渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

剣法雑感(2016年記事再掲)

2023年12月06日 | open

以下の文は、推敲を重ねずに
徒然と思いつくままに下書き
無しで書き連ねているので、
冗長であることを最初にご理
解いただきたい。

<前段の所感>

刀の操作である操刀法という
ものは、刀術を知らない者に
とっては
未知の領域であり、
刀の柄の握り方(握り締めは
しない。「柄の支え方」
とし
たほうが正確だ)、刀の振り
方は、その道に入っていない
人には
不知の事柄であるよう
だ。

私の娘もそうであったが、娘
が通った道場での剣道の場合、
半年間は
前進、後退の足運び
だけを子どもたちに学ばせる。

そこで大抵の子はふるいにか
けられ脱落していく。

半年も週に何度も前進と後退
ばかり稽古させられるのが嫌
になるからだ。

しかし、剣道では、日常生活
にはない独特の足運びと体の
使い方をする
ので、足さばき
の履修は必修なのだ。いきな
り防具を着けての打ちこみ

などはさせない。

真剣日本刀を使用する抜刀術
においても、古流などは幕末
に発生した
一刀流系の流れを
くむ現代剣道とは足さばきが
異なる面もあるとはいえ、

本的な足さばきは絶対に履修
する必要がある。これは絶対
だ。

また、抜刀剣術はそうした身
体さばきの「体術」と、刀を
操作する「刀術」と、
そして
実際に斬りを覚える「斬術」
の三位一体によって抜刀剣術
が術たり
える。

足さばき、腕の関節の使い方
等を覚えた後に操刀術に進む。

いきなり刀を持って振ったり、
物を斬ったりすることはない。

最初から刀で物斬りしたりす
ると、まったく身体の使い方
をしらないまま
極めて危険で
出鱈目な刀振り回しになって
しまう。

また、操刀法を知らないから、
まともに抜刀したり納刀した
りすることも
できない。
抜刀道なるものでは、剣術・
抜刀術のセオリーを無視して、
いきなり刀も
持ったことがな
い人に物を斬らせて客集めを
したりしているようだが、

れらの目的は「金(かね)」
であり、武術として剣術・抜
刀術を人に習得して
もらうこ
とではない。

現実は雄弁に真実を物語る。
現実的に、抜刀道のみをやっ
ている人は
まったく抜刀や納
刀さえもまともにできていな
い。危険極まりない。

さらに、きちんとした古流剣
術なり古流抜刀術なり、ある
いは古流をベースに
した現代
道なりを学んでいない者が長
になっている団体もあるが、
その
長自身が納刀後の鐔かけ
を親指を鍔の真上に置くよう
なことをしており、
いかにき
ちんとした剣法とは無縁であ
ったかがうかがい知れる。

今回、操刀法のうち、「刀の
握り方」は既出であるので、
刀の振り方について述べる。
刀の軌道、すなわち刀線に
ついてだ。

<刀の軌跡について>
刀(竹刀、木刀、真剣)を振
る場合、一刀流系の現代剣道
や土佐系古流の基本としては
まず、真向から真っ直ぐに振
る。これが基本だ。刀線は自
分の正中線を通る。
刀の軌跡には、真向、左右袈
裟、左右逆袈裟、横水平、突
き、が基本となる。
そして、最終的には敵に正対
して敵の前に大きな時計盤を
衝立のように立てたとして、
360度どの角度からでも隙が
あれば斬れるようにする。
現代防具剣道での打突部位の
固定化、および現代エア武道
での斬切部位の固定化による
カタ流儀の固着等に思考が固
まってしまっている人は、斬
術などで畳表や竹などの据物
(すえもの)を切る場合にも、
別個に決められた「カタ」で
しか切ろうとしなかったりす
る。
形(かた)を錬磨するために
形(かた)で切るのは大いに
修練に役立つが、その形(か
た)でしか切れないというこ
とに陥るとしたら、それは形
(かた)の稽古でもなんでも
ないただの形(かたち)だけ
をなぞった刀振りとなり、
形(かた)を型(かた)に貶
めることを実行していること
になる。
剣道の場合は、一応規則上、
打突部位が決められてはいる
が、本来ならば、刀は敵のど
の部分に中っても有効である。
親指を刀のフクラがかすった
だけで戦闘能力は失われる。
剣道で面を打ちこまれて首を
振ってそれをかわしても、
竹刀が面布団に中っている。
一本は取られないが、それは
本来ならば肩口を斬られてい
るのだから敗北である。
しかし、「戦闘行為の訓練」
であることを剣の道が捨象し
はじめた明治以降、日本剣道
はスポーツと化した。
それはそれでもよい。
また、現代いあい道は武術で
はなく完全に刀に似た道具を
使う旗揚げ判定に一喜一憂す
る人たちを量産するスポーツ
となっている面があるが、ま
だ剣道よりは「敵を斬る」と
いうことを仮想として組み立
てている。
だが、現代武道の世界では、
前述したように「形(かた)」
を「型(かた)」と固着思考
させてしまう危険性が多分に
ある。

<何を学ぶか>
構造的に剣を取っての「実戦」
が明治士族の乱以降存在しな
くなったので(日中戦争およ
び昭和大戦の特殊事例は除く)、
いたしかたないことであり、
また、袴をはいて日本刀を武
器としての実戦などは時代錯
誤も甚だしいので、現代武道
および抜刀術において「実戦
論」を説くのは論外である。
あくまでも、「いにしえの武
士が身に着けていた歴史上の
伝統武技」の系譜を引くもの
として現代の武道なりを捉え
ないと、見る方向を誤る。
現代はどんなに思考のベクト
ルを戦闘モードに無理矢理振
ろうとも、現代戦において袴
をはいて日本刀を手に戦闘行
為に及ぶというケースは不在
であるので、日本刀を使う武
技に実戦史観を持ち込むのは
間違いだ。
ではなんのために学ぶかとい
うと、「温故知新」の一点し
かない。
先人が踏みしめて歩んで拓か
れた道をたどり、古き武人た
ちがどのように稽古を通じて、
あるいは命がけで何を獲得し
て行ったのかを学び取ること
だ。
そうした精神作業を自分に対
して厳格に行なわない限り、
剣術や抜刀術を剣道やいあい
道として「人間形成の場」と
することはできない。
また、現代戦においては、日
本刀を武器とはしないので、
精神的涵養を目的としない剣
技習得は、単なる長い刃物を
使っての殺人技法の習得にな
ってしまうので、心の修養が
伴わない剣技などは学ばない
ほうがよい。
これは剣術と剣道、抜刀術と
いあい道の区別はない。剣技
を学ぶ現代人はどうあるべき
かの根幹なので、刀法技術だ
けをテクノロジーとして得よ
うとする者には剣技などは学
ばせるべきではない。
特に刀を使っての物斬りのみ
に特化したエリアに足を踏み
入れると、フルコン系武術の
領域に住する人々がつとめて
人的品格に問題があったりす
ることが残念ながら多いとい
う現象がみられるように、心
のないただ戦闘武技だけを錬
磨したハートが不存在の族
(やから)となってしまう。
現実的に剣術を標榜する人た
ちにおいても、極めて品性下
劣で己の武技のみを誇り他者
を排撃することのみに躍起に
なっている危険な精神領域に
入っている人は多くいる。
いくら武技のみを学んでも人
間の人格や社会的良識は形成
されない。刃物や身体を使っ
ての人殺しのテクニックが身
に着くだけだ。(軍隊におけ
るマーシャルアーツは殺人戦
闘武技であるので目的が一直
線に明確だが、現代武術・武
道はそれを目的とはしない)
そういうのは剣の道でもなく、
また剣をかつて帯びた治政を
司った武士が目指すところで
もない。
剣の世界は、たとえそれが術
であろうと道であろうと、
「人の為になる」という
人間
性が作られることに寄与しな
い限り、現代ではまったく意
味がない。
人間形成を無視する剣法など
は一切やらないほうがよい。
人は人から学ぶ。そして、賢
者はさらに歴史から学ぶ。
今はもう生きていないいにし
えの人が残した貴重な訓を学
び取る材として、そうした何
ものにも代えがたいものが詰
まったタイムカプセルとして、
先人が後の世にまで残し伝え
た伝統武技は学ぶべきだろう。

<刀法 -袈裟->
剣道をやっている人ならば、
ごくごく基本的なことで小学
生低学年の頃に学ぶことだが、
剣道にノータッチだった人は
未知の領域のことがある。
真っ直ぐに真ん中を切る「真
向(まっこう)」の場合にも、
体と刀(竹刀、木刀、真剣)
の専門的な使い方がある。
これは、大工さんがノミやカ
ンナの大工道具を使うように、
あるいは料理人が包丁を使う
ように、お百姓さんがクワや
スキを使うように、それぞれ
の分野にはそれぞれの専門的
な道具の使い方というものが
ある。
剣法においてもまったく同じ
であり、刀には刀の使い方が
ある。
真向切り下ろしは意外と身に
着けやすい。これとて、基本
を教わらないと自己流では絶
対にまともな切り下ろしはで
きない。
なぜ先達の士から学ぶことが
必要かというと、近道だから
だ。
学校になぜ通うか。これは教
育水準を上げて国家社会を知
的で豊かにすることもあるが、
具体的な内実としては、先人
が解いた知を学として学ぶ
ためだ。赤ちゃんが教育を受
けずにそのまま育ってピタゴ
ラスの定理を発見するだろう
か。

剣法も同じで、先人が切り拓
いた術技を存命中の練達の士
から学ぶことで限られた人生
の中で身に着けるために人か
ら学ぶ。自己流のみでやると
したら、歴史上の先人たちが
到達して獲得した領域を一か
らの「発見」からスタートし
なければならなくなる。
そうした無駄を排除し、効率
よく、自分の存命中に成果を
上げるためにも先人の「先生」
から学ぶのである。
学習には座学と実技が車の両
輪で、そこに実践が加わる。
書籍や講義だけ聴講する座学
だけでも駄目だし、また理論
なき実技も全く意味を成さな
い。
さらに理論と実技の実践なく
ば、絶対に大成されない。
技術が術技の領域にさえ至ら
ない。
まず、正しい理論を学び、技
術の仕組みを覚え、それを錬
磨して習得し、実践を経て開
眼して行く。
剣法の道程はこれしかない。
精神的な心は、実践している
人から何かを学びとる。
師は弟子を選べないが弟子は
師を選べる。「師を選べ」と
は昔から云われることであり、
心がない師に就いても得るも
のは心の「ダークサイド」だ
けだ。
師と弟子という関係性でいえ
ば、弟子の方が優位性がある。
「ろくでもない人間」を師と
して選ぶことを拒否できるか
らだ。存外、武術家という人
たちには人品高潔な人物は少
ない。特に、武芸売りを専門
職としている者で人格高潔な
人物には私はお目にかかった
ことがない。多くが狡猾で金
に汚く、さもしく邪(よこし
ま)な目の光り(=濁り)を
している。残念ながらこれは
現実だ。
また、いくら技術のみが突出
している人であろうと、ある
いは精神面が人格者であろう
と、その両方が両立していな
い人から学ぶ意味は希薄だ。
真の剣技は、高次の領域に行
けば行くほど、人間的な懐の
深さが出てくる。
理由は簡単だ。
そうでないと、死んでしまう
からだ。権謀術数が人間の社
会では張り巡らされている。
真の剣技の高次元領域に達し
た人は、おしなべて温厚であ
る。だが、いざという時には
毅然と事態に立ち向かう。
そして、人柄は丸くとも隙は
一切ない。それが剣士だ。

さて、本題に戻る。
袈裟切りにおいては、剣を取
ったことがない人は、まるで
野球のバットやゴルフのクラ
ブのようなスイングをしてし
まいがちだ。
だが、日本刀の場合、支点と
力点と作用点の位置取りと意
識的設定がとても大切なので、
「特殊な振り方」をする。
理由は「そうでなくば切れな
い」からだ。ただこの一点で
ある。
剣法のうち刀技においては、
すべて「ただ敵を切るため」
の一点に集約される。それを
先人たちは開発して残し伝え
てきた。

剣術における袈裟切りの基本
は「左拳は常に己の正中線を
通る」ということだ。

赤線が自分の正中線である。
青線の横面を切る場合も、黄
色線の肩口から鎖骨を切断す
る場合も、
緑線の胴を袈裟に切る場合も、
すべて左手の柄手は己の正中
線を通る軌跡で刀を振るのが
基本だ。
なぜ「基本」かというと、人
体の場合には身幅があるため、
あくまで左拳正中線が基本で
はあるが、切り抜くためには
多少それが可変するからであ
る。
また、己の右からの左袈裟で
体を右に(敵の左側に)スッ
と移動させる体転を伴いなが
らの袈裟切りの場合は、さら
に複雑な動きになる。
だが、基本は左拳は己の中心
軸からは外れない。

体転を伴う袈裟切り。切り抜
いた瞬間から慣性は抜重技法
により
完全収束させて剣を静
止させる。左拳は己の中心軸
から外れず、
切先も敵方向か
ら外さない。



これも同。これは刃引き刀に
よる切断だが、上掲の画像も
これも体面が被切断物に正対
していないのは、それは右方
向への体転を伴う業で切りを
行なっているからだ。これは
物体と体の位置関係を観察し
て読み取れる人には読み取れ
ることだろう。



<袈裟切りの際のエイムポイント>
剣道においては、「切り返し」
の稽古を必須とするが、そこ
では左拳が己の中心軸をぶれ
ず、竹刀を担がないことを確
認する。
また、初心者のうちは、竹刀
での稽古では打ち込み稽古で
打突部位を見たほうがよいだ
ろう。あるいは真剣での物体
斬りにおいても、斬切の入刀
ポイントを見た方がよいだろ
う。
だが、これはあくまで初心者
のことであり、錬磨が進むと、
打突部位や斬切部位などは見
ていない。遠山の目付のまま、
全体の動きやポイントを察知
している。「目付け」とはウ
ォッチの凝視のことではなく、
シーの全体像を捉える方向に
目線を向けることである。
このことは300km/h→60km/h
に急減速するレ
ースの世界で
も同じで、二輪レースの技術
で言えば、コース上のブレー
キングポイントである目視点
の標識たる「リファレンスポ
イント」(これはレーサー全
員が各自持っている)を意識
はするが、それを凝視するこ
とは決してしない。ふとぼん
やりと眺めるのみでピンポイ
ントを察知できる。例えば昔
の筑波サーキットであれば、
直線で前を見ているがリファ
レンスポイントであるガード
レールの切れ目が視野を通過
した瞬間地点をブレーキ開始
に設定する、とかがそれだ。
こうしたことは錬磨によって、
「そのもの」に視点を合わせ
ずに全体像を把握する中でピ
ンポイントをも察知できると
いう、そういう能力が獲得で
きるのである。
飛行BB弾を抜き打ちで切る修
心流の町井勲先生は視力はそ
れほどよくはない。
だが、武技を知らない人たち
は「すごい動体視力だ」など
と評したりする。
町井先生は凝視したり目視で
ピンポイントの捉えなどして
いない。
野球においても「球をよく見
ろ」と言われるが、見て合わ
せていてはバットは確実に振
り遅れる。
飛行物体や素早く動く物にヒ
ットさせるには、上述の「全
体像で捉える能力」に加えて
「予測能力」という特殊能力
が先鋭に錬磨されていなけれ
ばならないのだ。
素早い動きの剣道においても、
いちいち相手が打ちこんでく
る竹刀を見ていては後の先
(せん)なども取れない。
いわゆる「遅れを取る」という
もので、自分が先(さき)に打
ちこまれて負ける。
剣道の場合は、小手などの拳や、
敵の目の動き(まぶたの開き具
合)などでかかりを察知してお
こり以前にこちらから先(せん)
を取ることも可能だが、矢や手
裏剣などの飛行物体を切り落と
したりかわしたりするのは、す
べて目視によってのみでは不可
能だ。「予測する」のである。
しかも左脳で理論的に解析する
のではなく、動体能力として反
射的に予測できるように自分の
身体をそこに持って行くのであ
る。
それが錬磨だ。

こうした能力は、静止物体であ
る「据え物切り」をしているだ
けでは絶対に身につかない。
形(かたち)稽古ばかりしてい
る剣士などは、動的訓練を積ん
だ昔の剣士と対峙したら、たち
どころに斬り倒されてしまうこ
とだろう。
そうした「暗愚」なカタチ稽古
の刀体操にならないためにも、
据え物で刀の動きの仕組みを理
解したら、形(かた)ではない
「自由斬り」によるその場での
思いつきで斬っていく稽古も必
要になってくると思われる。
どんなことでも自由自在に刀を
扱え、「切ったり」あるいは
「斬ったり」することが刀法と
しての静止物体斬術稽古になる。
あらかじめ抜刀して、据え物の
前に進み、足を止めて固着させ、
刀を伸ばして間合いを計り「え
いやっ」と斬る、というような
ことは武術武道武芸とはまった
く一切関係がない。それらは武
技とは別ジャンルのことである。
それはあたかも、ゴルフの打ち
っぱなしでの練習がコースを回
るゴルフのプレーではないのと
似ている。トンカチでいくら釘
打ちができても、物や家を作ら
ないトンカチでの釘打ちは意味
がないのと同じだ。
剣法の剣技であるとせんとする
ならば、静止物体に抜き身で接
近して足を止めて切るというも
のは武芸とは無関係な行為だと
知ろう。
そして、そうした日本刀使用法
は、「動かぬ捕虜の首切り」に
似ているということにも気づい
てほしいと願う。

稽古として静止物体を切る場合
も、本来は全体像こそがエイム
ポイントであるのだが、巻き畳
表の場合も巻き藁の場合も、斬
り込む入刀点ではなく、斬り抜
ける点に意識を持って行ったほ
うがよく斬れる。
また、切断はプリンをスプーン
でえぐるような曲線軌跡にはさ
せずに、直線的にまっすぐに切
断することが大切だ。

土佐英信流の古流においては、
業によってはえぐるような刀法
も存在するのであるが、それは
基本技術を身に着けた剣士が行
なう高度な術の範疇であり、物
体斬りの基本は「真っ直ぐに直
線軌跡」である。
それを刀身が湾曲し、さらには
断面が曲面になっている日本刀
を使って
三次元的な要素をクリ
アして切り落とすのであるから、
基本とはいえ、これはやはり基
本なりの「術」なくば達成でき
ない。
最初から刃を傾けて刃筋を取る
などという刀法は存在しない。
敵があらかじめそこにいてくれ
るということは万が一にもない
からだ。
それは首切り用法であって、対
敵動作たる剣術・抜刀術ではな
い。
(首切り用法としてもあらかじ
め刃を傾けて刃筋を決めるなど
というド素人用法は存在しない)

また、操刀法が正しく(剣法に
おける「正しい」とは、適性が
最大値で発揮される効果のこと)、
刃で切るのではなく刀法と刀身
で切るということができると、
刃引刀だろうとある程度の物体
は切断できる。
雨傘の先で長く伸びた草の茎を
スパリと切断したり、あるいは
竹刀で新聞紙を破くのでなく切
断したり、名刺で割り箸を折り
切ったりできるのも、合理的な
物理現象を刀法の理によって現
出せしめているからだ。
だから、剣法においては「刃味」
のみに頼って小手先だけで竹を
切ったりしても、それは剣術の
刀技の核心領域には直結しない。
刃を使っての切りも剣技の中に
は存在するが、刃による切りは
あくまでもコンプリートとして
の術の中の「一部分」でしかな
く、そうした小手先技術に固執
するのは術の深淵を見ることを
しておらず、底が浅い。

剣士諸氏におかれては、よくよく
吟味工夫されたし。

-関連事項-
・柄の握り方
・刀の柄の握り方
・刃筋
・刀法
・切ることと止めること
・刀を曲げてしまうということ


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