川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

アイヌ民族の復権

2009-07-31 11:48:45 | 政治・社会
 7月が終わりますが今朝は肌寒い梅雨空です。過ごしよいのは助かりますが気分はぱっとしません。
 うれしいニュースがありました。アイヌ民族復権の道筋が示されたことです。

 「北海道新聞」の社説を読みました。失礼なことを聞きます。皆さんはこれを読んで理解が出来ますか。理解不充分と判断したら一生懸命勉強しなければなりません。はっきり言って日本国民としては恥ずかしいことです。
 アイヌ民族が日本の先住民族であると国会で認められたのは昨年6月のことです。こんな自明のことを国家としてやっと確認したのです。それも国際的な圧力を受けてのことです。
 しばらく前までは総理大臣が国会で「日本には差別を受ける少数民族は存在しない」「日本は単一民族国家である」(中曽根首相)などと胸を張っていたのです。そんな人たちが国民に向かって民族的自覚や愛国を説いてきたのですから立派なものです。
 
 アイヌ語を母語とするアイヌの存在は絶えてしまったのではないかと思われます。アイヌ語自体も風前の灯火でした。アイヌの人たちの闘いと国際的圧力が相まって、アイヌを民族として抹殺しようとした歴史に終止符を打つときがようやく来たのです。

 アイヌ民族の復権は人類生存の希望の灯火になりうると書いたことがあります。日本列島で共に生きる人々の生活と文化に学び私たち自身を救う道を拓いて行きましょう。

 萱野茂さんとアイヌ新法http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20070710
  

 カムイhttp://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20070707


     社説(「北海道新聞」)

  アイヌ政策 復権への一歩を確実に(7月30日)
 

 アイヌ民族に対する新たな総合政策が政府に示された。絵に描いたもちにしないよう具体的な施策づくりに全力を挙げてほしい。

 政府の「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」が報告書をまとめた。

 報告書はアイヌ民族を先住民族と認め、国の同化政策がその暮らしや文化に打撃を与えたと指摘した。

 その上で、国は生活・教育支援や文化復興に強い責任を持つとして、これらの施策の全国展開に主体となって取り組むよう求めている。

 教育・研究、展示、慰霊施設を核とする「象徴施設」の設置などを除けば、具体性に欠ける提言もある。

 ただ、1年間という限られた審議期間を考えればやむを得まい。文化振興に限定した従来の施策の幅を広げ、バランスの取れた内容にまとめたことを評価したい。

 国連の先住民族権利宣言と、これを受けた昨年の国会決議の意義を説き、尊重した姿勢も歓迎できる。

 素案にはなかった立法措置の必要性についても明記している。

 多様な政策の推進には、その理念や施策の立案、実施体制などを定めた法律が欠かせない。政治情勢に影響されず、着実に法案作成に取り組むよう政府に求めたい。

 報告書は、前半でアイヌ民族の受難の歴史を詳述した。全体の半分近くを民族の歩みに当てたことで先住民族としての位置づけ、国の責任を明示したのは適切だ。

 問題は、こうした歴史が全国的によく知られていないことだろう。それを踏まえ、主な政策課題として国民理解の促進を挙げた。

 義務教育が終わるまでにアイヌの人々の歴史、文化の基礎知識を学んでもらうよう要請。「アイヌ民族の日(仮称)」を設け、民族への理解を深める広報活動や行事を全国で実施することも提案した。

 いずれも国民全体に「民族共生」の意義を認識させ、差別や偏見を解消するための有効な取り組みだ。

 生活・教育支援の具体策は、新設を求めた常設審議機関に委ねた。

 アイヌの人々は生活保護率、大学進学率などで格差を負っている。ただ、道外居住者の生活実態は詳しく分かっていない。調査に基づき有効な施策を打ち出すべきだ。

 支援にはアイヌ民族の個人認定も必要となる。プライバシーに配慮した公正な方法を探ってほしい。

 「先住権」に基づく政治的な自決権は中長期の課題とされた。

 国会などでの特別議席は憲法に抵触する、と指摘した。アイヌの人々には、民族の総意をまとめる組織づくりも要請した。政治参画の在り方はなお論議を重ねるべきだろう。


   歴史http://www.frpac.or.jp/kodomo/flash/hito/rekishi/rekishi.html

朝鮮総連の幹部たちに心が痛む人はいないのか

2009-07-30 14:02:13 | 韓国・北朝鮮
 風呂場の窓にテッセンが花を開きました。この春、苗を買ってきて植えておいた二代目です。たった一つですが濃い紫の花です。今日は久しぶりに暑くなりそうです。

  テッセンhttp://www.hana300.com/kurema.html

 先日、Aさんが我が家を訪ねてくれました。数年前、北朝鮮を脱出して40余年ぶりに日本に帰ってきた在日コリアン2世です。残してきた家族をはじめ金王朝の過酷な支配体制のもとにある在日コリアン帰国者の救出が思うように進まないことに心を痛めています。緊張の日々の連続ですから少し疲れておられるのかも知れません。
 ぼくに何かが出来るというわけではありません。ゆっくりお話を聞かせてもらいました。

 印象に残ったお話です。

 Aさんが北朝鮮に着いた日から心を砕いたことの一つは自分のせいで自分と同じ運命を辿る人を1人も出させないということだったといいます。Aさんを追って北朝鮮に来たいという恋人や肉親或いは友人たちを絶対に来させないことです。「来るな」とあからさまに伝えることは出来ません。一緒に住みたいというお母さんに絶対にダメとわからせるのに20数年もかかったと言います。
 だまされたといっても自分が選択した運命です。そのことに責任を持とうとする強い倫理観が働いたのでしょう。「累を他者に絶対に及ぼしてはならない」と。


 もう一つ、ずうっと思ってきたことは自分たちを煽動し、北朝鮮に送り込んだ朝鮮総連の幹部たちの良心にかかわることです。

 帰国運動を始めた当初のことは問わないにしても、だまされたという情報がはっきりと届くようになっても彼らは調査をするわけでもなく「北送」を性懲りもなく続け、同胞を塗炭の苦しみの中にたたき込んだのです。3年すれば里帰りが出来ると思いこまされていた日本人妻の運命は特に過酷だと言います。
 朝鮮総連の幹部たちも人間であるからには人生の終末期を迎えて自分がやったことに対し良心の呵責にたえかねているのではないか。そういう人がいるのではないか。そう思い続けてきたというのです。

 そういう人が中心になって朝鮮総連として北朝鮮に対して帰国者の日本への自由往来を認めるよう要求すれば北朝鮮当局もそれを無視することは出来ないと考えているようです。


 幹部たちの中には北に人質を取られていない人もいます。この人たちに良心の呵責に苦しんでいる人はいないのでしょうか。Aさんは人間を信じることが出来ない北朝鮮の40年余の自らの体験に即して、それでも自分は人としての良心を失わなかった、という自負があります。この日本で生きているのですから幹部たちの中には必ずいると思われるのかも知れません。

 しばらく前、朝鮮大学の副学長だった人がNHKの番組に出て金日成の還暦の膳者(贈り物)として200人の学生を差し出した行為を認め、その罪を告白するということがありました。この方はその後どうされているのでしょう。こういう方は他にはいないのでしょうか。

 ぼくには朝鮮総連が同胞の立場に立ち戻って北朝鮮にもの申すとは夢物語のように思われます。拉致発覚以来総連を離れる人はいても反旗を翻す人がいるとは聞きません。でも、Aさんの願いに応えてともに活動してみようと言う人が現れることを願う気持にはなりました。

 日本政府はなぜか北朝鮮で行方不明になったままの日本人妻のことについて口を閉ざしたままです。日朝交渉のテーマにすらなったことがありません。国民を保護するというもっとも重要な仕事をさぼっているのです。
 総選挙後の新政府がしっかり取り組むように私たちも動かなければと思います。ここらあたりから何かが動き始めるといいのですが。

 このブログを読んでくださる皆さんがAさんたちの声に耳を傾けてくださるよう願わずにはいられません。

 帰国者チャンネルhttp://blog.livedoor.jp/kikokushachannel/archives/51169506.html

 

丸木夫妻 天安門事件三連作

2009-07-29 21:05:02 | 川越・近郊
 今日は思ったより天気が良さそうなので水くみの途中に丸木美術館に寄ることにしました。

 天安門事件から20年ということで天安門事件三連作が展示されています。

  天安門事件三連作http://www.tokujoho.jp/know/2009/06/post_88.html

 中国にたびたび出かけ、天安門上で毛沢東の接待を受けたことがある丸木夫妻です。どのような思いで描いたのでしょう。ご夫妻の胸中を想像しながら画の前に立っていると悔し涙がにじみ出てきます。
 いかに招待を受けようとも虐殺にはっきりと抗議する丸木夫妻の生き方に敬意を感じます。当たり前といえばそれまでですがそういうことが出来ない「親中派」が少なくないのです。
 独裁権力から「招待」されたり、「ただ酒」を振る舞われたりすることは人民の膏血でてなづけられることではないかとぼくは思っています。まんまとその手に乗っていい気になっているおばかさんが後を絶たないのです。労働組合の幹部などに多かったように記憶しています。

 一階では「丸木スマ・大道あや展」をやっています。

 http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2009/2009ayasuma.htm


 大道さんの画を久しぶりに見ました。美術館界隈でその姿に接した日が懐かしく感じられます。親子の画をこうしてみせてもらうのははじめてではないかとおもいます。似ているなあと感じます。

 

三浦小太郎さんの対中・対北戦略論(下)

2009-07-28 06:20:42 | 韓国・北朝鮮
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 7月27日(月)晴れ一時雨

 午後、雨の中、井上泰久さんが自家菜園で取れたといって野菜を届けに来てくれました。仕事があるのか、ゆっくり出来ないのが残念。
 井上さんは隣町でジャズ喫茶を長くやってきました。故郷が室戸で高校の後輩でもあります。昨年の大病を克服して元気いっぱいです。上福岡の駅前ひろばを路上ライブの聖地にしようと市民のリーダーになって活躍しています。

 上福岡 曼陀羅http://www5f.biglobe.ne.jp/~mandara/


 夜、アイルランドに行っていた娘が帰ってきました。本場でのU2のライブを体験して満ち足りた旅だったのでしょう。


 三浦さんの論文をもう一つ紹介します。出典は昨日と同じ「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」のHPです。



蓮池透「拉致 左右の垣根を超えた闘いへ」を読んで(上)
└ 2009-07-21 20:12

            三浦小太郎


 以前拉致被害者家族会の事務局長をつとめ、家族奪還のために北朝鮮政府に対する強硬な姿勢を主張していた蓮池透氏が、最近は対話路線に変更し、経済制裁の強化による拉致問題解決を求める家族会、救う会と距離が生じていることは、この運動に関わっている人たちの間では周知の事実です。ここで私は、まず、同氏が著した「拉致 左右の垣根を超えた闘いへ」(かもがわ出版)を読むことにより、そして私の共感できるところと、やはり進む道が異ならざるを得ない点を考えて行きたいと思います。

本書第一章の「日本政府の四つの失態」において、蓮池氏は、小泉第一回訪朝時の日本政府の姿勢を「5人生存8人死亡ということを、私たちに受け入れさせようとしました」という、日朝国交正常化優先のものであり、拉致問題を軽視したものだったことを批判しています。また、蓮池氏の弟、薫さんを含む、拉致被害者五人の日本帰国は、北朝鮮・日本両政府にとってあくまで「一時帰国」であり、それを必死の努力で日本に留め「奪還」したのは、家族や日本国民世論の力であったことも指摘しています。

この「一時帰国」に関する蓮池氏の以下の文章は興味深いものがあります。
「北朝鮮は彼らを日本に戻して、何をしようとしたのか。一つは、生きていたのだという事実を日本の国民に知らせ、そうすることで世論を沈めることです。もう一つは、親兄弟、親戚、友人達に、今後はあいたければ北朝鮮に来るように仕向けてこいということです。そういう重たい使命を背負わされて帰ってきたのだと思います。」(29頁)

そして、蓮池氏は、当時弟が北朝鮮のことを礼賛し、自分のことを「朝鮮公民」「俺は使節団だ」などと言っていたことなどを指摘しています。私が最も印象的だったのは、弟の薫さんはじめ、拉致被害者5人が、羽田空港で家族に出会ったときに誰も涙を流さなかったということでした。涙を流したら、北朝鮮での生活がつらかったことを認める事になる。だから彼らは泣けなかったのだと蓮池氏は言います。さらに、自分と弟が口論になって、同席していた母が泣いてしまった時、弟が大変狼狽した。これも「短い時間だけれど親孝行をしてこいという指令を北朝鮮から受けていて、親を泣かせるということは、その指令に反する」からこそ、弟さんは狼狽したのでした。

実は、私が知る範囲内ですが、北朝鮮から国境を超えて逃れてきた脱北者の方々は、全員、この日本で親戚に再会し、また故郷を訪れた後は喜びや懐かしさで涙を流します。それに対し、拉致被害者家族がここまで精神を縛られたまま日本に戻されていたことを思うと、今更ながら北朝鮮政府の恐怖支配の恐ろしさ、そしてこの家族たちを「一時帰国」で北朝鮮に戻そうとしていた日朝両政府、特に日本政府の姿勢は、あまりに拉致被害者の立場を軽んじていたものと思わざるを得ません。

続く、第2章「北朝鮮をどう動かすか」において、まず蓮池透氏は、日本政府の姿勢を「拉致問題を解決する戦略というものをほとんど持っていない」(51頁)と批判します。私も全く同意見です。そして、日本独自の戦略戦術も持たずにいたずらに外国に働きかけても、単に同情的な声を得られるだけで実効性はないと述べ、結局アメリカがテロ支援国家指定を取り下げれば打つ手がなくなってしまったのではないかと現状を批判します。

そして、蓮池氏の最も重要な指摘は次の点です。ここは誤解を招かぬよう同氏の文章をできるだけ忠実に引用します。

「もっと経済制裁を強めて欲しいというのは、もともと『家族会』や『救う会』が要求してきたことです。したがって、(日本)政府が制裁路線でやってきたのは、良く言えば、政府が『家族会』や『救う会』を大切にしてきたということです。一方、悪く言えば、家族の言うことだけをやっていればいいのだと、安易に考えてきたのではないかとも思う。」

「もしかしたら、家族の意向に逆らってでもやる事が、問題の解決にとって必要な場合だってあるでしょう。(中略)ところが、今の政府のスタンスは、家族の言うとおりにしているのだから、批判してもらっては困るという態度のように感じます。求めに応じて制裁をしているのだから、被害者が帰ってこなくても文句を言われる筋合いはありませんと思っているのではないでしょうか。それは、自分たちの無為無策を、家族を口実にして棚上げしているようなものです。」(55~56頁)

私は蓮池氏の最も重要な問題提起はこの点だと思います。同氏が最近しばしば述べる歴史論などは実は二義的な問題です。日本政府が単に無為無策なのではなく、一応「制裁」を実施し、家族会の意向に沿うように見えて、実はそれ以上の行動を起こさない点が事態の打開を妨げているという蓮池氏の指摘は、現在の日本政府の欺瞞性への的確な批判となっています。

日本政府は、あえて家族会や国民世論の誤解を受けようと批判されようと、北朝鮮との積極的な交渉に踏み出す姿勢もなければ、また、これは私が望む方向ですが、失踪者問題や北朝鮮の人権問題、また脱北者問題などに全面的に取り組み、北朝鮮独裁政権のみならずそれを支える中国一党独裁体制と対峙する決意もなく、ただ、救う会や家族会の意向を最低限実施することで現状をやり過ごしているのです。この時点までは、私は蓮池氏の問題提起を素直に私達は受け止めるべきだと考えます。

しかし、これ以後、ではいかにして現状を動かすか、北朝鮮にアプローチすべきかという点においては、私と蓮池氏の意見は大きく異なっていきます。

蓮池氏は経済制裁は充分な効果は挙げないと述べ、むしろ一般市民に影響を与えている、そんなことをしても北の体制に何の影響もないと述べています。この点は様々な意見があり、経済制裁の影響については冷静な議論も必要でしょう。しかし、北朝鮮は、自らが改革解放や、人権改善、拉致問題の解決の為に前進すれば各国の支援を受けられるのですから、これらの方面で全く前進が見られない以上、少なくとも日本国政府が制裁を緩めるわけには行きません。

私が不満なのは、制裁の理由が拉致と核のみであり、北朝鮮の政治犯収容所などの人権弾圧が、日本政府の経済制裁の理由として明記されていないことです。そして、韓国が李明博政権になって以後、無原則な太陽政策は放棄され、北朝鮮に向けての制裁効果は以前よりも高まっています。今後日本国政府が、現在の中国に対し戦略的アプローチを採ることができれば、北朝鮮を追い詰めることも決して不可能ではありません。

蓮池氏は、北朝鮮はそう簡単に崩壊する国ではなく、また、中国、ロシア、韓国とも協力して完全に経済封鎖できるのなら話は別だが、その局面では、金正日政権が証拠隠滅という最悪の選択をすることもありうると述べています(58頁)被害者家族として最悪の面を考えておくというお気持ちは当然です。実は、北朝鮮が仮に崩壊、少なくとも大きく政体が動揺するような事態になった場合、政治犯収容所もまた証拠隠滅のため抹殺されるという危惧の念を私たちに語った脱北者の方もおりました。しかし、その方は、だからこそ金正日体制に対し、そのような行為に及んだ場合には決して国際社会はその実行者達を許さないというメッセージを送り続けて欲しいと強く語ったのでした。

同じく、拉致被害者を仮に証拠隠滅するようなことをした場合、それが発覚すれば日本国政府は決して許さずにあらゆる行動を取る、と北朝鮮政府に通告するよう日本国政府に求めること、同時に内部からの情報収集を今すぐにでも強化することを求め、最悪の事態が起きぬよう備えることが、まず優先されるべきではないでしょうか。

蓮池透「拉致 左右の垣根を超えた闘いへ」を読んで(下)
└ 2009-07-21 20:12

そして、本書において、蓮池氏は、従来の救う会の運動が、家族の救出という原点を離れ、歴史論争や、時には北朝鮮打倒運動に向かってしまっている点を再三批判的に指摘されています。この点についても、私は当たっている面はあると思います。しかし、少なくとも私個人の立場を申し上げれば、私は北朝鮮の現独裁体制を明確に民主化、打倒すべきだと考えておりますが、それは決して拉致被害者救出運動や人権運動を政治運動に利用したいからではなく、拉致被害者の全員救出や、北朝鮮の本質的な人権改善のためには、かの体制を終局的には倒さなければ不可能だと判断するからです。

勿論、拉致被害者はそのような政治的な問題まで背負う事はできない、かえってそのような思想の人びとと共に運動をすることは、政府の対北交渉を難航させ被害者の救出を遅らせるだけであり、人権運動や政治運動は、拉致被害者救出運動とは切り離していただきたい、とお考えになるのでしたら、また、家族会、救う会の多くの方がそうお考えであれば、私は拉致問題の場からは静かに身を退くべきであろうと思います。

ただ、私は逆に、日本政府が、北朝鮮の人権問題や脱北者の問題について充分積極的にならなかったことが、結局日本国政府は、拉致問題にのみ関心を持ち、広範囲な人権問題の意識が無い国と言う誤解を招き、むしろ国際的な連携に失敗した危険性があるのではないかと考えております。確かにこれは遠回りの道に見えるかもしれませんが、北朝鮮の人権問題について、少なくとも国民運動の場では緩やかで幅広い連携を拉致被害者と人権運動や脱北者救援運動の中で形作っていくことは、それこそ『左右の垣根を超えた』普遍的な運動の芽となり、拉致被害者救出の為にも様々な好影響があるのではないでしょうか。

実は、脱北者の方々と私が北朝鮮について語るとき、常に思うのが、彼らはあの全体主義体制の恐怖支配の恐ろしさ、堅固さを数十年に渡って体験しておりますので、私などが、人権問題や民主化の必要性などを語っても、北朝鮮ではとうていありえない、崩壊も民主化などおき得ないと確信しているケースが多いのです。これは推測ですが、帰国された薫さんも、彼らと同じ意見を基本的にお持ちではないかと思われます。

私もこのような考えを決して全面否定しているのではありません。私達は脱北者や、また現実に北朝鮮での生活を強いられた被害者家族の方々の認識に対し謙虚に耳を傾けるべきでしょう。しかし同時に、その中でも、あらゆる手段を通じて、どのような圧力を人権改善やあの体制にヒビをいれるためになしうるか、また、どのような手段で拉致被害者を救出しうるか、お互いの知識と体験を生かした交流ができることを私は望んでいます。

蓮池氏は、北朝鮮への経済制裁や政権打倒運動は効果が薄い、また本来の拉致被害者救出には繋がらないというお立場からか、本書後半部で主張しておられるのは、北朝鮮と日本の現在の対立姿勢を対話と交渉に向けるため、歴史問題でも北朝鮮側の立場に対し、日本政府が日朝ピョンヤン宣言に明記した以上一定の歩み寄りや現実的な行動(補償、ということになるのでしょうが)をおこなう、再調査をこれまで提示された事実に基づき実施し、こちらも制裁を部分解除して戦略的な交渉により拉致問題を平壌宣言と国交正常化の線で解決を目指すことなどを提起しています。これらの問題提起は、現在の日本政府の無策に対する蓮池さんの一つの問題提起として丁寧に読まれるべきと思います。しかし、少なくとも、北朝鮮の人権問題と、拉致問題が完全に切り離される事が前提の考えである以上、私とは立場を異にすると申し上げざるを得ません。

日本国がまず国民の生命と人権を守る立場から、また国家主権を守る立場から、まず拉致被害者救出、特に認定した方々が優先するのは当然です。しかしそれと同時に、特定失踪者、日本人妻、帰国者、また脱北者屋北朝鮮の人権問題について開かれた視点を持ち同時に国際的に訴えていくこと、さらには中国の脱北者迫害にも抗議していく事、さらに言えば、北朝鮮を支える中国政府に対する経済交流の部分的削減や支援の停止を通じてその姿勢を変えさせていく事は、究極的なところでは拉致被害者全員奪還=北朝鮮独裁政権打倒に繋がる道だと私は信じております。その意味で、蓮池氏の多くの指摘には共感しつつも、最終部分で、私は道が離れざるを得ないものがあります。

尚、最近、蓮池氏は、私とは北朝鮮の対する認識の異なる、時には北朝鮮との国交正常化を推進すべきだという意見の方々とも時にシンポジウムに参加し、また意見を交わしています。しかし、北朝鮮との国交正常化を望む人の中には、現在の金正日政権の人権弾圧に対し、批判もまた改善要求をしたことのない方もいます。彼らは拉致問題の解決を望んでいるふりをしながら、まず国交正常化ありきであり、真の意味で拉致被害者もまたそのほかの人権問題も直視してはいないはずです。また、歴史観が仮に左派の方であれ、この守る会の多くの方のように、金正日政権の人権弾圧は許しがたいと思っている人もまた多く存在するのです。『左右の垣根』は、繰り返しますが、ただ拉致だけで超えるのではなく、あらゆる人権問題に根差して左右の立場を超えて共に独裁政権(北朝鮮のみならず中国をも)対峙する所から、左右の限界を共に乗り越えていくべきではないでしょうか。

北朝鮮独裁政権打倒、また人権・民主化要求運動は、救う会、家族会とは、時には一定の距離を保つべき場合もありましょう。しかし、おそらくその目指すゴールに大きな違いはないと思います。私たちは時には共に歩み、また時には、お互いが距離を取りながらも志は常に一つにしていく事が大切ではないでしょうか。

異論は述べましたが、私の蓮池透氏に対する敬意の念は、以前とまったく変わるものではありません。小泉訪朝以前、蓮池氏がどれだけ熱心に、国民的関心の薄かった時代地道な努力をしてきたか、また訪朝以後、あえて憎まれ役を買って出ても日本政府に厳しく迫った姿、また、弟さん夫婦を北朝鮮に戻らせない為の懸命の努力と、また地域の方々の協力など、いずれも忘れ難い姿が今も思い浮かびます。そして、私も含め、運動家達が拉致被害者を利用しているのではないかという疑いを与えてしまった面が、運動の側にもあったことは認めざるを得ないこともあります。蓮池氏の指摘の正しいと思われる面は謙虚に受け止めつつも、私なりの異論も提示させていただきました。(終)





NEWS :「世襲権力」を中国も総連も親北日本知識人も全て承認するのか?
└ 2009-07-21 04:04
金正雲の3代目世襲に対する金大中氏の論評をもう一度求める!
彼がこの厳重な民主主義の破壊事態に対して論評を出さないと、われわれは彼の「民主化闘争」の経歴とその真正性を疑うほかない。 (趙甲済)

(前略)国家情報院は、数日前、金正日の三男の金正雲が、金正日の後継者として確定した模様という報告を国会で行った。1917年、ボルシェビキ革命が成功した以後、共産国家で父子の権力世襲は北韓が初めてで、「3代世襲」は、共和国体制が成立したギリシャ-ローマ時代以後初めてだ。金正日集団は、「朝鮮民主主義人民共和国」だと詐称するが、「金氏朝鮮」が適当だ。「金氏朝鮮」も敬語の表現で、「金家犯罪集団」がより真実に近い名前だ。

この事実に対して、必ず意見表明がなければならない人々は、金大中、林東源、李在禎、李鍾奭、民主労働党、民主党、「全教組」などだ。彼らは、今まで北韓政権に対しては本質的な批判を避けながら、大韓民国と米国、そして保守層と李明博政府を猛烈に誹謗してきたことで、反憲法-反国家勢力である金正日の味方ではないかという疑いを国民に強く残していた。(中略)

李明博大統領までを独裁者だと罵倒する金大中氏が、金正雲の3代目の世襲に対して最後まで沈黙するなら、われわれは、青二才が選挙を通じず「共和国」の指導者になるのを、金大中氏が、「見識のある指導者の決断」と見て尊重すると解釈せざるをえない。それなら本質的な問題が提起される。彼が生涯護ろうとしたという民主主義的価値とは何か? その民主主義は大韓民国の自由民主主義なのか、それとも北韓式のにせ物の民主主義か?

www.chogabje.com 2009-06-12 10:34
http://news.onekoreanews.net/detail.php?number=48941&thread=02r02

韓国保守派の趙甲済氏の論考で、私は同士とは意見を異にする点も多いのですが、ここで述べられている点は基本的に共感いたします。統一日報のリンク先を興味のある方は是非クリックして全文をお読みください。

イギリスの立憲王国制や、日本の皇室のような、象徴的な権力と遠い存在ではなく、実質の独裁全体主義体制が三代にわたって世襲されるなどということは、まずこの21世紀にあってはならないことです。勿論、現段階では今だ金正雲が後継者であるか否かは判りませんが、この「独裁権力が世襲される国は民主主義国でも共和国でもない」という原則に対して、韓国の親北派同様、中国政府も、また朝鮮総連も、また未だに北朝鮮独裁体制批判を躊躇う人びともどう答えるのでしょうか。

私(三浦)は、正直、だれが後継者かと言う問題には余り興味はありません。かの体制が民主化されることが大事であって、独裁権力が誰に渡ろうが、事実上の中国の傀儡政権ができようが、それはこの人権問題の本質的解決には何ら関わりのないことと個人的には思っています。そして、日本の一部マスコミが、大金をはたいても金正雲の写真を入手しようとしたなどということは、事実報道というよりむしろ特種狙いに過ぎず、さらに愚かしいことだと考えます。

かって金日成から金正日に「世襲」が行われたとき、親北派知識人の一人、藤島宇内氏はこういいました。「北朝鮮では『革命の代を継ぐ』といって、社会主義を次代に引き継ぐ為にいろいろな分野で世代交代が進んでいる。また地域、職場、社会、国家を革命化する基本的な単位は家族の革命化だ、という考えがある。朝鮮戦争で戦死した共同農場の責任者の息子を、周囲の人たちがもり立ててりっぱな革命家に育て、父親の仕事を継がせた、といった話も多いようだ。金正日氏は抗日パルチザンの両親の血を引く革命家であり、こうした北朝鮮国民の考え方の中心的な典型として、後継者に押し出したのだろう。」(1980年10月18日朝日新聞)

小田実氏は、一応世襲はよくないと批判するそぶりはした上でこう述べています。

「最近、北を訪問した在日朝鮮人の友人の『金正日氏は芸術に理解が深い、リベラルな人柄で、若い世代に人気がある。官僚主義者が後継者になるよりずっとましだ』という話を面白く聴いたよ。彼を北朝鮮の若い世代の代表と考えてみてもいいんじゃないか」

この小田氏の発言を笑うのは簡単ですが、同時に私たちも、「金正日が死ねば後継者は自然と改革に向かうのではないか」という楽観論は捨てましょう。私たちは誰が後継者になろうとなるまいと、全体主義体制と民主主義国家は共存し得ないのだという原則を踏まえていくべきです。

まあこういう発言はもう出ないでしょう。しかし、今から30年前は、こういう噴飯ものの発言が「専門家」としてまかり通っていたわけです。しかし、ジャーナリズムが今も尚、基本的な北朝鮮の政治体制の問題点よりも、後継者予測などに走りがちなのは残念。(三浦)










三浦小太郎さんの対中・対北戦略論(上)

2009-07-27 10:11:44 | 韓国・北朝鮮
 三浦小太郎さんは「北朝鮮帰国者の生命(いのち)と人権を守る会」のリーダーです。

 ぼくは90年代からこの会の会員となり、02年以降は集会などに出て学ぶことも多かったのですが手術以後は会員も辞め疎遠になっています。何の役にも立てないからです。
 久しぶりに三浦さんの論文を読みました。日頃、ぼくが思っていることをよりしっかり、確信を持って書いてくれているように感じました。

 「難民受け入れこそ中国・北朝鮮との戦い 」という三浦さんの主張を皆さんはどう考えられますか?
 
 日本の対北・対中外交に戦略がないことは昔からのことです。自分の側に非戦・人権の国としての確固たるアイデンティティを形成していないからです。「テロ国家・北朝鮮」「テロ支援国家・中国」にきちんと対峙する平和的国家戦略の樹立が私たちの課題です。
 



  難民受け入れを日本の対中・対北戦略の一環に(上)
  └ 2009-07-17 18:38
                 三浦小太郎

李松(中国民主陣線)氏の指摘を受けて

以下の文章は、ミニコミ「中国民族問題研究」第28号に執筆したものに多少修正を加えたものです。(三浦)

3月14日、日本の市民団体の主催する、難民問題についてのセミナーが東京JICAにて開催された。そこでの中国民主陣線の李松氏の発言を紹介すると共に、彼の問題提起を私なりに受け止めてみたい。

    李松氏の発言から(1)

  アジアにおける難民の地位

 難民問題が、私達の周りには本当に沢山あります。中国には、虎の口から逃げ出したら、オオカミの口に落ちたという諺がありますが、脱北者の問題はまさにそうで、確かに北朝鮮から逃げ出したかもわからないけれども、中国も自由ではありません。この私李松自身が、自由が無くて、20年前、中国を脱出した人間ですから。しかし、じゃあ私が逃げ出して辿りついた日本が最終地点であるかといいますと、私はこの日本に来て20年を過ぎましたが、まだこの日本において難民認定を受けてはおりません。

なぜかと申しますと、このアジアは、日本を含めて、難民に対する認識が間違っているからです。私たちは北朝鮮難民の話を今日お聞きして、中国に対しての様々なご批判をお聞きしました、それは全くもっともなことと思います。しかし、アジアの中でどうしてこのような状態になっているのか、アジアはなぜ多くの難民を出しているかを、私達はもっと真剣に考えなければならないと思います。

 私は、難民が発生している原因は根本は政治体制にあると思います。単純に言えば、悪い政治体制で、人間が生きていけないから逃げ出すのです。生活ができなくなる、命の危険がある、そういう人が国を抜け出すのは当たり前のことなのですが、そういう人が何処にいっても受け入れてくれる国がない、というのが、アジアの現実です。

 人権、あるいは人道的な話は日本でよく語られますが、それが単に言葉ではなく、政策や政治そのものに反映されなければならないと思います。私はこの北朝鮮難民救援基金という団体が非常に重要な団体だと思いますのは、具体的に難民を救援し日本に受け入れる、そういう具体的なプロセスを作り出したからです。ただ、それがまだ国の政策に充分反映されていないことを、私達はもっと頑張らなければならないと思います。

 私は先ほど、難民を生み出したのは政治であると申しまし多が、さらに言えば、私はアジアにおいて、以前として冷戦は終わっていないのが事実であると思います。しかし、日本の中では、冷戦はすでに終わったと思われている。しかし、中国、北朝鮮、そしてベトナム、ビルマ、スリランカ、それは皆社会主義ですよ。軍事政権かどうかが問題ではありません。基本的に、社会主義、共産主義国であることが重要なのです。アジアには色々な社会主義の政権はまだまだ続いています。これらの国々では、人間の精神を破壊し、生活を破壊するような政治が現実におこなわれているのが、私達の今生活している日本の価値観と全く相反することなのです。

 このようなアジアの現状、そして北朝鮮という国を理解するようになったきっかけは、やはり拉致問題だったと思います。日本の国益、主権、そして日本人の人権が、蹂躙され、日本人がこの現実を感じた事が、本当に、被害者には申しわけありませんが、日本社会を大きく変えたと思います。人権とは何か、人道とは何か、ということを、私達が考える機会を与えられたと思うのです。

  難民を救援するだけではなく、

   難民を出さない政治体制を確立する(李松氏)

 そうしますと、このアジアにおいて、難民を出さない社会を作る、難民を作らない政治体制を作る事が最も重要ではないか。そのためには何をすべきかを考え、行動していかなければなりません。人権、人道は政治問題とは関係ないと言う人が日本には多くいらっしゃいます。私たちは、人権、人道運動であり、政治運動とは距離を取りたいという人もいます。個人的には大変純粋で、言葉としても美しいかもしれないけれど、現実にはそうはいかないのです。その根本にある政治体制を変えていかないと、難民は永遠に生まれ続けるのです。

 そして、私がもう一つ言いたいのは、日本はアジアにおいて大変優れた文明と文化を持っています。その文明と文化を、自分の国の国民のみがその恩恵を受けるのではなく、アジアのほかの国にも輸出して欲しいと思います。ソニーのテレビやトヨタの車が売れたら日本人は嬉しい、というだけではなく、もっと日本にとって嬉しく、誇り高いのは、日本の文化、文明ではないかと思います。それは人間の優れた感性、人間を大切にする考え方、そういった優れた日本の価値観を、アジアに輸出していくべきではないかと私は思います。そうしなければ、このアジアはいつまでも変わらないと思います。

 ただ、そうは言っても、一方で現実はきびしいと思います。先ほども申しましたように、私は今でも難民と認められていません、この優れた文化、文明を持った民主国家日本でも難民が認められず、難民問題に無関心なのです。この現実を変えなければ、中国にも、北朝鮮にも、ビルマにも、その現状を変えられないのです。日本自身が難民を受け入れていないのですから。自分の国が豊かだからそれでいいということではないのです。お金だけを言えば、中国も多少金を持つ国になりました。しかし、それで中国の文化文明が栄えているわけではありません。金は文化を破壊する事はありますが、創造する力はありません。これは、私達の一つの高い理想として、難民の受けいれと、同時に日本の文化文明のアジアへの輸出という二つの理想の実現を、日本の皆さんに切にお願いしたいと思います(以上、李松氏講演要旨)。



難民受け入れを日本の対中・対北戦略の一環に(下)
└ 2009-07-17 18:41

    難民受け入れこそ中国・北朝鮮との戦い

         そしてアメリカ内の親中派との戦い

 李松氏の講演には様々な問題が提起されており、私はその全てに賛成というわけでは実はない。しかし、日本が難民、少なくとも中国・北朝鮮の共産主義独裁体制から逃れてきた難民を保護し受け入れる姿勢をもっと積極的に示すべきだと言う李氏の指摘には基本的に賛成である。
そして、この講演の最後に、李松氏は日本の拉致被害者救出運動についてやや批判的な見解も述べた。この点もきちんと紹介しまた私なりの反論もしておかなければならないだろう。

(李松氏)「北朝鮮で日本人は拉致された事件、これを何年間か私もニュースなど見てきまして、大変心が痛みますが、拉致被害者家族の方々はここまで頑張って、それでも現状が変わらない理由はなぜだろうとも考えたんです。これは、日本の中で、拉致問題が余りにも政治問題化されたのではないかと思います。そして、あまりにもアメリカを頼りすぎではないかと思います。」

「極論を言えば、敵の敵に頼んでも、人質は帰ってきません。例えば、イラクで日本人や、他の外国人が人質になった時、そのイラクの部族に頼むとか、そこの有力者の友達に頼むとか、そうやって交渉して解決したと思うんです。しかし、どうして北朝鮮問題では、敵の敵に頼むのか。私は理解できません。敵の敵に頼んだら、政治的に利用されるしかないんです。」

 この発言の後半部は、北朝鮮、もしくは北朝鮮と融和的な国を通じて交渉すれば拉致問題は解決しうるという発想であり、私はこれは現実的には不可能、もしくは、よほどの強い外からの圧力を持って北朝鮮を追い詰めたのちで無ければ効果を挙げ得ないと考える。実際、当日会場にいた増元照明家族会事務局長からは、韓国はノムヒョン時代に徹底的な北朝鮮への宥和政策を取ったが、何ら被害者救出にはつながらなかったという指摘があり、自分たちの運動は決してアメリカに従属しているのではなく、アメリカの現在の姿勢転換をむしろ批判しているのだという主張があった。

 しかし、私はある意味、李氏の「あまりにもアメリカを頼りすぎではないか」「敵の敵に頼んだら、政治的に利用されるしかない」という指摘自体は、ここ数年間の対北朝鮮運動全般に対する、最もな批判ではないかと感じた。世界の超大国であるアメリカを味方に付けるための努力は必要だ。しかし、私も含めて、これまでの拉致被害者救出運動にせよ、また人権運動にせよ、ある意味ブッシュ大統領の対北強攻策に期待を賭けすぎた一面があった事は、否定できない事実ではないだろうか。

 しかし、ブッシュ大統領が、北朝鮮とその背後の中国に対し、拉致問題、人権問題などで非妥協的な態度を取り続けてくれることを期待し(というか、正直その幻想にすがった)人びとは、アメリカのテロ支援国家指定解除によって裏切られることになった。しかし、今にして冷静に自体を分析すれば、現在の事態は、アメリカの伝統的な対北東アジア外交から素直に導かれるものだ。

戦前から、アメリカは、基本的にアジアにおけるパートナーを中国においていた。戦後も、唯一米中が直接対決に陥ったのは朝鮮戦争だけである。この歴史だけは繰り返すまいというのが両国政府の共通意志なのだ。核拡散さえ今後一定の管理下に置くことが出来れば、拉致問題、人権問題は「決して忘れない」が「米中融和と半島の安定のためには二の次である」という現実が突きつけられたのである。アメリカの対アジア外交の主流派にとって、現在の中国は、経済的・政治的に、日本以上に重要なパートナーなのだ。

 日本はいまこそ、この偽善の米中融和構造を打ち破る積極的な人権外交の姿勢を打ち出す時だ。今6者協議の場が、核問題を巡る取引の場と化した以上、この協議の場では本質的な問題の解決はありえない。さらに言えば、重要なのは核兵器ではなく、金正日全体主義政権のような本質的に外部に敵を作らなければ維持できない政権が核を持つことの危険性なのだ。

そして、ここが重要なことなのだが、たとえ表面的に北朝鮮の核開発に批判的な姿勢を示そうとも、構造的に、李松氏が言うように同じ共産主義独裁政権である中国は北朝鮮と共犯関係にある。この点を無視した日本の対北・対中政策はありえない。

 北朝鮮は90年代後半、少なく見ても百数十万人の餓死者を出した。ソ連・東欧の崩壊と、国内の農業・工業政策の失敗によるものだ。その結果現れたのは、中朝国境を越える脱北者たちの大量流出だった。今もまだその流れは耐えていない。脱北者は中国、そしてロシアに流入し、特に中国では逮捕と北朝鮮への強制送還に怯えている。その数は数万とも十数万とも言われ、また多くが女性である。彼女等は、人身売買や売春、また嫁不足の中国農村部に意に沿わぬ結婚を強いられる事も多い。

この脱北者を生み出しているのは北朝鮮の現政権である。そして、彼らがさ迷い、怯えながら生活しているのは中国でありロシアである。そして、この脱北者を救援し、受け入れているのが、韓国であり、アメリカであり、そしてここ日本なのだ。6者協議の緊急に解決すべき共通の問題点とは、北朝鮮が直ちに発射するとは思えない核兵器ではなく、今現在も零下10度、20度の中朝国境を寒さに凍えながら隠れ住み、時には逃亡中に力尽きて死んでゆく脱北者救援のはずだ。

   北朝鮮はテロ支援国家ではなくテロ国家
 
        中国はその「テロ支援国家」

 アメリカの「テロ支援国家指定」という言葉が、そもそも偽善を含むものだった。北朝鮮は「テロ支援国家」ではなく、明確に「テロ国家」そのものである。これは拉致問題や大韓航空機爆破事件といった国家犯罪だけを言うのではない。それらに対しては、北朝鮮やそれに味方する勢力は「過去はともかく現在はそのような行為はしていない」等と言い、アメリカの対イラク戦争などを持ち出して問題の相対化を図ってくる。「テロ」とは、「テラー(恐怖)」を語源とする言葉であり、北朝鮮は戦争状態のみならず、平時においても「恐怖」を持って自国民を支配し、その上で国家犯罪を行っていた事が重要なのだ。

 この「恐怖支配」に抗すること、その恐怖に晒されている人々を恐怖から少しでも解放する事が、真の意味での「テロとの闘い」である。そのために最も具体的になしうる事は、中国における脱北者の保護、難民認定、自由な第3国への出国の自由を認めることを、日本が6者協議の場において、堂々と中国と北朝鮮を批判しつつ提起し、また国際社会に対して積極的に訴える事だ。

さらに、日本はここで一歩進んで、中国と北朝鮮の共犯関係をさらに明確にする為にも、チベット、ウイグル、モンゴル、そして李松氏のような中国民主運動家に対して(勿論厳密な調査の上ではあるけれども)、日本に政治難民としての亡命を認め、この国における中国に対する人権改善運動、民主化運動を行うことを、少なくとも日本国内の言論・表現の自由の範囲内では堂々と認める事が大切なのだ。

これは人権・人道国家としての日本の名誉を高めるだけではなく、アメリカの心ある人々に対し、米中融和の影で犠牲になりつつある脱北者や、中国民主運動家、人権活動家、民族自決運動家への支援者としての日本の立場を訴えることにも繋がる。単に国益上・経済上の連携では、日本は巨大な市場である中国と対抗することは難しく、民主主義や自由といった言葉の上だけの連帯は、時としてアメリカニズムへの日本の屈服となりかねない。しかし、現実の抑圧の犠牲者に対する救援と保護の為の連帯は、表層の政治情勢の変化に揺るがされない強さを生み出すはずだ。

米中の融和構造を崩しための戦略としても、また中国の偽善性や、表面上だけの北朝鮮批判の偽善性を撃つためにも、この人権問題、難民問題は重要な「踏み絵」なのである。そして、あくまで日本が人権、人道の名において中国を批判し、アメリカの親中政策に楔を打ち込むためには、日本自身が難民受け入れの姿勢を明確に示す必要があるのだ。

難民保護や日本受け入れに対し、保守系の人々の一部から危惧や躊躇、場合によっては嫌悪感に近い感情を示されるときほど、私にとって残念なことはない。多くの保守派の人々は、国際連盟における日本国の人種差別撤廃条約提起の歴史的価値を語り、スターリン、毛沢東、そして北朝鮮の共産主義体制が人類にとって以下に悲惨な悲劇をもたらしたかを強調する。以上の点は私も全く同意見である。だからこそ、あらゆる民族差別に反対し、アジアの人々の苦境を見捨てず、共産主義体制の犠牲者達に対しあらゆる手段で救援を行うことが、先人の歴史を引き継ぐ事だと私は信じて疑わない。

そしてまた、左派・リベラル派の方々の中に、今も尚脱北者問題に余り関心をお持ちでない方が見受けられ、ややもすれば、平和を維持し対話を重視すると言う視点から、北朝鮮民衆や脱北者の側ではなく、金正日独裁政権との対話や相互理解を優先するような姿勢を見せる時、私はその方々は自らの理想・思想を自らが裏切ってしまうのではないかと言う危惧を覚える。

人権を重んじ、自由の価値を信じ、弱者に共感を寄せる精神をお持ちの方々は、恐怖で民衆を縛りつけ屈従させる独裁政権に対しいかなる意味でもゆるす事はできないはずである。私は思想的立場を超えて、小異を、いやあえて言えば大異を超えても人道の立場で難民受け入れの必要性を訴えたい(三浦小太郎)


  出典 北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会  「ニュース」http://hrnk.trycomp.net/newslist.php







市長からの返事

2009-07-26 05:46:40 | 政治・社会
 7月25日(土)曇りのち晴れ

 青空が覗いてきたのでたまっていた洗濯物を干して9時過ぎには自転車で「故郷の湯」に向かいました。落合橋から越辺(おっぺ)川の左岸を遡ったあと道場橋から坂戸市街を通り抜けて高麗川の畔にある温泉に着いたのは10時半頃です。

 受付で住民基本台帳カードをみせると「お誕生日おめでとうございます。きょうの第1号です。帰りにお祝いをさしあげます」といってくれます。

 ゆっくりするつもりでしたが露天風呂に入っていると雨滴らしきものがあたったので洗濯物のことが気になります。昼寝はやめて近くの大阪屋という焼肉店で昼食にします。温泉でもらった小さなバースデイケーキは此処でいただきました。

 帰りは坂戸市街を避け、高麗川・越辺川の土手道をくだり落合橋に出ました。途中から空が晴れ上がり快適なサイクリングです。7月に入ってはじめてかも知れません。1時半には着きましたから帰りは1時間です。土手の道は砂利道で遠回りでもありますが車に出会うこともなく結局早道なんですね。

 川越は雨に降られた様子もなく洗濯物を取り込んだあと蒲団を干して、再度、洗濯に挑戦。この晴れ間にやっておかなくちゃとシーツETC.

 久しぶりの好天に恵まれたせいか気分も良く体も動きます。

 川合・川越市長からのハガキが届いていました。

 「これからはお届け出来るように致します」とあります。

 選挙公報をきちんと届けてほしいと先日お願いしたことへの返事です。当然のこととはいえ、市長が手紙を読んでさっそく決断してくれたことはやはりとてもうれしいことです。
 こんなに簡単に出来ることなのに、川越市は今まで何をしていたのでしょう。市民の声を大事にするといいながら、いい加減にあつかってきたのです。公職選挙法という法律に則った行政を怠ってきたのです。
 「政権交代」というのはやはり必要ですね。新市長にお願いしてよかった。
 「これからは」とありますから8月の総選挙から有権者のいる全世帯に選挙公報がきちんと届くということでしょう。鶴首して待つことにします。

 衆議院の総選挙は日本の最も大事な選挙です。アメリカの大統領選挙に該当します。この四年間の政権担当者(首相)を決めるのです。
 オバマさんを大統領に押し上げるためにアメリカの市民がどんなに頑張ったか、遠くから見ているだけでも大変なエネルギーを感じました。日本の市民もどんなに忙しくても自分なりの判断をするために必要な努力をしなければなりません。結局のところ民度にふさわしい政権(政治)しか生まれないのです。
 
 

 

18歳選挙権

2009-07-25 06:24:26 | 政治・社会
 川越は今日も梅雨空です。玄関脇と一応庭のギボウシが薄紫の花をいっぱい咲かせました。雨のおかげで元気がいいようです。

  ギボウシhttp://www.hana300.com/gibosi.html

 今日はぼくの68回目の誕生日です。元気に迎えられてありがたいことです。天気が回復すれば自転車で坂戸の「故郷の湯」に行ってみようかと思っています。片道10kmくらいかな。誕生日は無料にしてくれるのです。妻が丸木美術館の応援で忙しいので自力更正です。お祝いは先日カツヨシさんが来てくれて諸々のための乾杯をしたのでもう終わっています。

 夜、11時半からの「チュウボウですよ」(TBS)に75年池袋商業1~7の松島徹くんが出演するとクラスメートが教えてくれました。5月のクラス会であった「銀座・麒麟」のシェフです。ぼくは録画して見ることにします。

 松島徹http://r.gnavi.co.jp/g987401/custom2.htm 


 民主党が政権を執ったら「18歳成人」を実現するそうです。選挙権も18歳からになります。
 皆さんはこのことをどう考えますか。選挙は間接民主主義の根幹といってもいいと思います。その割に十分議論がされているように見えません。肝腎の若者たちはどう考えているのでしょう?
 
 (続きは明日?)


  民主公約、成人18歳に引き下げ 今秋、民法など改正へ
                 (東京新聞 2009年7月24日 10時16分)

 民主党は24日、衆院選マニフェスト(政権公約)に成人年齢を18歳に引き下げることを盛り込み、政権交代を実現すれば
秋の臨時国会に民法や公選法の改正案を提出する方向で検討に入った。原則18歳以上に投票権を与える憲法改正手続きのための国民投票法が来年5月に施行されるのにタイミングを合わせる。

 18歳に成人年齢を引き下げれば、現在は20歳以上に投票権がある選挙のほか、現行民法では父母の同意が必要となる20歳未満の未成年者の結婚など、国民生活に大きな変化が生じることになる。

 与党は「選挙年齢引き下げは民主党に有利」と成人年齢引き下げに消極的。民主党には支持層拡大の思惑があるが、新たに選挙権を得ることになる若者の支持が民主党に集まるかどうかは見通せていない。

 「民主主義の成熟」「国民の政治参加の機会拡大」「多様な意見を政治に反映」。政権公約の土台となる「民主党政策集2009」で民主党は、選挙年齢の引き下げ理由をこう説明する。

 一方、共同通信社が今月3、4両日に実施した全国緊急電話世論調査で、20代は自民党支持が33%に上る一方で、民主党支持は10%にとどまっており「若ければ民主党支持」とは到底言い切れない現状だ。

 このほか選挙に関連し民主党は、インターネットを使った選挙運動の解禁や、タッチパネルの投票機を使った「電子投票制度の導入」を訴えていく方針だ。

(共同)

選挙公報

2009-07-24 06:11:16 | 政治・社会
 23日(木)曇り一時雨

 朝、始業前に市役所に行って市長宛の手紙を届けてきました。我が家で新聞の宅配購読を停止してから各種選挙の公報が届かなくなったのでちゃんと届けてほしいとお願いしたのです。
 選挙管理委員会に言うと「川越市では新聞販売店に委託して折り込み広告と一緒に宅配している。新聞を取っていない人は市役所や出張所においてあるから取りに来てください」と市の広報に書いてあるといいわけをするばかりです。

 こんなことでいいのでしょうか。近頃は新聞の宅配購読をしないぼくのような人が増えているのではないでしょうか。魅力に乏しい新聞をなぜ定期購読しなければならないのでしょう。
 ぼくは新聞を読みたくなったらコンビニで買うか、図書館で読みます。コンビニではいくつかの新聞のうちからその時々に選んで買います。図書館に行ったら各種新聞に目を通します。ふだんはパソコンでニュースに目を通すだけです。格別に何の不自由もありません。

 選挙は間接民主主義の根幹です。選挙公報を有権者に確実に届けるのは選挙管理委員会の義務ではないでしょうか。TVコマーシャルなどで投票を呼びかけるのもわるとはいいませんが、公報を確実に届けることのほうが先のような気がします。

 いってもらちがあかないので諦めかけていました。新しい市長は川合義明さんです。ぼくと同じ東京教育大学文学部法律政治学専攻の卒業生だとなにかで読みました。だとすれば同窓の誼で手紙くらい読んでくれるかも知れない、と思ったのです。一学年15人の小さな教室です。川越市にこの教室の同窓生が他にいるとも思えません。

 他の町ではどうなっているのでしょうか。

因みに法律にはこう書いてあります。

 公職選挙法

(選挙公報の配布)
第百七十条  選挙公報は、都道府県の選挙管理委員会の定めるところにより、市町村の選挙管理委員会が、当該選挙に用うべき選挙人名簿に登録された者の属する各世帯に対して、選挙の期日前二日までに、配布するものとする。ただし、第百十九条第一項又は第二項の規定により同時に選挙を行う場合においては、第百七十二条の二の規定による条例の定める期日までに、配布するものとする。
2  市町村の選挙管理委員会は、前項の各世帯に選挙公報を配布することが困難であると認められる特別の事情があるときは、あらかじめ、都道府県の選挙管理委員会に届け出て、選挙公報につき、同項の規定により配布すべき日までに新聞折込みその他これに準ずる方法による配布を行うことによつて、同項の規定による配布に代えることができる。この場合においては、当該市町村の選挙管理委員会は、市役所、町村役場その他適当な場所に選挙公報を備え置く等当該方法による選挙公報の配布を補完する措置を講ずることにより、選挙人が選挙公報を容易に入手することができるよう努めなければならない。

 
 「各世帯に対して、選挙の期日前二日までに、配布するものとする。」ときちんとさだめられています。
 新聞折り込み等に頼るのは「各世帯に選挙公報を配布することが困難であると認められる特別の事情があるとき」にかぎられているのです。

 川越市にどんな「特別の事情」があるのでしょう?あるとしたら解決するためにどんな努力をしているのでしょう?

 ここ数年ぼくの家には選挙公報の他、県の広報も届かなくなりました。市の広報や各種納税通知などはきちんと届いています。問題は選挙管理委員会や市長にことの重要性がわかっていないということでしょう。川合市長はきちんと対応してくれるのでしょうか。

 昼過ぎにカツヨシさんが様子を見に来てくれました。久しぶりで真夜中まで話が尽きません。こんな時は眠くもならず、ビールもいけます。妻が作ってくれたいなり寿司を幾つも平らげる有様です。

 

「日本書紀」を読む

2009-07-23 07:02:12 | 父・家族・自分
 こういうタイトルを付けましたがぼくが「日本書紀」を読んだわけではありません。とても面倒くさくて、難しそうで読む気力が起こりません。

 何度も何度も読んでぼくに語り聞かせてくれるのは妻です。面白いのでそれを書いてみたらと勧めたところ、「きいちご」に連載記事が載るようになりました。天武・持統朝(奈良時代)の頃編纂されたわけですが今の歴史教科書よりは遙かに公正に諸説を紹介しているといいます。

 ぼくと同じように歴史に関心はあるけれど読むのはとてもと思われている方におすすめします。



  連載エッセイ・「わたしの」古代史 其の四(『きいちご』5号)

 
   神代(かみよ)の話(2)

                      鈴木倫子

●天孫降臨

 「てんそんこーりん」と読む。いまや、これを知らない人もいると思うのでちょっと説明しよう。まあ、読んで字のごとく「天から孫が降りてきた」ということなんだが、1945年8月15日までは学校で、それが皇室のご先祖の歴史だと教えていた。もちろん天武・持統政権にとってもここが日本書紀のハイライトともいうべき部分だったわけだ。そのせいかどうか、このくだりも「一書」が多く、第八の書まである。

 誰の孫かというとアマテラスの孫でニニギノミコトという。別書では若干違う名になっていたりするが、本文ではアマツヒコヒコホノニニギノミコトだ。ヒコヒコは誤植ではない。たぶん、アマツヒコ ヒコホノ ニニギノミコトと区切るのだろう。長ったらしいのでここでは省略して、「ニニギノミコト」あるいは「ニニギ」だけにしておく。

 アマテラスが孫のニニギに「行っておいで」と命じたとする書もあるが、本文はじめおおかたの書では、別に三柱の神さまがいて指令を下したとされている。これが「其の一」でふれておいた「司令塔」の「アメノミナカヌシ」「タカミムスビ」「カミムスビ」で、とってつけたようにここでいきなり登場する。後から創ってくっつけたものだろうと、岩波文庫本の注にはある。こういう司令塔は一柱で良さそうに思うのだが、独裁ではなく、三柱にアマテラスも加わった合議で指令が出されて来るというところが面白い。

 この人(?)たちを仮に「天孫族」と呼ぶことにしよう。天孫族はどこが気に入ったのかわからないが、自分たちの子孫をこの列島の支配者として送り込みたいと思った。日本書紀も認めているように、ここは無人島じゃなかったんだから、ずいぶんとお節介なことをしようとしたものだ。

 でも彼ら、厚かましいけど慎重でもあった。まず偵察隊を送ってみると「なんだかわけのわからない野蛮そうな連中がワヤワヤやっている」という報告が挙がってきた。この時点までは、アマテラスの息子とタカミムスビの娘を結婚させて、新婚の二人を送り込むつもりでいたのだが、「こりゃ、ちょっとヤバイよ」ということで、決行中止。とりあえず折衝係を送り込んで懐柔にかかったのだが、これが逆に懐柔されて行ったきり還ってこない。すったもんだしているうちに、新婚の二人に子供がうまれた。これがニニギノミコトで、ジジババの欲目と言ってしまえばそれまでだが、なかなか出来が良い。幸い、下の方との話も付いたので、この孫にお目付役をつけて送り出すことにした。以上が「天孫降臨」の顛末だ。

 ちなみに、このときの主な交渉相手はいずれの書も「出雲の国」「オオナムチノミコト」としている。つまりここで出雲族の「国譲り」が語られているわけだが、ニニギノミコトはこのとき、畿内にも出雲にも降り立っていない。出雲がヤマト政権に統合されたのはもっと後の時代なのだが、天孫族支配の正当性を語るためにここに割り込ませた、と見るのが、現代では一般的な考え方になっている。



●「天孫族」はどこからどこへやって来たのか

 では、ニニギノミコトはいったいどこに降り立ったのか。本文と第二、第四の一書では「日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂峯(たかちほのたけ)」「日向のくし(木偏に串の下に心)日(ひ)の高千穂峯」など、第一の一書は「筑紫の日向の高千穂のくじ触峯(くじふるのたけ、「くじ」の漢字は前出の「くし」と同じ)」、第六の書では「日向の襲の高千穂の添山峯(そほりのやまのたけ)」といった具合になっている。「日向」は「日向国」が今は宮崎県になっているから高千穂峯は宮崎県にあると考えられてきた。ご丁寧なことに、宮崎県では霧島山と臼杵郡高千穂が本家争いまでやっているようだ。しかし、「日向」を「ひむか」の文字どおり「日に向かうところ」と読めば、これは固有名詞ではなくなる。現に第一の書では「筑紫のひむか」とされている。古事記でも「筑紫のひむか」となっているということだ。これであれば「筑紫の東部」にある、どこか日当たりの良い土地ということになるだろう。「高千穂峯」も補注に従って「稲をうずたかく積み上げたような、神のよりしろとなる山」と読み解けば、特定された「地名」ではなくなる。そして「日向」と「高千穂」をこのように読めば、第一と第六の暗号文のような降臨地の固有名詞は「くじふるたけ」と「そほりのやまのたけ」といった具合に尋常なものになってくる。

「クジフル」や「ソホリ」のどこが尋常なのかと言われそうだが、注および補注によれば、「くじふるたけ」は、朝鮮半島にあった加羅国の神話で始祖、首露王が天降りした山、亀旨峯(クィジムル)で、「添山峯(そほりのやまのたけ)」の「そほり」は新羅の都「徐伐(sio-por)」を音訳したものだろうという。つまり加羅国の首露王神話やそれに類似した神話を抱いた集団として日本列島にやってきたのだが、歳月、世代を重ねるうちにその場所がどこだったのかわからなくなって、「何でもあっちの方だったよな」「うん、たしか、筑紫のひむかとかいう所に最初のうちはいたって話だったよ」「筑紫(つくし)って言ったか?親戚があるのは日向(ひゅうが)とかだろう?」「あれは婆さんの方だろ?」てな具合になっていったということか。とにかく、天孫族は「神武の東征」まで、南の方の「オオヤマツミノカミ」に売り込んだり「ワタツミノカミ」と好誼を結んだりしながら、北九州の移住先で勢力を扶植することに心を砕いたようだ。

 ところでニニギノミコトや天孫族の故郷、高天原はどこにあったのか。亀旨峯に降りたと言うからには加羅国だろう。現在の慶尚南道金海市あたりにあったとされる古代国家で、加耶琴(カヤグム)に今もその名をとどめている加耶諸国の一つだ。「国」といっても、一つの国の規模はせいぜい「村」か「郡」程度のものだ。朝鮮半島についても日本列島についても、古代の「国」とはだいたいこの程度のものだということを念頭に置いておく必要がある。

 ところで加羅国を含め、加耶諸国というのが実は、流れ流れて朝鮮半島南部にたどりついていた「倭族」の末裔たちの国だった。彼らはすでに中国の文書には「韓人」と記されるような人々になっていたが、まだ一部には「倭人」として区分されるような習俗を保ち続けていた人たちもいたらしい。かれらが日本列島にやってきたのはおよそ三世紀のころと考えられているが、このころの朝鮮半島は、北方の扶余族が南下して「百済」を建てたり、加耶諸国を形成していた部族の一つである斯廬族(のちの新羅)が勢力をのばしたりしていた。そういう朝鮮半島情勢の中で弱肉強食の戦いに負けた「王」や「王子」が家来や一族とともに海を渡った。天孫族はそういう難民集団の一つだったと考えることができる。だからこそ慎重に瀬踏みをして「天降り」したという話になっているのだろう。もちろん、この時点で出雲王朝を屈服させることなど、できようはずもなかったろう。



●古代のボートピープル

 朝鮮半島から日本列島へは、どこをめざすにしても海を渡るしかない。ボートピープルになったわけだ。日本で一番古いと考えられる稲作遺跡は北九州の唐津付近にある菜畑遺跡で、紀元前三世紀頃のものということだ。つまり、朝鮮半島から日本列島へ来たボートピープルの歴史もそこまでさかのぼって考えられるものだということになる。

 彼らにはどんな事情があったのか。おおざっぱに言えば、だいたいこのころに中国大陸では、呉国と斉国の戦争、呉国と越国の戦争などがあった。そのはるか昔、漢族の侵略によって故国を追われ江南から山東あたりにまで流れてきていた倭族の末裔たちが、ここでまたもや難民となった。彼らの一部は朝鮮半島へと生きる場所を求め、さらに一部が海を渡って北九州にたどりついたということだろう。これがいまわかっている範囲では、ボートピープルの第一波ということになる。次の大きな波が紀元二~三世紀だった。出雲族も天孫族も、彼らが抱えてきた神話から察するに、この第二波に属するだろう。

 出雲国風土記によれば、「天乃夫比尊(アメノフヒノミコト)」と「大国魂尊(オオクニタマノミコト)」がそれぞれ「天降り(あもり)」したと伝えられている。さらに、北九州の古代豪族宗像君(むなかたのきみ)が祭祀を司り、彼らの祖神ともされている「宗像三女神」もまた、「天降り」したと伝えられている。書紀ではみな天孫族の臣下として神話ぐるみ統合されているが、もともとはそれぞれが族長ないしは王(きみ)として君臨していたものだろう。そのようなリーダーが他にも各地にいて、自分たちの「天降り」神話を伝えていたはずだ。



●「天孫族」は神武一家だけではなかった

 話をまた書紀に戻したい。「神武」が実在したか創作された者かはさておき、天武・持統朝の先祖が、やや後発のボートピープルとしてこの列島にたどりついたこと、九州のあたりを卑弥呼などの先住勢力とかち合わないように用心しながらうろうろして次第に力を蓄えていったらしいこと、下関から瀬戸内海を経て、その間、付近の諸勢力と争ったり同盟を結んだりしながら畿内に入っていったのだが、畿内にはすでに先着の雄族が蟠踞していて、たいそう苦労したらしいことなど、いじましいような軌跡が書紀から読みとることができる。

 で、その神武が畿内を狙ったときの話だが。噂を聞いた長髄彦(ナガスネヒコ)の軍勢がまちうけていた。ナガスネヒコ軍との戦闘は、凄惨を極めた。一度目の合戦は、はっきり言って神武軍の大敗だろう。二度目、攻め口を変えて和歌山の方から攻め入って、ようやくほぼ互角に持ちこむことができた。ここで神武が「われこそは天孫だ」と「東征の大儀」を宣言すると、ナガスネヒコは「そんなはずはない。おまえは偽者だ。わたしの王ニギハヤヒノミコトこそ天孫なのだから」という。で、お互いに「天孫である」という証拠を見せ合うと、それがそっくり同じ物だったという。しかし神武が天孫の直系であるということで、覇権をニギハヤヒが譲ったことになっている。興味深いことには、ここで神武は「天孫族」が幾流もあることを認めているのだ。

 ニギハヤヒは神武に服従したが、ナガスネヒコはニギハヤヒによって殺された。理由は彼が「わきまえのない、よこしまな心をもっているから」ということだが、内実はニギハヤヒが己の保身を図ってのことではなかったか。このニギハヤヒというのは、いわば先着の勢力だったわけだが、姓氏録などでは物部氏の祖神ということになっている。



●神武一家はなぜ「東征」の旅に出たのか

 神武は四人ないし五人兄弟だったが、一族をあげての「東征」の間にみんな失っている。一番上の兄は「戦傷死」したとして、そのようすが詳しく記されているが、他の兄弟たちは航海中に暴風にあったとき入水したり「常世の郷」に去っていったりしている。これはもしかすると、途中で袂を分かっていったということなのかもしれない。いずれにしても、敵にも味方にも苛酷な「東征」だったようだ。大阪の「難波の碕」で船を乗り捨て、陸路畿内に向かってからは、至るところで戦闘を繰り展げている。最大のライバル、ニギハヤヒとナガスネヒコ連合軍との戦闘に至っては、どこにも行き場をみつけられないできた流民の一族が、命がけで他人様の縄張りに食い込もうとしているかのように見える。なぜそこまでしなければならなかったのか。書紀にはただ、「アマテラスの御託宣」しか書いてないから、「東征」の必然性は何度読んでも見えてこない。それなら神武の出自から見直してみようというわけで、あんちょこ本その一『倭人と韓人』をまた、ひっくり返してみることになる。

 遠賀川の中流、嘉穂郡嘉穂町(今は嘉麻市になっている)牛隈の古社、荒穂神社の言い伝えでは、ニニギノミコトは稲穂大明神、すなわち稲作神とされているという。また、上流の田川郡の霊山、英彦山の祭神はアメノオシホミミノミコトだが、英彦山神宮の伝承では、「天忍穂耳命は英彦山に降臨、ニニギノミコトの建国の偉業に助力された」となっている。つまりオシホミミはニニギの父親ではなく、同志もしくは協力者で、田川郡の祖神として現れているという。また、田川郡の東方、瀬戸内海に面した京都(みやこ)郡苅田(かんだ)町にある宇原神社には、「ここはヒコホホデミノミコトとトヨタマヒメノミコトが海神の宮から帰って、その子、ウガヤフキアエズノミコトを産んだといわれるゆかりの地」だという伝承があるという(ウガヤフキアエズは神武の父親)。宮崎県の鵜戸神宮の伝承がここに来ているのだ。

 これらのことを著者の上垣外さんは次のように考察している。〈オシホミミとニニギは本来、田川郡と嘉穂郡にそれぞれ「天降り」した別々の勢力だったが、遠賀川上流と中流の勢力が統合されていく過程で、父と子という系図にまとめ上げられていった。また、この遠賀川流域には香春岳があり、この山は古代に銅山が開かれている(今でもふもとに「採銅所」という鉄道の駅がある)。この二つの部族は、稲作だけでなく鉱物の精錬や金属器製造の技術を携えて渡来した人たちだったのだろう。そして有力な海人族とつながることによって金属器(武器や農具など)の交易を行い、力を蓄えていったのだろう。神武の「東征」の動機は、当時後進地域であった瀬戸内から畿内へと販路を拡げていこうというものだったと考えられる。〉

 以前の記事を読まれたい方は「きいちご多文化共生基金」のHPをご覧下さい。

 http://www.geocities.jp/kiichigokikin/kiichigokara.html

「俺もてだのふぁになりたいな」

2009-07-22 12:15:06 | こどもたち 学校 教育
 昨日、大崎博澄さんからコメントをいただきました。

 感謝とお知らせ (大崎博澄)
             2009-07-21 14:09:05
拙いお話をこんなに受け止めて頂いて感謝です。田舎者のぼくは、川越がどこにあるか知りませんが、関東かな?と思ってお知らせします。9/26(土)13:10から、明治大学リバテイタワー3F1031教室で開催される 開かれた学校づくり全国交流集会で「子どもという希望・土佐の教育改革」と題して講演します。フリーで入場できます。もし、会場でけいすけさんにお会いできれば、老骨のよき冥土の土産になります。

 19日に久しぶりに大崎さんのブログを開いてこの日掲載されたばかりのお子さんに送る詩を読ませてもらい、20日に「川越だより」に紹介したばかりでした。何というよろこびでしょう。
 9月26日(土)です。暦にすぐに書き入れました。皆さんの中で都合のつく方がいたら、どうですか。今からその日が待たれます。

 資料の整理をしていたら昔の生徒の作文が出てきました。ぼくがHR担任をした1974年度池袋商業高校3年3組と1978年度1年5組のそれぞれほぼ全員の読書感想文です。どういう事情で手元に残っているのか忘れてしまいましたが、今あらためて読み始めました。いずれクラス会がある時に本人に直接返したいと思っています。

 78年1~5は灰谷健次郎の『太陽の子』です。「地理」の時間に読み合いました。今日は出席番号1番の浩二くんの感想文を紹介します。


  『太陽の子』 1年5組 浩二

 太陽の子、太陽の子ふうちゃんはまさしく「てだのふぁ」であると思う。
 だれにでもやさしく、温かい心を持ち、人のことを深く親身になって心配してくれる。

 ほんとうにいやなことばかり起こるこの日本の中にこんなすばらしいお嬢さんがいるなんて思うとなんだか俺はうれしくなってくる。
 ふうちゃんのお父さんを思う気持ちは、なんだか、3年前おやじを亡くした俺と同じ気持ちだと思った。

 ふうちゃんの心の中にはたえずお父さんの姿が合った。と、同時に、この俺にもあったのだ。
 ふうちゃんは毎日お父さんを散歩に連れだしていた。お父さんの顔にはすでに笑顔がなく、何もしゃべらないような状態だった。それでもふうちゃんはそんなお父さんを見て悲しみをこらえ、お父さんに何か一つでいい、返事を返してもらいたい、そんな感じで色々話しかけていたと思う。

 俺のおやじが入院したとき、俺はまさかおやじが死ぬということなんか知らなかった。時々病院に行っておやじを見舞ったが、おやじの体力が落ちていくのが体に現れ始めたとき俺はもう怖くて、恐ろしくて、でもそんなことあるものかという気持で自分を押さえていた。ふうちゃんもまたそうだったろうと思う。

 ふうちゃんのお父さんは死んでしまったがふうちゃんは泣かなかった。
 
 俺なんかおやじが病室で死ぬ1時間ぐらい前、おやじは「家に帰るんだ!おい」と叫んでいた。俺はおやじに何もしてやれないし、話もかけられない自分のいくじのなさに腹を立てたがどうしようもなかった。ただ涙をこらえるのがやっとだった。おふくろはおやじの顔をじっと見て目が赤かった。そして、おやじが死んだとき、もうそんなことは忘れて赤ん坊のようにみんなして泣いたものだった。

 ふうちゃんも最初は通夜の席でじっとたえていたが、キヨシ少年が呼んでふうちゃんは目を上げた。「これ、やる」キヨシ少年は小袋を突きだして姉の形見のコンパスを出した。それを見たとたん、ふうちゃんの目に涙が浮かんだのだ。けなげなキヨシ少年の心にうたれたのだと思う。
 
 俺はそんなキヨシ少年が大好きだ。

 ちょっぴりひねくれ者だったがふうちゃんのやさしい心をだんだんと理解し、兄妹のようになっていく。キヨシ少年には1人のお姉さんがいたが19歳の若さで自殺をしてしまった。やがてキヨシ少年のお母さんは見つかったがキヨシ少年はお母さんを憎んで口も聞かなかった。
 ふうちゃんはそんなキヨシ少年を見て「キヨシ君のあほ」といった。キヨシ少年はなんだか困ったような顔をしていた。俺はそんなキヨシ少年を見ていると憎めないいいやつなんだなと思った。
 
 不良少年たちと別れるために大ゲンカをして命まで危なくなる傷を負わされたのにもかかわらず、キヨシ少年は「ショウヘイのこと、あんまり悪うおもうたんなや、あいつらも俺といっしょで、いろいろあるやつやさかいな」といった。俺はそれを読んだとき、何か、ジーンと来るような感じがした。

 俺は他の人たちのこともいいたかったが、やっぱり、ふうちゃんとキヨシ少年はその中で一番印象深く考えさせられるところが多いのでそれについて書いた。

 太陽の子ふうちゃん、ふうちゃんばかりでなく、キヨシ少年もてだのふぁだと思う。

  太陽の子 ふうちゃん。

  太陽の子 キヨシ君。

  俺も てだのふぁになりたいな。


 「てだのふぁ」は沖縄の言葉で、「太陽の子」。浩二くんはキヨシ少年も太陽の子だといっています。そういう人間観を持つことが出来た浩二くんがぼくは大好きです。

 大崎さんはこう書いておられます。

   もし、あなたの人生に不幸が訪れたら

        それはもっと深い幸福に出会う機会が訪れたと思ってください

        もっと深い幸福とは、人の心の痛みを受け止める想像力を持つということ

        其のときあなたは、人生で初めて本当の友達に出会うことができる

        その友達があなたを支えてくれる

        不幸を背負うことで、あなたはもっと深い幸福に至る切符を手にすることができるのです


 ふうちゃんとキヨシ少年も「人生ではじめて本当の友達に出会う」ことができたのでしょう。教室でここのところを読むとき嗚咽をこらえるのに精一杯だったことを思い出します。

 31年前の15歳か16歳です。「てだのふぁになりたい」と書いた浩二くんはどんな人になったのかなあ。あって人生の話を聞いたり、したりしてみたいなあ。
 

 

 

 




娘と妻

2009-07-21 08:32:26 | 父・家族・自分
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 7月20日(祝)

 17日にアイルランドに旅立った娘のブログをのぞくと「これからアラン諸島に行く」とあります。
 
 酔月亭http://blogs.yahoo.co.jp/suigetz_tei/archive/2009/7/20

 
 妻は「アランセーター」の話をしますがぼくにははじめて聞く島の名です。

 アラン諸島http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%B3%E8%AB%B8%E5%B3%B6

 「岩盤で出来たこの島での農業は、土が風で飛ばされないように畑を石垣で囲み、岩盤を槌(つち)で砕き海藻と粘土を敷き詰めて土をつくることから始まった。」

 韓国の済州島も石の島で畑は石垣で囲まれていますがアラン諸島の土壌は想像がつきません。断崖絶壁を背後に持つ城塞あとが有名なようです。人間の営みとはまことに壮絶きわまりないものですね。

 25日にダブリンでU2のコンサートがあるようです。これがお目当ての旅です。

 今日は妻の誕生日です。過ごしやすい一日をフルに使って働いています。風呂場の大掃除が終わってほっとしたようです。換気扇のあたりを「無水エタノール」を使ってこすると汚れがたちどころに取れたといって喜んでいます。よっぽど気になっていたのでしょう。
 この人は一日中何かをしています。暇になると手芸。近頃はアイヌ刺繍。先日の北海道の旅で買ってきた本を見ながら手を動かしています。

 『アイヌ刺しゅう入門』http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E5%88%BA%E3%81%97%E3%82%85%E3%81%86%E5%85%A5%E9%96%80-%E3%83%81%E3%83%82%E3%83%AA%E7%B7%A8-%E6%B4%A5%E7%94%B0-%E5%91%BD%E5%AD%90/dp/4905756448/ref=sr_1_1/378-4852323-6446359?ie=UTF8&s=books&qid=1248132302&sr=1-1

 初心者にもわかりやすい本だということです。今はお手製の小物入れに刺繍を施しています。9月に一緒に旅をしようといってくれている弘子さん(息子のお連れ合いです)にプレゼントするつもりです。あれこれと造ってはプレゼントするのが楽しみのようです。
 ぼくの生徒だった人たちにも妻の作った小物が喜ばれています。ぼくはといえばどなたからももらうばかりです。

 少しは休んだらというと是がレクレーションだといいます。

 夕食も妻の手作りです。麦茶で乾杯。


「おとなになっていくあなたへ」

2009-07-20 08:44:51 | こどもたち 学校 教育

大崎博澄さん(前高知県教育長)のブログを久しぶりに開いたら、こんな詩が飛び込んできました。どうぞ、声を出して読んでみてください。




 おとなになっていくあなたへ

            おとなになっていくあなたへ

            これは私からの最後の手紙です

            今日からもう私はあなたを守ってあげられない

            今日からもう私はあなたを助けてあげられない

            まだ幼さの残る肩で

            あなたは人生をひとりで背負っていかなければならない

            そんなあなたへの、これは最後の手紙です



            小さなものをいとおしんでください

        沖縄には小さ(くうさ)愛さ(かなさ)、小さなものはいとおしい、という古い言葉があるそうです

        なんと美しい言葉でしょう

        小さなものを愛する人生は楽しみに満ちている

        山歩きの途中であなたと探した、人差し指にも足りない草丈の

        チョウセンアヤメの小さな花を忘れないで



        よい本を読んでください

        読み物は巷にあふれていますが、読む価値のあるものは少ない

        でも、心を開いていれば、必ず出会うことができます

        その人にしか語れないことが、誰にも分かるやさしい言葉で書いてある本

        それが読む価値のある本です

        よい本に出会うことは、よい友達に出会うこと



        毎日、朝晩たどる道を、ゆっくりゆっくり歩いてください

        みんな急ぎ足であなたを追い越して行くでしょう

        でも、あわてない

        急ぎ足では、足元に咲いている小さなカタバミの花を見過ごします

        急ぎ足では、頬にあたるさわやかな三月の風を感じられない

        人生に急ぐべきことは何もない



        もし、あなたの人生に不幸が訪れたら

        それはもっと深い幸福に出会う機会が訪れたと思ってください

        もっと深い幸福とは、人の心の痛みを受け止める想像力を持つということ

        其のときあなたは、人生で初めて本当の友達に出会うことができる

        その友達があなたを支えてくれる

        不幸を背負うことで、あなたはもっと深い幸福に至る切符を手にすることができるのです



        小林完吾さんがこんなことを言ってました

        「子どもに生を与えたということは、

        親が付き合ってやれない死を与えたということ

        であれば、生きている一瞬一瞬が生きていてよかったと思えるものであって欲しい」

        私は親として、あなたにそういう一瞬を与えられなかったかも知れない

        ごめんなさい

        でも、人生は与えられるものでなく、自分の手で切り開くもの

        幸福は自分の創り出すもの

        もう、私の手の届かないところへ旅立つあなたへの、これは最後のエールです



                         最新更新日  2009・7・19

   出典 タンポポ教育研究所http://sky.geocities.jp/hirosumi1945/index2.html

 大崎さんが我が子に贈る言葉は確信に満ちています。

 「不幸を背負うことで、あなたはもっと深い幸福に至る切符を手にすることができるのです」。


 なぜ、このように確信を持って言えるのでしょう。精一杯生きてきたご自分の人生の「総括」に基づくからです。

 大崎さんの講演記録を前に紹介し「必読」としたことがあります。読んでいただけたでしょうか。新しい読者の方もおられます。是非読んでみてください。
 
 「川越だより」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/2d6a3e2b9a7b52e84d86642f10bb4074

  


百合と萩

2009-07-19 10:47:33 | 父・家族・自分
 玄関の脇に鬼百合が咲き乱れるようになりました。

 鬼百合http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%83%A6%E3%83%AA 

 ぼくは何の手入れもしません。花が終わってしばらくしたらきってやるだけです。それでも春になったら球根から芽を出して今頃になると花を咲かしてくれます。

 その隣りに白萩が背を伸ばしています。もう2mを越えているでしょう。風呂場の窓を覆い隠す勢いです。秋になると白い花をつけて近所の人も喜んでくれます。子供の頃「すみゆく水にあきはぎたれ」「たまなすつゆはススキにみつ」とよく歌ったものですが意味がよく分からなかったことを思いだします。「澄み行く水」に縁はないけれど秋萩の咲く風景はいいものです。

 白萩http://home.att.ne.jp/sky/nakayamatsu/ys799239.htm 

 萩が生えている辺りは建物の基礎と道路の間が40cmほどしかありません。やはり何の手入れもしません。秋の終わりに茎を根本から切ってやるだけです。

 この萩を見るとその成育の早さに驚くばかりです。春になって若芽が出たかと思うと夏にはもう2mを越すのです。垂れないように緩く縛ってまっすぐのびるようにしています。

 こんなことをいうと百姓仕事をしている友人達に笑われそうですが植物の命というのは本当にすごいですね。
 

 縄文時代以来人間はこうした自然の恵みの一部を頂戴して生きて来たのだなあとあらためて感心します。

 こんなことは誰でも知っている筈のことですがいつの間にかそのありがたさを忘れてしまうようです。

 

 

桂子おばさん逝く

2009-07-18 17:20:57 | 父・家族・自分
 松山の将史兄さんから桂子おばさんの訃報が届きました。世話になった日々を思い出しながら弔電を書いていると泪がとまりません。

 久田桂子、ぼくの祖父の妹の末子。将史兄さんの叔母さんです。高知県室戸岬で生涯を送りました。世代はひとつ上ですが一番若かったせいか、我が家では桂子さんとよんでいました。

 ぼくは少年の頃、桂子さんのお嫁入りの樽持ちという役をやらせてもらいました。花嫁行列に加わって手提げの酒樽を持ち運ぶのです。中町の実家から港の上を通って西下町の久田家まで歩いたのではないかと思われます。祖母がいなかったぼくにとっては中町のばあちゃんは祖母がわりです。ご苦労さんといって何かをもらったのでしょう。

 お連れ合いの春利さんは沿岸漁業の漁師です。虎丸という船を持っています。この頃は風呂事情が悪く、よくもらい風呂をしました。桂子さんたちが我が家の風呂に来ることもあります。ぼくは水くみから風呂焚きまでよくやりました。そして、最初の方に入浴するのです。桂子さん達が来るのを知って、湯があまり減らないように、垢が浮かないように気をつけるようになったことを思い出します。水道というものが風呂場まで来ておらず、湯加減を自由に出来るわけではなかったのです。(坂井の伯父さんの家や平野のばあちゃんの家に行くとタイル張りの風呂があり、水道もありました)。

 ぼくが家を離れてからは正月や神祭に帰ったときにお会いしました。家のお客によく来てくれたのです。春利さんは神祭や盆踊りの口説きの名手でお客の席を盛り上げてくれます。父にとってこのご夫婦は自慢の種であり、頼りにもしていました。何かあれば「春利」「桂子」だったのです。お二人がいると座が和むのです。室戸岬の漁師町の気質と伝統を体現している最後の人たちだったのではないかと思われます。

 ずいぶん後になって春利さんが喘息でたくさんの薬の世話になっていることを知りました。戦後、長期に亘ってシベリアに抑留され、体を蝕まれたのが原因です。春利さんはまもなく急逝されました。
 いくら遠く離れて住んでいるからといっても、何も知らなかったのは残念でなりません。ぼくはこの方達に楽しい思いだけをさせてもらっていたのです。
 遅ればせながら少し勉強して抑留体験を持つ方の画集などを桂子さんに届けたりしました。「おんちゃんがシベリアでどんな風に生活していたかがちょっとわかったよ」などといってくれました。

 1人になられてからも父や母の頼りの綱になってくれました。やがて病魔に冒されますが、気丈なこと限りなく、いつも励まされるばかりでした。
 最後はこの春です。大阪から姪が来てくれたからといって珍しくお客に出席したといいます。松山の千代美さんにも踊りを所望したそうです。その一族がそろった賑やかな宴席から遠くに住むぼくに電話の向こうから声をかけてくれました。

 「啓介、おまんも頑張りよ」

 今日、妻は丸木美術館の手伝いで留守です。妻もこの40年間、桂子おばさんにかわいがってもらいました。この人がいたおかげでどんなに心強かったことでしょう。北海道の旅先からお見舞いの絵はがきを書いていました。おばさんに読んでもらうことが出来たのでしょうか。

 室戸ではそろそろお通夜の時間です。桂子おばさん、本当にお世話になりました。どうぞ、ゆっくり休んでね。春利おんちゃんのところにいったらまた仲良く暮らしてください。
 

旧同僚・田端さん 大島高校は敗退

2009-07-17 21:24:34 | 友人たち
7月16日 梅雨明けの太陽が照りつける野球日和。
 本川越~東村山~国分寺~武蔵境~多摩と乗り継いだあと人見街道を1kmぐらい歩くと明大球場です。心が躍るのか足取りも軽く?試合開始15分くらい前には到着。
 観覧席はバックネット裏にしかなく一塁側が大島、三塁側が文京です。今年も大島OBの謙一くんが早めに来ていて声をかけてくれました。「どうしますか」と座り場所を心配してくれます。文京側を見回したところ知っている人の姿はないので躊躇無く、謙一くんの隣りということにします。
 外野の後方に森があり、彼方に青空が広がる絶好のロケーションです。「白雲なびく駿河台」ではありませんが白い雲が3つ4つ浮かんで画のようです。

 試合は「実力の差」というべきか、文京が2回を除く毎回得点で圧勝。大島に同点に追いつくチャンスはついに無いままです。熱戦を期待していたぼくにとってはちょっと残念。文京は都立の野球重点校?の一つになっているようです。引き続き頑張ってほしいものです。

 この日は球場の都合なのか「鳴り物」入りの応援は禁止だということで文京のブラスバンドも大島名物のトランペットおじさんも姿をみせないせいか、盛り上がりに欠けるスタンド風景でした。それでも仕事のやりくりをつけて駆けつけたOBが大島側には多いようです。

 
  2009年7月16日 明大球場

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
文京 1 0 2 3 2 1 1 10
大島 0 0 0 1 0 0 0 1

【投手】 文京:篠原→水沢→渡部
大島:板垣→宮本→清瀬→白井

 この日、ぼくには嬉しいプレゼントがありました。試合が始まって1時間も経った頃のことですがどことなく見覚えのある方が スタンドの通路から人捜しをしています。旧同僚の田端克敏さんです。

 駆け寄って40年ぶりの再会を喜び合いました。「川越だより」を読んでくださって千葉県から3時間もかかってやってきてくれたのです。今日は定期検診の予定を午後にまわしてもらったと言われます。本当にありがたい限りです。

 ぼくが大島に赴任したとき、同年ながら先輩教師であった田端さんたちがいろいろとコーチしてくれたことはこのブログでも書いたことがあります。
 68年8月、私たちが結婚して妻が来島したとき、五目ご飯を造って歓迎してくれたことは今も我が家の語りぐさです。
 私たちが教員住宅に帰ってくると田端さん、中村さん、森さんの3人が五目ご飯を造っている最中でした。慌てたのは3人です。風呂場の金盥を利用していたのです。妻がびっくりするのではないかと「よく洗ってあるから大丈夫ですよ」と一生懸命にいいわけをするのです。
 この時の五目飯には感心したと妻は言います。具の椎茸とレンコンがそれぞれに別仕立てに調理されており、椎茸は甘辛く、レンコンは甘酢で酢蓮(すばす)に仕立てられていたのです。調理人たちの心がこもった御馳走を妻が喜んだのは言うまでもありません。

 もう40年以上昔のことです。このような同僚に恵まれたおかげでぼくは何とか教員の仲間入りが出来たのです。

 田端さんは55歳で教員を辞し、中国・中央アジア・ロシアなどで日本語指導に従事しました。なれぬ地で夫婦が力を合わせて活躍された記録は今でもHPで読むことが出来ます。

 済南の風http://genkigaderu.net/contents/essay03/main/index.html

 なんと言えばいいのか、ぼくにはとても想像が出来ない最前線での「先生」です。よろこびが多く伝わってきますが並大抵の仕事ではありません。お二人ともそれぞれに健康を損なって引退されました。

 病院の約束時間があるので試合中に帰られました。ぼくが思ったより元気なのを喜んでくれました。

 機会をつくって田端さんたちのこの10数年の歩みをじっくりと聞かせてもらいたいと思います。中国各地はもとより中央アジア、ロシアなどで若い人たちと暮らした日々は何ものにも代え難い貴重な体験です。

 出来ることなら大島で若い日をともに過ごした同僚たちと一緒に。
 田端さんご夫妻の健康を祈ります。