【対馬は朝鮮半島のすぐそば南東側、「⊃」の形に】
「朝鮮時代の地図に描かれた日本」をテーマに、奈良大学地理学講座がこのほど奈良市北部会館市民文化ホールで開かれた。講師は文学部地理学科の山田正浩教授。朝鮮(李朝)時代(1392~1910年)には朝鮮全図や地方図、つながりが深かった中国を中心とする世界地図など様々な地図が作製された。では日本はどのように描かれていたのだろうか。地図の中には対馬が「⊃」の形に描かれたものが多く、日本が逆さまに描かれたものもあったという。
上下逆転の地図は李朝時代初期の1402年作製の「混一疆理歴代国都之図」(上の地図)。朝鮮で作製された地図のうち現存する最古のもので、版本に描かれた日本図としても最も古い。伝来の経緯は不明だが、京都の龍谷大学が所有している。写真はその東アジアの部分。半島の右下に隣接して「⊃」の形で描かれているのが対馬、そのはるか南に日本が九州を上に向けて描かれている。
日本で作製された古い地図を「行基図」と呼ぶが、その中には西を上に、東を下に描いたものがあった。この地図も当時流布していた行基図を利用したことが明らかという。では日本が中国南端に並ぶ位置に描かれているのはなぜ? 山田教授は当時の中国で作製された地図に、日本をかなり南方に単純な塊状に描いたものが多いことから、「中国の伝統的な日本の空間認識を反映したものかもしれない」と推測する。
対馬が半島のすぐそばに描かれている地図が多い理由は、政治的・経済的に近い関係にあったためではないかという。高麗時代から朝鮮時代前期にかけ、対馬を拠点とした倭寇対策は朝鮮側の長年の課題でもあった。一方、交易が進むうちに対馬人の中には朝鮮側から官位を受ける者(受職人)なども現れ、「こうした歴史的経緯から対馬が朝鮮と宗属関係にあるという朝鮮側の意識が地図に反映しているのではないか」とみる。
では対馬が「⊃」のような形に描かれることが多いのは? こうした傾向は日本の行基図にも見られず、朝鮮時代の地図の特徴。山田教授は「対馬中央部の西海岸、浅茅湾が強く意識されたことの反映だろう」という。古い時代、朝鮮から対馬、さらに日本に向かう場合、まず目指すのが浅茅湾だった。1419年、李朝世宗の時、倭寇対策として対馬を攻撃しているが、その時の目標も浅茅湾一帯だった。そうしたことから湾を強調して「⊃」の形に描かれるようになったと推測する。
朝鮮時代後期に入っても18世紀後半作製の「日本国図(天下図)」(上の地図)のように方位を逆にして描いた地図が多く作製された。これは「朝鮮に身を置いて南、東の日本を見て描くということで、朝鮮独特の空間表現法といえる」。地図の中には九州を四角形に描いたり、前代の地図に示されていた室町時代の古い情報をそのまま利用したりしたものも。記載事項に誤りも目立ち、「一種の退化現象」が見られる。
山田教授はその背景をこう分析する。「朝鮮時代前期は倭寇対策が国家の大きな課題で、そのために収集した情報から正確で詳細な日本図が作製された。だが後期になると両国の関係は安定し、かえって新しい情報に不足した地図が作製されるようになった」。