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とびしま街道は、七つの橋、七つの島で出来ていますが、集落はというと
たくさん有ります。下蒲刈に三つ、上蒲刈に四つと続いているのですが
岡村までとなるとそれぞれの集落が微妙に、たしかにほんの微妙にという程度の
こともあるのですが、個性があります。
向の真ん中に通っている道路。ここはバスも通りますので離合も可能な道路です。
昔は、ここに川が流れていました。
全部が川ではなくて半分が道路、半分が川原です。
ということで両側に建っている建物は、間にいくつかの橋があって繋がっていたのです。
このあたりは、塀で囲まれた家が多いです。
それがこの集落の特徴ですね。
他の集落ではそのまま建物が並んでいることが多いし、石段というか低い石垣
というか、敷地の境になるような段があってその上に建物です。
それはこの集落ではあまり見かけません。
分かれ道にくると、うちの墓も見えます。
この別れ道にも川を越える橋がありました。
学校に向かうときに渡る橋なので、学校橋といっていたと思います。
歩いていると、子供の頃の記憶の町に比べ随分近代的になったと思います。
普通の人がみればかなりの田舎なのですが、車が走るなど考えにくい道路だったのです。
塀の中に白壁の家も何軒かありました。
住んでいるところなので意識はなかったのですが、とびしま街道として
繋がってから観察するとおもしろいものです。
ここは、今は農協です。前は、役場の跡です。
石碑は、分村して庁舎を建てた記念碑です。
終戦当時、下蒲刈村があり、その正面に位置する上蒲刈の向は、元は下蒲刈村でした。
上蒲刈の他のみっつの集落が上蒲刈村だったのです。
その向が、下蒲刈から独立します。
大崎下島も、立花、大浜は対岸の豊浜町と同じ町で、島の中で大長、御手洗、沖友
と別のまちでした。
上蒲刈の向とその他の集落は、そんないきさつでその後、よきライバルとして
成長していきました。
学校も向中学と蒲刈中学だったの恒例の駅伝大会などして競ったものです。
石碑の後ろ側に書いてありました。
子供の頃にこの石碑に座っていた記憶はあるのですが、
初めて何のことを書いてあるのか読んでみました。
これも、とびしま街道として繋がったことが縁です。
ここに住んでいる人に、農協の前の石碑何か知ってる?と聞いてすぐに答えられる人は
そう多くないような気がします。
少し歩くと、お寺の屋根が見えました。
奥の大きな屋根がお寺の屋根です。
島なのになんとなくゆったりした雰囲気があります。
こんな土塀の蔵も残っています。ここの土塀の横にざくろの木があります。
大浜に似たような土塀の蔵があるのですが、その横にもざくろの木があります。
この道では人とすれ違うことが多いです。
島の人は、知らない人とすれ違うときもお互いに挨拶します。
それは人間の普通の行為なのですが都会ではすれ違うたびに挨拶など
していられないですよね。
島の朝の散歩が心地いいのが写真でわかるでしょうか。
日差しが強くなってきても涼しい感じはまだあるのです。
さらに奥の方に行くと春日神社があります。
今回歩いたときに思ったのですが、道路が綺麗ですよ。
清掃車が走った後のようです。人がほうきで掃いたんでしょうけどね。
蝉の声、よく聞こえますが島ではうるさいと思いませんね。
のんびりしているせいでしょうか。
整体院 身体均整 木村 のHP →
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