だが、悪魔が心に憑りつかな
いと勝てない。
魔球の魔とは漢字の原意通り
人間業ではない事を指す。
だが、俗世間で認識されるよ
うな修行を妨げ善事を害する
不思議な力ではない。
憑りついた悪魔をも呑み込ん
で人間がエクソシストのよう
に魔の進退を支配するのだ。
魔の上を行く魔を以て。
それが撞球における魔の支配。
人間が悪魔の邪悪を滅ぼす。
神ではなく人間が邪悪を滅す
る。
邪悪と対峙対決退治するので
はなく、それをも呑み込んで
明確な意志のもと潰してしま
い、魔の力さえも人間による
完全制御の支配下に置く。
デビルもサタンもデーモンも
人間が完全支配する。
それが撞球だ。
なぜ江戸時代はうどんより
蕎麦が人気だったのか?
あたしの場合は蕎麦だ。
何と言っても蕎麦よ。
とにかく蕎麦ね。
うどんよりも蕎麦さ。
何は無くとも蕎麦でぃ。
でもって、蕎麦は江戸に限
る。今の東京ね。
駅の立ち食い蕎麦でさえ東
京の蕎麦は格別だ。
値段はレート比較で江戸
時代とほとんど変わりない。
どんだけ江戸であった東京
で蕎麦が愛されているかと
いうと、駅には必ず立ち食
い蕎麦屋がある。江戸時代
の屋台蕎麦のようなものだ。
立ち食い蕎麦が無いJR駅も
あるにはあるが、殆どの拠
点駅には必ずある。
ホームにもあるし、駅舎内
にもある。
どこにでもある。
街に出れば、辻を曲がれば
蕎麦屋だらけだ。
それほど旧江戸である東京
では蕎麦が愛されている。
こうした文化は日本全国で
東京だけだ。
東京は江戸だったからだ。
大江戸東京人は蕎麦が大好
きだ。
「おいらぁ蕎麦なんぞでえっ
きれえなんでぃ」という江戸
者には金輪際会った事が無い。
ほぼ全員が蕎麦好きである。
こういう地域性も東京だけだ。
そして、蕎麦の基本は「もり」
だ。ざるではない。刻み海苔
などは載せない。海苔で蕎麦
の風味が消滅するからだ。
蕎麦の基本は「もり」と「か
け」だ。
特に「もり」では駅蕎麦以外
の店舗では「蕎麦湯」が出る。
これを最後に蕎麦猪口のツユ
に割って飲む。これ最高。
また、蕎麦ツユの造り込みも
よく分かる。
さらにサービスの卓上の小梅
などがあったら最高。
蕎麦は東京に限る。
藪、更科、砂場、どれもが
美味しい。
蕎麦を食うなら東京で。
これ、鉄板だ。
こういう街が最高だ。
新宿ゴールデン街などは聖地
だよ。
個人的には通い過ぎた感はあ
るが。プライベートでは「ゴ
ールデン街の人間」になって
たし。
それでも、花園神社界隈は永
遠の聖地には違いない。
聖地を整地してまっ平にしよ
うとしている力も地元の団結
で今もはねのけている。
新宿南口のバラック飲み屋街
は裁判で負けて消滅しちゃっ
たけどね。珍しく負け裁判だ
った。
退去撤回を私の職場が受任し
た時、南口のとある中華屋で
ひし美ゆり子さんと知り合っ
た。
その頃、中華料理店の女将さん
やってたからだ。
とんでもない美人でびっくら
した。
映画『新宿鮫』(1993)で鮫島刑
事(真田広之)が容疑者を新宿
南口の飲み屋街で捕らえるシー
ンがあるが、その時、飲食街の
角の中華屋から店主が出て来て
その格闘を眺めてる。
その人が当時のひし美ゆり子さ
んのご主人だよ。
英文ではなく日本語表記で、
女がよく使う女独特の下品
な日本語記述方式がある。
それは体言止めだ。
しかも、体言止めの連発を
続けるのが特徴だ。
それを見ると胸くそが悪く
なる。
揃いも揃って連発大好きだ。
体言止めの連続使用は、日
本語の言語学的表記の類型
としては思考停止そのもの
であるので、それに触れる
と非常に気持ち悪い。
しかも、その手の表記を好
んで使うような人間が書く
体言止め連発の文脈や行間
には、さも自分が全てを解
っているかのような記述者
の意識が露見している場合
が殆どだ。
汚い言葉を使わず、丁寧な
言葉を使用していても、下
品で下劣さが露出している
という事に気づいていない
のが滑稽さに磨きをかけて
いる。
そして、日本語の文章表記
に昏い人間ほど体言止めの
連発をして自己満足してい
る。
端的に言って、全てがよろ
しくない。
ゆんべ玉仲間と晩メシ行こう、
ってんで市内のかなりウマい焼
き鳥屋に行ったら予約で満席だ。
先日一緒にメシツーに行った人
がオーナーの別な居酒屋行った
らやはり予約で一杯、店内満席
なのよね。
しかたないから駅前のや台ずし
に入った。
かろうじて二名入れたが、うち
らが入ってから店内は満席にな
った。危うく晩飯難民になりか
けた。
で、シース―食べてからサクッ
と4軒飲み歩いた。
どの店も大入り満員だ。
昨夜はなんかあった?
三原にしてはすんげ人出だった
よ。
日付変更線を跨がないうちに
早々に我々は撤退する事にし
た。
客は入っていたが、最初のフェ
ーカーが静かで一番落ち着けた。