川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

野町和嘉 写真展  土佐路①

2008-10-31 14:25:56 | ふるさと 土佐・室戸
 29日、高知空港から高知県立美術館に直行し、野町和嘉 写真展 [ 聖地巡礼 ] をみました。今までにいくつかの写真展というものを見たことがあるがこれほどのものは見なかったのではないか、と思わされました。

 紹介記事にこうあります。

 写真家、野町和嘉は、1946年に高知県幡多郡三原村で生まれ、同地で少年時代をすごしました。

高知県立高知工業高等学校を卒業後、写真家・杵島隆氏に師事。フリーランスとなった20代半ばでサハラ砂漠を訪れ、大地のスケールと、厳しい風土に生きる人々の強靭さに圧倒されたことがきっかけとなり、今日までドキュメンタリー写真を撮り続けてきました。

野町は、灼熱の砂漠や極限の高地、大河源泉の奥地など、あえて過酷な土地に出向き、そこで暮らす人々の日常を敬意のまなざしで写し、壮大なスケールでその風土をとらえています。それらを撮り続けていく中で野町は、「過酷な環境では、宗教の支えが無ければ人間は生きていけない」と強く感じたといいます。精神的に砂漠化された現在の日本の状況もまた、過酷な環境といえるかもしれません。

野町が写した辺境の地といわれる風土の民が、聖地を求め、祈る姿は、肥大化した経済至上主義が二極化を生むこの厳しい時代にあって、良く生きるとは何であるのかを考えずにはいられません。

 まこと「よく生きるとは何であるのか」を考えずにはいられないスケールの大きい写真展です。僕はこの方の名前を聞くのも初めてです。妻が行きたいというのでついてきただけです。一巡りするのに相当疲れましたが出会ってよかったなあと心から思いました。

 僕よりもいくらか若い方ですが、同じ時代をこのように生きてきた方がいたのかと感心せずには居られません。

 結構有名な方で関東でもあちこちで写真展が行われているようです。

  野町和嘉http://www.nomachi.com/ten.cfm
 

 午後は僕の後輩(高校・大学)で倫子の先輩に当たる松村徹くんのお兄さんを訪ねしばらく交流させてもらいました。松村君も大学を2年で辞めて世界中を歩いたかたです。年頃も野町さんとほとんどかわりません。
 お兄さんの話ではオーストラリアとニュージーランドだけは行った形跡がないようです。30台の後半にネパールのラマ教寺院でなぞの死を遂げました。写真をたくさん残してあったそうですが数年前の高知の豪雨でだめになったといいます。
 中学生の頃から宗教に関心を持ち「布教活動」を学校からとがめられたことがあるそうです。あるときからその活動からは離れましたが求道者的な生き方をしたのでしょうか。
 学生運動には批判的だったようです。彼の入学時の文学部自治会委員長は僕でした。確か一回、集会に誘ったことがあります。そのご、交流はないままです。妻は同じ西洋史学科ですから印象に残る出会いもあったようです。
 野町さんの写真をみたあとです。松村君はどんな世界を見ていたのか益々知りたくもなりますが、手がかりはありません。
 南国市や嶺北の学校で働いてきたお兄さんは退職後長くこの町の社会福祉協議会に身をおいて、子供から老人にいたる様々な相談事に耳を傾けてこられました。近頃は家庭の経済的困窮も度を増し、手助けすることが難しい相談事が増えているようです。穏やかな土佐弁の印象的な元校長先生ですが、後釜を見つけて今年限りで引退したいといわれます。
 僕は思わず南国市を支える「ふんどし」のような存在ですね、といってしまいました。そう簡単に後釜が見つかるとは思えません。大卒直後、室戸岬水産高校に勤められたそうです。その頃の人々の消息を調べますと約束してお別れしました。

 30日(金) 母の13回忌法要と墓参が終わったところです。

  

帰郷

2008-10-29 12:56:16 | 友人たち
 28日(火) 久しぶりに坂戸のふるさとの湯にひたったあと、近くの病院でインフルエンザ予防接種。夜には闘病中の大島のMくんに電話して励ます。お連れ合いが体調不良でクラス会には来られなかったという。思ったより元気そうで一安心。この何十年来、大島に行くたびにMくんには世話になった。元気でいて貰わなくては困る。クラス会の様子はBくんから聞いたらしい。Bくんはあの夜、病後の洋子さんを送ったあとみんなと連絡が付かず、さびしく宿舎に帰ったという。

 今日は朝早くから宛名書きをして足尾の旅の参加者に写真を発送しました。内モンゴルなどから来た娘さんたちと撮った写真をここに載せて見ていただきたいくらいです。命が延びていく実感があります。
 この写真を見て参加された方々が感想など送ってくださることを期待しています。一人一人の思いの詰まった「きいちご」第3号がカツヨシさんや忠幸さんの手で編まれる筈です。
 疲れが出たのか忠幸さんが不調です。ちょっと心配です。健康第一が私たちの方針です。急ぐことなく発行目標を12月末にする事にしました。

 明日から5泊6日の土佐への旅です。10月の週末ごとに続いた僕の社会復帰イヴェントもいよいよ最終回です。おかげさまで元気に帰郷できそうです。元気と条件があったら土佐だよりをお届けします。

 30日(木) 県立美術館 故松村君のお兄さん 室戸岬泊
 31日(金) 法事  武実くん  室戸岬泊
  1日(土) 奥物部・別府峡泊
  2日(日) ミニ同窓会(高校) 高知泊
  3日(月) ミニ同窓会(小学校) 高知泊
  4日(火) こにやん訪問(高知市立教育研究所) 帰越  
 

ちょっといい話

2008-10-28 10:32:52 | 友人たち
 昨夜は遅くまで起きて各地の人と電話で交信しました。近頃の僕はこれがなかなかの仕事です。風呂に入り夕食をすませると眠くなって電話どころではなくなってしまうからです。それに子機が故障して炬燵に入ったままというわけにも行かなくなりました。だから決心して電話作戦に挑んだのです。

 まずは先日のクラス会の時出席出来ないからとみんなにアシタバとキヌサヤの種を届けてくれた大島の雅義くんにお礼の電話。不在でしたが暫く後に返信がありました。11月2日の駅伝大会を前に夫婦がそれぞれのティームに別れて夜の練習に励んでいたのです。そういえば雅義くんのみんなへのメッセージの中にこんな文章があります。
 
 11月2日、駅伝大会があります。ティームのアンカーで岡田から泉津まで走ります。もう参加選手の中では最年長の世代になってしまいました。走り終わった帰りに豊(とよ)の墓参りをしてきます。もう一年経ってしまった。
 夜、練習で走っていたときにやす子さん、秀子さんに会った。あのときから一年です。つらい複雑な気分です。

 今年も駅伝や農業祭のシーズンが来て世話役としての活動が忙しくなったのでしょう。日程が重なって同窓会にでられなくなったがみんなに会いたいと結ばれています。

 駅伝に参加してきた雅義くんのティームはいったんは解散を決めていたと言います。しかし、再結集して今年も大会に参加することになりました。雅義くんが一人一人のメンバーを説得して歩いたのです。
 高齢化が進む大島で自死の道を選んだ同世代が二人もいたそうです。そんな状況の中でティームを一つ無くしてしまうことはそれだけ人と人のつながりの道をなくしてしまうことです。
 数年前、雅義くん自身も離婚などを経験して深く落ち込んだことがあります。百姓仕事にも精が入らなくなっていました。そんなときにマラソン仲間の今のお連れ合いに出会ったのです。
 昨年訪ねた雅義くんたちの農場には新しいビニールハウスが建ち活気が蘇っていました。都会生活から大島にやってきて自分に納得のいく農業に挑戦するひとみ夫人の生き生きした姿がありました。雅義くんの笑顔も昔と変わりません。ヤルキに余裕が加わったように見えました。人生には浮き沈みがあり、人はまことに出会いによって元気づけられるものです。
 雅義くんが駅伝ティーム再建に動いたのには自分自身の体験に基づく人々への思いがあったからでしょう。

 そういえばBくんがクラス会に顔を出したのも本当にひさしぶりです。闊達に旧友たちと語り合っていました。彼もまた離婚などを体験し挫折感を深く味わった時期があります。大島に帰って閉じこもっていたBくんを飲み屋に誘っては元気づけたのはMくんです。中学からの同級生です。性格も生き方も対照的に見える二人ですがMくんにとっては本当に大切な友達だったのでしょう。
 マラソンといい、飲み屋といい、それぞれが自分にあったところで友達を大切にしています。それによって助け、助けられているのです。それをとてもいいなあと思います。

 彼らより2年上の還暦同窓会にTくんの姿が無かったので翌日くらいに電話をして留守電にメッセージをいれたのですが返事がありません。交流のあるYさんに聞いてみました。同窓会に手を変え品を換え誘ってみたと言います。小さいときから仲良しだったヒデキくんにも応答がないようです。
 病気や離婚を体験してTくんは自分にスッカリ自信を失っているのではないかと思われます。「クマ(熊)」といっていたマサヨシくんや「ヒデキ」のぬくもりを忘れてしまったのでしょうか。若い頃、川越にもよく遊びに来てくれました。僕や家族に馴染んでくれた生徒の第一号かもしれません。

 YさんはTくんと会う機会をつくるようやってみると言ってくれました。Tくんのことはずうっと気にしていることなのです。
 彼女は今回の還暦同窓会に出て良かったなあと思っています。昔、好きになれなかったクラスメートの変化に気づいたりして新たな喜びがあったのです。60年の人生をやっているうちにたいていは、お互い知らず知らずに学びがあり身に付いていくものがあるのです。少なくとも僕が出会う大島や池商の卒業生についてはいえることです。
 TくんにYさんやクマやヒデキやボンチャンの心が伝わってまた馬鹿笑いが出来る日が近いことを期待しています。

 還暦同窓会の幹事から名簿や写真、会計報告と共にメッセージが届きました。行き届いた配慮に感謝します。

<3の1>クラス会

2008-10-27 08:59:36 | 友人たち
 25日(土)
 昼前に騎西に住む藤田さんが東京に行く途中だと言って寄ってくれました。同じ1941年生まれでどういうわけか僕と同じような思想傾向です。ある時から「社会主義」教布教の罪深さに恐れおののき、ある時から大自然教の信徒になりました。生き方に共通性があるかどうかはわかりませんが我が儘で群れないところは似ているようです。父祖の地は松山ですが全国で高知だけは行ったことがないといいます。
 午後から東京で国歌や国旗を強制する石原教育行政に反対する教職員組合主催の集会があるということです。

 6時から大門の「魚河岸 日本一」で1969年3月卒業の都立大島高校3年1組のクラス会があり妻と一緒に出席しました。僕が最初にHR担任をしたクラスです。教員2年目の67年度は中田さんと2人で2年1組、68年度は一人で3年1組。卒業生は男26人、女25人の51名です。一年生で転校した香久美さんと2年生で転校した利治くんをあわせてクラス会のメンバーは53人です。彼らが3年生の時僕と結婚し島に住むようになった妻も20年前からメンバーにくわえてもらいました。卒業以来40年近い月日が流れました。

 この組のクラス会は99年10月23日(大島)以来です。この時僕は黒姫高原で風邪をひき(熊に出くわした忘れられない旅です)楽しみにしていた大島行きをあきらめ、欠席です。この間、昨年豊秋くんが急逝し、大島在住者を中心に臨時に17名が墓参に集まりました。そのときの幹事やす子・庸介夫妻が中心となって開催に至ったようです。担任の僕だけでなく病に冒される級友を励まそうという意図もあったのではないかと思われます。
 
 参加者は21名でした。賢次くんとは卒業以来とか。豊くんとも久しぶりです。急に来られなくなった大島の雅義君から一人一人に渡るようにアシタバが届いています。メッセージが添えられていました。何時も変わらぬ心遣いです。
 
 初めてのHR担任であり僕はこのクラスの人たちの一人一人を忘れたことはありません。たまにはクラス会があり、会う機会があるからでもあります。今日改めて整理してみました。90年代の始めにあったと思われるクラス会の記録が見あたらないので正確ではありません。僕が会うことが出来た人です。(敬称略)

2008・10・25 出席者(◎は07・12の豊秋追悼の集いにも出席)

 洋一(◎)雄(◎) 謙一 賢次 逸雄 庸介(◎) 豊 勝正 省三(◎) 恵一 秀子(◎)いち代 芳江 よね子(◎) 笑子 章子 絹代 喜美江 洋子 やす子(◎) キヨミ(◎)  21名

豊秋くん追悼の集い(07・12) 出席者
 雅義 満 桂三 英明 誠一  小百合 豊美 あい子 由紀子 妙 計17名

 
ここ数年以内に個人的に会ったことがある人
 正人 正恵 和枝 典子 絹枝 5名

1989年3月12日の卒業20周年のクラス会で会った人 
 研二 輝明 壮志 島太郎 香久美

20年以上会った記憶がない人 
 潔 実 良平 寿郎 利治 千恵子 清美 美由喜 真弓

死亡した人 豊秋(07年) 栄光(91年) はるみ(69年)


 警視庁に勤めている利治くんには昔、生徒のことで相談したことがあります。真弓さんとも彼女の故郷・式根島を訪ねたとき電話で話しています。大阪の美由喜さんとは年賀状のやりとりがあります。6名の人にはそのような記憶もありません。栄光くんは卒業以来会うこともなく早世しました。

 会うことが出来たからといってその人と出会えたと言うわけではありません。しかし、そのきっかけにはなるはずです。おとといも何人かが新たな出会いの機会を造ってくれると約束してくれました。その人の人生そのものにふれる機会を僕は楽しみにしています。

残留孤児とモンゴル沙漠植林

2008-10-26 14:51:07 | 中国残留日本人孤児
 こんな記事を見つけました。先日のきいちご移動教室に参加した残留孤児の皆さんやブリンさんなど内モンゴルから来た方々に読んでもらいたいのでとりあえず紹介します。
  

  植林活動で恩返し 中国残留孤児女性内モンゴルで
        
              東京新聞 08 ・10・18


 
 月末に来日し講演
 中国残留孤児の烏雲(ウユン)さん(70)=日本名・立花珠美=は、日本の肉親が判明した後も中国・内モンゴルに残り、「沙漠(さばく)」の緑化に取り組んでいる。「中国に恩返ししたい」という思いからだ。今月末に来日し、講演を通して協力を呼び掛ける。(山本哲正)
 

 母・姉・弟を失う
 「母は一歳の妹を刺しました」。烏雲さんは敗戦時、一九四五年八月の混乱を振り返る。日本に帰国しようと、中国東北部(旧満州)から歩く約千六百人の隊列に烏雲さんの家族六人もいた。隊列がソ連軍に遭遇し、姉と弟二人が殺された直後に始まった集団自殺。怖くて逃げ出した烏雲さんは、母が短刀で胸を刺し倒れる姿を目にした。
 父は役人として満州に渡った。「当時は現地の農民から卵を買うなど、私たちに侵略の感覚はなかった。しかし、後に歴史を学び、侵略と分かった」と烏雲さん。自らのつらい体験もあり「戦争は特攻の若い男性だけでなく女性もひどい目に遭わせる」と非戦への願いは強い。
 
 養母の愛に包まれ
 一人残された当時七歳の烏雲さんは、中国人に助けられ、回り回ってモンゴル民族と漢民族の夫妻の養子となった。養母は、恐怖で悪夢にうなされる烏雲さんに、ぜいたく品だった砂糖水を作って与え、「お母さんが抱っこしてあげる」と、深い愛情を注いでくれた。
 学校でも、日本人の烏雲さんを差別することなく、奨学金も出してくれた。烏雲さんは「恩返しに、中国の子どもたちのために頑張りたい」と勉強に励み、高校教師になった。
 
 「沙漠化」止めよう
 七〇年代以降、教え子たちの家庭が学費も出せない貧困状態にあることに気付いた。草原の沙漠化で農業収入が減っていたからだ。退職後の九四年から、ホルチン沙漠(約五百二十万ヘクタール)での植林活動に尽力。日本の植林ボランティアの全面支援で緑化が進んだ約三百六十ヘクタールは「烏雲森林農場」と名付けられている。
 黄砂を引き起こす沙漠化を食い止めようと、日本からの植林隊は今も続々とホルチン沙漠を訪れる。烏雲さんは「私は中国人の愛を受け、日本人の愛を受けている」と喜ぶ。八一年の一時帰国で徳島県に住む実兄と再会したが日本に戻らず、「育ての親」の地で尽くし続けた成果だ。
 烏雲さんが名誉顧問を務めるNPO法人どんぐりモンゴリ(愛知県長久手町)は、森林農場を拠点に、植林のほか、現地の子どもたちの教育支援に力を入れる。沙漠化の改善には現地の人々の教育も重要なためだ。同法人は、通常使われる「砂漠」ではなく、人為的要因で「水を少なくした」ことを強調するため「沙漠」を使う。沙漠化に対する意識改革を促す狙いだ。
 今回の来日講演を企画した同法人の角和保明理事長(64)は「私たちの会は、烏雲先生の奉仕の思いに学び、貧困地域での活動を手伝っている。先生の話を多くの人に聞いてもらい、活動にも協力を呼び掛けたい」と話している。
    ◇
 烏雲さんの講演(一部有料)は、十月三十日から十一月四日まで計六回開かれる。十一月三日午後一時-同三時半(名古屋市中区のモンゴルレストラン「シンキロー」で)など。問い合わせは、どんぐりモンゴリ=電0561・61・3329。

 どんぐりモンゴリ http://www.mongori.jp/index.htm

支援相談員の待遇改善

2008-10-25 07:27:55 | 中国残留日本人孤児
 23日(木)朝10時、忠幸さんと都庁の「中国帰国者対策係」を訪ねました。本年度からはじまった支援相談員制度で活躍中の人々の待遇改善をお願いするためです。
 東京都で採用されて区市に派遣されている相談員の日当は9000円で交通費相当分もこれに含まれているという説明です。A市1日、B区1日という具合に週2日勤務です。国が予算化して自治体に交付する日当がこれです。
 これではボランティア活動の交通費支給程度で生活を支える賃金だとはとてもいえません。区によっては嘱託職員として採用し、独自の労働条件を整えているところもあります。人を雇う時の当然の姿勢です。
 来年度から都での採用はなくなり区市の制度となるそうです。ならば区市で制度設計をするわけですから板橋区などの例にならい労働条件の整備をはかってほしいものです。
 やり甲斐のある仕事だからといって卒業生やその家族に応募を薦めた結果、私たちの知り合いが8人この仕事をしています。すべて中国残留孤児2世の女性たちです。生き生きと活動している様子はきいちご移動教室の記事でも報告しました。
 都庁や区役所で働いている人々が自分がこの仕事をやるとしたらという思いにたって考えてほしいものです。国の基準だからといって決められた手当を支給するだけならロボットでもやれます。

 午後は日暮里で「在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会」の会合がありました。韓国で在外国民に国政参加の道を開く立法が行われるという報道があります。これらにかかわって僕の考えを書いておきたいのですが他日を期すことにします。

 昨日は雨のせいもあったのか寝たり起きたりの一日でした。疲れがたまったのか、先日、胆石(?)の痛みに一夜苦しんだ妻が検査の結果「たいしたことではない」とわかり、一安心。
 今日は1969年3月、都立大島高校卒業生のクラス会です。僕が最初にHR担任をした面々です。天気も回復してきたようで、元気も徐々に回復してくることでしょう。

副作用

2008-10-23 06:15:49 | 父・家族・自分
 20日(月)。癌研究会有明病院で16日のCT検査の結果説明を受けました。4月から5回にわたる抗ガン剤治療の結果、右肺に転移した癌は目に見えて小さくなり、当面は月一回程度通院して様子を観察します。主治医の言葉は「抗ガン剤治療を暫く休む」です。治ったわけではありません。「暫く」が長く続くようにと願うほかはありません。
 手術(左肺摘出)から12月で3年です。再発(右肺への転移)から1年です。抗ガン剤治療の他に格別の治療は何も行っていません。鄭先生の薦めで妻がニンニクを毎日のように料理してくれるだけです。
 生活の原則は「やりたいことをやり、会いたい人に会い、行きたいところに行き、食べたいものを食べる」です。これが治療法といえば治療法です。このブログで報告しているとおり、多くの方々の協力で恵まれた「闘病生活」をさせて貰っています。
 今回の主治医の説明でこたえたことがあります。手足のシビレは「年単位で改善されるかどうか」だというのです。僕の質問にぼそっと一言いわれたのです。
 僕は抗ガン剤の副作用のため下肢にシビレがあり、沢山歩くのは困難です。疲れやすく眠くなります。この症状は4回目あたりからなかなか回復しません。1ヶ月位すれば元に戻ると思っていただけに先生の言葉はショックです。
 闘病なのですから多少つらいのはやむを得ないのかも知れません。今の医学の限界だと悟ってめげないで前に向かっていきたいものです。
 しかし、抗ガン剤治療はもういいという気持ちになります。それなら癌研任せにせず、他にどんな道があるのか研究する必要があります。そういう研究心が無いのが僕の特徴です。

 病院からの帰りに妻の提案で月島(有楽町線)で降りて佃島に寄ってみました。『瞳』の舞台になったあたりです。
 住吉神社に寄ったあと「天安」という店で佃煮を買い、隅田川に沿って続く遊歩道を一周して駅にたどり着きました。ショックから立ち直る第一歩です。
 夕食に買ってきたばかりの佃煮が出ました。私たちには高価ですがさすがに美味で僕は鰹の角煮を味わいながら食しました。

 佃 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%83_(%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%8C%BA)

片桐さん・十勝ワインの里池田町道産子2世の話

2008-10-22 06:48:03 | 友人たち
 片桐さんは狭い我が家で2泊3日を過ごしてくれました。お聞きした話の断片ですが忘れないうちに書いておきます。



 ◎池田町のワインづくりは丸谷町長の発案ではじまった。付近の山に自生するヤマブドウの実を集めるため役場の全職員が日曜日を利用して山野を駆けめぐった。担当課の職員が目星をつけておいてくれたところで採った。北海道のヤマブドウは蔓(つる)がどんどん高いところまでのびるので難儀した。時には日高山脈の麓まで出かけた。

 ◎三年に一度は来る冷害のため町の財政は破綻していた。丸谷町長を中心にして新しい産業の振興に取り組んだ。町営のワインづくりはその一つである。町税の徴収にも全職員が走り回った。やがて地区ごとに納税のための貯蓄組合を作り、円滑な納税が可能になった。ぶどう採集も税金集めも日曜返上のボランチア活動のようなものだが苦にはならなかった。

 ◎池商生を受け入れた頃はワインづくりなどの町営事業も軌道に乗り、やがてワイン城もできる。町としてもお客さんに来てほしい時期だったと思う。

 ◎研究投資に金をかけるせいもあってか近年はワイン会計が赤字になった。事業を民間に売却せよという声もある。

 十勝ワイン http://www.tokachi-wine.com/

 ◎昔、池田には大きな製紙工場(富士製紙)があった。利別川や十勝川流域の大森林地帯があり、森林資源に恵まれていたからだ。1929年の恐慌で破産した。近年、十勝地区の森林組合が連合してチップ生産工場を池田に建てる(た?)。カラマツ(落葉という)の間伐材を利用する。大森の高橋義一さんが連合会の副組合長になった。(高橋さんは私たちを受け入れてくれたとき大森地区の青年リーダーだった。)

 池田町の歴史http://www.tokachi.pref.hokkaido.jp/d-archive/sityousonsi/ikeda_gaiyou.html


 ◎片桐さんの名刺には「北海道十勝国ワインの里 池田町の産 道産子二世」とあるが祖先は旧・鳥取藩士で池田侯爵(旧大名)が池田牧場を開設したときここに入植した。祖先の姓は「伊藤」で墳墓の地は今の倉吉市上神(かずわ)である。父上は浜松の鉄道学校を卒業して日露戦争に従軍したあと池北線(池田と北見を結ぶ)の開設要員としてやってきた。片桐家のあとをつぎ昭和4年(1929年)正一さん誕生となる。片桐家は片桐且元(かつもと)につながる家系で祖先の墳墓は滋賀県高月町落川にある。

 池北線資料館 http://homepage3.nifty.com/idoido/shihorosen/chihoku.html 


 ◎今回8回目のいとこ会(伊藤・片桐・甲斐)をはじめて道外(箱根)で開催した。20名以上が集まり、7名が秩父巡礼に同行してくれた。多くが北海道在住で来年は札幌開催。伊藤家の末裔の3系が交互に勧進元を務める。

 片桐家の本貫の地・高月は何度も訪ねたことがあります。この町の雨森地区は雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)の誕生の地です。対馬藩の儒者として朝鮮外交で活躍した人です。
 片桐さんは僕たちが訪問した時に入手した芳洲の著作『交隣提醒』を興味深そうに読まれました。倫子(妻)が編集した『体系・朝鮮通信使』(明石書店)の記述にも目を通されました。初めて耳にする名前だったようですが心に深く刻まれたようで、来春には訪ねてみたいとさっそくメモ帳に書き付けて居られました。何度目かの高月訪問に新しい目的が加わって嬉しそうです。

 雨森芳洲庵 http://www.town.takatsuki.shiga.jp/contents_detail.php?frmId=315

35年ぶりの「感謝」

2008-10-21 09:51:28 | 友人たち
 18日(土)10時、喜多町の山車の出立式を見学したあと山車行列に参加して市街へ。蔵づくり資料館・市立博物館による。僕は昼食後リタイアー、昼寝。妻は引き続き片桐さんを案内して神幸祭行列が市役所前に到着し山車が勢揃いする様子を見学。 土佐料理で夕食をすませたあと再び町へ。「ひっかわせ」を一番街で見る。大変な人出で身動きできない。
 鏡山酒造に寄る。沖縄県の「泡盛大使」を務める片桐さんは日本酒の利き酒名人でもあり、東京農大醸造科を卒業してこの世界に入ったばかりだという若い女性と話が弾む。夜遅くまで半生記を伺う。
 片桐さんは1929年の生まれ、僕よりは一回り上の「ヘビ」。敗戦直後、池田中学を卒業して母校の臨時教員になったが校長排斥運動に加わったため一年で辞め町役場に入る。社会教育係になり青年団の育成、公民館の建設などに取り組む。アメリカ軍から貸与された映写機をもって村落を廻って映画会。上映するのはアメリカ映画ばかりだが娯楽がなかった人々に受けた。役場への就職も奥さんとの出会いも丸谷金保(後の町長)さんとの縁があるという。若いときから丸谷さんに見込まれていたのであろう。
 池袋商業高校の生徒と教師が池田町の特別の招待を受けて大森地区の農家に世話になることができたのは片桐さんと大森の農民との間に深い信頼関係が造られていたからだ。それが敗戦直後から営々と築づかれたものであることが想像できた。大森地区の青年たちは十勝でも優れたリーダーだったという。僕はそのような人たちと出会うことが出来た僥倖に改めて感謝せずには居られない。


 19日(日)
 午前中、片桐さんを喜多院に案内したあと祭りで賑わう街中を通って正午過ぎに我が家に帰る。ここで嬉しい再会。

 1973年夏、池田町大森にホームステイさせて貰った西村(旧姓)久美子さんが待っていてくれた。引率した僕とも世話になった片桐さんとも35年ぶりの再会だ。18歳の娘さんが53歳の「おばあさん」になっていた。3人の男の子に恵まれたが一人の方には久美子さんにとっては孫に当たるお子さんが成長しているのだ。
 当時一緒に世話になった都立池袋商業高校3年生20余名の内、偶然にも西村さんが川越に住んでいることがわかり我が家の「お客」に招待したのだが本人はもちろんのこと片桐さんも「なによりのお土産」と喜んでくれた。
 東京の北区王子で生まれ育った娘の3週間の異文化体験は、自分の子育ての上でも力になったという。生まれて初めて親元を離れ牛の世話をしたり畑の草取りをした。人の情けの深さを知った。人生の中で2度とはなかった貴重な体験だったという。子どもたちが親元を離れて修学するのを見守ることができた。
 彼女が世話になった吉田さんの家に電話を入れたが残念ながら留守。取り入れの最中かもしれないと片桐さんは言う。
 僕が嬉しかったことは西村さんが人生の荒波をくぐり抜けて「世話になる」ということの意味をしっかりと体得し、「感謝」の心を身につけていることである。
 生徒にとって片桐さんは縁の下の力持ちで滞在中何度かお目に掛かっただけである。毎日世話になった吉田さんとは違う。しかし、片桐さんの尽力がなければ私たちの池田町体験は生まれなかった。
 見ず知らずの高校生を招待して3週間の長きにわたって街の賓客として処遇してくれたのである。町営レストランでの歓迎パーティからはじまって町営バスでの三湖(阿寒・摩周・クッチャロ)廻りなどのサービスもあった。ホームステイ家族を含む楽しい一日であった。
 都市と農村の交流ということで小学生の相互訪問などが各地で行われるようになったが、私たちが池田町の人々から受けた待遇は一方的なものであり、他に例を見ないのではないか。
 片桐さんの三五年前の心のこもったもてなしに感謝の言葉を述べる西村さんの姿を目の前にして僕は嬉しかった。初めてそのような人が現れたのである。
 来年夏、何人かでも当時の参加者を誘って池田町を訪ねようと言うことになった。「今度の旅の何よりのお土産です」。そういって片桐さんは喜んでくれた。

 祭りで賑わう街を避け、川越線の指扇駅で見送りました。大宮発一九時三〇分の「北斗星」に乗るのです。片桐さんに世話になり始めて四六年、初めて川越を訪ねていただき、ただただ喜びあるのみです。
 二一日夕、無事帰宅した旨電話をいただきました。

いよいよ祭りです

2008-10-18 07:20:19 | 友人たち
 昨日は片桐さんを丸木美術館に案内したあと、サツマイモ資料館を訪ねましたがここは廃館となっていました。夕方、一番街をゆっくり歩いて山車の組み立てや会所開きの様子をあちこちで見学しました。
 今日はいよいよ祭りの初日です。皆さんも祭りの様子をごらんになってください。気が向いたらどうぞお出かけください。池袋から30分です。

 2007年の川越祭り(音と映像)
 
  http://jp.youtube.com/watch?v=XCaj70FwLC8&feature=related

ようこそ 川越へ

2008-10-17 07:19:58 | 友人たち
 今日は川越祭りを前にして片桐正一さんが我が家を訪ねてくれる日です。好天に恵まれた秩父の観音廻りが早く終わったため、昨夜予定を繰り上げて川越のシティーホテルに泊まったとのことです。今朝から2泊3日の川越を心ゆくまで楽しんでいただきたいと思います。片桐さんについては6月20日に紹介しましたので再録します。

 片桐正一さん http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20080620

 最初の出会いは1962年です。この年の夏休み、東京教育大学の法律政治学専攻2年生数人がやっていた憲法研究会が池田高校で働いていた先輩のつてで池田町を訪ね、憲法にかかわる農民の意識調査をやることになったのです。新しい憲法の精神が人々の中にどの程度受け入れられているかを家庭訪問してアンケート調査をするのです。

 池田町の位置 

 この時、池田町教育委員会の社会教育主事をされていた片桐さんがいろいろと協力してくださったのです。私たちは市街地の長正寺に泊めてもらい、千代田・大森・富岡という地勢の違った3地域をそれぞれ2~3日かけて調査しました。家々を一軒一軒訪ね歩いてアンケートに答えて貰うのです。
 富岡という開拓地は交通も不便な所です。ちょうどお昼になって訪問宅の方が食事を勧めてくれました。断るわけにも行かず御馳走になったのですが、なかなか箸がすすまず困ったことを記憶しています。お土産に野菜などを持たせてもくれました。
 この調査の終了日に大森の青年たちが交流会を企画してくれました。農村の生活改善を進める4Hクラブの青年です。これらの方々が後に(1973~75)池袋商業高校の生徒たちのホームステイに協力してくれることになります。北山さんご夫妻・森田さんご夫妻など交流は今も続いています。
 この時、片桐さんは農民の方々と私たちをつなぐ役割を担ってくれたのです。62年といえば46年前です。僕は21になったばかり。それ以来ずうっと付き合っていただいたのです。
 73年夏、生まれて半年の息子を始め私たちが家族ぐるみで世話になった奥さんは今はなく、一緒に楽しんで貰うことは出来ません。好天が続きそうで何よりです。

川越祭り

2008-10-16 10:15:08 | 友人たち
 昨日旅行代金の振り込みに街に出た帰りに氷川(ひかわ)神社に寄ってみました。今年の川越祭りは18日(土)19日(日)となっていますがもともと氷川神社の祭礼は14・15日と決まっていたのです。観光対策などのため土日に川越祭りを変更してももともとの祭礼は執り行われているかと思ったのです。
 やはりそのようでした。14日に「例大祭」がありこの日は「奉告祭」があったそうです。神楽殿で能の奉納の最中でした。観客はまばらで空いた床几があったので鑑賞させて貰いました。
 終演間際で「土蜘(つちぐも)」のクライマックスシーンでした。源頼光(みなもとのらいこう)が千筋の糸を投げつつ猛烈に抵抗する蜘蛛(くも)の精霊を退治して意気揚々と都に帰る場面です。
 天照大神(アマテラスオオミカミ・天皇の祖先神)を斎(いつ)き祀る氷川さんの例大祭にふさわしい演目なのでしょう。土蜘蛛とは天皇の政府に反旗を翻す地方の抵抗勢力を象徴しているのでしょう。今時、氷川さんにお参りをしてその祭神に思いをはせる人はいないかも知れませんが、今日はこの奉納能のお陰で考えさせられてしまいました。
 僕は田舎の神社(王子宮)で結婚式を挙げたときに神主の祝詞(のりと)を聞いているうちに初めて「祭神」が天照大神だということにに気づかされました。それ以来、神社の「公式参拝」はしていません。見学したら頭は下げます。僕が知っている父がそうでした。(父にその意味を聞いたことはありません)。
 アイヌや蝦夷(えみし)の勉強をするようになっていた自分がそれらの人々を虐殺・征服した人々の神を拝んでいたのかと驚いたものです。
 それ以後、どこの神社にいっても祭神に興味を持つようになりました。明治の宗教革命で国家神道が猖獗を極め、八百万(やおよろず)の神々を天照大神のもとに従えてしまいました。今もその秩序から自由にはなっていないのでお賽銭をいれて参拝するわけにはいかないのです。お賽銭の一部は神社本庁に上納され国家神道の別格総本山・靖国神社の国家護持運動に使われたりするかもしれないのです。
 皆さんは明治神宮の祭神をご存じですか。靖国神社はどうですか?

 さて、話があらぬ方向にそれてしまいました。今度の土日は川越祭りです。氷川神社の祭礼にかかわる行事には違いありませんが、山車(だし)の引き回しや、「ひっかわせ」など江戸時代から続く川越町人の祭りでもあります。秩父の夜祭りなどと共に一度は見ておく値打ちがあります。「ひっかわせ」を見ていると時の経つのを忘れます。よろしかったらどうぞお出かけください。
 今年は北海道からお客さんがありますのでご一緒で良ければご案内します。遠慮無く声をかけてください。

 川越祭り
 http://www.city.kawagoe.saitama.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1105080001602&SiteID=0
 


 川越祭り(スナップ)
  
 http://omatsuri2.exblog.jp/blog.asp?iid=&acv=&dif=&opt=2&srl=606429&dte=2004%2D10%2D19+01%3A57%3A06%2E000

10月週末計画

2008-10-15 06:53:52 | 友人たち
 今月末の帰郷計画がだいたい決まりました。
 30日(木)10時半 高知空港着 友人訪問などのあと室戸岬泊
 31日(金)母の13回忌法要   室戸岬泊
  1日(土) 姉と小旅行     奥物部泊
  2日(日)高知の友人たちと小宴 高知泊
  3日(祝)高知でのんびり    高知泊
  4日(火) 高知市教育研究所訪問のあと帰京

 昨夜、こにやんに電話して会っていただくお願いをしました。後輩とはいえ未知の人へのお願いです。二つ返事で僕らの小宴に参加してくれるというので喜んでいます。共に竹村一水先生の謦咳に接した縁です。不登校の子どもたちと出会い励まし続けるこにやんに元気づけられて、一年ぶりに再会する友人たちとの集いがいっそう楽しくなることでしょう。

 これでぼくの社会復帰月間の予定がすべて決まりました。

 4・5日 きいちご移動教室(足尾・日光) 終了
 11日  還暦祭(大島高校67年卒業生) 終了
 17日~19日 片桐さん(北海道池田町元教育長)川越祭り見学で来宅
 25日  クラス会(大島高校69年卒業・3の1)

 週日はこれ休養につとめ、週末には出かけています。手足のシビレなどの副作用はまだ残っていますが今のところ順調に遊んで貰っています。元気に生きるのが仕事というまことにめでたい日々です。いつものことながら「皆さんありがとうございます」。16日に癌研にいってCT検査を受けます。「順調に恢復中」と出ると、言うことはありませんね。

モンゴルの草原

2008-10-14 06:20:34 | 出会いの旅
 足尾への移動教室に参加した中国・内モンゴル出身のブリンさんからメールを貰いました。
 

 私は今回の足尾銅山見学の写真と川越だよりに書かれている鈴木さんが調べてくださった内容を合わせて内モンゴルの「塔林汗」(草原の友という意味のモンゴル語の当て字です)というサイトに投稿しようと思っています。

昔とてもとても美しかった草原が今中国政府の無計画な開発と農業化する考えによって足尾銅山のようになっていっています。帰国するたんびに禿げつつある草原を見て心を痛めます。
モンゴル人は「自分ひとりの力で何もできない」と思いがちで何もせず、悲しむばかりの人が多いと思いますが、私は今回の銅山見学で一人ひとりの力は小さくてもそれが大きいことにつながるんだと改めて感じまして、そういう教育をモンゴル人に広げたいなと思いました。
私が愛しているその美しい草原は世界でも有名な天然草場でしたが、それがモンゴル人だけのものではない、中国だけのものではない、地球のものであってこの地球がバランスよく生きるためのものだと今回の見学で肌で感じました。

昔はいつも中国の漢民族はどうしてどこに行ってもとりあえず自分ばかり考えて、利益さえ得られればなんでも壊すの?と思っていました。でも、足尾銅山は日本人の開発によってそういうふうになったのを見て、今まで中国人に対して持っていたのは偏見だったのか、もう一度考え直す必要があると思いました。
もちろん、国民性はあると思いますが、最近私は、中国の国民と政府を分けて考えるようにしています。統治者から国民性が見られるところもあるけど、これからは草原の問題でもなるべくものことを客観的に見るようにして、何でもかんでも政府や漢民族のせいにせず、自分たちがその草原を守るためどんな努力をしているのか、反省すべきだと思っています。    ブリン

 

 ブリンさんが愛するモンゴルの草原もこの地球がバランス良く生きるために欠かせない地球の草原だという認識に共感します。早くからこのことに気づきモンゴルの砂漠の緑化に取り組んできた方が居られます。
 川越市会議員・菊地実さんです。菊地さんがお兄さんと共に取り組んでこられたNPOのHPをご覧ください。素晴らしい写真集があります。クリックしてみてください。

 砂漠植林ボランティア協会

  http://sashoku.org/project.html


 私たち夫婦はかなり昔から菊地さんを存じ上げていながらこの事業には何の関わりもありません。この8月菊地さんが急逝されたと聞き、改めて大切な人だったと追悼している次第です。菊地さんはどういう思いからこの壮大な事業に取り組み始めたのか。今からでも勉強してみたいと思います。


還暦を迎えた卒業生

2008-10-13 07:39:28 | 友人たち
 昨日は昼近くまで寝ていました。前夜の語らいが遅くまで続き帰宅が深夜になってしまったのです。
 3年前の熱海での同窓会にも丹本君に付き添われて出席していた雨宮君が今回も顔を出してくれました。週3回の透析を受けているだけでなく最近、心臓にペースメーカーを埋め込む手術を受けたということです。次から次へと病気に取り付かれて気がめいりそうですが落ち着いて穏やかに語る口調に変化はありません。 昔からの友人だとは言え、丹本君の雨宮君に対する友情はただ事ではなく献身とでもいうべきでしょう。隣近所に住んでいるわけではありません。日々の仕事もあります。こういう特別のときだけでなく、何かにつけて雨宮君を訪れ、アッシー君をやったりして手助けしているようです。300年になるというという大島の古民家に独り住む雨宮君の老母もなかなか尋ねることのできない息子に代わって時々顔を出してくれる丹本君になじんでいるといいます。
 二人は高校では同級生ですが年は雨宮君がひとつ上です。近所同士ですが子供のころからどんな関係だったのでしょう。二人の口からは「どこか馬が合うのだろうね」という言葉しか出てきません。
 遠い昔から大島にルーツを持つ雨宮君に対し、丹本君の父上は外来者だといいます。満鉄に勤めた後、戦後都庁の職員となり、大島支庁に来たのです。母上は大島の人です。家庭の気風もちょっと違うのかもしれません。
 
 還暦を迎えた二人の話をホテルの30階の夜景の美しい窓際で聞きました。何かとてもいい二人です。
 還暦祭には病気をおして参加している人がほかにも居ました。こどもさんが介助で同席しています。Yさんです。残念ながらなじみが薄いので挨拶だけをしました。言葉を発するのも不自由のようですが彼女にとって無理をしてでも出たい大切な機会だったのでしょう。その思いは満たされたのでしょうか。

 T君の姿が見られないのはまことに残念です。ぼくに「ボンタ」というあだ名をつけ、みんなと僕を近づけてくれた人です。数年前、脳梗塞をやったが元気を回復したと聞いています。気は優しいがとても恥ずかしがり屋です。友人たちが何人も声をかけてくれたのに気持ちが動かなかったのでしょうか。
 
 僕は妻に付き添ってもらって会いたい人の居るところにはどこにも出かけます。思いを伝えて出会いを新たにしたいからです。宴席の最中に立ち上がって思いのたけを述べさせてもらいました。
 妻は僕の知らないうちに作った手芸品を還暦を迎えたすべての人にプレゼントしていました。妻にとってもT君は彼が18のときからなじんでいる大切な友人です。晴れの席でお祝いを渡せず残念だったことでしょう。

 H君とは卒業以来です。同級生の会合に顔を出すのは初めてだそうです。僕のことを思い出してくれません。仲良しだったヒデキ君とマサヨシ君が一緒に遊んだあれこれを話し、僕も古い写真を見せて動かぬ証拠を差し出しますが記憶は本当にはよみがえってこないようです。41年という年月はありますが何があったのでしょうか。
 
 五味さんはお連れ合いの海外出張でどうしてもこれないということです。夏に私たちと会い、「懐かしさとともに大変感激しました」というメッセージが届いていました。仲のよかった尾崎さんがそのメッセージを読んでうらやましがるやら残念がるやら。五味さんにとっても親元から離れて一人大島で暮らし始めたとき友達になった尾崎さんは忘れられない存在です。いつか、誘い合ってあの八ヶ岳山ろくを訪ねようと決めました。

 北海道の炭鉱町・歌志内から中三のとき大島に移り住んだ小山君、小笠原・八丈から大島・泉津の開拓に入った西川君。話を聞いていると大島はまるで移民の島です。昔の「島流し」の伝統とかかわりがあるのでしょうか。西川君は昔の生徒会長です。近年、管理職ユニオンを作って委員長をやっているといいます。

 上野動物園で働いている服治君は今パンダの飼育責任者です。中国が一頭一億円で日本のこどもたちに贈るということで話題になりましたが石原発言もあり話は進んでいないということです。世界中から引き合いがあり、一億というのは破格の安値だといいます。
 さまざまな青春が大島高校で出会い、40余年を経ていま「還暦祭」を迎えました。その場に立ち会うことができて何人かの人々の人生と出会うきっかけをもらいました。皆さんありがとう。これからもよろしく。