日本で一番高い送電用鉄塔
というのは、広島県にある。
戦時中に「皇軍」が毒ガス
兵器を製造していた為に地
図からは消されていた大久
野島だ。
遥か彼方には広島県の生口
(いくち)島と愛媛県大三島を
結ぶ多々羅(たたら)大橋が見
える。
同行した者が多々羅大橋の
名称について「たたらと関
係ある?」と訊く。
ある。
多々羅大橋はその下の海洋
部の多々羅海峡から名付け
られたが、古くには「たた
ら浜」という地名があり、
1960年代に鉄滓(かなくそ)
が発掘されている。たたら
製鉄(広義にはたたら吹き
製鉄も含む)が行われてい
た証左だ。
付近は古代末期~中世海賊
である村上水軍が軍事的に
実効支配した芸予諸島エリ
アであり、日本総鎮守の大
三島神社もある。嘘かマコ
トか、神武天皇が東征の折
に小千命(おちのみこと)を
魁として遣わせて鎮座させ
た、とされている。
不思議な事に、朝廷が書か
せた日本書紀と古事記にあ
る神武東征を「邪馬台国
畿内説」を唱える学者たち
は無視しているが。
何かどうしても日本の権力
発祥の地を畿内に持って行
きたいフィルターが働いて
いるのだろう。
敷衍すれば、皇室のルーツ
が外来種族であり、外から
九州の地に渡来した事を否
定したがる色が濃く見える。
朝廷のお膝元の記紀にさえ
書かれているのにだ。主と
して皇国史観学者たちにそ
の傾向が見られるという歪
みが現認できる。
一部勢力の学者たちの歪み
が根幹部分の日本の歴史解
明において学術として如実
に読み取れるのは魔訶不識
な世界だ。
似た傾向は刀剣研究の業界
においても存在している。
江戸末期時代の製鉄と刀剣
製作方法(江戸期に失伝の為
に一人の刀工が想像で復元)
を「古来からの刀剣製作法」
として刀剣界中央が現在も
宣伝している。
大嘘である。日本刀の真の
歴史、歴史の真実とは別物
だ。極言すれば、捏造。
どうしてもそこに持って行
きたい一部勢力が権勢を握
って嘘を拡散させているだ
けだ。金属学的にも古代刀
剣とは別物であるので、江
戸末期製法が古来刀剣製造
法である科学的根拠は一切
無い。そもそも古刀におい
てはアンコなどは使わない。
あれは予め炭素量毎に鋼を
振り分けてストックして、
膨大な刀剣需要に応える為
の即席量産工法だった。
その即席量産工法の根幹部
分さえも刀剣需要が途絶え
た江戸期の数十年の間に失
伝されたので、江戸末期に
ある刀工が想像「復元」さ
せたのが現代の日本刀製造
方法である。
だが、それを「古式鍛錬」
と称して、あたかも慶長以
前の古刀時代からの製法で
あるかのように現行刀剣界
中央は宣伝する。
嘘、である。
慶長以降の新刀とそれ以前
の古刀で全く鉄自体、構造
自体が異なる事の説明がつ
かない。
嘘を嘘で糊塗しようとする
とさらに嘘で固めないとな
らなくなる。かなりの無理
がそこには生じる。
「日本は神州」として天皇
は人間ではなく現人神であ
るとする発想に非常に似て
いる。
またそれは、古代において
侵略し征服し排除した国内
の在地勢力を「鬼」「鹿」
「蛇」「悪」と呼称して排
除排斥してきた日本の中央
権力の「勝者が記す歴史」
と全く同軸の発想としてあ
る。
征服あるいは傀儡化させた
日本各地の在地勢力の叛旗
を畏れて、中央権力はそれ
を鎮撫させ「祀る」事で沈
静化させようと画策した。
それの物理的象徴が「神社」
と「祀り」の一方面部分の
発祥だった。
国内に存在する「赤い神社」
と「白い神社」の存在は、
かつてはどの方面の勢力で
あったのかに起因している。
そしてその「赤い神社」は、
とりもなおさず、中央権力
と拮抗し征服支配された勢
力の象徴でもあり、また最
大の根底部分には「製鐵の
手法の違い」を象徴するも
のだった。「朱に交われば
赤くなる」という言葉が忌
避感を以て語られるのには
古くからの歴史的背景があ
る。朱と丹、これは超古代
製鉄と切っても切り離せな
い存在としてあるからだ。
「砂鉄=白」以前は赤色の
物体から製鐵を為していた
日本の歴史がそこにはある
からだ。
超古代製鐵は赤土から鐵を
生産していた。
これこそが日本の歴史にお
ける「赤」と「白」の両極
存在として位置している。
そして製鐵が白一色になっ
た時代においても、さらに
鐵の質が変遷した。
それは、中世末期に発祥し
た剣術の新陰流の一流れの
柳生新陰流の伝書において
「鐵」の文字が「鉄」とし
て書かれた事にも背景があ
る。「鐵=金(かね=テツ)
の王なり」という漢字が
「テツを失う」という「鉄」
の文字に変換されたのだ。
これは慶長以降の新刀と
それ以前の古刀の鉄の質性
の明らかな違いと符合する。
つまり、日本の製鐵は中世
末期にはすでに「白」が全
面化していたが、さらにそ
の「白」の中でも製造法が
大きく変化した。
江戸初期の新陰流伝書に使
用された「鉄」という新字
は、実質的に日本の製鐵の
時代的変化、換言すれば歴
史の変化をも表すものであ
ったのである。
当然、芸予諸島エリアの島
内では古代から製鐵が行わ
れていただろう。
但し、本格的な学術的メス
は入れられていない。
古代末期、東関東において
征討軍である朝廷軍を悩ま
せたのは平将門が治めた坂
東での地元製鐵による鉄器
とその優れた製鐵スキルだ
った。
特に東日本の蕨手刀から発
展させた坂東の湾刀は西方
朝廷軍の直刀を悉く折った。
湾刀は馬上からの斬撃でも
折れない。
朝廷軍は極限的に焦った。
自軍の武器が全く役に立た
ないからだ。
結局、将門軍を落とすには
周辺勢力の抱え込み篭絡と
いう超古代時代から「外夷」
を征服傀儡支配化に置く時
のお得意の手法を用いて、
ようやくかろうじて将門勢
力を「征圧」した。熊襲の
騙し討ちや出雲傀儡化のよ
うな手口が古来よりヤマト
王権→大和朝廷勢力の得意
技だった。
だが、驕れるものも久しか
らず。やがては手駒であっ
た武士によって寝首をかか
れ、武家政権が誕生してか
らはその後680年以上に亘り、
日本は武士が実効支配した。
朝廷ミカドは実質的には
「飾り」としての位置を与
えられ、奇しくもそれは朝
廷が繰り返して来た「祀り」
の手法を体現していた。
南北朝時代に一時天皇家自
体が対立して割れたが、
政体の実権は武士が握った
ままだった。それは「擁立」
によって南北朝に割れた事
が現実は何であるかを示し
ていた。
それ以前に「建武の新政」
で2年のみ天皇親政時代が
あったが、やはり武士の支
配力は圧倒的ですぐに消滅
した。また、武士への恩顧
還元を無視した特定勢力を
優遇化した天皇の失策によ
り即行で新政は消滅した。
ヤマト時代と同じ感覚では
時世の掌握はできない。
武士はすでに幕府を作り国
内統治システムを担う存在
であり、天皇という上から
の一方的な上意下達にただ
従う事は武力を以て拒否す
る存在だった。新政はその
あたりを大きく見誤った。
国内の実効支配は殿上では
なく現場で起きていたのだ。
結局武士が日本を実効支配
統治し続けた。
そうした体制は、江戸幕末
に戊辰戦争→明治端緒に天
皇を新たに「神輿」として
持ち上げた勢力による「維
新」(錦旗はじめ捏造多発)に
よって政体が変化するまで
続いた。
平将門軍が使用した湾刀は
「日本刀」の登場として軍
事史に実としての名を刻む
と共に、「古代」の終焉を
もたらした。
やがて朝廷軍も坂東の刀剣
を模倣して湾刀を作り始め
た。衝撃を緩衝させて折損
を防ぐために一体式の柄部
分は中空にされ、それが毛
抜きに似ていたのでその刀
剣は「毛抜太刀」と呼ばれ
るようになった。
湾刀たる日本刀の発祥の実
体は、実は坂東=東日本の
「俘囚の剣」であった。東
北の「もぐさ」との関連性
も正しい視点の刀剣史とし
ては見逃せない。
平将門の製鉄炉は、まさに
古代から中世への狭間にあ
って、古代製鉄の実態を伝
える物だった。密封炉であ
る。踏み板を使う大型送風
の「タタラ吹き」ではなく
古代のたたら製鉄。
坂東武者が日本の歴史にい
わゆる「日本刀」を誕生さ
せた。「武士は東国」と昔
から云われる由縁は、源頼
朝より遥か以前の平将門の
頃まで遡る。