私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

「なにゅう かんげえとんでえなー」

2016-11-19 09:43:54 | 日記

 沙庭で神のお告げを聞いた神功皇后は、その時、身ごもっていたのですが、神のお告げに従って新羅へと、軍隊を招集して、軍船を連ねて大海原を渡って行きます。その時の様子を古事記には

   “・・・海原之魚大小悉負御船而渡。爾順風大起御船従浪。・・・”

 と。その時、船団の周りには、その海にいた大小総ての魚が集まり、船を背負うように付いて行きます。その上、風も追い風で、すべて順調に航海することができ、難なく新羅に到着します。更に、新羅に到着すると、船を取り囲んでいた海水も、そのまま、陸にのし上がり(津波じゃあないのですが)、国の中程まで進み上がります。それを見た新羅の王様は

  「恐れ入りました。これから以後は天皇のお言葉に従って、必ずや毎年貢物をし、とこしなえにお仕えします。」

 と言った、と書いてあります。更に、それを聞いた百済の国王も、恐れ恐縮して、天皇に忠誠を誓ったと言うのです。これが古事記にある「三韓征伐」です。これが歴史的な事実ではない事は確かですが、韓国人がこれを聞けば、当然、「そんなことってうそだい」と思うのは当り前だと思います。

 この神功皇后の時代は西暦250年頃の事だと言われています。当時、日本は、まだ、弥生時代の末頃です、鉄は日本にはありません。だから、鉄製品もままならない時代です。それに対して、新羅では、既に、沢山の鉄が生産されていた時代です。そんなにたやすく新羅を攻め滅ぼすことができるはずがありません。その原料としての鉄を新羅から輸入することが、当時の、日本の大いなる願望であったため、どうにか入手することが出来た時の嬉しさを、このような物語に作り上げたのではないでしょうか?????。

 それにしても、今日の朝刊で、またもや、大変珍なる発言『天壌無窮』と、堂々と、国会議員の先生が言ったとか、なんとか報じられていますが、

          “もちょっとしっかりせいや!!!なにゅう がんげえとんでえ。へなちょこ議員さんよ。三韓征伐時代に生きているんじゃあねえど”

 と、言いたいですよね???????????????????????
 

 なお、この「天壌無窮」の字は、吉備津では、いつも目にする字です。どこにあるか捜して見てはいかがでしょうか??????????????????


“カムガカリシテ”とは

2016-11-18 11:46:45 | 日記

 ちょっと又横道に・・・・昨日、天皇が琴を弾いて、熊曾(襲)との戦いの勝敗の行方を神に祈り聞くのですが、その答えを、直接、神から聞くことはできません。誰かを介して聞くことができるのだそうです。その神からのお告げを受け取ることができる人は、大方は「女性」だと言われています。それを「神懸りする」と呼んだのです。例の「卑弥呼」は、常に、神のこのお告げを受け取ることができる特殊な霊感を持ち備えていた女性だと言われています。この「神懸りする」人がいる場所も何処にでもいては聞くことはできません。そんな場所はどのような所かも、古事記には記してあります。

 まず、初めは「神懸りする」です。
                    「帰神」、これを<カムガカリシテ>とあります。
 この言葉について本居宣長の説明では、これは<カミヨリタマヘリキ>と読み、この<ヨリ>は「託着<ヨリカカリ>」で、神様が神功皇后(大后)のお側にお座りになってお告げを授けるのです。これが古事記上段にある「為神懸而<カムカカリシテ>だ、と説明しています。

                     「沙庭」は、単に<ニワ>と読んでいます。
 これについては、神が降し請せ奉る所ですから、当然、神聖な細やかな美しい沙が撒かれた庭(宣長は「斎清めたる清場」)でなくてはなりません。この庭に「武内宿禰」と「神功皇后」が控えていたのでしょう。そして神がその心を伝えたのが女性である神功皇后だった、と書いております。

  この本居宣長と言う人も、又、「大学者」だと、幾度となくその文を読む度に感激させてくれます。全部を読んではないのですが・・・・

 


神功皇后は、何故??新羅を討伐しようと計画したのでしょうか

2016-11-17 11:20:38 | 日記

 神功皇后と言えば、先ず、「三韓征伐」ですが、此の歴史についてどうのあやふやな所があって、果たして、実際にこの戦いがあったのかどうか疑わしいと言う学者もおりますが、記紀等、我が国古来からの本に詳しく歴史が書書かれております。(まあ、とても真実とは思えないような数々の出来事がこの時に起きたとしております)。きょうは

 まず、古事記から

 神功皇后の夫「仲哀天皇」が熊(襲)曾の国を征伐するために筑紫の訶志比の宮にいる時です。その戦の戦果を占なうために琴を掻きならしたのだそうです。その時、お側にいた神功皇后に神が乗り移って(神懸り)、神からのお告げを天皇に伝えます。

    「西の方に一つ国がある。金や銀がいっぱいある国だ。その国を私が天皇に従うようにさせてあげます」

 と。すると、天皇は

    「高い所に登って西を見ても、ただ大海原の波のきらめくのしか見えまない」

   「嘘ばかり云う神様だ」と言って、再び、占いの琴を鳴らそうとはしませんでした。それを怒った神は

   「私が教えた国だけでなく、此の国からお前は出て行って、遠い国へ行け」

 その神からの言葉を聞いていた「武内宿禰」が、天皇に

  「そんな事を云わずに、どうぞもう一度琴を弾いてください」

 と天皇に頼みます。そこで、天皇はしぶしぶと、再び、琴の傍に行ったのですが、幾ら経っても琴の音がしません。どうしたかと、見ると天皇は、既に、死んでおったのだそうです。それから、天皇の死体を仮の殯宮に移したありして、一応のお祭を済ませて、再び、武内宿禰が庭で神懸りをします。すると、神は

    「此の国は、今後、今、神功皇后のお胎の中にいる子のものだ」

 と、言われたのだそうです。そして

    「私が教えた西国に行くがいい。その航海の安全を守ってあげるから」
 
 と、お告げがあったのです。そのお告げに従って神功皇后はお腹に子を入ることを隠して、神の教えてくれた西の国を目指します。


神功皇后について

2016-11-16 09:15:41 | 日記

 この「神功皇后」について初めにちょっと触れてみます。14代仲哀天皇の皇后です。この仲哀天皇は吉備の国と大変深い関係にあるのある天皇です。そこら辺りを先ず説明します。

 孝霊天皇の時です。吉備国の反乱(桃太郎伝説の元)を平定するために派遣されたのが、その皇子「大吉備津彦命」と、その弟「若日子建吉備津彦命」」です。この「若日子建吉備津彦命」はこの戦いの後、この地に敷衍して、吉備の国を治めます。この人の娘に「播磨稲目大郎媛<ハリマノイナメオオイラツメ>」がいます。この人が「景行天皇」の皇后になり、その皇子があの蝦夷征伐の「日本武尊」なのです。なお、その時の副官が「吉備武彦」です。この「吉備武彦」と言うのは

 話が、大変に複雑になってきて私も全部が覚えきらないのですが、一応、本を見ながら書いてみます。

 景行天皇の皇后となった「播磨稲目大郎媛」の弟に「御鋤友耳建日子命」がいますが、その人の子が「吉備武彦」です。そうすると、日本武尊とは従兄弟関係です。此の日本武尊の皇子が「仲哀天皇」なのです。それを図式化しますと次のようになります
  先ずは歴代の天皇名です
      {①神武天皇-・・・・・・-⑦孝霊天皇ー孝元天皇―開化天皇―⑩崇神天皇―垂仁天皇-⑫景行天皇―成務天皇ー⑭仲哀天皇ー⑮神功皇后ー・・}
                                                          
                                                          

                  孝霊天皇ー|大吉備津彦命      ・(景行天皇)      
                          |若日子建吉備津彦命ー「播磨稲目大郎媛―日本武尊
                                           |御鋤友耳建日子命ー吉備武彦


「任那<ミマナ>」って所は朝鮮に有ったんですか???

2016-11-15 20:14:24 | 日記

 「任那の日本府」ってあったのですか、と言う問い合わせがありました。ネットなどによりますと、現在、韓国の学校の教科書では、朝鮮の歴史上にはこのような名は存在しない、日本だけにしかない、帝国日本がでっち上げた架空の名前だとありますが、本当でしょうかね????

 私の持っているには、此の任那について詳しく書かれてありますのが、従来の日本では、この「任那」について語ろうとすれば、先ず、第一に上げられるのが「神功皇后」についてです。この人は仲哀天皇の皇后です。あまりこの人についても、現在の学校では、語られる機会がないのです。だから、この人についてご存じ無い方が多いように思われますので、先ずは、それから少しずつ説明します。

 又、又、吉備の美女から随分とかけ離れた変な方向に進みますが、お許し願えたらと思いながら書いております。