私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

神田作り

2016-11-25 10:37:29 | 日記

 神のお告げのあった西の国を討つ計画の吉兆を川の魚に占った神功皇后は、早速、実行に移すため、神祇を祀るための米を作るための神田を定め、那珂川からそこまでに通じる溝を掘られたのです。

   “時引儺河<ナカガワ>水、欲潤神田而掘溝” 

 その途中“迹驚岡<トドロキノオカ>”まで来た時、大磐(岩)が塞ぎ溝を通すことができませんでした。さて、どうなることでしょうか、現在なら、ダイナマイトを使って、簡単に、いかに大岩であろうと爆破することができるのですが、なにせ、卑弥呼の時代です。250年頃のお話です。そんな大岩等を壊すことは不可能です。でもそこが不思議なのですが不可能を可能にする力を持つ男が皇后の前にはいたのです。誰を隠そう「武内宿禰」だったのです。神が懸りの力を持っていたと伝えられておる男です。彼は、先ず、

        “捧劒鏡令禱祈神祗而求通溝”

 「剣と鏡を捧げ、神に溝を通せるように大岩を壊してほしいと祈ったのです」

 この「剣と鏡」ですが、あの木梨軽皇子と衣通媛とが最期の時に歌った歌にもあるように、古代の人々が神に祷る時には、大方は、真玉か鏡を斎杙<ミクイ>に懸けるのが普通のようでした。しかし、この時、武内宿禰が使ったのはどうしてかわ分からないのですが、「神剣」でした。それはこれから行われようとする戦いの戦勝祈願でもあると思われるので、敢て、「真玉」でなく、剣を斎杙に掛けたのではと想像できます。

 


神功皇后の奇跡

2016-11-23 08:51:14 | 日記

 筆敬さんのご指摘により「神功皇后の神懸り」について書いてみます。

 【その1】
 三韓征伐への出発は秋九月十日ですが、その年の春四月三日。皇后は肥前国「松浦縣」にいました、玉島里の小川のほとりで食事をされます。皇后は針を曲げて釣り針をつくり、飯粒を餌にして、裳の糸を取って釣り糸にして、それを垂れて神意を伺います。

    ”朕、西欲求財國。若有成事者、河魚飲鉤。”(私は西方の財の国を求めています。もし事が成功するなら、河の魚よ釣針を食え)

と。そして竿を挙げると、”乃獲細鱗魚”(細い鱗魚がかかっていた)。それを見て皇后は大変珍しい魚だ”梅豆邏志<メズラシ>と言われたのだそうです。それを聞いた人々がその辺りを「梅豆羅國<メズラノクニ>と言った。それが訛って、今の「松浦」になったのだと言うのです。 この結果を見て、事が成ると言う神のお告げをいただき、皇后は西の国を目指すのです。

 なお、この時代の釣り針と言えば「鉄製」のものではなく、大方は動物の角や骨で作られたものだったのではないかと思えるのですが、皇后は食事の時の針ですから、これは「針」ではなく「箸」だと考えられます。だから、当然、木製です。それを曲げて釣り針を作ったのだろうと想像がつきますが、どうでしょうかね????そう考えるとその針の大きさはと言うと、現在にあるような小さな釣り針ではなく、相当大きな釣り針です。それにもかかわらず、釣れた魚は“細鱗魚”です。ここら辺りにも神の行う行為だと言うことが分かります。
 これなどの記事を通して、当時は弥生時代ですが、魚釣りも盛んに行われていたということもわかります。  

 縄文時代の釣り針です。是は動物の骨製です

    


神功皇后とは???

2016-11-22 09:11:29 | 日記

 もうこれで、神功皇后の「三韓征伐」については終わりにしようと思ったのですが、また、例の何でも博士(筆敬さん)から、

 「おめえが けえとる 三韓征伐にゃあなあ、まだまだ そげえなこたあねえよなあと おもえるようなもんが いっぺえあるんじゃど。そりょを かかにゃあ おえりゃあ せめえが。」

 と、お叱りを被りました。「そげえなこたあねえようなもん」というのは何だろうかと、再度、書紀を開いてみました。すると、此の仲哀天皇・神功皇后の時代も、やはりまだ、その政<マツリゴト>の中心は天皇の「修祓」による神託(神のお告げ)による統治だったと言うことがよく分かります。(「鬼道をよくし、衆を惑わす」の卑弥呼の政治も)。そんな神功皇后の受けた神託の一部を紹介しろと、私の「何でも博士」は言われるのです。

  記紀によると、この神功皇后の「政」は、仲哀天皇の天罰による死後、まだ、新しい天皇は皇后の腹の中です。だから、日本の国の「政」は天皇に代わって「神功皇后」(摂政)が行ったのです。それ故、神功皇后を、「日本書紀」では「15代」の天皇にしています。しかし、どうしたことか、古事記では、神功皇后は国王(天皇)ではなく、「仲哀天皇」の次の天皇は「応神天皇」としてあります。

 この時、神功皇后の「政」を補佐したのが、例の「武内宿禰」です。女王が神託を受け、それを実行に移したのが女王を補助した男性。そんな人物の組み合わせ構造が「魏誌倭人伝」にある「卑弥呼とその弟君」とよく似ておりますので、箸墓の女王「ヤマトトモモソヒメ」ではなく、「神功皇后」が、即ち、「卑弥呼」であるという仮説を立てる学者もいるようです。まあ、時代も「神功皇后」は250年頃の人だと言われておりますので、魏誌倭人伝が書かれた時が239年ですから、時間的に言うとこの「神功皇后」が「卑弥呼」だと言う方が正しいのかも分かりません???????            

             少々長くなりましたので、神功皇后が受けた神託とはどのようなものだったかは、明日にでも。


書紀にも、また、次のように

2016-11-21 09:08:09 | 日記

 昨日、「日本書紀」には「古事記」よりは現実的なことが書かれていると書いたのですが、それは誤りでした。よく読んでみますと、このどちらにも架空の、到底、現実には起りもしそうにない記事で歴史が書かれております。その書紀には、

 神功皇后は、十二月三日、いよいよ九州の鰐浦から、西方にあるの豊かな国をめざして船出します。

 「風の神は風を起こし、波の神は波を上げて、海中の大魚はすべて浮かんで船を助け、風は順風に吹き、帆船は波に送られ舵や櫂を使わないで新羅に着いた。その時、船を載せた浪は国の中まで及んだ」

 と書かれております。全く古事記と同じです。

 「東に神の国があり日本と言う。聖王があり天皇という。きっとその国の神兵だろう。とても兵を挙げて戦うことはできない」

 と、恐れおののいて降参したと書かれております。しかし、古事記には書かれていない

 「毎年、朝貢して、また、馬の梳や鞭も、必ず、納めます。」

という文書が見られませう。

 これについて、少々の私見を。
 

 当時(250年ごろ??)、倭の国では、鉄と同様、馬も、日本には存在しない大変貴重な動物であったようです。それを象徴するのが、各地の古墳などから、沢山出土する青銅製や鉄製の馬具です。これらは、この時期を前後して、盛んに、朝鮮半島の新羅などの国を経由して入って来たものだと思われます。このような古墳の副葬品から見ても、日本書紀等にあるように,当時、倭の国(日本)が最新の技術を持っていた新羅の国などを、そのように簡単に攻め入ることはできるはずがありません。でも、この時期に、資源としての鉄や馬などの新しい文明が、盛んに、我が国に入ってきていたことは間違いありません。そのような最新の文物が沢山我が国に入ってきたということを誇張して、象徴的に、奈良朝時代の国策(より強固な中央集権国家の確立)として、さも、我が国が天皇中心の「神の国」であるかのように書くためのでっち上げた文章であったのではないでしょうか????。


書紀の神功皇后

2016-11-20 12:04:52 | 日記

 古事記では、誠に、ありもしないような摩訶不思議なと言いましょうか、神秘的な出来事が書き綴られておりますが、書紀では、それよりは少々現実味のある船出が描かれております。
 
 仲哀天皇が九州熊襲<クマソ>征伐に行かれた時ですが、橿日宮(香稚宮)で、ここでもやはり、琴も場所もありませんが、やはり、神が神功皇后に神託されたと書いてあります。

 「如何して、至って貧しい熊襲を討たねばならないのか??、海の向こうには金銀などいっぱいにある豊かな国がある。その国を天皇に服従させてはどうですか」

 と。しかし、天皇はそこから西の海を見られたのですが

 「そんな国など海の西には見えない」
 
 と、その神託を聞きませんでした。これが九月五日です。その翌年二月五日に、突然に、神託を聞かなかったため神の罰を受け、天皇が崩御されます。その時、皇后は子を孕っておられました。それを隠して武内宿爾と共に、九月十日に、神託にあった『西の国』、新羅征伐に出発します。これが名高い「三韓征伐」の始まりです。その臨月の皇后が
 「この戦が終わるまで腹の子が生まれないように」
 と石を腰にはさみお祈りして出発します。古事記にあるように海の魚の事は書いては有りませんが、それに変って、「和魂<ニキミタマ>と荒魂<アラミタマ>」が船を守るであろうと言う、これ又ご神託があり、船出します。それから、どうなりましょうか????また明日にでも。