私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

「此ノ地さだかならず」の吉備の高島宮

2019-05-05 14:02:04 | 日記
もう何回か此の吉備の「高島宮」に付いて書いたのですが、再度、宣長先生さへ

     “此ノ地さだかならず”

 とされた所の所在について考えてみたいと思います。
 
 この「高」は「貴」ではと、私は思うのです。児島湾に浮かぶ小さな島であるとか、いや笠岡にある神島<コウノシマ>だとか、更には、備後の三上郡(現在の庄原市)にある多可ノ郷だとかいろいろ囁かれていますが、そのいずれも間違いです。当時の吉備国の中心地は足守川下流付近(日本で第四位の前方後円墳の造山古墳や弥生時代の最大の墳丘墓楯築遺跡もある現在の岡山市高松付近)にあったのです。その中心にある聖地として

     “吉備の中山”

 がありますが、このお山は吉備の「神備山」で、大変貴い「聖なるお山」として崇敬されたお山でした。当時の吉備の<タカシマ>だったのです。
 安芸の国を出発されて、吉備の何処に船を止めようかとお考えになられた神武天皇こと神倭伊波禮毘古達一行は当然として吉備の港「吉備津」に決められて、此の地にお着きになられます。
 なお、この時一行を案内した椎根津彦<シヒネツヒコ>は瀬戸内海の航路を熟知していて、吉備の国に立ち寄るのなら、当時の瀬戸内海の良港としての吉備の穴海にある吉備津が最良だという事を知っていたはずです。ここにしか「高島宮」を置いて外は何処にもありません。
 更に、日本書紀によると、此の吉備で、船を増やし、食料や兵力なども増強して天下を統一しようとお考えになられます。それだけの地力といいましょうか強大な勢力がその地に無くてはできません。もし児島湾にあるちっぽけな島に滞在されたのなら、決して舟や兵力を増強させることはできません。
 そのようなことを考えると、記紀に書かれてある「高島宮」は、現在の吉備津神社のある辺りにあったのではないかと考えられますが??????

 

こどもの日です、吉備津の緑を・・・

2019-05-05 11:09:51 | 日記
          

          

          


   何時が何処かで見た景色です。
    
    
    緑が一杯に映えます。   

     今日より明日が
           と呼びかけます。

    
     生きる喜びを
           奮い立たせます。

    緑が一杯に映えます。

   
   何処かで何時か見た風景です。