【ローマ教皇が支倉常長にプレゼント?】
京都の祇園祭も今日15日の宵々山、明日16日の宵山が明けると、17日にはいよいよ山鉾巡行。巨大な長刀鉾を先頭に32基の鉾と曳山、舁山が「コンチキチン」のお囃子に乗って雅に巡行する。1日から1カ月続く祇園祭の最大のハイライトだ。山鉾の装いは「動く美術館」といわれるだけあって、まさに絢爛豪華。町衆の経済力と心意気が凝縮されている。
鉾・曳山のうち最大のものは重さ12トン、高さは屋根までが8m、鉾の頂上までなら25mに達する。これを釘1本使わず荒縄だけで組み上げる。「縄絡み」と呼ばれる伝統的な技法で、飾り結びはその形によって雄蝶、雌蝶、鶴、亀、海老、八幡巻きなどと呼ばれる。この縄絡みが巡行の際に起きる揺れをギシギシと吸収してくれるのだ。
山鉾を飾るのが古今東西の歴史などを題材にした豪華な懸装品(けそうひん)。平安・鎌倉時代には山鉾もまだ小型で地味だったが、その後、大型化するに伴って、飾りも競うように豪華に。山鉾を飾る懸装品には地元の西陣製のものが目立つが、中にはベルギーのフランドル地方で約400年も前に製作されたゴブラン織りのタペストリーもある。どんな経緯で日本に渡ってきたのだろうか?
【鯉山、鶏鉾、霰天神山、白楽天山、函谷鉾を飾るゴブラン織り】
鯉山(上の写真㊧)の前後左右9枚は1枚のタペストリーを大工がノミで裁断したものといわれる。「B・B」の文字を手掛かりにベルギー王立美術歴史博物館に照会したところ、1580~1620年の間に古代ギリシャ詩人ホメロス作の叙事詩「イーリアス」を題材にベルギーで製作された「トロイアのプリアモス王と王妃ヘカベーの祈り」の場面と判明。しかも5枚の連作のうちの1枚であることが分かった。渡来の経緯は明確ではないが、伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節団の支倉常長が、1615年に謁見したローマ教皇パウロ5世から頂いた5枚のうちの1枚ではないかといわれる。鯉山が京都の商人から入手したのは1800年ごろらしい。
では、残りの4枚の行方は? そのうちトロイア王子ヘクトールと妻子の別れの場面が描かれた1枚は3つに分断され、祇園祭などの他の山鉾を飾っている。鶏鉾の見送り(上の写真㊨)、霰天神山の前掛け(下の写真㊧)、それに長浜曳山まつり鳳凰山の見送りだ。さらにもう1枚のトロイア陥落図も3分割され、祇園祭の白楽天山の前掛け、大津祭の龍門滝山と月宮殿山の見送りになっている。鯉山と同様、これらもそれぞれが京都の商人から入手したとみられる。
残り2枚のうちトロイア王とスパルタ王妃出会いの場面は、加賀前田家に渡り現在は金沢前田育徳会が所有し壁掛けになっているという。もう1枚の王子ヘクトールの遺体返還を求めるプリアモス王を描いたものは会津藩主から徳川3代将軍家光に贈られ、その後、東京・芝増上寺に渡ったが、残念ながら明治後期に焼失したそうだ。これらの一連のシリーズとは別に、函谷鉾の前掛け(上の写真㊨)も16世紀末のベルギー製。旧約聖書創世記の一場面「イサクの嫁選びの図」が描かれている。
「イーリアス」を題材に400年前に織られたタペストリーは原産地ベルギーにもほとんど残っておらず極めて貴重という。このため祇園祭を彩るこれらの懸装品も多くが国の重要文化財に指定され、色落ちや傷みから守るため復原・新調の動きも進む。鯉山保存会では宵山の16日まで町席に現物を展示して一般公開、17日は本物そっくりに復原した懸装品で巡行する。それでも祇園祭の歴史の重みと、ベルギーから日本に渡ってきた織物の数奇な運命に思いを馳せるには十分である。