ジンム達の一行の上陸をよしとしないその地の主「那賀須泥毘古<ナガスネヒコ>」は戦いを挑みます。「楯」を取って戦ったとありますから、両軍の主戦法は弓矢による戦いだったのです。
なお、話が、又もや飛びますが、その時から約900年後、「我が町吉備津」に温羅退治のために大和から派遣された吉備津彦命の戦いにも弓矢が使われます。その遺跡と言い伝えられている
“矢置き石・楯筑遺跡・矢喰宮”
が、現在、「日本遺産」として登録されて、多くの観光客でにぎわっておりますが、鉄剣が発使われる五世紀の末までは、日本での戦の主流は弓矢であるということを証明しております。
その戦いで「那賀須泥毘古」が射た石の鏃が付いた矢が戦いに参加していた、多分、記録にはありませんが、その戦いの先頭に立って指揮していたのでしょう一行の連隊長だったとおもわれるジンムの兄「五瀬命」が負傷します。それを
“五瀬命於御手負登美毘古之痛矢串”
<イツセノミコト ミテニ トミビコガイタ イタヤグシヲ オハシキ>
と書いております。「痛矢串<イタヤグシ>」の「痛」とは「厳しい・激しい」という意味です。飛んできた矢がその御手に突き刺さったのです。
なお、話が、又もや飛びますが、その時から約900年後、「我が町吉備津」に温羅退治のために大和から派遣された吉備津彦命の戦いにも弓矢が使われます。その遺跡と言い伝えられている
“矢置き石・楯筑遺跡・矢喰宮”
が、現在、「日本遺産」として登録されて、多くの観光客でにぎわっておりますが、鉄剣が発使われる五世紀の末までは、日本での戦の主流は弓矢であるということを証明しております。
その戦いで「那賀須泥毘古」が射た石の鏃が付いた矢が戦いに参加していた、多分、記録にはありませんが、その戦いの先頭に立って指揮していたのでしょう一行の連隊長だったとおもわれるジンムの兄「五瀬命」が負傷します。それを
“五瀬命於御手負登美毘古之痛矢串”
<イツセノミコト ミテニ トミビコガイタ イタヤグシヲ オハシキ>
と書いております。「痛矢串<イタヤグシ>」の「痛」とは「厳しい・激しい」という意味です。飛んできた矢がその御手に突き刺さったのです。