image&ved=0CA8Q9QEwAA&start=0#tbnid=naS5Wor11qN5qM&start=0

 現代の闇を照らす一条の光が『タンポポ教育研究所』です。その光の源を知る喜びを味わってみたいのです。

 大崎さんは「若いときの恥ずかしい作品です」「でも読んでもらえるとうれしい」といっておられました。前半生のエッセンスが凝集しているのでしょう。

「自由は土佐の山間より」http://www.minken.city.kochi.kochi.jp/top.html

父の悲しみ

2010-04-23 05:44:37 | 父・家族・自分
 4月22日(木)雨

 またまた冬に逆戻りです。満開のコリンゴが雨に濡れています。移動教室の事務や北上の旅の情報収集のほかは布団に潜って過ごしました。

 5年ほど前に書いた父に関わる文章を紹介します。父は2007年11月、100歳を迎えた直後に死去しました。

  

 
1955年10月31日、ぼくは弟・祥介を急病で喪った。

 ぼくは中二、弟は小二。生家を離れて下宿生活をしていたぼくは突然の危篤の報に夜行バスに乗り、その存命をいのりつづけたのだが空しかった。帰ってみると、危篤はウソでその日の夕方、ぼくが胸騒ぎをおぼえた時刻に弟はすでに絶命していたのだった。

 親戚のおばあちゃんたちのご詠歌や、白い百合を届けてくれひとことかけてくれた先生のことばがなぐさめになった。

 このときからぼくは「虫の知らせ」という不思議な現象があることを認め、三途の川のこちら側で弟が小石をつんで遊んでいるのではないかと思うようになった。小さいときから年寄りに聞かされていた仏教説話が、徐々に弟の死を受けとめる力になったのかもしれない。

 そして、ひとりの人間というのはけっして「代わり」のきかない、かけがえのない存在であるということを身にしみて思えるようになったといえるだろう。弟は死して、生きることの意味をぼくに教えてくれたのかもしれない。
 
 ぼくが弟の夢を見ることがなくなったのは、自分の息子が小二をすぎてからである。(息子は小二のとき、交通事故にあったが、奇跡的に無事であった。それは弟の祥月命日の直前のことだった。)
 
 その弟の50回忌のために10月22日、土佐・室戸岬に帰った。昭和9(1934)年9月21日の室戸台風以来の高波とかで堤防が破壊され、3人の村人が即死した直後である。麻布大学のイルカの施設もこわされていたが、ぼくの滞在中は、イルカはどういうわけか逃げもせず愛敬をふりまいていた。
 
 法事の前夜に弟の遺品をとりだし、死の直前まで書かれた絵日記を読んだ。49年ぶりである。「30日は兄さんの学校の運動会です」と書かれていた。ぼくに手紙を出したとも。悲しみがおしよせてくる。

 97歳を迎えた父も幼いうちに逝ってしまった末息子のノートを手にし、祭壇の前でじっと座り込み、泣いていた。

 父は教員組合の幹部をしていて、その日は教員会館再建資金集めのため高知市に出張、自分の子の死に目にも会えなかった。父が居ればもっと的確に対応して弟を死なすことはなかったろうにと、当時だれもがくやしがった。

 父の無念は永遠に晴れることはなかろう。翌日父はデイ・ケアに行き、息子の最後の法事には出席しなかった。
 
 今回ぼくは久しぶりに生家に泊まり、数日を父とともにした。

 父は小二のとき継母に抗った話を何度も繰り返した。はじめて聞く話である。

 継母はご飯のお代わりを認めなかったんだという。空腹に耐えかね幼い父は包丁を手に継母に迫った。「タメトシ(父の名)ハ、働イテナイトイフガ、オカアダッテ働イテナイジャナイカ。オトウガ沖デ働イテ食ハシテクレテイルノダ」。

 末おそろしい息子だと、継母は知り合いに訴えたらしい。しかしその人は継母を諭し、父を赦したという。

 父は、継母にイジメラレル子はいじけて嘆き悲しむだけの子供が多かったが、自分はけっして負けなかった、自分の人生は自分できりひらいてきたと、言いたかったらしい。

 父は幼くして生母と生き別れにされ、継母の生家の一人娘(ぼくの母)に「タメヤン(為利さん)トイッショニナレナケレバアテ(私)ハ死ヌ」と迫られて、決まっていた縁談をことわってムコとなったという。

 絶食までした上等もん好きの一人娘の一途さの背景にあった「家」を維持するための大人たちのはかりごとは、父の兄姉たちの怨念となって、ぼくの生育にも影をおとした。

 思いがけず浪人をして、6年ぶりに家で過ごしていた18歳のぼくは悩んだ。「土佐ノ女性トハ決ッシテイッショニナルマイ。血ヲイレカエナケレバ」とか「血ノツナガリヨリモ、ココロノツナガリ」とか。藤村の作品を身につまされるようにして読んだ。一回だけだが父に歯向かったこともあった。
 
 ぼくは、今回初めて、父の深い悲しみを聞いたような気がする。

 経済観念がないとして追い出された母を泣き慕う幼い父の姿は、親戚の年寄りから聞いた話としてかなり昔、妻から知らされた。

 母を追い出す形で継母となった人の実家のムコとなった父は、学校の教員としては最後まで旧姓「坂井」をなのりつづけた。ぼくはそれにこだわりを感じ反感をもったこともあるが、父がこの種の話を家族にしたことはなかった。

 それがいつからのことかはわからないが、父は幼い日に受けた深い心の傷を封印して生きてきたのだろう。ユメとウツツが交錯する人生の末期になって、ときにその封印がとかれるのであろう。

 ぼくは、父が実母をいたわるようにして写っている古い写真をさがし出して、父の枕元においてやった。

 父は、こんな写真があったかといいながら見いっていた。そして「どっちも同じように自分の母だ」といった。

 ぼくは、この家ではタブーだった父の実母がぼくの中でも祖母としてきちんと復権し、祖母にまつわる話が自然に出てくるようにしたいと思った。

  (『木苺』120号 04年12月刊 列島ところどころ⑧ 再び土佐・室戸岬 弟の50回忌)

 

岩殿観音

2010-04-22 06:42:43 | 川越・近郊
 4月21日(水)晴れ

 昨夜、観音経の勉強をした折、信州・長谷寺がご開帳中で毎日3時から岡澤慶澄住職の祈願法要があると知った。ご開帳は7年に一度と言うから今しかない。駆けつけてお経を聞かせてもらいたい衝動に駆られたがおいそれとは行かない。

 代わりに(ごめんなさい)岩殿観音にお参りすることにした。川越近郊には坂東33観音霊場のうちに数えられる寺がいくつかあり、岩殿山正法寺ならぼくのサイクリングエリアー内にあるのだ。

 10時過ぎに出発し、越辺川(おっぺがわ)の土手を走る。木々の芽吹き・若葉と今を盛りの菜の花のハーモニーがすばらしい。川越に住んで本当に良かったなーと思うシーズンである。

 昼過ぎに山門に到着。仁王さんのまえの草地にシートを敷いて昼食にする。花も緑も言うことなし、ウグイスのさえずりも聞こえる。

 本堂前で集団で巡拝する人々がお経を上げていた。ぼくも珍しいことに線香とローソクを買ってお参りをした。

 お経は上げられないが「南無観世音菩薩」と唱えることは出来た。身近な人々の姿を浮かべながら合掌した。

 ホラ貝が鳴った。そのあと観音経、真言、般若心経…そしてまたホラ貝。一組の夫婦のお参り風景を本堂脇のベンチで観察させてもらった。

 岡沢住職の「超訳」を読んだばかりなのでお経をあげる人々の思いが今までよりは身近に感じられるのかな。

 境内の大銀杏(いちょう)。何回も来たところだが、本当に圧倒される。何度もさわって精気をいただいた。

  岩殿観音http://harunourarano.at.webry.info/200911/article_1.html


 物見山はツツジの花盛り。下りてくると「市民の森」という矢印があったので行って見た。

 これが思っても見ないすばらしい松の山だった。松の落ち葉を踏みしめて歩いた。

  東松山・市民の森http://www.knet.ne.jp/~ats/s/hima/hima.htm

観音経

2010-04-21 04:23:46 | 政治・社会
4月20日(火)曇りのち雨

 今日は「穀雨」だそうです。夕方から雨になりました。春の暖かい雨で、穀物の芽生えが促進されるのでしょう。

 久しぶりに信州・長谷寺のHPを訪ねたら「超訳!観音経 声に出して読もう!」という住職の声が聞こえてきたので、早速声に出して読んでみました。

 坊さんが読んでいる観音経はちんぷんかんぷんですが、「超訳」を読んでいると少し意味がわかりかけてきました。お釈迦さんの声が聞こえてくるようです。

 皆さんもやって見たらどうでしょう。

 超訳!観音経 http://www.hasedera.net/blog/2010/03/post_212.html#more


 別のところで住職は山尾三省さんの詩を紹介してくれています。

  観世音菩薩

観世音菩薩 というのは
世界を流れている 深い慈愛心のことであり
わたくしの内にも流れている ひとつの
深い慈愛心のことであるが
いつの頃からか
この世界には そのようなものは実在しないと
私たちは考えるようになった

それがなくては
この世界も わたくしも 一刻も成り立ちはしないのに
わたしたちは それを架空のものと
考えるようになった しかしながら

一人の人が ぼくに喜びを与えてくれるならば
その人は 観世音菩薩なのであり
一本の樹が ぼくに慰めを与えてくれるならば
その樹は まごうかたなく観世音菩薩なのである

あなたが清らかな水を飲んで おいしいと思うならば
その水が 観世音菩薩なのであり
観世音菩薩の像に接して やすらかな気持ちになれば
その像もまた むろん観世音菩薩である

私が人を責めることをしないならば
それが観世音菩薩であり
あなたが私を許してくださるならば
そこに観世音菩薩は 現前しておられる

観世音菩薩というのは
世界を流れている 深い慈悲心であり
あなたの内にも わたしの内にも流れている
ひとつの 深い 慈悲心のことなのである


山尾三省『観音経の森を歩く』所収

出典http://www.hasedera.net/main/kannon/index.html

「長谷観音が古来より信仰されるのは、私たちのうちなる観音性(悲、慈、愛、同悲同苦、忍、いのち)が蘇ってくる聖なる場であるからです。」

 Aくん、読んでくれましたか。良かったら今度、長野市篠ノ井の長谷寺を訪ねてみよう。

 延命十句観音経 (音声)http://www.youtube.com/watch?v=tWQHIVgdO9E

 川越だより「コンパッション」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/0668f474aa27d6b08fa845a1d7a0225d/?ymd=200806&st=0

川越温泉

2010-04-20 07:17:11 | 川越・近郊
 4月19日(月)晴れ

 昨日の疲れが残っているのかのんびり過ごす。昼前に「川越温泉」に連れて行ってもらった。

 昨年末に開業したが4月から「ふれあい入浴利用券」が使えるようになったという。それならというので様子見を兼ねていった。

 尚美学園大学の通りで景色はよいとは言えないがゆっくりと過ごせる施設だった。食堂も充実しており、値段も手頃だ。

 日当たりの良いチェアーに寝そべっているうちに30分近く眠り込んでしまった。

   川越温泉http://www.kawagoe-onsen.com/access/index.html

 ここなら川越公園の散歩の帰りに寄ることが出来る。坂戸の「ふるさとの湯」とは違って妻の手を煩わせることなく来ることが出来るので一日ゆっくり過ごすことが出来るかもしれない。

 平日は650円也。ふれあい入浴券(65歳から)を使うと200円安くなる。ただし年間6回だけである。今年度から半減した。

 夜、日曜日に録画しておいた「韓国併合への道」(NHK)を見る。

 http://www.nhk.or.jp/special/onair/100418.html

 今年は「日韓併合」から100年ということなのでこういう番組が企画されたのだろう。

 ぼくが勉強し始めた頃(69年)には手ごろな本がほとんどなくやがて発刊された梶村秀樹さんなどの本を読んでそれをそのまま歴史の真実だと思っていた。

 『朝鮮史』http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8F%B2%E2%80%95%E3%81%9D%E3%81%AE%E7%99%BA%E5%B1%95-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-460-%E6%96%B0%E6%9B%B8%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E5%8F%B2-10/dp/4061158600/ref=cm_lmf_tit_4

 今は呉善花(お・そんふぁ)さんの『韓国併合への道』なども出ていてぼくにとっては大いに勉強になる。「?」も増えた。今はどんな人・立場からの記述にも真実の一端があるのではないかと思っている。

 http://www.amazon.co.jp/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%91%89-%E5%96%84%E8%8A%B1/dp/4166600869
 


 歴史をどう見るかは百人百様だ。一つの見方しか認めない国家や「授業」や「世論」は民主主義の敵だ。

 NHKの番組も慎重な配慮がされていても一つの見方である。人々の関心が高まり議論が活発になることが望まれる。5回シリーズで再放送もあるということだ。

菜穂子さんのお連れ合い

2010-04-19 10:02:01 | 友人たち
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 4月18日(日)晴れ

 朝から抜けるような青空、無風。9時に出発して荒川左岸の土手上の道を東京方面に向かう。この方面へは今年初めて。

 昼までに行けるところまで行って帰ってくることにする。結局のところ着いたのは戸田橋の手前の土手だった。
 
 だいたいいつものことだ。30kmほどを3時間かけて走っていることになる。

 菜穂子さんに電話したら夫婦で駆けつけてくれた。夫君にお会いするのは初めてだ。昔、結婚式には出られなかったが、信州の千曲川の源流の村の彼の実家には寄ったことがある。金峰山に登ったときだ。誠実で優しそうな人だ。一緒に写真を撮らせてもらった。  

 金峰山荘http://w2.avis.ne.jp/~mawarime/

 金峰山荘に泊まって金峰山(2595m)に登った。私たち夫婦が二人だけで2000m級の山に登ったのはこれが空前にして絶後だ。

 菜穂子さんを「きいちご移動教室」の下見に誘った。大喜びで同行してくれるという。昨年の旅がよっぽど印象深かったらしい。

 今年は洪さんも行きたいと言ってくれている。連休明けが楽しくなった。

  昨年の下見・川越だよりhttp://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/6bde8b4ef510ca3d06c37786de552e06

誕生祝い

2010-04-18 18:56:36 | 父・家族・自分
 4月17日(土)晴れ

 極端に寒い日が続いたので今朝は再び春を迎えたような気になる。川越公園のいつもの道を歩く。

 木々の新芽が美しい。目立つのはクヌギの雄花。

    http://www.geocities.jp/greensv88/jumoku-zz-kunugi.htm

 桜は寒さのせいかまだまだ美しさを保っている。抜けるような青空によくマッチしている。


 夜、Aくん23歳の誕生を祝う。妻の心づくしの巻きずしが美味。

 ぼくが授業で出会ってからちょうど5年が経った。術後の3週間を我が家で過ごしたが、経過も順調なので明日は帰るという。

 一人生きるのが辛いのは君だけではない。頑張って欲しい。

 何時かこの「川越だより」にAくんが寄稿してくれるという。我が家になぜ寄宿することになったかも書いてくれるかもしれない。その日を待つことにしよう。

 妻は我が子にしたと同じように行き届いた世話を焼いていた。ぼくは何もしなかったが孫のような青年が居る家族の生活を楽しむことが出来た。

 この3週間が長い人生を生きる青年の滋養になってくれることを祈るような気持ちだ。


 

「左派の友へ」

2010-04-17 10:51:38 | 韓国・北朝鮮
2005年7月に『木苺』123号に書いた文を紹介します。石原都政のもとで不当な人権抑圧と闘う左派(社会主義者または社会主義思想の影響を受けた人々)の友人たちに心を込めて書いたメッセージです。 
           

              左派の友へ
                         鈴木啓介

 97歳の父が旅をしたいというので、6月のはじめ土佐室戸に帰り家族で一泊旅行をした。

 帰途の5日、『北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会』の高知支部発足準備会があった。ぼくは98年から会員になっており、同郷の萩原遼さんのさそいがあったので喜んで参加した。

 会の代表の山田文明さんが大阪に住んでいる脱北帰国者の榊原洋子さんといっしょにみえられていて、彼女の話を引き出しながら会は進行していった。ぼくもなぜ北朝鮮問題にとりくむようになったのかをしゃべらせてもらった。
 
 夜の交流会で数名の方と語り合った。室戸の出身の元船員の方もいて、ぼくとしてはとても嬉しかった。ぼくのような無党派の人もいるが何人かは某左派政党に関係しているらしい。そのうちの最長老の方は、元県議で「あのころはほんとうに北朝鮮は地上の楽園だと思って運動に参加しました」と語った。

 ぼくを喜ばせたのは、昨年なくなられた西森茂夫さんが松山で行われた「守る会」四国支部の会合に駆けつけ、参加者を叱咤したという話だ。

 西森さんは平和資料館・草の家を主宰し、生態系を守る運動と反戦平和運動をひとつのこととして展開してきた稀有のリーダーである。高校生たちの朝鮮人強制連行実態調査運動などにも協力してきたと聞いている。

 ぼくの母校の元教員であり、先輩にもあたる。ぼくは生前に二度ほどお目にかかったことがあり、『拉致被害者家族の声をうけとめる在日コリアンと日本人の集い』の記録集もお届けしたが、このことについての評価をお聞きする機会はもてないままだった。

「間島パルチザンの詩」の槇村浩の研究者であり、その「革命的ロマンティシズム」の顕彰者である西森さんはもしかしたら朝鮮総連寄りの“左派知識人”なのかもしれないと勝手に想像したりすることもあった。

 その西森さんが病躯をおして松山までかけつけたというのだ。先輩に対する敬意は深まり、勇気づけられるような感動を覚えた。西森さんを敬愛する人々が集まっているとするなら、高知でも近く、北朝鮮帰国者の運命に心を寄せる人々の活動が始まり、土佐を故郷と思って脱北してくる人々を迎えいれる準備が進んでいくにちがいないと思った。

 

 02年9月17日以来、ぼくはそれまであいまいにしてきた姿勢を反省し、北朝鮮の独裁政権とそれを支えてきた朝鮮総連指導部と対決し、拉致被害者の奪還と脱北難民の支援にささやかでも協力できる人間になりたいと思った。

 前記の“集い”を呼びかけたり〈「北朝鮮へのまなざし」を考える連続講座〉の事務局を担当したりして、自分たちの北朝鮮認識の問題点を明らかにし、実践への指針を確立する努力をつづけてきた。

 “在日コリアンと日本人が共に生きる学校と地域を”と呼びかけて30年を生きてきた人間の経験と知恵を総動員して、その責任を果たさなければと思っている。今のところ一番残念なことは藤田さんなどを例外として都高教の友人たちがほとんどこの活動に参加してくれないことである。

 なかには右翼的なナショナリズムの昂揚に手を貸すことだと非難している人もいるらしい。この種の利敵論は昔からかわることなくあって、それに臆病なわれわれの体質が今日の無惨な現実を招いたのだが……。
 
 30年以上の昔から北朝鮮の独裁政権は日本の領海、領土を深く侵し、平和に生活している人々を拉致しつづけたのである。独裁政権を非難する声が高まり、ナショナリズムが昂揚するのは自然なことではないのか。

 大事なことは、北朝鮮で呻吟するひとびとの現実にしっかりと目をやり、日朝の民衆の連帯の力で戦争によらない解決の道を切りひらくことである。
 
 石原慎太郎知事のような人がナショナリズムを利用し、戦後体制を一掃するため、学校をその支配下におこうとしてむちゃくちゃなことをしている。藤田勝久さんに対する弾圧もその一例である。

 ぼくも04年3月、某校の門前で卒業生と保護者にメッセージを届けるためビラ配りをしたが、すぐに警察を呼ばれて、いささか驚いた。

 なぜこんな無法なことがまかり通るのか?

 その一因は「左派」があまりにもひとびとの信頼を失っているからである。

 北朝鮮との関係に限ってみても、共産党は帰国運動の日本側の中核部隊、社会党は60年代末より共産党に代わって朝鮮労働党の友党役をつとめてきた。新左翼の中にはよど号で北朝鮮に脱出し金政権の走狗になりはてた一派まである。

 これらのひとびとがせめて9.17をきっかけに自らの責任を明確にし、拉致被害者の人権を回復する運動に立ちあがっていたら、事態はよほど変わっていたかもしれない。残念ながらその気配すらなかった。
 
 9.17からちょうど一年後の2003年9月17日、“「在日」と日本人による市民討論会”というのがあった。主催者(在日同胞の生活を考える会)から特別に招かれて発言した田英夫さんの話を聞いてぼくは唖然とした。

 金大中拉致事件などで活躍してきたこの方の頭の中では、今日なお、朝鮮戦争は米韓側がひきおこしたことになっているらしい。同席していた社民党議員で異見をのべる人もいない。

 こういう人たちのアタマでは日本人拉致事件がなぜ引きおこされたのかさえ、今日なお理解できないだろう。こんな浮世離れをした歴史認識を9.17以後も改めようとしない人や政党を人々が見限るのはあたりまえではないだろうか。

 自分たちがなぜ間違っていたかをとらえかえそうともせずただただ「正義」を主張する人を支持するのは「信者」だけであろう。
 
 土井たか子さんをはじめ社民党の人たちは「憲法を護る」を専売特許にしてきた。ぼくもいろいろと文句をいいながらもこの一点で社民党に投票してきた。しかしもうやめることにした。

 護憲とは、ひとりひとりの人権をかけがえのないものとしてその侵害とたたかう道筋を懸命にみつけることである。

 外国の独裁権力が自国内深く侵入し、国民を拉致するという信じられない事態が白日の下にさらされたなら、戦争と戦力を放棄した国民の先頭に立って、被害者の人権回復のためにたたかうことである。

 この間彼らがやってきたことは、自分たちのノーテンキぶりを省みずひたすら沈黙を守るだけ。憲法の精神を貶めているのは彼ら自身である。
 
 私たちにとって大事なことは、拉致や強制収容所など想像を絶する苦難に直面している隣人に思いを致し、自分にできることをはじめることである。

 ぼくの友人に脱北して東京にたどりついた在日帰国者の生活の面倒をみている人がいる。彼らの日本社会への定着は想像以上に難しいという。

 やがて子どもたちの教育の課題も浮上してくることだろう。どのくらいの人が日本にやってくることになるのか皆目わからないが、先達に学びながら、教員の一人としての責務を果たす準備を整えていかねばなるまい。

 中国残留孤児の受け入れに失敗した痛ましい歴史が私たちにはある。その教訓をふまえて、具体的な対応を積み重ねていくほかはないが、さしあたって、なぜ、このような蛮行を許してしまったのか、われわれ自身の歴史認識を点検、確立していく必要があろう。

 ぼくが藤田さんに敬意を寄せるのは、石原体制とのたたかいの中でこのことの重要性を折にふれて指摘しているからである。右であれ「左」であれ、許せないものは許せないとする普遍的な人権意識に根ざす地道なたたかいが、けっきょくのところひとびとの共感をえるのではないだろうか。

 そのことなしに勝利への展望はないと、ぼくは思う。高知の人々にならって、左派の友人たちが問題意識を共有してくれるよう願ってやまない。

『現状分析』の先輩

2010-04-16 09:48:20 | 友人たち
 4月15日(木)雨

 真冬のような寒い一日です。昼までは布団にもぐって冬眠。

 午後は東北に春を追いかける旅の構想。岩手県北上・花巻・遠野に心は飛んでいます。

 夕方になってFさんが突如、様子を見に来てくれました。都立高校の教員として同じ時代を生きてきた人です。

 津田道夫さんの家が近いらしく近頃は「呼びつけられて」親しく交流しているそうです。

 津田さんと言えば僕は村松豊功(とよのり)さんを思い出します。東京教育大学の学生時代から津田さんの主宰する「現状分析研究会」に所属し、たびたび論文を発表されていました。
 
新聞会の後輩である僕は『現状分析』という機関誌を定期購読し、村松さんや津田さんをはじめとするマルクス主義者の問題意識に接するようになりました。いつのことまでか『現状分析』が終刊になるまで読ませてもらいました。

 自分なりの考えが生まれるようになると多少の批判もありましたが自分の「羅針盤」作りに役立ってくれたのではないかと思っています。尊敬する村松さんがずうっとかかわり続けていた冊子だったからこそ読み続けたのです。

 村松さんは佼成学園の教員になってから朝鮮語を勉強し、韓国の『人間の条件』と言われる『玄海灘は知っている』(韓雲史著)を翻訳・出版するなど大いに活躍したのですが病に倒れ志半ばに死去されました。

  村松豊功訳「玄海灘は語らず――続阿魯雲伝」
http://korean365.blog18.fc2.com/blog-category-1.html

 同じ職業に就き似たような問題意識を持つ後輩にいつも優しいまなざしを注ぎ続けてくれました。小田原の出身です。伊豆に向かうたびに思い出します。

 津田さんには一度だけお会いしたことがあります。03年だったか僕らが北朝鮮の拉致問題で集会を開いた後、呼ばれて『障害者と人権』という雑誌に原稿を依頼されたのです。村松さんの後輩だと覚えていてくれたのでしょうか。「左派」の人たちから声をかけられた珍しい例です。その後のことは何も知りません。

 80歳を過ぎても旺盛な著作活動をされているようですが、村松さんのような若い同志に先立たれて身近に話し相手が少ないのかもしれません。Fさんは思索が深いので津田さんにとっては格好の「獲物」になったのでしょう。

 たまには一緒に行かないかと誘われたのですが僕には荷が重すぎます。僕は「這い回る経験主義者」ですから哲学的考察は苦手です。相手になれるわけがありません。

 それでもこういう先輩たちに聞いてみたいことがあります。

「社会主義」とは何であったのですか?人類に及ぼした罪業の深さをどう思っていますか?

 Fさんが訪ねてくれるのは2回目ですがこういう話ができる数少ない友人です。ありがたいことです。

 
  津田道夫さんhttp://tomonikk.exblog.jp/


車 仁杓(チャ インピョ)さん

2010-04-15 06:29:09 | 韓国・北朝鮮
 4月14日(水)晴れのち曇り

 一応庭の草取りをして日当たりのよいところにポピーの種をまきました。すぐに疲れるので縁側で休み休みです。

 屋根に干した布団に寝てひと眠り。眼前のコリンゴの花がピンク度を増しています。

  コリンゴhttp://koringo.seesaa.net/upload/detail/image/06040042.jpg.html 


 娘が4月5日の新聞(「朝日」)の切り抜きをくれました。

 車仁杓という人の紹介記事です。17日公開の映画「クロッシング」の俳優で韓国では抜群の知名度だといいます。

 読んで心を動かされました。こういう人の映画なら万難を排して見に行きたくなります。

 記事の要点です。

 ○アジア、アフリカ、南米など15カ国の30人に毎月計数十万円の生活支援を続ける。共に暮らす三人の子のうち二人は養子。
 「世界の子どもたちから手紙が届く。毎月数千万円ぐらいの幸せをこちらがもらっています」

 ○2006年インド・コルカタで現地の子どもたちにふれあい「貧困とは何か」を肌で感じた。「欲しかったものが何も欲しくなくなり、他人の不幸が身近になった」と振り返る。

 ○北朝鮮住民の人権や生命に焦点をあてた映画「クロッシング」には出演した。故郷に家族を残した脱北者を迫真の演技で表現し、韓国では約百万人が見た。

 ○「これまでは目薬なんかで無理に絞り出してた」という涙は撮影中、北の同胞の過酷な現実を見聞きして自然に、とめどなく流れた。そのうえで今確信している。「どれだけ圧力をかけても反発するだけ。相手の本質を変え、一緒に生きていこうとするなら愛するしかないのです」

 42歳の方だという。昔、「風の丘を越えて」という韓国映画を見たことがあります。それ以来かな。「クロッシング」を見に行きます。

 映画・クロッシングhttp://www.crossing-movie.jp/