先週と今週、2週続けて原発の学習会に参加しました。どちらも主催者予測を上回る参加者で、慌てて席を増設するほどでした。また講師の話の後、質問の手が挙がるのが途切れず、時間が全く足りないという感じでした。おそらくこれから、日本の全国あちこちでこのような学習会が開かれていくんでしょうね。
正直、私も原発については知っていたつもりではあったのですが、こうして学習会に参加すると、なるほどに知らなかったことの多いことに驚いています。
そして思ったのですが、結局、今回のような重大事故になって初めて、我々の生活がいかに危険なものの上に成り立ってるのか、原発にこれほどまでにおんぶに抱っこ状態になってるのかということに気がつきました。
危険なものから目を逸らしながら、わかっているのにわからないふりをしながら、頭のどこかに常に不安を持ちながらその存在に蓋をしたまま、毎日の暮らしに明け暮れていた、そんな気がするのです。
そして人々の生命の安全のために常々から警告を発し続けてきた少数の科学者たちの声を無視し続けてきたそのツケがここにやって来た、そういう感じでしょうか。
ではこの責任を負うべきは誰なのか。東電、政府、原発に乗っかかり利益を得てきた企業やその周辺に群がる人々、そして私のような傍観者もその責任の一端に連なると思うのです。
これまでもそうですが、事故が報じられて初めてその存在に気がつくって、まるでこれは空気のような存在になっている。だからそのことについて何の疑問も持たなくなっていた。そういう社会に今の日本はなってるんですね。
事故の時は確かにマスコミも報道するし、「怖いな」といった声も上がりますが、でも、「安全、安全、安全、安全」キャンペーンが、電力会社はもちろん、政府公報も、マスコミも有名人やタレントを総動員して繰り広げられますから、まあ、そんなもんかと、私たちの気持ちも治まってきます。
そしてすべてのことが、原発電力会社と政府に任され、情報も何も国民の目からは一切隠されてしまい、やがて私たちは普段の平穏な「オール電化」生活に慣れ親しんでいきました。そして原発に対して声を上げるのは、原発建設予定地の人々、一部の政党・政治家、一部の科学者、反対運動をすすめる活動家…といった、マイノリティ的立場に限られてきたのです。
でも今回の福島原発事故は、そいうおかしな状態の問題点を一気に私たちに突きつけることになりました。さて、私たちはこれからどう考えていけばいいのでしょうか? 学習会講師の中川益夫さん(元京大原子炉実験所職員)が問いかけられました。「それこそ、みんなで考えないといけないオープンクェスチョンです」と。