私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

八佐受岐<ヤツノサズキ>」

2017-06-30 09:15:30 | 日記

 スサノヲは、オロチを誘導するための垣を廻らします。その途中、これもよくわ分かりませんが、もうすぐ「櫛名田比売」のいる場所に至ろうかと云うり近いところだと思うのですが、そこにスサノヲは

                            “佐受岐”

 を、八つ置かしめます。そして、その中に

                            ”酒船<サカブネ>”

 を置いて、そこに翁「足名椎」が造った酒を入れたのです。ここに見られる「佐受岐」とは、現在、大相撲や歌舞伎場で見られるような特別に仕切られた見学席を「さじき」と呼んでいますが、その語源は、この「佐受岐」より出来たのです。

 此処に来て、「でも、ちょっと待って下さいよ。」と、私は云いたいのです。酒は翁が造ったと古事記では説明がなされていますが、私はそれに対して異論を考えております。
 オロチは吉備の国の大王の名前で、以前から、大国「吉備」が小国「出雲」を侵略しておって、将に、その最後の侵略で、「出雲」に滅亡の危機が押し迫った時です。いよいよ明日を期して出雲は完全に滅びます。そのことを確信していた吉備の大王「オロチ」は、その前夜、何時ものように、盛大なる戦勝祈願のための祝宴「酒盛り」をします。その為にわざわざ吉備からお酒も持ってきていたのです。その時、オロチが飲んだ酒は足名椎が造った「八塩折之酒」では無かったのです。第一、酒はそんなに早く出来上がるものではありませんもの。昨日、スサノヲが出雲に居り立ってから吉備の襲撃までは半年ぐらくい間があったのではと書いたのですが、それもおかしな話で、実際、スサノヲが出雲に降り立ったのはその襲撃の二,三日前の話では無かったのではないかとも思うのですが???

 まあ、とにかくとして、オロチを始め吉備の軍勢は、前夜の宴会で、酒に酔いしびれてしまったのです。こんな歌が万葉集にも

               “古の 人の食<メ>させる 吉備の酒
                            病めば術無し 貫簀<ヌキス>賜<タバ>らむ”

 と云う歌が載っております。「吉備は太古から名酒の誉れ高く、直ぐ酔っぱらてそこら辺りに、所かまわず、嘔吐してしまう。どうぞ、そんな人を見たらその人の服が汚れないように、ヨダレ懸けを貸してやってくださいね」と云うぐらいな歌の意味です。当時からそれくらい酒が沢山造られ、吉備人が飲んでいたと言う証拠です。出雲には、当時には、未だそんなに多くの酒は造られてはなかったはずです。この歌にあるような酒のその原料は、当然「黍」だったのですから???お米は、このスサノヲが出雲に降り立つ少し前にやっとその種が生まれたばかりですから

 此の論、出雲の人はどう読まれますか??反論ください。