く~にゃん雑記帳

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<BOOK> 「戦闘報告書」が語る日本中世の戦場

2015年11月14日 | BOOK

【鈴木眞哉著、洋泉社発行】

 鉄砲が普及する以前は刀や槍を振り回す白兵戦が主体で、織田・徳川連合軍の鉄砲隊が武田方の騎馬軍団を滅ぼした長篠の戦い(1575年)が大きな転機となった――。これが中世の戦闘に対する一般的なイメージではないだろうか。だが、著者は武士たちが戦いでの自らの功績を申告した「軍忠状」や「合戦注文」といった戦闘報告書の詳細な分析から、そんなイメージが錯覚または幻想であり「実態とかけ離れたものである」と指摘する。

            

 著者鈴木眞哉氏(1936年生まれ)は歴史研究家として「歴史の常識」を問い直すことに主眼を置いて研究活動に取り組んできた。著書に『戦国時代の大誤解』『鉄砲隊と騎馬軍団』『NHK歴史番組を斬る!』など。本書は「軍忠状」など戦闘報告書に記された死傷の原因を解明することで中世の戦いぶりに迫った。

 調査の対象期間は鎌倉時代の最末期から江戸時代初期までの約300年間。これを①南北朝期=「軍忠状」が最初に現れた鎌倉最末期の1333年から1387年まで②戦国前期=1467年(応仁元年)から1561年までの約100年間③戦国後期=鉄砲による負傷者が初めて報告書に登場した1563年から1638年まで――の3つに分けて分析した(①と②の間の80年間は戦闘報告書がほとんどない空白期間)。

 その結果、最初の南北朝期は弓矢が支配した時代で、負傷者581人のうち86%に当たる500人が弓矢による「矢疵・射疵」だった。戦国前期になると引き続き「矢疵・射疵」が全体の61%を占めるが、槍の普及によって「槍疵・突疵」が19%と急増し「石疵・礫疵」も16%とかなり多かった。「石疵・礫疵」については城の上などから落としかけられたものか、石弾を撃ち出す粗製の小銃によるものなのかなどは不明。戦国後期は鉄砲全盛時代で「鉄砲疵」が死傷者全体の45%を占める。次いで「槍疵・突疵」21%、「矢疵」17%。

 戦国時代を通して見ると、死傷者の74%超が弓矢や鉄砲など〝遠戦兵器〟によるものだった。それらの数字から「中世の人たちが遠戦主義つまり飛び道具主体の戦いをしていたことは、まず疑いの余地がない」とし、「当時の主武器であったかのように誤解されることの多い刀剣類には、ほとんど活躍の場がなかった」と指摘する。では、戦いの主流が接近戦の白兵主義だったように信じられてきたのはなぜか。

 著者は南北朝の戦乱を描いた『太平記』が火元だったのではないかとにらむ。『太平記』では騎馬武者が馬上で刀を振り回すのが戦闘の基本という見方で書かれており、それが後の軍記物などにも大きな影響を及ぼしたという。時代劇といえば必ずチャンバラの場面が登場するが、その時代がいつなのかもっと注視する必要がありそうだ。

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