稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.87(昭和62年9月10日)

2019年12月21日 | 長井長正範士の遺文


○吉田先生が、お父さんから聞いた話だがと言って話された。
昔、四国の香川県に、うるさい喧嘩好きの相撲とりが居った。或る名の通った剣客がおって、
いつものように刀の下げ緒を柄に巻いて従容(しょうよう=ゆったりと 落ち着いているさま)
として歩いていた。

そこへ向こうから、くだんの相撲取りがやって来て、いやにからんで喧嘩をふっかけてきた。
剣客は顔色一つ変えずスイスイと体をかわしていったので、相撲取りもへとへとになって負け
去った。あとで弟子が「相手が侍で、勝負をいどんで来れば如何」と。答えて曰く「下げ緒、
解くまで待てという。待つ者は強い。待てずに斬ってかかる者は、下げ緒を解くまでもなし、
素手で充分だ」と。なるほど味わいのある言葉である。
(註:刀の下げ緒の加筆。下げ緒は約六尺で片いっぽうの紐は三寸(10センチ)長くしておい
た。いざという時、長い方を引っぱって口にくわえて襷(たすき)にしたのである。)

○引き続き吉田先生のお話を書いておきます。
内藤高治先生は親分肌のお方であった。常盤山(常陸山谷右エ門)は兄さんの子である。
兄さんは剣道家で市毛さんと言った。内藤先生がある時、店にひょうたんがあって、ひと目見
られて気に入った。「これは良い、いい品だ」とほめて包ませ、あとで「幾らですか」と値を
聞かれ、お金を払われた。普通の人は、先に値を聞くが、内藤先生はこのように、いつも買う
ときはスカーッとして、あとで値を聞き払われた。ここが良いところであると私は(吉田先生
は)感心した。内藤先生は61才の祝いの時、赤ずきんを着て“赤ずきん、三つ子となりて太刀
わざ磨かん”と詠まれた。一生死ぬまで修養だ、と。

○ちなみに吉田誠宏先生の尊敬された剣道家は、内藤先生は勿論であるが、関東では根岸先生、
関西では三っ橋先生であった。三っ橋先生は片手突きの名人で、持田先生はこの先生から教わ
った。当時、武徳会の岡田理事は堀口武舟氏のけいこを改めて貰いたい為、三っ橋先生とけい
こをして貰った。三っ橋先生は、その時、片手突き二本を出し、武舟先生を鍛えられた。
それ以来、武舟先生はけいこを改められ立派になった。

○吉田先生はいつも明治天皇の御製(ぎょせい)をお手本にして修養されていた。
「天をうらみ、人をとがむることあらじ、わがあやまちを思いかえさば」を始め次のような数
々のお歌を色紙に複写して長井に下さった。私は時々これらの色紙を観て、ともすれば邪心の
起きた自分を励ますのです。

「あやめ太刀 ふりかざしつつ あそぶ子の 目にもあふるる やまとだましい」
「国のため はげめ若人 富士のねの 高きのぞみを胸にいだいて」
等、私自身、いつの年代になっても心新たに、心打たれるのです。

然し又一方、今頃の季節に、かって鳥取の太田義人先生が、吉田先生の所へ二十世紀梨を贈ら
れた。その時、私が居合わせて運よくご馳走になったのですが、先生は早速筆をとって“形よ
し、味も又よし、匂いよし、三よしなるも、なぜなしというらん”と書かれ、礼状に副えられ、
その封筒を私が帰りにポストに入れたことを思い出しました。吉田先生は即座にこの歌を詠
まれたので関心したものです。

このように歌をよく嗜(たしな)まれた。太田義人先生は後になって、この礼状の歌をみて
大変よろこばれました。太田先生は折にふれて吉田先生宅を訪問され、吉田先生も太田先生
の真面目な、又、研究熱心な態度にいたく心を打たれ、何かと剣道の眞髄を話され、時たま、
私も同席し大いに勉強させて頂いたものです。

以下、吉田先生のお話続きます。
コメント
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