神倭伊波禮毘古<カンヤマトイワレヒコノミコト>達の一行は竺紫の岡田宮から安芸国の多祁理宮に着きますが、古事記では、そこに
“七年坐<ナナトセマシマス>”
七年間御滞在になられます。
それがです。「驚くことなかれで」、日本書紀によりますと「太歳甲寅<ノシ キノエトラ>」(紀元前七年)
“十有二月、丙辰朔壬午、至安芸国・・・・・乙卯年春三月甲寅朔己末、徒入吉備国・・・”
と書かれてあります。これが何を表しているのか私にはよく分かりませんが。その解説書を読むとこれは、「紀元前七年の12月27日に安芸の国に至り、翌年の3月6日には吉備の国に"徒入<ウツリテ>・・と読むのだそうです。すると、日本書紀では、安芸の国にいたのは、たった70日間しかいなかったことになります。どうしてこうも滞在期間が
「7年」と「70日」
と違うのでしょうか。でも、歴史は何も語ってはくれません。宣長先生も
“此記と大<イタク>異なり”
とだけ記しているだけです。念のために????
“七年坐<ナナトセマシマス>”
七年間御滞在になられます。
それがです。「驚くことなかれで」、日本書紀によりますと「太歳甲寅<ノシ キノエトラ>」(紀元前七年)
“十有二月、丙辰朔壬午、至安芸国・・・・・乙卯年春三月甲寅朔己末、徒入吉備国・・・”
と書かれてあります。これが何を表しているのか私にはよく分かりませんが。その解説書を読むとこれは、「紀元前七年の12月27日に安芸の国に至り、翌年の3月6日には吉備の国に"徒入<ウツリテ>・・と読むのだそうです。すると、日本書紀では、安芸の国にいたのは、たった70日間しかいなかったことになります。どうしてこうも滞在期間が
「7年」と「70日」
と違うのでしょうか。でも、歴史は何も語ってはくれません。宣長先生も
“此記と大<イタク>異なり”
とだけ記しているだけです。念のために????