私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

再度、「吉備考」

2017-07-16 07:03:53 | 日記

 “夜久毛多都・・・」と云う歌は、「出雲」の“須賀”にスサノヲが宮殿を建てられ、その感激を歌にされた事に由来して「出雲」と云う国名になったのだとされております。では、「我が町吉備津」のある「吉備」の国名は一体何を元にして国名に付いたのでしょうか????。前に書いたのですが、オロチの里が吉備ではなかったと云う私の考えをご紹介しましたが、ここで改めて「吉備と云う国名」に付いて探ってみたいと思います。
 この「吉備」に付いは、神武天皇に由来されるとか色々な意見があるのですが(その一つに[魏志倭人伝」に出てくる「投馬国」ではないかと云う学者もいらっしゃいます)。まあ、それは兎も角として、私が住む吉備津は、古代高梁・足守川流域を中心として開けた三角州で、災害の少ない豊かな自然に恵まれた地方です。この地方はこの天然の恵みをいっぱいに受け縄文の時代から大変に栄え、特に、黍の生産が盛んに行われていたのです(縄文時代ですから稲はまだ作られてはいません)???)その事を証明するのが、

                         “書紀通證”

と云う本です。その中に、次のような記述が見られます

                        “以木国粟国例之当訓黍国”

  「黍」、即ち、「吉備」
 だと。
   これに付いて永山卯三郎氏も
            “吉備義未聞”
  と、、書いて、

 「吉備の名義、キビ(黍)にして、吉備国の土地、黍穀の耕種に好適しその産額頗る多く、古来黍酒、黍団子の料となりしこと・・・・」

 と。だから、「キビ」「吉備」は「黍」から生まれた確かな国名なのです。
 この吉備地方は、縄文時代の我が国の中心地の一つであったことは間違いありません。だから、秦や百済からの、現在のシリア難民のようにドッとこの地方に押し寄せて来ます。トランプではりません。高い壁を作る必要はありません。むしろ、それらの人々を世界第一級の文明人として厚く遇したのです。、今のようなヨーロッパと違い、この吉備地方には、それら難民を受け入れるだけの十分な経済的な余裕というか必要ががあったのです。むしろ、そのような人達を受け入れしなくては国の発展は出来なかったのです。難民の力を利用して国力を増強する経済的な地力が備わったていたのです。それほどこの地方は、大変豊かな国だったのです更に、それら難民を受け入れたことによって、あのような巨大な日本に例を見ないような強大な造山古墳も作ることができたのです。

 そのことは。「秦」「賀陽」「半田」「葉田」などの中国や朝鮮の地名と関係のある地名が付けられた土地が県内に沢山見受けられることからも理解できます。

 私が住んでいる土地も「向畑<ムカイバタ>」や隣の「辛川<カラカワ>」も「ハタ」や「カラ」の外来語が元となった地名だと言われております。


スサノヲの“我心清明”を宣言する歌があります

2017-07-15 06:29:17 | 日記

 <アガココロ アカキ>ことを誓う言葉として、スサノヲは歌を詠まれます。

           “夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁”

 ご存じ、<ヤクモタツ イヅモヤヘガキ ツマゴミニ ヤヘガキツクル ソノヤヘガキヲ>です。「出雲」と云う国名は、スサノヲがこの御歌を詠まれて事によって付けられたのです。初めからあったわけではありません。だから、この歌にある“伊豆毛”は「大空に雲がわき出でる」と言う意味で、地名の「出雲」を云っているのではありません。
 <ツマゴミニ>の「ツマ」は「妻」、即ち、「櫛名田日売」のことではなく、むしろ、「夫婦」と云う意味になります。これから一緒に暮らす宮殿を垣を廻らすように造ったぞと云うぐらいの意味になるのです。、なお、この「微<ミ>」ですが、書紀には、これが「味<メ>」とあります。「ミ」と「メ」の違いはどのように説明したらいいのでしょうかね????。夫婦で籠る家ですから、私は連用形の働きのある「ミ」の方がこの場合いいようにも思うのですがどうでしょうかね。その事に付いて宣長は

        “其は意いささか異なるべし”

 と書いているだけです。

 


「似而非」なるもの???なんなのこれって????????

2017-07-14 08:53:30 | 日記

 スサノヲは出雲の土地に宮を作る所を探します。その地が

                       “須賀地<スガノトコロ>”

 です。書紀には「清地<スガノトコロ>」と出ております。それはスサノヲがこの土地をご覧になり、直ぐに

                      “我心須賀須賀斯<アガ ミココロ スガスガシ>”

 と言われて、その場に宮を建てられたのです。
 この“須賀<スガ>”ですが、どうしてスサノヲが、急に、その地を「清々しく」思ったのでしょうか?????。
 この場で、あの恐ろしい「オロチ」を退治します。それは、丁度、昨日、行われたモスルでの「IS」から奪還のための戦い似ております。イラク軍は此の地の人々に、従来のような「安定と平和」をもたらしたのです。少なくともISからの恐怖心は取り除いてはくれました。
 このスサノヲのオロチとの戦いは、今のモスルに住む人々と同じ気分を、平和を讃える歓びを出雲の人々に与えたのです。その歓迎ぶりは、記紀には何も書かれてはいませんが、人々のスサノヲに対する期待の念は、相撲フアンの稀瀬里に対するように、最高潮に達していたのだろうと想像がつきます。そのものすごい歓迎を受けたのスサノヲは、神様です。あの安倍とか何とか云う何処かの人とは違います。人気をよい事に自分勝手な考えをふり廻して、人々を不安な気させるようなことはなかったのです。その時の出雲の人達の歓びを深く心に留めて、今までの多くの自らの犯した悪罪“其悪態不止<ソノアシキワザ ヤマズ>”を深く反省し、
           「よし、これからは、世の人のために、必ず、その「悪態を止めて、専らに人々の幸のために報いてやろう」
 と、云う強い心が雲のように湧きだしてきたのだろうと思われます。それが

                     “自其地雲立騰<ソコヨリ クモ タチノボリキ>”

だから、おのずと“我心清明<アガコロロ アカキ>となられたのです。それが

                       “須賀須賀斯”
 なのです。

 どうです。神様はやっぱり神様ですね。人のすることとはどこかに「似而非<ニテヒナル>ものなのですね。


もう少々「スサノヲ」を・・・・・・

2017-07-13 07:17:04 | 日記

 草那藝之大刀<クサナギノタチ>を「スサノヲ」は高天原の「アマテラス」に

                   “白上<モウシアゲタテマツル>”

 のです。「もの申す」です。この刀を得た経緯を語って「上、即ち、天界におられるアマテラス」に送ったのです。これに付いて宣長は

                  “此は自高天原に参上にてはあらず、人を使はして献たまうなり。”

 と、説明があります。なお、此の剣が、後に倭建ノ命が蝦夷征伐の時に持参していく剣です。この事については、また、後で・・・・・・

 さて、この後、スサノヲは妻とした櫛名田比ウ<クシナダヒメ>と一緒に住むために

                 ”宮可造作之地求出雲国<ミヤツクルベキトコロヲ イヅモクニニ マギ タマヒキ>”

 「宮殿」を何処に作ったらいいか、その土地を出雲に、探したのです。


草那藝之大刀

2017-07-12 07:33:42 | 日記

 <クサナギノタチ>です。古事記にはこれだけしか説明がなされてはいませんが、書紀には、この大刀の名を”草薙剣<クサナギノツルギ>と書いております。「大刀」と「剣」の差がありますが、どちらも同じです。敢て言うならば、これも私の思いですが、両刃と片刃の違いがあったのではないでしょうか。スサノヲが中尾がら取り出した大刀を見られて

                            “故取此大刀。思異物而<カレ コノタチヲ トラシテ アヤシキモノゾ ト オモホシテ>”

 と書かれています。なぜ、スサノヲが“異物<アヤシキモノ>”と思われたのかと云う事に付いては宣長は

                “白上<モウシアグ>は、此の大刀を得給ひつる事のあるかたちを白<マウ>して献りたまうなり”  

とあり。此の「かたち」とは、或は、従来にはない「片刃」の鉄で出来てい刀であったからではないでしょうか。私はそんな思いがしておりますが、どうでしょうか???

 また、これも古事記にはないのですが、書紀には、

             “一書にいう。もとの名は天の叢雲剣。大蛇のいるうえに常に雲があったので、かく名づけた”

 と、この大刀の別名も書かれtります