川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

命日

2011-10-31 10:25:33 | 父・家族・自分

第13回きいちご移動教室は楽しい思い出をいっぱい残して終了。昨日、19時半には帰宅することができました。明日あたりにはいつものように旅のメモを書きたいと思います。

 今日は弟・祥介(しょうすけ)の命日です。1955年(昭和30年)8歳で早世しました。一人ひとりの人間がかけがえのない存在であることを絶望的な喪失感をもって教えてくれました。56年がたっても僕にとっては忘れることのできない大切な日です。

 明日は父の命日です。2007年100歳での大往生です。教師ではあってもこどもにあれこれと教えたり、諭したりすることはありません。それでも知らず知らずのうちに父の生き方の影響を受けてきたように感じます。

 多くの人の世話になりながら70年の人生を何とか歩んできたのですが育ててくれたのは何と言っても父や母です。ありがたいことです。

 

 父の晩年の弟の50回忌のころに書いた文章があります。今朝再読してみました。 

 

 川越だより「父の悲しみ」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/bf7c0d90b14a4c259700aecad89f5894


本当にこれでいいのか 日本人の一人として

2011-10-29 04:50:55 | 友人たち

先日(27日)、Aさん、Bさんと昼食会をしました。古くから在日コリアン問題に取り組んできた大先輩と友人です。昼食を済ませたあとは意見の披露と交流です。正午から夕方まで4時間を超えました。

テーマは自ずと北朝鮮に閉じ込められたままになっている日本人をどうやって帰国させるか。拉致被害者、日本人妻、残留日本人‥。

 お二人の話は評論ではありません。激変する世界情勢を踏まえて自分がどう動くかという極めて実践的な話です。

 80台になられたAさんは矍鑠(かくしゃく)として若い時とほとんど変わらない話しぶりです。幾たびかの病気を乗り越えて今は闘病中の奥さんの世話もしておられます。「世話になった妻への恩返しになるのかなあ」。

 40年も昔からその謦咳にふれ、影響を受けてきた方です。改めて深い敬意を感じました。

 「闘い」の生涯です。この方の偉いのはどんな闘いでも、例えばご自身の病気との闘いにおいても、節目節目にきちんと「総括」し、方針の転換をためらわないところです。うまくいかなかったら原因を明らかにして新たな方針を打ち立てるのです。

 昔、「認識には過程がある」という論文を書かれたことがあります。なるほどと思ったものですが僕などにはなかなかできないことです。今日伺ったところによればこの言葉は孫平化(元中日友好協会長)との議論の中で彼の口から出てきた言葉だということです。

 それにしてもと思います。日本国民が異国に幽閉されて帰国することができず、助けを求めているに違いないのです。その声は遠い昔から聞こえているのにこの国の政府のどこにも「救出作戦本部」がないままなのです。国民はそしらぬ顔です。それで「日本」「NIPPON」などとよく言えるものです。

 そんな国を作ってしまった責任が僕にもあります。私たちにあります。

 僕は「北」から無事帰ってこられたら、それらの人々の故郷訪問・お墓参りの案内ぐらいは出来るかな。たまにはバス旅行の計画も立てられるだろう。などと考えてきました。出来ることは限られているけれどこれで本当にいいのだろうかと思い始めています。

 今日はこれからきいちご移動教室に出発です。

 

 

 


大阪府教育委員の見解

2011-10-28 05:25:26 | こどもたち 学校 教育

大阪府の橋下(はしもと)知事が主導する「維新の会」が府議会に提出した「大阪府教育基本条例」の内容は「バカらしい」「凄まじい」としか言いようがない。こんなものが府議会の絶対多数派から提出され、可決されかねないという事実に黙っていてはならないと思う。

 みなさんも暇を作って目を通してみてください。

    「大阪府教育基本条例案」●http://osakanet.web.fc2.com/kyoikujorei.html

 大阪では11月の末に府知事選挙と大阪市長選挙が行われる。「大阪都構想」とこの「教育基本条例案」が争点だ。

東京では「条例」を制定することなく教育委員会の「通達」を乱発して大阪の「案」と似たような教育行政が既に行われている。教育委員会が石原知事の走狗に成り果てており、公開の議論さえ行われていない。

 それに比べれば橋下知事は議会・選挙と「堂々と」問題提起して議論を巻き起こしている。こちらの方が民主主義のルールに則っていると言えなくはない。

 25日大阪府の教育委員のうち教育長を除く5人の委員が「白紙撤回」を求める「見解」を発表したという。可決されるなら「総辞職」するという決意も表明した。

 学校や教育行政が社会の批判にさらされなければならないのは当然である。しかし、知事が市民の選挙で選ばれたからといって学校がその支配下に置かれてはたまったものではない。

 教育委員の「見解」表明をきっかけに大阪府民・東京都民をはじめ多くの市民が議論に参加するなら橋下知事が引き起こしたこの騒動も多少の意味を持つことになるだろう。日本の民主主義の成熟度がいずれにしても明らかになる。

 

 

教育基本条例案に対する教育委員の見解

 今回の教育基本条例案が提起されて以来、私たち教育委員は困惑と苦悩の中で、大阪の教育の発展の道筋を求め、さまざまな議論を行ってきた。教育制度の構築には、本来もっと多くの時間をかけ、各界の広範な意見を集め、しかるべき手続きを経るべきと考える。しかし、教育基本条例案が選挙の争点となるという切迫した状況下、私たちは教育委員の責任として、一つの見解を出さざるを得ない。私たちの見解は次の通りである。
 「教育基本条例案は白紙撤回されるべきであり、修正の有無は関係なく、これが可決されれば、私たち教育委員は総辞職する。」
 以下、その理由を記する。


 1.私たちは、憲法・教育基本法を柱とする現行教育法令を尊重する。
 私たちは、現行法令のもとで知事ともよく話し合い、学力向上や教育機器の整備、学校給食制度づくり、府立高校の特色づくりなど様々な成果を上げてきた。もちろん、まだ残された課題も多い。例えば、学校運営への住民参加などもある。しかし、それらについては国のガイドラインがあり、これらを無視し勝手な制度設計をすることは、現行法令の考え方に反する危険性がある。その他、条例案で提起された問題についても、現行法令またはそこに示された理念に即して、教育委員会が更なる改善を進めることが可能であり、今後も力を尽くして解決に当たるべきと考える。

 2.私たちは、教育という全ての子どもたちにかかわる根本的な重要課題を、短期間の審議や選挙で決めるべきではないと考える。
 私たちは府立高校の特色化を進め、それぞれの子どもたちが自分に適した力を伸ばし、たくましく生きる方策を学ぶように図ってきた。しかし、今回の条例案は、大阪府の教育の責任者である私たちの一切知らないところで準備され、その理念の根底には「競争主義・管理主義」が貫かれている。競争・管理を一面的に追及することによって教育の質が向上しないことは英米の教育改革等で既に立証されている。したがって、この条例案の現場に与えた衝撃はすさまじく、校長や教師に激しい動揺が起きているのも当然である。
 また、選挙は多様な政策によって民意が問われるものであり、比較1位を争う首長選挙で、政策の一部である条例案の評価を決定するのは無茶としか言いようがない。

 3.私たちは、今回の条例が生み出す教育委員会の無力化、教育と政治の一体化を認めるわけにはいかない。
 今回の条例案の議論では、個々の条文に対するものが多いが、もっとも問題なのはこれら条文をつなぐ骨組みにある。修正の有無にかかわらず総辞職するという理由は、まさにそこにあるのであり、以下、条例案に沿ってその骨組みを呈示する。
 条例案においては、「府立学校が実現すべき目標は知事が設定する」(第6条第2項)とされ、その目標を前提として校長が公募される(第14条第1項)。校長は教師でなくてもよく、教育活動に支障がなければ民間人で別の職業を持っていていい。任用期間も短く、学校関係者でない「外部有識者」の考えで選ばれる。教職員は、校長の指示に忠実に従い競い合うように働かなければならない。なぜなら、分限対象者になるかもしれない相対評価があるからである(第19条第1項)。こうして、全ての府立学校を知事の意のままに動かすことも出来るようになる。
 さらに、このシステムを強固にする仕組みを読み取ることもできる。例えば、知事は学校環境を整える一般的権限があり(第6条第1項)、自分の考えで自由に決めることも可能である。したがって、意にそぐわない校長の学校に予算をつけない場合も生じると考えねばならない。
 また、学校協議会に関しては、保護者や教育関係者の意見を反映するのはいいが、その委員は校長が決める(第11条第1項)ことになっており、校長の支持者となりやすく、特定の住民の代表になりやすい。
 加えて、校長の権限強化は教職員人事で完結する。校長の意に沿えない人事を教育委員会がした場合には議会への報告が義務づけられている(第18条第3項)。権力の源泉は、予算と人事権と言われるが、この条例案により、教育委員会はこれらを失い、まさに知事の補助機関となる。
 それは現行法制下の教育委員会が壊滅することであり、教育は政治そのものの一部となりかねない。そして条例制定後は、選挙ごとに教育方針が変わる。学校関係者は知事の意向や選挙の動向を絶えず気にしなければならず、政治の流れに敏感となり、校長に近い外部団体の影響が強まったりする状況が生じうると懸念される。

 上記のとおり、本条例案はその内容のみならず、枠組みそのものが政治の介入を厳格に戒めようとする教育基本法や諸法規の精神に反するものである。そして、この条例案は、教育の条例と言うより日本の統治原則の変更を迫る意向を含むといえる。したがって私たちは、本条例を決して是とすることができない。

 強く大阪府民のご賢察を願う次第である。

  平成23年10月25日


大阪府教育委員会
教育委員長 生野 照子
教育委員 小河 勝
教育委員 川村 群太郎
教育委員 陰山 英男
教育委員 中尾 直史

 

 

奥武蔵の秋

2011-10-27 05:06:04 | 川越・近郊

10月26日(水)快晴

 きいちご移動教室の下見で寄居の「川の博物館」などを訪ねた。よく晴れた一日で都幾川の大附みかん園からは東京方面がよく見える。週末の本番がこんなふうだといいなあ。

 中国や朝鮮から来て東京に住むことになった人々が遠い昔、関東平野を拓いた人々のことや荒川の恵みに気づいたりしてくれるといいかな。ふだん、僕が自転車で駆け回っている入間・比企(ひき)地方の秋の風情を堪能してもらえたら嬉しい。

 決まった日程概略。

 第13回きいちご移動教室  「奥武蔵‥ 里の秋・ミカン狩り」

  10月29日(土)

 6時 川越発  8時 日暮里発

 10時 高麗神社・聖天院

 12時 埼玉県平和資料館・埼玉こども動物自然公園(昼食)

    カピバラ

 15時30分 国立女性教育会舘着

 16時 館内見学

 18時 夕食

 19時~21時 交流会

  10月30日(日)

 7時半 朝食

 9時 国立女性教育会館出発

 9時30分~11時  大附園(ミカン狩り)●http://mishmash1.blog130.fc2.com/blog-entry-264.html

   

 12時~15時半 川の博物館(昼食)●http://www.river-museum.jp/index.html

 16時 関越道花園IC~日暮里(18時ころ)

 

 


池袋商業高校旧同僚  銀座に集う

2011-10-26 08:58:36 | 友人たち

10月25日(火)晴れ

 赤羽駅から歩いて沢谷さんを訪ねる。池商在職18年間日々世話になった方である。教務助手ということで職員室の雑務を一切担当されていた。電話応対、印刷、昼食注文、諸連絡、お客応対、などなど。

 僕がお会いするのは8年ぶり。昭和2(1927)年生まれで84になられたという。

 今日は沢谷さんへの謝恩会である。これで3度目になるかな。

 昔から難病に苦しめられてきたが、雪国に育った人である、相変わらず気は丈夫で一安心。地下鉄を乗り継いで11時半前に「銀座麒麟」到着。銀座は?十年ぶりだというので4丁目の角でしばらく人の行き来を観察した。

 集った旧同僚。(敬称略)

  朝倉(日本語)荒木(日本語)大木(簿記)串岡(数学)斎藤(英語)酒井(写真屋さん)啓介(社会)武川(英語)豊川(社会)中村(英語)西川(日本語)野辺(社会)吉田(社会)依田(美術)

 池商OBの松島徹料理長の創作料理を堪能しながら交流のときは3時間。40年近い時の流れも昔の記憶を押し流すことはできない。沢谷さんは懐かしいのか、たまには合いの手を入れて聞いておられた。

 久しぶりに会って初めて聞く話も少なくなかった。若いときには仕事に夢中でひとりひとりのヒストリーに疎かったのか。

 この日集ったのは60年代末から70年代に池商に世話になった当時の若手が中心。いわば池商の疾風怒涛の時代だ。全都に先駆けて主任制度を廃止し、職員が対等に教育論をたたかわせる職場作りをした。臨時職員や沢谷さんのような私費職員の権利確立にも力をいれた。

 この時期の私たちの共通体験がその後の教員生活の滋養となったことが多くの人から語られたように思う。ひとりひとりがいくらかは自分を出して頑張ることが出来たのである。

 「池商は楽しかった」。沢谷さんからお話があって3時過ぎに閉会。

 松島くんにも出てきてもらって店の前で記念撮影。写真は酒井さんからいずれ届くことだろう。

 野辺さんと一緒に沢谷さんを王子駅のバス停まで送った。「また会う日までお互いに元気でいようね。」

 

 


昨日は有明、今日は銀座へ。

2011-10-25 06:02:20 | 父・家族・自分

10月24日(月)曇のち晴

 午後、癌研有明病院で血液検査X線撮影のあと西尾医師の診断。抗がん剤イレッサ服用2箇月をすぎて肝機能に障害が現れているので「要注意」とのこと。念のため2週間後に通院・検査することになった。お尻に湿疹ができたり、鼻腔がガサガサしたりも薬の副作用だという。軽症なので生活はこれまでどおり。

 今日(25日)は池袋商業高校在職中(18年間)世話になった沢谷さんを囲む昼食会がある。「銀座麒麟」、OBの松島徹くんの料理。当時の職員15人が集まる。卒業アルバムなどを作ってくれた写真屋さんも来てくれると連絡があった。ぼくは主賓を会場に案内する役。これから赤羽へ。皆さん、どんなふうに歳を取られたかな。

  銀座麒麟●http://www.ginzatact.co.jp/kirin/menu/lunch.html

  川越だより 松島徹くん●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/53334983db7d0955cbba88d6e36e492a

 


コリアンで賑わう高麗神社

2011-10-24 04:55:00 | 川越・近郊

10月23日(日)曇りのち晴

 29日からのきいちご移動教室の下見で高麗神社に行ってみました。いつもの通り、小畔川の土手の上の道を自転車でたどったのですが2時間ぐらいでつきました。

 境内は韓国民団埼玉の野遊祭でテントがいくつも張られ、チジミ・クッパ・焼肉などの店が並んでいます。神楽殿ではサムルノリの競演中。人々は庭にシートを敷いて地域ごとに交流しているようです。韓服試着コーナーではチマチョゴリ姿のこどもも数人。

 1970年代、僕がここに来始めたころには考えられなかった風景です。みえない存在だった在日コリアンが高麗神社をわが「マダン」とするようになったのです。これはこれでいいなあ。

 僕は西部支部(川越)のテントでクッパを買って昼食としました。

 高麗郡建郡1300年 高麗神社

    出典●http://www.komajinja.or.jp/

 拝殿付近や待合室は七五さんの宮参りの家族でいっぱいです。韓流ドラマの影響も大きいのか、高麗神社の近年の「隆盛」ぶりは驚くばかりです。川越や大宮の氷川神社並みになったかも。和服姿のこどもと記念撮影中の家族があちこち。

 2016年が高麗郡創建から1300年ということで神社と地元日高市が大々的なキャンペーンを実施中です。この際、市名も「日高」などという意味の無い名前をやめて「高麗市」と改めたらどうだろう。元々が高麗郡高麗川村・高麗村なのだ。

参考資料・高麗神社の歴史 ●http://www.komajinja.or.jp/rekisi.html


呉文子(お・むんじゃ)さんと『楽園の夢破れて』

2011-10-23 06:45:24 | 韓国・北朝鮮

10月22日(土)雨

 北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会のHPの三浦小太郎さんの文章関貴星氏の息子と西部邁氏」を読みました。1962年に『楽園の夢やぶれて』を出版して北朝鮮の実態を初めて告発した関貴星さんに勇さんという息子さんがおられることを初めて知りました。その勇さんに西部さんが助けられたという話ですが、その縁でか勇さんのお姉さんの呉文子さんが西部さんの番組に出ていることを知りました。

 

五十年前、こんな偉大な「在日」がいた

  

50年前、こういう偉大な「在日」がいた
□北朝鮮帰還運動の酷い現実を1960年に告発
□マスコミが注目しなかった書物
□北による言論封殺のための誹謗・中傷に耐えた在日家族
□父の正義感に謝罪する娘
□祖国を担う必要、困難を感じない日本人が考えるべき実話

画像:呉文子http://www.mxtv.co.jp/nishibe/archive.php?show_date=20110924

 

 呉さんは1959年12月14日、北朝鮮帰国第一船が新潟港を出港するにあたって祝賀の歌を歌った方です。父の思いを受けとめられるまでに10年の月日がかかったといいます。僕らが2003年に「拉致被害者・家族の声を受けとめる」集いを開いたとき、メッセージを寄せてくれました。お会いできたのは09年12月でした。

 このようにメディアに出て証言するのは初めてかもしれません。みなさんが耳を傾けてくれることを期待して紹介します。

勇さん夫妻の経営するお店が山梨県にあるということです。

  ギャラリー・ハン●http://galleryhan.moo.jp/gyararihan/Welcome.html

資料・「関貴星氏の息子と西部邁氏」http://hrnk.trycomp.net/news.php?eid=00680

 

パンソリに想い秘めるとき ある在日家族のあゆみ

 


友在り月

2011-10-22 09:28:51 | 友人たち

10月22日(土)

 今日は朝から雨です。シラハギの花がアスファルトの道に溢(こぼ)れています。今日は自転車が無理なので丸木美術館の講演会はお休みにして傘をさしてスカラ座に寅さんを見に行くことにするかな。

 (肥田瞬太朗さんの講演会の模様はIWJの中継があるようです。)

 姉の長期滞在、功くんの来訪と土佐弁が賑わった10月もいよいよ来週でおしまいです。珍しく予定がぎっしり。

 月 癌研有明病院  火 池袋商業高校「沢谷さんを囲む会」 木 3S昼食会 土・日 第13回きいちご移動教室

昔の同僚、在日コリアン問題一筋に生きてきた老友、そして中国や朝鮮から帰ってきた人々‥僕の人生を豊かにしてくれたたくさんの友人たち。 来週はまさに「友在り月」のクライマックスです。

 

 


丸木美術館と天の園 功くん40年ぶりの再訪

2011-10-21 10:23:43 | 友人たち

10月20日(木)晴れ

 昼過ぎ、高知から中高時代からの親友・功くんが訪ねてくれました。前に来てくれたのは川越駅に近い仙波町だったといいますから40年以上が経っています。病気のはずの僕を見舞ってくれたのですが本人がピンピンしているのでその話はどこかに行ってしまいました。

 妻が「原爆の図・丸木美術館」に連れて行ってくれました。旧年末のフジTVのニュース番組で僕がここを案内している様子を見ていたので功くんからオファーがあったのです。

 ●ニュースJAPAN/がん医療の現場vol.10 『ダブルチェックを疑え 健診の実態』

http://www.youtube.com/watch?v=BG9uiim3u7o&feature=youtube_gdata_player

原爆の図の前に立ってゆっくりと鑑賞されていました。「こんな機会がないと知らないままで終わるところだった」「今度は妻を連れてきたい」こんな言葉をきき、僕もとてもうれしい。

 丸木夫妻の原爆の図第一作からはもう60年以上が経っていますが絵から聞こえてくるメッセージは時代を感じさせません。人として精一杯生きたいというひとりひとりの声が聞こえてきそうなのです。

 原爆の図 竹やぶ

    丸木美術館・原爆の図「竹やぶ」●http://www.aya.or.jp/~marukimsn/gen/gen7.htm

 

 美術館の紹介で近くにあるカフェ「天の園」でゆっくりしました。

都幾川を眼下にみる素敵なテラスでコーヒーを飲みながら店主と交流するひとときは思ってもいなかった至福の時となりました。

P1070321

出典・天の園●thttp://morikomoto.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-e100.html

 店主の室田(女性)さんは白血病のため余命3箇月を宣告された体験を持つ方でした。

 ならばと有り金をはたいてここにまさに「天の園」を創り、自然農法の野菜を自作して納得のいく人生の創造に挑戦したのです。抗がん剤治療を拒否して自分の生き方に賭けたのでしょう。沖縄生まれのお母さんは都幾川(竜=琉)に映る太陽(球)を指しながら「あなたは琉球に守られている。絶対に死なない」と励ましてくれたそうです。お母さんの予言通り、癌は消滅していったといいます。

 白血病のお医者さんである功先生は一言も発せずこの話に耳を傾けているようでした。

店主は「天の園」のこれからの夢計画を語ったあと室内を案内してくれました。

 壁に民俗学者・宮本常一のポスターが貼ってあります。土佐からきた功くんと一緒なので「土佐源氏」の話をすると室田さんがえらく喜んで握手を求められました。

    

 (貼ってあったポスターとは違いますが‥)

 宮本は室田さんにとって「愛人」なのだといいます。本はことごとく読み、もちろん生地・周防大島も訪ねたといいます。宮本常一を語るほど僕は勉強しているわけではありませんがともに話題にできる人と出会って室田さんはよっぽど嬉しかったようです。

 土佐源氏の舞台は僕らの共通の友人・中川くん(僕の元主治医)の故郷・梼原です。高3の夏に一緒に世話になったところです。土佐源氏の話は「源氏物語」を読む功くんの耳には入っていなかったようで、早速メモをされていました。

 夜は仕事を終えた娘も加わって川越市駅前の「メープル」という行きつけの店で10時過ぎまで交流しました。元気に生きているとこんな楽しいひとときもあります。今度は幸子夫人ときっと一緒に来てくれるに違いありません。

 


今年も12月14日は「あの日を忘れない新潟港追悼集会」

2011-10-20 09:04:51 | 韓国・北朝鮮

移民政策研究所が主催する「あの日を忘れない!新潟港追悼集会」が今年も行われるそうです。

   12月14日(水)午後 (詳細未定)    新潟港中央埠頭

 1959年12月14日に始まった「北朝鮮帰国事業」で北に送られたまま犠牲になった人々を追悼し、日本人妻などの一日も早い帰国を実現するのが目的です。

 友人たちがこの日のことを忘れないでできれば新潟に駆けつけてくれますように早めにお知らせします。

 半世紀以上の年月が経ってしまったので社会の底辺に押し込まれた日本人妻のほとんどは亡くなられたと考えられます。それでも救いを待つひとびとはおられます。今すぐに手を差し伸べなければ後の祭りになってしまいます。

 心ある人々の新潟への結集を呼びかけます。詳しいことが決まり次第「川越だより」でもお知らせします。

2009年12月新潟港追悼集会

    ●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/88fdf36f32241222725e5da63b127023

2010年12月新潟港追悼集会

  追慕・追悼   藤田勝久



 12月14日、午後1時半より、新潟西港中央埠頭にて追悼式が

行われた。
 
  51年前の1959年12月14日、午後2時9分に清津港に向け

船は出港して行った。

 その時刻、2時すぎに51年後の埠頭で「アリラン」を絶唱する女性は

オペラ歌手、田月仙さんである。

 彼女の声は、港の緑青色の冷たい波間を越えて港外遥か清津に

届くかのようであった。

 Iさんと話をする。

 「あの日、この港から船に乗りましたよ。 8歳でした。 何も分らず

はしゃいでいましたよ。 一家、10人で行ったのですよ。」

 坂中英徳氏が話をしている。

 「亡くなる前、日本婦人は、頭を日本に向けて埋葬するよう遺言した。」と。

 Iさんは言う。

 「うちのかあさんも、同じこと言いましたよ。 だけど、頭を日本に向けた

 ら見にくいと思って、こういう風に斜めにして、日本が見えるように埋葬しまし

 た。」 

 彼は、朝見かけた人が夕方には死んでいる1997年の大飢餓の時代に

 妻子を連れて脱北する。 2年後、ロシアを経て新潟空港に辿り着いた。

 港に来て埠頭に立ち寄ったが、その日、新潟は猛吹雪で彼の子供は必死で

彼の服を掴んで歩いていたという。

 軍役10年を勤めあげ頑健には見えるが、もう59歳、今後の平安を祈らず

 には いられない。

 Iさんは言う。

 「2,3年のうちに、あの国は解放されますよ。 間違いないですよ。」と。


(蛇足)脱北してきたAさんは「日本」は遺言でも禁句だから実際は「東海(トンへ)」と言ったとのことでした。「東海」は日本海を指す朝鮮語です。(けいすけ)

出典●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/834add85a4b1aab1cc470ed5516ef873

 

 


西武安比奈線 復活計画は幻?

2011-10-19 06:40:21 | 川越・近郊

 10月の初め頃、川越南高校付近をさまよっているときに西武安比奈線の線路に出会いました。小さな橋梁がこんな感じです。

 通りがかった同年輩の女性と男性が電車が通っていた時代の話を聞かせてくれ、線路際の工場主が最近の状況を説明してくれました。

 安比奈線は西武新宿線南大塚駅から分岐し、入間川の河川敷(安比奈地区)から砂利を運んでいたようです。砂利採取が禁止されてから休線(廃線ではない)となっており、今でも西武が時おり草刈などをやっているそうです。

 しばらく前、西武が安比奈に広大な敷地を確保して300両も入る大車両基地を建設し、安比奈線を復活させる計画をたて住民に対する説明会も行われたがバブル崩壊で頓挫したままだと言います。

 復活計画では南大塚からこの辺まではトンネルとし、地上の線路部分は公園として川越市に寄付されることになっていたとか。

 西武を退職して10年にはなるという方はオレらの生きている時代の復活は望み薄と、残念そうだった。南高校の近くに高架の駅も予定され、工事のための道路敷地も買収済みだとか。地域の人たちにも復活を期待する気持ちがあったようです。

 南大塚の駅付近まで線路に近い道を通って探索してみました。

 丁寧に休線あとをたどった方のブログをご覧ください。復活は幻に終わるのかな?

  ●http://www.geocities.jp/wxfff590/annbinasenn.html


 姉、BAR招福堂のひととき

2011-10-18 18:32:05 | 父・家族・自分

10月17日(月)晴れ

 家族3人が姉と共に横浜へ。中華街で昼食の後、コスモワールドの大観覧車を楽しむ。観覧車なんて何十年ぶりのことか。

 横浜駅西口のホテルで昼寝をして英気を養ったあと夜はお目当ての「BAR・招福堂」へ繰り出す。

ライブ感抜群のカウンター席は全10席、会話もはずみます。

  BAR 招福堂http://r.gnavi.co.jp/a181700/

 ここは息子夫婦がやっているBarで開店して7年あまりになります。姉はやっと宿願が果たせました。

 酒類が飲めない姉はノンアルコール系のカクテルを作ってもらって大喜び。次々と出てくる料理はお連れ合いの弘子さんの手になるもの。箸が進みます。

 こうやって家族が「招福堂」にそろうのは本当に珍しいことです。テーブル席から聞こえてくる異国語(土佐弁)まじりの会話に静かなひとときを過ごしていたお客さんもいささか驚いたことでしょう。

 ホテルに帰り着いたのは10時ごろ。よく頑張ったものです。

 

10月18日(火)晴れ

 昼過ぎ姉を羽田空港に。この二週間、不自由な足でよくあちこちしたものです。片時も離れることなく付き添った妻のおかげです。娘も大事なときに応援してくれました。ただ居ただけの僕としては感謝あるのみです。

 帰りにお見舞いにと駒込病院に寄ってみたらHさんは既に退院とのこと。手術後の体力回復が早かったのかな。元気な顔が見られなくて残念だが悪いことではない。もときた道を引き返す。

 

 


「東京新聞」論説主幹の記事を読む

2011-10-17 07:09:00 | 政治・社会

14日の「東京新聞」に載っていた清水論説主幹の記事を紹介します。

 福島原発事故に関わる報道を通してTVや新聞が東電・政府を中心とする巨大利権集団の一角であることを思い知らされました。

 「安全神話」をまき散らすだけの報道を信じた多くの市民がヒロシマの原爆の何十倍という死の灰を浴び続けたのです。これがどのような結果につながるのか?

 小沢一郎さんの抹殺作戦に付いても同様です。検察・裁判所と一躰になりきって小沢一郎民主党元代表を犯罪者に仕立て上げ、「政権交代」を骨抜きにしました。これがどういう結果につながるのか?

 僕は学生の頃に新聞を制作する側にいたせいもあるのか、情報を送り出す側の病理に関心があります。たとえ学生新聞の記者であっても自覚し、守らなくてはならない鉄則があるのです。「党派性」(イデオロギー)が事実を曲げてしまったらどうもなりません。

 東京新聞の清水記者の記事はたとえ「商業紙」であっても守らなくてはならない鉄則を自己確認しようとする文章かと思います。新聞社は大特権を持つ巨大企業ですからもともと権力と金に絡み取られています。それらから自由であろうとするのは至難の業でしょう。

 我が家では僕の退職時辺り(07年)から新聞の定期購読を止め、今年7月の「地デジ移行」からTVを廃棄しました。大金を払ってウソを吹き込まれるのはゴメンです。

 新聞はホテル・銀行などに行ったときに読みます。こんな馬鹿げたものに大金を支払っていたのかと思わされるのが大抵です。

 病院へ行く時の電車でたまには100円で買った「東京新聞」を読みます。安いのとほかの新聞が書かない僕が読みたい記事がひとつか二つはあるかもしれないからです。

 そんな記事をたまに「川越だより」でも紹介しています。

 

 

 

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朗報に心躍る 街は川越祭り

2011-10-16 07:08:12 | 友人たち

昨日から川越祭り。今日は午後から天気も良くなるとか。よろしかったらどうぞお出かけください。

 土佐・室戸から姉が来ているので我が家では小さな「お客」をやります。室戸のカツオの「たたき」がメインですが隣の奥さんが岩手の山里の料理と「おこわ」を差し入れてくれました。親戚の章子(ふみこ)さんが来てくれるそうです。川越に來たらお客に寄ってください。

  川越祭り●http://www.kawagoematsuri.jp/index.html

  

きのう杜くんに「永住」資格が認められたという知らせが届きました。ともかくこれで在留が安定します。

「杜くんのこと」●「http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/733dfc4d9fe7cf718e24f1cbbba2a000

 お連れ合いの池田さんは喜んで来夏には二人の故郷に招待したいと言い出す始末です。

 故郷は黒竜江省哈爾濱と方正県です。あの横断歩道の怖さに中国旅行は敬遠気味ですがお二人の故郷となれば話は別です。

 体力を整えてそんな嬉しい日に備えようかと思い始めました。

 ハルビン・横断歩道●http://www.youtube.com/watch?v=7oMslQK7AeU&feature=related