く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<祇園祭㊦> 稚児は神の使い 強力(ごうりき)に担がれ地に足着けず

2012年07月16日 | 祭り

【山鉾巡行で〝注連縄切り〟の大役】

 17日の山鉾巡行では長刀鉾が山鉾32基の先頭に立つ。古くから〝くじ取らず〟で先頭と決まっているのだ。この他のくじ取らずは函谷鉾(5番)、放下鉾、岩戸山、船鉾、橋弁慶山、北観音山(21~25番)、南観音山(29番)。その間に月鉾(9番)、菊水鉾(13番)、鶏鉾(17番)なども加わり、「コンチキチン」のお囃子に乗って約4時間の巡行絵巻を繰り広げる。2年後の2014年に鉾として150年ぶりの復帰を目指す大船鉾が「唐櫃(からびつ)巡行」の形で最後の33番目に参加するのも今年の見どころの一つだ。

 鉾の屋形には音頭取りと囃子方総勢約40人のほかに神の使いとして稚児が乗る。以前はほとんどの鉾に生稚児(いきちご)が乗っていたが、今では長刀鉾だけ。他の鉾では稚児人形が代役を務める。巡行は午前9時、長刀鉾の稚児による〝注連縄(しめなわ)切り〟でスタートする。結界を表す注連縄を切り落とすことで、各山鉾は神域に入っていくことができるというわけだ。

 

【身の回りの世話などは全て男性が担当】

 今年稚児に選ばれたのは同志社国際学院初等部4年の福井正賢君(10)。例年の慣わしに従って13日八坂神社に社参、神の使いである「五位の少将」の位を授かった。この時点から公式の場では地に足を着けず、馬や強力(ごうりき)と呼ばれる男性の肩に乗って移動してきた。巡行当日も肩に乗って鉾の上まで昇る(写真は数年前撮影)。神の子、稚児が穢れないように地に足を着けないように大切に扱われるのだ。

 同様の風習は、祇園祭以外の祭りや神事でも多く見られる。和歌山県・熊野本宮大社の「湯登神事」、兵庫県高砂市・曽根天満宮の「一ツ物神事」、愛知県東栄町の「花祭」など枚挙に暇がない。静岡県森町の「遠州森のまつり」では舞を奉納した男女児を屋台正面に乗せ親元に返す〝舞児還し(まいこがえし)〟が祭りのハイライトにもなっている。

 祇園祭の稚児にはその他にも長い伝統から生まれた様々なしきたりがある。食事の前には必ず火打ち石で清める。身の回りの世話は男親の担当。化粧や衣装の着付け、舞の指導など祭りに関わる諸事は〝稚児係〟の男性たちが一切の面倒を見る……。要するに、13日の社参の儀から17日の巡行当日までは、母親も含め女性とは距離を置いた生活が続くというわけだ。巡行後、八坂神社での「お位返しの儀」によって、稚児は初めて役目を解かれる。

【女性が囃子方として乗り込む鉾や曳山も】

 長く「女人禁制」といわれてきた祇園祭だが、変化の兆しも表れてきた。かつて女性が曳き綱を触るのはご法度といわれた時期もあったが、今では曳き初めにも男女を問わず参加できる。綱を引くと1年間の厄除けになるという。函谷鉾(写真㊨)や曳山の南観音山(写真㊧)などでは10年ほど前から囃子方として女性も巡行に加わっている。ただ、16日の宵山まで男女を問わずに鉾内部を公開するところがある一方で、長刀鉾や放下鉾のように今も鉾内部への女性の立ち入りを認めていないところもある。

 

 2週間後の29日(日曜)、女性だけでつくる「平成女鉾清音会(さやねかい)」が八坂神社境内で祇園囃子を奉納する。「平成女鉾」は高さ20m、総重量10トン。京都の経済界や市民の支援を受け、1996年、5000万円をかけて建造した。祇園祭の巨大な鉾と比べても遜色のない本格的な規模だ。この間、函谷鉾のべテラン囃子方の指導で祇園囃子の練習も積んできた。その成果を披露するため、毎年、祇園祭の終番に八坂神社に奉納してきた。

【巡行参加を目指す女性だけの〝平成山鉾〟】

 清音会の最終目標は山鉾巡行への参加。だが、平成女鉾ができてすでに16年になるが、その目標は実現できていない。反対派の論拠は、祇園祭は町単位で支え合い、男性が司る厄除け神事ということ。だから女性によるイベント的な団体の参加は認められないというわけだ。そんな中で、清音会は5年前、インターネット上に「平成女鉾町」という仮想山鉾町を立ち上げた。

 女人禁制の慣習はいつごろできたのだろうか。祇園祭では室町時代、鉾の上で「女曲舞(くせまい)」という芸能が行われ、鉾に女性が乗っている屏風絵も多く残っているという。ということは〝不浄〟や〝穢れ〟を理由に女性が遠ざけられたのはそれ以降ということになる。最初から女人禁制ではなかったわけだ。

 1000年以上の伝統を誇る祇園祭もいくつもの大きな節目があった。神輿渡御に伴う付随的なものだった山鉾巡行の独立、生稚児の人形化、祇園御霊会から祇園祭への名称変更、前祭りと後祭りの一体化……。時代に応じて姿かたちを変えてきたということだろう。平成女鉾が山鉾巡行に加われば、祇園祭もより一層魅力を増し盛り上がるのではないかと思うのだが、いかがだろうか。

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<祇園祭㊤> 豪華な懸装品 400年前のベルギー製タペストリーも!

2012年07月15日 | 祭り

【ローマ教皇が支倉常長にプレゼント?】

 京都の祇園祭も今日15日の宵々山、明日16日の宵山が明けると、17日にはいよいよ山鉾巡行。巨大な長刀鉾を先頭に32基の鉾と曳山、舁山が「コンチキチン」のお囃子に乗って雅に巡行する。1日から1カ月続く祇園祭の最大のハイライトだ。山鉾の装いは「動く美術館」といわれるだけあって、まさに絢爛豪華。町衆の経済力と心意気が凝縮されている。

 

 鉾・曳山のうち最大のものは重さ12トン、高さは屋根までが8m、鉾の頂上までなら25mに達する。これを釘1本使わず荒縄だけで組み上げる。「縄絡み」と呼ばれる伝統的な技法で、飾り結びはその形によって雄蝶、雌蝶、鶴、亀、海老、八幡巻きなどと呼ばれる。この縄絡みが巡行の際に起きる揺れをギシギシと吸収してくれるのだ。

 山鉾を飾るのが古今東西の歴史などを題材にした豪華な懸装品(けそうひん)。平安・鎌倉時代には山鉾もまだ小型で地味だったが、その後、大型化するに伴って、飾りも競うように豪華に。山鉾を飾る懸装品には地元の西陣製のものが目立つが、中にはベルギーのフランドル地方で約400年も前に製作されたゴブラン織りのタペストリーもある。どんな経緯で日本に渡ってきたのだろうか?

 

【鯉山、鶏鉾、霰天神山、白楽天山、函谷鉾を飾るゴブラン織り】

 鯉山(上の写真㊧)の前後左右9枚は1枚のタペストリーを大工がノミで裁断したものといわれる。「B・B」の文字を手掛かりにベルギー王立美術歴史博物館に照会したところ、1580~1620年の間に古代ギリシャ詩人ホメロス作の叙事詩「イーリアス」を題材にベルギーで製作された「トロイアのプリアモス王と王妃ヘカベーの祈り」の場面と判明。しかも5枚の連作のうちの1枚であることが分かった。渡来の経緯は明確ではないが、伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節団の支倉常長が、1615年に謁見したローマ教皇パウロ5世から頂いた5枚のうちの1枚ではないかといわれる。鯉山が京都の商人から入手したのは1800年ごろらしい。

 では、残りの4枚の行方は? そのうちトロイア王子ヘクトールと妻子の別れの場面が描かれた1枚は3つに分断され、祇園祭などの他の山鉾を飾っている。鶏鉾の見送り(上の写真㊨)、霰天神山の前掛け(下の写真㊧)、それに長浜曳山まつり鳳凰山の見送りだ。さらにもう1枚のトロイア陥落図も3分割され、祇園祭の白楽天山の前掛け、大津祭の龍門滝山と月宮殿山の見送りになっている。鯉山と同様、これらもそれぞれが京都の商人から入手したとみられる。

 

 残り2枚のうちトロイア王とスパルタ王妃出会いの場面は、加賀前田家に渡り現在は金沢前田育徳会が所有し壁掛けになっているという。もう1枚の王子ヘクトールの遺体返還を求めるプリアモス王を描いたものは会津藩主から徳川3代将軍家光に贈られ、その後、東京・芝増上寺に渡ったが、残念ながら明治後期に焼失したそうだ。これらの一連のシリーズとは別に、函谷鉾の前掛け(上の写真㊨)も16世紀末のベルギー製。旧約聖書創世記の一場面「イサクの嫁選びの図」が描かれている。

 「イーリアス」を題材に400年前に織られたタペストリーは原産地ベルギーにもほとんど残っておらず極めて貴重という。このため祇園祭を彩るこれらの懸装品も多くが国の重要文化財に指定され、色落ちや傷みから守るため復原・新調の動きも進む。鯉山保存会では宵山の16日まで町席に現物を展示して一般公開、17日は本物そっくりに復原した懸装品で巡行する。それでも祇園祭の歴史の重みと、ベルギーから日本に渡ってきた織物の数奇な運命に思いを馳せるには十分である。

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<ノウゼンカズラ(凌霄花)> 夏の青空に映える橙黄色の花

2012年07月14日 | 花の四季

【有毒って本当? 貝原益軒「花上の露目に入れば目くらくなる」】

 花の鮮やかな色合いから一見熱帯育ちのような雰囲気だが、原産地は中国。日本には平安初期に渡来した。つる性の落葉樹で、付着根を出して他の樹木や壁面などをよじ登っていく。漢名の凌霄の「霄」は空や天、「凌」は凌ぐ。空を凌ぐほど高く伸びて咲く花ということだろう。漢名の発音から平安時代の「本草和名」(918年ごろ編纂)には「乃宇世宇(のうせう)」と表記されており、これがノウゼンに転訛したといわれる。

 長く有毒植物かどうかが話題になってきた。「花を鼻にあててかぐべからず。脳をやぶる。花上の露目に入れば、目くらくなる」――。「養生訓」で有名な貝原益軒は植物学者としても名をはせたが、著書の一つ「花譜」(1694年)の中にこう記した。「ラバコール」という有毒成分を含み、花をすりつぶし汁が手などにつくと炎症を起こすともいわれる。一方で有毒説は根拠のない俗説という見方も。ノウゼンカズラは古くは「まかやき」とも呼ばれた。目がくらむほど美しい花を意味する「目赫(まかがや)き」が語源という。有毒説はそれを誤解したのではないかというわけだ。そこで実際に花を腕の内側に擦り付けて、しばらく様子を見た。だが、かぶれるなどの変化は見られなかった。

 長寿の木として知られる。金沢市の県指定名勝「玉泉園」では朝鮮五葉松の老樹に絡みつき、松の先端で毎年花を咲かせる。この五葉松は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、僅か7歳で日本に連れてこられ、後に加賀藩金沢町奉行にまでなった朝鮮人官僚(脇田直賢)が故郷を偲び苗木を取り寄せて植えたという。それに絡むノウゼンカズラも樹齢が300年を超えるともいわれる。島根県大田市の「龍巌のノウゼンカズラ」は推定樹齢400~500年。市の天然記念物に指定されている。

 ノウゼンカズラの英名はラッパのような花の形から「トランペットフラワー」。同じ仲間に米中南部原産のアメリカノウゼンカズラやツリガネカズラなどがある。アメリカノウゼンカズラ(別名コノウゼンカズラ)は花の筒の部分が長いのが特徴。鳥の仲間では最小のハチドリがホバリングしながら、その筒の中にクチバシを差し込んで蜜を吸う光景がよく見られるそうだ。「空に浮くときのうぜんの花濃かり」(石原八束)。

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<栗原恵、岡山シーガルズに> 大型アタッカー加入で攻撃力に厚み!

2012年07月13日 | スポーツ

【きょう13日チームに合流、14日岡山市で入団会見】

 ロンドン五輪のバレーボール女子日本代表に漏れ、行方が注目されていた栗原恵がV・プレミアリーグ唯一の市民クラブ「岡山シーガルズ」に入団することが決まった。岡山は11/12シーズン、11勝10敗(レギュラーラウンド)で「決勝ラウンド進出(4位以内)」という当初目標を達成したものの、〝大砲〟不足やサーブ力の弱さなど攻守両面で課題が浮き彫りになっていた。それだけに実績十分のベテラン栗原の加入は大きい。加えて、プレミアリーグ女子はこのところ、日本のエース木村沙織の東レ退団・トルコリーグ移籍、元日本代表セッター中田久美の久光製薬監督就任など話題が豊富。4カ月後に開幕する12/13シーズンが今から楽しみになってきた。

  

 栗原(1984年7月31日生まれ、広島県出身)は2004年アテネ、08年北京の両五輪にエースとして出場、日本の5位入賞に貢献した。10年の世界選手権銅メダルメンバーでもある。長年パイオニアで活躍したが、昨年退団しロシア・スーパーリーグ「カザニ」に移籍した。ロシアを代表する大エース、ガモワらを擁する強豪チームだ。ロシア移籍は最大の目標であるロンドン五輪を見据えたうえでの決断だった。昨年2月に手術を受けた左膝も順調に回復していた。

 だが、今年5月の五輪世界最終予選の日本代表メンバーから外れた。「代表最終選考会」と位置づけられた6月のワールドグランプリでは第4戦のドミニカ共和国戦にスタメン出場。久しぶりの実戦だったがチーム2位の11点を挙げた。「一つの区切りとしてロンドンがある」。栗原は昨年、五輪後の引退まで示唆していた。3回目の五輪出場をバレー人生の集大成と位置づけていた。それだけに五輪代表発表の前日、真鍋政義監督から〝選外〟を告げられた時のショックはいかばかりだっただろうか。同様にけがや故障で実戦を離れていた大友愛と井上香織は代表候補17人の中から12人の代表枠に滑り込んだ。栗原とまさに明暗を分けた。

【パイオニア時代、最高殊勲選手1回にサーブ賞は3回も】

 栗原は2004年から11年までパイオニアに在籍。その間、05/06シーズンには最高殊勲選手に選ばれ、サーブ賞(サーブ効果率トップ)も3回受賞している。栗原の魅力は長身を生かした強烈なスパイク。岡山の河本昭義総監督も「トスがずれた時にも打ち切れる大型のアタッカー。これまでの岡山に欠けていたタイプ」と期待を寄せる。ジャンプサーブの威力も日本選手の中でトップクラス。サービスエース、中でもノータッチエースが多いのが栗原の特徴だ。攻守両面で岡山の弱点を補強するエースとしての役割が期待される。

 岡山の2011/12のレギュラーラウンドのチーム成績を振り返ってみよう。アタック決定本数は全8チーム中、久光製薬、デンソー、東レに次いで4位とまずまず。だがアタック決定率となると下から2番目の7位。アタックの打数が全チーム中最多ということもあって決定本数は多いものの、決定率は上位3チームに大きく差をあけられている。決めるべき時に決める力が弱いというわけだ。

 サーブも課題が多い。サーブ効果率は8位と最下位。サーブ効果率は『(ノータッチ×100+エース×80+効果×25)÷打数』で計算する。サーブで相手の陣形をどれだけ崩すことができるかは攻撃の第一歩。サーブ力をいかに上げるかがオフの課題にもなっていた。そこに屈指のサーブ力を持つ栗原が加入する。チームにとってその意義は大きい。守備面ではサーブレシーブの精度を上げ、きっちりセッターに返すことも大きな課題。前季、サーブレシーブ成功率は8チーム中6位にとどまった。

【「攻撃、ブロック、サーブでチームに好影響」と河本総監督】

 プレミアリーグ8チーム中、これまで岡山だけは外国人選手がおらず、180cmを超える大型選手も少なかった。それでも11/12シーズンのブロック決定本数(1セット当たり)は8チーム中2位と健闘した。187cmでチーム最長身となる栗原の加入で、ブロックもさらに大きな武器になりそうだ。「攻撃、ブロック、サーブの各面でチームに好影響を与えてくれるはず」。河本総監督のこの言葉に、チーム活性化への〝栗原効果〟への期待の程がうかがわれる。

 ロンドン五輪代表には岡山から山口舞が選ばれた。山口には同じチームでプレーすることになった栗原の分まで五輪で活躍してほしい。岡山はブロード攻撃が得意なこの山口をはじめ、チーム一の得点源・福田舞、速攻の関李香、巧みに打ち分ける森和代、若手のホープ川畑愛希など多彩な攻撃陣を擁する。大型セッターとして注目の宮下遥はまだ17歳の発展途上。「火の鳥NIPPON」の日本代表メンバーにも選ばれている。栗原には国内外のチームから声が掛かっていたという。その栗原の入団で岡山シーガルズの選手層は確実に厚みを増す。2012/13シーズン(11月17日~来年3月24日)では目標を「優勝」と高く掲げて旋風を巻き起こしてほしいものだ。

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<BOOK> 「京都妖界案内」

2012年07月12日 | BOOK

【佐々木高弘著、小松和彦監修、大和書房刊】

 陰陽師・阿倍清明ブームもあって、京都の怪奇スポットなどを巡る魔界ツアーが人気を集めている。平安時代、天変地異や厄病は怨霊の祟りといわれた。その怨霊を鎮めるため御霊として祭った。菅原道真を祭る北野天満宮、早良親王や橘逸勢ら八所御霊を祭る上御霊神社……。京都はその他にも閻魔大王に仕えた小野篁を祭る六道珍皇寺、死者が蘇った一条戻橋、源頼光が退治した蜘蛛塚、鞍馬寺の奥の院魔王殿など、魔界スポットに事欠かない。本書はそんな魔界を探索するにはどうすればいいか、怪異にはどんなものがあるかなどを詳しく紹介している。

   

 著者は1959年、兵庫県出身。京都学園大学人間文化学部歴史民俗学専攻教授、国際日本文化研究センター共同研究員。専攻は文化地理学、歴史地理学で「民話の地理学」「怪異の風景学」などの著書もある。監修の小松氏は1947年、東京都出身。文化人類学、民俗学研究の第一人者で、この4月に国際日本文化研究センターの所長に就任したばかり。その小松氏の序章「冥界への案内」に続いて、「怪異と遭遇するために」「土蜘蛛を追いかけた天皇」「人と鬼との邂逅」「魔界に通じる道は何処に」などの8章で構成する。

 著者によると、妖怪は特定の地域に出現する。その地域とは「都市の縁辺部で、人間の居住区とその外部地域の境界。そこに魔界の出入り口があった」。そんな場所を探索する方法として「現代の地図に古地図の情報を落とし込んでおくこと」を推奨する。平安京も戦国時代になって荒廃するが、豊臣秀吉が京の都を取り囲むように〝御土居〟を築いて町を整備した。「古地図を念頭において京都を歩けば、怪異の生じた場所が町の変化を経験していることに気づく」。

 平安京の人々は鬼たちに〝大祓い〟という祭りを行って対処した。祭りが行われた場所は「南の正門」。天皇の居所・清涼殿の「鬼の間」、政治の中心・大内裏の「朱雀門」、都である平安京の「羅城門」で、それらが魔界の出入り口になっていた。ただ一条戻橋は都の北端にあった。平安時代の内裏から見ると北東、つまり鬼門に当たる。この戻橋が安倍清明と関わりが深いのは、北東方向が悪魔の侵入経路とする発想が陰陽道から来ているからという。平安時代の情報を復原した地図では、一条戻橋から南東へ一ブロック離れた場所に安倍清明宅の名がある。

 外部から来た鬼には魔界の入り口で対処したが、〝内からの怨霊〟にも恐れおののいた。非業の死を遂げた霊魂である。桓武天皇は夫人、母らの相次ぐ死や厄病の流行を、早良親王の祟りとみて長岡京から平安京へ遷都、さらに親王を祟道天皇と追称して上御霊神社に祭った。しかも、ただ祭っただけではなかった。都市の境界部の鬼門封じの場所に配置した。「秀吉が移動させた下御霊神社も、きっちりと防衛の役割を果たす寺町に設定されている」。北野天満宮も都の外縁だった証拠に御土居が今も残る。怨霊を御霊として祭った神社も計画的な都市づくりに基づいて配置されていた! 怨霊や妖怪伝説などを古地図と照合すると、そんなことも分かってくるというわけだ。

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<桔梗(キキョウ)> 凛とした品格 万葉集の「朝顔」=桔梗が通説に

2012年07月11日 | 花の四季

【明智光秀や太田道灌、坂本龍馬の紋所にも】

 「萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝貌(あさがお)の花」。山上憶良が詠んだ秋の七草だが、問題は最後の「朝貌」。万葉集にはこの他にも「朝顔」が数首詠まれている。だが、今の朝顔が中国から渡来したのは時代が下って平安時代になってから。ではこの「あさがお」とは何? 桔梗、槿(むくげ)、昼顔……。いや朝咲く美しい花の総称では……。諸説あるが、最古の漢和辞典「新撰字鏡」(901年ごろ)で桔梗の説明に「阿佐加保(アサカホ)」とあることもあって、今では桔梗説がほぼ通説になっている。

 キキョウ科キキョウ属の一属一種。日本のほか中国、朝鮮半島に自生する。花の色は紫のほか白やピンクなどもあり、二重咲きやつぼみのままの袋咲き、小型の矮性種などの園芸品種も出回っている。だが、野生種は急速に減少し、今では自生地も長野・菅平高原などごくわずか。このため、環境省レッドリストに絶滅危惧Ⅱ類(絶滅の危険が増大している)として掲載されている。桔梗は韓国で「トラジ」と呼ばれ、ゴボウ状の根はキムチやナムルなどの食材として欠かせない。民謡「トラジ」は「アリラン」と並ぶ朝鮮2大民謡。英名では風船のように膨らむ蕾の形から「バルーンフラワー」と呼ばれる。切り花としてよく花屋の店頭で見かけるトルコギキョウはリンドウ科。

 漢名の桔梗の読み「キチコウ」が転訛して「キキョウ」になったらしい。今でも俳句では「きちこう」と詠まれることも。桔梗には「アリノヒフキ(蟻の火吹き)」という変わった別名もある。一説にアリがかんだ花びらの跡が〝蟻酸〟によって赤く変色するため、こんな呼び名がついたといわれる。丘に生える「トトキ(ツリガネニンジン)」ということで、古くは「オカトトキ」とも呼ばれた。桔梗は切り戻すと二番花も楽しめ、花期が初夏から秋口まで長い。野生種は一般的に開花が遅めで、菅平での身頃は8月中旬から9月にかけて。

 桔梗は戦国時代、紋所や旗印として人気を集めた。桔梗の字が「更に吉(さらによし)」の組み合わせになっていることから縁起がいいという理由もあったようだ。有名なのが「本能寺の変」の明智光秀の「水色桔梗」。他に江戸城を築いた太田道灌は「太田桔梗」、先祖が明智一族につながる坂本龍馬は「組み合い角に桔梗」が家紋になっている。皇居の内桜田門は屋根瓦に太田道灌の桔梗の紋が付いていたため「桔梗門」とも呼ばれる。桔梗は紋章以外にも、古くから衣裳や蒔絵、装身具などの文様として好まれ、襖絵などにもよく描かれた。

 境内に明智光秀の首塚がある京都府亀岡市の谷性寺(こくしょうじ)は「桔梗寺」として知られる。お寺の門前にも5万株の桔梗が植えられ、今年7月1日「亀岡ききょうの里」(~29日)としてオープンした。関西ではこの他、京都の廬山寺や大徳寺芳春院、浄瑠璃寺、東福寺天得院なども「桔梗の寺」として有名。桔梗を「市の花」に指定しているところも多い。福知山、塩尻、土岐、多治見、一宮、掛川、名張、沼田、伊勢原、大野城……。桔梗の人気ぶりがこんなところにも表れている。「きりきりしゃんとしてさく桔梗かな」。小林一茶は桔梗の凛とした美しさをこう褒め称えた。

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<久保修 切り絵の世界展> 四季の美や生命の躍動を繊細に表現

2012年07月10日 | ひと模様

【テーマは〝紙のジャポニズム〟】

 ジェイアール京都伊勢丹の美術館「えき」で、「久保修 切り絵の世界展―紙のジャポニズム」(~16日まで)が開かれている。四季折々の日本の風景や季節感あふれた食材などの作品が約150点。和紙を切り抜き、布や砂などの素材も使って奥行きや立体感を表現する。その「ミクスト・メディア(複合技法)」など独自の技によって刻まれた作品は、ほのぼのとした温かさにあふれていた。

   

 久保修氏は1951年山口県生まれ。大学建築科在学中の1971年に切り絵を始めた。以来、切り絵一筋に40年余。この間、新聞で旅紀行を連載したり、雑誌の表紙絵を飾ったり。文化庁の文化交流使などとして欧米など海外にも積極的に紹介、今年4月には日米桜寄贈百周年記念事業として、NYのエンパイアステートビルに作品が展示された。国内の郵便切手や年賀はがきなどにも採用されている。

 久保氏は「紙のジャポニズム」をテーマに全国47都道府県再発見の旅を続け、四季の風物や旬の食材などを切り絵として描いてきた。「作品を通して日本の美しさや貴重さを再認識してもらったらうれしい」。会場は「日本を感じる旅」「食材を楽しむ」「京都散策」「異国の旅」の4つのテーマごとに展示されていた。日本家屋の前に大きな朝顔を配した「盛夏」(写真㊤)と、赤と黒2色の「まんじゅしゃげ」はいずれも大胆な構図が印象的。引き込まれそうな「鳴門の渦潮」や壁面が立体的な「うろこの家」にも目が止まった。

 

 食材では「出石の皿そば」(写真㊧)や「明石鯛」(写真㊨)「おせち」「紀州のクエ」「マスクメロン」などの作品が並び、来場者からは「おいしそうね!」といった声も。「寄せ鍋」は本当に湯気が出てホッカホカのようだった。「京都散策」コーナーでは大きな作品「枝垂桜」の迫力が圧倒的。金色をバックに黒くて太い幹と、白とピンクの花びらが描かれ、まるで日本画を見るようだった。このほかに「旅籠寺田屋」「貴船の川床」「糺の森」「伏見人形」など。

 「異国の旅」コーナーの「天山山脈とポプラ並木」は高さが2m余りある大作。手前の並木道からずっと奥にそびえる山並みまで奥行きが遠近法で見事に表現されていた。スペインの「古都トレドの街並み」も大きな作品で、街並みの描写が実に繊細。和紙を切り抜くのにどのくらい時間がかかったのだろうか? ついそう思わずにはいられなかった。見終わって、切り絵はまさに日本が誇る伝統文化の一つであるということを改めて確信した。

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<吉備路> 鬼ノ城(総社市)は桃太郎伝説の鬼・温羅(うら)の居城?

2012年07月09日 | 旅・想い出写真館

 

鬼ノ城は鬼城山(標高約400m)の山頂部にあった古代の山城(国指定史跡)。城を取り巻く城塁の延長は2.8kmにも及ぶ。古代、大和や出雲に肩を並べる吉備王国があったという吉備平野が眼下に広がる。造山古墳は国内4番目の規模。

 

温羅を討った吉備津彦を祭る吉備津神社は上田秋成の「雨月物語」に出てくる「鳴釜神事」でも有名。外陣を入って左隅(北東側の鬼門)にある「艮御崎宮」には仇敵の温羅を祭っている。

  

吉備津神社の参道脇にある「矢置き岩」。温羅と戦った吉備津彦がここに矢を置いたと伝わる。鬼ノ城の近くには「鬼の差し上げ岩」。岩の裏側に手形のような窪みがある。

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<キリマンジャロ登頂の立木早絵さん> ピアノ弾き語りでも感動の輪!

2012年07月08日 | ひと模様

【全盲の19歳、本格デビューに向け和歌山から上京】

 今輝きを増している日本人女性の1人だろう。立木早絵(たてき・さえ)さん、19歳。全盲というハンディを抱えながらトライアスロンやアフリカ最高峰のキリマンジャロ登頂などに挑戦、その明るく前向きな生き方が共感を集めている。その立木さんが昨秋以降、全国各地でピアノの弾き語りを披露し、音楽でも世代を超えて支持の輪を広げている。7日、奈良市の学園前ホールで開かれた「トークショー・ピアノの弾き語り」でも、その透明感あふれた歌声に感動のため息が漏れた。

   

 立木さんは1992年12月9日、和歌山県那智勝浦町生まれ。2歳の時、重い肺炎にかかり目の網膜にウイルスが入って失明。だが、小さいころから負けず嫌いでどんなことにも果敢に挑戦してきた。「他の人と比べてではなく、できない自分が許せないんです。だから何でもとことんやってしまう」。県立和歌山盲学校中等部に入ると野球部に入部し視覚障害者の野球「グランドソフトボール」の選手になり、水泳部、バレーボール部にも所属。3年の14歳の時には全国障害者スポーツ大会の水泳視覚障害者(全盲、39歳以下)の部で、25mバタフライで金メダル、50m自由形でも銀メダルに輝いた。

 それがきっかけになったのだろう。翌年の2008年「24時間テレビ」で津軽海峡縦断リレー参加の話が持ち込まれた。立木さんは「1人で生きていく自信をつけるチャンス」と挑戦を決意。さらに一昨年にはトライアスロン、昨年はキリマンジャロ(標高5895m)登頂にも挑んだ。タレント・イモトアヤコさんとの2人3脚での登頂の模様は、テレビで放映されたから見られた方も多いに違いない。立木さんは「目が見えないというのは、走るのが遅かったり、歌が苦手だったりするのと同じようなもの」と話す。

 その立木さんの夢は「オリジナル曲を作って、歌で思いを伝えられるアーティストになること」。ピアノは小さい頃から保育士の母に教えてもらい、小学5年生の頃からはピアノの先生にレッスンを受けた。先生に録音してもらい、それを暗譜するという方法を取ったそうだ。2009年ごろから作曲の勉強も始め、少しずつオリジナル曲もできてきた。テレビ番組「行列のできる法律相談所」でのピアノの弾き語りも注目を集めた。この日披露したのは「自分を愛して」「夢に向かって」「感謝」のオリジナル3曲に加え「上を向いて歩こう」と絢香の「みんな空の下」の計5曲。絢香の大ファンで「いつも元気をもらっている」という。

 オリジナル曲はそれぞれ「自分を愛して初めて回りの人も大切にできるはず」「夢に向かって一歩ずつ進んでいきたい」「いつも感謝の気持ちを忘れずに」という自らの思いを歌に込めたという。自分への〝応援歌〟風の内容だが、伸びやかな高音の響きとビブラートをかけない歌唱が印象的で、瑞々しい歌詞と歌声が心に染み込んでくるようだった。弾き語りとともに、ソフトな語り口も実に爽やか。「よりたくさんの人に歌を聴いてほしい」と、6月には和歌山から東京に転居した。シンガーソングライターとしての活動が本格化するのはまさにこれから。それに伴ってファンも着実に増えていくことだろう。この10日には角川書店から著書も発売される。タイトルは「夢を見る力 自分を愛して、自分を信じて」。

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<特別展「仏教の来た道」> 仏像など200点余の史料で仏教伝来の〝源流〟を紹介

2012年07月07日 | 美術

【龍谷ミュージアムで開館1周年の記念展】

 今から約2500年前の紀元前5世紀にインドで生れた仏教はガンダーラや中国などを経て、約1000年後の紀元6世紀半ば、日本に伝わった。その仏教伝来ルートの解明を目的に、日本で最初に学術調査したのが浄土真宗本願寺派・西本願寺の「大谷探検隊」(1902~14年)。龍谷大学にはその当時に収集した膨大な史料約9000点が伝わる。特別展「仏教の来た道―シルクロード探検の旅」(~16日まで)ではそれらの文物などを時系列に沿って展示、仏教伝来の流れを分かりやすく紹介している。

 仏教総合博物館「龍谷ミュージアム」は京都・堀川通を挟んで西本願寺の向かいにある。龍谷大学創立370周年の記念事業の一環として、西本願寺の全面的な支援で昨年春開設された。特別展会場は同館の2~3階。「仏教の源流」から始まって「西域の仏教文化と多様な宗教」「中国への伝播」「西域の文字と言語」「大谷探検隊と仏教伝播の道」の5つに分けて211点を展示している。

 

 仏像が造られ始めるのは紀元1世紀ごろから。仏の姿はそれ以前、法輪や仏足跡などで象徴的に表現されていた。展示の1番目は仏像造立から間もない2~3世紀のガンダーラ出土の仏立像(写真㊧)。高さ約1.2mで、少し西洋的なお顔が印象的。これらの仏像3点に続いて、釈迦の生涯をレリーフで表現した1~3世紀の「仏伝浮彫」がずらりと並ぶ。その中には東京国立博物館や大阪・四天王寺など外部所蔵のものも含まれていた。これだけ古いものをよく集めたものだ。

 4~5世紀のハッダ出土の仏坐像(写真㊨)はその整ったお顔立ちなどから注目度が高く、記念絵葉書でも売り上げナンバーワンという。中国では北魏時代の5~6世紀ごろ、仏像造りが本格化する。その代表が雲崗石窟の大仏群。中国式の衣をまとい、ややほっそりしたお姿となる。これが飛鳥仏の源流になっているという。7~8世紀ごろの壁画や菩薩像には極彩色を施されたものが目立ってくる。異国の宗教である仏教が各地域に適応した形で次第に浸透していく過程がよく分かった。

 中国・北周時代(6世紀後半)の大理石彩色「ソグド人墓」(MIHO MUSEUM蔵)は死者を安置した寝椅子。13枚の石版に隊商や葬列などのレリーフがくっきり刻まれていた。彼らが信仰したゾロアスター教的な表現も見られるという。メソポタミア出身のマニ(216~276年)が開いたマニ教の経典なども印象に残った。マニは釈迦やイエスなど以前の宗教家が自ら教えを書き残さなかったために教義が歪められたと考え、マニ文字を発明して経典を書き記した。

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<く~にゃん物語⑮>出産ラッシュで、ちびっこウサギが元気にピョン!

2012年07月06日 | ウサギ「く~にゃん物語」

【ウサギの楽園「大久野島通信」の第2弾だよ】

 広島県竹原市沖に浮かぶウサギの楽園・大久野島。3月にその島のことを初めてご紹介したけど、今回はその第2弾だよ。お友達ご夫妻が6月30日~7月1日再訪して、写真を撮ってきてくれたの。4月中旬以来2カ月半ぶりの訪問だったけど、これまでになく子ウサギがたくさん生まれてて元気な姿を見せてくれたとか。それらのちびっこウサちゃんとの触れ合いで、今回も大いに癒やされてきたとのことでした。

  

 だけど悲しいことも。小さな子ウサギが死んでいて、休暇村の職員さんが片付けているのを目撃したんだって。死因は分からないけど、その方は「子ウサギはたまに倒れているよ」と話していたとか。島には天敵がほとんどいないから、最初に放たれた数匹が今では300匹にも。だけど生後間もない子ウサギにとって1人で生きていくのはなかなか大変ということね。地上に天敵はいなくても、空からはカラスやトンビが狙っている。子ウサギにとって大きな脅威になっているそうよ。

 それに怖いのが車による交通事故。島内を走る工事車両やバスにはねられて死んじゃうウサギも結構いるんだって。今年の春にも、島を度々訪れる常連さんたちが「パンちゃん」と呼んでいたウサギがいなくなったの。昨年の夏ごろ、この島に捨てられたらしく、白黒のパンダ模様からこんな名前でみんなに可愛がられていたんだ。その「パンちゃん」、どうも車にひかれて死んだらしいといわれているそうよ。

  

 島のウサギはあちこちに自分たちで穴を掘って生活しているアナウサギ。「ネザーランドドワーフ」の血を引く私と、祖先は一緒ということ。人に馴れてて、キャベツやニンジンなどの餌を持っていくと、上の写真のようにわぁーと集まってくるの。だけど、事故を防ぐためにも車の通る道路では絶対に餌をやったり、餌を撒いたりしないでね。それに飼いウサギが急に自然の中に放り出されると、他のウサギにいじめられたりして1人で生きていくのは難しいの。だから世話が焼けなくなったからといって、島に連れていって捨てたりしないでね。

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<カンゾウ(萱草)> 万葉の頃から「忘れ草」として詠まれた一日花

2012年07月05日 | 花の四季

【佐渡・大野亀に大群落。ニッコウキスゲも同じ仲間】

 ユリ科ワスレグサ属の総称。中国産のホンカンゾウをはじめ、日本各地の山野に自生する一重咲きのノカンゾウ、八重咲きのヤブカンゾウ、赤みの強い黄花のベニカンゾウ、小型で庭植えに向いたヒメカンゾウ、海岸に自生するハマカンゾウなどがある。ゼンテイカ(禅庭花、通称ニッコウキスゲ)や夜咲きのユウスゲなども同じ仲間。同じ発音のカンゾウ(甘草)と混同されやすいが、これはマメ科の薬用植物。

 カンゾウはユリに似た黄色の6弁花。その多くは朝咲いて夕方にしぼむ。このため欧米では「daylily(デイリリー)」と呼ばれる。「ヘメロカリス」ともいわれるが、これもギリシャ語の「hemera(一日)」と「callos(美)」に由来する。和名のカンゾウは漢名の「萱草」の音読み。中国の古書「文選」には「憂いを忘れさせる草」と記されており、「忘憂草」ともいわれる。それが日本に伝わって万葉の時代から「ワスレグサ」として歌に詠まれた。「萱草(わすれぐさ)我が紐に付く香具山の古(ふ)りにし里を忘れむがため」。大伴旅人は任地大宰府で故郷を偲んでこう詠んだ。

 平安時代の「和名抄」には万葉仮名の「和須禮久佐」として登場する。萱草、忘れ草は夏の季語。俳句にも多く詠まれている。正岡子規の歌に「萱草やこゝに芽をふく忘草」「湯治場や黄なる萱草得て帰る」。その子規と大学の同窓生で親友だったのが夏目漱石。漱石は自作の俳句の批評を求めるため子規に句集などを送っていたが、その中に「生れ代わるも物憂からましわすれ草」という句も含まれていた。

 カンゾウの国内最大の群落として知られるのが新潟・佐渡の景勝地、大野亀。「トビシマカンゾウ」と呼ばれる黄花で一面覆われ、毎年6月にはカンゾウまつりが開かれる。7月に入ると今度はヤブカンゾウが佐渡の野山で咲き誇る。カンゾウは佐渡市の市の花だ。トビシマカンゾウが最初に見つかって、その名の由来になっているのが秋田県酒田市沖の離島「飛島」。酒田市もトビシマカンゾウを市の花に制定している。カンゾウの仲間ニッコウキスゲは群馬県・尾瀬や長野・霧ケ峰高原などの大群落が有名で、夏の野山を鮮やかな黄色で彩ってくれる。

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<香川県さぬき市> 静御前ゆかりの長尾寺、平賀源内も遊んだ志度寺

2012年07月04日 | 旅・想い出写真館

   

正月の「力餅」で有名な87番霊場の長尾寺。源頼朝と別れた静御前はここで母と得度・剃髪した。長尾寺を出ると四国遍路も締めくくりの結願寺、88番大窪寺へ

      

五重塔が美しい86番札所の志度寺。志度湾の向こうに霊峰五剣山を望む

 

志度は江戸時代の奇才、平賀源内生誕の地。その生家(旧邸)と銅像                   

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<アガパンサス(紫君子蘭)> アフリカ南部原産の優美な「愛の花」

2012年07月03日 | 花の四季

【静岡・南伊豆の石積み段々畑を彩る】

 梅雨の盛りに、数十個の紫色の小花を放射状に広げるアガパンサス。原産地はアフリカ南部で、日本には明治時代中頃に入ってきた。直立した花茎や葉の形が南アフリカ原産のクンシランに似ているため「ムラサキクンシラン」の別名を持つ。ただしクンシランがヒガンバナ科なのに対し、このアガパンサスはユリ科と別系統に属す。

 名前はギリシャ語の「agape(アガペ=愛)」と「anthos(アンサス=花)」に由来。主にヨーロッパやニュージーランドなどで多くの栽培品種が生まれており、花の色は青や紫のほか白いものもある。花の形もラッパ状や切れ込みが深い星形、花筒が短い盃状など多彩。八重咲きもある。多年草だが常緑種のほか、冬になると葉が枯れる落葉種もある。

 日本国内で多く見られるのは常緑性の「アフリカヌス」という種類で、「アフリカンリリー」とも呼ばれる。丈夫であまり手が掛からないため、公園の花壇や植え込みなどでよく見かけるようになってきた。アガパンサスにはこのほか同じ常緑性で花の色や形がバラエティーに富む「プラエコクス」、落葉性の「イナペルツス」がある。最近は茎の色が黒いものや、オリヅルランのように葉の縁に白い斑(ふ)が入ったものなども出回り始めた。

 国内では静岡県南伊豆町がアガパンサスの切り花の出荷量で全国一を誇る。この時期、伊豆半島の最南端・石廊崎に近い入間地区の石積み段々畑(3.5ヘクタール、約500枚)はアガパンサスの花で一面覆われる。毎年6月中旬から主に東京市場向けに出荷されるという。入間の段々畑はその美しい景観から「静岡県棚田等十選」に選ばれている。根が太くしっかりしているため、地滑り防止の点でも役立っているそうだ。海外では米国カリフォルニア州のアーバイン市がアガパンサスを市花に認定している。

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<大和文華館> 〝花の美術館〟出迎えてくれたアジサイとカタツムリ

2012年07月02日 | 美術

【特別企画展「朝鮮の美術―祈りと自然」】

 春は梅や椿に桜、木蓮。夏は笹百合に桔梗、木槿(むくげ)。秋は紫式部や紅葉。そして冬には山茶花や蝋梅――。奈良市学園南の「大和文華館」は春夏秋冬、色とりどりの花が出迎えてくれる。6月30日から特別企画展「朝鮮の美術―祈りと自然」(~8月12日)が始まったが、1日は「あじさいの無料招待デー」ということもあって多くの入場者でにぎわった。

   

 大和文華館は近畿日本鉄道が創立50周年を記念し、1960年(昭和35年)に菅原池(通称蛙股池)を望む高台に開館した。この池は日本書紀にも登場し、日本最初のダムともいわれる。所蔵品は日本、中国、朝鮮の美術品を中心に2000点以上。その中には「一字蓮台法華経」や「婦女遊楽図屏風」(通称「松浦屏風」)など国宝4点や重要文化財31点が含まれる。春の名品展では国宝4点が一挙に公開され話題を呼んだばかり。

 今回の特別展には高麗時代や李氏朝鮮時代の陶磁器や水墨画、仏教工芸品など71点が出展された。ほとんどが同館所蔵のものだが、奈良国立博物館から銀製舎利容器、大阪市立東洋陶磁美術館から水鳥が描かれた高麗青磁の陶板なども出品されている。会場を入ってまず目を引いたのが重文の「青磁九龍浄瓶(じょうへい)」(12世紀、写真左)。浄瓶は仏具の一つといわれる水入れ。蓋などに口を開いた9匹の龍が繊細に刻まれ、胴部の龍身も躍動的に描かれて、当時の製陶技術の高さを示していた。

    

 「鉄砂青花葡萄文大壷」(17世紀、写真右)は高さ37cm、胴径30.2cm。壷の上部をブドウの葉がぐるっと巡っているが、まるで水墨画を見るようだった。「青花(せいか)」は青い花ではなく、青の顔料(西方のペルシャから入ってきたコバルト?)らしい。かなりの貴重品だったようで、よく見ると葡萄の葉脈が青色の細い筋で描かれていた。

 掛け軸の絹本著色「群鹿図」(16世紀)には20匹余の鹿が描かれているが、その鹿のほとんどが白か黒い色。北宋時代編纂の「太平御覧」(977年)によると、鹿は長寿で500年生きると白鹿に、1000年生きると玄鹿(黒鹿)になり、玄鹿の肉を食すれば2000年の命を保つことができるといわれたそうだ。そこからこの図には長寿延命の願いが込められているという。このほかでは珍しい高麗白磁の「白磁梅瓶(めいびん)」や縦笛の「鉄製銀象嵌笛」、貝の光の反射が美しい「螺鈿唐草文箱」なども印象に残った。

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