川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

1日(土)は川越「脱原発」デモです。

2013-05-31 16:27:54 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

5月31日(金)晴 夏日

よく晴れたので元気を出して川越運動公園まで行ってみました。

妻が作ってくれた弁当を食べて、さて一眠りというときに、がん研有明病院から電話がありました。抗がん剤治療のための入院が3日(月)に決まったとのことです。遅れに遅れていたので一安心。

ともかくこれで土日が貴重な「自由の日」。

明日は午後、体調がよければ「脱原発」を訴える川越のデモに参加します。近くの方はぜひどうぞ。

日曜日は東京で大きなデモがあるようですがこちらはお休み。

http://sayonara-nukes.org/2013/04/6-2nonekesday/#more-2967

未曾有の災厄の只中に叩き落されても「脱原発」を決意できないようではこの国と人類に希望は生まれようがありません。あきらめないで行動で未来を切り拓こう!

さようなら原発 川越パレード

20136月1日(土)15:00~
 
さようなら原発川越パレード
7月21日参議院選挙の投票があります。今一度”原発ゼロ!”の声をあげましょう。福島原発事故の検証もないままに作られる新規制基準にもとづく"原発再稼働”に強く反対の声をあげましょう。
 
 
原発はいらない!日本にいらないを原発を輸出するなんて論外!
良識のある日本国民の声を伝えましょう。
 
子どもたちの未来には、原子力発電所はいらない。
そして それを実現するのは大人の責任です。

 


 
【日 時】2013年6/1(土)15:00集合・川越駅東口・緑地公園(川越市駅よりの踏切脇)    
デモ(出発 ~解散予定(17:00)
【デモコース】15:30緑地公園出発⇒本川越⇒連雀町交差点右折⇒新富町通⇒クレアパーク⇒川越駅東口・緑地公園17:00(解散予定)
【持ち物】メッセージを書いたプラカードや風船・のぼり等、音の鳴るもの、
楽器など。もちろん手ぶらでもOKです。
団体名の入っているものや、主旨にそぐわない幟旗プラカード、チラシの配布また宗教団体の機関紙配布等はお断り致します。次に繋げる為にも、法令遵守をお願いします。
【主 催】さようなら原発川越の会(連絡先:田中重仁法律事務所・049-226-6171)

「慰安婦問題」をこじらせるもの

2013-05-30 16:53:55 | 韓国・北朝鮮

 5月30日(木)曇

 病室が空かないのか、入院の通知がないため自宅待機の日々です。昨日、今日と「がんサロン」でであった新しいガン友を妻とともに訪ねて挨拶をしました。お2人ともご近所さんだったのです。お2人はともに元気に市民生活を送っておられます。

 戦場の性を巡る橋下発言は混乱に混乱を重ねて政争になってきたようです。何が問題とされなければならないのか?原点に帰って考えてみることが大切です。

 この間の言説の中では江川紹子さんの「アジア女性基金」の「失敗」を巡って大沼保昭元理事へのインタビュー記事が一番印象に残りました。

僕は日韓条約(日韓請求権協定)締結から30年たった時点での解決方法としては「アジア女性基金」は衆智の結集だと考えてきました。二国間の条約や協定で解決済みとされているのに被害者が新たに名乗り出たからといって「国家賠償」を求めることは土台無理だということは韓国政府にもよくわかっていたはずです。

それにもかかわらず、韓国政府は無理な主張に固執するNGOを説得しようとしなかったのです。「反日」をアイデンティティとする学者やマスコミに押し流されたのでしょう。

被害者・元「慰安婦」の味方面をして自己の正義を主張する人びとの傲慢さには昔から辟易してきました。日本でも韓国でもこれらの人びとに自省の力がなく、肝心の被害者の思いは踏みにじられたままです。要するにさまざまな勢力がこの問題を自己の正義のために利用してきたのです。

僕は大沼理事の言う「日本の『左派』や『リベラルな』知識人」の一人だったといえます。袋叩きにあうのを恐れて正面からの批判を避けていたからです。

金学順さんが名乗り出てから20年以上がたった今繰り広げられている政争はアメリカがらみにもなっていっそう解決が困難になりました。

誰もが勇気を出しておかしいことにはおかしいといわなければこの問題はますます混迷の度を深めるでしょう。

一番しっかりしなければならない日本政府が自分たちがやってきたことに自信が持てないのか、おたおたして、きちんとした説明を尽くさないのは無責任のきわみです。

以下、江川さんの文章の紹介です。文中のゴチックや赤地は僕が施したものです。


 

日本が誇るべきこと、省みること、そして内外に伝えるべきことを~「慰安婦」問題の理解のために

江川 紹子 | ジャーナリスト

 

「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)という財団法人があった。村山内閣の1995年7月に発足。その最大の使命は、戦時中に日本兵相手の「慰安婦」となった海外の被害女性に対する償い事業だった。

その内容は、

1)総理大臣の謝罪の手紙 

2)国民の募金から1人当たり200万円の償い金 

3)政府資金による1人当たり120~300万円ほどの医療福祉支援ーーといった「償い」を被害者に届けること。

フィリピン、韓国、台湾、オランダ、インドネシアの5カ国で展開されたが、韓国では、日本政府が法的な責任を認めた賠償ではないとして、激しい反対運動が起きた。「償い」を受けようとする被害女性には、強い圧力が加えられた。このため、事業は難航。台湾でも同様の反発はあったが、現地の理解者の助けで、それなりの被害女性が「償い」を受け入れた、という。把握された約700人の被害女性のうち364人に「償い」を届け、基金は2007年3月末に解散。その活動ぶりは、今でもホームページを通じて確認できる(HPはこちら)。

総理からの手紙を示すフィリピンの被害者たち(アジア女性基金HPより)総理からの手紙を示すフィリピンの被害者たち(アジア女性基金HPより)

基金に関わった人たちの回想録を読むと、被害女性たちにとって、総理直筆の署名がなされた手紙の意味が大きかったことが分かる。その文面を知って多くが涙を流し、号泣する人も少なくなかったという。ある人は「総理大臣が、日本が悪かったと詫びてくれた。これで身の証になる。先祖のお墓に入れる」と安堵し、「日本は私たちを見捨てなかった」と喜んだ人もいた。

それだけのインパクトを与えた総理の手紙には、こう書かれている。

〈いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて(中略)心からおわびと反省の気持ちを申し上げます〉(全文はこちら

過去の歴史を直視し、正しく後世に伝える、とも記されている。そして最後は、今後の人生が安らかなものであるようにという祈りの言葉で結んでいる。

橋本龍太郎氏に始まり、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎各氏と歴代四人の総理大臣が署名した。この重みは、とても大きい。

昨今、「慰安婦」問題について、政治家が語る言葉を聞いていると、この重みが忘れられているような気がしてならない。

問題の所在はどこか

そんな思いで、同基金の呼びかけ人であり理事だった、大沼保昭氏(執筆時は東京大学大学院教授、現在は明治大学特任教授)の著書『「慰安婦」問題とは何だったのか』(中公新書)を読んだ。基金が行ったこと、行い得なかったことが非常に抑制的な筆致で書かれ、成果より反省点、問題点、今後の教訓とすべき課題が詳しく書かれていた。

『「慰安婦」問題とは何だったのか』『「慰安婦」問題とは何だったのか』

「償い」の募金には、多くの国民が協力した。大企業などの協力は得られなかったが、職場での募金や、基金の事業を知った様々な人たちからお金が送られてきた、という。その額は6億円に達した。当時、把握できた「慰安婦」の半数に「償い」を届けたにもかかわらず、基金にはしばしば「失敗した」という評価も下される。それは、韓国での事業展開が難しかったからだ。その原因として、基金自身の問題に加え、次のような諸事情があった、と大沼氏は書いている。

〈韓国世論を変える努力をまったくといっていいほど払わなかった日本政府の消極姿勢。(中略)

強硬なNGOの説得に動こうとしなかった韓国政府の無為。

元「慰安婦」を「売春婦」「公娼」呼ばわりして韓国側の強い反発を招いた日本の一部の政治家や「論客」と右派メディア。

みずからが信ずる「正義」の追及を優先させて、ときに元「慰安婦」個々人の願いと懸け離れた行動をとった韓国と日本のNGO

強固な反日ナショナリズムの下で一面的な「慰安婦」像と国家補償論を報じ続け、多くの元「慰安婦」の素朴な願いを社会的権力として抑圧した韓国メディア。

そうした過剰なナショナリズムをただそうとしなかった多くの韓国知識人。

韓国側の頑な償い拒否に、被害者を心理的に抑圧する独善的要素があることを批判しようとしなかった日本の「左派」や「リベラル」な知識人とメディア

これらさまざまな要因が相俟って、韓国における元「慰安婦」への償いに不十分な結果をもたらしたのである〉

問題は、どこか1つに集中して存在するのではない。

(赤地は啓介の加工です)。大沼さんのインタビューは以下に出てきます。じっくり読むに値すると思います。

出典●http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20130525-00025178/

 

 


がんサロン

2013-05-29 11:03:58 | 病状

 25日(土)午後、駅前のビルの一室で「がんサロン」というものがありました。

 このところ急速に患者らしい自覚が出てきたので出席させてもらいました。患者・家族・医師・看護士など30人ばかりの方々の自己紹介のあと、自由な懇談がありました。

ご近所さんといってもよい方が2人もおられて心強い思いをしました。

このサロンを主催しているのは「かわごえ緩和ケアネットワーク」ですが儀賀理暁という大学病院(埼玉医大医療センター)の先生が「代表世話人」です。仕事の合間に今日も顔を出して人々の会話に加わっておられます。いまどきこういう医師もおられるのかと思ったことです。

訪問看護で働いているSさんが僕のところに来て「緩和ケア」の実際を丁寧に説明してくれました。僕が通っている癌研有明病院には2時間以上かかります。いずれ地元の医療機関に世話になるほかはありません。願ってもないチャンスに恵まれたものです。

 在宅のままで訪問看護を受けながら緩和ケアを受けている人も結構いる?ようです。ちょっとした驚きです。

 僕は呼び出しがあり次第、癌研有明病院に入院して何回目かの抗がん剤治療を受ける予定です。今回は「緩和ケア」についてもそれなりに勉強しなければなりません。

サロンを主催しているかたがたは「リレー・フォー・ライフ」というチャリティーイベントの準備で大忙しの様子です。何年か前、川越公園を散歩中に偶然このイベントに出会ったのが今日の「サロン」につながりました。感謝あるのみです。

リレーフォーライフ・川越●http://rfl-kawagoe.com/rfl%e5%b7%9d%e8%b6%8a%e3%81%ae%e3%81%94%e7%b4%b9%e4%bb%8b/


 

 「川越だより」の訪問者数の異常高が終結しました。姜サンジュン教授の小説が出版されたようで、関連記事が目に付いたのでしょう。

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2013.05.28(火) 1024 PV 422 IP 1304 位  / 1878120ブログ
2013.05.27(月) 1131 PV 472 IP 1128 位  / 1877545ブログ
2013.05.26(日) 1898 PV 1027 IP 324 位  / 1877011ブログ
2013.05.25(土) 4082 PV 2797 IP 74 位  / 1876678ブログ
2013.05.24(金) 3592 PV 2440 IP 91 位  / 1876267ブログ
2013.05.23(木) 815 PV 345 IP 1723 位  / 1875767ブログ
2013.05.22(水) 1003 PV 343 IP 1772 位  / 1875248ブログ

美雪さん

2013-05-28 10:46:48 | 友人たち

5月27日(月)晴

昼過ぎに美雪さんが来てくれた。1977年3月、池袋商業高校卒業のコリア系の人だ。

何年か前から年賀状に川越を訪ねたいと書いてくれていた。一人息子のTくんが大学を出て自立したので余裕ができたのか声をかけると飛んできてくれた。

僕が会うのは10数年前、南こうせつのディナーショーに招待してもらって以来、かな。妻とは遠い昔、日暮里のおばあちゃんの家を訪ねて一緒に話を聞かせてもらって以来だ。

夕方まであらためて半生の話や家族の近況を聞かせてもらった。病気のお母さんを兄妹4人が協力しながら支えている様子を聞いて安堵したり、感心したり…。うれしい半日だった。

 高校生のとき、『生きることの意味』(高 史明著)を読んでもらった。その感想文を読んで以来、人生のともだちになった。勝手に。

僕は35歳。想像もできない困難と闘う17・8歳の生徒の話に耳を傾けた。


 

父を幼くして喪った彼女はこの頃、精神を病んだおかあさんの面倒を見ながら、一家の長女として家族の生活を切り盛りしていた。

「朝鮮人のくせに生活保護をもらい、そのうえ子どもを高校にやったり、浪人までさせている」という声にさいなまれながらも、閉じ込めておくだけの病院に疑問を持って、母の病院探しにも走り回っていた。やすらぎは優しく見守ってくれる祖母の存在だけだった。


僕が何かの力になりえたということはない。開放病棟がある「南埼玉病院」を紹介したことぐらいではないか。無力感にとらわれたと思う。

それでもともだちでありたいという思いは消えることなく人生の折節に出会うことがあった。 

今日聞いた話の中では兄妹3人が朝鮮学校に入れられそうになった話が「面白かった」。


 

朝鮮総連の活動家だった親戚のおばさんがいた。夏休みに行われる総連の「夏季学校」に連れて行かれた。後日、立派な作文を書いたお兄さんに大きな額縁に入った金日成の肖像画が贈られた。

 翌年の春、三人は朝鮮学校に連れて行かれ、全校生徒の前に並ばされた。どうも日本の学校からの転校生として紹介されるようだ。

 怖かった。これはやばいと三人して必死になって脱走した。


 

1960年代の後半のことと思われる。子どもを通称名で日本の学校にやる親をまるで犯罪者のように責める親族の話は前にも聞いたことがあるが、東京朝鮮第一初級学校(荒川区東日暮里)を巡ってこんな話があったとは。嫌がる家族を無理やり説得して北朝鮮に送る活動と重なって見える。

日本生まれのお母さんと済州島生まれのおばあちゃんは総連の学校には批判的だったが抗するすべがなかったのか。

それでも2人が兄妹を守ってくれたと美雪さんは感謝している。

兄は国立大学を卒業して今は社長さん、妹2人もそれぞれにがんばって自分の生き方を大切にしている。祖母を看取り、母に寄り添って生きてきた美雪さん。「なんで自分だけが」という言葉が聞かれるのかと思ったが、それは全然違った。

おばあちゃんの慈愛を享受して育った彼女にはおばあちゃんと生きるのは自然そのもの。長女として兄妹への思いやり、目配りも忘れなかった。それが今、みないい年頃になって、それぞれの形で母を支えることにつながった。僕はそう理解した。

それでも苦しい時期が何度もあったに違いない。よくがんばった。池商時代からずうっと付き合っているともだちが2人はいるという。僕はその2人の顔を思い出すことができないが、いい友達を持ってよかったなあとしみじみと思う。

 今度は兄妹や友人たちに会ってみたい。心して生きなければ。

 

 

 

 

 


旧東京教育大学

2013-05-27 11:54:17 | 父・家族・自分

5月26日(日)晴 夏日
入院を前に都心の自転車散歩をすることにしました。

8時過ぎに池袋近くの佐和子ちゃんの家を順子号で出発。今日は荒川土手の駅伝に出るという佐和子ちゃん(文京高・96年卒)をはじめ一家5人が見送ってくれました。

春日通りで旧大塚窪町の教育大学跡地を訪ねました。1961~66。5年間通いなれたところです。

日曜日とて「教育の森公園」となったあたりは子ども連れで賑わっています。

半世紀前の姿を残す占春園を歩いてみました。


昭和天皇行幸記念碑


昭和6年(1931年)東京高等師範学校創立60周年式典に天皇が臨席し「「健全なる国民の養成は師表たるものの徳化に竢つ。教育に従うもの、其れ奮励努力せよ。」と勅語を「賜った」という。

 僕が通った学校の前身は師範学校(教員養成を任とする)をはじめ、中等教育諸学校の教員を養成する「高等師範学校」だったのです。

時は1931年10月30日といいます。この年の9月18日に「満州事変」が始まったばかりです。この戦争が中国への本格的な侵略の序曲となったことは今日では明白です。

勅語の字面はもっともなことですが、この学校は侵略戦争遂行の国民精神錬成の重要な使命を帯びていくことになったのです。

嘉納治五郎像

「柔道」の嘉納は長く高等師範の校長を勤めました。

占春園

この地は元は水戸徳川家につながる大名の屋敷だったようです。このあたりにはクラブの活動場所があったような気がします。

僕は新聞会の一員でしたから学校の隅々を歩きました。梅根悟(教育学)・家永三郎(日本史)・朝永振一郎(学長)・鶴岡英吉(体育学)・中平解(フランス語)…などの先生方の謦咳に接することができました。各棟の守衛さんたちも可愛がってくれました。人気のない占春園を歩いているとこれらの方々の温顔が彷彿としてきます。

池の手入れは行き届かず荒れている感じです。



旧東京教育大学正門付近



若竹像

本部前にあった若竹像が旧E館前にそのままありました。



旧E館 跡に建った新しいビル。奥に占春園の森



6階には筑波大学大学院ビジネス科学研究科の研究室(横文字の先生が多い)や豪華な教室が並んでいます。ぐるっと巡ってみると半世紀がたったとはいえ、異星に来た感じです。教育大学の「経済」はマルクス経済学の牙城だったのです。

 筑波大学文京校舎●http://www.gssm.otsuka.tsukuba.ac.jp/

 

6階の窓から中庭を見下ろしてみました。

「教育の森」の池ではカルガモの赤ちゃんが水練中。


スコットランド民謡?アイルランド民謡?

2013-05-26 06:03:39 | 映画  音楽 美術など

5月25日(土)晴

夢の中で三つの唄の区別がつかず悩んでいるうちに目覚めました。いずれも中高時代に音楽の時間に習ったか、ラジオで聞いたかして覚えたイギリスやアイルランドの唄です。

 原曲は同じでも日本語の歌詞がいくつもあって混乱を助長しているようです。僕が習った歌詞を紹介します。どれも青春期に心に届いた唄です。

 明治期にはこのような外国の唄がたくさん学校で教えられたようです。「大東亜戦争」敗北後の学校でもよみがえったのです。一番目と二番目は子どもを戦場に送った母の思いが共通している、のか。

<一番目の唄>

 美しき

     日本語詞:野口耽。介

1 美しき わが子やいずこ
  美しき いとしきわが子
  しるべなき身 はるかの国へ
  はるばると 旅たちにけり

2 美しき わが子やいずこ
  美しき いとしきわが子
  夢に見るは 幼き頃の
  あどけなく ほおえむ姿

3 美しき わが子やいずこ
  美しき いとしきわが子
  つつがなきや のぞみにみちて
  ゆく道の 幸をば願(ねご)

曲は●http://www.youtube.com/watch?v=ffZgMNic6DY

元は「スコットランドの釣鐘草」でスコットランド(イギリス)の民謡なのですね。

<二番目の唄>

題?     津川主一

1 わが子よ いとしの汝(なれ)
  父君の形見とし
  こころして愛(いつく)しみつ
  きょうまで育て上げぬ
  古き家を巣立ちして
  今はた汝はいずこ  よわき母の影さえも
  雄々しき汝には見えず

2 はてしもなきかの路の
  あなたに汝はゆきぬ
  むなしき我が家見れば
  亡き父君おもわる
  足もとの草むらより
  立つはさえずる雲雀(ひばり)
  ああ われも強く立ちて
  我が家の栄誉(ほまれ)を守らん

曲は●http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/03/londonderry_air_2799.html

元の唄は「ロンドンデリーの唄」でいうまでもなくアイルランド民謡です。でもこれは後に知ったことで習ったときは?。

いま、ロンドンデリーを含む北アイルランドはイギリス領のままです。この曲が「ダニーボーイ」として人口に膾炙したこともありました。次の音源は貴重です。時間が許す方は耳を貸してください。

ダニーボーイhttp://www.magictrain.biz/wp/?p=3561

<三番目の唄>

妹に

   深尾須磨子訳詩

 赤い紅い丸い林檎
 そして瞳に光る星
 年は五つ歌の好きな 
 天の使いのわが妹

 いつもいつも 歌う小鳥
 そしてげんきに 飛ぶ小鳥
 年は五つ 花の好きな
 天の使いの わが妹

曲は●http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/08/post_d16f.html

元の唄は「アンニーローリー」でスコットランド民謡。堀内敬三の訳詩のほうが一般的なようですが僕はこちらを習いました。「アンニーローリー」といわれてもピンときません。


新日本風土記「川越」

2013-05-25 06:21:57 | 川越・近郊

友人からの報せです。川越在住の原村さんが製作した番組が昨夜放送されたようです。我が家はTVには縁がないので紹介をしくじってしまいました。

 29日(水)午前8時から再放送があるそうです。

川越市街は広大な農村の上に浮かぶ島のような存在です。僕は今の市街にはあまり魅力を感じません。日々、自転車でさまよう農村や河川は魅力たっぷりです。

 あそびにこられたら自転車で案内します。一晩どまりのつもりでお出かけください。

 

NHKBS「新日本風土記」川越

都心からわずか30キロの地に、江戸時代から受け継いだ庶民文化が色濃く息づいている街「川越」。東京では失われた重厚な「蔵造りの街並み」、江戸の天下祭りを受け継ぐ「川越まつり」、雑木林と畑が一体となった「江戸の循環型農業」など、東京のベッドタウンでもある川越には、いまも多彩な江戸文化が残っています。
 市街地を広大な農村地帯が取り囲む川越は、町と村が密接に関わりながら江戸の伝統を継承してきました。その背景には、川越と東京(江戸)が川を利用した水上交通で深くつながってきた歴史があります。
 こうした川越の風土と歴史、さらにはそこで暮らす人々の魅力を描きながら「川越」を旅します。

●蔵造りの街並み~お江戸日本橋の面影を残す旧市街。そこに息づく蔵とともにある暮らし。
●新河岸川~川越に江戸文化を運んだ舟運。春、復活した高瀬舟が子どもたちを乗せて進む。
●江戸の循環型農業~荒野だった武蔵野台地を開墾、この地で13代農業を営む農家。
●川越まつり~町衆の山車に乗る村方のお囃子。町と村が一体となって繰り広げる一大絵巻。
●雑木林の守り人~新緑の中、ロープ1本で木に登り林の手入れ。400年続く人と林の営み。

 出典●http://www.nhk.or.jp/fudoki/index.html


訪問者数に異変

2013-05-25 06:06:52 | 父・家族・自分

5月24日(金)晴 夏日

今朝(25日)気づいたことですがこのブログの訪問者数に異変がありました。

ふだんは300人台から400人台なのに24日は2440人となっているのです。アクセス分析には入っていないので事情がよくわかりません

24日の「人気記事」は次の通りです。「姜尚中・東大教授」がこのところずうっと上位です。何かの事情でこの日アクセスが集中したのでしょうか。

在日コリアン・コリア系日本人にかかわる記事をもっとしっかり書いておきたいのは山々なれど、エネルギー不足です。昔書いたものが役立っているとすればうれしいことです。

このブログの人気記事

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2013.05.24(金) 3592 PV 2440 IP 91 位  / 1876267ブログ
2013.05.23(木) 815 PV 345 IP 1723 位  / 1875767ブログ
2013.05.22(水) 1003 PV 343 IP 1772 位  / 1875248ブログ
2013.05.21(火) 1065 PV 342 IP 1772 位  / 1874762ブログ
2013.05.20(月) 1044 PV 455 IP 1183 位  / 1874249ブログ
2013.05.19(日) 1270 PV 417 IP 1372 位  / 1873729ブログ
2013.05.18(土) 930 PV 373 IP 1453 位  / 1873373ブログ

水子貝塚公園

2013-05-24 04:22:55 | 川越・近郊
5月23日(木)晴 夏日

川越の穀倉地帯:南古谷の田植えは終わったようです。



富士見市の水子貝塚公園に足を延ばしてみました。縄文の世界が広がっていました。



縄文海進で奥入間湾が出来、川越近くまでが海になっていたんですね。



貝塚の様子。



出土した土器の一部。



木々に取り囲まれた環濠集落のど真ん中で仰向けになってみました。このまま眠りこんでしまいそうです。

近くに見つけたバーでオムレツの昼食。これが美味しい。新河岸川の自転車道からすぐ。開店1周年でコーヒーが無料。息子たちと同じく夫婦で頑張っているようだ。エールを送った。

4時に帰ってから家園の主人と店の近所にビラ配り。挨拶を返してくれる方もいて主人は嬉しそう。中国から来てはじめての体験らしい。

疲れたがいい一日だったな~。

亜子ちゃん

2013-05-23 06:28:18 | 友人たち

5月22日(水)晴 夏日

長く待たれた日がやってきました。亜子ちゃんが我が家を訪ねてくれたのです。

亜子ちゃんといえばこの写真です。1966年末・横須賀市浦賀港。アジア大会の年の生まれだから8歳かな。

  

大島高校に就職した年の暮れ、まだ学生だった妻と浦賀に住むおばあちゃん(母の叔母)のもとを訪ねました。おばあちゃんの一家は漁船員相手の食堂を営んでいました。幼くして兄と母を喪った亜子ちゃんは父とともにここで暮らしていたのです。

土佐・室戸の生まれですが、僕も初対面同様です。亜子ちゃんが東浦賀の家から渡船に乗ってあちこちを案内してくれたのではなかったか。そのときに僕が撮った写真です。

このときから賢くて愛くるしい亜子ちゃんに「お兄ちゃん」と呼ばれるようになりました。そんなふうにいってくれる人はほかにはいません。生涯の喜びとなったと言ってよいほどです。

わたしたちが結婚した翌年の正月に亜子ちゃんはお父さんをも喪ってしまいました。正月の帰郷の帰りに野辺の送りに加えてもらいました。おばあちゃんがいるとはいえ、「天涯孤独」となった亜子ちゃんにどんな声をかけられたのか?

おとなになった亜子ちゃんを訪ねて人生の話をしたのは10数年前のことです。大学の先生をしています。小学校の先生と結婚して娘さんに恵まれていました。

その娘さんがこの春大学を卒業してある有名な神社に就職し、家を出たと聞きました。それならばと声をかけたところ、今日の川越訪問が実現したのです。

46年ぶりのツーショットです。

 11時から夕方まで積もる話でゆっくり時は過ぎていきました。今を誠実に生きる聡明な熟女の姿がありました。

 父が亡くなったとき祖母は65歳だったそうです。孫を育て上げるために懸命に働いたといいます。伯父夫婦や従姉兄たちの愛情に恵まれたとはいえ、この祖母の存在が亜子ちゃんを深いところで支え続けたのです。父の養母で亜子ちゃんと血縁はありません。

元は産婆さんで僕も取り上げてもらいました。あの時代には珍しいキャリアーウーマンだったのでしょう。その意地と誇りが亜子ちゃんのなかに生き続けているのかと思わされたものです。

 元気に生きて今度は娘さんとも「出会う」喜びを味わいたいと思います。

 


漢詩二首 浜離宮庭園

2013-05-22 04:21:33 | 東京・関東

5月21日(火)晴 夏日

きいちご散歩教室の「生徒」:山野文雄さんからいつものように漢詩が届きました。


漢詩二首

『学習』 

旧浜離宮芳梅亭 
移動教室師生情 
江戸歴史東京伝 
温故知新無止境 

 林さんも 私も 移動教室の生徒として 教室で よく勉強になり 皆さんと同じ 感謝の気持も いっぱいです 

『松蔭結縁』

古松三百年 
五人聚松蔭 
人松不服老 
縁結離宮前 

三百年の古松があり 
松の蔭には五人の男が集まり  
老のことを忘れられ 
離宮において縁を結びます 

 松蔭は 吉田松蔭の喩もあり 五人とも学校の仕事を勤めていたことがあります 
 離宮は もう一つ意味があり 庭園を離れる前に記念写真を撮ったことも示します 

            2013.05.20 文より


 啓介 林さん 勝義さん 山野さん 精さん  浜離宮300年古松前



 菜穂子さん 啓介 山野さん



 良子さん  啓介 山野さん

山野さんは僕と同年の「中国残留日本人孤児」。両親は愛媛の出身です。四月に都心に出現した「四国88箇所」を数時間で踏破したとも聞きました。「松蔭結縁離宮前」なんて、学識もユーモアもさすがですね。


「先が見えてきた」かな。

2013-05-21 08:42:05 | 病状

5月20日(月)曇

午後2時半、癌研究会有明病院の西尾医師の診断がありました。

「x線検査でみると右肺に転移したガンは一ヶ月前よりはかなり増悪している。腫瘍マーカーも高くなった。54。片肺なのでこのままでは急激に呼吸困難をきたす可能性がないとはいえない。」

来週入院して「アリムタ」という抗がん剤の投与(点滴)を受けることにしました。効果のほどはわかりませんが副作用もさほどではないらしいので。
2週間入院して副作用の様子を観察した後は3週間毎に外来で点滴を受けることになります。
うまくいけばしばらく今まで通りの生活を楽しめる、かな。

手術以来7年余り、「僥倖」といわれる闘病生活をおくることができました。
7月には72歳になります。よく生きてきたものです。

いずれにしても先が長いという年ではありません。心してやりたいことをやって人生を楽しみ尽くしたいものです。

友人たちには心配をかけますがこれがありのままの報告です。

何の力にもなれないのに友人たちの話を聞いたり、人生や社会について議論したりするのが大好きにんげんです。

暇を作って付き合ってくださいね。

これまで通り僕の方からも出かけます。泊りがけなら夜でも大丈夫です。
川越にもおでかけください。数人なら泊りがけも可能です。
一緒に旅ができたら最高です。


今昔の感

2013-05-20 09:56:54 | 東京・関東

5月19日(日)晴

きいちご散歩教室への出発です。妻がこの日に間にあうように作務衣(さむえ)を作ってくれました。初夏向きです。3月の故郷訪問には春向きのを着ていきましたから、これが第二弾ですが、東京方面に出向くのは初めてです。

 作業をするためではありません。さらにのんびりゆったり余生を楽しんでほしいという観音さんのプレゼントです。還暦祝いに息子がくれた帽子も初めてかぶっていくことにしました。


 新橋駅出発が一時間近くも遅れてしまいました。駅の変貌で汐留(しおどめ)口がわからなかったようです。

 新橋駅から汐留駅(ゆりかもめの駅)あたりまでの回廊を歩きました。汐留の貨物駅があった辺りです。巨大なビルの林立に圧倒されるばかりです。

10年ほど前に再開発が本格的に始まったとは聞いていましたが…。大島高校に勤めるようになってから妻と初デートの地に選んだの「浜離宮」です。その頃のことを思うと正に「今昔の感」があります。想像もつかなかった光景です。


某TV局。TV局を操る電通本社のビルも近いようです。日本を牛耳る電波網の巨大本社ビルがいまや東京の名所になっていますが、僕には魔物のように感じられます。こんなビルにたむろする種族によって日本人の心が操作されているのです。恐ろしいことだと思います。

11時ごろにやっと浜離宮庭園の芳梅亭について自己紹介とお勉強。江戸時代末期の江戸の古地図を広げて160年ほど昔にタイムスリップしてもらいました。

これほどに変貌の激しい都市もそうはないでしょう。それでもこの街の後背部に深く江戸の歴史は潜んでいます。それを知ることが今を相対化して知ることにつながります。

 今の「繁栄」がどれほどのものなのか、ここままこの道を進んで良いのか?想像力をたくましくする力を若い人には身につけてほしいものです。

このあと木陰の芝生でゆっくり昼食会。持ち寄ったご馳走の相伴にあずかっておしゃべりはいつまでも続きました。


今日は「江戸」へ

2013-05-19 05:11:40 | 東京・関東

5月19日(日)

 今日はきいちご多文化共生基金の主催する「第一回きいちご散歩教室」の日です。

一泊バス旅行を主体とした「きいちご移動教室」は昨秋の15回目で終了しました。それを継ぐ形で今度は「散歩教室」です。

 東京の名所旧跡をゆっくり散歩することにします。東京は住まいとして職場としてかかわりの深いところです。しかし、意外と知らないところばかりです。

今までも「東京の中の朝鮮」などというテーマでフィールドワークをしたことはありますが、散歩教室には特定のテーマはありません。皆さんの意見をお聞きしながら企画を立てていきます。

移動教室と同じように春(5月)秋(10~11月)に実施します。年間、1000円程度の寄付をすれば誰でも会員になれます。行事に参加してから気に入れば会員になっていただければいいのです。

 HR担任の鈴木啓介が元気なうちは続きます。

第一回は「浜離宮庭園」です。江戸時代の将軍の「浜御殿」があったところで今は都立公園になっています。

 芳梅亭という和式家屋で自己紹介などをしたあと、持参の弁当で昼食会をします。今日はまずまずの天候ですから外でできるかな。 午後はぶらぶら散歩。

お勉強のほうは「江戸」へのタイムスリップ。江戸の頃のこのあたりはどんな様子だったかを古地図などを見ながら想像してみます。

僕の好きな江戸湾岸の図。

第107景深川州崎十万坪

これは安藤広重が今の江東区東陽町辺りを描いたものです。遠くに筑波山が見えます。

浜御殿(中央区)からはどんな景観が広がっていたのでしょう?

興味が湧いてきたらどうぞお出かけください。あと数名は大丈夫です。

 


田植え

2013-05-18 07:54:04 | 川越・近郊

5月17日(金)晴

川越公園の散歩のあと、小ヶ谷地区を通ると田植えが始まっていました。同世代のご夫婦とお嫁さんが働いています。

今年は寒さのためか苗の生育がよくないとのことです。

一反(300坪)の田んぼを25枚(2町5反)作付けするそうです。昨日は一日で8枚やったということです。




入間川に近い川越の穀倉地帯です。市街に比較的近く、近頃は保健所などの公共施設も移転してきました。スーパーなどの進出の話もあるがこの辺りの農家は警戒的のようです。機械化の進展で2町5反の営農は兼業でも無理なくやれるのでしょう。豊かな農村です。

夕食にキヌサヤの煮つけが出ました。今年も千葉に住む美緒子さんが家庭菜園で丹精こめて作ったものを送ってくれました。今年は寒さのため、心配していたが、例年通り届けることができてよかったと便りにありました。

 もう42年も前の池袋商業高校の卒業生です。治療で歯の不具合も解消したので美味しくいただくことができました。