一昨日は奥島くんに30余年ぶりに会うことができ、感激。昨日から白馬に来ています。五竜岳をマジかに見る散歩を楽しみました。今日は八方尾根を歩いてみます。昨日は今夏初めてよく晴れたと宿の人が言っていました。
朝鮮高校(朝鮮高級学校)への無償化措置適用問題が先送りされるというニュースがNHKなどで流れました。とりあえずはいいことです。
この学校のことを何も知ろうとしないで「賛成」「反対」と騒ぐ人が多いことは残念です。この機会に大いに知る努力をしてもらいたいものです。
このブログで4回に亘って紹介した 元 智慧 (うぉんちへ)さんの手記は貴重この上ないと僕は思っています。
まだ読んでおられない方はこの際熟読してくださるように。
○朝鮮総連・朝鮮人学校と私(Ⅰ~Ⅳ)
http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/50c42fbef2943ef2c33a9171962a9cc2
4回続きになっています。ブログの最後尾の「次の記事へ」をクリックすると続きが読めます。
僕は先に「日本政府が朝鮮高級学校に無償化措置を適用するとすれば日本国が国家として学校にお墨付きを与え、人々の批判の口封じをすることにもつながる。独裁をたたえる教育の延命に手を貸し、子どもたちの運命をこれ以上狂わせてはならない。」と書きました。
運命を狂わせられた人は限りなく居ますが、中でも金日成の還暦に際し「生ソンムル(生の贈りもの)」として「献上」された200人の朝鮮大学校生のことはもっと知られるべきです。
「川越だより」ではかつてつぎのように紹介しました。
○朝鮮総連が『人権擁護団体である』とはhttp://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/2dc54d2de9f7077aeeb689f65300096a?st=1
皆さんが『在日朝鮮人はなぜ帰国したのか ― 在日と北朝鮮50年』という本を直接手にとって読まれることを薦めます。朝鮮大学校のもと教員・洪祥公さんの証言が貴重です。
○http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4877981861.html
この悲劇についてはかつてNHKでも放送されました。
○ 『北朝鮮帰国船 知られざる半世紀の記録』(NHKスペシャル 07・10・8)
http://www.nhk.or.jp/special/onair/071008.html
この番組の中で朝鮮大学校のもと副学長・ぱく・よんごんさんが学生たちを北に送った罪を告白しています。
○関連「川越だより」
朝鮮高校で6・25はどう教えられているか。 『現代朝鮮歴史 高級1』http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/8d2b65ddcf512fa3a395648e4afaf626
この学校のことを何も知ろうとしないで「賛成」「反対」と騒ぐ人が多いことは残念です。この機会に大いに知る努力をしてもらいたいものです。
このブログで4回に亘って紹介した 元 智慧 (うぉんちへ)さんの手記は貴重この上ないと僕は思っています。
まだ読んでおられない方はこの際熟読してくださるように。
○朝鮮総連・朝鮮人学校と私(Ⅰ~Ⅳ)
http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/50c42fbef2943ef2c33a9171962a9cc2
4回続きになっています。ブログの最後尾の「次の記事へ」をクリックすると続きが読めます。
僕は先に「日本政府が朝鮮高級学校に無償化措置を適用するとすれば日本国が国家として学校にお墨付きを与え、人々の批判の口封じをすることにもつながる。独裁をたたえる教育の延命に手を貸し、子どもたちの運命をこれ以上狂わせてはならない。」と書きました。
運命を狂わせられた人は限りなく居ますが、中でも金日成の還暦に際し「生ソンムル(生の贈りもの)」として「献上」された200人の朝鮮大学校生のことはもっと知られるべきです。
「川越だより」ではかつてつぎのように紹介しました。
○朝鮮総連が『人権擁護団体である』とはhttp://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/2dc54d2de9f7077aeeb689f65300096a?st=1
皆さんが『在日朝鮮人はなぜ帰国したのか ― 在日と北朝鮮50年』という本を直接手にとって読まれることを薦めます。朝鮮大学校のもと教員・洪祥公さんの証言が貴重です。
○http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4877981861.html
この悲劇についてはかつてNHKでも放送されました。
○ 『北朝鮮帰国船 知られざる半世紀の記録』(NHKスペシャル 07・10・8)
http://www.nhk.or.jp/special/onair/071008.html
この番組の中で朝鮮大学校のもと副学長・ぱく・よんごんさんが学生たちを北に送った罪を告白しています。
○関連「川越だより」
朝鮮高校で6・25はどう教えられているか。 『現代朝鮮歴史 高級1』http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/8d2b65ddcf512fa3a395648e4afaf626
カンくんからメールをもらいました。
「鈴木先生、倫子先生、お元気ですか。
写真届きました。家族みんなで楽しくみました。
イルカのショーも、アザラシも、すごかったです。
初めて見ますので、本当に不思議でした。
鰯の大群はすごかったですね。
鮫も見れてよかったです。
また、いつか行って僕が直接触りたいです。
お元気でいてください。」
下田の海中水族館に行ったとき、カンくんは僕のカメラを使って撮影に夢中になりました。魚の写真がたくさんできました。
日本に来て初めての体験でしょう。これからの人生の楽しい思い出になるといいなあ。
8月も終わりだというのに連日の暑さは格別です。
今日から信州の大町・白馬方面に行くことにしました。9月末に予定していた安曇野の旅を1ヶ月前倒しして暑さから逃げ出すことにしたのです。
今日は30余年ぶりに安曇野のどこかで時夫くんに会います。1975年入学の池商<1~7>の一員です。いつだったか、我が家を訪ねてくれたのに、留守で会えなかったのです。どんなおじさんになっているのかなあ。
「川越だより」はまた数日お休みです。ホテルにパソコンがあれば「白馬だより」が出せるかもしれません。
「鈴木先生、倫子先生、お元気ですか。
写真届きました。家族みんなで楽しくみました。
イルカのショーも、アザラシも、すごかったです。
初めて見ますので、本当に不思議でした。
鰯の大群はすごかったですね。
鮫も見れてよかったです。
また、いつか行って僕が直接触りたいです。
お元気でいてください。」
下田の海中水族館に行ったとき、カンくんは僕のカメラを使って撮影に夢中になりました。魚の写真がたくさんできました。
日本に来て初めての体験でしょう。これからの人生の楽しい思い出になるといいなあ。
8月も終わりだというのに連日の暑さは格別です。
今日から信州の大町・白馬方面に行くことにしました。9月末に予定していた安曇野の旅を1ヶ月前倒しして暑さから逃げ出すことにしたのです。
今日は30余年ぶりに安曇野のどこかで時夫くんに会います。1975年入学の池商<1~7>の一員です。いつだったか、我が家を訪ねてくれたのに、留守で会えなかったのです。どんなおじさんになっているのかなあ。
「川越だより」はまた数日お休みです。ホテルにパソコンがあれば「白馬だより」が出せるかもしれません。
8月26日(木)晴れ
川越の北部で越辺川(おっぺがわ)に合流する小畔川(こあぜがわ)をさかのぼって源流までを探索するサイクリングをすることにしました。
4月24日以来、二度目の挑戦です。前回は高萩駅の北方、国道407のあたりで川を見失い、源流部にはたどり着けなかったのです。
○http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/355f5faada670a40fea466a2f0a9ffd1
高萩駅の北方、407号バイパスを過ぎたあたりで川沿いの道はなくなります。それでも今回は川に近い道をたどりたどり行くと途中で時々小畔川に再会します。
高麗川の市街地・鹿山地区に入るとコンクリートの水路になり、川沿いに道が続いています。図書館があったので司書の方に相談すると20年ほど前の日高市の地図をくれました。
これによると小畔川の本流は飯能市の宮沢湖から流れ出ており、このあたりは支流の「四反田堀」ということが解りました。
市街地の楽顔亭で昼食。定食のカツ丼が580円で美味。養老乃瀧系列の店です。
ゆっくり休んだ後、2時過ぎからいよいよ宮沢湖に向かいます。川沿いに道はなく勘に頼りながらの走行です。
中鹿山の八高線の線路際で「八高線脱線事故慰霊碑」を発見?しました。思いがけない出会いにびっくりしながら合掌。
○八高線脱線事故慰霊碑http://www5a.biglobe.ne.jp/~techare/29144280/
八高線ではこの事故の少し前の1945年8月にも多摩川橋梁での正面衝突事故があり凄惨を極めたとのことです。
八高線をくぐった後は県道30号沿いの小道を登ります。
宮沢湖は巨大な釣り堀のような感じで強い日差しのもとで釣り糸を垂れる人の姿があちこちに見られます。
堰堤はコスモスの花盛り。ここはもう秋なのでしょうか。木陰で一休み、吹く風が気持ちいい。
堤の下に水路が見えるのでこれが小畔川の始まりかと勝手に思いました。
湖畔を一周した後、県道30号、国道299号、入間川自転車道と快適な下り道を帰ってきました。暑い一日だったといいますが、動き回っていると何のことはありません。
川越と高麗郷を小畔川沿いの道で自由に行き来できたらどんなに楽しいでしょう。高萩までは土手の道がありますからちょっと手を加えれば立派な自転車道になります。
ここから後はどうしたらいいのか?日高の市長さんに考えてもらって高麗神社あたりまでへの遊歩道と接続してもらいたいものです。
川越の北部で越辺川(おっぺがわ)に合流する小畔川(こあぜがわ)をさかのぼって源流までを探索するサイクリングをすることにしました。
4月24日以来、二度目の挑戦です。前回は高萩駅の北方、国道407のあたりで川を見失い、源流部にはたどり着けなかったのです。
○http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/355f5faada670a40fea466a2f0a9ffd1
高萩駅の北方、407号バイパスを過ぎたあたりで川沿いの道はなくなります。それでも今回は川に近い道をたどりたどり行くと途中で時々小畔川に再会します。
高麗川の市街地・鹿山地区に入るとコンクリートの水路になり、川沿いに道が続いています。図書館があったので司書の方に相談すると20年ほど前の日高市の地図をくれました。
これによると小畔川の本流は飯能市の宮沢湖から流れ出ており、このあたりは支流の「四反田堀」ということが解りました。
市街地の楽顔亭で昼食。定食のカツ丼が580円で美味。養老乃瀧系列の店です。
ゆっくり休んだ後、2時過ぎからいよいよ宮沢湖に向かいます。川沿いに道はなく勘に頼りながらの走行です。
中鹿山の八高線の線路際で「八高線脱線事故慰霊碑」を発見?しました。思いがけない出会いにびっくりしながら合掌。
○八高線脱線事故慰霊碑http://www5a.biglobe.ne.jp/~techare/29144280/
八高線ではこの事故の少し前の1945年8月にも多摩川橋梁での正面衝突事故があり凄惨を極めたとのことです。
八高線をくぐった後は県道30号沿いの小道を登ります。
宮沢湖は巨大な釣り堀のような感じで強い日差しのもとで釣り糸を垂れる人の姿があちこちに見られます。
堰堤はコスモスの花盛り。ここはもう秋なのでしょうか。木陰で一休み、吹く風が気持ちいい。
堤の下に水路が見えるのでこれが小畔川の始まりかと勝手に思いました。
湖畔を一周した後、県道30号、国道299号、入間川自転車道と快適な下り道を帰ってきました。暑い一日だったといいますが、動き回っていると何のことはありません。
川越と高麗郷を小畔川沿いの道で自由に行き来できたらどんなに楽しいでしょう。高萩までは土手の道がありますからちょっと手を加えれば立派な自転車道になります。
ここから後はどうしたらいいのか?日高の市長さんに考えてもらって高麗神社あたりまでへの遊歩道と接続してもらいたいものです。
【川越だより】のアクセス・ランキング
過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)
閲覧数 訪問者数 ランキング
2010.08.24(火) 688 PV 255 IP 3647 位 / 1456265ブログ
2010.08.23(月) 683 PV 277 IP 3269 位 / 1455705ブログ
2010.08.22(日) 638 PV 200 IP 5289 位 / 1455215ブログ
2010.08.21(土) 464 PV 201 IP 5036 位 / 1454744ブログ
2010.08.20(金) 731 PV 218 IP 4498 位 / 1454248ブログ
2010.08.19(木) 470 PV 183 IP 6426 位 / 1453779ブログ
2010.08.18(水) 575 PV 202 IP 5615 位 / 1453209ブログ
過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)
日付 閲覧数 訪問者数 ランキング
2010.08.15 ~ 2010.08.21 3988 PV 1454 IP 5098 位 / 1454744ブログ
2010.08.08 ~ 2010.08.14 4544 PV 1607 IP 4534 位 / 1451348ブログ
2010.08.01 ~ 2010.08.07 4624 PV 1637 IP 4518 位 / 1448251ブログ
トータルアクセス数
トータル閲覧数(PV) 361130 PV
トータル訪問者数(IP) 118828 IP
このところ室内でも35度になるような日が続きました。二日ほど予告もなく「川越だより」を休みましたが、僕は元気いっぱいです。ばてたわけではありません。
昨日(25日)、「きいちご多文化共生基金」の世話人会があり、友人たちが連絡先になっている我が家に来てくれました。
「第11回きいちご移動教室」は11月7日(日)と決まりました。今回は日帰りで田中正造が活躍した北関東の渡良瀬川流域の佐野市や渡良瀬遊水池を訪ねます。
案内は『きいちご』6号とともに9月中にお届けするつもりです。会の趣旨に賛同してくださる方ならどなたでも参加歓迎です。会費というものはありませんが年、1000円以上のカンパをする人が会員です。
関心がある方は問い合わせてください。keisukelap@yahoo.co.jp
これで私たちの秋の楽しみの予定もほぼ決まりました。
○9月26日(日)~29日 信州・安曇野(池商OB奥島くんを訪ねる)
○10月16日(土)17日(日)川越祭り
16日夜 大島高校1967年3月卒業生同窓会
○10月24日(日)~26日 京滋の旅(息子夫婦と同道)
27日~ 帰郷
○11月7日 「きいちご移動教室」北関東
あれこれと夢をふくらませながらまだまだ暑い日々を楽しんでいきたいと思います。
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このところ室内でも35度になるような日が続きました。二日ほど予告もなく「川越だより」を休みましたが、僕は元気いっぱいです。ばてたわけではありません。
昨日(25日)、「きいちご多文化共生基金」の世話人会があり、友人たちが連絡先になっている我が家に来てくれました。
「第11回きいちご移動教室」は11月7日(日)と決まりました。今回は日帰りで田中正造が活躍した北関東の渡良瀬川流域の佐野市や渡良瀬遊水池を訪ねます。
案内は『きいちご』6号とともに9月中にお届けするつもりです。会の趣旨に賛同してくださる方ならどなたでも参加歓迎です。会費というものはありませんが年、1000円以上のカンパをする人が会員です。
関心がある方は問い合わせてください。keisukelap@yahoo.co.jp
これで私たちの秋の楽しみの予定もほぼ決まりました。
○9月26日(日)~29日 信州・安曇野(池商OB奥島くんを訪ねる)
○10月16日(土)17日(日)川越祭り
16日夜 大島高校1967年3月卒業生同窓会
○10月24日(日)~26日 京滋の旅(息子夫婦と同道)
27日~ 帰郷
○11月7日 「きいちご移動教室」北関東
あれこれと夢をふくらませながらまだまだ暑い日々を楽しんでいきたいと思います。
昼前に癌研有明病院の西尾医師の診断がありました。
脳などへの転移はなく、血液検査にも異常は見られない。右肺に転移した癌はおおむね抗ガン剤で抑制されており、4ヶ月前と比べて大きな変化はない。
抗ガン剤の投与から2年を経過してまずは良好な経過です。しかし、油断は禁物ということで4ヶ月ごとだったCT検査を次は10月に行うことになりました。
院長室に中川もと主治医を訪ねました。これまで通り、やりたいことをやり体を動かして免疫力をつけていくようにと励ましてくれました。
夏休みをとったばかりだとかで、旧友でもある先生の表情はとても生き生きしていました。
きいちご移動教室をはじめ、この秋は楽しみが目白押しです。まずまずの通知簿をもらえたのでこれまで通り安心して活動できるでしょう。
午後はカンちゃんの学校に寄ってきました。偶然、担任の先生にも会えて何よりでした。25日からは新学期が始まるとか。
何で?この暑いのに。僕にはとても理解できない風潮です。
脳などへの転移はなく、血液検査にも異常は見られない。右肺に転移した癌はおおむね抗ガン剤で抑制されており、4ヶ月前と比べて大きな変化はない。
抗ガン剤の投与から2年を経過してまずは良好な経過です。しかし、油断は禁物ということで4ヶ月ごとだったCT検査を次は10月に行うことになりました。
院長室に中川もと主治医を訪ねました。これまで通り、やりたいことをやり体を動かして免疫力をつけていくようにと励ましてくれました。
夏休みをとったばかりだとかで、旧友でもある先生の表情はとても生き生きしていました。
きいちご移動教室をはじめ、この秋は楽しみが目白押しです。まずまずの通知簿をもらえたのでこれまで通り安心して活動できるでしょう。
午後はカンちゃんの学校に寄ってきました。偶然、担任の先生にも会えて何よりでした。25日からは新学期が始まるとか。
何で?この暑いのに。僕にはとても理解できない風潮です。
今日は日差しの強い一日でした。昼前から自転車で坂戸に行き「よさこい」を楽しんできました。自然に踊り出したくなるような高揚感が帰ってくるまで続きました。
中心街や駅前通を地方車を先頭に流していく踊りと広場の舞台の上で披露する踊りとがあるのは高知の「よさこい祭り」と同じです。
その両方を心ゆくまで観ました。
坂戸に住む高知出身の方が始めたという「上総組」と高知から参加した「国士無双」「本丁筋踊り子隊」の踊りはやはり他を圧倒する迫力があります。
上総組http://blog.kazusagumi.com/
「上総組」のテントがあったのでよってみました。僕が高知の出身だと言うとすぐに代表の菊池亜希子さんが出てきてくれました。
我が家にも宅配される「ショッパー」という宣伝紙にこの方のことが紹介されているのを読んだばかりでした。高知生まれで6歳の時から「よさこい」を踊っていたと言います。
坂戸に住んで「上総組」を旗揚げし、やがて「坂戸よさこい」へと発展させた張本人のようです。
はつらつとした女性です。土佐でいう「はちきん」という言葉がぴったりの感じです。10年かかってもうすっかり坂戸の町に根付きました。
僕は心から礼を言わせてもらいました。名刺をくれてこれからも頑張るからよろしくといわれました。
菊池さんhttp://203.139.202.230/yosakoi/030813yosakoi3.htm
川越の隣の町に「よさこい節」が響くなどと言うことを想像したこともありません。それが現実になって坂戸の市民が楽しんでいるのですから何かとてもうれしくなってなかなか立ち去ることが出来なかったのです。
来年はカンちゃんなどを誘って一緒に楽しみたいとも思いました。
僕にとって「よさこい」はマグロ船の漁師のおんちゃんらの宴会の思い出と重なる歌です。
船主であった伯父の家で出港を前に船長以下乗組員全員が集まっておおきなお客をしたのです。
「よさこい節」は郷土の歌ですから当然ですが「あさどやゆんた」なども歌われ夜遅くまで続きました。
こどもの頃から皮膚にしみこんだ「よさこい」を様々に形を変えて聞くのはうれしいとしか言いようがありません。
上総組http://www.youtube.com/watch?v=uYZqXYB2NE4&feature=related
夜は「龍馬伝」を観ました。人を心から愛することが出来る福山・龍馬に感動。今日は「土佐デー」です。
中心街や駅前通を地方車を先頭に流していく踊りと広場の舞台の上で披露する踊りとがあるのは高知の「よさこい祭り」と同じです。
その両方を心ゆくまで観ました。
坂戸に住む高知出身の方が始めたという「上総組」と高知から参加した「国士無双」「本丁筋踊り子隊」の踊りはやはり他を圧倒する迫力があります。
上総組http://blog.kazusagumi.com/
「上総組」のテントがあったのでよってみました。僕が高知の出身だと言うとすぐに代表の菊池亜希子さんが出てきてくれました。
我が家にも宅配される「ショッパー」という宣伝紙にこの方のことが紹介されているのを読んだばかりでした。高知生まれで6歳の時から「よさこい」を踊っていたと言います。
坂戸に住んで「上総組」を旗揚げし、やがて「坂戸よさこい」へと発展させた張本人のようです。
はつらつとした女性です。土佐でいう「はちきん」という言葉がぴったりの感じです。10年かかってもうすっかり坂戸の町に根付きました。
僕は心から礼を言わせてもらいました。名刺をくれてこれからも頑張るからよろしくといわれました。
菊池さんhttp://203.139.202.230/yosakoi/030813yosakoi3.htm
川越の隣の町に「よさこい節」が響くなどと言うことを想像したこともありません。それが現実になって坂戸の市民が楽しんでいるのですから何かとてもうれしくなってなかなか立ち去ることが出来なかったのです。
来年はカンちゃんなどを誘って一緒に楽しみたいとも思いました。
僕にとって「よさこい」はマグロ船の漁師のおんちゃんらの宴会の思い出と重なる歌です。
船主であった伯父の家で出港を前に船長以下乗組員全員が集まっておおきなお客をしたのです。
「よさこい節」は郷土の歌ですから当然ですが「あさどやゆんた」なども歌われ夜遅くまで続きました。
こどもの頃から皮膚にしみこんだ「よさこい」を様々に形を変えて聞くのはうれしいとしか言いようがありません。
上総組http://www.youtube.com/watch?v=uYZqXYB2NE4&feature=related
夜は「龍馬伝」を観ました。人を心から愛することが出来る福山・龍馬に感動。今日は「土佐デー」です。
昼頃、貴子さんからお母さんの訃報がもたらされました。亡くなられたのは14日で僕が伊豆に出かけていたため知らせが遅れたようです。
絹子さん、僕の生徒だった貴子さんのお母さんです。貴子さんが池商に入学した1978年以来のおつきあいですからもう30年以上になります。
貴子さんを僕が担任したのは一年次だけですがつきあいの深い生徒で私たちは今も「たかこ」と呼んでいます。
一年の時、友人たちと僕の故郷で夏休みを過ごしたのを皮切りに、旅行も何度もしました。3年生の時には北海道の牧場で友人たち共々我が家の家族全員が夏休みを一緒に過ごしました。
お母さんも貴子さんもそれぞれに「我が強い」というのか、感情や生き方がすれ違うところがありました。貴子さんの結婚に際してもお母さんは最後まで反対し、結婚式にも出られません。北海道で出会った昆布漁師のおじさんまでが遠くから出席してくれたのですが…。
僕から観れば貴子さんは貴子さんでしっかり生きているように見えるのですが、お母さんには娘の生き方に対して危惧する気持ちが消えなかったのでしょう。
お母さんは僕のことを信頼してくれたのか、川越の我が家に来てくれたり、夏や暮れには欠かさず贈り物をしてくれたりしました。
「そんなことをしなくても貴子は僕の大切な娘のような者だから」といくらいってもその行為は変わることがありませんでした。母の子に対する想いがこんな形で表現され続けたのかと思います。
自分の体調が思わしくないのに僕が入院したときなどはあれこれと気にかけて励ましてくれました。
近年は、十分とは言えないけれど、親と子が交流する機会が次第に増えてきたかなと僕は安心していました。
最後にお話ししたのは去年の暮れでした。北海道の昆布を送ってくれたのでお礼を言うための電話です。
貴子さんが世話になった昆布漁師さんに会うために北海道の広尾を訪ねたこともあると言います。昆布はその方から買ったものだったのです。
入院していたことを僕は知らないままでした。貴子さんが毎日通ってお母さんを見舞うことが出来たと言います。
こどもがいくつになっても親にとってはこどものままです。母親にとっては特にそうなのかもしれません。
僕に何が出来るわけではありませんが貴子さんを大切な「娘」と思ってつきあい続けることに変わりはありません。どうぞご安心下さい。
ちょっとキザかもしれないけれどお見舞いに行ってこんな言葉をかけられたらよかったかなあ。
富岡絹子さん、どうぞ安らかにお休み下さい。(合掌)
絹子さん、僕の生徒だった貴子さんのお母さんです。貴子さんが池商に入学した1978年以来のおつきあいですからもう30年以上になります。
貴子さんを僕が担任したのは一年次だけですがつきあいの深い生徒で私たちは今も「たかこ」と呼んでいます。
一年の時、友人たちと僕の故郷で夏休みを過ごしたのを皮切りに、旅行も何度もしました。3年生の時には北海道の牧場で友人たち共々我が家の家族全員が夏休みを一緒に過ごしました。
お母さんも貴子さんもそれぞれに「我が強い」というのか、感情や生き方がすれ違うところがありました。貴子さんの結婚に際してもお母さんは最後まで反対し、結婚式にも出られません。北海道で出会った昆布漁師のおじさんまでが遠くから出席してくれたのですが…。
僕から観れば貴子さんは貴子さんでしっかり生きているように見えるのですが、お母さんには娘の生き方に対して危惧する気持ちが消えなかったのでしょう。
お母さんは僕のことを信頼してくれたのか、川越の我が家に来てくれたり、夏や暮れには欠かさず贈り物をしてくれたりしました。
「そんなことをしなくても貴子は僕の大切な娘のような者だから」といくらいってもその行為は変わることがありませんでした。母の子に対する想いがこんな形で表現され続けたのかと思います。
自分の体調が思わしくないのに僕が入院したときなどはあれこれと気にかけて励ましてくれました。
近年は、十分とは言えないけれど、親と子が交流する機会が次第に増えてきたかなと僕は安心していました。
最後にお話ししたのは去年の暮れでした。北海道の昆布を送ってくれたのでお礼を言うための電話です。
貴子さんが世話になった昆布漁師さんに会うために北海道の広尾を訪ねたこともあると言います。昆布はその方から買ったものだったのです。
入院していたことを僕は知らないままでした。貴子さんが毎日通ってお母さんを見舞うことが出来たと言います。
こどもがいくつになっても親にとってはこどものままです。母親にとっては特にそうなのかもしれません。
僕に何が出来るわけではありませんが貴子さんを大切な「娘」と思ってつきあい続けることに変わりはありません。どうぞご安心下さい。
ちょっとキザかもしれないけれどお見舞いに行ってこんな言葉をかけられたらよかったかなあ。
富岡絹子さん、どうぞ安らかにお休み下さい。(合掌)
15日から4日間、南伊豆のKさんの別荘に世話になりました。北朝鮮を脱出してきたRさん一家4人ともどもです。
一人ゆっくり過ごしているはずのところに私たち6人を迎えたのです。Kさんはさぞ気疲れしたことでしょう。
私たちにとっては夢のような日々でした。ただただ感謝のほかはありません。
楽しくて有意義だった日々のメモ。
①海水浴。
R家の姉弟と久しぶりに交流しました。特に二日目は朝の9時過ぎから午後2時頃まで海に入りっぱなしです。
数日ぶりの好天となった弓ヶ浜はけっこうな人出です。次々と小さな波が押し寄せてくる砂浜で二人は飽きることなく波に挑戦します。
カンちゃんは僕につかまって水深が胸のあたりまでのところまで来ては陸の方に泳いでみせます。用心深いのか決してそれより沖にはついて来ません。
午後にはお母さんたちも来て、親子三人で二つの浮き輪をつないで遊んでいました。本当に楽しそうです。
おばあちゃんのRさんに言わせると「キモイほどべたべた」の3人組みです。緊張と恐怖の中で中朝国境の川を渡り、今日まで寄り添いながら運命を切り拓いてきたのですから当たり前のことです。
おばあちゃんの泳ぎは達者です。一人沖に出て悠々たるものです。日本の海は半世紀ぶりのはずですがおそれる気配はありません。一家の刀自としてまさに一瞬もゆるがせにせず生き抜いてきた人の風格でしょうか。
ぼくがこどもたちと海水浴を楽しむのは20数年ぶりのことです。室戸岬の鯨浜で娘や息子と泳いだ日が思い出されます。
カンちゃんは「先生」と呼んでくれますが僕には孫のような年頃です。思いがけない機会に恵まれて僕は本当に果報者です。
夜になって昼間の楽しみのツケが二人のこどもたちに回ってきました。日焼けがひりひりと痛み出したのです。
二人ともごめんね。日差しの強さのことはすっかり忘れて僕もこども時代に帰っていたのです。
②魚料理
毎晩、Rさんのつくった朝鮮料理を楽しみました。レーメン、ビビンパ…。朝鮮で食堂をやっていたことがあるくらいですから料理もなかなかです。
ハイライトはお刺身の数々。隣に住むお友達がつり上げた大きなメジナをKさんが捌いてごちそうしてくれました(二日目)。普段は刺身を食べないというカンちゃんまでもりもりと食べるのでお母さんはびっくり。釣ってきたばかりのものをいただいて食べるのですから新鮮この上なし。美味しいのは当然のことですね。
これに気をよくしたのはKさんです。翌日、朝から海に出てイサギ、トビウオ、サバ、メジナなどを釣り上げて、最後の晩餐を盛り上げてくれました。
食卓に並んだ二つの大皿にシコシコ、プリプリの刺身とシメサバがぎっしりと盛られています。シメサバといっても、ほとんど刺身同然の、「ピンクのシメサバ」です。まさに圧巻でした。
東京にいては決して口にすることが出来ない何よりのごちそうに私たちの食もすすみ、話が弾んだのは言うまでもありません。
ここは南伊豆町でもけっこう山の中です。東京に住む釣り好きたちが海の魅力にとりつかれて次々と移り住むようになったといいます。お隣さんはメジナを差し入れてくださっただけでなく、ご夫婦で私たちの送り迎えまでやってくれました。
Kさんの人柄のしからしめるところでしょう。ただただ感謝です。
③北朝鮮と日本
夕食後は大人たちの交流の場です。高校生のとき自ら進んで単身、北朝鮮に渡ったRさんと北朝鮮で生まれ育った娘さんの話に一同、時を忘れます。こんな機会に恵まれる人は日本広しといえどほとんどいないでしょう。お二人にしても公に話すというわけにはいかないことばかりです。
僕はRさんと出会って以来、折に触れてお話を聞きました。娘さんと会うのもこれで何回目かですが、自分の体験や悩み、喜びを心を込めて語るのを聞くのは初めてです。
北朝鮮に着くと共に一切の「自分」を表に出さないと決意して生き抜いてきたRさんはこどもたちに対しても自分の本心を表したことはありません。こどもたちにはこどもたちの人生があり、それを危険にさらすわけにはいかないからです。
北朝鮮の社会の価値観をそのまま受け入れて優秀な学生に成長していった娘さんでしたが人生の節目節目に「帰国者の娘」という烙印のため、不条理な差別に直面し、苦闘する日々があったといいます。
今、日本の社会というものに出会って彼女が直面している課題は深刻です。自分が懸命な努力で身につけてきた世界観、歴史観、人生観のすべてを否応なく問い返さなければならないからです。
お母さんは北朝鮮での「50年間は無」と言いきって、「北朝鮮」を批判、相対化することが出来ますが、「北朝鮮」以外を知らない彼女には問い返す座標軸が定まらないのです。日本と世界をどん欲に学んで自己確立を目指したいのですが生活に追われるのが現実です。
北朝鮮で有数の大学にまで進んで、学んだことの大半はこの社会では何の役にも立ちません。二人のこどもを育てながら、この春定時制高校に入学しました。大学にも行きたいようです。
日本の地にたどり着くことが出来てRさんと娘さんはようやく本心を交わすことが出来るようになりました。それでも二人の間に生まれた歴史観や世界観の開きは途方もないものでしょう。
Rさんの偉いのは娘さんが自分自身の手でやるしかない自己再確立の歩みを親として見守り、支援しているように見えることです。自分の考えを押しつけてもどうにもならないことをよく自覚されているのです。
娘さんは朝鮮大学校の学生のあり方に興味を持っています。北朝鮮と同じような教育を受けてもここは日本です。どんな朝鮮人が育っているのか?自分の課題に引きつけて考えているのでしょう。
僕らは偶然といえば偶然、必然といえば必然、Rさん一家と出会った日本人です。こどもたちがすくすくと育っていってくれるようにと願ってきました。
今回の旅で二人のこどもの母親でもある娘さんの話を聞いて彼女の心の内が少し解った気がしました。日本人の友人の一人として心して応援していきたいと思います。
親から受け継いだに違いない人生に対する誠実な姿勢はどんな社会にも通用する宝物です。この家族をみていると僕も大いに励まされます。北朝鮮に残された家族の再結合という途方もない困難を抱えつつ、希望に向かって着実に日々を送っていくことでしょう。
私たち6人をもてなしてくれたKさんは学生の頃からの友人です。Rさんとは同い年だといいます。貧困と差別に立ち向かって生きたこども時代は共通するところがあるようにも思えます。これがきっかけになって一家のよき理解者になってくれることでしょう。心強いことです。
一人ゆっくり過ごしているはずのところに私たち6人を迎えたのです。Kさんはさぞ気疲れしたことでしょう。
私たちにとっては夢のような日々でした。ただただ感謝のほかはありません。
楽しくて有意義だった日々のメモ。
①海水浴。
R家の姉弟と久しぶりに交流しました。特に二日目は朝の9時過ぎから午後2時頃まで海に入りっぱなしです。
数日ぶりの好天となった弓ヶ浜はけっこうな人出です。次々と小さな波が押し寄せてくる砂浜で二人は飽きることなく波に挑戦します。
カンちゃんは僕につかまって水深が胸のあたりまでのところまで来ては陸の方に泳いでみせます。用心深いのか決してそれより沖にはついて来ません。
午後にはお母さんたちも来て、親子三人で二つの浮き輪をつないで遊んでいました。本当に楽しそうです。
おばあちゃんのRさんに言わせると「キモイほどべたべた」の3人組みです。緊張と恐怖の中で中朝国境の川を渡り、今日まで寄り添いながら運命を切り拓いてきたのですから当たり前のことです。
おばあちゃんの泳ぎは達者です。一人沖に出て悠々たるものです。日本の海は半世紀ぶりのはずですがおそれる気配はありません。一家の刀自としてまさに一瞬もゆるがせにせず生き抜いてきた人の風格でしょうか。
ぼくがこどもたちと海水浴を楽しむのは20数年ぶりのことです。室戸岬の鯨浜で娘や息子と泳いだ日が思い出されます。
カンちゃんは「先生」と呼んでくれますが僕には孫のような年頃です。思いがけない機会に恵まれて僕は本当に果報者です。
夜になって昼間の楽しみのツケが二人のこどもたちに回ってきました。日焼けがひりひりと痛み出したのです。
二人ともごめんね。日差しの強さのことはすっかり忘れて僕もこども時代に帰っていたのです。
②魚料理
毎晩、Rさんのつくった朝鮮料理を楽しみました。レーメン、ビビンパ…。朝鮮で食堂をやっていたことがあるくらいですから料理もなかなかです。
ハイライトはお刺身の数々。隣に住むお友達がつり上げた大きなメジナをKさんが捌いてごちそうしてくれました(二日目)。普段は刺身を食べないというカンちゃんまでもりもりと食べるのでお母さんはびっくり。釣ってきたばかりのものをいただいて食べるのですから新鮮この上なし。美味しいのは当然のことですね。
これに気をよくしたのはKさんです。翌日、朝から海に出てイサギ、トビウオ、サバ、メジナなどを釣り上げて、最後の晩餐を盛り上げてくれました。
食卓に並んだ二つの大皿にシコシコ、プリプリの刺身とシメサバがぎっしりと盛られています。シメサバといっても、ほとんど刺身同然の、「ピンクのシメサバ」です。まさに圧巻でした。
東京にいては決して口にすることが出来ない何よりのごちそうに私たちの食もすすみ、話が弾んだのは言うまでもありません。
ここは南伊豆町でもけっこう山の中です。東京に住む釣り好きたちが海の魅力にとりつかれて次々と移り住むようになったといいます。お隣さんはメジナを差し入れてくださっただけでなく、ご夫婦で私たちの送り迎えまでやってくれました。
Kさんの人柄のしからしめるところでしょう。ただただ感謝です。
③北朝鮮と日本
夕食後は大人たちの交流の場です。高校生のとき自ら進んで単身、北朝鮮に渡ったRさんと北朝鮮で生まれ育った娘さんの話に一同、時を忘れます。こんな機会に恵まれる人は日本広しといえどほとんどいないでしょう。お二人にしても公に話すというわけにはいかないことばかりです。
僕はRさんと出会って以来、折に触れてお話を聞きました。娘さんと会うのもこれで何回目かですが、自分の体験や悩み、喜びを心を込めて語るのを聞くのは初めてです。
北朝鮮に着くと共に一切の「自分」を表に出さないと決意して生き抜いてきたRさんはこどもたちに対しても自分の本心を表したことはありません。こどもたちにはこどもたちの人生があり、それを危険にさらすわけにはいかないからです。
北朝鮮の社会の価値観をそのまま受け入れて優秀な学生に成長していった娘さんでしたが人生の節目節目に「帰国者の娘」という烙印のため、不条理な差別に直面し、苦闘する日々があったといいます。
今、日本の社会というものに出会って彼女が直面している課題は深刻です。自分が懸命な努力で身につけてきた世界観、歴史観、人生観のすべてを否応なく問い返さなければならないからです。
お母さんは北朝鮮での「50年間は無」と言いきって、「北朝鮮」を批判、相対化することが出来ますが、「北朝鮮」以外を知らない彼女には問い返す座標軸が定まらないのです。日本と世界をどん欲に学んで自己確立を目指したいのですが生活に追われるのが現実です。
北朝鮮で有数の大学にまで進んで、学んだことの大半はこの社会では何の役にも立ちません。二人のこどもを育てながら、この春定時制高校に入学しました。大学にも行きたいようです。
日本の地にたどり着くことが出来てRさんと娘さんはようやく本心を交わすことが出来るようになりました。それでも二人の間に生まれた歴史観や世界観の開きは途方もないものでしょう。
Rさんの偉いのは娘さんが自分自身の手でやるしかない自己再確立の歩みを親として見守り、支援しているように見えることです。自分の考えを押しつけてもどうにもならないことをよく自覚されているのです。
娘さんは朝鮮大学校の学生のあり方に興味を持っています。北朝鮮と同じような教育を受けてもここは日本です。どんな朝鮮人が育っているのか?自分の課題に引きつけて考えているのでしょう。
僕らは偶然といえば偶然、必然といえば必然、Rさん一家と出会った日本人です。こどもたちがすくすくと育っていってくれるようにと願ってきました。
今回の旅で二人のこどもの母親でもある娘さんの話を聞いて彼女の心の内が少し解った気がしました。日本人の友人の一人として心して応援していきたいと思います。
親から受け継いだに違いない人生に対する誠実な姿勢はどんな社会にも通用する宝物です。この家族をみていると僕も大いに励まされます。北朝鮮に残された家族の再結合という途方もない困難を抱えつつ、希望に向かって着実に日々を送っていくことでしょう。
私たち6人をもてなしてくれたKさんは学生の頃からの友人です。Rさんとは同い年だといいます。貧困と差別に立ち向かって生きたこども時代は共通するところがあるようにも思えます。これがきっかけになって一家のよき理解者になってくれることでしょう。心強いことです。
朝鮮総連・朝鮮学校と私 ある在日の告白(Ⅳ)
元 智慧
マスゲーム
(略)それは金日成スタジアムで行われていたが、マスゲームを生で観ることが出来るなどとは夢にも思っていなかったので、ある意味胸を躍らせながら会場へと足を運んだ。
修学旅行のひとつの山場であるものがいよいよ間近に迫っている。初めて目にするその衝撃はまさに筆舌に尽くしがたいものであった。やはり観ると聞くとでは大違い。現実にこれだけの人間を統率する力には、何か言い得ぬ戦慄を覚えた。
客席に着いた我々は、しばらくは呆然として傍観していた。次々と浮かび出る金親子を称えるスローガンや絵の数々。内容はともかく、その鮮やかさにまず目を奪われる。これほどまでに人の心を束縛し、一挙手一投足を統率するというのは北朝鮮という国以外では考えられないほどのすさまじさである。「個」を一切認めず、すべてが偶像への崇拝のためにあるこういった国が、果たして許されるべきであろうか。
そんなことをひとり考えているまさにその時、我々の目に飛び込んでくるひとつのスローガン。
「裏切り者は断じて許さない!」
これが何を意味しているのか、理解するのにそう時間を必要としなかった。それはまさに、自分の北朝鮮訪問に先立ち全世界に衝撃を与えた、黄長(ファン・ジャンヨプ)
もと北朝鮮労働党書記の韓国への亡命劇を意味していた。
北朝鮮の民主化を声高に叫び、自らの家族をも犠牲にしたその真の勇気を称える者は、そこには誰もいない。北朝鮮の唯一思想である「主体思想」を確立させたのも彼であり、それ故、この亡命事件はいっそう衝撃的なものになった。
(略)彼が裏切り者なのか、真の英雄であるかはそう遠くない将来、歴史が証明するであろう。
ここ数年、北朝鮮では毎年約100万人が餓死しているという。社会主義や共産主義体制には元来欠陥が会ったとはいえ、北朝鮮は極端に個人崇拝を進め、政権の世襲まで行ってしまった。
愚の骨頂とはまさにこのことを言うのであろう。マスゲームを観ていた私は、この愚かなる政治体制の象徴とも言うべきそれを、ただじっと見るよりほかなかった。
親族訪問
朝鮮学校に通う者に限らず、訪朝する在日の人々の大きな目的のひとつが親族訪問である。
従ってほとんど唯一の渡航手段ともいえる万景峰号には我々修学旅行生のみならず、常に一般客も数多く乗船している。(略)
「乗りたいのではない、乗らなくちゃならんだけ。切ない船ですよ…。」
ある在日朝鮮人一世の男性はこの船をこう表現した。それは何を意味するのか。
あの帰還事業により海を渡っていった人々には過酷な運命が待ち受けていた。それはかつて異国の地で受けた差別や極貧、それよりも遙かに劣悪な生活環境であった。
十万近い人々を実質的に人質に取ることに成功した北朝鮮は、思惑通り、日本にとどまった彼らの親族を強請(ゆす)り始めることになる。
日本において財をなした北朝鮮および総連を支持する企業や暴力団関係が巨額の送金を続けていることは周知の事実であるが、それは個人レベルにおいても同様であった。
この国に到着してしばらくした時に行う荷物検査でそのほとんどを没収されてしまったが、私も親族に手渡すはずの多くの段ボールと共に訪れていた。
着古したワイシャツ、三枚1000円で買ったTシャツ、靴、砂糖や醤油、4本500円の栄養ドリンク、ディスカウントストアで購入した腕時計…。これらは生活事情が劣悪なこの国で生きる肉親たちが食料などと物々交換するための貴重な「命綱」。
しかし、拉致事件が発覚してからというもの、万景峰号の運航には大きな壁が生じてしまった。そして運航が中止になることも日常的に。その背景には拉致事件発覚に伴い、次第に浮き彫りにされた、本国からの工作指令や不正輸出などの疑惑に対する世論の沸騰、そして国の検査態勢強化などがあった。
幾度も訪朝しているある在日はこう言う。
「親族訪問の陰で、船内で組織的に不正行為を続けていたならば、日本が怒るのは当然だ。切実な利用者までとばっちりを受けた」
が、批判は口にしない。当局や総連ににらまれ、身内に「不利益」が生ずる事態を避けたいからだ。
私の肉親もかつての帰還事業にて海を渡った。厳しい監視下で行われる親族訪問の際、その容姿から、想像を絶する苦労が手に取るように伝わってきた。
反面、帰還した親族に対する在日の想いは千差万別である。日本を離れて数十年、経済発展を遂げたとはいえ、ほとんどの在日の経済状況は帰還した人々が想像するものとは大きな開きがある。日本に暮らしているというだけで裕福だと思いこんでいる人は、執拗にカネの無心や物資を送るよう、日本にコレクト・コールを続ける。
苦しいのはお互いだとひたすら救援を続ける人、肉親を捨てたという想いから一切の悲鳴から目を背ける人、当局や総連から脅迫され否応なしに救援を続ける人。
北朝鮮、総連、そして在日。この三者は過去から現在に至るまでこのように非常にゆがんだ形で存在し続けているのである。
何という愚かさ、何という哀れな民族。
「戦争の世紀」と呼ばれた20世紀がとうに終焉した現在においてもこのような何とも悲惨な状況なのである。
拉致被害者および特定失踪者家族にとっては、新潟港はまさに憎悪の港であろう。日本と北朝鮮の極めてゆがんだ歴史の中で生まれた悲劇。しかし、この港にはそれだけではない、我々在日の切なる想いも常に注がれている。現在の入港問題に複雑な思いを抱えるある在日は言う。
「拉致事件が判明するまで北朝鮮に批判的な人たちの発言力は弱かった。その反動から万景峰号バッシングで溜飲を下げているとしたら悲しい。拉致被害者を助けようとする優しい心を、親族訪問せざるを得ない私たち在日にも向けて欲しい」
我々在日の想いは唯ひとつ。それは紛れもなく、一日も早く奴隷国家のようなあの国が民主化され、帰還者そして拉致被害者の全員が帰国すること、まさにそれなのである。
工作活動と民族教育
これまで私が体験した北朝鮮訪問のごく一部をつづってみたのであるが、民族教育を受ける者にとって、祖国訪問とはいったいいかなる意味を持つのであろうか。そして、北朝鮮と総連の真の目的は何なのであろうか。
拉致事件発覚以降、ここ日本においても「工作員(スパイ)」という言葉が頻繁にマスメディアを通じて聞かれるようになった。
昔から日本は「スパイ天国」と呼ばれてきた。世間を震撼させたゾルゲ事件などはその代表的なものであるが、スパイ防止法なるものが存在しないが故、日本は依然工作活動をするのにうってつけの国なのである。
さて、中級学校からそのまま高級学校に進学した者には総連によるある「揺さぶり」が待ち受けている。
前にも書いたがまず目をつけられた者には「学習組」への強い勧誘がある。
改めて記すが「学習組」は総連の中でも非公然活動を行ってきた工作機関として日本の公安当局がマークしてきたものである。
さらに詳しく解説すると、北朝鮮と朝鮮労働党に絶対の忠誠を誓うことが求められ、「偉大な首領金日成元帥が組織し、親愛なる指導者金正日同志が指導する在日朝鮮人金日成主義者の革命組織」で、活動任務は「祖国を擁護防衛」「日本で主体革命偉業の遂行に積極的に寄与」することと定義されている。
そして、この教育の最大の罪である全体主義、つまり個々人が全くもって蔑ろにされるということであるが、個人の能力をいかに大切に育んでいくかどうかはどうでもよく、たとえ能力があるにせよ、それは祖国(北朝鮮)の革命推進に寄与してこそのものであるということがたたき込まれていた。
二年生ともなると、いよいよそれが本格化し「思想強化合宿」というものが行われる。それは連日主体思想をたたき込まれ、それに染まらない者をあぶりだし、徹底的に非難するというものであった。
それほど強く自らの将来というものを、つまり自己実現というものを意識していない朝鮮学校生にとって、これはまさに洗脳教育であり、いとも簡単に朝鮮大学校への進学や、総連系企業への就職などの安易な道へ走ってしまう者が多々存在した。まさに、当局の思うつぼである。
そして、修学旅行つまり祖国訪問というのが、とりわけ重要かつクライマックスで、そこでより徹底された思想の洗脳が行われるのである。
前章までにもつづってきたが、そのほかに祖国訪問のさいに強調されることは、金日成・金正日父子や北朝鮮への忠誠心、朝鮮戦争時のアメリカによる残虐行為、そして朝鮮人民軍の部隊を訪問させ、有事の際、真っ先に死ぬ覚悟を聞かせる、等々。
朝鮮大学校生の祖国訪問に至ってはそれは半年にもおよび、金日成総合大学教授による講義や同大学生との主体思想に関する討論会すら開催される始末。そして非転向長期囚(スパイ事件などで逮捕収監されても南、つまり韓国に転向しなかった者)による激励などの「思想教育活動」が実施される。
つまり、修学旅行時の指導方針としては「祖国の社会主義制度の正当性を認識させ、米帝に対する憎悪心を持たせるよう指導する」「祖国での学習成果がその後の進路選択に反映されるよう指導する」と総連は定義づけている。
このように修学旅行という名の祖国訪問は周到に用意された、当局の洗脳教育の一環なのである。
最後に
さて、数回にわたり連載してきたが、自分にとって民族教育とは果たしていかなるものであったのか。
就学前からすると、およそ15年にも及ぶ期間、総連そして朝鮮学校の中で生きてきた。そこでは、数々の試練や不条理が存在し、お世辞にも楽しく愉快な学生生活であったとは言い難い。
様々な想いはあるが、ただひとつ確信を持って言えることは、憎しみからは憎しみ以外何も生み出すものはない、ということである。
民族教育の根本にあるのがまさにこの憎しみなのである。
原因を常に外部に求め、最終的には自らには何ら原因や罪がないという思考パターンを植え付ける教育が、果たして何をもたらすのであろうか。
真実を見極める曇りのない眼を養うことこそ、教育であると信じる。現在、北朝鮮を取り巻く政局は予断を許さない状況であるが、これからの在日が本当の意味で本国から独立し、これまで以上に独自の発展を遂げていくことを願ってやまない。(終わり)
(「木苺」128号 06・7)
元 智慧
マスゲーム
(略)それは金日成スタジアムで行われていたが、マスゲームを生で観ることが出来るなどとは夢にも思っていなかったので、ある意味胸を躍らせながら会場へと足を運んだ。
修学旅行のひとつの山場であるものがいよいよ間近に迫っている。初めて目にするその衝撃はまさに筆舌に尽くしがたいものであった。やはり観ると聞くとでは大違い。現実にこれだけの人間を統率する力には、何か言い得ぬ戦慄を覚えた。
客席に着いた我々は、しばらくは呆然として傍観していた。次々と浮かび出る金親子を称えるスローガンや絵の数々。内容はともかく、その鮮やかさにまず目を奪われる。これほどまでに人の心を束縛し、一挙手一投足を統率するというのは北朝鮮という国以外では考えられないほどのすさまじさである。「個」を一切認めず、すべてが偶像への崇拝のためにあるこういった国が、果たして許されるべきであろうか。
そんなことをひとり考えているまさにその時、我々の目に飛び込んでくるひとつのスローガン。
「裏切り者は断じて許さない!」
これが何を意味しているのか、理解するのにそう時間を必要としなかった。それはまさに、自分の北朝鮮訪問に先立ち全世界に衝撃を与えた、黄長(ファン・ジャンヨプ)
もと北朝鮮労働党書記の韓国への亡命劇を意味していた。
北朝鮮の民主化を声高に叫び、自らの家族をも犠牲にしたその真の勇気を称える者は、そこには誰もいない。北朝鮮の唯一思想である「主体思想」を確立させたのも彼であり、それ故、この亡命事件はいっそう衝撃的なものになった。
(略)彼が裏切り者なのか、真の英雄であるかはそう遠くない将来、歴史が証明するであろう。
ここ数年、北朝鮮では毎年約100万人が餓死しているという。社会主義や共産主義体制には元来欠陥が会ったとはいえ、北朝鮮は極端に個人崇拝を進め、政権の世襲まで行ってしまった。
愚の骨頂とはまさにこのことを言うのであろう。マスゲームを観ていた私は、この愚かなる政治体制の象徴とも言うべきそれを、ただじっと見るよりほかなかった。
親族訪問
朝鮮学校に通う者に限らず、訪朝する在日の人々の大きな目的のひとつが親族訪問である。
従ってほとんど唯一の渡航手段ともいえる万景峰号には我々修学旅行生のみならず、常に一般客も数多く乗船している。(略)
「乗りたいのではない、乗らなくちゃならんだけ。切ない船ですよ…。」
ある在日朝鮮人一世の男性はこの船をこう表現した。それは何を意味するのか。
あの帰還事業により海を渡っていった人々には過酷な運命が待ち受けていた。それはかつて異国の地で受けた差別や極貧、それよりも遙かに劣悪な生活環境であった。
十万近い人々を実質的に人質に取ることに成功した北朝鮮は、思惑通り、日本にとどまった彼らの親族を強請(ゆす)り始めることになる。
日本において財をなした北朝鮮および総連を支持する企業や暴力団関係が巨額の送金を続けていることは周知の事実であるが、それは個人レベルにおいても同様であった。
この国に到着してしばらくした時に行う荷物検査でそのほとんどを没収されてしまったが、私も親族に手渡すはずの多くの段ボールと共に訪れていた。
着古したワイシャツ、三枚1000円で買ったTシャツ、靴、砂糖や醤油、4本500円の栄養ドリンク、ディスカウントストアで購入した腕時計…。これらは生活事情が劣悪なこの国で生きる肉親たちが食料などと物々交換するための貴重な「命綱」。
しかし、拉致事件が発覚してからというもの、万景峰号の運航には大きな壁が生じてしまった。そして運航が中止になることも日常的に。その背景には拉致事件発覚に伴い、次第に浮き彫りにされた、本国からの工作指令や不正輸出などの疑惑に対する世論の沸騰、そして国の検査態勢強化などがあった。
幾度も訪朝しているある在日はこう言う。
「親族訪問の陰で、船内で組織的に不正行為を続けていたならば、日本が怒るのは当然だ。切実な利用者までとばっちりを受けた」
が、批判は口にしない。当局や総連ににらまれ、身内に「不利益」が生ずる事態を避けたいからだ。
私の肉親もかつての帰還事業にて海を渡った。厳しい監視下で行われる親族訪問の際、その容姿から、想像を絶する苦労が手に取るように伝わってきた。
反面、帰還した親族に対する在日の想いは千差万別である。日本を離れて数十年、経済発展を遂げたとはいえ、ほとんどの在日の経済状況は帰還した人々が想像するものとは大きな開きがある。日本に暮らしているというだけで裕福だと思いこんでいる人は、執拗にカネの無心や物資を送るよう、日本にコレクト・コールを続ける。
苦しいのはお互いだとひたすら救援を続ける人、肉親を捨てたという想いから一切の悲鳴から目を背ける人、当局や総連から脅迫され否応なしに救援を続ける人。
北朝鮮、総連、そして在日。この三者は過去から現在に至るまでこのように非常にゆがんだ形で存在し続けているのである。
何という愚かさ、何という哀れな民族。
「戦争の世紀」と呼ばれた20世紀がとうに終焉した現在においてもこのような何とも悲惨な状況なのである。
拉致被害者および特定失踪者家族にとっては、新潟港はまさに憎悪の港であろう。日本と北朝鮮の極めてゆがんだ歴史の中で生まれた悲劇。しかし、この港にはそれだけではない、我々在日の切なる想いも常に注がれている。現在の入港問題に複雑な思いを抱えるある在日は言う。
「拉致事件が判明するまで北朝鮮に批判的な人たちの発言力は弱かった。その反動から万景峰号バッシングで溜飲を下げているとしたら悲しい。拉致被害者を助けようとする優しい心を、親族訪問せざるを得ない私たち在日にも向けて欲しい」
我々在日の想いは唯ひとつ。それは紛れもなく、一日も早く奴隷国家のようなあの国が民主化され、帰還者そして拉致被害者の全員が帰国すること、まさにそれなのである。
工作活動と民族教育
これまで私が体験した北朝鮮訪問のごく一部をつづってみたのであるが、民族教育を受ける者にとって、祖国訪問とはいったいいかなる意味を持つのであろうか。そして、北朝鮮と総連の真の目的は何なのであろうか。
拉致事件発覚以降、ここ日本においても「工作員(スパイ)」という言葉が頻繁にマスメディアを通じて聞かれるようになった。
昔から日本は「スパイ天国」と呼ばれてきた。世間を震撼させたゾルゲ事件などはその代表的なものであるが、スパイ防止法なるものが存在しないが故、日本は依然工作活動をするのにうってつけの国なのである。
さて、中級学校からそのまま高級学校に進学した者には総連によるある「揺さぶり」が待ち受けている。
前にも書いたがまず目をつけられた者には「学習組」への強い勧誘がある。
改めて記すが「学習組」は総連の中でも非公然活動を行ってきた工作機関として日本の公安当局がマークしてきたものである。
さらに詳しく解説すると、北朝鮮と朝鮮労働党に絶対の忠誠を誓うことが求められ、「偉大な首領金日成元帥が組織し、親愛なる指導者金正日同志が指導する在日朝鮮人金日成主義者の革命組織」で、活動任務は「祖国を擁護防衛」「日本で主体革命偉業の遂行に積極的に寄与」することと定義されている。
そして、この教育の最大の罪である全体主義、つまり個々人が全くもって蔑ろにされるということであるが、個人の能力をいかに大切に育んでいくかどうかはどうでもよく、たとえ能力があるにせよ、それは祖国(北朝鮮)の革命推進に寄与してこそのものであるということがたたき込まれていた。
二年生ともなると、いよいよそれが本格化し「思想強化合宿」というものが行われる。それは連日主体思想をたたき込まれ、それに染まらない者をあぶりだし、徹底的に非難するというものであった。
それほど強く自らの将来というものを、つまり自己実現というものを意識していない朝鮮学校生にとって、これはまさに洗脳教育であり、いとも簡単に朝鮮大学校への進学や、総連系企業への就職などの安易な道へ走ってしまう者が多々存在した。まさに、当局の思うつぼである。
そして、修学旅行つまり祖国訪問というのが、とりわけ重要かつクライマックスで、そこでより徹底された思想の洗脳が行われるのである。
前章までにもつづってきたが、そのほかに祖国訪問のさいに強調されることは、金日成・金正日父子や北朝鮮への忠誠心、朝鮮戦争時のアメリカによる残虐行為、そして朝鮮人民軍の部隊を訪問させ、有事の際、真っ先に死ぬ覚悟を聞かせる、等々。
朝鮮大学校生の祖国訪問に至ってはそれは半年にもおよび、金日成総合大学教授による講義や同大学生との主体思想に関する討論会すら開催される始末。そして非転向長期囚(スパイ事件などで逮捕収監されても南、つまり韓国に転向しなかった者)による激励などの「思想教育活動」が実施される。
つまり、修学旅行時の指導方針としては「祖国の社会主義制度の正当性を認識させ、米帝に対する憎悪心を持たせるよう指導する」「祖国での学習成果がその後の進路選択に反映されるよう指導する」と総連は定義づけている。
このように修学旅行という名の祖国訪問は周到に用意された、当局の洗脳教育の一環なのである。
最後に
さて、数回にわたり連載してきたが、自分にとって民族教育とは果たしていかなるものであったのか。
就学前からすると、およそ15年にも及ぶ期間、総連そして朝鮮学校の中で生きてきた。そこでは、数々の試練や不条理が存在し、お世辞にも楽しく愉快な学生生活であったとは言い難い。
様々な想いはあるが、ただひとつ確信を持って言えることは、憎しみからは憎しみ以外何も生み出すものはない、ということである。
民族教育の根本にあるのがまさにこの憎しみなのである。
原因を常に外部に求め、最終的には自らには何ら原因や罪がないという思考パターンを植え付ける教育が、果たして何をもたらすのであろうか。
真実を見極める曇りのない眼を養うことこそ、教育であると信じる。現在、北朝鮮を取り巻く政局は予断を許さない状況であるが、これからの在日が本当の意味で本国から独立し、これまで以上に独自の発展を遂げていくことを願ってやまない。(終わり)
(「木苺」128号 06・7)
朝鮮総連・朝鮮学校と私 ある在日の告白(Ⅲ)
元 智慧(うぉんちへ)
「祖国」訪問
朝鮮学校へ通う生徒も日本学校の生徒同様、在学中に幾度か修学旅行というものを体験する。殊に重要視されているのが、高級学校(日本の高校に相当)三年の時に企画される、「祖国訪問」である。
全国にある高級学校の生徒のほぼ全員が、一年をかけて順次、新潟港より渡航する。船は、あの悪名高い「万景峰号」である。
拉致関連のニュースなどで、チマチョゴリ(朝鮮学校の女子の制服)を着た女子生徒やブレザーを着た男子生徒が一斉に下船する姿をご覧になった方も多いと思われるが、あの光景がまさにそれである。
一昔前、特に金日成が存命中は、この修学旅行の他に、芸術やスポーツなどの各分野で選抜された者が、「偉大なる首領様」の前で自らの腕を披露する公演などの機会もあったが、それも彼が亡くなった後は、下火になった様である。
さてこの修学旅行、私も例に洩れず参加した訳であるが、個人的にはその一昨年、別の機会に訪れており、結果的には二度訪朝する事となった。
船の中では、夜毎集会が開かれ、修学旅行中、より一層の国家と金一族への絶対なる忠誠、この修学旅行での「得難い」体験を、今後どの様に自らの人生に反映していくか、勿論それは前提に国家の為に生きるという事があるのだが、教師たちはいつになく力が入って、生徒たちにその決心を迫るのであった。
新潟港を出発した我々が、二泊三日の船旅を終えてまず目に入るのが、元山(ウォンサン)の港である。北朝鮮がどの様な国家であるか熟知していない殆どの生徒は、只々純粋に初めて見る「祖国」の光景に感無量になる。そして、次々と起こる歓喜の声。両足で祖国の地を踏む者もいれば、敢えて片足で踏みしめる者もいる。
到着後、まずパスしなければならない事は、厳しい荷物の検閲である。アメリカ製の全てのもの、そして北朝鮮の思想にそぐわないものは、否応無しに没収される。そして、それ以上に、北朝鮮の文化度の低さを露呈させる様なもの、例えば音楽機器など電子機器類は実に厳しかった。その行為自体、自らの後進性を露呈している様なものであるのだが。カセットテープやCD、そしてビデオテープなどはその内容まで調べられ、特に「問題」がなければ後日返却されるという状態であった。恐らく当局は、国家体制が文化によって崩されるという事を、熟知しているからであろう。
港町元山はお世辞にも美しい街とは云えず、特に目立っているものといえば、船舶と在日朝鮮人の生徒や、観光客相手に営業している飲食店ぐらいのものである。この飲食店、基本的には北朝鮮が外貨を得るためのものであり、そこに住む人たちは利用できない。海外より訪れた人たちが、山盛りの肉や松茸、そしてにぎり寿司などを頬張っている姿を、現地民、特に子どもたちが窓越しに生唾を飲み込んでいる光景に、この国が抱える経済や食糧事情などの一端を垣間見る様な気がした。日本と北朝鮮、そして現地民と在日朝鮮人の歪みきった戦後の関係を如実に物語っている。
元山には長居せず、我々は直ぐ様一路、首都平壌(ピョンヤン)へ向かう事となる。使い古されたバスに揺られ、道なき道をまっしぐらに走っていく。目に入る光景はとてものどかなものであり、人の姿はあまり見られない。禿山が多い北朝鮮の山道を数時間走り、我々は修学旅行の大半を過ごす事となる平壌へと入っていく。
平壌という街は、しばしば「写真用・写真用の街」と云われる。紛れもなく海外メディア向けの宣伝シティであり、そこに暮らす人々も、「選ばれた人」たちである。まるで、遊園地にでも入るかの様に、首都の入り口には、「ようこそ、平壌へ」という看板が掲げられており、周りは子どものようにはしゃいでいた。
平壌は北朝鮮の街の一つである事には違いないのであるが、それは北朝鮮の本当の姿ではない。朝鮮総連や在日の資本家から掻き集めた金を注いで、戦後「祖国復興」という名の元に労働を課せられた人たちの血と汗を思えば、何ともやりきれない想いが胸を占めた。それが平壌なのであり、労働を強いられた人たちはもう殆どいない。
首都に入った我々の最初の義務、それは金日成像に「礼を尽くす」事である。滞在中、事ある毎に訪れる事になる訳であるが、一昨年行っている事とは云え、私はうんざりする思いであった。人が人を奉り崇めるという事を何よりも嫌っていた私は、もはや溜め息しか出なかった。そして、これから始まる想像も出来ない事に、皆胸をはずませている中で、この尋常ならざる国家体制に一人大いなる疑問を抱いていた。
永久保存された遺体
初日は慌しく過ぎ、宿泊先へと向かった我々は休む間もなく、クラスごと一同に会する事となる。これから始まるこの「意義ある」訪朝における、各々の決意を否応なしに述べさせられる。心にもない事を適当に述べた後、一息ついて夕食時間となる。
北朝鮮においてこの様なホテル住まいをしているだけでは、とても日本において報道されている様な貧困や飢餓に喘ぐ人々の姿は想像できない。それ程、平壌における宿所の食事は豪勢である。
しかし、それ以上に驚くのは、それを見て何も感じない同級生たちの姿である。北朝鮮の人民が飢えようと死のうとまるで他人事、という顔で目の前の食事にありついている。ここでそういった話は禁句だと思っているのか、或いは只単に無関心なのか、とにかくその様な話題が出る事は、最後までなかった。
北朝鮮では、言論の自由がない。言論の自由のみならず、一切の自由が許されない。しかし、その様な説明を事前に受ける事など一切ないし、教師はいかに素晴らしいかを連呼するばかりである。真の意味においての修学旅行であるならば、現実をあるがままに伝えるべきである。生徒たちは戦後の北朝鮮がどの様な道のりを歩んできたのか知らないし、いうなれば北朝鮮という国についてまるで無知である。
さて、その翌日我々は、北朝鮮において「第一の聖地」と呼ばれる、錦繍山記念宮殿へと向かう事となる。他でもない。故・金日成の遺体が安置されている、建築物全てが大理石という贅を尽くしたものである。独裁者の遺体を永久保存する事は、何も北朝鮮が初めてではなく、旧ソ連などで既に行われている。その昔、スターリンがレーニンの死後、遺体を永久保存する様に命じた事は有名な話である。因みに、レーニン廟付属研究所の遺体保存技術者たちは、第二次世界大戦後も共産圏の独裁者たち、金日成の他にもベトナムのホー・チ・ミンらの遺体永久保存を次々と手掛ける事となる。
話を元に戻して、とてつもなく巨大な建物で、どこが入り口なのかすら分からない。我々は一列に並び案内されるままに進んでいく。この宮殿には、彼にまつわるものが数々展示されており、とにかく圧巻である。そして、ついに遺体安置場へと入る事となるが、その前に全身に殺菌シャワーを浴びせられる。ここまでして見る価値があるのかと疑問にも思ったが、良くも悪くも歴史上の人物との「対面」はもう目の前である。誰もが息を殺して、やや緊張感を伴って、赤く薄暗い照明だけがあるその場へと向かう。
ここを訪れるのは二度目であるが、まるで初めて訪れたかの様な緊張感が身を包む。一歩一歩踏みしめながら、その瞬間が近付く。透明な箱の中に彼はまるで生きているかの如く眠っていた。どの様な想いを秘めている人でも、これを目の当たりにすれば、激動の歴史を生き抜いてきた指導者を偲ばずにはいられないであろう。
しかし、静かにその厳かな空間を抜け出した次の瞬間、やはり大いなる疑問を抱かずにはいられない。彼がどれ程の人物か定かではないにしても、これ程の建築に一体どれ程莫大なる工費がかけられているのであろう。聞く所によると、優に数十億はつぎ込まれていると。当然、朝鮮総連の強力なバックがある訳であるが、一方で人民が刻一刻と倒れていく姿を想像すると、やはり憤りを抑えきれない。かつての共産国家がそうであった様に、こういった体制の下では、一人の人民の命よりも、「偉大なる指導者」の遺体の方がよほど価値があるのであろうか。
政治的指導者の遺体を永久保存して神格化してしまうという何とおぞましい事。しかしそれよりさらにおぞましいのは、そういった事を推し進める共産主義体制そのものである。
金日成という人物の事に関しては、実の所現在でも謎が多いとされている。確かな事といえば、元来スターリンの傀儡政府としてソ連軍の後押しで彼は北朝鮮に入り込んだが、政治闘争で親ソビエト派であった政敵を粛清する事で権力を掌握し、息子に権力を譲る事で、体制を盤石なものとしたという事である。
いつの世も、独裁国家は滅びの途を歩む事となる。何もかもが完全に常軌を逸した世界、それがプロレタリアート独裁という名のファシズムがもたらしたものの正体である。
現在に至るまでこの国を取り巻く情勢は常に緊迫しており変化し続けているが、北朝鮮の歴史は、血塗られた「粛清」の歴史でもある。有史以来、最も悲惨な歴史の一つとして名高い在日朝鮮人の帰還事業。あの十万近い人々は今いずこへ。金日成によりその殆どが粛清され、信じた自らの指導者と国家により裏切られ、物言わず逝った事を思うと、今ここにいる己の姿が滑稽に思われた。
国境の町
訪朝した者が必ず訪れなければならない場所、それはもう一つの北朝鮮の聖地である白頭山である。飛行機に乗り平壌からさらに北へと向かう。聖地と呼ばれる所以、ここは金正日生誕の「伝説」の地であり、朝鮮民族の霊峰とも言われる。
しかし、山脈が連なる土地は特有の気候があり、「天池」があるとされる頂上付近はおろか、登る事さえ余程天候が芳しい時以外は難しいとされている。私は結局二度訪れ、この山に登る事はなかった。
中国との国境があるこの町、両江道恵山市はやはり、首都平壌とはかけ離れた田舎町である。我々は殆ど何も手が加わっていないこの町で一泊する事になる。
その日、北朝鮮では電力不足で頻繁に起きる停電が止まず、私は急に思い立ち友人数人と部屋を抜け出し、町へと繰り出した。北朝鮮でのむやみな行動は慎むようにと厳しく指導されてはいたが、時間を持て余していたので、やや興奮気味で教師たちの目を盗んで出掛けていった。
まず眼に飛び込んで来るもの、それは町に人の姿が見当たらない事、そして禿げた山々である。恐る恐る歩き始めてしばらくして、やっと民家らしいものが見えてきた。勿論人もいる。
日本の服を身にまとった我々をじっと睨む様に凝視する貧しい人たち。民家といっても日本の様なそれではない。只、人がやっと住めるか住めないか、といった程度の何ともお粗末なものである。
そして、恐らくまともに食べていないのであろう。顔色はひどく悪く、頬も黒ずみこけている。
我々はそれらを尻目に、先へと進んでいく。やがて、何やら行列をなしている光景が目に入った。一体何なのか、確かめるべく近付いてみる。行列の原因はすぐに判明した。食糧の配給である。
戦後日本においても、配給が行われたが、自由経済がないこの国では、いまだに(当時)配給制度なのである。トラックが到着し、皆抱えている幾つもの袋を差し出す。米なのか、他の食糧もあるのだろうか。初めて見る、めったに見る事のできない光景に、我々はしばらく立ち尽くしていた。
「食べる」事が決して当たり前ではないこの国で、人々は一体何が人生の歓びなのであろうか。それが生まれた時からそうなので、そういった感覚はもはや麻痺されているのであろうか。その様な事をふと考えながら、さらに先へと進んだ。
しばらく怖い程静かな町を歩き続けた我々の前には、大きな金日成とスローガンが描かれた看板があった。「偉大なる首領、金日成大元帥は永遠に我々といらっしゃる」、確かこの様な内容であったと記憶する。
思わず吹き出してしまった私は、次の瞬間には呆れ果て、妙な脱力感に見舞われた。この様なスローガンを突き付けられて、しかしその結果は極度の飢えと貧困である。何故この国は、これ程までに貧しく、一向に発展しないのか、歴史や国家体制の歪みから生じた仕方のない事なのであろうか。そして、国民はその様な体制に反旗を翻し立ち上がる気力すら、もはやないのであろうか。先程我々を見つめていた人々の目には妙な鋭さがあったが、しかし光は失せ、目は完全に死んでいた。
しばらく様々な事に想いを巡らせていたが、あまり宿所を離れすぎると問題になる恐れがあるので、適当の頃合いを見て、戻る事とした。
ここで見た光景はいまだに私の目に焼き付いて離れない。国家が抱える矛盾をこの目で見た感覚は、日本にいては決して体験出来るものではなかったであろう。
宿所へ戻ったが特にお咎めはなしで、何事もなかったかの様に、しばらくは所内で過ごした。
その昔、日本では「国境の町」という歌が流行った。国境というものは、人の心を揺さぶる何かがあるのだろう。この歌が流行った頃、日本にはまだ国境というものがあり、人々は何か言いようのない魅力がある国境に想いを馳せて、この歌を口ずさんだに違いない。
国境の向こうはもう中国である。近年脱北、つまり飢餓や政治的な迫害により北朝鮮を抜け出し、中国を始めとする近隣諸国へと逃げる者が後を絶たない。北朝鮮では、移動の自由もない為、幾ら苦しかろうと、現住している場所から離れる事は至難の業である。事実、国境付近に住む者たちは、決死の覚悟で越境する者が多い。リスクが多過ぎるこの命懸けの亡命は、彼らに残された最後の生きる道なのであろう。失敗し強制送還され、死の収容所が待っているにもかかわらず決行する。ここに住む者たちが、最低限の「人間らしさ」をも与えられず、国家の奴隷と化しているその姿を見ていると、私はもはや修学旅行以上のものを見た充足感と、愚かな体制への怒りが微妙に入り混じり交差していた。
(『木苺』124号 05・10)
元 智慧(うぉんちへ)
「祖国」訪問
朝鮮学校へ通う生徒も日本学校の生徒同様、在学中に幾度か修学旅行というものを体験する。殊に重要視されているのが、高級学校(日本の高校に相当)三年の時に企画される、「祖国訪問」である。
全国にある高級学校の生徒のほぼ全員が、一年をかけて順次、新潟港より渡航する。船は、あの悪名高い「万景峰号」である。
拉致関連のニュースなどで、チマチョゴリ(朝鮮学校の女子の制服)を着た女子生徒やブレザーを着た男子生徒が一斉に下船する姿をご覧になった方も多いと思われるが、あの光景がまさにそれである。
一昔前、特に金日成が存命中は、この修学旅行の他に、芸術やスポーツなどの各分野で選抜された者が、「偉大なる首領様」の前で自らの腕を披露する公演などの機会もあったが、それも彼が亡くなった後は、下火になった様である。
さてこの修学旅行、私も例に洩れず参加した訳であるが、個人的にはその一昨年、別の機会に訪れており、結果的には二度訪朝する事となった。
船の中では、夜毎集会が開かれ、修学旅行中、より一層の国家と金一族への絶対なる忠誠、この修学旅行での「得難い」体験を、今後どの様に自らの人生に反映していくか、勿論それは前提に国家の為に生きるという事があるのだが、教師たちはいつになく力が入って、生徒たちにその決心を迫るのであった。
新潟港を出発した我々が、二泊三日の船旅を終えてまず目に入るのが、元山(ウォンサン)の港である。北朝鮮がどの様な国家であるか熟知していない殆どの生徒は、只々純粋に初めて見る「祖国」の光景に感無量になる。そして、次々と起こる歓喜の声。両足で祖国の地を踏む者もいれば、敢えて片足で踏みしめる者もいる。
到着後、まずパスしなければならない事は、厳しい荷物の検閲である。アメリカ製の全てのもの、そして北朝鮮の思想にそぐわないものは、否応無しに没収される。そして、それ以上に、北朝鮮の文化度の低さを露呈させる様なもの、例えば音楽機器など電子機器類は実に厳しかった。その行為自体、自らの後進性を露呈している様なものであるのだが。カセットテープやCD、そしてビデオテープなどはその内容まで調べられ、特に「問題」がなければ後日返却されるという状態であった。恐らく当局は、国家体制が文化によって崩されるという事を、熟知しているからであろう。
港町元山はお世辞にも美しい街とは云えず、特に目立っているものといえば、船舶と在日朝鮮人の生徒や、観光客相手に営業している飲食店ぐらいのものである。この飲食店、基本的には北朝鮮が外貨を得るためのものであり、そこに住む人たちは利用できない。海外より訪れた人たちが、山盛りの肉や松茸、そしてにぎり寿司などを頬張っている姿を、現地民、特に子どもたちが窓越しに生唾を飲み込んでいる光景に、この国が抱える経済や食糧事情などの一端を垣間見る様な気がした。日本と北朝鮮、そして現地民と在日朝鮮人の歪みきった戦後の関係を如実に物語っている。
元山には長居せず、我々は直ぐ様一路、首都平壌(ピョンヤン)へ向かう事となる。使い古されたバスに揺られ、道なき道をまっしぐらに走っていく。目に入る光景はとてものどかなものであり、人の姿はあまり見られない。禿山が多い北朝鮮の山道を数時間走り、我々は修学旅行の大半を過ごす事となる平壌へと入っていく。
平壌という街は、しばしば「写真用・写真用の街」と云われる。紛れもなく海外メディア向けの宣伝シティであり、そこに暮らす人々も、「選ばれた人」たちである。まるで、遊園地にでも入るかの様に、首都の入り口には、「ようこそ、平壌へ」という看板が掲げられており、周りは子どものようにはしゃいでいた。
平壌は北朝鮮の街の一つである事には違いないのであるが、それは北朝鮮の本当の姿ではない。朝鮮総連や在日の資本家から掻き集めた金を注いで、戦後「祖国復興」という名の元に労働を課せられた人たちの血と汗を思えば、何ともやりきれない想いが胸を占めた。それが平壌なのであり、労働を強いられた人たちはもう殆どいない。
首都に入った我々の最初の義務、それは金日成像に「礼を尽くす」事である。滞在中、事ある毎に訪れる事になる訳であるが、一昨年行っている事とは云え、私はうんざりする思いであった。人が人を奉り崇めるという事を何よりも嫌っていた私は、もはや溜め息しか出なかった。そして、これから始まる想像も出来ない事に、皆胸をはずませている中で、この尋常ならざる国家体制に一人大いなる疑問を抱いていた。
永久保存された遺体
初日は慌しく過ぎ、宿泊先へと向かった我々は休む間もなく、クラスごと一同に会する事となる。これから始まるこの「意義ある」訪朝における、各々の決意を否応なしに述べさせられる。心にもない事を適当に述べた後、一息ついて夕食時間となる。
北朝鮮においてこの様なホテル住まいをしているだけでは、とても日本において報道されている様な貧困や飢餓に喘ぐ人々の姿は想像できない。それ程、平壌における宿所の食事は豪勢である。
しかし、それ以上に驚くのは、それを見て何も感じない同級生たちの姿である。北朝鮮の人民が飢えようと死のうとまるで他人事、という顔で目の前の食事にありついている。ここでそういった話は禁句だと思っているのか、或いは只単に無関心なのか、とにかくその様な話題が出る事は、最後までなかった。
北朝鮮では、言論の自由がない。言論の自由のみならず、一切の自由が許されない。しかし、その様な説明を事前に受ける事など一切ないし、教師はいかに素晴らしいかを連呼するばかりである。真の意味においての修学旅行であるならば、現実をあるがままに伝えるべきである。生徒たちは戦後の北朝鮮がどの様な道のりを歩んできたのか知らないし、いうなれば北朝鮮という国についてまるで無知である。
さて、その翌日我々は、北朝鮮において「第一の聖地」と呼ばれる、錦繍山記念宮殿へと向かう事となる。他でもない。故・金日成の遺体が安置されている、建築物全てが大理石という贅を尽くしたものである。独裁者の遺体を永久保存する事は、何も北朝鮮が初めてではなく、旧ソ連などで既に行われている。その昔、スターリンがレーニンの死後、遺体を永久保存する様に命じた事は有名な話である。因みに、レーニン廟付属研究所の遺体保存技術者たちは、第二次世界大戦後も共産圏の独裁者たち、金日成の他にもベトナムのホー・チ・ミンらの遺体永久保存を次々と手掛ける事となる。
話を元に戻して、とてつもなく巨大な建物で、どこが入り口なのかすら分からない。我々は一列に並び案内されるままに進んでいく。この宮殿には、彼にまつわるものが数々展示されており、とにかく圧巻である。そして、ついに遺体安置場へと入る事となるが、その前に全身に殺菌シャワーを浴びせられる。ここまでして見る価値があるのかと疑問にも思ったが、良くも悪くも歴史上の人物との「対面」はもう目の前である。誰もが息を殺して、やや緊張感を伴って、赤く薄暗い照明だけがあるその場へと向かう。
ここを訪れるのは二度目であるが、まるで初めて訪れたかの様な緊張感が身を包む。一歩一歩踏みしめながら、その瞬間が近付く。透明な箱の中に彼はまるで生きているかの如く眠っていた。どの様な想いを秘めている人でも、これを目の当たりにすれば、激動の歴史を生き抜いてきた指導者を偲ばずにはいられないであろう。
しかし、静かにその厳かな空間を抜け出した次の瞬間、やはり大いなる疑問を抱かずにはいられない。彼がどれ程の人物か定かではないにしても、これ程の建築に一体どれ程莫大なる工費がかけられているのであろう。聞く所によると、優に数十億はつぎ込まれていると。当然、朝鮮総連の強力なバックがある訳であるが、一方で人民が刻一刻と倒れていく姿を想像すると、やはり憤りを抑えきれない。かつての共産国家がそうであった様に、こういった体制の下では、一人の人民の命よりも、「偉大なる指導者」の遺体の方がよほど価値があるのであろうか。
政治的指導者の遺体を永久保存して神格化してしまうという何とおぞましい事。しかしそれよりさらにおぞましいのは、そういった事を推し進める共産主義体制そのものである。
金日成という人物の事に関しては、実の所現在でも謎が多いとされている。確かな事といえば、元来スターリンの傀儡政府としてソ連軍の後押しで彼は北朝鮮に入り込んだが、政治闘争で親ソビエト派であった政敵を粛清する事で権力を掌握し、息子に権力を譲る事で、体制を盤石なものとしたという事である。
いつの世も、独裁国家は滅びの途を歩む事となる。何もかもが完全に常軌を逸した世界、それがプロレタリアート独裁という名のファシズムがもたらしたものの正体である。
現在に至るまでこの国を取り巻く情勢は常に緊迫しており変化し続けているが、北朝鮮の歴史は、血塗られた「粛清」の歴史でもある。有史以来、最も悲惨な歴史の一つとして名高い在日朝鮮人の帰還事業。あの十万近い人々は今いずこへ。金日成によりその殆どが粛清され、信じた自らの指導者と国家により裏切られ、物言わず逝った事を思うと、今ここにいる己の姿が滑稽に思われた。
国境の町
訪朝した者が必ず訪れなければならない場所、それはもう一つの北朝鮮の聖地である白頭山である。飛行機に乗り平壌からさらに北へと向かう。聖地と呼ばれる所以、ここは金正日生誕の「伝説」の地であり、朝鮮民族の霊峰とも言われる。
しかし、山脈が連なる土地は特有の気候があり、「天池」があるとされる頂上付近はおろか、登る事さえ余程天候が芳しい時以外は難しいとされている。私は結局二度訪れ、この山に登る事はなかった。
中国との国境があるこの町、両江道恵山市はやはり、首都平壌とはかけ離れた田舎町である。我々は殆ど何も手が加わっていないこの町で一泊する事になる。
その日、北朝鮮では電力不足で頻繁に起きる停電が止まず、私は急に思い立ち友人数人と部屋を抜け出し、町へと繰り出した。北朝鮮でのむやみな行動は慎むようにと厳しく指導されてはいたが、時間を持て余していたので、やや興奮気味で教師たちの目を盗んで出掛けていった。
まず眼に飛び込んで来るもの、それは町に人の姿が見当たらない事、そして禿げた山々である。恐る恐る歩き始めてしばらくして、やっと民家らしいものが見えてきた。勿論人もいる。
日本の服を身にまとった我々をじっと睨む様に凝視する貧しい人たち。民家といっても日本の様なそれではない。只、人がやっと住めるか住めないか、といった程度の何ともお粗末なものである。
そして、恐らくまともに食べていないのであろう。顔色はひどく悪く、頬も黒ずみこけている。
我々はそれらを尻目に、先へと進んでいく。やがて、何やら行列をなしている光景が目に入った。一体何なのか、確かめるべく近付いてみる。行列の原因はすぐに判明した。食糧の配給である。
戦後日本においても、配給が行われたが、自由経済がないこの国では、いまだに(当時)配給制度なのである。トラックが到着し、皆抱えている幾つもの袋を差し出す。米なのか、他の食糧もあるのだろうか。初めて見る、めったに見る事のできない光景に、我々はしばらく立ち尽くしていた。
「食べる」事が決して当たり前ではないこの国で、人々は一体何が人生の歓びなのであろうか。それが生まれた時からそうなので、そういった感覚はもはや麻痺されているのであろうか。その様な事をふと考えながら、さらに先へと進んだ。
しばらく怖い程静かな町を歩き続けた我々の前には、大きな金日成とスローガンが描かれた看板があった。「偉大なる首領、金日成大元帥は永遠に我々といらっしゃる」、確かこの様な内容であったと記憶する。
思わず吹き出してしまった私は、次の瞬間には呆れ果て、妙な脱力感に見舞われた。この様なスローガンを突き付けられて、しかしその結果は極度の飢えと貧困である。何故この国は、これ程までに貧しく、一向に発展しないのか、歴史や国家体制の歪みから生じた仕方のない事なのであろうか。そして、国民はその様な体制に反旗を翻し立ち上がる気力すら、もはやないのであろうか。先程我々を見つめていた人々の目には妙な鋭さがあったが、しかし光は失せ、目は完全に死んでいた。
しばらく様々な事に想いを巡らせていたが、あまり宿所を離れすぎると問題になる恐れがあるので、適当の頃合いを見て、戻る事とした。
ここで見た光景はいまだに私の目に焼き付いて離れない。国家が抱える矛盾をこの目で見た感覚は、日本にいては決して体験出来るものではなかったであろう。
宿所へ戻ったが特にお咎めはなしで、何事もなかったかの様に、しばらくは所内で過ごした。
その昔、日本では「国境の町」という歌が流行った。国境というものは、人の心を揺さぶる何かがあるのだろう。この歌が流行った頃、日本にはまだ国境というものがあり、人々は何か言いようのない魅力がある国境に想いを馳せて、この歌を口ずさんだに違いない。
国境の向こうはもう中国である。近年脱北、つまり飢餓や政治的な迫害により北朝鮮を抜け出し、中国を始めとする近隣諸国へと逃げる者が後を絶たない。北朝鮮では、移動の自由もない為、幾ら苦しかろうと、現住している場所から離れる事は至難の業である。事実、国境付近に住む者たちは、決死の覚悟で越境する者が多い。リスクが多過ぎるこの命懸けの亡命は、彼らに残された最後の生きる道なのであろう。失敗し強制送還され、死の収容所が待っているにもかかわらず決行する。ここに住む者たちが、最低限の「人間らしさ」をも与えられず、国家の奴隷と化しているその姿を見ていると、私はもはや修学旅行以上のものを見た充足感と、愚かな体制への怒りが微妙に入り混じり交差していた。
(『木苺』124号 05・10)
今日はこれからRさん一家と伊豆に行きます。水曜日まで「川越だより」はお休みです。宜しかったら元さんの文章の続きを読んでみてください。
朝鮮総連・朝鮮人学校と私 ある在日の告白(Ⅱ)
元 智慧(うぉんちへ)
民族学校の教師
日本の学校であろうと、民族学校であろうと、人は青春時代に様々な教師に巡り合うものである。また、どの様な教師に巡り合うかで、人生が少なからず左右される場合も大いにあり得ると言っても過言ではない。特に、中学や高校では進路の問題が切実な問題となり、その際、教師が果たす役割は非常に大きい。
私も例に洩れず、この時期は大いに悩み、苦しんだ。しかし、そこは民族学校。様々な弊害や試練が待ち受けていた。
さて、民族学校では、私の様に小中高と一貫して進む者もいれば、途中で日本の学校に転入する者も少なからず存在した。理由としては、やはり進路の問題が最も多く、特に日本の学歴社会のレールに乗るためには、出来るだけ早い内より方向転換した方が良いのは、火を見るよりも明らかである。
この頃に自らの進むべき道が明白であるならば、ある意味においていずれの学校を選択しても良い様なものであるが、しかし大多数の生徒は中学の時、それ程真剣に進路問題を捉えている訳ではない。従って、特に問題意識を持たぬまま、歳月だけが過ぎ去っていく。
しかし、日本の学校に転入する場合、事はそう簡単な事ではないのである。現在の事情は、多少変わっているであろうが、当時は幾多の障害を乗り越えなければならなかったのである。
その障害とは、一つに教師の妨害がある。何しろ、表向きには日本の国民と手を取って、共存すべしなどと豪語しているものの、実際の教育では、日本は敵国であり、日本国民は忌むべき存在であると説いているのである。
教師というよりも学校全体が、生徒が日本学校へ流れ込む事を阻んでいるのである。様々な形でそれは表れるが、例えば親が総連などの組織にいる場合、推薦入試の際の推薦状を書いてもらえないなどである。
民族学校では、高校進学の際、生徒から進路相談を受ける事はない。生徒たちは、ごく当たり前にそのまま民族高校に進むものであると普段より刷り込まれており、全体主義の中では、個人の進路や将来などどうでも良い事なのである。
最も問題ある事の一つに、教師自身が一度も日本の社会に出ず、民族系の大学を経て教壇に立つ事が何とも嘆かわしいのである。(そういった意味では、日本学校の教師の中にも同じ様な場合もあるが…。上記の理由により、民族学校の場合は教員免許を取得する事なく、教壇に立っている。)
従って、もし仮に生徒から進路について相談を受けたとしても、それに対応しうる能力を持ち合わせていないのが実状である。自らの世界の全てが、北朝鮮であり、総連である人に、これから日本の社会、さらには世界にはばたこうとする生徒に対する人材育成の心持は、そもそも微塵もないのである。
彼らにとって人材育成とは、組織の中でのそれであり、またそういった事は、国や組織に仕える者こそ、優れた人材なのである。そこに、個人の夢や希望、能力などはもはやどうでも良い代物なのである。
今でもある教師の言ったセリフが忘れられない。「民族教育において、人材育成とは総連の幹部を育てる事である。クラスの中に、そういう者がある一定の割合で存在し、その他の者はもはや学校とは関係がない。」
また、校内暴力に関して言えば、日本の学校ならば暴力を振るった教師は当然処分を受けるであろうし、ニュースに流れ、問題になるであろう。しかし、民族学校では、生徒に対する暴力は日常茶飯事であったし、ほとんど表沙汰になる事なく、繰り返されていた。
教育とは、人として正しい道を歩むためのもの。その教育の場での、この様な人間を人間として大切に扱わない教師と学校。それは、紛れもなく北朝鮮や総連の戦略なのである。
総連が掲げている標語、「一人は全体のために、全体は一人のために」というものがある。あの独裁国家を民主主義と謳っている愚かなる体制同様、この様な有名無実な標語は、上記の様に現実と余りにもかけ離れている。やはり、人生とは全ての局面において、自らの意思によって判断・選択し、決定する。これこそ、真の民主主義、そして自由ではなかろうか。
民族学校の教師とは、この様に生徒一人ひとりの人生をないがしろにする人が多い。人の人生がどうでも良いという事は、言ってみれば自らの人生もそれ程大切に考えていないのである。個人の人生よりも、国家や組織を優先する学校を学校と呼べるであろうか。
私がいつも考える事は、まず人間が大切であるという事。それ以上でも以下でもない。また、人間が生きるという事は一体どういう事なのかを教えない教師も、到底教師とは言えないのではなかろうか。
非公然組織「学習組」
拉致問題発覚以降、民族学校から消えたとされるものがある。現状は分からないが、当時高級学校(日本の高校に当たるもの)に入学すると、学校側よりあるものに“勧誘”される者が少なからずいた。
私もその一人なのであるが、ある放課後、担任に呼ばれ、こう切り出された。
「君、学習組に入る気はないかね?」
「学習組?」
「そうだ。名誉ある盟員になれば、祖国のために貢献する事が出来る。」
「はぁ。で、そこではどの様な『学習』をするのですか?」
「金日成主席の教えについて、さらに深く学び、祖国に命を捧げるために、身も心も鍛錬に鍛錬を重ねるのだ。どうかね?」
「…。折角のお誘いですが、お断り致します。純粋な教養の為の学習ならともかく、その様な活動に身を投ずる事には、興味がありませんので。」
「(やや怒った表情で)そうか、分かった。仕方がない。しかし、今日のこの事はくれぐれも口外しない様に。最高機密の一つなのだから。何も聞かなかった事にしておいてくれ。」
「学習組」とは、北朝鮮と朝鮮労働党に絶対の忠誠を誓う北朝鮮直轄の「革命組織」で、 在日朝鮮人系の朝銀信用組合に強い影響力を行使してきたとされる、メンバー約2,000人(当時)から成る、非公然組織である。
通常、日本の社会、特に会社や学校においては、一切の政治・宗教活動は禁じられている筈である。それは、過去の戦争に対する猛省に拠る所が大きいと思われるが、集団がある特定の思想に染まった時の恐ろしさは、計り知れないものがある事を知っているからであり、当時の日本の軍国主義を始め、ナチズムやスターリン主義はその最たる例である。
しかし、ここへ来て、また新たな動きがある様である。総連が、解散していた「学習組」の復活・再編を進めているという情報が流れた。総連の資金調達や組織の強化・引き締めなどの他、拉致事件や核開発問題で、日朝間の正規ルートによる交渉の行き詰まりを受け、対日工作を強化する狙いがあるそうである。その翌年には、ミサイル開発に使用可能な機械をイランへ輸出したとして、 警視庁が摘発した都内の工学機器製造会社による不正事件にも関与した他、対韓国工作も担当していた事が明らかになっている。
また、公安当局によると、「学習組」は日朝首脳会談直前、つまり拉致問題発覚直前に、金正日の指令で解散したとされている。総連の中でも、秘密工作機関として公安当局にマークされていた学習組解散の背景には、北朝鮮の「民主化イメージ」を打ち出す戦術があったとも言われている。
「学習組」は、校内においても「最高機密」という扱いであった。従って、その活動も秘密裏に行われ、その様子は茶番そのものであったが、盟員の各々は何ら疑いを持つ事なく、活動していく事となる。金日成思想を唯一の思想として。
高校時代などは、年齢を重ねたとは言え、まだまだ自らの人生観の確立には至っていない場合がほとんどであろう。また、在日社会は、マイノリティーであり、かなり閉鎖的な社会である。ある意味、その「温室」で育った現在の三世や四世の大部分は、ある年齢に達するまで、外界を知らずに育つ。現在、民族学校の教壇に立つ者などが、良い例であろう。民族系の大学を出るまでの16年をその中でのみ過ごし、日本のこの厳しい社会を全く知らずに来た未熟者に、次の世代を担う子どもに、一体何を伝える事が出来るであろうか。
終戦から、60年が過ぎようとしている現在でも、世界各地では紛争が絶えない。米ソの冷戦はとうの昔に終焉を迎えたが、宗教が絡んだテロリズムという新たな脅威が出現している。
在日の子どもたちが、自らが背負った歴史的背景を知る事は確かに切実な問題である。しかし、世界はこの在日社会、さらには北朝鮮が中心で動いているのではない。複雑な世界情勢を常にグローバルな視点を持って見つめ、その中で自分たちはどの様に生きるべきなのか。
この様に、民族教育の問題点の一つは、常に在日や北朝鮮社会を中心にしか見ないという点である。それでは、いくら言語教育や歴史教育を施した所で、何の意味も持たない無益なもので終わってしまう。
緊迫した世界情勢が刻々と変化する中で、この様なシステムが崩壊する日は、そう遠くない。
北朝鮮、万景峰号、そして朝鮮総連
朝鮮総連の傘下にあるのは、何も朝鮮学校などの教育機関だけではない。その中には、金融機関、出版社、保険会社、さらには歌劇団や歌舞団にまで及ぶ。
数年前、公的資金投入や破綻などで話題となった朝銀の全国組織「在日本朝鮮信用組合協会(朝信協)」は、民族系の金融機関である。因みに民族系の金融機関とは、在日朝鮮人・韓国人たちから預金を集め、在日系企業や市民への融資を行っている金融機関を指す。また、「朝銀」という名前が付いたものが北朝鮮(総連)系で、韓国(民団)系には「商銀」という名が付いている。
当局直属の機関であり、全国各地の朝銀は総連に人事権を握られた機関であった。この朝銀の存在こそが、総連、さらには金政権をも支えていたと言っても過言ではあるまい。何故ならば、朝銀は莫大な預金をせっせと本国へ送金しており、それがミサイル開発や核開発の温床となっている可能性、何よりも、民族を破滅へと向かわせる金一族にとっての資金源ともなっている可能性がある事はほぼ間違いないと見られている。多くの国民が餓死していく中で、彼らだけが私腹を肥やしているのである。
送金ルートは、大方次の通りである。現金の場合は船で北朝鮮まで運ぶのが一般的、日本へ寄港する北朝鮮の万景峰号で、北朝鮮への親族訪問などで乗船する人の手荷物に、数千万円ずつ入れ運ばせて無事持ち出す事が出来る。また、日本各地の海岸に接岸する北朝鮮の密入工作船に運び込み、持ち帰るというルートもある。
万景峰号には、私も数回乗船した事があるが、友人の中には決して少なくない額を親や親族から預かり、本国に持ち込むケースが多く見られた。因みに、私が持ち込んだ物資は、ほぼ全て当局に没収されたのであるが…。
帰国運動により北へ渡った者を持つ在日の多くには、現在でも北朝鮮へと送金している者が少なくない。本国の紙幣などは紙屑同然であるし、北朝鮮では外貨(主にドルや円)しか流通が出来なくなっている状態である。送金された金銭が、当局へと没収されるのはまず間違いなく、また物資なども、一部の特権階級の中で横流しされているのが実状である。
この様な、北朝鮮への送金システムの歴史は古くに遡る。それにより、総連の一部のトップたち、北朝鮮特権階層の資金となり、総連の故・韓徳銖議長ら一族も、本国での贅を尽くした生活ぶりが時折伝わって来た事を思い出す。
しかし、何と言っても先に述べた在日朝鮮人の帰国運動が何よりの原点である。帰国した10万近い者の多くは日本に親族を残して海を渡った。金日成の狙いの一つは、彼らを“人質”に取り、多くの在日から莫大な金をむしり取る事であった。
日本においての著しい差別に耐え切れず、藁をも掴む思いで海を渡り、そこに待ち受けていたものは、日本のそれより遥かに厳しい差別と貧しい生活であった。何一つ自由はなく、反抗した者は即刻、収容所へと送られる。生き長らえた者は人質として利用され、また、日本に残った在日も北朝鮮により翻弄された者は後を絶たない。全財産を没収され、無一文になった者も大勢いる。
新潟発の船には、現在でも親族訪問の為に乗る人が多数存在する。何を思い、決して安くない代金を支払い、繰り返し訪問するのか。私には、到底理解出来ない事である。はっきり言って全くの無意味である。
しかも、親族訪問の際の面会日時や場所などは、全て当局によって決められ、徹底的に監視が付く。焼け石に水とは、まさにこの事。あの政権を打倒しない限り、あの国への金や物の流れは一切断ち切るべきである。さらに、総連支部や分会など小規模集会での募金、朝銀の預金、そして民族学校の教職員の給料や生徒の学費など、何かしらの形でこれら全てのものから北朝鮮へ送られる資金が集められる。
有史以来、一体どこに自らの国民を人質に取り、海外の同胞から金を奪い、軍事最優先の独裁政権を維持する為に使った政権があっただろうか。歴史上、最も非人道的で、自国民を微塵も愛さず、有名無実な社会主義体制を維持する愚かな国家が、現在まで地球上に存在し得ている事は、これはもはやこの国だけの問題ではなく、地球の恥である。
個人的には、総連は日本の中にある第二の北朝鮮であると思っている。いや、見方を変えれば総連なくしては北朝鮮の現在までの存続はあり得なかった様に思う。空前絶後の愚かなる体制は、チャウシェスク政権の様に民衆によって打倒されるべきであり、それを支え続けた総連の大罪は、もはや拭い様がない。
((『木苺』123号 05・7)
朝鮮総連・朝鮮人学校と私 ある在日の告白(Ⅱ)
元 智慧(うぉんちへ)
民族学校の教師
日本の学校であろうと、民族学校であろうと、人は青春時代に様々な教師に巡り合うものである。また、どの様な教師に巡り合うかで、人生が少なからず左右される場合も大いにあり得ると言っても過言ではない。特に、中学や高校では進路の問題が切実な問題となり、その際、教師が果たす役割は非常に大きい。
私も例に洩れず、この時期は大いに悩み、苦しんだ。しかし、そこは民族学校。様々な弊害や試練が待ち受けていた。
さて、民族学校では、私の様に小中高と一貫して進む者もいれば、途中で日本の学校に転入する者も少なからず存在した。理由としては、やはり進路の問題が最も多く、特に日本の学歴社会のレールに乗るためには、出来るだけ早い内より方向転換した方が良いのは、火を見るよりも明らかである。
この頃に自らの進むべき道が明白であるならば、ある意味においていずれの学校を選択しても良い様なものであるが、しかし大多数の生徒は中学の時、それ程真剣に進路問題を捉えている訳ではない。従って、特に問題意識を持たぬまま、歳月だけが過ぎ去っていく。
しかし、日本の学校に転入する場合、事はそう簡単な事ではないのである。現在の事情は、多少変わっているであろうが、当時は幾多の障害を乗り越えなければならなかったのである。
その障害とは、一つに教師の妨害がある。何しろ、表向きには日本の国民と手を取って、共存すべしなどと豪語しているものの、実際の教育では、日本は敵国であり、日本国民は忌むべき存在であると説いているのである。
教師というよりも学校全体が、生徒が日本学校へ流れ込む事を阻んでいるのである。様々な形でそれは表れるが、例えば親が総連などの組織にいる場合、推薦入試の際の推薦状を書いてもらえないなどである。
民族学校では、高校進学の際、生徒から進路相談を受ける事はない。生徒たちは、ごく当たり前にそのまま民族高校に進むものであると普段より刷り込まれており、全体主義の中では、個人の進路や将来などどうでも良い事なのである。
最も問題ある事の一つに、教師自身が一度も日本の社会に出ず、民族系の大学を経て教壇に立つ事が何とも嘆かわしいのである。(そういった意味では、日本学校の教師の中にも同じ様な場合もあるが…。上記の理由により、民族学校の場合は教員免許を取得する事なく、教壇に立っている。)
従って、もし仮に生徒から進路について相談を受けたとしても、それに対応しうる能力を持ち合わせていないのが実状である。自らの世界の全てが、北朝鮮であり、総連である人に、これから日本の社会、さらには世界にはばたこうとする生徒に対する人材育成の心持は、そもそも微塵もないのである。
彼らにとって人材育成とは、組織の中でのそれであり、またそういった事は、国や組織に仕える者こそ、優れた人材なのである。そこに、個人の夢や希望、能力などはもはやどうでも良い代物なのである。
今でもある教師の言ったセリフが忘れられない。「民族教育において、人材育成とは総連の幹部を育てる事である。クラスの中に、そういう者がある一定の割合で存在し、その他の者はもはや学校とは関係がない。」
また、校内暴力に関して言えば、日本の学校ならば暴力を振るった教師は当然処分を受けるであろうし、ニュースに流れ、問題になるであろう。しかし、民族学校では、生徒に対する暴力は日常茶飯事であったし、ほとんど表沙汰になる事なく、繰り返されていた。
教育とは、人として正しい道を歩むためのもの。その教育の場での、この様な人間を人間として大切に扱わない教師と学校。それは、紛れもなく北朝鮮や総連の戦略なのである。
総連が掲げている標語、「一人は全体のために、全体は一人のために」というものがある。あの独裁国家を民主主義と謳っている愚かなる体制同様、この様な有名無実な標語は、上記の様に現実と余りにもかけ離れている。やはり、人生とは全ての局面において、自らの意思によって判断・選択し、決定する。これこそ、真の民主主義、そして自由ではなかろうか。
民族学校の教師とは、この様に生徒一人ひとりの人生をないがしろにする人が多い。人の人生がどうでも良いという事は、言ってみれば自らの人生もそれ程大切に考えていないのである。個人の人生よりも、国家や組織を優先する学校を学校と呼べるであろうか。
私がいつも考える事は、まず人間が大切であるという事。それ以上でも以下でもない。また、人間が生きるという事は一体どういう事なのかを教えない教師も、到底教師とは言えないのではなかろうか。
非公然組織「学習組」
拉致問題発覚以降、民族学校から消えたとされるものがある。現状は分からないが、当時高級学校(日本の高校に当たるもの)に入学すると、学校側よりあるものに“勧誘”される者が少なからずいた。
私もその一人なのであるが、ある放課後、担任に呼ばれ、こう切り出された。
「君、学習組に入る気はないかね?」
「学習組?」
「そうだ。名誉ある盟員になれば、祖国のために貢献する事が出来る。」
「はぁ。で、そこではどの様な『学習』をするのですか?」
「金日成主席の教えについて、さらに深く学び、祖国に命を捧げるために、身も心も鍛錬に鍛錬を重ねるのだ。どうかね?」
「…。折角のお誘いですが、お断り致します。純粋な教養の為の学習ならともかく、その様な活動に身を投ずる事には、興味がありませんので。」
「(やや怒った表情で)そうか、分かった。仕方がない。しかし、今日のこの事はくれぐれも口外しない様に。最高機密の一つなのだから。何も聞かなかった事にしておいてくれ。」
「学習組」とは、北朝鮮と朝鮮労働党に絶対の忠誠を誓う北朝鮮直轄の「革命組織」で、 在日朝鮮人系の朝銀信用組合に強い影響力を行使してきたとされる、メンバー約2,000人(当時)から成る、非公然組織である。
通常、日本の社会、特に会社や学校においては、一切の政治・宗教活動は禁じられている筈である。それは、過去の戦争に対する猛省に拠る所が大きいと思われるが、集団がある特定の思想に染まった時の恐ろしさは、計り知れないものがある事を知っているからであり、当時の日本の軍国主義を始め、ナチズムやスターリン主義はその最たる例である。
しかし、ここへ来て、また新たな動きがある様である。総連が、解散していた「学習組」の復活・再編を進めているという情報が流れた。総連の資金調達や組織の強化・引き締めなどの他、拉致事件や核開発問題で、日朝間の正規ルートによる交渉の行き詰まりを受け、対日工作を強化する狙いがあるそうである。その翌年には、ミサイル開発に使用可能な機械をイランへ輸出したとして、 警視庁が摘発した都内の工学機器製造会社による不正事件にも関与した他、対韓国工作も担当していた事が明らかになっている。
また、公安当局によると、「学習組」は日朝首脳会談直前、つまり拉致問題発覚直前に、金正日の指令で解散したとされている。総連の中でも、秘密工作機関として公安当局にマークされていた学習組解散の背景には、北朝鮮の「民主化イメージ」を打ち出す戦術があったとも言われている。
「学習組」は、校内においても「最高機密」という扱いであった。従って、その活動も秘密裏に行われ、その様子は茶番そのものであったが、盟員の各々は何ら疑いを持つ事なく、活動していく事となる。金日成思想を唯一の思想として。
高校時代などは、年齢を重ねたとは言え、まだまだ自らの人生観の確立には至っていない場合がほとんどであろう。また、在日社会は、マイノリティーであり、かなり閉鎖的な社会である。ある意味、その「温室」で育った現在の三世や四世の大部分は、ある年齢に達するまで、外界を知らずに育つ。現在、民族学校の教壇に立つ者などが、良い例であろう。民族系の大学を出るまでの16年をその中でのみ過ごし、日本のこの厳しい社会を全く知らずに来た未熟者に、次の世代を担う子どもに、一体何を伝える事が出来るであろうか。
終戦から、60年が過ぎようとしている現在でも、世界各地では紛争が絶えない。米ソの冷戦はとうの昔に終焉を迎えたが、宗教が絡んだテロリズムという新たな脅威が出現している。
在日の子どもたちが、自らが背負った歴史的背景を知る事は確かに切実な問題である。しかし、世界はこの在日社会、さらには北朝鮮が中心で動いているのではない。複雑な世界情勢を常にグローバルな視点を持って見つめ、その中で自分たちはどの様に生きるべきなのか。
この様に、民族教育の問題点の一つは、常に在日や北朝鮮社会を中心にしか見ないという点である。それでは、いくら言語教育や歴史教育を施した所で、何の意味も持たない無益なもので終わってしまう。
緊迫した世界情勢が刻々と変化する中で、この様なシステムが崩壊する日は、そう遠くない。
北朝鮮、万景峰号、そして朝鮮総連
朝鮮総連の傘下にあるのは、何も朝鮮学校などの教育機関だけではない。その中には、金融機関、出版社、保険会社、さらには歌劇団や歌舞団にまで及ぶ。
数年前、公的資金投入や破綻などで話題となった朝銀の全国組織「在日本朝鮮信用組合協会(朝信協)」は、民族系の金融機関である。因みに民族系の金融機関とは、在日朝鮮人・韓国人たちから預金を集め、在日系企業や市民への融資を行っている金融機関を指す。また、「朝銀」という名前が付いたものが北朝鮮(総連)系で、韓国(民団)系には「商銀」という名が付いている。
当局直属の機関であり、全国各地の朝銀は総連に人事権を握られた機関であった。この朝銀の存在こそが、総連、さらには金政権をも支えていたと言っても過言ではあるまい。何故ならば、朝銀は莫大な預金をせっせと本国へ送金しており、それがミサイル開発や核開発の温床となっている可能性、何よりも、民族を破滅へと向かわせる金一族にとっての資金源ともなっている可能性がある事はほぼ間違いないと見られている。多くの国民が餓死していく中で、彼らだけが私腹を肥やしているのである。
送金ルートは、大方次の通りである。現金の場合は船で北朝鮮まで運ぶのが一般的、日本へ寄港する北朝鮮の万景峰号で、北朝鮮への親族訪問などで乗船する人の手荷物に、数千万円ずつ入れ運ばせて無事持ち出す事が出来る。また、日本各地の海岸に接岸する北朝鮮の密入工作船に運び込み、持ち帰るというルートもある。
万景峰号には、私も数回乗船した事があるが、友人の中には決して少なくない額を親や親族から預かり、本国に持ち込むケースが多く見られた。因みに、私が持ち込んだ物資は、ほぼ全て当局に没収されたのであるが…。
帰国運動により北へ渡った者を持つ在日の多くには、現在でも北朝鮮へと送金している者が少なくない。本国の紙幣などは紙屑同然であるし、北朝鮮では外貨(主にドルや円)しか流通が出来なくなっている状態である。送金された金銭が、当局へと没収されるのはまず間違いなく、また物資なども、一部の特権階級の中で横流しされているのが実状である。
この様な、北朝鮮への送金システムの歴史は古くに遡る。それにより、総連の一部のトップたち、北朝鮮特権階層の資金となり、総連の故・韓徳銖議長ら一族も、本国での贅を尽くした生活ぶりが時折伝わって来た事を思い出す。
しかし、何と言っても先に述べた在日朝鮮人の帰国運動が何よりの原点である。帰国した10万近い者の多くは日本に親族を残して海を渡った。金日成の狙いの一つは、彼らを“人質”に取り、多くの在日から莫大な金をむしり取る事であった。
日本においての著しい差別に耐え切れず、藁をも掴む思いで海を渡り、そこに待ち受けていたものは、日本のそれより遥かに厳しい差別と貧しい生活であった。何一つ自由はなく、反抗した者は即刻、収容所へと送られる。生き長らえた者は人質として利用され、また、日本に残った在日も北朝鮮により翻弄された者は後を絶たない。全財産を没収され、無一文になった者も大勢いる。
新潟発の船には、現在でも親族訪問の為に乗る人が多数存在する。何を思い、決して安くない代金を支払い、繰り返し訪問するのか。私には、到底理解出来ない事である。はっきり言って全くの無意味である。
しかも、親族訪問の際の面会日時や場所などは、全て当局によって決められ、徹底的に監視が付く。焼け石に水とは、まさにこの事。あの政権を打倒しない限り、あの国への金や物の流れは一切断ち切るべきである。さらに、総連支部や分会など小規模集会での募金、朝銀の預金、そして民族学校の教職員の給料や生徒の学費など、何かしらの形でこれら全てのものから北朝鮮へ送られる資金が集められる。
有史以来、一体どこに自らの国民を人質に取り、海外の同胞から金を奪い、軍事最優先の独裁政権を維持する為に使った政権があっただろうか。歴史上、最も非人道的で、自国民を微塵も愛さず、有名無実な社会主義体制を維持する愚かな国家が、現在まで地球上に存在し得ている事は、これはもはやこの国だけの問題ではなく、地球の恥である。
個人的には、総連は日本の中にある第二の北朝鮮であると思っている。いや、見方を変えれば総連なくしては北朝鮮の現在までの存続はあり得なかった様に思う。空前絶後の愚かなる体制は、チャウシェスク政権の様に民衆によって打倒されるべきであり、それを支え続けた総連の大罪は、もはや拭い様がない。
((『木苺』123号 05・7)
昨日、僕は「朝鮮高級学校への授業料実質無償化措置適用に反対する意見書」を政府あて送信した。1000字以内でという制約があったので結論だけを書いた。
02年9月17日の衝撃以来、僕はそれまで「見て見ぬふり」をしてきた「北朝鮮(朝鮮総連・朝鮮学校)」と正面から向き合う活動を友人たちと一緒にやってきた。「見て見ぬふり」を続けることは北の独裁政権の犯罪に荷担することだと思い知ったからだ。「拉致被害者・家族の声を受けとめる在日コリアンと日本人の集い」(03・7)を皮切りに、<「北朝鮮へのまなざし」を考える連続講座>(03・10~05・10)を開催した。
これらの活動を通して脱北してきたもと在日コリアンや日本人妻の方々と出会ったり、朝鮮高校OBとして自らのあり方を真剣に問う若者に出会ったりした。僕の今の考えはこうした出会いの中で確立されたものだ。
僕らが学んだことはその時々に報告してきたが読者は限られている。ここに紹介する元さんの文章は朝鮮学校OBとして自分が受けてきた「民族教育」ときちんと向かい合って、これからの生き方を打ち立てようとする営みをつづったものだ。
読者はどうおもわれるだろうか?僕はこういう人と出会えたことに感謝し、これからも共に生きていきたいと思っている。
朝鮮総連・朝鮮学校と私 ある在日の告白 (Ⅰ)
元 智慧 (うぉんちへ)
はじめに
「日本人」ではないことをはじめて意識したのは、いつの頃であろうか。自我が芽生えた頃には既に日本語と朝鮮語が飛び交う環境にいたように記憶する。
私が生まれた1970年代は共産主義・社会主義国家、さらにはそれらを取り巻く国家にとってまさに激動の時代だった。1970年には「よど号ハイジャック事件」が起こり、日本で最初のハイジャック事件として衝撃を与えた。この北朝鮮への亡命劇と交差するように1972年には、雪の樺太国境を突破しソビエトへと消えた岡田嘉子がおよそ35年ぶりに祖国の土を踏み、おおいに世間を賑わわせた。
中国においては1960年代後半から文化大革命が続いており、指導部に先導された暴力的な大衆運動によって多くの人材や文化財などが被害を受けたのである。1974年には韓国・ソウルにて朴正熙大統領(当時)が在日韓国人青年に銃撃された暗殺未遂事件(文世光事件)が起き、この国の未来の暗示的事件であったといえよう。
そしてここ日本においてはその規模が縮小してきたとはいえ、在日の北朝鮮への帰還事業も細々と続いており、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)も今日のように弱体化してはいなかった。ある意味においてはその悪辣さをますます強めていったように思われる。様々な歴史的背景がうごめく中で、己も「民族教育」という名の、全体主義・偶像崇拝がまかり通る社会へと足を踏み入れたのである。
さて、私が生まれ育った地域は、とりわけ民族的意識や同胞の連携が強いところだったように記憶する。親たちの教育観も受験戦争を突破しエリート街道を歩ませるというよりは、民族の誇りや母国語に堪能な人間へとわが子を育てるのが、在日、さらには朝鮮民族の一員としての務めであるというのがおおかたの考え方であり、当然であるという風潮すらあった。
また、当時はまだ祖国統一こそ民族最大の帰結点であり、、ことに血気盛んな若者たちはかつての帰国事業で祖国建設のためにと「喜んで勇んで」渡っていった同胞たちのごとく、祖国統一をスローガンに掲げ燃えていた。
そのためにも在日朝鮮人にとって、「学校」というものは単に教育の場というよりも政治的なことは無論、思想的なものを「お国」のためにわがものとせしめるという意欲をもって、輝いていた。
私自身も他を知らないが故に学校というものはこのようなものであると、ある種、当然のように考えていた。そして、いつしか、教科書に「首領様」が当然のごとく登場しても何の違和感をも抱かぬ人間となっていた。その時はまだ…。
当時の同胞や学生たちにとって「幸い」であったのは、あのベールに包まれた国の実態が今ほどマスコミを通して伝わらなかったことであろう。同胞系の機関紙「朝鮮新報」などはマスコミの一種などとはほど遠く、事実上北朝鮮と総連のための広報紙であり、「首領様」の偉大性や社会主義の存在意義、そして民族教育の「素晴らしさ」を連日載せており、それは現在に至るまで性懲りもなく続けられている。
しかし、金日成というベールに包まれた人物が冷戦下における旧ソ連の傀儡であり、「国家の英雄」とはかけ離れたものであることは、もはや疑いようのない事実である。
総連はかつて10万人の同胞を「地上の楽園」という名の地獄へと扇動し、送り込んだ。そして北朝鮮は彼らを人質にした。そして総連は中世の封建国家よりも遙かに無残な体制へと莫大な資金を送り続けた。
そして、何にもまして大切なこどもの未来をも、全体主義国家への忠実な僕となるよう、「民族教育」を通して植え付けていった。その大罪は決して拭えるものではない。
同胞の多くが、異国の地にありながらも遠く離れた地の独裁者を偶像化し、崇拝した。総連が推し進めた「民族教育」の中にそのなぞを解く鍵が隠されているような気がしてならない。
20世紀の歴史の中でも極めて不可解なことの一つであるこれらが今後、旧ソ連崩壊後のグラスノスチ(情報公開)のように明らかにされるべきである。そして、今なお多くの北の人民が圧政に苦しめられており、また、拉致や核問題の解決は一刻も予断を許されない状況にある。
今こそ、数々の蛮行を繰り返す、愚かなる体制を打倒するため、民族を超え、一致団結するときであると確信する。
なお、今後記す事柄はすべて個人的なものであり、在日が共通して抱いている想いとは異なる部分があることをなにとぞご理解いただきたい。
(「木苺」121号 05・3)
日本人拉致問題が発覚
2001年9月11日、歴史的な小泉首相の訪朝以降、日朝関係は現在に至るまで揺れに揺れている。そして、その余波は、在日社会にも大きく作用し続け、様々な変化をもたらしている。
言うまでもなくそれは、拉致というにわかには信じ難い人権侵害を行ったという事実に加え、多くの在日にとってはその立場上、それは余りにも受け止め難い衝撃であった。換言すれば、在日の大多数の心に、恐らく初めて十字架を背負わなければならなくなった瞬間でもあった。
さて、外界では、在日朝鮮人社会の民族教育というものは、どの様に認識されているのであろうか。自国の言語や歴史に通じ、民族の誇りを持った人材を育てる場所とでもいうのであろうか。勿論、表向きはこの様な事と記して、ほぼ相違ない。実際問題、当初はこれらの事が必要に迫られていた事も事実である。
当初より民族教育の方針の一つには、正しい歴史認識というものがあった。それは、己が何故異国の地にあるのか、異国の文化を拒否し、日本に住みながら偶像崇拝を行うのか。そこには、理論や普遍的な意義などは微塵もなく、一方的に刷り込まれていくのみである。更には、民族愛というものを、政治体制を支持する事という誤った認識が植え付けられるのである。言うまでもなく、これらは全く別問題である。しかし、かつての共産圏の国々がそうであった様に、政権を支持しない者は、同時に国家に対する反逆者として徹底的に敵視され、それは在日社会とて同じであった。
日本人拉致問題が発覚して以来、帰化或いは韓国籍に変えた在日朝鮮人は数万人とも言われる。その中にはかつて民族教育を信じ、朝鮮総連や北朝鮮を信じた者も少なからず存在する。しかし、現在に至っても、それらを擁護し、拉致問題をかつての植民地問題と同列に語り、いつまでも被害者面をしている者が数多く存在するのも事実である。
私自身、拉致という言葉を始めて耳にしたのは、かなり以前の事の様に記憶する。辿れば、それは中学生の時にまで遡る事となる。数年前、拉致問題が明らかになった際、友人に「この度の問題に対して、どう思うか」という事で議論した事があった。現在も朝鮮総連系の会社員である彼女は、私に対しこう言い放った。
「偉大なる首領様と親愛なる指導者同志が、この様な非人道的な過ちを犯す筈がない。何かの間違いである。しかも、植民地問題と比べれば大した事はない。」と。
私同様、衝撃を受けていた事に違いはないのであるが、民族教育を受けた者の多くが抱く最も誤った認識がここに読み取れる。民族教育の中では、自分たちは常に被害者であり、罪を犯す事などあり得ない、という風潮が存在する。それは、植民地問題に始まり、戦後様々な面に於いて迫害を受け、差別を受けた事に認識の根底がある。
そしていつしか、在日の多くは、被害者という名の上に胡坐をかき、現在に至るまで生きてきた。それがある日突然、拉致という前代未聞の人権侵害、況してやそれが国家によるものだという事に、誰しもが衝撃を受け、失望したのである。
当時、中学生の私は、現在程ではないにせよ、少なからず教壇に立つ教師の言動などへの不信感や、民族教育という事に対し、常に疑問を抱いていた。何かと聞かれれば定かではないのであるが、直感的ともいうのであろうか、何かが誤っているという思いを、密かに抱いていた。
朝鮮総連が推し進めるこの教育の中では、韓国(※学校では、北朝鮮に対して南朝鮮と呼んでいた)も米国や日本同様、敵国であり憎むべき存在であると教えていた。今でこそ表向きは民主化した様に見える韓国だが、かつては軍事政権が長い間支配し、流血の革命も幾度となく起こった。そして、学校ではそれらを上手く利用し、この様な韓国に対し、北朝鮮では、市民は首領様の慈しみを受け何不自由なく平和に暮らしているのだという事を、繰り返していた。
民族最大の悲願と謳っていた統一を妨げているのも、米国や韓国である事を強調し、赤化統一こそ、理想なのだと言う事を、声高に叫んでいた。しかし、その頃からそれらの声に、どこかきな臭いものを感じざるを得なかった。机上の理想論は、様々な政治的陰謀が渦巻く現実の前では、子供心にも虚しく響いた。
北朝鮮帰国事業の罪
民族教育を語る上で欠かす事の出来ないものの一つに、民族愛を育むというコンセプトがある。愛国心ともいうが、ほぼ同義語として使われていた。では、一体どの様な形でそれらが植え付けられていくのであろうか。戦後、日朝史を象徴する北朝鮮への帰国事業の真相は、今なお謎に包まれており、早急に解明が急がれるものである。この例を元に、記す事としよう。
戦後、朝鮮に帰らず日本に残った在日の多くは、困窮状態の中で生活し、様々な生活場面に於いて差別等も著しかった。その様な状況のもと、日朝の陰謀の中で帰国運動が盛り上がり、多くはそこに爪の先程の疑いも持たず、片道切符の船に乗り込んだ。日本の生活に絶望し、「地上の楽園」などという扇動に煽られ、ほとんど逃げる様な形で日本を後にした。
言うまでもなく当時は、正確な情報が伝わる時代ではなく、たとえ疑わしい事であっても、確認する術などは無論ない。まだ見ぬ新天地に夢を追い求め、海を渡った。
これらの事は、映画「キューポラのある街」の中に垣間見る事が出来る。ここでは、政治的というよりは、帰国する在日朝鮮人との別れがテーマであるのだが、当時の時代背景を知る事が出来るという意味では、大変興味深い。
帰国事業が盛んになり始めた1959年頃は、三年にも及ぶ朝鮮戦争が終結し間もない頃である。そんな荒れ果てた地が、「地上の楽園」と考える方が不自然である事は、現在ならばそう困難な事ではない。しかし、当時の在日の生活保護受給率が在日社会全体の23%であった事を見れば、溺れる者は藁をも掴むという人々の心情がそこに読み取れよう。
関わった日本赤十字の責任問題はここでは触れないでおくとするが、北朝鮮と朝鮮総連はそこに目を付けた。まさに、彼らは「飛んで火に入る夏の虫」であった。しかも、戦争の最中、海を渡った彼らの出身地のほとんどは現在の韓国、つまり半島の南であり、北出身の者はごく少数でしかなかった。
一方、韓国系の在日組織である民団はこの帰国事業を北送事業と呼び阻止する立場であったが、今なお対立する朝鮮総連と民団、「楽園」へと向かう彼らの耳に、その様な声が届く筈もなかった。貧困に喘ぐ多くの人々が、韓国政府による事実上の棄民政策と、左翼勢力の大量宣伝に乗せられ北へと渡っていった。
近年、脱北者が後を絶たず、その中には、先の帰国事業の中、「地上の地獄」へと送り込まれた者も存在する。恐怖政治の下迫害され、決死の思いで逃れて来た彼らが、来日し真っ先にとった行動は、かつて地獄へと扇動し送り込んだ、朝鮮総連への責任追及であった。しかし、朝鮮総連側の余りにも無責任で野蛮な言動の中に、人間の理性や良心は微塵も感じられない。
かつて、私が訪朝した際、時折しも黄長元書記が韓国に亡命した矢先であった。北朝鮮では、専ら民族の反逆者として、彼の行動は非難され、その一族は流刑されたという。
恐怖政治による迫害を受け亡命する脱北者、そして真の民主化を望み家族までをも犠牲にし、独裁政権打倒を掲げる元幹部。そこには、反逆者の姿を見る事は出来ない。
北朝鮮へ帰国した人々には、過酷な運命が待ち受けていた。そして、現在に至るまで、筆舌に尽くし難い悲劇が繰り返されている。先頃、北朝鮮における公開処刑の映像が、世界に発信されたばかりである。その末路は、惨憺たる悲劇と絶望のみであった。多くの者が、人間としての尊厳という尊厳は奪われ、廃人と化し死に行く運命にあった。
在日朝鮮人の中には、金一族を無条件に崇拝し、まるで思考力を全て奪われたかの様な、不可思議な言動をする者がいる。そこに、民族教育の最大の罪がある。どの様な状況であれ、そしていつの時代であれ、人間を崇拝し偶像化するというのは、絶対にあってはならない事である。
しかも、帰国こそしなかったが、日本に残った在日朝鮮人の多くも、朝鮮総連によって、直接或いは間接的に虐げられる存在である。全財産を奪取された者、北朝鮮へと渡った家族を皆殺しにされた者、そして日本人同様に拉致されていった者もいる。その様な境遇に陥らなかった者が、現在も盲目的に民族愛と政権支持を混同している姿の何と情けない事か。
民族への愛着と政権支持は全く別のものである。この事を履き違え、相も変わらず体制を無条件に支持する者こそ、消え去るべきなのである。そして、この様な教育の中で、真の愛国心が育まれる事はない。
反日教育について
当時の民族教育のカリキュラムに登場する歴史の授業は、大別して三つであった。「世界史」、「朝鮮史」、そして特に重視されていたのが、「現代朝鮮史」であった。
前二者はともかく、後者の現代朝鮮史は、要するに反日と反米教育の時間である。その名も「偉大なる金日成将軍の革命活動」といった感じの、何とも滑稽な授業であった。しかもこの教科書、他の科目の教科書と違い、使われる紙は最高に上質なもので、当局がいかに洗脳教育を重視していたかが伺えるというもの。
その中身はというと、要は日本による植民地支配から終戦(北朝鮮や韓国では解放という)までが主なもので、その間、金日成が行ったとされる朝鮮半島及び中国でのパルチザン活動の展開が詳しく記述されており、子供心にも明らかにフィクションとも思える様な、それは見事な描かれ方なのである。
しかし、彼が戦後まもなく、旧ソ連軍とともに入国した事実は一切触れられておらず、その際の写真も無論掲載されてなどいない。金一族の偶像化と、歪んだ形で愛国心を植え付け様とする当局の狙いは、火を見るよりも明らかであった。
歴史教育の意義があるとすれば、それは常に様々な立場からの視点を養う事こそが、その一つである。
大戦終結後、朝鮮半島は間もなく朝鮮戦争へと突入する。三年にも及ぶこの戦争に関しては、近年その実態が次第に明らかになりつつあるが、少なくとも、金日成が韓国を吸収し、半島全てを自らの支配下に治め様ともくろんでいた事は、現在では常識であり、又そうでないとこの戦争の全てのつじつまが合わなくなってしまう。
にもかかわらず、授業に於いてはひたすら、先に侵攻したのは、韓国側だという偽りの記述が繰り返され、極めて不自然な歴史の流れとして描かれている。無論、その背景には、米ソの冷戦があった事はいうまでもないが、その様な事は、学校に於いてはどうでも良いのである。
これらの事を検証してみると、当局が連呼している統一のスローガンが真実のものではないという事が安易に読み取れよう。何故ならば、仮に朝鮮半島が統一しようものなら、在日朝鮮人より略取した金品による贅を極めた生活、金一族と朝鮮総連の最高幹部らの強権や生活は全て失われる事になるからである。
やがて、血で血を洗ったこの戦争は終わりを告げ、北朝鮮では権力を手にし始めた金日成による粛清の嵐が吹き荒れた。反動分子と思われる人々は、その地位を終われ、そして処刑、流刑された。これは、旧ソ連のスターリンや中国の毛沢東などと同様、共産圏の国々がかつて行った手法であり、やがて北朝鮮は、中国、旧ソ連を遥かに凌ぐ、独裁国家へと化していった。
在日朝鮮人の多くは、北朝鮮や朝鮮総連が掲げる統一のスローガンを鵜呑みにし、それがやがて拉致を始めとする世にも恐ろしい犯罪へと駆り立てるのであった。
正しい歴史教育とは何か。現在、中国などに於いても反日が声高に叫ばれる中、改めてその重要性が認識され始めている。
朝鮮半島の植民地問題一つ見ても、様々な角度から検証が出来るのである。日本人と共存していく必要がある中で、反日教育は明らかに誤っている。かつて虐げられた先人がいるにせよ、歴史の流れというものは、それ程単純な事ではない。それは、どの民族であろうと、人間が人間たる所以である。常に過ちを犯すのが、人間なのである。自分たちが完全に正しいという視点しか植え付けられないのは、誤った教育というより他ない。
現在騒がれている中国を始め、共産圏の国ではしばしば愛国教育というものが行われる。しかし、真の愛国とは何なのか。他を責め己が全て正しいと思う事なのか。他を許さず己は許す事なのか。
金日成一味が、戦後血の粛清を行って絶対的な権力者になった事を教科書にありのままに綴り、それを正しく伝える事のできる教師が存在すれば、恐らく偶像崇拝といった事はまず縮小化するだろうし、又、そうであれば、民族教育というものは成り立たないであろう。
前述した通り、体制支持と愛国心との区別がなされる必要がある事は当然であり、在日社会もここで一度、歴史への客観的なアプローチの必要性があるのではないだろうか。
(「木苺」122号 05・5)
02年9月17日の衝撃以来、僕はそれまで「見て見ぬふり」をしてきた「北朝鮮(朝鮮総連・朝鮮学校)」と正面から向き合う活動を友人たちと一緒にやってきた。「見て見ぬふり」を続けることは北の独裁政権の犯罪に荷担することだと思い知ったからだ。「拉致被害者・家族の声を受けとめる在日コリアンと日本人の集い」(03・7)を皮切りに、<「北朝鮮へのまなざし」を考える連続講座>(03・10~05・10)を開催した。
これらの活動を通して脱北してきたもと在日コリアンや日本人妻の方々と出会ったり、朝鮮高校OBとして自らのあり方を真剣に問う若者に出会ったりした。僕の今の考えはこうした出会いの中で確立されたものだ。
僕らが学んだことはその時々に報告してきたが読者は限られている。ここに紹介する元さんの文章は朝鮮学校OBとして自分が受けてきた「民族教育」ときちんと向かい合って、これからの生き方を打ち立てようとする営みをつづったものだ。
読者はどうおもわれるだろうか?僕はこういう人と出会えたことに感謝し、これからも共に生きていきたいと思っている。
朝鮮総連・朝鮮学校と私 ある在日の告白 (Ⅰ)
元 智慧 (うぉんちへ)
はじめに
「日本人」ではないことをはじめて意識したのは、いつの頃であろうか。自我が芽生えた頃には既に日本語と朝鮮語が飛び交う環境にいたように記憶する。
私が生まれた1970年代は共産主義・社会主義国家、さらにはそれらを取り巻く国家にとってまさに激動の時代だった。1970年には「よど号ハイジャック事件」が起こり、日本で最初のハイジャック事件として衝撃を与えた。この北朝鮮への亡命劇と交差するように1972年には、雪の樺太国境を突破しソビエトへと消えた岡田嘉子がおよそ35年ぶりに祖国の土を踏み、おおいに世間を賑わわせた。
中国においては1960年代後半から文化大革命が続いており、指導部に先導された暴力的な大衆運動によって多くの人材や文化財などが被害を受けたのである。1974年には韓国・ソウルにて朴正熙大統領(当時)が在日韓国人青年に銃撃された暗殺未遂事件(文世光事件)が起き、この国の未来の暗示的事件であったといえよう。
そしてここ日本においてはその規模が縮小してきたとはいえ、在日の北朝鮮への帰還事業も細々と続いており、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)も今日のように弱体化してはいなかった。ある意味においてはその悪辣さをますます強めていったように思われる。様々な歴史的背景がうごめく中で、己も「民族教育」という名の、全体主義・偶像崇拝がまかり通る社会へと足を踏み入れたのである。
さて、私が生まれ育った地域は、とりわけ民族的意識や同胞の連携が強いところだったように記憶する。親たちの教育観も受験戦争を突破しエリート街道を歩ませるというよりは、民族の誇りや母国語に堪能な人間へとわが子を育てるのが、在日、さらには朝鮮民族の一員としての務めであるというのがおおかたの考え方であり、当然であるという風潮すらあった。
また、当時はまだ祖国統一こそ民族最大の帰結点であり、、ことに血気盛んな若者たちはかつての帰国事業で祖国建設のためにと「喜んで勇んで」渡っていった同胞たちのごとく、祖国統一をスローガンに掲げ燃えていた。
そのためにも在日朝鮮人にとって、「学校」というものは単に教育の場というよりも政治的なことは無論、思想的なものを「お国」のためにわがものとせしめるという意欲をもって、輝いていた。
私自身も他を知らないが故に学校というものはこのようなものであると、ある種、当然のように考えていた。そして、いつしか、教科書に「首領様」が当然のごとく登場しても何の違和感をも抱かぬ人間となっていた。その時はまだ…。
当時の同胞や学生たちにとって「幸い」であったのは、あのベールに包まれた国の実態が今ほどマスコミを通して伝わらなかったことであろう。同胞系の機関紙「朝鮮新報」などはマスコミの一種などとはほど遠く、事実上北朝鮮と総連のための広報紙であり、「首領様」の偉大性や社会主義の存在意義、そして民族教育の「素晴らしさ」を連日載せており、それは現在に至るまで性懲りもなく続けられている。
しかし、金日成というベールに包まれた人物が冷戦下における旧ソ連の傀儡であり、「国家の英雄」とはかけ離れたものであることは、もはや疑いようのない事実である。
総連はかつて10万人の同胞を「地上の楽園」という名の地獄へと扇動し、送り込んだ。そして北朝鮮は彼らを人質にした。そして総連は中世の封建国家よりも遙かに無残な体制へと莫大な資金を送り続けた。
そして、何にもまして大切なこどもの未来をも、全体主義国家への忠実な僕となるよう、「民族教育」を通して植え付けていった。その大罪は決して拭えるものではない。
同胞の多くが、異国の地にありながらも遠く離れた地の独裁者を偶像化し、崇拝した。総連が推し進めた「民族教育」の中にそのなぞを解く鍵が隠されているような気がしてならない。
20世紀の歴史の中でも極めて不可解なことの一つであるこれらが今後、旧ソ連崩壊後のグラスノスチ(情報公開)のように明らかにされるべきである。そして、今なお多くの北の人民が圧政に苦しめられており、また、拉致や核問題の解決は一刻も予断を許されない状況にある。
今こそ、数々の蛮行を繰り返す、愚かなる体制を打倒するため、民族を超え、一致団結するときであると確信する。
なお、今後記す事柄はすべて個人的なものであり、在日が共通して抱いている想いとは異なる部分があることをなにとぞご理解いただきたい。
(「木苺」121号 05・3)
日本人拉致問題が発覚
2001年9月11日、歴史的な小泉首相の訪朝以降、日朝関係は現在に至るまで揺れに揺れている。そして、その余波は、在日社会にも大きく作用し続け、様々な変化をもたらしている。
言うまでもなくそれは、拉致というにわかには信じ難い人権侵害を行ったという事実に加え、多くの在日にとってはその立場上、それは余りにも受け止め難い衝撃であった。換言すれば、在日の大多数の心に、恐らく初めて十字架を背負わなければならなくなった瞬間でもあった。
さて、外界では、在日朝鮮人社会の民族教育というものは、どの様に認識されているのであろうか。自国の言語や歴史に通じ、民族の誇りを持った人材を育てる場所とでもいうのであろうか。勿論、表向きはこの様な事と記して、ほぼ相違ない。実際問題、当初はこれらの事が必要に迫られていた事も事実である。
当初より民族教育の方針の一つには、正しい歴史認識というものがあった。それは、己が何故異国の地にあるのか、異国の文化を拒否し、日本に住みながら偶像崇拝を行うのか。そこには、理論や普遍的な意義などは微塵もなく、一方的に刷り込まれていくのみである。更には、民族愛というものを、政治体制を支持する事という誤った認識が植え付けられるのである。言うまでもなく、これらは全く別問題である。しかし、かつての共産圏の国々がそうであった様に、政権を支持しない者は、同時に国家に対する反逆者として徹底的に敵視され、それは在日社会とて同じであった。
日本人拉致問題が発覚して以来、帰化或いは韓国籍に変えた在日朝鮮人は数万人とも言われる。その中にはかつて民族教育を信じ、朝鮮総連や北朝鮮を信じた者も少なからず存在する。しかし、現在に至っても、それらを擁護し、拉致問題をかつての植民地問題と同列に語り、いつまでも被害者面をしている者が数多く存在するのも事実である。
私自身、拉致という言葉を始めて耳にしたのは、かなり以前の事の様に記憶する。辿れば、それは中学生の時にまで遡る事となる。数年前、拉致問題が明らかになった際、友人に「この度の問題に対して、どう思うか」という事で議論した事があった。現在も朝鮮総連系の会社員である彼女は、私に対しこう言い放った。
「偉大なる首領様と親愛なる指導者同志が、この様な非人道的な過ちを犯す筈がない。何かの間違いである。しかも、植民地問題と比べれば大した事はない。」と。
私同様、衝撃を受けていた事に違いはないのであるが、民族教育を受けた者の多くが抱く最も誤った認識がここに読み取れる。民族教育の中では、自分たちは常に被害者であり、罪を犯す事などあり得ない、という風潮が存在する。それは、植民地問題に始まり、戦後様々な面に於いて迫害を受け、差別を受けた事に認識の根底がある。
そしていつしか、在日の多くは、被害者という名の上に胡坐をかき、現在に至るまで生きてきた。それがある日突然、拉致という前代未聞の人権侵害、況してやそれが国家によるものだという事に、誰しもが衝撃を受け、失望したのである。
当時、中学生の私は、現在程ではないにせよ、少なからず教壇に立つ教師の言動などへの不信感や、民族教育という事に対し、常に疑問を抱いていた。何かと聞かれれば定かではないのであるが、直感的ともいうのであろうか、何かが誤っているという思いを、密かに抱いていた。
朝鮮総連が推し進めるこの教育の中では、韓国(※学校では、北朝鮮に対して南朝鮮と呼んでいた)も米国や日本同様、敵国であり憎むべき存在であると教えていた。今でこそ表向きは民主化した様に見える韓国だが、かつては軍事政権が長い間支配し、流血の革命も幾度となく起こった。そして、学校ではそれらを上手く利用し、この様な韓国に対し、北朝鮮では、市民は首領様の慈しみを受け何不自由なく平和に暮らしているのだという事を、繰り返していた。
民族最大の悲願と謳っていた統一を妨げているのも、米国や韓国である事を強調し、赤化統一こそ、理想なのだと言う事を、声高に叫んでいた。しかし、その頃からそれらの声に、どこかきな臭いものを感じざるを得なかった。机上の理想論は、様々な政治的陰謀が渦巻く現実の前では、子供心にも虚しく響いた。
北朝鮮帰国事業の罪
民族教育を語る上で欠かす事の出来ないものの一つに、民族愛を育むというコンセプトがある。愛国心ともいうが、ほぼ同義語として使われていた。では、一体どの様な形でそれらが植え付けられていくのであろうか。戦後、日朝史を象徴する北朝鮮への帰国事業の真相は、今なお謎に包まれており、早急に解明が急がれるものである。この例を元に、記す事としよう。
戦後、朝鮮に帰らず日本に残った在日の多くは、困窮状態の中で生活し、様々な生活場面に於いて差別等も著しかった。その様な状況のもと、日朝の陰謀の中で帰国運動が盛り上がり、多くはそこに爪の先程の疑いも持たず、片道切符の船に乗り込んだ。日本の生活に絶望し、「地上の楽園」などという扇動に煽られ、ほとんど逃げる様な形で日本を後にした。
言うまでもなく当時は、正確な情報が伝わる時代ではなく、たとえ疑わしい事であっても、確認する術などは無論ない。まだ見ぬ新天地に夢を追い求め、海を渡った。
これらの事は、映画「キューポラのある街」の中に垣間見る事が出来る。ここでは、政治的というよりは、帰国する在日朝鮮人との別れがテーマであるのだが、当時の時代背景を知る事が出来るという意味では、大変興味深い。
帰国事業が盛んになり始めた1959年頃は、三年にも及ぶ朝鮮戦争が終結し間もない頃である。そんな荒れ果てた地が、「地上の楽園」と考える方が不自然である事は、現在ならばそう困難な事ではない。しかし、当時の在日の生活保護受給率が在日社会全体の23%であった事を見れば、溺れる者は藁をも掴むという人々の心情がそこに読み取れよう。
関わった日本赤十字の責任問題はここでは触れないでおくとするが、北朝鮮と朝鮮総連はそこに目を付けた。まさに、彼らは「飛んで火に入る夏の虫」であった。しかも、戦争の最中、海を渡った彼らの出身地のほとんどは現在の韓国、つまり半島の南であり、北出身の者はごく少数でしかなかった。
一方、韓国系の在日組織である民団はこの帰国事業を北送事業と呼び阻止する立場であったが、今なお対立する朝鮮総連と民団、「楽園」へと向かう彼らの耳に、その様な声が届く筈もなかった。貧困に喘ぐ多くの人々が、韓国政府による事実上の棄民政策と、左翼勢力の大量宣伝に乗せられ北へと渡っていった。
近年、脱北者が後を絶たず、その中には、先の帰国事業の中、「地上の地獄」へと送り込まれた者も存在する。恐怖政治の下迫害され、決死の思いで逃れて来た彼らが、来日し真っ先にとった行動は、かつて地獄へと扇動し送り込んだ、朝鮮総連への責任追及であった。しかし、朝鮮総連側の余りにも無責任で野蛮な言動の中に、人間の理性や良心は微塵も感じられない。
かつて、私が訪朝した際、時折しも黄長元書記が韓国に亡命した矢先であった。北朝鮮では、専ら民族の反逆者として、彼の行動は非難され、その一族は流刑されたという。
恐怖政治による迫害を受け亡命する脱北者、そして真の民主化を望み家族までをも犠牲にし、独裁政権打倒を掲げる元幹部。そこには、反逆者の姿を見る事は出来ない。
北朝鮮へ帰国した人々には、過酷な運命が待ち受けていた。そして、現在に至るまで、筆舌に尽くし難い悲劇が繰り返されている。先頃、北朝鮮における公開処刑の映像が、世界に発信されたばかりである。その末路は、惨憺たる悲劇と絶望のみであった。多くの者が、人間としての尊厳という尊厳は奪われ、廃人と化し死に行く運命にあった。
在日朝鮮人の中には、金一族を無条件に崇拝し、まるで思考力を全て奪われたかの様な、不可思議な言動をする者がいる。そこに、民族教育の最大の罪がある。どの様な状況であれ、そしていつの時代であれ、人間を崇拝し偶像化するというのは、絶対にあってはならない事である。
しかも、帰国こそしなかったが、日本に残った在日朝鮮人の多くも、朝鮮総連によって、直接或いは間接的に虐げられる存在である。全財産を奪取された者、北朝鮮へと渡った家族を皆殺しにされた者、そして日本人同様に拉致されていった者もいる。その様な境遇に陥らなかった者が、現在も盲目的に民族愛と政権支持を混同している姿の何と情けない事か。
民族への愛着と政権支持は全く別のものである。この事を履き違え、相も変わらず体制を無条件に支持する者こそ、消え去るべきなのである。そして、この様な教育の中で、真の愛国心が育まれる事はない。
反日教育について
当時の民族教育のカリキュラムに登場する歴史の授業は、大別して三つであった。「世界史」、「朝鮮史」、そして特に重視されていたのが、「現代朝鮮史」であった。
前二者はともかく、後者の現代朝鮮史は、要するに反日と反米教育の時間である。その名も「偉大なる金日成将軍の革命活動」といった感じの、何とも滑稽な授業であった。しかもこの教科書、他の科目の教科書と違い、使われる紙は最高に上質なもので、当局がいかに洗脳教育を重視していたかが伺えるというもの。
その中身はというと、要は日本による植民地支配から終戦(北朝鮮や韓国では解放という)までが主なもので、その間、金日成が行ったとされる朝鮮半島及び中国でのパルチザン活動の展開が詳しく記述されており、子供心にも明らかにフィクションとも思える様な、それは見事な描かれ方なのである。
しかし、彼が戦後まもなく、旧ソ連軍とともに入国した事実は一切触れられておらず、その際の写真も無論掲載されてなどいない。金一族の偶像化と、歪んだ形で愛国心を植え付け様とする当局の狙いは、火を見るよりも明らかであった。
歴史教育の意義があるとすれば、それは常に様々な立場からの視点を養う事こそが、その一つである。
大戦終結後、朝鮮半島は間もなく朝鮮戦争へと突入する。三年にも及ぶこの戦争に関しては、近年その実態が次第に明らかになりつつあるが、少なくとも、金日成が韓国を吸収し、半島全てを自らの支配下に治め様ともくろんでいた事は、現在では常識であり、又そうでないとこの戦争の全てのつじつまが合わなくなってしまう。
にもかかわらず、授業に於いてはひたすら、先に侵攻したのは、韓国側だという偽りの記述が繰り返され、極めて不自然な歴史の流れとして描かれている。無論、その背景には、米ソの冷戦があった事はいうまでもないが、その様な事は、学校に於いてはどうでも良いのである。
これらの事を検証してみると、当局が連呼している統一のスローガンが真実のものではないという事が安易に読み取れよう。何故ならば、仮に朝鮮半島が統一しようものなら、在日朝鮮人より略取した金品による贅を極めた生活、金一族と朝鮮総連の最高幹部らの強権や生活は全て失われる事になるからである。
やがて、血で血を洗ったこの戦争は終わりを告げ、北朝鮮では権力を手にし始めた金日成による粛清の嵐が吹き荒れた。反動分子と思われる人々は、その地位を終われ、そして処刑、流刑された。これは、旧ソ連のスターリンや中国の毛沢東などと同様、共産圏の国々がかつて行った手法であり、やがて北朝鮮は、中国、旧ソ連を遥かに凌ぐ、独裁国家へと化していった。
在日朝鮮人の多くは、北朝鮮や朝鮮総連が掲げる統一のスローガンを鵜呑みにし、それがやがて拉致を始めとする世にも恐ろしい犯罪へと駆り立てるのであった。
正しい歴史教育とは何か。現在、中国などに於いても反日が声高に叫ばれる中、改めてその重要性が認識され始めている。
朝鮮半島の植民地問題一つ見ても、様々な角度から検証が出来るのである。日本人と共存していく必要がある中で、反日教育は明らかに誤っている。かつて虐げられた先人がいるにせよ、歴史の流れというものは、それ程単純な事ではない。それは、どの民族であろうと、人間が人間たる所以である。常に過ちを犯すのが、人間なのである。自分たちが完全に正しいという視点しか植え付けられないのは、誤った教育というより他ない。
現在騒がれている中国を始め、共産圏の国ではしばしば愛国教育というものが行われる。しかし、真の愛国とは何なのか。他を責め己が全て正しいと思う事なのか。他を許さず己は許す事なのか。
金日成一味が、戦後血の粛清を行って絶対的な権力者になった事を教科書にありのままに綴り、それを正しく伝える事のできる教師が存在すれば、恐らく偶像崇拝といった事はまず縮小化するだろうし、又、そうであれば、民族教育というものは成り立たないであろう。
前述した通り、体制支持と愛国心との区別がなされる必要がある事は当然であり、在日社会もここで一度、歴史への客観的なアプローチの必要性があるのではないだろうか。
(「木苺」122号 05・5)
本日以下の意見書を文部科学省あて送付します。読んでくださる皆さんもお考えを文部科学省に届けてみてください。8月中に政府の方針を決定し発表するそうですからまだ間に合います。
文部科学大臣川端達夫様
朝鮮高級学校への授業料実質無償化措置適用に反対する意見書
鈴木啓介(元「<多文化共生をめざす>在日韓国・朝鮮人生徒の教育を考える会」世話人)
①朝鮮総連の経営する各級朝鮮学校は「民主主義的民族教育」を標榜しているが、実際には朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の国民教育に準じた教育がおこなわれている。
同国が朝鮮労働党の一党支配下にあり、首領たる金日成・金正日父子への絶対的忠誠を強要する国民教育がおこなわれていることは周知のことであろう。
日本の朝鮮学校においても事態は基本的に変わらず、特に総連の活動家養成の任務を帯びている高級学校においては歴史教育や北朝鮮への修学旅行などを通じて金父子二代にわたる独裁を正当化し、賛美する思想教育がおこなわれている。
②高級学校に入学する学生は朝鮮総連傘下の朝鮮青年同盟に入るものとされ、朝青の専従活動家が指導する朝青朝高委員会が学生たちの活動を組織している。日本の学校の生徒会にあたるものはなく、選挙による代表の選出もない。学生たちの活動も朝鮮労働党ー朝鮮青年同盟の一党支配のもとにあるというほかはない。
③私たちの教育活動は民主主義と人権を基調とし、平和的で文化的な社会を創造する個性豊かな人間の育成を目的とする。朝鮮学校のように一党一派の支配のもとにおかれてはならない。
在日コリアンの大多数は私たちと価値観を共有し、そもそも朝鮮総連の経営する学校に子どもを通わせていない。さまざまな事情から通わせていた人たちも日本人拉致の発覚などを契機にして学校の妨害をはねのけて転校などに踏み切る人が多い。在日コリアン大衆に見捨てられて朝鮮学校はその存続が危ぶまれている。これは民主主義の社会では当然のことと言える。
④日本政府が朝鮮高級学校に無償化措置を適用するとすれば日本国が国家として学校にお墨付きを与え、人々の批判の口封じをすることにもつながる。独裁をたたえる教育の延命に手を貸し、子どもたちの運命をこれ以上狂わせてはならない。
○文部科学省への意見・窓口https://www.inquiry.mext.go.jp/inquiry38/
○川越だより「朝鮮高校で6・25はどう教えられているか。 『現代朝鮮歴史 高級1』」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/8d2b65ddcf512fa3a395648e4afaf626
文部科学大臣川端達夫様
朝鮮高級学校への授業料実質無償化措置適用に反対する意見書
鈴木啓介(元「<多文化共生をめざす>在日韓国・朝鮮人生徒の教育を考える会」世話人)
①朝鮮総連の経営する各級朝鮮学校は「民主主義的民族教育」を標榜しているが、実際には朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の国民教育に準じた教育がおこなわれている。
同国が朝鮮労働党の一党支配下にあり、首領たる金日成・金正日父子への絶対的忠誠を強要する国民教育がおこなわれていることは周知のことであろう。
日本の朝鮮学校においても事態は基本的に変わらず、特に総連の活動家養成の任務を帯びている高級学校においては歴史教育や北朝鮮への修学旅行などを通じて金父子二代にわたる独裁を正当化し、賛美する思想教育がおこなわれている。
②高級学校に入学する学生は朝鮮総連傘下の朝鮮青年同盟に入るものとされ、朝青の専従活動家が指導する朝青朝高委員会が学生たちの活動を組織している。日本の学校の生徒会にあたるものはなく、選挙による代表の選出もない。学生たちの活動も朝鮮労働党ー朝鮮青年同盟の一党支配のもとにあるというほかはない。
③私たちの教育活動は民主主義と人権を基調とし、平和的で文化的な社会を創造する個性豊かな人間の育成を目的とする。朝鮮学校のように一党一派の支配のもとにおかれてはならない。
在日コリアンの大多数は私たちと価値観を共有し、そもそも朝鮮総連の経営する学校に子どもを通わせていない。さまざまな事情から通わせていた人たちも日本人拉致の発覚などを契機にして学校の妨害をはねのけて転校などに踏み切る人が多い。在日コリアン大衆に見捨てられて朝鮮学校はその存続が危ぶまれている。これは民主主義の社会では当然のことと言える。
④日本政府が朝鮮高級学校に無償化措置を適用するとすれば日本国が国家として学校にお墨付きを与え、人々の批判の口封じをすることにもつながる。独裁をたたえる教育の延命に手を貸し、子どもたちの運命をこれ以上狂わせてはならない。
○文部科学省への意見・窓口https://www.inquiry.mext.go.jp/inquiry38/
○川越だより「朝鮮高校で6・25はどう教えられているか。 『現代朝鮮歴史 高級1』」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/8d2b65ddcf512fa3a395648e4afaf626
日航ジャンボ機墜落事故から25年がたったという。25年前のこの日、ぼくは子どもたちと東松山の市民プールで遊んだ。自転車で帰る途中で飛行機を見た。家に帰って事故のニュースを知ってあの飛行機だったのかもしれないと話し合った。
助かった少女のこと、坂本九のこと、毎年決まって家族の話題になる。今朝も同じだ。
亡くなった多くの方々の冥福を祈ります。
昨日は「よさこい祭り」のライブ中継を見ながら古本の第3次処分のため暑い中を動き回った。久しぶりに心は高知に帰って、少し昂ぶったかな。
夜、高知県前教育長の大崎博澄さんの主宰する「たんぽぽ教育研究所」のHPを覗いてみた。4月の開所以来、心ある人のネットワークは着実に広がっているようだ。大崎さんの人柄を慕う人々が集い、元気になって、静かな革命の担い手になっていくのだろう。
龍馬ブームだが龍馬の生き方や精神を学び、身につけて生きていくことこそが大事だ。そういう学びの場が今、高知の中心部に生まれた。
TVで紹介された大崎さんの活動の様子をご覧になってください。
○大崎博澄さんhttp://www.tanpopo-k.net/top.html
8月5日付の「コラム・たんぽぽ野原 No.3 悲しみを幸せに変える魔法の力」という文章の中で、ぼくたちが開所祝いに贈った丸木スマさんの絵「母猫」が研究所の壁に飾られていることを知った。
「数匹の子猫を抱いた青い親猫の図は、見ていて心の安らぐ不思議な絵で、研究所のお守りです。」とコメントされている。「よかったなあ」。スマさんも喜んでくれるだろう。「お守り」とまで言ってくれて恥ずかしがるかな。
○「母猫」http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20080815/1218759018
○丸木スマhttp://www.aya.or.jp/~marukimsn/top/suma.htm
大崎さんのような方が高知に居られるのかと思うと私たちまで心強く、嬉しい気持ちになる。暑さの日々、無理をしないように気をつけていただきたいものだ。
助かった少女のこと、坂本九のこと、毎年決まって家族の話題になる。今朝も同じだ。
亡くなった多くの方々の冥福を祈ります。
昨日は「よさこい祭り」のライブ中継を見ながら古本の第3次処分のため暑い中を動き回った。久しぶりに心は高知に帰って、少し昂ぶったかな。
夜、高知県前教育長の大崎博澄さんの主宰する「たんぽぽ教育研究所」のHPを覗いてみた。4月の開所以来、心ある人のネットワークは着実に広がっているようだ。大崎さんの人柄を慕う人々が集い、元気になって、静かな革命の担い手になっていくのだろう。
龍馬ブームだが龍馬の生き方や精神を学び、身につけて生きていくことこそが大事だ。そういう学びの場が今、高知の中心部に生まれた。
TVで紹介された大崎さんの活動の様子をご覧になってください。
○大崎博澄さんhttp://www.tanpopo-k.net/top.html
8月5日付の「コラム・たんぽぽ野原 No.3 悲しみを幸せに変える魔法の力」という文章の中で、ぼくたちが開所祝いに贈った丸木スマさんの絵「母猫」が研究所の壁に飾られていることを知った。
「数匹の子猫を抱いた青い親猫の図は、見ていて心の安らぐ不思議な絵で、研究所のお守りです。」とコメントされている。「よかったなあ」。スマさんも喜んでくれるだろう。「お守り」とまで言ってくれて恥ずかしがるかな。
○「母猫」http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20080815/1218759018
○丸木スマhttp://www.aya.or.jp/~marukimsn/top/suma.htm
大崎さんのような方が高知に居られるのかと思うと私たちまで心強く、嬉しい気持ちになる。暑さの日々、無理をしないように気をつけていただきたいものだ。