「速吸門」を“ハヤスヒナド”(宣長は“波夜須比那度)と読むのだそうです。
此処が何処か、いろいろと云われています。中には驚くなかれ“九州の「豊後水道」”だなどと説明している学者もいるようですが、此の時、ジンムは吉備を出発して、更に、東に向かったという事は確かです。すると。亀の甲に乗った人に遭ったのは播磨の国の何処かだということが分かります。
要するにジンムの一行は東に向かって航行していたのです。なにしろ、東に向かって行こうとしたのは
“坐何地者平聞看天下之政猶思東行”
<イズレノトコロニマサバカ アメノシタノマツリゴトヲバ
タヒラケク キコシメサム>
とジンムの兄と高千穂宮で協議された結果の東征です。吉備の国から、再び、西にある
豊後水道辺りまで舞い戻るということはなかったのだと思うのですが ???
なお、この“速吸門”ですが、日本書紀には、ジンム達の一行が高千穂から東征しますが、まず着いたのが
“速吸の門に至りましし時”
と書いてあります。この紀記の違いをどうにかして統合した解釈をと思って、「豊後水道」をわざわざ取り上げたのでしょうが、その人の苦悩がよく分かるのですが、その解釈にはどうしても受け入れられませんよね。
更に、書きくわえれば、その日本書紀では
“皇師遂東、舳艫相接、方到難波之碕”
<ミイクサ ツイニ ヒンガシシテ トモヘ アイツギキ マサニ ナニワノ
ミサキニ イタリシニ>
「神武たちの一行は舟を連ねて難波の碕に到った」と書かれあり、「古事記」にあるような「速吸門」と云う字は見えません。これも沢山ある記紀の記述の違いの一つなのですが・・・・・
此処が何処か、いろいろと云われています。中には驚くなかれ“九州の「豊後水道」”だなどと説明している学者もいるようですが、此の時、ジンムは吉備を出発して、更に、東に向かったという事は確かです。すると。亀の甲に乗った人に遭ったのは播磨の国の何処かだということが分かります。
要するにジンムの一行は東に向かって航行していたのです。なにしろ、東に向かって行こうとしたのは
“坐何地者平聞看天下之政猶思東行”
<イズレノトコロニマサバカ アメノシタノマツリゴトヲバ
タヒラケク キコシメサム>
とジンムの兄と高千穂宮で協議された結果の東征です。吉備の国から、再び、西にある
豊後水道辺りまで舞い戻るということはなかったのだと思うのですが ???
なお、この“速吸門”ですが、日本書紀には、ジンム達の一行が高千穂から東征しますが、まず着いたのが
“速吸の門に至りましし時”
と書いてあります。この紀記の違いをどうにかして統合した解釈をと思って、「豊後水道」をわざわざ取り上げたのでしょうが、その人の苦悩がよく分かるのですが、その解釈にはどうしても受け入れられませんよね。
更に、書きくわえれば、その日本書紀では
“皇師遂東、舳艫相接、方到難波之碕”
<ミイクサ ツイニ ヒンガシシテ トモヘ アイツギキ マサニ ナニワノ
ミサキニ イタリシニ>
「神武たちの一行は舟を連ねて難波の碕に到った」と書かれあり、「古事記」にあるような「速吸門」と云う字は見えません。これも沢山ある記紀の記述の違いの一つなのですが・・・・・