29日、高知空港から高知県立美術館に直行し、野町和嘉 写真展 [ 聖地巡礼 ] をみました。今までにいくつかの写真展というものを見たことがあるがこれほどのものは見なかったのではないか、と思わされました。
紹介記事にこうあります。
写真家、野町和嘉は、1946年に高知県幡多郡三原村で生まれ、同地で少年時代をすごしました。
高知県立高知工業高等学校を卒業後、写真家・杵島隆氏に師事。フリーランスとなった20代半ばでサハラ砂漠を訪れ、大地のスケールと、厳しい風土に生きる人々の強靭さに圧倒されたことがきっかけとなり、今日までドキュメンタリー写真を撮り続けてきました。
野町は、灼熱の砂漠や極限の高地、大河源泉の奥地など、あえて過酷な土地に出向き、そこで暮らす人々の日常を敬意のまなざしで写し、壮大なスケールでその風土をとらえています。それらを撮り続けていく中で野町は、「過酷な環境では、宗教の支えが無ければ人間は生きていけない」と強く感じたといいます。精神的に砂漠化された現在の日本の状況もまた、過酷な環境といえるかもしれません。
野町が写した辺境の地といわれる風土の民が、聖地を求め、祈る姿は、肥大化した経済至上主義が二極化を生むこの厳しい時代にあって、良く生きるとは何であるのかを考えずにはいられません。
まこと「よく生きるとは何であるのか」を考えずにはいられないスケールの大きい写真展です。僕はこの方の名前を聞くのも初めてです。妻が行きたいというのでついてきただけです。一巡りするのに相当疲れましたが出会ってよかったなあと心から思いました。
僕よりもいくらか若い方ですが、同じ時代をこのように生きてきた方がいたのかと感心せずには居られません。
結構有名な方で関東でもあちこちで写真展が行われているようです。
野町和嘉http://www.nomachi.com/ten.cfm
午後は僕の後輩(高校・大学)で倫子の先輩に当たる松村徹くんのお兄さんを訪ねしばらく交流させてもらいました。松村君も大学を2年で辞めて世界中を歩いたかたです。年頃も野町さんとほとんどかわりません。
お兄さんの話ではオーストラリアとニュージーランドだけは行った形跡がないようです。30台の後半にネパールのラマ教寺院でなぞの死を遂げました。写真をたくさん残してあったそうですが数年前の高知の豪雨でだめになったといいます。
中学生の頃から宗教に関心を持ち「布教活動」を学校からとがめられたことがあるそうです。あるときからその活動からは離れましたが求道者的な生き方をしたのでしょうか。
学生運動には批判的だったようです。彼の入学時の文学部自治会委員長は僕でした。確か一回、集会に誘ったことがあります。そのご、交流はないままです。妻は同じ西洋史学科ですから印象に残る出会いもあったようです。
野町さんの写真をみたあとです。松村君はどんな世界を見ていたのか益々知りたくもなりますが、手がかりはありません。
南国市や嶺北の学校で働いてきたお兄さんは退職後長くこの町の社会福祉協議会に身をおいて、子供から老人にいたる様々な相談事に耳を傾けてこられました。近頃は家庭の経済的困窮も度を増し、手助けすることが難しい相談事が増えているようです。穏やかな土佐弁の印象的な元校長先生ですが、後釜を見つけて今年限りで引退したいといわれます。
僕は思わず南国市を支える「ふんどし」のような存在ですね、といってしまいました。そう簡単に後釜が見つかるとは思えません。大卒直後、室戸岬水産高校に勤められたそうです。その頃の人々の消息を調べますと約束してお別れしました。
30日(金) 母の13回忌法要と墓参が終わったところです。
紹介記事にこうあります。
写真家、野町和嘉は、1946年に高知県幡多郡三原村で生まれ、同地で少年時代をすごしました。
高知県立高知工業高等学校を卒業後、写真家・杵島隆氏に師事。フリーランスとなった20代半ばでサハラ砂漠を訪れ、大地のスケールと、厳しい風土に生きる人々の強靭さに圧倒されたことがきっかけとなり、今日までドキュメンタリー写真を撮り続けてきました。
野町は、灼熱の砂漠や極限の高地、大河源泉の奥地など、あえて過酷な土地に出向き、そこで暮らす人々の日常を敬意のまなざしで写し、壮大なスケールでその風土をとらえています。それらを撮り続けていく中で野町は、「過酷な環境では、宗教の支えが無ければ人間は生きていけない」と強く感じたといいます。精神的に砂漠化された現在の日本の状況もまた、過酷な環境といえるかもしれません。
野町が写した辺境の地といわれる風土の民が、聖地を求め、祈る姿は、肥大化した経済至上主義が二極化を生むこの厳しい時代にあって、良く生きるとは何であるのかを考えずにはいられません。
まこと「よく生きるとは何であるのか」を考えずにはいられないスケールの大きい写真展です。僕はこの方の名前を聞くのも初めてです。妻が行きたいというのでついてきただけです。一巡りするのに相当疲れましたが出会ってよかったなあと心から思いました。
僕よりもいくらか若い方ですが、同じ時代をこのように生きてきた方がいたのかと感心せずには居られません。
結構有名な方で関東でもあちこちで写真展が行われているようです。
野町和嘉http://www.nomachi.com/ten.cfm
午後は僕の後輩(高校・大学)で倫子の先輩に当たる松村徹くんのお兄さんを訪ねしばらく交流させてもらいました。松村君も大学を2年で辞めて世界中を歩いたかたです。年頃も野町さんとほとんどかわりません。
お兄さんの話ではオーストラリアとニュージーランドだけは行った形跡がないようです。30台の後半にネパールのラマ教寺院でなぞの死を遂げました。写真をたくさん残してあったそうですが数年前の高知の豪雨でだめになったといいます。
中学生の頃から宗教に関心を持ち「布教活動」を学校からとがめられたことがあるそうです。あるときからその活動からは離れましたが求道者的な生き方をしたのでしょうか。
学生運動には批判的だったようです。彼の入学時の文学部自治会委員長は僕でした。確か一回、集会に誘ったことがあります。そのご、交流はないままです。妻は同じ西洋史学科ですから印象に残る出会いもあったようです。
野町さんの写真をみたあとです。松村君はどんな世界を見ていたのか益々知りたくもなりますが、手がかりはありません。
南国市や嶺北の学校で働いてきたお兄さんは退職後長くこの町の社会福祉協議会に身をおいて、子供から老人にいたる様々な相談事に耳を傾けてこられました。近頃は家庭の経済的困窮も度を増し、手助けすることが難しい相談事が増えているようです。穏やかな土佐弁の印象的な元校長先生ですが、後釜を見つけて今年限りで引退したいといわれます。
僕は思わず南国市を支える「ふんどし」のような存在ですね、といってしまいました。そう簡単に後釜が見つかるとは思えません。大卒直後、室戸岬水産高校に勤められたそうです。その頃の人々の消息を調べますと約束してお別れしました。
30日(金) 母の13回忌法要と墓参が終わったところです。