稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.82(昭和62年8月15日)

2019年11月14日 | 長井長正範士の遺文


四本目、六本目、七本目が後の先で勝つように仕組んである。では一本目から
七本目まで皆、互いに先の気位で進んでゆくのに(但し四本目だけは形を制定
する時、陰陽の構えにて互いに進み云々と書いてあるが、これとて先の気持ち
は変わらない)

なぜ四、六、七本目の三本だけが後の先なのか、これを一刀流をやっていると
解明出来るのである。即ち左足で勝っているのを後の先と言っているのである。
詳しく申し上げると、四本目は、いったん頭上で相打ちとなり、次に仕太刀は
左足を左に転じ巻き返し面を左足前で打つのである。即ち左に体捌きをし左足
で勝っている。

六本目は打太刀が仕太刀の気魄に押され下がって尚も攻めてくる仕太刀の出は
なをくじくつもりで軽く小さく早く仕太刀の右小手を打ってゆくが、仕太刀は
既に乗り勝っているものだから安々と左足を左に開き腰をひねってこれをすり
上げて小手を打って勝つのであるが、この左足を左に捌いて腰をひねり、稍々
(やや)斜め右向きに相手の打ちを摺り上げるところに大きな意義がある。

それを知らず、摺り上げることばかりに気をとられて、手で先ず摺り上げ足は
そのままか、少し左の方へ寄る程度で、手足の一致しない打ちをしている者が
あるが、これは真の後の先で勝つ精神と技の知らない者である。

七本目も打太刀が仕太刀の胸部を突くが、仕太刀も先の位であるので、さあこ
いと言わんばかりに打太刀の突いてくる度合いに応じ、呼吸を合わせ(受け身
になっていないから腹をすえ打太刀に応じられるのである。)相突きの気持ち
でその剣を支え、相手の心を読むと案の状、打太刀のは左足右足と二足一刀で
捨て身で面を打ってくるが、仕太刀はすかさず右足を右に開き「左足」を踏み
出して打ってくる相手とすれ違いに右胴を打つ。

この所がポイントで、左足が右足の前へ行った時、既に抜き胴を打つ態勢であ
るので左拳は自分の中心から右にいっている。即ち一番なことは手と足とが一
致するという事で、いつも左足と左拳は同一の線上であるという事をわきまえ
て頂きたい。

従って左拳が自分の体の中で離れるのはこの七本目の抜き胴の場合に限り、と
いう事になる。自分を守るための大事な左足と左拳はいつも同じ行動をとるこ
とが大切である。一寸横道にそれたが、左足右足と腹を斬り進む。この左足の
捌き方が後の先の重要な意味を含んでいる事を大方の皆さんはご承知頂いたと
思う。

ついでに余計なことだが、左足を左前(約30度~35度)にして相手の正面打ち
の出頭小手を打つ時の左拳は左足に伴って左拳が自分の中心より稍々(やや)
左の方に寄っていることは当然である。これ以外の相手とわれの直線的な技に
は自分の大切な左拳が中心を離れることはない。

即ち左足も従って相手に対し真っすぐに向いていなければならない。
このことは至って大切なことなのであえて申し上げておきたい。

以上のように後の先は皆左足を捌いて勝っているので左足の大切さ、と同時に
歩むが如き軽快な足の運びが大事なことを銘記して頂きたい。
次に大事なこと。

去年の1月25日発行の「日本武道」新春に中倉清先生が新春偶感と題して「剣
道も、昔から一眼二足と云って、その人の足捌きを見れば上達するか否かが判
るとまで云われたものだ。それ程、剣道には運足というものが大事であること
は今更申し上げるまでもないことである。

だが剣道もいつの間にか前後だけの運足になって、左右の捌きというものが全
くない。これでは若い青年時代は、前後だけで間に合うけれども、五十、六十、
七十になっては足の早い体力のある者には到底太刀打ち出来ない。今年は寅年
に当り、強い足、前後左右の足捌きを勉強したいものである。」(以下省略さ
せて頂く。)と誠に理の叶った良い教訓を頂いたと、今も尚この記事は残して
ある。(続く)
コメント
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